相談屋

相談屋

新造 一

 麹町にある出版社に小説の原稿を届けた後、私は電車に乗り込んだ。
 締め切りぎりぎりで書き上げる悪い癖がついていることは自覚している。反省するのはいつものことだが、直る気配はまったくない。直接編集部へ原稿を届けるという手間をかけていることに腹を立てている自分がいる。
途中、二回ほど乗り換えて西武線に乗った。最寄駅である野方の駅で降りて南の方へ向かって進んでいくと住宅街がある。クネクネと狭く細い路地が不規則に絡み合っている道路を、私は夕闇に追い立てられるように歩いていた。
 吐く息は白くなかったが、まだ今年の寒さに慣れていない体は頼りなく縮こまっていた。
一戸建てが密集して立ち並び、道の両側を埋め尽くしている住宅街の中は閑散としていて猫一匹飛び出してくることもない。
 丁字路の角を右に曲がり、自宅近くの裏路地に入った時、向こうからゆっくりと、動いているかどうか怪しいぐらいのろのろと進んでくる人影に私は気づいた。
 薄闇の中、目を凝らすとその人影は老婆であった。素足に茶色いサンダル、それと汚れた短いワンピースを着ていて、白髪の混じった髪は乾いて波うってボサボサとしていた。浅黒い肌とどこか南米を彷彿とさせるような顔立ちが目立つ。
 なぜか老婆は天井部分に幌のついたピンク色の古ぼけた乳母車を押していて、車輪が錆びているせいかキーキーと高い音を発していた。
 車が入ることのできないぐらい細い路地であるうえ、住宅が密集して建っているせいで、
老婆のほうへ近づくにつれ、私はまわりの建物に上から押しつぶされるような感覚をおぼえた。
 人がすれ違うことがやっとの道幅しかない。
仕方なく私は体を道に沿って並んでいる年代物の黒ずんだ板塀を背にして硬直し、老婆が横を通り過ぎるのを待つことになった。
 乳母車の上の部分は平らでその上には申し訳程度であるが、透明なビニールの覗き窓がつけられている。そこから中の様子が見えるはずであったが汚れていて中の様子はぼんやりとしている。小窓の中に視線を向けた時、目のようなものがパチりと瞬いたような気がして、怯んだ私は少し仰け反った。
 のろのろと進んでいた老婆は板塀に張り付いている私の横でピタリと乳母車を止め、顔を下から覗き込む形で凝視すると低い声で、
 「お前は誰だ」
と、問うてきた。私はこういう状況にあったら誰もがそうするように、黙っていた。正直なところでは、早く老婆がこの場から去ってくれるよう心の中で祈っていたのだが、期待も虚しくただ冷たい空気が体のまわりにまとわりついてくるだけで、老婆も私も硬直したままであった。
 手探りの中、残されていた言葉を吐き出すことで事態の進展を願いつつ、「佐々倉新造です」と私は答えた。
 老婆は先程までの堅い雰囲気をほぐすかのように顔に軽く笑みを浮かべるとこう問い直してきた。
 「その佐々倉新造であるところの人間は誰であるかと問うておる」
 この時、私の心中を表現するなら「無」であるとしか言いようが無い。
 座禅などしたことはないのだが、おそらく無我の境地というのはまさにこの時の状態なのではないだろうか。
 「意味がよくわかっておられないようじゃな」
 そう言うと老婆は乳母車の後部についている隙間に手を差し入れると何か取り出した。手鏡であった。おもちゃなのだろうか、縁がピンク色で安っぽい感じがする。
それを下から私の顔に向けて掲げると老婆は呪文でも唱えるように連呼し始めた。
 「お前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だ・・・・・」
 私は鏡に映る妙にこわばった自分の顔を見下ろした。老婆はしばらく手鏡を掲げていたが、突然、勢いよく手を下ろすと今度は白い本のようなものを私の鼻先へ差し出してきた。背表紙に文字が入らないぐらい薄い小冊子のようなもので、表紙も真っ白で何も書かれていなかった。
私がそれを受け取ると老婆は甲高い耳障りな音を響かせながら乳母車を押してまた歩き始めた。
 細い路地をただ遠ざかる老婆の背中をしばし見送った後、私は自宅のほうに向けて白い本を手にしたまま歩きだした。
 もう空はだいぶ暗くなって、太陽も見えない。西の方、遠い空に光がわずかに残っているだけだった。
 途中、左手の道の脇に竹が密集して生い茂っている放置された空き地がある。私は先ほど老婆から受け取った白い本を竹が生い茂る暗闇に向かって投げ入れると、ガサっという音を残して本は見えなくなった。
 私は逃げるようにその場を立ち去ると、自宅玄関の引き戸をガラっと開けて、ピシャっと閉める。
 「おかえりなさい」
 妻の声がして、右手の台所から顔が覗くのが見えた。
 勢いよく閉めた音でびっくりさせたかもしれないと思いつつも、冷静を装って「うん」とだけ言って、私はそそくさと奥にある和室に入った。
 背広やシャツを脱いでいると、庭に面した障子の側に見慣れないものが置いてあった。鏡が籐製の枠で囲まれていて四本足で立っている。いわゆる姿見だ。朝、家を出るときにはなかったはず、と思いながら近寄って自分の顔を見ているとふいに鏡の中の自分が笑った。はっとして手を自分の口元に持っていき、どかしてみると何事もなかったような真顔に戻っていた。
 「夕飯食べますか」
 いつの間にか、妻は和室の入り口にいて、こちらを窺っていた。
 テーブルにはすでに二人分の食事が用意されていて、私はいつものように妻の横顔を右に見る形で椅子に座った。
 妻も私もあまりしゃべる方ではない。だが、そのゆるやかな関係はお互い望んだもので心地よかった。
 妻は若くそして美しい。単なる自惚れにすぎないかもしれないが、たいした存在でもない自分のようなものと一緒になるのが申し訳ないぐらいだった。
 ふいに妻がにこやかに言った。
 「今日、産婦人科に行ってきたの」
 単純な私は家からそれほど離れていない田宮産婦人科医院のことを思い浮かべていた。歩いて十分程の住宅街の中ひっそりと佇むその医院はあまり人気がない印象があった。内科も兼ねているようだったが、私は一度もお世話になったことはない。
 「妊娠してるって」
 妻からの短い言葉だったが、私の鈍感な心にも響く言葉だった。
 「ありがとう」
 表現力に乏しい私は一切合財を全部まとめてそう言うのが精一杯であった。
 あまり淡白すぎるのどうかと思い直し、私は続けた。
 「そいうえばあの姿見はどうしたの」
「ごめんなさい、急に置いちゃって・・・実家から持ってきたの。捨てようとしてたから、うちに姿見は無いって言ったら、あげるって」
 「いや。気にしなくていいんだよ。全身を見られる鏡があったほうが便利だから」
 私は妻の横顔をちらりと窺った。
 額から頭の後ろにむかって流れる髪。その髪の後ろに隠れている傷跡に気づいたのはごく最近のことで、それから何日も経っていない。よく見ないとわからないぐらい目立たない傷だった。おそらくかなり昔についたものだろう。あまり聞く気にはならなかった。本人からすすんで話してないということは隠しておきたいに違いない。それに髪に隠れているのだから何の問題にもならないし、傷ひとつぐらいで妻の美貌は損なわれるようなものでもなかった。
 私はさりげなく話を戻した。
 「あそこのお医者さんってどんな人なの?行ったことないんだけど・・・」
 「思ったより若いお医者さんだったわ。父親が始めた診療所で息子さんが後を継いだんですって」
 「へえ、じゃあけっこう長いこと続いてるんだろうなあ」
 私はその医院が細い路地の先に佇む様を思い出していた。
 灰色のブロック塀の奥にあるその建物はのっぺりとした飾り気のない見た目をしていて、敷地内にある大きな楡の木が枝葉を伸ばしているせいで表から見ると半分ぐらい隠れている。
 隣家との境界はどうなっているのか葉に遮られて曖昧だ。ブロック塀にもたれかかるように佇む電柱。その傍らに見捨てられたように置かれている乳母車。
おかしい。なぜか記憶の中にそれはあった。いったい、いつ記憶の中に差し込まれたのだろう、家からそれほど離れていないから前を通り過ぎたときに見たりしたのだろうか。
 一瞬、今日会った老婆のことを妻に話しかけようとしてやめた。あまり気持ちのいい話ではない。
 「ごちそうさま」
 私は食器を片付けて奥の和室へさがった。
文机に向かって原稿の続きを書き始める。目の前の縁側の向こうに申し訳程度にある庭は隣家との狭い隙間にあるせいで日当たりが悪く、常に湿度が高い。私は苔むして湿ったにおいを漂わせているその庭が好きだった。その沈降して地面近くに堆積していくような香りを嗅いでいると執筆作業が捗るのだ。
 数時間は経過しただろうか、原稿を書くことに漸く飽き始めた私が体をひねると右手には昨日までそこには無かった姿見があって、胡坐をかいて座る自分の体が映し出されていた。
 普段、私は鏡をあまり見るほうではない。たいしたこともない容姿を見る必要性がないからだ。そのせいか鏡に映る自分の姿を見る時に必ず違和感がある。自分はこんな顔をしていたのかとか、身長のわりには足が短いだとか頭の中のイメージと乖離していることに気づかされるのだ。それが嫌でますます鏡と距離を置きたくなっていく。
 それ以降原稿の進捗状況は悪化していった。 部屋の中にいるもうひとりの視線を感じる。その視線は自分のものであるはずなのに。
 いつの間にか夜は白んでいた。

