夜伽(ベニ)

俺が生まれてから、直ぐに父親が他界した。
亡き父親と親友が交わした一つの約束を結論付けるために、俺は山深い小さな里の無人駅を降り立った。



【1話】


 



 後ろを山に覆われた田舎の小さな無人駅を出る。
車も人影も無く、穴ぼこが目に付く舗装の剥げかかった狭い道路に出た。
駅から出るとその狭い道路は左右に1本、転々と古びた電柱だけが文明の力を伝えている。
バックから母親に書いてもらった手書きの地図を取り出して道路の縁石に座って広げる
駅を出たら目の前の道路を、左に3キロほど歩くと左側の山道への入り口があると書かれている
俺は、その地図に従って道路を左へと歩き始めた。

 左側に乗ってきた電車の線路を見ながら歩るくと、少し先に電車で通ったトンネルがある。
歩き出して数分経つと言うのに車一台、人一人も通らない。
目に付くのは電柱と緑色の山々と、あるのかどうか解らない温泉の古く錆び付いた看板
トンネルまで線路と数十メートル離れて平行だった道もトンネルを過ぎると右にカーブして
左右を山々が迫る勢いで覆っている。

 俺の父親は、俺が生まれて1年もしないうちに他界し、母親が一人で俺を育ててくれた。
その父親が母親と結婚当初、この辺りに住んでいて、どうやら話しの勢いで、
当時親しくしていた仕事上の同僚と言うか家族以上の付き合いと言うか
まぁ、平たく言えば無二の親友と言ったところだろうか。

 その親友と約束を交わしたと言う…
互いに男女の何れかが生まれたら添い遂げさせ親戚として付き合おうと。
まあ、何処にでもある、他愛無い話なんだろうが、俺が二十歳(はたち)になったらと
父親が死ぬ前に母親に託してあった、古い手紙…
子供が二十歳になったら、この手紙を見せて欲しいと。
中に書かれていたのは、この街の地図と相手方との経緯(いきさつ)が鉛筆で書かれていた
それだけの手紙だったんだが、母さんは行かなくてもいいって言ってくれたんだが
相手方がもしも、本気にしていたらと思った時、俺の心は何故かこの街へと飛んでいた。

 それにしても、20年前の戯言(ざれごと)を相手方が覚えているとも思えず
止めようかと迷いも有ったものの、温泉もあると言うから来ては見たが
どうやら、その温泉も看板を見る限り期待は出来そうもない。

 相手方とは父親の死後は年賀のハガキ程度の付き合いだと母親から聞いているが
実際に、ここに住んでいるのかどうかも確認はしていないのだが、取り合えずと言うところだ。

 左側を気にしながら歩いているものの景色は変わらず、山と朽ち果てる直前の道しかなく
本当にここに人が住んでいるのかと思えるほどの環境だ。
無人駅から歩いて来て、一人も見ていないし車も通らない、寂しい道だと言うことは
道の両端に、タンポポがビッシリと群生しているところを説明すれば理解出来るだろうか。
オマケに道路の逆側には、所々に山の傾斜から滑り落ちたらしい、倒木が転がっていて
乾燥しきって太陽の光に反射してキラキラしている。

 暫く行くと、木材切り出し場方面と言う、乾燥してカピカピになった看板があった。
地図と照らし合わせて見ると、確かにここのようだ。
人が行き来した跡はあるものの、道の幅が2メートルあるかないかと言う狭さで
車が通ったような形跡もあるがいつのもかは解らない。

 道の真ん中だけが固くなっていて地肌が見えている
誰も住んでないのでは無いだろうか…
俺がそう思っていると、後ろからバイクの音がして振り向くと郵便屋さんだった
入り口から15メートルほどのところに居る俺を見て、驚いてブレーキを掛けて止まった。

 うわっ! びっくりしたぁー! こんなとこに人が居るなんてー!
「相当、驚いた顔して俺の真横で話し始めた配達員」

 あっ! す、すいません! 邪魔してしまって!
「慌てて配達員のバイクから離れようとした俺」

 アンタ、この先の家に用事で来たのかい。
「ヘルメットを脱いで手拭で顔を拭きながら話す配達員」

 えっ、あっ、はい! 
「配達員を見ながら答える俺」

 そうかあー♪ アンタだったのかぁー♪ そっか♪ そっか♪
いやぁー! ここの奥さんの口癖っつうか、数ヶ月前から、誰か尋ねてくるからと聞かされて
そっかー そっかー うん、うん♪
「突然、嬉しそうに笑顔に変わった配達員」

 えっ、で、でもどうして?
「突然の配達員の喜びに驚く俺」

 いやぁ~ この辺の者は、みんな本町の方へ引越してしまっててねぇ
何で、引越さないのかって聞いたら、ここに青年が尋ねてくるからっちゅうて!
青年が尋ねて来ても来んでも今年いっぱいは、ここに居るっちゅうて!
いやぁ~♪ よかった♪ よかったぁー♪
これで、ワシもこんなとこまで配達せんでも良くなるし、そっか~♪


 配達員は俺に配達物の昨日の新聞を渡してくれと頼むと、そのまま引き返して行った。
それにしても、昨日の新聞とは…
山深いところだとは言え、昨日の新聞を今日配達とは、これが田舎の常識か。

 俺は配達員に言われた通り二手に分かれる道を右側に進むこと30分、辛かった坂道を歩き、
鬱蒼(うっそう)としていた山道が拓けて来るなり気分も晴れやかに…
石で出来た階段を一気に駆け上がると目の前が拓け平らになり、おくの方に家が見えた。

 街中の中位の公園ほどの広さがあって、一番奥の方に平屋で長屋風の造りが見えた。
家の手前側は丸い広場のようになって草も木も生えてはいない。
昔は、ここにも大勢の人たちが住んでいたと思わせるように、木製のブランコや、
古びた四角い支柱で出来た鉄棒が立っている。

 真っ直ぐ、真っ直ぐ、平屋の家を目指した…
家の中のカーテンが動いたように見えた、その瞬間だった。
和服姿の俺の母親くらいの女性が家から出て来て、俺の到着を待っていた…

 女性のところまで残り20メートルほどだ…



◆◆◆◆◆2番目



 足元の草の音が耳に届くほどに静けさを保つ木々に囲まれた家の前。
色白の顔立ち、目はパッチリしていて薄化粧の和服姿の女性は、静かに俺に頭をさげた。
「初めまして!」

 俺が近付いて、女性に話すと、女性は顔を上げ、スッと垂れた前髪を横へ戻した。
「こんな、遠いところへ、ありがとうございますと彼女」

 俺に話しかけた女性の瞳は美しいほどに澄んでいて、鏡のように俺を映し出していた。
「只今、家族の者は誰もおりませんが、主人から御話しは聞いておりますと、彼女」

 彼女は、俺に軽く頭を下げると、頷いたまま、俺を家の中へと導いた。
古びた大きな長屋の、真ん中の玄関の上には、時代を感じさせる三角形の小屋根、
そして、家族の名を記す表札が女性三人分、腐食の激しい木枠の窓はビニールで覆われ、
引き戸も、心なしか小さいように思える時代を感じさせる造り。

 カラカラカラっと音を出して、開けられた引き戸から時(とき)の経過の音が聞こえた。
中に入ると、コンクリートで固められただけの床に、30センチほどの小上がり、
その小上がりの床は、開け閉めの出きるように工夫されていて、数センチの隙間があって、
恐らく、中に薪(まき)や炭を入れておくりだろうと俺は思った。

 彼女は、綺麗に草履(ぞうり)を置くと隅に寄せ、正座して俺に三つ指着いて頭を下げた
家に、似つかわしくない行動に俺はドキッとした。
「いらっしゃいませ…」

 余りに、しなやかな彼女の動きは俺を和の心へと引き入れた、そんな気がして。
小上がりに上がると、彼女もまた、スッと立ち上がって、中戸の引戸をカラカラと音を立て、
開けて、戸の横に正座して、俺を中に引き入れた…
中に入ると、昔の写真が所狭しと壁に額に入れられ並べられ、その中に俺の目を引く物が、
俺の記憶に無い、写真を見て育った、亡き父親の若きし頃の写真…
「隣に一緒に写っているのが主人ですと彼女」

 俺の真横に来た彼女は、年齢を感じさせず、遠くから見た時は母親と同年代だと、
確かに思ったのに、そばで見る彼女は、日本的なしなやかさを持ち合わせた女性だった。
彼女の動きの、一つ一つが、時間の流れを止めるように感じられた…

 俺が、写真に見入っていると、8畳ほとの居間の真ん中に置かれたテーブルの上にお茶が、
「さぁ~ どうぞ…」

 出された、お茶を見ると、湯気の出る熱い番茶だった…
俺は、思わず、何故? そんな顔を彼女に見せると、彼女は、俺の父親の写真を見て一言。
「彼も、熱い番茶が好きだったとポツっと呟いた」

 俺は、許婚(いいなずけ)の件を、正座して向かいに座る彼女に切り出した。
すると、彼女は少しテーブルの下を見たまま、動かなくなってしまった。
俺は、彼女に、少しテーブルから離れ、両手を着いて頭を下げながら切り出した。
「申し訳ありせん! 許婚の話しを聞いたのは最近なんです! でも、たかが父親同士の
 若い時の戯言(ざれごと)だと、思っていました。でも、貴女を見ていて真剣さが、
 真剣さが、伝わってきて、この通りです! 無かったことにして下さい!」

 彼女はスッと顔を上げると、口元で優しく笑みを浮かべると、土下座する俺に、
「その、お話しは、後ほど… か細い声が少し震えていた」

 彼女は立ち上がると、昔、俺の父親と母親が住んでいたと言う家へと案内してくたれ。
一旦、家を出てから、向かって左から二番目の家ですと言う、彼女に導かれ、着いて行く、
俺の両親が出てから、誰も入っていないと言う、家の玄関の玄関の、引き戸は手入れされて、
今でも、誰かが住んでいるかのように、軽やかにカラカラと音を出して、開いた。

 この家は、私たち夫婦にとって、かけがえの無い、思い出の詰まった家なんです。
貴方の御両親とは家族以上に、特にお父さんと、うちの主人とは兄弟のように~
昔を語る彼女の目は、時(とき)を20年逆戻りさせたようにキラキラ輝き憂いに満ちていた
中に、入ると、造りは同じながらも、俺の両親がここを出ていった後に、生理整頓したと
微笑む彼女… 出て行かなければ、死ぬことも無かったのにと、口を噤んだ彼女。

 俺の知らない昔のスター達の出ている週刊誌や、捨てて行ったであろう古新聞の束、
この辺りの温泉が配ったであろう、温泉名の入った木で出来たウチワ…
どれも、これも、過ぎ去った時の流れに逆行する物ばかりだった。
「あの… 御主人は? 小声で聞く俺」

 彼女は部屋の壁に掛けてあったハンガーを、ジッと見入ってから…
「貴方に会うのを、心から楽しみにしていましたのに、神様は思い通りにはさせてくれませんでした」

 俺は、彼女の旦那さんが、3年前に、病気で他界したと、教えられた。




◆◆◆◆◆3番目



 両親が住んでいたと言う、長屋の一つを見せてもらった後、彼女に連れられ、
昔の、材木の切り出し場の加工場や、他の廃墟になった長屋へと足を運んだ。
和服姿の彼女の後ろを着いて、ゆっくりとした足取りで家の周りを30分くらい歩いた。
足場の悪いゴツゴツとした、所々に石が地面から顔を出している、道を難なく草履で、
歩く彼女の姿に、か細くも逞しい日本の女性を視たような木がした。

 彼女の家の長屋の裏側に位置する、この場所の山々は禿山のようになっているものの
きちんと植林も行き届いて、若い木々が俺の背丈や、少し大きい物もビッシリと立っている
道路から、見た時は山深い森だと思っていた、この山々も長い歳月で裸にされ、そして
また、人の手で山々を元の緑に変えつつあることに、少し感動を覚えた。

 「さぁ、戻りましょう…」 と、彼女

 彼女が、少し先から俺に、声を掛けながら振り向いた時だった!
地面から出ていた少し大きめの石の上に、彼女の草履が乗った瞬間、バランスを崩した。
 「キャッ!」 と、彼女

 俺は咄嗟に前へ出て彼女の支えになって彼女を抱きとめた…
俺よりも小さなな彼女は、俺の腕の中に埋まるようにして止まった。
彼女の髪の香り……………

 ゆっくりと俺から離れた彼女の頬は、恥ずかしさからか頬を紅く染めていた…
俺は、そっと離れた彼女に、手を差し伸べると、彼女は俯いたまま、俺の手に手を重ねた。
着物に、白い足袋、そして草履と言う、服装の彼女の仕草の一つ一つが俺には新しかった…
「家までの道が、もっと長ければいい…」 俺の心

 家の横まで来た時だった、俺が昇ってきた方向から、セーラー服姿の女の子が、見えた
咄嗟に、彼女は俺から手を離して、少し離れた…
その仕草が、彼女への俺の視点を女から母親へと変えた。
俺は、向うから来る女の子に、申し訳ないと心から思っていた。
向うからくる、女の子に着物の袂を持って、軽く手を振った彼女は、母親だった。

 家の前に彼女と並んで立っていると、セーラー服の女の子が笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ…」 深々とお辞儀をした、お下げの娘

「初めまして!」 と、俺

 白い運動靴に白いソックス、お下げの長い髪、笑顔の可愛い彼女似の娘さんだったが
年を聞くと、俺より3歳年下の17歳だと言う。
家の中に彼女と、娘さんと入って写真を見たり、この辺の話しをしていると、
「ただいまぁー!」 玄関から女の子の声

「お帰りぃ~♪」 お客さんよぉ!と、高校生の娘さん

 玄関から入って来たのは、同じく、お下げの可愛い女の子で、聞けば小学6年生と言う
俺の側へ、正座して座ると、いらっしゃいませと三つ指着いて頭を下げた。

 台所から、居間の方へ来た、母親である彼女が二人に…
「二人とも、お姉ちゃんに手を合わせたの?」 と、彼女

 彼女に言われると、二人は軽く俺に頭を下げると、隣の部屋へと入って行った。
「家(うち)には、生きていれば、今年で19歳の娘がおりましたが、病気で…」 と、彼女

 彼女の目が、寂しげに俺に伝わった。

 暫くすると、彼女は台所へ、そして、奥の部屋から出て来た、高校生の娘さんが、
俺に、今夜の寝るところへ、案内するといい、俺の手を引いた。

 白い、無地のTシャツに、グレイの、ハーフパンツを履いた次女
立ち上がると、一旦、家を出て、左隣の家の玄関の鍵を開けた、次女は、
中に入り、居間の明かり、そして奥の部屋の引き戸を開けて中へ入ると、更に灯を灯した。
次女の入った部屋に、身体半分入れた俺は、それを見て唖然とした!

