practice(91)


九十一






 リノリウムの床には赤いスポーツカーがミニカーとして一台停まっていて,開かないドアにも気にかけずに買い替え時を未だ迎えてはいない革靴の外側を何より近くで眺めていた。あればドライブスルーを通って軽快に買い求めたオレンジジュースを冷たく手にして,堅く結んだ紐の細い垂れ方にでも関心をもってUターンでもしただろうか。裾から覗く,今朝から履いている靴下は紺で地味で目立たないであろう。いや,この真新しい白さの上では,あの車体の低さからでは余計に浮いているかもしれない。その同系色は全身にわたって広がっている。スリーピースまでしなかったのは長い理由を必要としない私事の都合だった。
「照明は,もう少し数を増やしますか?」
 見上げても足りない天井の底ともいうべきアーチをじっと眺めながら,声は届いているでしょう?と,信じ切っている。その白衣の男は少しずつ横に移動をしながら,こちらの背後に回るようにして返事を待っている。スニーカーは目立たない。
「光量に問題でも?」
 それが理由と思えたから聞いたことは,しかしそれ程当たらなかった。
「いえ,足りないという訳ではありません。ただ,強い光量をお望みなのかと思いまして。スペースもありますし,同じ大きさ以下のものならまだ何個か。どうですか?」
 どうですか?と,提案の形を取るそれはこちらの望みを照らして,影を遠くに追いやる。そうしない方がいいのですが,という本音は白衣の内側に隠れている。横歩きを続けて見えなくなろうとする男は立ち止まる度に,「ここがそう。」という設置可能な場所を敢えて示しているように思える。同じ大きさ,あるいはそれ以下。二箇所ある出入口が摘める程に広々とした空間の点々としたところで,数々の種類のミニカーは重複がないように気を付けられて配置されている。入室してから随分と時間は立っているが,ボールは大小様々なものを含めてそれぞれ一度しかその形を見かけていない。寝かし付けられた縫いぐるみは一種類しかいない。絵本は実は一冊しかない。一人ともう一人で運び込んでいた木箱の中には何も入っていなかったのだが,その時は不思議にならなかった。だから爪先で蹴飛ばしてしまったカラーボールか,確かそれに似たものはすぐに手に取ってから何も考えずにそこに置いた。白衣の男はそれを見ていたはずだった。スニーカーの向きと違って,男の言葉は常にストレートに投げかけられてきた。そのままでいいですよ,とは言わない二の句が跳ねていた。
「どうですか?」
 と,切り取られたのか強調されたのか,新たに「ここ」と示された場所に立って横へ一歩とずれていく。手を翳すことなく見た照明の明かりの固まりには残像が残って,目の前に持って来た左手の甲に重なった。隙間にかまけたアナログの腕時計は文字盤をぐっと顔に近づけて,頑ななベルトにしっかりと止められた。内側に影は存分に現れていた。 
「いや,付けるのは結構。このままで。」
「わかりました。では,このままで。」
 そう交わして,奥へと向かった。
 予定されていた案内はここから奥の基本的設備,パイプの流れ,電圧の違い及び適した変圧器とその購入方法の説明に始まり,一旦外に出てから各所に配置された空気口の在り処と定期的な詰まりの解消(枯れ草が吹き溜まることは少なくないと言う),掃除道具置き場まで見て回ってからだいぶ離れての天窓の位置と,ここで改めて外観を見直して,出て来たところとは違うもう一つの玄関に向かいながら,主要道路へ繋がる経路を徒歩のみの場合と自動車も利用した場合とで「おさらい」した。きちんとした駐車場はないから,斜面となっている空き地に任意で停めるしかないようだった。
 男は白衣から手を出し,仕方が無いのを仕草で表して教訓を語った。
「勿論,サイドブレーキの引き忘れにはご注意を。」
 特に返事はしなかった。
 緩やかに登ったこと以外に特に何もなく,対面する玄関を開けてから広く白い室内を見やり,柔らかい土を靴底から出来るだけ落とし,とても高いところの照明の光沢を床一面で踏みながら,横に歩かなくなった男との間には爬虫類のビニールモデルの一体が前足の片方を上げて止まっていた。
「よく出来ています。」
 白衣の裾を床に擦りながら,爬虫類の低さに目線を合わせて男は向こう側を検分する。途中にある色付きのピンポン玉が邪魔にならないように軽くこちらに動きそうな気がした。
「さっきのカラーボールの件,申し訳なかったです。」