田宮 一

田宮医師は机に向かっていた。
 格子状の窓から差し込む光がカルテの上に規則的な模様を映し出している。
 父の仕事を継いで二十年が経過しようとしている。その間の医師としての生活は何事も無く過ぎていった。
 何か大きな問題を抱えることは望むところではなかったが、足りないものがあることも事実だった。平坦な道に感じる不安は延々と果てがないようで静かに迫ってくる。辿り着く先も見通せない。
 診察室の扉をノックされる音がすると薄いガラスがビリビリと波打ち、部屋の空気が振動した。
 「どうぞ」と田宮医師が答えると黒い塊のような巨体が診察室へ入ってきた。
 脳神経外科の世界で活躍し、隠居生活に入っても多々良博士は精力的にみえた。
 田宮のような普段から抑揚のない、波風を立てない性格の人間からすると博士のギラギラとした野心や活力はまぶしく感じる。
 田宮の横に置かれた患者用の回転椅子に身をうずめると多々良博士は、腕を組みながら「実は手術検体が見つかってね」と短く言った。
 気持ちは決まっているといわんばかりの沈黙が二人の間に流れた後、田宮は答えた。
 「私はあなたのことを尊敬していますし、この診療所を建てるときに世話になったことも存じております。ただ、この手術の意義について聞いておきたいのです」
 「意義か・・・」
 多々良博士は田宮の頭の上にある空間を見つめながら話し始めた。
 「私は自分のことを医者とは思っていないし、ましてや科学者であるとも思わない。もちろん、世間的には医者として通っているがね。純粋な探究心が私を突き動かしている。それが人間の本質であり、その本能があるから人類は発展していくことができるのだと思っている。『シュレティンガーの猫』という思考実験を知っているだろう。猫の生死は観測するまで不確定であり、観測する以前は生と死が重ね合わさっている。今回の手術も同じだ。私は結果を気にしてはいない。結果以前が重要であり、全てであると思う。私は脳外科手術は勿論それ以外の手術も経験してきている。死体を解剖して体の隅々まで調べたこともある。しかし、どれだけ細かく調べてみてもどこにもこころというものを発見できないのだ。毛細血管の先からニューロンの先端まで調べてもだめだ。顕微鏡を覗いてミクロのレベルまで見てもまったくみつからない。この課題に挑まずに死んでいくのは忍びない。私はすべてが知りたいのだ。すべてを知り尽くして何の疑問も持たずに死んでいきたい。」
 博士らしい答えだと田宮は思ったが、胸の中にはまだドロドロとした懸念が渦巻いて仕方が無かった。
 「私は自分のことを医者だと思っています。正直言って有能でもないし、野心に満ち溢れているわけでもありません」
 博士は少しだけ表情を崩した。
「わかっているよ。君は有能な普通の人間だ。怪物じゃない」
 博士は内ポケットから手帳とペンを取り出すと何か書き始めた。ページを破り取り、田宮に手渡す。
 「ここに行ってみるといい。すべては主の御手の中にだよ」
 そう言いながら博士は力を込めて立ち上がると巨体に似合わない颯爽とした動きで診察室を後にした。
田宮は手帳に書かれた文字を見ながら、博士が神に祈る様を想像しようとしたが適わなかった。
やはりわからせるしかない。前進するしか手はないのだ。
 田宮はカルテをファイルに挟み戸棚にしまうと白衣を脱いでイスの背もたれにかけた。
 イスに座りなおしメモに書かれた電話番号をダイヤルすると呼び出し音がしばらく続く。ようやく電話口に出たのは男の声だった。
 「もしもし。今からなんですが大丈夫ですか?・・・わかりました。これから行きますので、はい」
受話器を置いて紙に書かれた住所を確認すると同じ中野区内だった。歩きでもそれほど時間はかからないだろう。
診療所の玄関を出て鍵を閉めると、ひとかたまりになった風が楡の木にぶつかって枝をざわめかせた。湿った雲が流れる空を背にして田宮は中野駅の方に向かって歩き始める。
この辺りは都内でも特に人口密度が高い。戦後、東京へ流入する人々が増加し、『木賃』と呼ばれる民間家主が経営する賃貸共同住宅に住むようになった。宅地所有者は老後を見据えた生活設計として、盛んにアパート経営を営み、増加する人口を吸収していく。そうして狭い土地に人と建物が密集する区域が出来上がった。限られた広さしかない以上、東京という場所はますます密度が濃くなっていくのだろう。
田宮が幼い頃から歩きなれた道を歩んでいると意識は遠いところに運ばれ曖昧なものになっていく。そんな時、田宮の脳裏に必ず浮かび上がるのは、父から生前聞かされた話だった。
多々良博士がまだ現役だった頃、父はその助手を務めており、博士の手術を間近に見ることで学んだり、経験を積んでいったそうだ。
ある日、産後直後に放置されたと思われる赤子が発見者によって運び込まれた。頭部を損傷しており、早急に手術が必要な状態だったらしい。
緊急に行われた手術にもかかわらず博士の執刀は見事なものだったと父は語った。片脳を失ったが赤子は一命を取り留め無事だったらしい。
まだ幼かった田宮は病院特有の無機質な環境の中で育つとともにそういった人命に直結するような生々しい話を聞かされてきた。両極端な環境は田宮の世界観や人生観に少なからず影響を与えてきたし、それは病院内にいる他の人間にとっても同じだろうと田宮は想像していた。
あてのない思考を繰り返すうちに目指す住所が近づいてきた。田宮は商店街の途中にある雑居ビルの端にくっついている階段を登り、相談屋と書かれたドアの前で立ち止まると一呼吸置いた。
目指す住所には雑居ビルが建っていた。建物の端にくっついている階段を登り、相談屋と書かれたドアの前で田宮は立ち止まり、一呼吸置いた。