 布団が、二つ並べられて、次女が押入れから、枕元に浴衣を二つ並べて置いた。
そして次女は、布団の真横の畳に正座をすると俺に一言、言って三つ指着いて頭を下げた。
彼女の顔付は、今までの顔付とは別人のように大人の顔をしていた。

「今宵は、わたくしが、夜伽に参ります、宜しくお願いします」 と、彼女

「ちょっ! ちょっと待って! 困るよ! 困るって!」 驚いて慌てる、俺

 三つ指着いて頭を下げる次女の前に正座して、彼女似頭を上げるようにと、
肩に両手を添えて彼女を即した俺。

「私は、この日のために、生まれ、そして母に躾けられました」 と、次女

 三つ指で頭を下げながら、俺に話し掛けた彼女の声は、振るえていたものの
しっかりとした、口調で、俺を逃がさない、そんな気迫が漂っていた。

「だから、その件は、君のお母さんに、話し合うためにきたんだ」 と、慌てる俺

「向うで、食事の仕度と、お風呂の用意が出来ていると思います」 と、彼女

 彼女は、俺の言うことに耳を貸そうとせず、そう言うと立ち上がって一礼すると
部屋を出て、母親の待つ家へと、帰って行った。
俺は、突然の彼女の言葉に、心底から動揺していた、胡坐座りになって、片手で頬杖をつく
ついた、頬杖は、頬から左の耳の上に移り、何気なく、浴衣を手に取ると、何かが落ちた。

「何だろう…」 と、落ちた物を拾ってみた俺

「娘は、御未娘(処女)でございますが、何卒よしなに…」 母親である、彼女のメモ

 俺は、この家族に、只ならぬものを感じた…



◆◆◆◆◆◆4番目




 突然の、次女の行動、更に実の母親からの、我が娘を頼む趣旨のメッセージが、
俺を、大昔へとタイムスリップさせた。
有り得ないことに、遭遇した、俺は、布団の横にヘタリ込んでしまった。

 どれほど、時間が経過しただろうか、玄関の方からカタカタと、戸の開く音がして、
中に入って来る誰かの足音が俺の正気にさせた。
「お夕飯ですから…」 と、目を合わせようとしない着物姿の彼女。

 彼女が、俺に話しかけて、立ち去ろうとした時、俺は彼女を呼び止めた。
「何故… 何故ですか? どうして、ここまでするんですか!」 と、後姿の彼女に俺。

 後ろ向きに、軽く頭を下げた彼女は、そのまま黙って、家を出て行ってしまった。
俺は、納得が行かなかった。
実の娘を、しかも、彼女(次女)は、処女、まして、今日、出あって何も話していない、
そんな状況で、俺にどうしろと言うんだよ!
俺は、彼女に対して、疑問と同時に怒りにも似たものが込上げてきていた。

 よし、こうなったら、俺は、そう思いながら、隣の家に出向いた。
中に入ると、テーブルの前で、彼女も次女も、三女までもが、無言で正座していた。
テーブルに向かう、彼女達の落ち着き払った様子が、俺を圧倒し、俺を無言にさせた。
しかも、テーブルに向かって座っている位置が、不自然だった。
俺が、中戸(なかと)の内側に立っていると、彼女が、こちらえどうぞと、声を掛けた。
見ると、そこは、家の主が座る場所だった。
「ちょっと、待ってください!」 と、後退りしながら少し大きな声で言う、俺

 こちらへ、どうぞ、と二度繰り返した、彼女の目は冷静で落ち着き払っていて、
俺は、それいじょう、何も言えなくなってしまった。

 俺は、招かれるまま、彼女の指定した場所、主の場所の紫色の座布団に座ると、
突然、テーブルから全員が離れると、俺の方に向かって、三つ指ついて、頭を下げた。
「今日は、よく、訪ねて頂きまして、家族全員、心からお礼を、申し上げます、
 こんな、むさ苦しい、ところでは、ございますが、どうぞ、気兼ねせずに何なりと、
 御申し付け下さいませ」 三つ指ついて、頭を下げたままの彼女。

 長方形のテーブル、俺の左側の長めの場所に彼女と次女、右側の長めのところに三女。
三人とも、着物姿で、髪も結っていた。
有り得ない光景に、俺は、息をするにも苦しかった。
テーブルには、煮物と笹の葉に包まれた、岩魚の塩焼き、山菜お強(おこわ)に、
しかも、俺の前には、銚子に入った酒と白い、末広がりの、お猪口がおかれていた。
「どうぞ、お一つ…」 と、彼女。

 お猪口を手にした、俺に、着物の、袂(たもと)にそっと、手を沿えて、そっと、
俺に酒を注ごうとする、彼女の顔を下を向いていた俺が、静かに見ると、彼女の目は、
澄み切った小川に流れ込む源流水のように、美しく俺の心を魅いた。

 俺の、お猪口を持つ手が、小刻みに震えていたのは、彼女の所為かも知れない…
この辺の地酒だと言う酒は、街場で飲む酒とは違っていて、ほんのりと、俺を紅色に染めた。
祝いの席で、出された、岩魚(イワナ)は山奥に住み着く長寿の魚と言われていて、
この辺では、結婚式なので、使われる、目出度い魚だと、彼女が教えてくれた。

 彼女から、酒を注がれて一口、次女から注がれて一口、そして、三女と言う具合に
飲んでいるうちに、酒も回ったのか、大学での話しや、高校の時の学園祭の話しで、
彼女達、家族を笑みの世界へと、導いた…
口元を隠して、か細く笑む彼女の笑顔が見たくて、俺は必死で笑い話しに講じた。
俺の話しに夢中になって、知らず知らずのうちに、いつの間にか、みんなが、俺の周りに…
聞き入る、次女は、大人っぽさを見せながらも、あどけなく口元を隠し、
三女は、完全に崩れて、子供にかえっていた。

 俺は、話しの途中で、彼女にも、お酒を勧め、そして、また、話しを続けていた。
ほんのり、紅色に頬を染める彼女の笑顔を見ていて、ここを尋ねた意味が解った気がした。
「こんなに、笑ったのは、何年ぶりかしらねぇ…」 と、子供達を見る彼女。

 楽しかった、宴(うたげ)も夜の9時を過ぎたころには終焉を迎え、
俺は、お風呂を勧められ、そのまま、お風呂に…
頭を洗って、身体を洗っていると、脱衣場で、コトコトっと、音がして目をやると、
風呂場の戸の前から、お湯加減、いかがですかと彼女の声… 
心臓が飛び出るほどに、驚いた俺は、平静を装うのに必死だった。

「調度、いいです」 と、返事をする俺

「お背中、流しましょうか」 と、彼女

「ああ、いえ、結構ですから…」 と、俺

 彼女は、スッと戸の前から消えた…
俺は、入り口の戸の硝子に映った彼女の、着物を少し捲り上げた様子が頭から離れなかった。
湯船に、肩まで浸かっていると、風呂から出た後のことを考えてしまう…
涼んで、涼み終わると、そろそろと言いながら、隣の家に移ると、後から次女が来る…
何とかしなきゃ! 何とかしないと… そうだっ!
俺が先に中に入るんだから、中から鍵を掛けてしまえばいいんだ!
なんだよぉぅ~ 簡単ことなのに、考えすぎて損しちまったよぉ~!
俺は、突然の名案に、ゆっくりと風呂を楽しんだ。

 風呂から、出ると、窓際に用意された椅子に座り、涼んでいると、麦茶を出されて
勢い良く、数杯をお替りしただけなのに、これがまた、バカ受けしてしまった。
三女が、俺の飲みっぷりに驚き顔してパチパチと手を叩くんだ!
その仕草が何とも可愛らしかった。

 そして、涼み終わると、俺は深々と、彼女と次女、三女にお辞儀をした。
すると、彼女が玄関でサンダルを履く俺の後ろに来て、一言…
「これから、娘が御邪魔致します、何分にもまだ、17歳、行き届かないことも
 御座いましょうが、宜しく、お願い致します」 そう言う、彼女の声は寂しげだった。

 俺は、黙って、家を出ると、隣へ移った…


 なに!! この家… 内鍵がついてない!!


◆◆◆◆◆5番目



 俺は、焦っていた、時間が無い! 隣から移動して僅か、1分で俺の作戦は終った。
ドアを内側から鍵を掛けると言う、最も、古典的だが、確実な方法だったのに…
何か、何かないかと、必死で探したが、結局、何も見付からず、愕然として家に上がった。

 彼女の、俺を送り出す時の一言、本気だった…
自分の娘を、差し出す親がいるか? どう考えても理不尽… 何でここまでするんだ?
17歳なら、彼氏もいるだろうし、青春真っ只中だろ! まだ、会って一日も経ってないのに
解らない! 彼女の考えが! それに、俺は責任なんて取れないぞ!
帰省した時、母さんに何て言えばいいんだよ! 父親の約束を果たして来ましたって言うのか

 もう直ぐ、来ちまう! 何とかしなきゃ! なんにも無くても、男女が二人だけなんて、
とんでも無い話だ! しかも、親が隣にいるんだ。

「カラカラカラッ…」 彼女が、玄関を開けた音。

 居間で、彼女の方を見ると、無言のままで、俯き加減で、静かに入って来た。
蛍光灯が静まり返った、部屋の空気を生々しく、俺に見せている。
中に入ると、一度、正座をして中戸を閉め、そして、俺の前にくると。
「浴衣に着替えますから…」 と、目を合せまいとする彼女。

 彼女は、静かに、奥の畳の部屋へ入ると戸を閉めた。
中から、スルスルッと、着物を脱ぐ音が聞こえると、俺はドキッと胸を高鳴らせた。
暫くして、奥の部屋から出て来た次女は、さっきまで笑っていた17歳ではなく、
大人の女の匂いを漂わせていた。 

 テーブルの前に静かに正座する次女は、黙ったまま無言で俯いていた。
俺は、次女に、何故こんなことすのかと聞いて見るものの、黙って俯いたまま何も答えない。
「何か、飲まれますか?」 と、初めて口を開いた次女。

「ウィスキーは、ありますか?」 と、彼女を見る俺。

「畏まりました…」 と、彼女は、軽く頭を下げた。

 台所に立った彼女の後姿、浴衣から見えた、脹脛が生々しく、俺に伝わった。
カランカランと音を立て、円い容器に入った氷に、ウイスキー、グラスをボンに乗せ、
両手で運ぶ姿に、ギコチなさを感じなかった俺は、彼女似聞いた。
「運ぶの、手馴れているんだね…」 と、俺

「ハイ… 母に躾けは子供の頃から受けていますから…」 と、彼女

 テーブルの前に、正座して座った彼女が、俺の前でウィスキーの水割りを作ってくれた。
俺は、それを一口飲んだあと、一気に飲干した。
「お替り、作りますか?」 と、物静かな彼女。

 俺は、彼女似、お替りを頼むと、彼女には、申し訳のない気持ちになったが、
仕方なく、心を鬼にした。
「君も一緒に飲もう」 と、誘った。

「いえ… 私、お酒は…」 と、困った顔を一瞬見せた彼女。

 俺は、彼女に、一緒に飲めないなら、帰ってくれないか!
「一緒に飲んで、語り合って、そして、お互いを分かり合って、それからだろ?
 お互い何も知らないで、こんなことするべきじゃないし、
 俺は、話しながら、奥の部屋の引戸をチラッとみた…」

 俺は、少し苛立って見せると、彼女は黙って、台所から別のグラスを持って来ると、
俺の前で、水割りを作り始めた…
彼女を苦しめることには抵抗があったが、俺は、これしか無いと思っていた。
飲めない、酒を辛い表情を浮かべて、二杯、三杯と俺の勧めるまま、飲んだ彼女は、
4杯目を飲み終え、暫くすると、彼女は、何度かトイレに足を運んだ… 当然だった。
そして、夜の11時ごろ、彼女は麻酔の効いた病人のように、テーブルの前で、
眠ってしまった…

 彼女を抱き起して、奥の部屋へ運んで寝かせて、居間へと戻った俺は、12時くらいまで
一人で、ウィスキーを舌の上で転がした…
父親譲りの酒豪で、普段はストレートでツゥーフィンガー、数杯飲んでいる俺だった。

 深夜の1時ごろだつたろうか… 俺がそろそろ寝ようと灯を落しに立ち上がった時だった
玄関が、カラ… カラ… カラッ… と、静かに開いた。

 俺は、居間の中戸を開けて、玄関に行くと、次女の母親である彼女が立っていた。
「彼女は奥の間で眠っています…」 と、彼女を見た。

 彼女は、無言で、軽く頭を下げると、そのまま外の暗闇に消えようとした。
俺は、暗闇に消えかかる彼女に、明日、話したいからと伝えると、
彼女は、俯き加減で、俺を上目づかいでチラッと見ると、外の闇に消えた。

