青空。
晩年。
口癖のよう妻はお礼ばかりを言っていた。
「ありがとう」
「嬉しいわ」
「大好きよ」
「あなたと一緒になれて、私は幸せだったわ」
俺はそれに何も答えなかった。
ただ微笑み返して頭を撫でた。
今思えば、同意でも何でもいいから答えてやれば良かったと思う。
でも、安易に返すべき言葉じゃない気がしたのだ。
万感の思いすら感じてしまった。
生命の欠片を吐いて言葉にしていた、そんな気がしたのだ。だから俺は、受け止めることしか出来なかった。
齢八十九。立派な大往生だ。大病を患い、克服して、今まで付き添ってくれた。俺に出来ることは倒れないように横から支えるくらいで、治してやることも、楽にしてやることすら出来なかった。
綺麗な寝顔に優しく触れる。
深い眠りは今にも目覚めそうなくらい、綺麗な寝姿で。
血色はもとから薄い白い肌だったから、目を開けても俺は驚かないだろう。
愛おしい。
昔と変わらない、見慣れた表情。
多く刻まれてしまった皺は、きっと苦労の現れだろう。
無理をさせてしまった。
俺がいなければ、生き地獄を味わうことなんて、なかったはずだ。
生命を吐きながら苦しむ必要なんてなかったはずだ。
俺は動かなくなった左手を握りしめる。
握りしめる。
強く握りしめる。
真っ白くなってしまった手は、血の気を引くこともなければ、痛がることもしない。
俺はすっかり細くなってしまった薬指に、傷一つない新しい指輪を通してやる。
誕生日も結婚記念日も、迎えることは出来なかった。
妻が死んだ。
今は天高くそびえ立つ煙突の先から、真っ青に冴え渡る遥か彼方を目指し、ゆっくりとした歩みで歩いているのだろう。
もう、俺は頑張れない。
すっかりと日課になってしまった道のりを歩く。
柔らかな日差しは日に日に強さを増して、もうすぐ訪れるだろう、梅雨の気配を肌で感じる。
緩やかな坂は一足の重みを強く感じさせる。
錆びついた身体は、妻がいなくなってからどんどん消耗していく。
肘も膝も腰も肩も首も指先も、あっという間に疲弊して、満足に動かない。
油の一つでも差してやりたいところだ。
ギシギシと、一歩づつ踏み鳴らす。
背中にはうっすらと汗が浮かび、息は少し荒い。脈拍は高く鼓動して、体温が上昇する。
五十年前ならこんな坂、どうってことなかったさ。
あっという間に走り抜けただろうよ。
ちょっと休憩だ。
背筋を伸ばす。
ぼきりぼきりと凝り固まった筋肉が砕けていく。
一時間も無駄にしている。
こんなんじゃあ日が暮れちまう。
錆びた身体は、月日の流れを如実に表現してくれるから質が悪い。
遠くを目を凝らせば、もう病院は見えているというのに。
いや、目が悪いんだった。錆びつき始めているのは頭もか。
すぐそこなんだった。
徒歩十五分の距離。
心が折れてしまうな。
「やっとついたよ」
俺は隣に話しかける。
「今日も来たよ」
鞄から水筒を取り出す。
「君も飲むかい? コーヒーを淹れてきたんだ」
ああ、しまった。
「ミルクを忘れてしまったよ」
君はミルク入りじゃないと飲めないんだったね。
「この桜並木もすっかりと緑色に染まってしまったね」
病室から見える桜並木はすごく美しい。
「このベンチも過ごしやすいきせつになったね」
流れる風が気持ち良い。
「ああ、コーヒーが美味しいよ」
一人で飲むようになったのは、何年ぶりだろうか。
「ミルクを忘れなければ、君にも飲ませてあげられたんだがね」
君のために挽くようになったんだっけ。
木々が風でさざめく。
「桜が咲いていたら、桜吹雪が見れそうだね」
湯気が揺らめいて散る。
日差しが心地よい。
「すっかり疲れてしまった。少し眠いよ」
昼寝をするには最高の天気だ。
君もよく、病室に差し込む日差しを浴びながら、昼寝をしていたね。
「さて、そろそろ行くよ」
コーヒーを飲み干して、立ち上がる。
「また来るよ」
君は、手を振ってくれているだろうか。
吉村のおじいちゃん。また来ているね。
雨の日以外毎日だよ。
おばあちゃん、大好きだったものね。
でももう、何年も前でしょ。
え、おじいちゃん何歳なの。
確か十違いじゃなかったっけ。
凄い歳の差ね。
でもそれくらいなら認知入っててもおかしくないよね。
おばあちゃん亡くなったのわかっているのかな。
忘れてないといいけれど。
忘れていたら可哀想だものね。
でも、もしも忘れてしまっていても、それは不幸なのかな。
え?