 ドアをノックすると「どうぞ」という声がしたので中へ入る。主はイスに座って新聞を読んでいる最中だった。
 「先ほど電話した田宮です」 
 「そこのイスにすわってください」
 田宮が机の前に置かれたイスに座るとようやく相談屋は新聞を降ろした。
 照明がついていないので薄暗い。窓から差し込む光だけが頼りだった。 
 「相談内容をどうぞ」
 相談屋は肘掛に両手を置いて、背もたれに体重をかけた。
 「何から話し始めればよいのか・・・」
 「どこからでも結構ですよ」
 「こういうところに来るのは初めてなので、聞いておいたほうがいいと思うのですが・・・料金みたいなものはいくらぐらいなんでしょうか?」
 相談屋はにこやかに答えた。
 「料金は聞いてから決めます。正直言って具体的な基準というものはないので。でも、びっくりするような金を取るようなことはありませんから心配ありません。あくまで常識的な範囲です。もし話の内容が面白かったらタダになるということも有り得ます」
 「そうですか。では・・・私は中野で産婦人科を経営しております。すでに亡くなっている父から継いだものです。そしてもう引退されているんですが、隣には多々良博士という方が住んでいます。脳神経の権威といってもいいぐらいその分野で活躍された人で、引退したあとも精力的に研究を続けていて、この方からある手術の助手をやるように依頼されまして・・・その手術というのは人間の脳の右半球を切除して別の人間の右半球と交換するというものなんです」
 ここで田宮はいったん話を止めてこの突拍子もない話に対する相談屋の反応を窺った。
 相談屋は話を聞いているというよりは、まるで田宮をじっくり観察しているかのように身じろぎもしなかった。
 田宮が先を話さないのでようやく相談屋は肘をついて口に手をやると「続けてください」と言った。
 「多々良博士は私の大学時代の恩師でもあり、世話になった方ですから力になってあげたいとは思うのです。この手術を手伝っていいものなのでしょうか?」
 相談屋は少し間を置いて言った。
 「なるほど。その多々良博士というのは面白い人ですね。しかし、どうなんでしょうね・・・田宮さんはその手術の結果はどうなると思いますか?」
 「かなり専門的な話になってしまいますが・・・」
 「ああ、大丈夫です。私は話を聞くことにかけてはプロですから。一般的な知識はすべて頭の中に入っています。もちろんどこどこの婆さんが昨日何を食ったとか、その婆さんの息子が十年前何をしていたのかなんてことはわかりません。あくまで世間一般に流出している情報や知識に限っていえばすべて知っています。もし、わからないことがあれば手を上げて聞きますので」
 「・・・想像するに、おそらく何も起こらないと思います。人間の脳は、脳梁を切断した患者に対する実験でわかっているように右半球と左半球は独立して機能しているわけですから、片脳を失っても生きていられると思います。しかし、本来の脳ではない方、つまり移植される方の脳はどうなるかわかりません。多々良教授ほどの腕を持つ人が執刀するとはいえ、移植した脳を別の人間の神経系と繋げて再構築するわけですから、脳の機能が復活するとは思えません」
 相談屋は手を上げた。
 「つまり、田宮さんの見解は手術しても何も面白いことはないといったところですかね。しかし、おかしいですね・・・何も起こらないというのなら手術を手伝ってあげたらいいんじゃないですか?」
 「それはまあそうなんですが・・・何も起こらないというのは私の単なる推測なので」
 相談屋は腕を組んでしばらく考えてから口を開いた。
 「仮に手術を受ける二人の人をA、Bとします。私が予想するに、手術の結果、元の脳しか機能しないと思います。脳の右半球を移植するわけですから、Aの人の左半球、Bの人の左半球だけが生き残ることになるわけです。もし、右半球の機能を復活させることができても脳梁がつながっていなければ左右の脳の意識が統合できなくて困るということもないでしょう。左右の脳は別の人格のものですからね。ただ、体の左右の動きの統制がとれないのでバラバラに動いてしまうという問題がありますが。まさか、脳梁までつなげて復活させるなんてことはないですよね?」
 「そこまでは聞いていません。が、脳梁の復活は無理だと思います」
 「田宮さん。あなたは聡明な人だ」
 田宮は唐突に投げかけられた言葉に面食らった。
 「脳に関してそこまで理解しているということは、もう、手術することを決めているんでしょう。しかし、それでもここへ来たということは、あなたは本当は止めてほしいんじゃないですか?」
 相談屋は値踏みするかのように田宮の顔を覗き込んだ。
 熱い。部屋の気温は夏の炎天下とは真逆のはずなのに、田宮は体温が急激に上昇していくのを感じていた。
 田宮が言葉を失っているのを見て、相談屋は続けた。 
 「・・・相談屋なんてやってるとね、いろんな人がくるんですよ。若い人もいるし、年寄りもいる。相談内容も様々です。それを受けて私は色々アドバイスしたりするんですが、残念ながら相談屋は決めることはしないのです。わかりますよ・・・あなたが不安に思っていること、懸念していること。しかし、それでも決定するのはあなたです。私は止めるようなことはしません」
 田宮は興奮を抑えて、顔を硬直させながら返した。
 「あなたはひどい人だ。傍観するだけで済ませるつもりなんですから」
 「すいません、相談屋としては介入したくないのです」
 相談屋は優しく微笑んで言った。 
 「お代は結構です。面白い話も聞けましたし」
 相談屋は立ち上がり自らドアを開けて田宮を送り出した。
 雨音がはっきりと響く廊下に出た田宮の背後でゆっくりとドアが閉まった。