 無言で、暗闇に消えた彼女から、何とも言えない、恐さを感じた俺だった。


◆◆◆◆◆6番目



 翌朝、俺は早朝、モヤのかかる外へと足を運んだ…
朝露がズボンの裾を濡らす、山歩きの下手な俺を待って居たかのように、昨日、彼女が、
連れてきてくれた、家の裏側の、木材加工場の跡地。

 着物姿の彼女が、俺に背を見せて、旦那さんの働いていた山の遠くを見詰めていた。
俺の足音に気付いて、振り向いた彼女は、薄らと目を潤ませていた…
涙を隠すように、俺を見た瞬間、山の方を向き返した彼女。

 俺は、彼女に昨日のことを話す気にはなれず、たた、黙って、彼女の後ろ側に佇んでいた。
彼女もまた、山を見て無言で見ていて、突然、口を開いた…
「ここで、貴方のお父さんと、主人は働いていたの… 朝から晩まで汗だくになって、
 そして仕事が終ると、この先から二人は大きな声で笑いながら帰って来たの…
 二人とも、兄弟のように、白いランニングシャツを真っ黒にして…」 と、彼女。

 思い出を振り返るように話す彼女の声は、細く、そして澄み切っていた… 
静かに、奥の方へと歩き出した彼女は、草花を見つけては、シャガんで花を右指で撫でた。
微笑して、花を撫でる仕草が、とても可愛らしく、俺の心は和みへと導かれた。
左側に見えた、大きな雑木林が後ろの方へ見える頃には、家は見えなくなっていた。
何度も、朝の挨拶をするように、歩いては、しゃがんで、花ビラを撫でる彼女、
俺は知らず知らずの内に、彼女の真後ろに居たようだった…
突然、花を見つけ立ち止まった彼女に、後ろからカラだを当ててしまった…
気付いた時、俺は、彼女を後ろから抱きしめていた。

 彼女は、後ろから抱きしめた俺の両手の上に、黙って、自分の両手を重ねた…
大人の女性の匂いがした…
俺は、そのまま、彼女の前に回って、彼女の顔をそっと、顎から支えるようにキスを…
彼女は目を反らし、俺の胸を両手で優しく押して、キスを拒み俺から離れてしまった。

 そのまま、彼女は少し歩き出した… 俺には彼女と山々が一つに重なって見えた。

「ここは、あの子が息を息を引取つた場所なんです…」 と、寂しげな表情を見せる彼女

「あの子?」 と、彼女の隣に、しゃがむ俺。

「家の仏壇にいる、うちの、長女です…」 と、小さくか細い両手で地面を触った彼女。

 ジーッと地面を見続けて、両手で固くなった地面を撫でるように、触った彼女は、
ポタポタと、涙を流して、地面を濡らしながら、両手で何度も、何度も、地面を撫でた。
まるで、消えない何かを消そうとするように…
白いモヤが山肌を滑るように流れた時、俺は後ろから彼女の両手に手を重ねた…
俺は、泣き崩れる、彼女を支えることしか、出来なかった。

 彼女を支え、一緒に立ち上がった時だった、突然、彼女は俺の胸の中に顔を埋め、
声を出して泣いた… 彼女は何度も俺の胸を、か細い手で叩いて泣いた…
俺は、その意味をこの時、まだ知るよしもなかった。


◆◆◆◆◆7番目



 彼女の家、ソファーの横で床に座り、入れて貰った御茶を飲みながら、辺りを見回す…
大きな額が目立つ中で端っこに一つ、ポツンと小さな額縁が後ろ向きに掛けてあった。
他のは、みんなA4ほどのサイズなのに、一つだけハガキほどの額が、まるで隠すように…
俺は、御茶をテーブルに置くと、立ち上がって、側まで行くと、額縁を表にして見ようと、
指を触れた瞬間だった、バンッ! 突然、彼女が写真を見ようとした俺から、額縁を、
奪うように取ると、そのまま、仏間があると言う、奥の部屋へ入ってしまつた。

 奥の部屋から出て来た彼女は、俺とは目を合せようとせずに、台所へ入ってしまった。
俺から、奪い取るように握り締めた額縁には、どんな写真が入っていたのか、
俺には、彼女に聞く術(すべ)になる言葉が見つけられなかった。

 味噌汁の、いい匂いが家に立ちこめてきたころ、奥の部屋から三女が起きて来た。
「おはよう!」 と、三女に声をかけた、俺。

「おは… よう… ございます…」 と、まだ眠そうな三女。

 少し、大き目の盆に、乗せられて出て来た、たまご、納豆、海苔に漬物、日本食の定番に、
彼女らしさを感じて、ホッと心を和ませた俺は、着物の上の白い割烹着に目を魅かれた。
顔を洗って出て来た三女に次女を起してくるように、声をかけた彼女…
一瞬、面倒臭そうな顔した、三女に俺が起してくるからと伝えると、ニコっと微笑んだ三女。

 隣の家に入ると、まだカーテンも閉まったままだった。
居間のカーテンを開けて、窓を開けると、澄み切った山の空気が家中に広がった。

 奥の引き戸の前で、声をかけた… 何度か声をかけたものの返事なく、俺は困った。
中に入るわけにも行かず、かと言って、放っとくことも出来ずも困った俺は、
辺りを見回すと、台所の入り口の角にモップが立てかけてあった。
それを手に取ると、襖(ふすま)を開けて、中が見えないよう襖の横に隠れて、
彼女の寝ているであろう、布団の足の方を軽く、ポンポンと突いた。

 一回、二回と突くものの、一向に当りが無い…
もう一度、今度は少し、腕を伸ばして中の方に、伸ばした瞬間だった!
アレっ? ぬ、ぬけない? 確かに布団の中に入ったはずなのに、モップの枝が抜けない?
アレっ? 暫くすると、中から、クスクスと笑う声がした…
クスクスと言う笑い声は、キャハハハハハに変わった時、スーッとモップの枝が軽くなった。

 スーッと抜けた弾みで、俺は引っくり返ってしまった!
「あーっははははははは♪~ こりゃ、やられた~♪」 と、俺は笑い転げてしまった。

「キャッハハハハハハハ♪」 と、中から大笑いする次女の声。

 中から出て来た、次女は突然、ひっくり返った俺に、馬乗りになった!
「おいおい~♪ 勘弁してくれやぁ~ あっはははははは~♪」 と、次女に言った、俺。

 次女は、とっくに起きていて、昨日持って来たバックに入っていたのか、セーラー服姿に、
白いソックスを履いて、顔も洗っていたようだった。
俺の腹の上で、ハシャぐ次女は、ごく普通の女の子の笑みを浮かべていたことに、
俺は、ホッとしながら、次女と戯れていた。

「意地悪!…」 俺の腹の上で、小声で呟くと、俺の頬を両手で横に引っ張って大笑いの次女

「ウゥゥー♪ イタタタタタタ~♪」 と、釣られて大笑いの、俺。

「ホラホラー♪ 遅刻するわよー♪」 と、玄関の方から、楽しげな彼女の声が聞こえた。

「だってぇー 面白いんだもーん♪」 と、俺の腹の上で彼女に微笑む、次女。

「もおぅー♪ この子ったらぁ~♪」 と、楽しげに笑う、彼女。

 俺を含めて一緒に食べる4人の食事は、久し振りだと大喜びの三女…
「今日ばかりは、大目に見るからね♪」 と、終始、笑顔で三女に話す彼女。

 次女と、三女を玄関で見送る彼女に、優しい母親の顔を、俺は見た。
「ありがとうございます♪」 と、彼女は俺に、深々と頭を下げた。

 そう言って、家に入った彼女の顔が、真っ青になった。
「どうしたの?」 と、俺が聞く。

「大変!」 これがないと! 彼女の手には白い病院の薬のような袋が…

 俺は、彼女から薬の入った袋を取ると、一目散に次女の後を追った!
走りやすかった、山の広場は、走りにくい草地に変り、ゴツゴツした石の突き出た山肌へ、
それにしても、歩くのが相当に、早いのかまだ追いつかない。
ようやく、走るコツを覚えた頃だった、向うに二人の姿が見えて、俺は叫んだ!
「おぉーーーーい! おぉーーーーい!」 叫んだ俺。

 両側から木々が覆い被さり、顔にバシ、バシ当りながらも俺は走った!
木々は、彼女達家族と、バイクに跨った郵便屋さんの通れるほどに枝が刈られていて、
男が立って、走るような高さにはなっていなかった。
息を切らせて、次女に追いつくと、ポケットから薬の袋を取り出して、次女に渡した。
次女は、薬の袋をみると、不安げな表情を俺に、見せた…
お母さんが、慌ててたから、よくわかんないけど、とにかく、持って来たと次女に話した俺。
すると、次女の顔からは不安な表情き消え、笑顔に戻った次女は三女と供に手を繋いで、
下へと歩いて行った。

 何故、次女は、あんな顔をしたんだろう… 俺の心に一つの疑問が加わった。 



◆◆◆◆◆8番目



 長女の死、次女の薬、小さな額縁、そして遠い過去…
彼女の苦しみの欠片でも解ってあげられたら… 俺はそう思いながら彼女の待つ家へ、
来た道を戻ると、さっきは気付かなかったが、小さな祠(ホコラ)が、段差の右側の奥に、
木々が隠すように、ひっそりと建っていた。
普通に、通っていたら絶対に気がつかない、祠が気になった。

 ポロポロに朽ち果てた、ドラム缶ほどの大きさの祠は、地面に迫るように、上から下へと、
生い茂る草木に守られるように、ひっそりと建っていた。
俺は、生い茂る草木を掻き分け中へ入って、祠の前に来ると、誰かが草を刈り祠の周りを、
キレイに整えていた…
俺は、誰がやっているのか、直ぐにピンと来た。
祠の前には、草花が供えられ、掃除も行き届いていたのに対して、俺は、疑問を抱いた。
何故、ここまでキレイにされているのに、道から見えないようになっているんだろう?
そう思いながら、祠の前にシャガんで膝を揃えて立ち膝をした。
俺は祠に、みんなの無事と幸せを願って、手を合わせた、すると、ガサガサガサッ…
何処からか、草の揺れる音がして、びっくりして辺りを、見回す…
クルゥポッポ~ どうやら山鳩がいるらしい…
俺を警戒して、居場所を代えたのか、それとも、様子伺いか、笑みの零れた俺だった。

「さてと、そろそろ戻らないと、彼女が心配するな…」 と、心で思う俺。
 
 立ち上がった時、前屈みになった俺の目に、祠の中で何かが光るのが見えた…
「ぅん? なんだろう?」 と、思った俺。

 もういちど、屈んで、中を覗きこんだ俺は、悪いと思いながら、祠の観音扉ょ開けて見た。
すると、中に古く小さな黄色い、手鏡が立て掛けられていた…
祠に、もう一度、手を合せてから、手鏡をそっと出してみた、普通の手鏡だったのだが、
手鏡の裏を見た俺の心は、複雑なものへと変って行った…
裏に書かれた、親父の名前… そして並んで書かれていた、恐らく彼女の旧姓だろうか。
「何故? どうして? なぜ、親父と、彼女の名前が書かれているんだ?」 と、俺。

 親父の名前にバッテンが縦に引かれ、その横に彼女の旦那さんの名前がかかれていた。
何故、こんなものが、ここにあるんだろう……………
「書かれている文字を見ると、小学生くらいだろうか」 文字に見入る、俺

 俺は、そっと、手鏡を元に戻すと、その場を離れた。
やるせない気持ちだった… 彼女と親父が… 大きな溜息が何度も繰り返し出てしまう俺。

 道を戻って、暫くすると、向う側から彼女の姿が見えた…
彼女に手を振ると、彼女もまた、袖を片手でまとめ上げて片手を振ってくれた。
何故だろう、彼女に近付くたびに心が時めいた…
一歩、一歩と近付く度に、俺の心は時めいた、何かが込上げてきていた。
そして、彼女が俺の前にきた時、俺は耐えていた… 彼女を抱きしめたい気持ちを…
彼女は俺の顔を見るや否や、懐から白いハンカチを出して、俺の顔についた、土ホコリを、
左手で右手の着物の袖を纏めて、右手で優しく拭きとってくれた。

 気がつけば、俺は彼女を抱きしめていた…

 初めて、彼女と交わした口付け…

 彼女が愛おしく思えた…



◆◆◆◆◆9番目



 次女と三女が手を繋いで帰ってきた…
セーラー服にカバンを前側に両手で持つ次女の唇が瑞々しく俺の目に映る…
一人っ子の俺にとって、次女は妹のような、そんな可愛らしさを演出していたように思える。
 
「ねぇー、これから山の洞窟を見に行かない?」 と、笑顔で俺を誘った次女。

「あらー いいわねぇ♪ いっといで~♪」 と、次女と俺を見る彼女。

「ずるーい! お姉ちゃんだけなんてー!」 と、顔を顰めて俺に抱きつく三女。

「もおぅ~ しょうの無い子ねぇ~」 と、次女の目を見た彼女。

 彼女は、意図的とも思えるように、三女に宿題のことを持ち出して部屋の奥へと連れ立った
次女も、俺の顔をチラッと見るや、奥の部屋へ姿を消すと、数分もしないうちに、着替えて、
俺の前に、Tシャツにハーフパンツ姿で現れた。
次女に、連れて行けとばかりに、纏わりつく三女に、明日、二人で行こうと俺の方から、
声をかけて、その場を収めたものの、飛び跳ねて大喜びする三女の愛らしかった。

