逃走
プロローグ:日常からの逃走
幾度となく続く変わらない毎日。明確な目標もなく、毎日をただ息をしながら生きていく日々。
「逃げたい」
一番後ろの席に座っている高校三年生の少年──桐渕 翔吾は机に突っ伏しながら呟く。その声を聞き、その前の席に座っている桐渕 翔吾の親友とも呼べる存在──本倉 優真は後ろを振り返る。
「受験が辛いのはわかるけど、ほら、元気出せって。お前、藤原さんと志望校同じなんだからさ」
「藤原さんは関係ないだろ」
言いつつ、二人より前の席に座っている少女──藤原 彩音の姿を窺う。
黒髪のショートでポニーテールの髪は一本一本が潤いに満ちてあり、少しだけ日に焼けた健康的な肌にも傷や瘍の類は見当たらない。「ごめん! 来週、京都から従姉妹が来て、子供の面倒を見なきゃいけないから遊べそうにないんだ」という主張が控えめな声を聞いただけでも蜜柑のような柑橘系の甘くて爽やかな香りを桐渕は感じている。
「おーい。また『僕は今、幸せです!』みたいな顔になってるよ。気色悪い。変なこと想像してるの、このままずっと藤原さんにバレないように頑張りなよ」
「想像してない」「嘘だね」
桐渕と本倉は幼馴染で、付き合いが長すぎて、本倉に至っては桐渕が嘘をつく時の仕草を発見し、一方的に嘘が通じない状態になっている。
休み時間が終わるチャイムが鳴り、立ち話をしていたクラスメイト達は教室内を走って自らの席へ着く。桐渕は授業の用意を机の上に広げ、辺りを見回す。
「あ。宿題忘れた」
「よりによって鬼の鬼瓦先生の宿題忘れたら駄目でしょ。放課後説教だったら先帰っとくね」本倉は振り返らず言う。
桐渕は一人で帰路を歩く。いつも一緒に帰っている本倉にも置いていかれ、相変わらずのネガティブな気分である。
「つまらない日常だなぁ」
独り言を呟きながら帰っていると、いつの間にか登下校のルートを外れてしまっていたが、 桐渕の住むアパートに帰るのに支障はなかったので引き返さず進んだ。いつもと違う道を通るのも悪くない。いかにも裏路地のありそうな、人の気配がしない道だ。
そして、桐渕は建物と建物の間に光の入らない裏路地を見つけ、そこで一つの黒いUSBメモリを拾う。
日常から逃げようとした少年は、反対に日常に逃げられてしまった。少年はまだ、その事に気づいていない。
逃走