新造 二

 診察に行く妻を見送った後、私は玄関にしばらく立ったままでいた。
 磨りガラスの扉をすり抜けてきた太陽の光はもやもやとしていて、控え目に玄関に流れ込んでいる。それまで徹夜で原稿を書いていたせいか意識は朦朧としていた。
右手の壁に楕円形の鏡がかかっている。そういえば、また実家から新しい鏡を持ってきたのだと妻が言っていた。
 閃いたときにはすでに私は玄関の引き戸をガラっと開けて外に飛び出していた。
 路地を駅の方へ向かって歩くと右手に竹やぶが見えてくる。
 けっこうな密度で竹が生い茂っているので、頭から突っ込むようにして私は中のほうへと足を踏み入れていった。
 枯葉が積もった地面にくっきりと浮かび上がるようにそれは落ちていた。先日、投げ入れてから雨が降った日はない。
 私はそれを拾いあげ、埃を手で払ってそそくさとまた来た道をひきかえした。
 畳の間にもどって襖を閉め、ちゃぶ台に肘をついて本を開く。
 「お前は誰だ」
 最初の頁はその言葉ですべて埋まっていた。
次の頁へ進んでも延々と繰り返しで同じ言葉が続いている。
 先へ読み進めていったが、句読点もはさまず最後まで同じ内容であった。
 私は読み終えて一息つくと、本を閉じた。
姿見の前に立って、自分を眺めてみる。
 鏡の中には、何のことはない普段通りの自分が映っている。髪がだいぶ伸びてきたなと思いつつ頭に手を持っていったところで突然、鏡の中の私がニヤリと笑った。
 私は誰なのであろう?名前を知っていたところでそれが答えにはならない。
 社会的な地位や仕事だろうか。それとも自分の夢や目標が自分というものを表現するのに何か役にたっているのだろうか。
 堂々巡りすぎて危険だ。私は急用を思いついたように飛び上がり玄関に向かった。サンダルをつっかけ引き戸をバタバタと開けると歩き出した。
 考えてみれば、鏡の中の世界を自分のいる世界と同じように扱いすぎではないだろうか?
実体は無いし、左右も逆だ。鏡の中はもっと変わっていていい。それが自然なはずだ。
 思考を撒き散らしながら当ても無く歩いていると喧騒が聞こえてきた。いつの間にか駅の近くにある商店街まで来ていたらしい。子供たちの喚声や主婦の話し声に吸い寄せられるように私は商店街の中へ入っていった。
ふらふらと歩いていると、種々雑多な建物が混じって立っている一画が目に入る。雑居ビル、トタン屋根の家なのか倉庫なのかはっきりしないもの、普通の一軒家など。飾り気のない雑居ビルの隅に薄暗く幅の狭い登り階段がついていて、木製の看板が掲げられている。看板の輪郭は真四角ではなく、所々に木の自然な切り口が残っていた。近づいてよく見ると『相談屋』と書いてある。あまり特徴の感じられない、平凡な字面ではあったが、墨を使って太い筆で書いてあるようだ。
 私はコンクリート製の急な階段を登って二階へと上がった。
 建物の反対側に向かって薄暗い廊下が伸びている。どうもこじんまりとした事務所のようなものが並んでいるようだった。廊下の中ほどにある扉に相談屋と書いてあるのが見える。
 脆そうな磨りガラスの部分を避けて、扉の枠を二度ノックした。返事はなく、中で人の
動く気配もない。磨りガラス越しに中を見ているとはいえ、室内は暗すぎた。誰も居ないのかもしれない。試しにノブをひねって押してみる。少しドアと床が引っかかる感触があったが、扉は奥に押し開けられた。
 正面に重厚感のある大振りの机があり、その前には相談をしにきた者が座るのであろう肘掛けの付いた椅子があった。相談屋という商売、そのままの図式を目の当たりして、自分はしばらくの間、立ちつくしていた。
 我に返り、部屋の中に入ると、右に開いたドアで視線が遮られていた所に、黒いソファが置かれていて、その上に男が、仰向けに寝ていた。
 歳は自分と同じぐらいで、三十代半ばぐらいだろうか。横になっているせいか、判然としない。口を少し開けて、完全に熟睡中といった感じだ。
 まったく起きる様子がないので、部屋をゆっくり見て廻った。
 取調室に入った経験はなかったが、鉄格子のない取調室といった感じの部屋だった。ドアを入って、右手に奥行きのある、長方形の部屋だ。左の壁に背の高い本棚がある。ドアの反対側の壁に、大きな両開きのガラス窓がついていて、灰色の空が見えた。装飾品が無く、生活感を感じさせる物がない。相談屋に余計な物は必要ないということなのだろうか。
 本棚の前に立ち、タイトルをざっと眺めていった。棚が七段に分かれていたが、目の高さにある二段目と三段目にしか、本が置かれていなかった。『新英和和英辞典』、『錠前の開け方』、『埼玉県の民話』、『いいのがれ』、『小六国語』、『万能字典』、などが目に付いた。タイトルや装幀を見る限りでは、小説らしき本が大部分を占めているようだ。
 『錠前の開け方』という本も気になったが、それ以上に『小六国語』が気になった。手にとって中を見たかったが、無断で部屋に入った上に、本を盗み見るのも気が引ける。
 ソファのこすれる音に気付き振り返ると、男が顔をさすりながら体を起こしているところであった。男と目があったが驚く様子は無い。自分も驚きはしなかった。
 「こんにちは・・・依頼人の方ですか?」
 その男の最初の声を聞いた時、違和感を覚えた。「相談屋」という一癖ありそうな商売からは想像できない程、顔も声も服装も普通だった。意外な対応に一瞬戸惑ったのを隠しつつ私は答えた。
 「いえ・・・『相談屋』という職業を見てみたくなったので、来てしまいました」
 ソファに座っていた男は手を頭の後ろで組んで足を投げ出し、寝ていた時の体勢に戻ってしまった。そして、客用の椅子を指差し、座るように勧めてきた。どこにでも居るような人間ではないことが分かって、なぜかほっとしつつ私は椅子に座った。
 男は天井を見つめてじっとしていた。その間、自分は男の服装に目がいっていた。男は白いカッターシャツを着て、カーキ色のスラックスを履いて、茶色の革靴がソファの側に置かれていた。休日を迎えてくつろぐ助教授といった感じだ。一見若そうに見える。しかし、皮膚の艶を注意して見ると、それ程若くはないようであった。
 「何か聞きたい事はありますか?」
 相談屋は唐突に聞いてきた。
 「相談屋っていうのは何をする商売なんですか?」
 「その名の通り、相談を聞いて助言するのが商売の内容だよ。最近の相談内容は退屈そのものでね。自分で考えた方が早いと思えるような相談ばかりだよ。それでも相談に来る人が多いのは、面白い話ではあるね」
 「どんな相談でも受けるんですか?」
 「受けるよ。自分でもどう助言すれば良いのかわからない場合もあるけど、でも話を聞いてあげるだけでも役には立つだろう。ところで君は哲学についてどう考えてる?」
 相談屋が急に威嚇するようにこちらに顔を向けてきた。
 「哲学?・・・」
 なにか相談屋に関係がある質問だろうか。
 「・・・学問のひとつだね」
 「なるほど・・・」
 そう言うと彼は天井を見たまま何も言わなくなってしまった。自分の頭の中には何人か哲学者の名前が浮かんで来たので素直にそのイメージを言葉にしてみたのだった。
 なぜ彼がそんなことを聞いてきたのか、わからなかった。
 言葉を失っていると、残念そうに相談屋は言った。
 「知らないというのは全然悪いことじゃない・・・でも、もうちょっとましな答えを期待したんだけどね」