 俺は、彼女に行って来ますと、頭をチョンと下げると、家を出た。
家を離れて、裏側の雑木林の辺りまで、来た頃だった… 並んで歩いていて、何かが手に当る
チラッと見ると、次女の手が俺の手の付近を行ったり来たりしているのが解った。
俺は、ヨシっと心の中で言うと、スッと次女と手を繋ぐと、次女もまたしっかりと握り返した。
 次女は、時折立ち止まり、辛そうな表情を浮かべた…
数百メートル間隔で、立ち止まっては、息を整えて、また歩き出すを繰り返していた。
「いいよ! 何の病気かは知らないけど、休み休み行こう♪」 と、次女に笑顔の俺。

 すると、次女は俺と繋いだ、手を離し右腕に掴まるように甘えて来た…
右腕に、服の上から感じる次女の温もりが、俺に高校時代の彼女を思い出させた。

 100メートル、歩いては立ち止まり、そして数分後にまた歩き出すのを見てて、
段々と、彼女が気の毒に思えた俺は、彼女の前に出ると、シャガみこんだ。

 何? と言う表情の彼女に、俺は両手を後ろに差し伸べて、オンブの格好をして見ると、
彼女は、頬を紅く染め、恥ずかしそうに佇んだ。

「ホラ! 遠慮すんな♪」 と、俺。

 彼女は、恥ずかしそうに、俺の背中へ… 彼女の小さな胸が背中に当る…
嫌らしい気分ではなく、妹が居たら、なんて考えながら先を進んだ。

 彼女をオンブすること、15分ほどで、目的の洞窟へ到着した。
彼女を降ろして、一休みしていると、彼が洞窟の周りで草花を摘み始めた…
しばらく、様子を見ていると、高さ2メートル、幅4メートル位の洞窟入り口に、花を供え、
洞窟を前にして、手を合わせて拝んでいた。

 拝み終わって、俺の側に来た彼女の話しでは、洞窟の上の方に山の神様の祠があって、
山へ入る人達は必ず、ここに立ち寄っては、草刈したり、花を供えたりするのだと言う。

 辺りを、見てみると、何故、こんなところにと言う物があった…
彼女似聞くと、山道で何かあった時に、人を乗せて下山して、所定の場所に置くと、
次の人が見つけて、ここまで引いて来ると言う、リヤカー。

 山の里ならではの知恵だと感心した…

 休憩も終わり、彼女に連れられて洞窟の中へ入って行くものの、足場が悪く、
俺は、彼女の指示通りの箇所に、掴まったり、足を置いたりして何とか、洞窟の広場へと、
入り口から、数メートルの段差は、ゴツゴツした岩肌で、どうやら、手足の置き場が、
決まっていて、何も知らない人だと、落ちてしまうらしいく、里の人達だけが、知りえる、
降りる時の道しるべと言うか、マニュアルと言うか、里の人の頭の中に入っているようだ。

 中は、入り口からは創造できないほどに広く、30畳か40畳ほどのの広さで、
空気はヒンヤリとしていて、美味い空気と言うのだろうか、彼女の話しでは、奥は通路と、
広場になっていて、昔はここに冬場の、野菜や薪に米を貯蔵していたらしかった。
広場の数は、大小合わせて数十箇所にもなっていて、部屋ごとに、里の人達の表札があって、
もちろん、彼女の家の表札もあると言う。

 天井の辺りから所々、差し込む光が調度、10メートル間隔くらいにあって、
昔の人たちが、陽取り用として、鉄管を埋め込んで作ったのだと、彼女は言う…
鉄管の長さも、長いものでは数十メートルと言うから、驚いた。

 彼女似導かれて、奥へ進むと、左右に大小の広場と6畳ほどだろうか、入り口の上に、
30センチほどの板に、名前が書かれて紐で壁に吊るされてあった。

 奥へ進めば、進むほど、ヒンヤリとしていた…
その、家々によって、収穫する物が違うから、入り口から順に、広場の割り当てがあって、
彼女のところは、入ってから、40メートル位のところらしかった。

 中に進むと、両側に昔使ったであろう、桑(クワ)やカマが置いてあって、ちょっとした、
博物館のようにも思えた。
木で出来た、スコップのような物や、藁で出来たレインコートのような物まで、
俺の目を楽しませてくれる逸品だった。

 天井が、少しずつ低くなって来たかと思ったあたり、左側に、彼女の家の名前の書いた、
板が見え、彼女はその中へと消えた。
「お願い! お願いです! 今夜! 今夜、私を! お願いです!」 と、切羽詰まった声の彼女。
 突然、暗がりの中から聞こえた彼女の声は、洞窟に響き渡った…
そして暗がりから出て来た彼女は、静かに俺に抱きつき、その顔をを俺の胸に埋めた。
彼女の甘く切ない女の匂いを感じた瞬間だった…

 俺は、そっと彼女と口付けを交わした。



◆◆◆◆◆10番目



 俺と彼女の心臓の音が重なり合う…
彼女の身体が小刻みに震えたのは洞窟の冷たい空気の所為ではなかった。
薄暗い、冷たく澄んだ空気の中に、彼女と俺の鼓動が響きわたるかのような気がした…
大人の女へと羽化を始めた彼女の両手が、俺の背中を必死に掴みはなそうとしなかった。
長い、年月を遡って、この里で、この山で、この洞窟で、二人は一つになった…
下の、祠(ホコラ)で見た、俺の親父と、次女の母親である彼女の幼き日々の誓いは、
世代を超えて、今、叶えられた… そんな気がした。

 洞窟を出た、俺たちは、暫く洞窟の前の大きな倒木の上に寄り添って座っていた。
次女は、俺の腕にピタリと寄り添い、羽化の疲れを癒すようにじっとしていた。
「後悔していないかい…」 と、彼女に聞いた俺。バカなこと言ったと思った俺。

 彼女は無言で、俺に寄り添っている…

 寒さで二人の、温もりが一つに感じられた時、我に返り辺りを見ると夕日が二人を染めていた。
隣に寄り添う彼女の肩に手を回すと、うとうとしていたのか、彼女は小さなアクビをもらした。
 俺は、彼女をリヤカーに乗せると、静かに山道を下って行った。
真っ赤な夕日が、緑の木々を紅色(くれないいろ)に染め、二人の影を一つにした時、
親父も、もしかしたら、こうやって彼女と山を降りたのかも知れない、そんな気がした。

 俺は下の祠で、あの手鏡を見た時、親父と彼女の関係が解ったような気がしていた…
俺と、親父が重なり、そして次女に彼女が重なる… そんな気持ちで山道を下って行くと、
下の雑木林の隙間から、彼女の家の灯が見え隠れした。

 俺が、さっき彼女似聞いた、後悔していないかとの愚問は、自分に対してだった…
そんな気持ちが、近付く家の灯と供に、俺の脳裏を掠めていた。
カタカタと弾むように、タイヤを鳴らすリヤカーの異音が気になって、後ろを見た瞬間、
俺は、叫んでいた… 「大丈夫かーーー!!」

 さっきまで、笑顔で座っていた、彼女がリヤカーの上でグッタリしていたからだった。
慌てて、リヤカーを停めて、荷台に近寄ると、彼女は小刻みに息を震わせ倒れていた。
俺は、リヤカーの向きを下の方へ替えて、彼女が見えるように、押すようにして山を降りる、
彼女の異変に気が付かずに、のんきにしていた自分が許せなかった。

 もう直ぐ、家だからなぁー!! 頑張れ!! 彼女に声をかけながら、俺は降りた。
家の前に来ると、母親の彼女が心配そうに、玄関の前で待っていた…
俺は、次女とのことを話せなかった… だが、目を合せようとしない、俺を見て、
彼女は、悟ったように、次女を俺と二人でリヤカーから降ろすと、家の中に入れ奥の部屋へ、
布団に寝かせた時、次女は血の気を失っていたが、彼女が飲み薬を持って来て、次女に、
飲ませると、数分で顔色を徐々に戻していった。

 「ごめん…」 と、台所に立つ彼女に謝った、俺。

 彼女は無言で、チラッと俺を見ると、無言で洗面器に濡れタオルを入れ、次女の側へ
彼女の横で、次女を見舞う俺が、仏壇の方へ目をやると、次女にそっくりな長女の写真が、
すると、彼女がポツリと一言… 側で、次女の濡れタオルを引っくり返す三女が痛々しい。
「自殺だったの…」 と、囁くように言った彼女。

「どうして?」 と、仏壇の写真をみながら彼女に聞く、俺。

 彼女は、次女を見詰めたまま、答えようとはしなかった…
三女が、洗面器を持って、水を替えに行った時に俺は彼女に聞いた。 

「彼女の病気は、なに?」 と、彼女に聞く俺。

 彼女は、次女の病気のことも、答えようとはしなかった…
「夕飯の後で、お部屋へうかがいますから…」 彼女の言葉は重かった。


◆◆◆◆◆11番目



 夕食の後、俺は隣の家に移って、彼女を待った…
彼女が、隣で片付けをしている間、俺は家の居間で、ウィスキーのグラスで氷を回していた。
テレビもラジオも無い、きれいに掃除された部屋に蛍光灯の電気音だけが聞こえている、
窓の外は真っ暗で、何も聞こえず、漏れている隣の家の灯だけが辺りを照らしている。

 「カランっとグラスの氷が解けて、部屋にその音が寂しげに広がる…」

 彼女が、隣家の玄関を出るのが見え、寝転んでいた俺が、グラスを持ちながらスッと、
起き上がって、彼女を待っていると、一旦玄関に手を掛けた彼女は、自宅へと引き返した。
「どうしたんだろう…」 と、俺は窓に近付いて、暗がりの外に見入る。

「母さん!!」 部屋の中で、大声を出しした俺。

 母さんと彼女が会釈し、話し合っていた。
何十年ぶりの再会とは思えないほどに、冷静で緊迫しているのが伝わって来る。
「どうして? 何故?」 と、俺の脳裏。

 母さんと彼女は、抱き合うことも、微笑むこともせずに、間合いを取っていて、
互いに顔を見ることも、せずに何かを話していた。
母さんが、窓辺にいる俺に気付くと、慌てたように、俺の居る家に向かってきたのが見えた。
カタカタカタっと、玄関を開けて家の中に入るなり居間で迎えた俺に…
「帰りましょう!!」 と、大きな声の母さん。

「えっ? 何っ?」 と、驚く俺。

 母さんは、居間へは上がろうとはせずに、俺を睨むように、玄関の中で居間に立つ俺に、
半ば、怒りをぶつけるように、帰るのよ! そう言うと、俺の返事を待っていた。
「ちょっ! ちょっと待ってくれよ! 突然来て帰ろうたって…」 と、うろたえる俺。

「アナタ達、まさか!!」 と、母さんの、後ろに下を向いて佇む彼女を見た母さん。

 母さんの顔は、見る見る間に変わり、まるで般若のように目を吊り上げ、
俺と、彼女を何度も、見回した…
「ちょっ 何考えてんだよぉ!」 と、母さんの表情に驚く、俺。

「突然、押し掛けてきて! どう言うつもりなんだよ! 恥ずかしいだろう!」 と、俺

「取敢えず、今夜は遅いですから、ここへ泊まられては如何ですか?」 と、彼女。

「アンタの指図は受けないわ!!」 と、後ろを振り返り彼女に言う母さん。

「ちょっと、どう言うことなんだよ! 二人は仲良しだったんじゃ!」 と、俺。

「仲良し?! この女に聞いてみなさい!」 と、怒りをぶつける、母さん。

「あの… 娘が病気で寝ていますから、静かに…」 と、後ろから母さんに話す、彼女。

「とにかく! 落ち着けよ! 母さん!」 と、母さんを、宥める俺。

 母さんは、下で待っているタクシーに携帯電話を掛けると、俺の居る居間へと上がった。
彼女は、外から玄関を静かに閉めると、自宅へと戻って行った。

「何であんな、物のいい方すんだよぉ! あれじゃぁ、彼女が!!」 と、怒る俺。

「彼女?? やっぱり、何かあったのね!」 と、俺の言葉に酷く動揺する、母。

「全く! 直ぐに帰るって言うから待ってても帰って来ないし!」 と、不機嫌な母。

 俺は、母さんに、ここでの滞在が伸びたことを素直に、詫びた…
冷蔵庫から、ビールを持って来て、飲干す母さんを初めて見た、俺だった。

 母さんは、お酒は身体に毒だと言って、一滴も口にはしていなかったはずなのに、
この時の、母さんは、俺の知っている母さんとは、別人のように見えた。

 ビールを煽るように飲干す母さんは、何度も俺と彼女のことに振れては疑いを深めた。
母さんの、俺と彼女へ向けられた疑念は、拭い切れる物ではなく、
何度も、衝突を繰り返した… 目の前に居るのは、俺の知っている、母さんではなかった。

 酔いの回った母さんは、奥の部屋の引き戸を開けて、中に入った。
俺は、うっかり、酔いの所為もあって、引き戸を開けると、母さんは酷く俺を怒った。
母さんは、スカートを脱ごうとしていた…

 小さい頃から、何故か母さんは、自身の着替えの場所に俺が居ることを極端に嫌い、
俺の前では、絶対に着替えたりしなかった。

 今にして思えば、たかが小学低学年の子が、母親の着替える場所に居たからって、
大声を出して、締め出す必要も無いだろになんて、思うことも多々あったが、
異常なほどに俺を遠ざける理由が見当たらなかったのも事実だった。

 隣の部屋で、眠っている母さんの寝息が、戸の隙間から聞こえる…
俺は、母さんの寝息を聞いたことがなかった… 何故か、嬉しい気分に浸った。

生まれて初めて、聞く母さんの寝息を子守唄にして、俺はいつのまにか、眠ってしまった。


◆◆◆◆◆12番目



 俺が目覚めたのは、誰かの口論する声が耳に飛び込んできたからだった。
飲みすぎたのか、頭がボーッとして話しの声の方向が定まらないはは起き上がると、
玄関の、方からの声がしているのに、気付いて、重い身体を引き摺った。