 高さは違えども,視線は同じ方向であったから探るつもりでそう言った。膝立ちであった男は立ち上がり,特にどこを払う素振りも見せることなく手を白衣のポケットに入れ直した。関心は相変わらず爬虫類を中心としている。けれど忘れたことはないとばかりに,したかった質問に対する返事はすらすらと行われた。
「まあ意味は変わりますし,カラーボールを木箱に収めたのには驚きましたが。あれが出発点といえばそうなのかもしれません。空白にも意味があるのでしょうし,埋まった空白もまた同じでしょう。」
「取りあげることには?」
 というのはカラーボールを置いてからここまで考えていた,シンプルな方法のように思っていた。
「そうなると意図的,ともするとここの住人です。やってみなければ分からないことではあるのでしょうが。作為の行き先は分かりません。曲がり角に気に入られた迷子だってあっても可笑しくはないでしょう。花屋で花を買うのとは少し訳が違うのでしょうから。硬貨はここで関係がありません。花束の持ち方だったら関係はあるでしょうけれど。それでも宜しければどうぞ。私は特に止められないので。」
 お試し下さいとは言わなかった,そうして男はまた待った。とても高い天井の明るさにさらされることに変わりはないから,爬虫類をはじめとして室内の様子はよく見えている。案内を受けた奥の設備はこの際そのまま置いておく必要があるように思えた。ちょうど反対側で閉じた玄関を眺めながら,その前にある木箱とカラーボールはそのままにある。腕時計をしていない側のスーツのポケットには食べ終えたガムの銀紙が放置されている。男のように手を突っ込めば,指先にはその角が当たる。血が出ない鋭さはいつも正しい。
「そういえば,ここにはごみ箱が見当たらない。」
「ああ,そうでした。そうでした。」
 この言葉を聞いて再び動き始めた男は,さっさと待つのを止めてその辺りをぐるぐると回り始めた。指先を立たせているのもやはり一つのジェスチャーなのだろう。段取りから思い出そうとしているのか,忘れていたことを確かめているのか。見れば室内は横にも縦にも広いのだから,どちらにしたって時間が掛かるのは目に見えていた。
「良かったら今度お持ちしましょう。まだあと数回はここに来なければいけないのだし。」
「ああ,それは助かります。そしてお詫びもしましょう。これはこちらの落ち度だ。」
 男はそう言って立ち止まり,白衣を翻してから臙脂色のシャツに包む胸に手を当てて,恭しく顔を伏せた。そうしてすぐに顔を上げてから,「では次回にでも。」と付け加えて立てていた指を叩くように動かして,刻んでいるのだった。
「時計もないのですね。腕時計も,あなたは身につけていない。」
「ああ,それは意図的です。」
 刻みを続けたまま,男はこともなげに言い切った。
「時間は外から運んでくればいいので。例えば,それは今日のあなただ。随分と重そうなものをぶら下げていらっしゃる。」
 言われて左腕を動かすと,その腕時計は手の甲に見事にぶつかった。
「ベルトがあっていないもので。直しにいこうとは思っているのですが。」
「しかし未だにそれはなされていない。結構,そのままで気に入ったりしているのではないですか?」
「そんなことはない,とは言い切れないですね。確かに。重みがあると安心する。」
 と男は指を横に振った。
「安心する,というよりは落ち着いている,といった方がいいでしょうね。トータルで考えるとその腕時計を加えて,あなたの重さは適当だ。」
 重さが適当,と言い直して,左腕には時間がかちっと短針から長針にかけて大袈裟に進んだ。特に「0」が多く並ぶ。そんな時間に並んだ。
「さあ,行きましょうか?」
 は,「さあ,どうしましょうか?」と問われた顔をしたものだった。
 全長の幅と高さを数字で聞き,リノリウムの白い床の上で停車中のスポーツカーを尻目に木箱には近付く。素の手触りを分け合うように板の一枚ずつに線が入っては打ちつけられて留まっている。カラーボールはそこからでは見えない。そしてそのまま横を過ぎる。だからカラーボールは結局見えない。
「そこから先があるのですね。」
「ええ,勿論。あちらの玄関先のように。」
 変わるのですね,とは誰も聞かなかった。
 リノリウムの床が白く踏まれる。とても高いところから降り注ぐ照明の数々が落ちて輝く。出ながらその日最後にした話が吸い込まれて,無駄もなく閉じ込められた。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-05

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