 自分では、少なくとも人並み以上には知識があると自負していた。しかし、自分に限らず哲学に触れる機会は、そう滅多にあるものではないように思えて、苦々しい気持ちになって言った。
 「普段、哲学とは無縁の生活をしてるもんでね」
 「そんなことはないよ。哲学は簡単だよ。『人生とは何か?』を考えるだけなんだから。およそ誰でも哲学をやっているようなもんだよ。哲学的なことを考えてるんだという意識は無いだろうけどね」
 頭が拒否反応を起こしそうだったが、努めて冷静に答えることにした。
 「それは、ちょっと省略しすぎじゃないのか」
 「単純に哲学する事と、学問における哲学は分けて考えた方がいい。学問としての哲学は『人生とは何か?』という問いから派生していったもので体系的にまとめられ、知っている方が哲学をするうえで参考にはなるだろう。しかし、知らなくても哲学はできる」
 誰もが哲学をしているというのは理解できた。人は悩みを抱え、考え込んだ時には、哲学的な問いを自然としてしまうものだ。しかし、「人生とは何か?」を考える事が哲学なのだろうか。哲学者達の過去の功績(といっても具体的には知らないが)はどうなるのだ。 「でも、哲学には色々な理論があるんじゃないか」
 「過去の哲学や他人の哲学は大して役には立たないよ。まったく役に立たないと言うと語弊があるけど、まあ哲学は自分で創るのが一番だね。『哲学』という言葉は古代ギリシアでは学問一般を指す言葉として使われていたんだが、その後学問が多様化するなかで、哲学は独立した一つの学問として捉えられるようになっていったわけだ。宇宙には何があるのか?なぜ円周率は果てしないのか?なぜ人の心理は定まらないのか?なぜ言語は多様なのか?・・・学問は問うことと答えることで成り立っているからね、正にそれは哲学的フィールドなんだよ。哲学を自分で創り上げることは、考える力を養うことにつながるから、君もやってみるといい。と、言っても既
にやってるだろうから、もう少し掘り下げて考えればいいだけのことだ」
 過去の哲学がバッサリ切り捨てられて唖然としたが、確かに一般の人間が、カントやニーチェの哲学を知っていても、教養にはなるだろうが実用的ではない気はする。哲学には学問的哲学と一般的哲学があるということか。しかし、自分で創った方がよい哲学ができるものなのだろうかと思った。
 考えている間にも、相談屋は喋り続けていた。
 「まあとにかく哲学者ってゆうのは、悪く言えばひねって考えすぎなんだよ。自分の思考を学問的に説明づけようとして深みにはまるパターンが多くてね。そもそも人間の思考は、矛盾を抱えながら生きているのが普通なんだよ。左と右の脳に別の人格が存在しているようにね。説明しようとすると、矛盾があることに気付いて自己嫌悪になるのがオチだ。それでも哲学者は真面目だから、考え続けてしまうんだろうけどね」
 「君は哲学が嫌いなのか?」
 「好きだよ。今から考えれば、過去の哲学は役に立たないと思ってしまうけど、その当時に生きていたら、哲学者の言う言葉に真剣に耳を傾けて、感心していたかもしれない。今に比べて昔の方が、哲学者の地位は高かっただろう、それが、時代が進むにつれて人々は科学の持つ重要性に気付き、それに伴い哲学者のもつ権威は、徐々に落ちていったわけだ。今は哲学が盛んな時代ではないが、決して哲学をおろそかにすべきでは無いと思うね。哲学はすべての学問の基礎になっていると思うんだよ。物が少ないと自然と考える時間が増えていく、思考が外のものに向かうことが少なくなる。今は物が溢れて豊かだろう、それだけ思考が外に向かうことが多くなってるんだよ。でも、哲学は物が多かろうと少なかろうと人間にはつきものだ。哲学は別名、思考学とも言う。思考が無くなったら人間じゃないね。人型のロボットみたいなもんだ」
 自分が必死に言葉を探すより早く、相談屋は講義を再開した。
 「例えば極端にいうと、人間が完璧な科学を手に入れたとしよう。SFで『人間に脳と指一本しかなくなった時』と表現される、科学の終焉を迎えた時、おそらく学問は必要なくなるだろう。が、一つ生き残る学問がある。それは哲学だ。『わたしは全てを知っている。しかし、知らないことがある。全ての外側に、何が有るのか?ということだ』。今の時代に生きていたって、全てを知るのは簡単なことだ。要は垣根を作ってしまえばいい。『自分が知っていることが全てだ』と思い込んでしまえば、それで全てだろう。実際、自分は何でも知っていると思っている人はいる。しかし、それでも『全て』の外側が依然として有ることになる。その時、人間は自分より上位にある存在を感じる。いわゆる『神』というやつだ。哲学と宗教は近い関係にあるといえる。思考がある以上哲学は亡くならない。哲学は人間の『性』みたいなもんだね。哲学があるから人間なのさ」
 話を聞いているうちになんとなく納得していったが、自分は哲学の授業を受けにきたわけではない。哲学など関係ない。
 相談屋に何か怪しい雰囲気を感じた。こうやって話の主導権を握り、そして・・・どうするんだろう。目的があるのだろうと思ったが、何が目的かはわからない。ひょっとすると宗教的な勧誘かもしれない。
 とにかく変な男だと思った。見た目通りの、常識的な話し方をする割には、辛辣なことを言ったり、あまりに断定的な発言をしたりする。それらの言葉が、彼の非常に独創的な考え方や発想によってなされているのであろうことは、よく分かった。本人にとっては、当たり前のことを、言っているつもりなのかもしれない。
 なぜ、哲学の話になったんだ。
 ひょっとして今の話は、相談屋と哲学は重要な関係があることを、暗に示したかったんだろうか。これから、その説明が彼の方からあるのかと思って身構えたが、男は寝転がったままで、それ以上喋る様子はなかった。
 駄目だ。どうもこの男は、まだ何か隠していることがあるような感じがするし、いんちき臭い印象が拭えない。
 相談屋は突然飛び起きると机の引き出しから二十センチ四方ぐらいの鏡を取り出した。それを机の上に立てて、鏡面をこちらに向けると私の顔が映る。
 「ひとつ哲学的な問題をだしてあげよう。さて、鏡の中のあなたと鏡の中にいないあなた。どちらが本当のあなたでしょうか?」
 「もちろん鏡の中にいないほうだ」
 「残念。正解はどちらもあなたではない。鏡の中にいるのは虚像だからあなたではない。実体はそこにいるあなただが、あなたは自分の存在があることを鏡を見たからといって確信できない。デカルトは『我思う故に我あり』といったがそれは自分の存在を証明しているにすぎない。実体が存在していることを証明できないのだ」
 詭弁だ。この男は何が言いたいんだ。
 「私の実体はちゃんと鏡の中に映っているじゃないか。それで十分だろう」
 「なぜあなたは鏡に映っているものを信用できるんですか?単なる光の反射じゃないですか」
 「しかし、あなただって私の実体がここにあるからこうして会話できるのじゃないですか?」
 「もちろんよく見えていますよ。しかし、私の眼から見えるだけであって、あなたには見えていない」
 埒があかない。科学的な証明と同じで前提を否定されてしまってはどんなものも不安定にならざるをえないのだ。何とか相談屋の天狗になった鼻をへし折りたい。
「君の考える絶対的な哲学とは何だい?」
 「『何かを得たときには何かを失っている』ということさ」