 玄関の内戸を開け、玄関へ降りようとした時だった、外戸の上の窓の外に、母さんと、
彼女がの二人が、数メートル先で話をしているのが、見えた。
話しと言うよりも、母さんが一方的に、大人しい彼女を追い詰めるように見えた。
じっと、母さんの大声に耐えている彼女がかわいそうで居た堪れない気持ちに俺はなった。
何を話しているのか、興奮する、母さんの声は解る物の、内容がわからない…
「約束」 「真実」 「忘れる」 「終ったこと」 「今さら」 「人殺し」 「返して」

 途切れながら、聞こえた言葉の数々だったが、俺には何のことだか、解らない。
彼女は、ただ、ひたすら母さんに、言い寄られていた。
風が、母さんのスカートの裾を靡かせる… まるで彼女から引き離そうとするように、
裾の方向を見ると、少し先の方に心配そうに見詰めるセーラー服姿の次女の姿が…
次女を見た瞬間、俺は、家から飛び出して、次女の方へ走っていた… 
「さぁー 入ろう!」 と、彼女の家の方へと引き寄せた。

 俺は、意味も解らず、ただ、次女の腕を掴んで彼女の家へと引っ張った。
俺が外に出た瞬間、母さんの大声は止まり、次女に駆け寄る俺を二人が見つけた瞬間、
彼女が次女と俺に駆け寄って来た! 彼女はフラッ~っと俺の中へと倒れこんだ。

「俺は、側で様子を覗う母さんを、生まれて初めて睨み付けた…」

 次女を、家に運び、布団に寝かせると、俺は隣の家にいる、母さんに詰め寄った!
何を、怒っているのか、そして何故、彼女を責めるのか、何で懐かしい人との再会に苛立つのか。
 母さんには、さっきまでの興奮は感じられなかったが、何かを思い詰めたような表情を、
崩すことなく、ただ黙って俺から顔を背けつづけた。
「もう、お母さんを責めないで…」 と、玄関に彼女が立ち、おれに語りかけた。

「お母さんも、辛いのよ… 解ってあげて…」 と、着物姿の彼女が俺に話す。

「だから、だから聞いてるんじゃないかぁ!!!!」 と、大声を上げた俺。

 俺は、玄関に立って、俺を止める彼女の方を見ながら、母さんを見た!

「何が! 何があったんだよ! 昔、何が! 何があったんだよ!!!」 と、怒鳴った俺。

 玄関に立つ、彼女も、俺の前に座る母さんも、黙ったまま無言でいた。
俺は、母さんの両肩に手を置いて、真ん前で揺すって聞いたが、何も得られずに、
無言の母さんから離れ、玄関に立つ、彼女の前に正座して彼女を見詰めた。
「教えて下さい! 父さんたちの約束って何なんですか!!」 と、下から彼女を見上げた。

「俺が聞いていた内容とは、違うのはもう、解っています! 真実を教えて下さい」

 俺は、正座して、彼女の目を見詰めた…
彼女の目から、涙が滲んで流れ落ちた時だった!!
「駄目ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
 突然、彼女を止める、母さんの涙声。

 母さんの、大声に彼女は涙を拭いて、玄関から出て行ってしまった…
「約束」「真実」「忘れる」「終ったこと」「今さら」「人殺し」「返して」って何っ!!
「母さん! 教えてくれよー! 一体、何があったんだよー!!」 母さんに詰め寄る俺。


 涙を流す母さんに、俺の声は届いてはいなかった……………



◆◆◆◆◆13番目



 母さんは、俺に何も語ることなく、帰ってしまった。
母さんは、帰り際に、彼女の家で、テーブルに差し向かいで何かを、話し合っていて、
俺は、席には加えてもらえなかった… もしかしたら俺は母さんの子じゃないのかも…
そんなことも考えてしまったが、それなら、それで、こんなに事を荒立てる必要もなく、
ハッキリ言ってくれてもいいのに… そんな思いも俺の中には、芽生えていた。

 俺も、もう20歳、母さんと彼女を見れば、何となくだが、思えるのも当然のことだし、
母さんが、帰った後で、俺は隣の彼女の家を訪ねた…
彼女は、俺と目を合わせようとしないばかりか、俺を避けるようになっていた…
「もう… 帰られてはいかがですか?」 と、目を合わせずに俺に言う、彼女。

「本気で… 本気で言ってるの?」 と、彼女に問う、俺。

「えぇ、もう、約束は果たされました」 と、俺に背を向けて小声の彼女。

「お願いです! 本当の事を教えて下さい!!」 御茶を入れる彼女に詰め寄る、俺。

「話すこと、ありません… もう…」 と、御茶を入れる彼女。

「俺の… 俺のことなんですか!」 と、彼女に聞いた、俺。

 御茶をいれ終わった彼女は、俺と目を合せようとせずに、テーブルに置くと自らも、
その前に座った… 俺のことなど見もしない彼女に、俺は困惑した。
「お願いです! 俺に… 俺に本当のことを…」 俺は、彼女の前に土下座した。

 彼女は、俺のことなど見もせずに、御茶を飲んでいた…
俺は、冷たい態度をする、彼女に心なしか、苛立ちを覚えていた。
「こんなに、こんなに、頼んでるのに!」 と、土下座しながら彼女似言う俺。

 俺が、頭を上げると、彼女が何かを言おうと、俺の方を向いた…
咄嗟に、俺は、彼女の両肩に手を置いて、彼女を揺すっていた!
「お願いです! 教えて下さい!」 俺は必死で頼んだ。

 俺が彼女の肩を揺すった弾みで、バランスを崩した彼女が、床に仰向けで倒れた。
支えるように、俺も彼女に多い被さるように、一緒に倒れた…
彼女の顔の真上から、口付けをしていた… 抵抗した彼女の両手を押さえて口付けした。
着物姿の彼女の裾から、白い脚が… 俺は手を彼女の脚に置いて奥へと滑らせた…
その、瞬間、彼女は何かに気付いたように凄い形相になって激しく抵抗した…
「ヤメテ!! ヤメなさい!! ヤメルのよぉー!!」 と、身体を重ねる俺をいさめる彼女。

「俺のこと! 俺のこと嫌いなんですか!嫌いなんですかーーー!!」 と、俺は叫んだ。

「アナタは、彼じゃない! アナタと彼は違う! アナタは彼じゃなーい!!」 叫ぶ彼女。

 俺は、叫ぶ彼女を押さえつけて、彼女の胸元を広げた!
「ヤメテー!! ヤメテー!! アナタは! アナタは! アナタはーーー!!!」 叫ぶ彼女。
 彼女は必死に、抵抗して叫んだ!! 彼女の胸が肌蹴られた瞬間だった…
「アナタは! アナタは、私が生んだ子なのよおぉぉぉーーーーーーー!!!」 泣き叫んだ彼女。
 何っ!! 俺は頭の中が、真っ白になってしまった…
今、俺の下にいる彼女が、俺を生んだ??? そんな… そんなバカな!!
彼女が、俺の母親?? そんなバカな!! そんな… そんな馬鹿な! そんなこと…

 俺は全身がブルブルと震えた、全身が振るえ、気付けば俺は彼女から離れ、
壁までで後退りして、両手で、頭を抱えていた…
目の前にいる、彼女が俺の母親?? そんな馬鹿な! 俺は母親を… 母親を…
自分の母親を自分のものにしようとしていたなんてーーー!!
そんなことって… そんなことってあるのかー!! 俺は混乱していた。

 身体の震えが止まらない… じゃぁ! 俺と次女は兄妹なのか!! 冗談だろう!!
俺は自分の妹と交わったと言うのか!! そんな馬鹿な!! 
「教えて下さーーーーーーーーい!!」 俺は、目の前の彼女に叫んでいた。

「俺は! 俺は… 自分の妹とぉーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
 彼女の前で立ち膝をして、両手を広げ、叫んでいた、俺だった。



◆◆◆◆◆14番目



 俺は、耐え切れずに彼女の家を飛び出していた…
自分の産み親に、関係を迫った俺は外道以外の何物でもなかった…
俺のショックは大きかった、自分が母さんの子ではないのは、薄々感じていたが、
まさか、彼女が俺の産みの親だったなんて! 
でも、何故だ! たったそれだけのことで、母さんと彼女があんなにいがみ合うなんて!
一体、何があったと言うんだ! 父さんや母さん… そして彼女と亡くなった旦那さんに。

 俺は、魂が抜けたように、家の前の道を下っていた…
途中、左に行けば下へ降りられる道と右側へ行く道との、三叉路(さんさろ)に差し掛かり、
俺は何気なく、フラフラと右側への道を歩き出した… 
私有地の看板があったものの、俺は構うことなく、進んでいった。


 道は所々から、草が生い茂り、僅かに人の歩いてるであろう獣道のようになっていて、
木々が生い茂り、左側は急勾配の傾斜になっていて、下の様子が殆ど見えない状態だ。
右側は、彼女の家に通じているであろう、傾斜地で樹木が生い茂っていた。

 200メートルくらいだろうか、振り返ると、入った場所は左右のカーブの所為で、
殆ど、見えなくなっていた。 所々に何かの作業のためなのか都会住宅地の中の公園ほどの、
綺麗に草の刈ってある広場が点在していた。

 倒木が何本か並べられている…
俺は、そこに腰を降ろすと、空を見上げた… 右奥の方に何か巨大な看板が見えた。
看板に向かってフラフラと歩き出す… 徐々に近付く、看板は傾斜地に横に大きく伸びていた
50メートルくらい、手前にくると、書いてある文字がハッキリと見えて来た。

 ○○木材株式会社…
俺は、目を大きく見開いた! まさか! そんな! 偶然だろ? 

 そこには、彼女の苗字が書かれていた…
看板を見て呆然と立っていると、突然、後ろから声を掛けられた…
弱弱しい声に振り向くと、カマを持った麦藁帽子をかぶった、老婆だった。
山菜採りをしていたらしい、様相の老婆だった。

 老婆は、見慣れぬ俺に興味を持ったのか、近付いてきて、看板を指差して、笑った。
「あんれは、もう、ずっと昔にあった地元の明主さんの看板だでば~」 と、老婆。

「アンタさんも、この山を買うのに見にきただか?」 と、汗を拭きながら聞く、老婆。

「この上に家があったのですが、何か関係あるんですか?」 俺は、老婆に聞いてみた。

「あぁ~ あれは、明主さんの息子さんの、奥さんだでば~」 と、笑む老婆。
「気の毒になぁ~ あんな若えのに、早ぐに旦那と死に別れての~」 と、看板を見る老婆。

 俺は老婆に、彼女や親父たちのことを、ぶつけてみた…
すると、老婆は突然、立ち上がって…
「余所者さおしえることはねぇ~」 と、山菜の袋を持つと山の中へと入ろうとした。

「教えて下さい! 教えてー 教えて下さい!」 俺は、老婆の前に立ち塞がった。

 何かをしっている様子の、老婆に俺は、俺の親父や御袋もここにいたことを説明した。
「おおぉー おおぉー♪ アンタさんかー♪ アンタさんが、あの時の子供がー♪」
 老婆は、目を大きく、見開いてニコニコ笑顔に戻り傾斜地の日陰に座った。

「教え頂けるんですね!!」 俺は、老婆に、せっつくように、尋ねた…

 老婆は、俺が生まれた当時、彼女のいる、長屋に住んでいたと言う…
いっぱいあった、長屋は取り壊され、残ってるのは、彼女のいる長屋だけの話しから始まり
明主さんと、呼ばれた由来や大昔の話し、そして、漸く俺の生まれた時のことになった。

 ところが、俺の生まれた時のことになると、突然、老婆は口を噤んでしまった…
それどころか、終始、微笑んで昔話を語っていたのに、意気消沈したように俯いてしまった。

「うんにゃ! この先は、オラの話すことじゃねぇーな!」 と、俯いた老婆。

 老婆は、そう言うと、急に立ち上がって山の中へと消えて行った…
待ってくれと、頼んでも、今度は振り向くことも無く、静かに草木の中へと姿を消した。

 彼女の旦那さんは、地元の明主、解り易く言えば、有力者と言うことか…
その息子が、彼女の旦那さん? 俺は彼女の子? じゃあー 俺の父親は?
えっ? じゃあ、俺の父親は、彼女の旦那さんなのか? それじゃ、何で俺は向うに?
養子なのか? 俺は? そんなこと、隠す必要があるのか? 何故、みんな隠すんだ?