だって忘れてしまっていたら、悲しい思いをしなくて済むじゃない。
もしもおばあちゃんが生きているって思っていれたら、幸せなんじゃないのかな。
毎日毎日、病院に行って。
雨の日には墓場に通う。
そんなことを繰り返しているからだろうか、ボケずには済んでいる。
誰に会うわけでもなく、誰と話すでもなく。
ただ毎日を繰り返す。
たまに息子たちが孫を連れて遊びに来るが、お互いに生活がある。だから一緒には暮らさない。
誘ってくれるのは嬉しいが、だったら老人ホームにでも入ったほうがまだマシだ。
迷惑なら散々かけた。
親としての誇りだってある。
失いたくはない。
今日も傘をさして外に出る。
今日ぐらいはバスを使う。
こんな下らないことで事故にでもあったら、妻に合わせる顔がない。
死ぬなら、君の墓の上で死にたい。
さめざめと雨が降っている。
雨音に飲まれた墓場は静やかだ。
街の喧騒は雨音飲まれて届かない。
俺は持ってきた雑巾で墓を磨き上げて、掃除をして、花を交換する。
いつも一人で来る。
息子達とは来ない。みっともないからだ。
「やあ。今日も来たよ。他にすることもないからね」
煙草に火をつける。
結局、禁煙はせずに終わるだろう。
「君がいないから、話す相手もいやしない」
ここに来ると弱音ばかりを吐いてしまう。
「君がいないから、張り合いがない」
息子達には見せられない。
「君がいないから、毎日がつまらないよ」
いつも泣いてしまう。
「約束したじゃないか。ずっと一緒だって」
君をこの腕の中で看取る事が出来たのは、この人生最大の誇りだと思っている。
それでも。
「とても寂しくて、辛いんだ」
悲しくはない。
それを感じるには、十分過ぎるほど幸せだった。
幸せな時間だった。
幸せだから、思い出せば楽しい記憶ばかりだ。
だけど。
「思い出せば、それを共有して、思い出話をして、笑い合える相手がいないんだ」
悲しいんじゃない。
寂しくて。
話しかける相手がいなくて。
それに気付いた時、堪らなく辛い。
「君にもう一度会いたい」
「君にもう一度話しかけたい」
「君ともう一度触れ合いたい」
「君ともう一度笑い合いたい」
「君ともう一度、ご飯を食べたて、コーヒーを飲んで、昼寝をしたい。目が覚めたら散歩に出て、手を繋いで歩くんだ。旅行にでも行きたいねって話をして、昔みたいに節約して年金使って温泉に行くんだ。それまでは近所の河原をのんびり歩いて、スーパーで買い物して、温泉の素と刺し身を買って旅館気分を味わうんだ。若い頃みたいにデートは出来なくても、年寄り気分を味わおうじゃないか」
でも、そんな相手は墓の下。
「どうして。どうして俺をおいて行ってしまったんだ」
そうは言っても墓の下。
「喧嘩一つ、出来ないじゃないか」
喧嘩は思えば、あまりしてこなかったな。
「喧嘩して、謝ることも出来ないじゃないか」
気が付けば、傘を落としてしまっていた。
それでも、寒さは感じない。
身体は熱く、胸は苦しい。
こんな焦がれ、もう何十年も感じていなかった。
思い出せば、辛いものだ。
白くなった髪が肌に纏わりついて、雫を顔に垂らす。涙は雨と混じって伝い落ちる。
嗚咽は雨音に紛れて聞こえないだろう。そもそも人もいやしない。
みんな、眠っている。
起きてほしい。
「俺はまだ、君のことが忘れられない」
「もう一度、応えてほしい」
いつの間にか叫んでいた。
「君のことがまだまだ好きなんだ。愛しているんだ」
それでも見上げた頭上は、灰色の雲に覆われていて、あの日のような透き通った青空と同じものとは思えない。
鈍重で分厚い雲を通り越して、この声は果たして届くだろうか。
届くだなんて、きっと無理だ。
このくたびれきった身体では、きっと向こう側に行ける気がしない。
顔に降り積もる雨水は涙を引き連れて流れ落ちる。
視界は水の中のように歪んで、もう何も見えない。
雨が上がるように見えない。
少しでいい。
あの日のような青空を一瞬でいい。
せめて一目見せてほしい。
妻に会うことは叶わなくとも、それぐらいはいいだろう。
いいじゃないか。
それぐらい、いいじゃないか。
青空。