 耳は音を聞いているはずなのに意識の中に入ってこない。皮膚感覚もない。視覚だけが妙に強調されているようだ。平衡感覚も残っているようだが、現実感がない。歩いて前に進むと後ろに自分の大半が乖離して残っていて、それを置いてけぼりにするまいと引き摺っている。どうやら自分はこの世界で不安定な存在になってしまったようだ。
赤、白、青で彩られた円柱がぐるぐると回っているのが目にとまる。永遠に続く螺旋階段を三つの色達が駆け上がっていくようだ。しばらく眺めてから、私は扉を開けて理容店の中へ足を踏み入れた。
 店主が先客の髪をパチパチと鋏で切りながら、にこやかに「いらっしゃい」と声をかけてきた。
 私が散髪用のイスにどっかと座ると店主が前掛けを広げながら聞いてきた。
 「今日はどういたしましょう」
 どうやらここは自分の馴染みの店だったようだ。「いつもどおりにしてくれ」とだけ答えて私は目を閉じた。
 前掛けが顔の前を撫でていきながらも私の思索は間断することなく続いていく。
 散髪が終わり、店主が髭剃りの準備に入った気配を感じ、私は目を開いた。
 鏡の中の私はてるてる坊主が首を吊っているような格好で首を九十度右へ曲げた状態で存在していた。
 しかし、これはおかしい。幻覚としか思えない。
 もし自分が首を曲げているのなら鏡の中の私を見たときには顔が正面に同じ角度で見えているはずである。
 突然、体が仰け反る形で後ろに倒れた。どうやら店主がペダルを踏んでイスを倒したらしい。
 鏡の様に磨かれた剃刀が私の鼻先を左右に飛び交う。そこに映る自分の顔を目で追いながら私の意識は心の奥の方へ沈降していくようだった。

 後ろから理髪店の店主が何かわめきながら追いかけてきていたが、私は構わず商店街の人ごみの中へ入っていった。早足で歩いていると風景がぐらぐらと揺れながら加速していく。頭の中まで揺らぎが伝わってきて、思わず傍らにあった電柱に手をついて立ち止まった。そばにある魚屋の軒先では私が立っていて、買い物カゴを手に提げた私と何やら立ち話をしている。その店先では私が路面に這いつくばるようにしながら蝋石で手足のバランスの悪い動物らしきものを描いていた。
タクシーが前から近づいてくる。運転席には私が当たり前のような顔をして座り、後ろの席では私が新聞を広げて読んでいる。タクシーが自分の横を通り過ぎる時に後部座席の私と目が合った。