 やっぱり、彼女に聞くしか… 聞くしか無い… だいいち、彼女が俺の産みの親なんて…
信じられるか! 俺は何度も自問自答を繰り返した。
産みの親が、俺の妹と男女の中にするはずないだろうに… そんな親がいるものか!
彼女は、もっと隠しているに違い無い… 絶対に何かを隠している。
俺の疑念は、彼女へと向けられつつあった。

 俺は、彼女の家に戻ると、彼女に老婆の話しをして聞かせた…
彼女の顔は、真っ青になって突然、倒れてしまった。
俺は、奥の部屋に布団を引くと、彼女を寝かせ、その場を離れることはなかった。

 この人が、俺の母親であるはずがない… 彼女は嘘をついている…
俺は自分に言い聞かせながら、彼女との初めての口付けを思い出していた。

 同時に、次女とのことも思い出していた…………… 


◆◆◆◆◆15番目



 彼女は精神疲労からか、ずっと眠り続け、そろそろ子供達のかえってくる時間になっていた。
俺は、そっと、彼女の側を離れ子供達の声で彼女が起きないように、家の前で、
子供達の帰りを待っていた。

 15分ほどして、向こう側に、こちらに来る次女と三女が見えた。
俺は、立ち上がると、二人の側へと歩み寄った… 気分の優れない彼女が横になっている、
そう、告げると二人は顔色を変え心配そうに佇んだ。

 俺は、次女に聞きたいことがあると、三女に次女のカバンを頼んでだ…
三女は彼女のことが心配だったのか、カバンを受け取ると慌てて家の方に駆けて行った。

 セーラー服姿のままの彼女をと連れ立って、家から遠ざかるように次女達が来た道を、
戻って道を下った… 家が見えなくなる頃、彼女の手が、俺の手に重なった…
俺は恥ずかしそうに、俯く次女を可愛らしく思っていた。

 手を繋ぐ彼女は、時折、甘えるように俺の肩に頬を寄せた…
少し、歩くと次第に周りの木々も開けて来て、先の方に三叉路が見えて来た。
三叉路を右に少し行くと、右側の斜面を守るように石段が見え、俺はそこへジャンパーを、
広げて、彼女を座らせた… 頭の上の木々が風に時折揺れ、影で辺りを覆い、木漏れ日が、
影を打ち消すように辺りに光を撒き散らした。

 次女は俺の左側に座ると、静かに俺の右肩に頬を寄せた…
風に揺らめく彼女の髪の毛が、女の子の匂いを俺に届けては消えるを繰り返した。

 暫く、無言の二人……………
「話しって何?」 と、俯きながらの、次女。

 俺が黙っていると…
「もしかしたら♪ お母さんのこと… 好きになっちゃったの?」
 と、風に掻き消されそうな小声で彼女は、少し強く俺の右手を握って来た。

「平気だよ♪ それでも… お母さん… 綺麗だし…」 と、時折、声を詰まらせた彼女。

 彼女が何故、そんなことを言うのか、内心驚いていた俺だった。

「お母さん… 何も言わないけど、小さい時に近所のおばさん達が、話してたのを、
 聞いちゃったこと、あるの~♪ 私… お母さんの本当の子じゃないの…」
 と、無理して、微笑んでは声を詰まらせる、次女。

 俺は、次女を抱き寄せていた…
何も、かける言葉が見付からずに、ただ、黙って次女を抱き寄せていた…
次女は、無言のまま俯いて涙を零していた。

 俺は、次女に何も、聞けなくなってしまっていた…
それどころか、次女に申し訳ない気持ちと、話が真実だとすると、何処かホッとしていた。
俺は、次女から聞いた話を口外しないと固く誓いを次女に立てた。

 俺を生んだと言う彼女… 次女は彼女の本当の子じゃない… 長女は自殺…
彼女の旦那さんは、有力者の息子… 俺の親父とは無二の親友… 母さんは彼女を憎んでいる
彼女は母さんからの憎しみに耐えていた… 俺の頭の中はグチャグチャになっていた。

「あんれ~ まぁ~♪ いいのおぅ~♪ 兄妹仲良くでぇ~♪」 と、突然右側から声。

 振り向くと、さっき出あった老婆が右側の道からこっちに来ていた…
俺は、近付く老婆さえも、気付いていなかった…
そして、老婆の言葉が次女の耳に!!!

 突然、立ち上がって放心状態に陥った次女!
「兄妹は、やっぱり仲良しが一番じゃてなぁ~ アッハハハハ~♪」 と、嬉しそうな老婆。

「兄妹… 兄妹???」 と、次女が呟いた。

「あんれ? まんだ、名乗りしてながったんがぁー??」 と、驚く老婆。

 老婆は、俺と次女の只ならぬ様子に、驚いて逃げるように左の方へ足早に消えた…

「ねぇ! どう言うこと!! ねえー!!!」 と、突然、俺の方を向いて怒鳴った次女。

「あっははは~♪ 何言ってんだろうなぁ~♪ 全く♪」 と、必死に誤魔化す俺。

「トボケないでーー!!」 と、両手に拳骨を握り締め、俺を見詰めた次女。

「だから… だから、知らないって! 初めて会ったんだぞ! 俺は!」 と、俺。

「お婆ちゃん、言ったもん! 名乗りしてないのかって!!」 と、顔を強張らせる次女。

 俺は、次女に怒って見せるしかなかったものの…

「ねえぇー! 教えてよぉー! どう言うことなのぉー!」 と、俺に詰め寄る次女。

 俺は、怒り露にする次女を黙って、正面から抱き寄せて離さなかった…
次女は大声で怒り、そして泣いて、俺の肩を何度も叩いた…
「この子に真実は言えない…」 と、俺は心の中で呟いた。

「いいもん! どうせ、私には… 私には時間なんて無いから! いいもん!」
 と、暴れながら次女は俺の腕の中で泣いた。

「時間?? 時間が無いってどう言うことだ!」 と、俺は腕の中の次女に聞いた。

「離してー! 離してーー! アンタなんかに関係ないでしょー!!」 と、叫ぶ次女。

「いい加減にしろ! バシンッ! 俺を信じろ!」 と、次女を引き離して頬を叩いた俺。

 次女は大粒の涙を零して、俺の中に顔を埋めた…



◆◆◆◆◆16番目



 「母さん、俺… 母さんの子じゃないんだろ…」 と、言いたかった俺。
 無人駅の中にあった、公衆電話から、家に電話した俺は、翌日帰ることを、母さんに告げ、
電話を切ると、もうこのことには触れず置こう… そう決心した。

 俺は、彼女の家に行くと、母さんに電話したことを、彼女に告げた。
先に帰った次女は、奥の部屋に入ったきり出ては来なかった… 次女の顔を見れば、
何かあったと、察しの付く母親の彼女は、俺には何も聞こうとはしなかった。
結局、俺がここに来なければ、誰も傷つけることも、苦しませることも無かったことを、
改めて、俺は悔いた。

 隣の家で、荷物を纏めていると、彼女が入って来た。
「もう、私たちの前には一生、来ないで頂けませんか… それと、ここでのことは、
 忘れて頂きたいのです、全てを…」 と、俺の後ろから話し掛けた彼女。

「俺は、本当は誰の子なんですか?」 と、荷物整理の手を休めて後ろの彼女に話す俺。

「話しは、あの子(次女)から聞きました… あの子も気付いていたんですね…
 確かに、あの子は私の娘ではありません、でも、そのことと、アナタのことは、
 関係のないことです、それから、あの時に私が言った… アナタが私の子だと言う、
 あれは、私が自分の身を守るために、咄嗟に口から出た事、余計なことで悩ませました、
 心から詫びております。」 と、後ろ向きの俺に、落ち着いた口調で話す、彼女。

 彼女の口調は、冷たく俺のウナジは凍りつきそうだった…
「あの、御婆さんの話しは何ですか?」 と、後ろ向きに彼女に聞いた俺。

「あの方は、痴呆症にかかっている人です。 ここに住んでいたことはありません。
 駅の裏に住んでいて、時折、ああして思いついたことを話して回るんです…
 迷惑しているんです。それに確かに、私の主人の実父は、○○木材の経営者でした、
 それは、間違いのないことです、それに、アナタのお母さんとは、昔からそんなに、
 親しいわけではなかったし、親しいのは、亡くなった主人と、アナタのお父さんで、
 私は、あまり親しくはありませんでした。」 これが真実です。

 彼女は冷たい口調で淡々と話すと、その場を離れようとした。
「待てよ! そんな作り話を信用しろって言うのか! じゃぁ! 父親同士の約束って、
 約束って、何だよ! 何のために、あんな約束したんだよ!」 と、怪訝な態度の、俺。

「あれは、ただの戯言、それはアナタのお母さんも知っているわ…」 と、穏やかな彼女。

「じゃー! じゃー! 母さんは何で、あの時、泣いてたんだ!」 と、俺。

「それは、私には解りかねます」 と、彼女。

「俺は、見たんだ!! 下へ向かう道の左側に草木に覆われた、祠(ホコラ)の中を、
 あの中にあった、古い手鏡の裏を…」 と、後ろにいる彼女の方へ向きを変えた、俺。

 彼女は、一瞬、ハッとした顔を俺に見せたものの…
「アレは、私が幼い頃に書いたものです… 最初はアナタのお父さんの名前、そして主人、
 女なら誰でもあることでしょう…」 と、照れもせずに、淡々と語る彼女。

 その時だった!
「お母さん!! 本当のこと! 本当のこと教えてあげて!! お願いだからー!!」
 玄関に突然、入ってきた次女が、こちらを向く彼女の後ろで叫んだ!

「このままじゃ、彼が可哀相よぉ!! 何も解らないまま帰しちゃうなんて、酷すぎるわ!」
 俺の目の前にいる、彼女に後ろから抱き着いて、揺さぶる次女。

「バシッ!」 後ろの次女の方を向くと、突然、次女の頬を平手打ちした、彼女。

「アナタの口を挟むことじゃないのよ!」 と、声を荒げた、彼女。

 次女は、彼女似平手打ちされると、口元を押さえて、涙ながらに、その場を去った。
「一体! 一体、どうなんてんだよーーーーーー!!」 と、初めて怒りを表した、俺。

「お母さんを虐めちゃダメーーーー!!」 突然、入って来て彼女の前に立ち塞がった三女。

 三女は、両手を一杯に広げ、俺と彼女の真ん中に、立ち塞がって、俺を鋭い目で睨んだ。
「お兄ちゃんのバカー! 何で、お姉ちゃんや、お母さんを虐めるのよー!」 と、三女。

「ここに… ここに、来るべきでは、無かった…」 俺は、三女と彼女の前で両手を着いた。

 愕然とする、俺の頭をポンポンと小さい手が、あやす様に撫でた…
三女の小さい手が、俺の高ぶった心を落ち着かせた。

「ねぇ、お母さん! よく解らないけど、お兄ちゃんに、教えてあげて~♪」
 三女は彼女の右手に両手で掴まって、彼女を引っ張った。

 彼女に引かれて、全身を揺らされた彼女の顔は、優しい母親の顔に戻っていた…
これ以上は、もう何も聞けない除去ウニなっていた。

 彼女は、軽く頭を下げると、三女を連れて玄関を出ていった…
荷物の整理をし終えた、俺は部屋の掃除をした。 お世話になった、部屋を雑巾がけして、
知りたいことは山ほどあったものの、母を庇い無邪気に俺の頭を撫でた三女には勝てない…
そう思うと、何処か心に余裕が生まれた… そんな気分だった。

 雑巾掛けを終え、窓をと側に依ると、バイクの音が聞こえた…
郵便屋さんか? そう思って窓の外を見ると、初めて見る黒いバイクが向かって来た。
バイクはドンドン近付くと、慌てたように隣に入って行った。

 バイクが戻ろうとすると、慌てて彼女がバイクの人を止め、俺のところへ駆けつけた。
彼女が、慌てた様子で、近付くと、俺に電報を手渡して中を見せた!

 「母、危篤… すぐ来るように ○○市立病院」

 俺は、彼女に後ろを押されるように、バイクの後ろに乗せられると、駅を目指した。

「何故? どうして? 何で、自殺なんか!!」 俺の頭は混乱していた。



◆◆◆◆◆17番目



 俺は、母さんのいる病院へ、向かうために無人駅へやってきた。
一日に何本も来ない田舎の駅で、じっと列車のくるのを待っていた… あと、40分もある…
「くそっ! なんてことだ!」 ベンチに座り膝を打ちつけた俺。

 何度も、何度も時計を見るものの、一向に針は進まない… そんな時だった。
「ピーポー ピーポー ピポー」 と、近付くサイレンの音。

 何気なく、音の方を見ると、ミニパトがこっちへ近付いてきていた。
何か、あったのかと、ベンチから立ち上がると、急停止したミニパトから男性警官が見え、
こっちに、向かって来た。

 俺は、自分の辺りを見回したが、無人駅には俺以外にだれもいないことに気付いた。
警察官は、真っ直ぐ俺の方へ駆け寄ると、突然、俺の腕をガッと掴んだ…
「乗れ! 駐在所のもんだ! はやぐ、乗れ!」 と、俺を引っ張った。

 彼女が、駐在所へ電話で事情を話して、大きな駅まで乗せてくれるよう、頼んだと言う…
生まれて初めて乗る、ミニパトは、屋根の上でピカピカと回転灯を回しサイレンを鳴らした。
「アンタの母親、危篤だって言うでねぇが! すんぱいだのぉ!」 と、警察官。

「大きな、街さいげば、電車さ乗れるがら、まんず、安心しろ」 と、俺を励ます警察官。

 ミニパトは、彼女の家へ向かう道を、ひたすら走り続けると、大きな国道へ…
国道へ入ると一般車が、左に道を避けパトカーを通し、警察官もマイクで道を開けるよう、
何度も、周囲に緊急を伝えていた。

 警察官は、頻繁に時計を見て、もう少しで着くからな! 着いたら、電車に乗れるからと
俺を気遣ってくれていた。

 俺は、警察官のおかげで、何とか、街にたどり着き、電車に飛び乗った。
数時間後、母さんの入院している病院に着いた俺は、人混みを掻き分けるように走った、
エレベータは、混雑していて俺の邪魔をした。

「階段! 階段だ!」 と、俺は階段を走った!