頼子 一


流し台のステンレスには一心不乱になって真剣な表情をした頼子の顔が映っていた。白い液体状の研磨剤とスポンジを使って表面を磨いていく。
定期的に何度も磨いているので鏡のようになったステンレスには台所の風景が鮮明に映し出されていた。
虚像の中に自分はいない。実像を見ようとしても顔だけ見えない。頼子は飽きるまで流しの金属部分を磨き続けた。
日差しがゆっくり減少し落日を告げると、頼子はようやくスポンジを手から引き剥がして流しの脇に置いた。
明かりを自然光に頼っている平屋建て木造住宅は陰影の深さを増していく。わずかな物音は柱の一本一本に吸い込まれ、静謐で厳かな空気を醸し出していた。
頼子が奥の和室を覗くと新造が机にむかって書き物をしているのが見える。
 そのまま近づいてみたが、新造はひたすらペンを動かしているばかりで何の反応も見せなかった。
畳の上に、書きあげたものだろうか、堆く原稿用紙の束が積まれている。頼子はそれを拾い上げ読み始めた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※

和風な墓場には似つかわしくない洋館が建っていたりします。他にも南国でもないのに椰子の木が植えられていたり。
 格好の遊び場でした。ユラユラと、煙がのぼっていくみたいに、立っている卒塔婆。重厚なわりには、存在感の薄い墓石の間を縫って走っていくのです。しばらく駆けていると、ようやく、追いかけてきます。
 車が。まわりの仲間をバタバタと倒していき、わたしだけになります。わたしは洋館の中に逃げ込みました。
 背もたれのついた木製のイスとテーブルが鈍い光沢とともに存在し、天井には鈴蘭の形をした照明器具がたくさん並んでいます。それを見ながら進み、まんとるぴいすの上に。上半身が見えたのでわたしは助けを呼びました。
 「たすけてください!追われているのです!」
 何の反応も示しませんでした。わたしは上半身を床に投げ捨て奥のほうへ逃げました。そこには棺桶が設置されていました。不思議なことにその棺桶は人の形をしているのです。まるで殺人現場で描かれる白線のようでした。
 告白すると、わたしは棺桶の中に、はいるのが好きだったのでございます。ヒンヤリとして、静かで、桧の香りが心地よく鼻孔をくすぐり、たいへん落ち着くことができるのです。小窓もついていますから暗いこともありません。
 わたしは、その中で寝入ってしまいました。気がつくと、どこかから読経が聞こえます。どうやら、わたしが棺桶の中で寝入っている間に葬式が進行しているようなのです。わたしは、はてなとおもいました。わたしのまわりを暗闇がおおって、一条の光も差し込まない、クロで埋め尽くされています。式が進行している間は小窓はあけはなしにするのが通例なのです。それなのに小窓は開いていません。ということは、式が行われていないのか、あるいは、今日に限って、これから小窓をひらく機会があるのか。わたしは自分が死んでいることを悟りました。
 やがて、読経がやむと、わずかな振動とともにシンとして、わたしは再び心地よい気を取り戻します。しかし、わたしは死んでいなかったのです。棺桶を内側から滅多矢鱈、手足で叩くのです。ようやく、木の板が消え去ると、今度は、体の下にある、格子状に組まれた、金属製の枠を叩きます。乗っている人を振り落とそうと、上下に激しく体を揺さぶる馬のようでした。
 わたしは棺桶に入るのをやめました。そうしたくてもできなかったのです。毎日、天井を見て暮らしました。
 たびたび黒いものがわたしの体に近寄ってきます。それは人というには大きすぎるようでした。昼夜構わず、部屋に誰かほかの人がいようとも、近寄ってきては何をするでもなく消えるのです。
 こんどは、白いものが近寄ってきました。そのものは、私の体を軽々とアメンボが水面を滑るように運ぶと、頭を執拗にまさぐりはじめます。くすぐられるようで笑いをこらえきれません。そうしてわたしがこらえているあいだも、唱えるように囁きかけてきます。感情のこもっていない切れ切れとした言葉をポツポツと。
 「アメス・・・ピ・・・アセンメ・・・ガッネドトレー・・・アンカセンシメセ・・・ンガ・・・トウネコヘル・・・ピンセカト」
  ようやく部屋に帰ると、黒いものも白いものも近寄ってくることはありませんでした。しかし、まだ問題は次々とやってくるのです。左手が勝手に動いて、執拗に鉛筆やボールペンを取ろうとするのです。そのたびに、右手でおさえなければなりませんでした。書く物を取るのが無理だとわかると、今度は腕を振り回し始め、ものすごい力で右手を叩き潰そうとしてくる。あるときなどは、果物のそばにあった、小ぶりのナイフをとって攻撃してきました。
 ある朝起きると、左手がペンを握り締めています。白かったはずの壁が、書きなぐられた線で埋め尽くされ、汚くなっていました。まるで形をなしていない線をよく見てみると、拙いながらもいくつかの文字らしきものがなんとか判別できます。わたしは字をひとつひとつ拾いあげ、「え」、「お」、「は」、「だ」、「ま」、「れ」の文字を発見しました。重複して書かれている文字もあります。「だまれ」というくみあわせが妥当なのでしょうか?はたまた、「はまだ」という人か、「おれは」という並びなのか・・・あるいはただ字を書いただけで特に意味はないのか。
 わたしはだんだん寝るのが怖くなってきました。寝ている間に何が起きているのかわからない。なにものかがわたしの体に入り込み動かしているのかもしれない。そんなことを思いながらベッドの上で眠りに落ちないよう満月を眺めていました。満月は明るさを増し夜空の中で存在感を際立たせていきます。じっと見つめていると満月はじりじりと近づき、月の表面が鮮明に見えはじめました。月の地表は生物のように蠢き脈打ち目を開き血を流し舌を出し囁き誘い。空が青さを取り戻すまで。
 やっと、眠ってしまったわたしは体を内側に丸めました。ようやく安息を得、静かな寝息をたてているうちにわたしはどこかはるかとおくへはこばれていくようでした。
 覚醒した瞬間に見たのは鏡にうつる誰かの顔でした。二枚の鏡の境目が顔の真ん中を貫いているので左右のバランスがおかしくなっています。耳は離れ、口は左右に開き、左右の眼の間が大きくあいているのです。その同居人は自分勝手な人でした。わたしのいうことは黙殺され、いっさい耳を傾けてくれません。わたしは折り合いをつけながら日々を過ごすことになりました。
 そうして何年も経つうちに耐え切れなくなったわたしは同居人と意志の疎通を試みることになったのです。しかし、書く物を持つことさへ許してくれませんでしたから、しかたなく暴力に訴えたりたりもしました。ある時、眠っている隙をついてわたしはペンをにぎることに成功しました。震える手で文字を書いてやりました。
 わたしはからだの左側に誰か入っているのを感じます。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※