 ようやく、母さんの居る部屋を探して、部屋に入った時、俺は信じられない光景を、
目の当りにした。
静まり返った、部屋には、治療のための器具も何も、なく、そこには、
白い布を顔にかけられた、母さんが横たわっていた…
「○○時○○分でした…」 医師の言葉が、俺の頭を何度もコダマした。

「母さん! 母さーん!! 何で… 何でだよぉーーー!!」 俺は叫んでいた。

 
 親戚が来て、葬式を済ませ、母さんは父さんの墓に入った。
あれから、数ヶ月、俺は一人で、母さんと暮らした家に居た… 彼女には葬式には、
来ないで欲しい、そう伝えた自分が、何故、そんなことを言ったのか、解らないまま、
時は流れた…

 暑かった、夏は過ぎ去り、落ち葉の舞う季節は俺の心も身を凍らせた…
まだ、居るのだろうか… 俺の心から離れない、あの人は… 会いたい… あの人に…
「母さん! 行ってくるよ! 母さんを苦しめ続けて死に追いやった真実を探しに…」
 俺は、仏壇の母さんの位牌に、手を合せると固く誓いを立てた。

 数日後、俺は、レンタカーを借りると、そのまま向かった、あの人の下へ…
「母さん! お疲れ様! 今度は俺が苦しみを背負う番だよ! 例えどんな真実が、
 俺の前に、たちはだかろうと、俺は前に進むよ! そして、そして…」 俺の心。

 俺は向かっていた…
地図を頼りに、車を走らせる俺は、何故か落ち着いていた。
彼女には、連絡とっていない、なぜかは、自分でも解らなかった… 

 真っ暗な道で出会う車もなく、細い道のガタガタと言う音いがいに、俺の耳には届かない。
カーブの連続する山道は、俺の受入を拒否し続けるように、何度も押し寄せた。

 そして、俺は、朝日に照らされた無人駅の前に到着した。
季節は変っているのに、まるで昨日のような光景に、俺には見えていた。
俺の人生は、この無人駅を降りたことで、大きく変わってしまった。
ただの、戯言だと気軽に考えていたことが、こんなにも大きなことになるなんて、
無人駅に降りた時、俺は考えてもいなかった。

 さぁ、行こう… あの人に会いに…



◆◆◆◆◆18番目



 車のギアを四輪駆動に切り替えると、急な山道を難なく登った。
小回りの利く軽自動車は狭い山道を物ともせずに、グイグイと複雑な斜面を捉えて、
力強く、前へと車体を進ませていた。

 木々からは、葉も落ちて両側の緑も焦げ茶色に変わりつつあった。
暑かった、夏とはまるで景色も違っていて、100メートル先まで見えるような透明感は、
車を止めることなく、スムーズに俺を彼女の元へと運んだ。

 左右に分かれる三叉路に来ると、心なしか、焦りも俺の中に感じられた。
ハンドルを右側に切ると、車の傾斜計は35度を指し、大きく前後に傾き、俺を緊張させた。
傾斜計が激しく、昇降を繰り返し車体を左右に揺らせながら、前へ前へと進んだ。

 急な傾斜地を登った瞬間だった…
左右に、大きく開けた場所が、目に入って来た時、俺を安心へと導いた物があった。

 彼女の住んでいる長屋が、まだ原型を留めていた…
嬉しさが、自然に込上げてくる、郵便屋さんのバイクの跡を辿りながら、少しずつ進む。
近付いて来る、彼女の家が俺を興奮させた。
「会いたい… 会いたい… 早く彼女に…」 込上げて来る彼女への思い。

 車を彼女の家の前に止めると、逸る心を抑えて、エンジンを切る、そしてドアを開けた。
降り立った、彼女の家の前の地面から、彼女の温もりが感じられる… そんな気がした。
家の前に立ち辺りを見回すと、端から順に窓が外され、残っているのは、彼女の家、
そして、俺が寝泊りしていた家の二軒だけだった。

 突然、玄関のカーテンが開き、カタカタと玄関の引き戸が開いた…
「来ると… 思って、待っていました…」 と、何処と無く瘠(やせ)せた感じの彼女。

 立っているのも、やっとと言う感じの彼女は、俺の顔を見るなり、弱弱しい声で、
話し、軽く頭を下げると、懐から手紙を俺に差し出した…
「これは、アナタのお母さんから… 私宛に届いた手紙です」 と、彼女。

 封の切られていない手紙だった…

 彼女の家に入ると、まだ早い時間だと言うのに、三女が起きていた。
言葉を交わすこともなく、三女は、俺の顔をチラッとみるなり奥の部屋に入ってしまった。
壁に、飾られていた額に入った写真も、飾り物も全てが取り払らわれ、剥き出しになった、
壁が時の流れを感じさせていた。

 御茶を入れてくれる、彼女の表情は固く、まるで何日も寝ていないかのような表情だった。
引き戸の奥の部屋から三女のすすり泣く声が聞こえたと思うと、スーッと引き戸が開いて、
「お兄ちゃん! お姉ちゃんが! お姉ちゃんがぁー!」 と、俺の前に駆け寄った三女。

 三女は、俺の前に来ると、何かを差し出した…
正座して、両手を膝に置きジーッと俯いている彼女はこちらを見ることもなく、
三女が大きな涙を零して、俺に差し出した物…
「お姉ちゃんだよ… お姉ちゃん… 死んじゃったの… お兄ちゃ… お兄ちゃ…」
 涙で声を詰まらせ必死に、俺に見せた三女。

 三女が、俺に見せた物は、次女の位牌だった…
俺に、位牌を手渡すと、三女は大声で泣き叫んで、奥の部屋へと姿を消した…
布団に潜ったのか、鈍い鳴き声が、奥から聞こえて来た。
「白血病だったんです…」 震える小声で、俺に話し掛けた彼女。

「アナタと会った時は、家で過ごすことの出きる最後の時だったんです…
 あの子にとっての人生は、すごく短くて… でも、アナタと出会え、あの子は幸せでした、 
 あの子は、何のために生まれて来たのかって… あの子が書き綴った、ノートが…
 最後は、病院で… 今日は彼、来るかな~ 明日かな~ もしかして、もう向かってるかも 
 毎日、毎日、そう言って、最後はアナタの名前を呼んで、息を引取りました…
 あの子にとって、短い青春と、人生でした… あの子は、私の子でないことも、
 命が限られていることも、全て承知で、誰も恨むこともなく… 死にました…」
 
 涙をポタポタと零しながら、声を詰まらせ、俺に話し聞かせた、彼女。

「もう、全てを話さなければ、なりませんねぇ…」
 苦悩に満ちた表情で、唇を震わせ、両膝の上で手を握り締めた、彼女。


◆◆◆◆◆19番目



 朝食後、三女が学校へ行くの待っていると、彼女が外へ出て何かをしていたのが見え、
窓の外を覗くと、自転車を出して、サドルのところを拭いていた。
三女に聞くと、今日は迎えのバスが来ない日とかで、自転車で行く日だと言う…
それならと、俺が送迎してやるよと、言うと寂しげだった三女も、少しだけ笑みを見せた。

 外に出た、三女が彼女に嬉しそうに、話し寄るのが見えた…
次女の死を聞かされ、落ち込んでいた俺にも、ホンの少しだが笑みが戻った気がした。

 時計を見て、外へ出て彼女に場所を聞く… 行ってきますと伝えるように彼女の目を見て、
次女を乗せ、シートベルトを着けて、車を発進させる… まるで、彼女の家族になったように
草むらを漕ぐタイヤのカサカサと言う音が、向かって来たときとは違っていて心地良かった。
「よーし♪ いっかー♪ ここから凄い急になるから、しっかりと掴まってろよ♪」
 目をキラキラさせて、薄笑みからワクワク顔の少女に変った、三女に意気揚々と伝えた俺。

 三女は、しっかりと目の前に安全ハンドルに両手を添え、車が傾く度に、歓声をあげ、
左右に揺れる度に、少女の声を車内に響かせ、満面の笑みを俺に見せた。

 登りと違って、大喜びする三女とは裏腹に、正直なところ、俺はドキドキしていた…
いくら、登ったとは言え、下りは登り以上に俺を恐怖に陥れた。

 俺を恐怖に陥れた下り坂も、ようやく終わり、俺を恐怖から救い上げた…
車道に出ると、さっきまでとは違って、激しい音は消え去り、静寂が二人を襲った。
三女も、静まりを見せ、何を話していいやら、俺には何も浮かんでこなかった。
そんな時、三女が、運転する俺に助手席から語りかけてきた…
「お兄ちゃん!」 と、何か思いつめた表情をする、三女。

 チラッと、三女を見ると、両膝に両手を置いて、俯いていた…
「どうした? 話してごらん…」 と、三女に言葉をかけた、俺。

 三女は、何かを思いつめ、それを乗り越えたように、俺に…
「お兄ちゃん! 聞いて! 聞いてほしいことが…」 と、一瞬、俺を見た三女。

 三女は、何かを躊躇っているように思えた… 
「なぁ~! 何でも言いな♪ 気兼ねするなよ♪」 と、三女に微笑む、俺。

 車を真っ直ぐ進め、押しボタンの信号機を左折した辺りだった…
「お母さんが! お母さん… 夜になると、誰かと話してるの… 夜中になると、
 先月くらいから、誰も居ないのに、誰かと話しているの… 私が何度も、お母さんって、
 何度も、身体を揺り動かしても… 気が着いてくれないの! お母さん! 変なの!
 ねえー、お兄ちゃん! お母さん、変になっちゃたの??」 と、怯える三女。

「最初は、お姉ちゃんの幽霊かなって、おもったけど… だれか、わからないけど、
 誰かと、話してるみたいに、楽しそうに、嬉しそうに、笑うの…」 と、心配顔の三女。

「ねぇー、お母さんのこと、助けて欲しいの! お兄ちゃんしか頼める人… いないもの」
 と、身体を丸めて、下を向いてしまった、三女。

 三女の学校が、遠くに見えた頃だった…
「大丈夫さ! ○○には俺が着いてるから♪ さあ、もう直ぐだぞ♪」 と、元気付ける俺。

 俺は、三女の話しを聞いていて、もしやと思っていた…
立て続けに、彼女の周りに起きた、不幸な出来事と次女の死が彼女の心を蝕んでいるのだと。

 俺は、三女を学校の正面で降ろすと、終ったら電話するように伝え、その場から去った。
「お母さんが、夜中に誰かと話してる…」 と、俺は、三女の話しを思い出していた。

 帰り道、俺は斜面を、確認するように、ゆっくりと登ってみた…
確かに、登りも恐いが下りの比ではなく一旦、バックで少し下がって車を止めた。
地図を出して見ると、三叉路を左に行って、奥へ進むと右に出る道があることを発見し、
行ってみることに… 地図では彼女の家の裏に出れるように記載されていた。

 地図通りに、車を進めると、夏場とは違っていた…
看板の辺りまでは、歩いて来たものの、その奥が解らなかった俺は、ゆっくりと進めた。
落ち葉が、タイヤに踏まれてガサガサと音を立てる… 時折、枯れ枝だろうか、
ポキッ ボキッと音を車内に伝えた。

 鬱蒼とした草木は、すっかりと落ち葉と化して、俺に視界をくれた。
ゆっくりと、進む車が時折、草だらけの道の岩に乗り上げ、アップダウンを繰り返し、
俺を驚かせては、俺を慎重にさせた。

 止まっては、地図を見て距離を考えて進むと、少し先に右への矢印の看板が見えた。
「おお! あれだな♪」 と、俺は安心した。

 矢印通りに、車を右折させ走らせること、入り口の木々は嘘のように無くなっていて、
広さを見渡せる、高台へと出られた。

 車を止めて、降りてみると、そこは彼女と初めて、口付けをした場所だった。
蘇る、あの朝靄のかかった早朝のあの時… そしてあの瞬間… 

 三叉路に車の通行を妨げるバリケードが無くなっていたのは、
もうすぐ、あの家が無くなると言うことを、暗に俺に伝えていたのだと思う。


◆◆◆◆◆20番目



 三女を学校に送った帰り道、俺は安全な道はないものかと、地図をたよりに、
彼女の家の裏側に辿りつく道をみつけ、そこに登ると、俺と彼女が初めて口付けを交わした、
思い出としては、まだ新しい広場だった。

 そこから、眺める山々は伐採された箇所に新しく、植樹された木々が、点々としている。
人間の残した、爪あとが余にも大きく、計り知れない物のように感じられた。

 俺は、彼女との、あの一時(ひととき)を思い出していた…
地面が、向きだしのこの場で、朝靄の掛かった、あの日の朝、俺たちは靄に包まれた。

 白い足袋に草履、着物姿の彼女の、うなじを霞めた白い靄が、彼女の何かを隠していた。
むき出しの地面を必死になって、両手で撫でて涙を零した彼女の顔が忘れられない…
彼女を覆うように抱きしめた、彼女に対する想いは、今も変らない。

 俺は、彼女への想いを、心に仕舞って車に乗り込むと、彼女の待つ家へと車を進めた…
仕舞っても、仕舞っても、出で来る彼女への想い… 仕舞おうとすればするほどに、
彼女への想いが、脳裏を心を駆け巡る。

 車を彼女似家に向けて進めていると、何かが、俺のポケットから落ちた…
「何だろう?」 と、車を止めて音のする方向を見た、俺。

 母さんが、彼女宛に送った封の切っていない手紙だった…
俺は、彼女の裏の雑木林の陰に隠れるように車を止めた。

 母さんの、温もりのする手紙を拾い上げて、ジッと見詰めると、涙が溢れて来た…
母さんが死んでから、初めての涙だった…
分厚い、封筒の封に指を置くと、何故か、込上げてくる思い。
「俺が… 俺が開けてもいいものなのか…」 これは母さんが彼女に託した手紙と、俺。

「開けてもいいのか? 俺が読んでもいいのか? 母さんが命がけで守ろうとした物を、
 これを、俺が開けたら、母さんの命は、どうなるんだ!」 葛藤を繰り返す俺の、心。

 涙が、止まらない… 涙で滲んで何も見えない… 手紙を持った手が動かない。
手紙には、俺の疑問を解き明かす何かが、書いてあることは、解っていたが、
どうしても、俺には、母さんの書いた手紙を開けることが、出来なかった。

 俺は、涙を拭くと、車から降りて風に身体を晒した…
風が、俺の心を癒してくれる、そんなふうに思えたものの、風は癒してはくれなかった。
時折吹く風は、地面から土ぼこりを巻き上げ、容赦なく俺を、攻撃した。

 彼女の家が、もっと遠くにあればいいのに、そんな風に思えたのは何故だろう…
さっきまで、彼女に会いたくて、心が張り裂けそうだったのに、今の俺は、彼女から、
離れたい、そんな気持ちで一杯だった。