完全に陽が落ちた室内はすっかり暗くなり、原稿を捲る頼子の細い手も、黒い文字の列といっしょに闇に溶けていった。
 

新造 三

 集中してペンを走らせていると、寝食を忘れがちになって体重が減少していく。創造された世界に浸っていると現実を忘れ、妄想の中で生活せざるをえない。精神的にたいへんな疲労をもたらし、現実の自我から乖離していく。そうやって創作活動というものは体を削り取り、傷つけていく。
 だが、それは仕方のないことなのだ。そうでもしないと空想の中で定着できない。交換条件みたいなものなのだろう。
 幻覚を見て、離婚して、シュールになって、耳を削ぎ落として、自殺して、生き返って。そうして芸術は昇華していくことができるのだ。
 わたしは手を休めることなく書き続けていたので、目の前には原稿用紙が積み重なり、庭も、畳も、床の間も、障子も、紙の束の影に隠れていった。そうやって周囲の光景が消えて創作の世界に没頭した私は、時に冗談を交え、動物に喋らせて、登場人物に恋愛させて物語を展開させていった。
 「あなた、今日は田宮医院へ行く日だったでしょう」
 妻が和室の上がりぶちのところに立って聞いてきた。膨れた腹が目立つ。眼窩が落ち窪み眼球まで膨らんでいるかのように突出していた。
 膨れた腹が目立っているものの、瞳の奥から覗く眼光が鋭さを増しているせいか、逆に細くなっていくような印象を受けた。妻に付き添っていくのも悪くない。私はのろのろと立ち上がり、玄関に向かった。
 外に出ると、靄が立ち込めているせいか視界が悪かった。朝靄かもしれない。どこからか鳥の鳴く声がする。通りなれたはずの道がいつも以上に歩きづらい、歩く先が見えないし足がもつれる。それでも私は妻の手を引いて童話のように優しく先導していった。
 兄と妹は森を彷徨いお菓子の家にたどり着く。主である魔女に捕らえられた兄は地下に閉じ込められる。妹は兄のために食事を運んでいたが、それは兄を太らせるための策略であった。魔女は太った兄を食べてしまい、残された妹はいいました。「おばあさん、私を生かしておいたほうが使えるわよ・・・子供たちをわたしがこの家に誘い込んであげる」。うろ覚えだが、そんな話であっただろうか。
 田宮医院が見えてきた。扉を開けて中に入ると右手に小さい窓がついた受付口と診察室の扉が見える。廊下が正面にまっすぐのびていてその奥の暗がりには人影があった。
 老婆がにこやかな表情とともに出迎えてくれた。老婆の後ろには手術衣を着た大柄な男が控えている。懐かしい感じがするが、以前妻に聞いた田宮医師の特徴からはかけ離れていた。
 「今日はよろしくお願いします」
 私が挨拶すると、大柄な老人は「こちらへどうぞ」といった感じで機嫌よく手を広げて迎えてくれた。診察室とは反対側の、廊下の左手にある壁は鏡で埋め尽くされていて、いくつもの大小、色とりどりに縁取られた鏡が天井までびっしりと並べられている。簡素なデザインのもの、豪勢な飾りのついたもの。丸いのもあれば四角いものもある。鏡の中で体が分裂した人達の手に導かれ、廊下の一番奥にある重そうな鉄製の横開きのドアの内部へ入ると、また手術衣を着た男が待っていた。男は怯えている・・・いや当惑しているのか。明らかに尋常でない表情を作っていた。
 医療用機械と無機質で渇いた薬品の匂いが充満する部屋の中央には分娩台が据え置かれていて、その右に診療用のベッドがあるが、さらにその上には赤ん坊がピッタリと納まるぐらいの小ぶりなベッドが置かれていた。左にはなぜか手術台が置かれている。
 背後から覆いかぶさってきた影に押され、私は左にあるベッドに誘われた。体を横たえると太い管のついた吸入器が鼻と口を塞ぐようにかぶせられ、感覚は低下し、視界は薄れていく。
 まぶしいぐらいに明るさを増していく私のまわりでは、ざわざわバタバタとあわただしい雰囲気が渦巻きはじめたが、わたしの心中は薄まっているせいか穏やかなものだった。左のほうも騒がしくなってきているようだが、杳として状況を曖昧なものとしてしか把握できない。
 体からぬけていく。感覚は重力に逆らうこともなくドロドロと流れ出していき、床の上でとぐろを巻いて淀みを作って停滞していた。空になったあとは皮膚までダラりとさがり、弛緩した筋肉が下がっていく。真顔を保つのが難しい。笑い顔のままで硬直するしかない・・・。
 時間的感覚をなくした私の耳の奥へとどいてきたのは獣の叫び声にも似た、低く抑えた遠吠えのようなものだった。
 それが止むと、カラスの群れが鳴いているような金切り声が間断なく続いてわたしの心は落ち着きなくぶるぶると静かに振動した。
 カラスの声は徐々に遠ざかり、意味不明な単語が並び立てられていく。冷たく放たれる単語の数々は祈りのような響きを残して頭の中心まで到達すると、ようやくシンとした闇の中へ消化されていった。アガペ・・・。
 体のあちこちをまさぐられる感覚をしばらく味わったあと、切れ切れになった映像が次から次へと再生されていった。自分が知覚した経験なのか、それとも想像によって作られたものなのか、わからない。不規則に連なっていく映像に気持ち悪くなって声にならない声を出そうとすると、軽い振動を伴ってブツリとブラウン管のテレビの電源が切れるようにわたしの意識は消灯した。

 ※※※※※※※※※※※※※※※※

 暖かな陽射しが降り注いでいるようだ。
 薄汚れたビニール越しに見える外の景色はノロノロと後ろに向かって流れていく。
 きっと外には青い空と新緑の木々が鮮やかなコントラストを描いているに違いない。
目に差し込む光線の眩しさから逃れようと私は無意識のうちに少し顔を横にそむけていた。
ひどく眠い。一眠りしてから考えよう・・・。
 ふいに太陽の光が遮られ、暗くなった。目を開けるとビニールの窓の外から私が私の顔を覗いて微笑んでいた。

相談屋

相談屋

私(佐々倉新造)は帰宅途中、乳母車を押して歩いている老婆に出会う。老婆は鏡をこちらに向けてかざすと「お前は誰だ」と問うてきた。それ以来、私の生活は変容していく。

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-05-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 新造 一
  2. 田宮 一
  3. 新造 二
  4. 頼子 一
  5. 新造 三