 車は、俺の心とは裏腹に彼女の家に、俺を運んでいた…
彼女の家の前に来ると、何故か足がすくんで降りられなくなっていた。
俺を見つけた、彼女が外へ出て来て、俺が出るのを待っている、彼女の視線が突き刺さった。

 車のドアを彼女が外から、開けた…
下を向くを、俺の視線の先にあるものを、彼女が見つけた。

 母さんからの手紙を膝の上に置いた俺の肩に、そっと、手を差し伸べた彼女…
彼女は、黙って、手を離すと俺の側から姿を消した。

 咄嗟に、俺は彼女を追いかけた…
玄関の中で、中に入ろうとしていた、彼女を俺は、後ろから抱きしめた。

 彼女は無言で、俺の腕の中に居た…
俺は、言ってはならない言葉を彼女に、言いかけようとする自分を、必死に押さえていた。

 家に入ると、引越しの準備をしていたのだろうか、ダンボールが詰まれていた。
冷蔵庫から、ジュースを出すと、二人しかいないテーブルに4個のグラスを置いた彼女は、
「この、ジュースね、あの子たちが好きたせったの♪」 と、寂しげに微笑した、彼女。

 グラスに、ジュースを注ぐと、奥の部屋の襖(ふすま)を開け中へ入った彼女。
そっと、部屋にいる彼女を襖から見ると、仏壇に供えて手を合せる痛々しい彼女の後姿が、

 彼女の横に並んで、手を合わせ終った後に、仏壇の中から、俺の目に入って来たものは、
あの時、彼女か咄嗟に隠した小さな写真の入った額縁だった… 伏せられた額を彼女が、
俺に見せるように、立てて、仏壇に置くと、それは、若かりし頃の親父の写真だった。

 何故! 俺の脳裏に浮かんだ一言。
彼女は、愛おしそうに写真を硝子の上から、優しくなでると、写真に問いかけるように…
「もう、いいよね…」 彼女の視線は写真の親父に向けられて物だった。

 彼女は、大きく息を吸い込むと、吐きながら、俺の方にゆっくりと身体を向けた…


◆◆◆◆◆21番目



 俺の方、真剣な顔して向いた彼女は、深呼吸すると俺の目をジッと見詰めた。

 そして、重い口を開いた…
話しは、4時間にも及び、途中で彼女は何度か、水を飲みに台所へと俺を誘った。

 話しに聞き入る俺と彼女の距離は、徐々に遠ざ気がした…
聞きたくない! もう聞きたくないと何度も、両手で頭を抱えて耳を塞ごうとした俺の腕を、
彼女は、払いのけて、厳しい表情で俺に話し聞かせた。

 忌まわしい、過去の出来事が俺の脳裏に焼きつき、岩山の地層のように、幾重にも重なった
床に、蹲る俺の前で、冷静に淡々と語る彼女の声は、冬山の鋭い氷のごとく俺の心を抉った。

 俺の親父のこと、お袋のこと、彼女のこと、旦那さんのこと、長女のこと、次女のこと、
そして、何故、俺と次女を男女の仲にしたのかも、全て聞かされた俺は心の中が凍り付いた。
有り得ない事実に、俺は後悔していた… 聞いたことを。

 彼女は、涙ぐむこともなく、ただ冷静に事実を俺に伝えていた…
俺は、話を聞き終わる頃には脱力感で、立つことさえも、ままならぬほどに衰弱していた。

 話し終えた、彼女は、俺の側から身を引き離し、引越しの荷造りを無言で続けた。
俺の両手は握り締めた弾みで、爪が手の平に食い込み流血していた。
床に崩れる俺を静かに起すと俺の手に、彼女が薬を塗り包帯を巻いてくれた…
その彼女の手は、女の手ではなく、母親の優しい温もりのする手だった。

 俺は、動けずに窓の下に、背を凭れさせグッタリとしていた…
彼女は俺を、名前では呼ばずに、普段同様に苗字で呼ぶと、昼食を作ってくれた。

 彼女と二人きりの昼食は、終始無言で、俺は彼女の顔さえも、まともに見ることも出来ず、
ただ、ひたすら黙々と、箸を動かしていた。

 食事を済ませた、俺は彼女と一緒に居ることが苦痛で、隣の家に逃げ込んでしまった。
話しの内容は、この世にそんなことがあるのかと、思わせるほど過酷で、人間のエゴが、
友情の後ろに見え隠れし、更にそれを多い隠すように、絡む人間の笑顔が入り乱れていた。

 あと、三日でここを引き払うと言う彼女、俺は明日、ここを出ようと決心していた。
帰ると言っても、俺にはもう、待っていてくれる家族はいない…

 玄関の戸がカタッとなって、振り向くと彼女が立っていた。
真っ直ぐに、俺を見る彼女の目は、話をする前とは何も変らず、俺の方がオドオドしていた。
「ねぇ♪ この使い捨てカメラで思い出を撮りたいんでけど♪」 と、突然笑顔の彼女。

 俺は、彼女の笑顔に圧倒され、外に待つ彼女のもとへと、足を運んだ。
彼女は子供見たいに、笑顔でカメラを俺に渡すと、家の前に立ち、手を振った…
そんな彼女を見ていて、ギコチなさの中で、俺もつられて彼女に手を振り替えして、
微笑むと、着物姿で、長屋の前をスキップして見せた彼女が、俺には愛らしく思えた。

 36枚撮りのカメラは、あっと言う間に、彼女の思い出として収められた。
俺は車の中から、積んであった、使い捨てカメラを持ってくると、彼女に三女の分だと、
24枚撮りを一つ、手渡すと、今度は俺の思い出を撮ってと、彼女に別のカメラを渡した。

 彼女もまた、手を振る俺に応えるように手を振ってくれた…
彼女の家の前から、端っこまで、裏側にも回って思い出を撮り収めた。

 撮り終えて、裏側から戻ろうと、彼女の顔を見た瞬間だった…
「○○さん…」 と、親父の名前を口にした彼女。

 彼女は、俺の方ではなく、端っこの親父とお袋が住んでいた辺りを見ていた…
「○○さん…」 と、突然、俺の胸に飛び込んで顔を埋める彼女。

「あっ! 俺だよ! 俺! しっかりして!」 咄嗟に、彼女を引き離して彼女を見た、俺。

 引き離した、彼女は目を閉じて、俺の胸の中に親父の名前を呼んで顔を埋めようとした。
俺は、仕方なく、黙って彼女に胸を貸すべく、ジッとその場に立っていた。

 暫くすると、彼女は、フラフラし始め、頭を軽く左右に振りながら、俺から離れると、
辺りを何かを追うような様子で、探し始め、額に手を当て、フワッと倒れそうになった。

 俺は、咄嗟に彼女を支えるべく、彼女の方へ移動して、抱き寄せた…
歯がゆい気持ちで一杯だった、俺は、黙って彼女が我に帰るのを待つしかなかった。

 どれほど、時間が経過しただろうか… 俺は、仕方なく、ジットして動かない、彼女を、
抱きかかえて、家に戻るものの、彼女はそのまま眠ってしまい、奥の部屋に布団を敷いて、
彼女を布団に寝かせた。

 俺の目の前で、眠る彼女の寝顔は、何かホッとしたようにも見え、俺を安心させた。
話を聞く前までは、俺はこの人を… なのに今はこの人に対して… 
寝返りを打った彼女の手が、俺の前に来た時、俺は彼女の手を優しく握りしめていた、
一つの心で、二人の人を想いながら…

 一人の女性を、二つの心で同時に愛しむ、俺が、そこに居た…



◆◆◆◆◆22番目



 俺は、眠る彼女を家に残し、家の前の朽ち果てたブランコの支柱に凭れていた…
彼女の手と、俺の手が触れた瞬間、彼女への、二つの心が絡み合いながら彼女の心へ、
届いて欲しい… 自然な俺の心だった。

 知る必要のない事実だったのか… あるいは、知るべき事実だったのか…
二人の女性が生涯を掛けて、守ろうとした事実は、あまりにも過酷で、知る者を頑なに拒み、
事実を公にして、生きることをも、許さないほどの物だった。

 ブランコの下の、地面の小さな穴から出て来た、蟻を目で追う…
乾いた土の上を、秋だと言うにのギリギリした日差しを浴びながら、旅立った一匹の蟻。

 左へ右へと、迷うように進路を変えながら、小石を避け、避けては登り、登っては降り、
そして、やがて草むらの中に消えて行った… 暫くすると一匹の蟻が出て来ては、
日差しから逃げるように、草むらに消え、そしてまた、別の蟻が出てきては辺りの様子を、
覗いながら、草むらに消えて行った。

 同じ蟻なのか、別な蟻なのか、見分けの付かない小さな蟻は、何度も出入りを繰り返した。
草(ヤミ)に消えた蟻(こころ)が事実なのか、出て来た物が事実なのか、
俺の流した涙に、一斉に草から出て来て群がる蟻は、人の心を貪り喰う悪魔なのだろうか。

 【数時間後】

 俺は、その日の夕方、三女からの電話で、迎えに出ることに…
ここでの最後の夕飯にと、途中で肉屋に寄ることを彼女似伝えると、俺は新しい道を通り、
下の車道へと向かった。

 校門の前から少しずれた場所で三女を待ち、街の様子を地図で確認していた…
チラッと、ルームミラーを見ると、誰と話すわけでもない、寂しそうな三女が出て来た。

 ハザードを点けている、俺の乗る車を発見すると、途端にニコッと微笑み出した三女。
笑顔の三女が、車の後ろから駆け寄って来ると、ドアを開けた。
「お兄ちゃん♪」 と、朝いらいに見る三女の笑顔と声は、俺の心を和ませた。

 俺は、街のことを三女に聞きながら、車を進めた。
肉屋では、三女に肉を選ばせたものの遠慮がちに選ぶ三女に財布の中を見せると、
大きな、歓声を上げて次々に、食べたいものを…
八百屋では野菜と、メロンを…
「大きい、お姉ちゃんと、お姉ちゃんの大好きなメロンなの~♪」 と、声を弾ませた三女。

 どうやら、三女は、長女を大きい姉、次女を、姉と呼んでいたようだ…
「でも… どうして?」 と、不安げに俺を見上げた、三女。

 俺は、今夜を最後に明日、戻ることを三女に伝えると、突然、寂しげな表情を見せ、
車までの、道のりで、俺の腕にギュッとしがみ付いて、頬を寄せた…
「この子が、俺の…」 俺の心。

 家に、戻る途中、新しい道を通り、三女と無事に帰宅を目指ていると…
「私ねぇ! しってるの! お姉ちゃんが、お父さんと別の女(ひと)の子だって…」
 と、突然、俺に話し掛けた三女。

 三女の言葉に、驚いて車を三叉路を左に過ぎた辺りで停めた。
「お姉ちゃんが… 死ぬ前に話してくれたの…」 と、窓から外を見る、三女。

「お母さん… お姉ちゃんに、いろんなこと、教えてたのも知ってる…
 女としての、礼儀作法だの、その… 男の人と… 女の人のこととか…
 お姉ちゃんなんか、お兄ちゃんの写真を見せられて、嬉しそうに照れてたな~♪
 全部、お姉ちゃんから、お母さんには内緒で聞かされてたから…」
  懐かしそうに、恥ずかしそうに、時折、寂しげに、そして笑みを浮かべた、三女。

「えっ? 俺の写真って?」 と、初耳の話しで、思わず口に出した、俺。

「うん! お兄ちゃんが、うちに来る前に、おばちゃんから来たって言ってた!」と、三女。

 俺の写真が、俺の来る前に、既にこっちに届いてたなんて、俺には初耳だった。
「でも… 何でなんだろう…」 と、窓の外を見ながら何かを考える様子の三女。

「ねぇ、お兄ちゃん! コンドームって避妊具だよねぇ?」 と、突然振り向く三女。

「うっ! おいおい、何言い出すんだよー♪ ビックリするじゃないか♪」 と、照れる俺。

「お姉ちゃんから、聞いたんだけど… お兄ちゃんが初めて来た夜に置いてたコンドーム、
 あとで、お姉ちゃんが見たら、先っぽに穴が開いてたんだって…」
 と、不思議そうな顔する三女。

「おいおい! そんなバカな話しがあるか~♪ 第一、なんでお前が知ってるんだ~」
 と、突拍子もないことを言う三女に驚く、俺。

「全部、お姉ちゃんから、お母さんに内緒で、教えてもらったから…」 と、俯く三女。

 俺は余りに非常識な、彼女の動向に怒りすら、覚えていた…
次女は、俺と男女の仲になるために、女の作法を教育されてたなんて… 
第一、次女は病気で、そんな状態じゃなかったはずだし、だいたい、何で俺と次女を…
なんの目的で… いくら、自分の生んでない娘だからって! こんなこと許されるはず、
こんなこと、許されない! 第一、妊娠なんてしたら… 妊娠? 妊娠? 妊娠??
次女を妊娠?? 死んで行くことを承知で、次女に俺の子を宿そうとしたのか?
あり得ない! いくら何でも絶対にありえない! じゃー何故だ?
白血病で死んで行くことを知りながら、次女を妊娠させて何になるんだ?
もしかしたら、彼女は次女を恨んでいたのか? いや! それもあり得ない?
じゃぁ、彼女の本当の母親に対しての、復讐なのか?
だいいち、次女の本当の母親は何処にいるんだ!


 俺が、彼女から聞いたことに、このことは、何も含まれていないじゃないか。



◆◆◆◆◆23番目・完了



 物置から、捨てようと思っていたと言う古びた、七輪を持って来て、炭を入れた彼女。
家の前のブロックの上に野菜や肉の入った容器を置いて、地面に七輪を置いてパタパタと、
ウチワを仰ぐ姿は、着物の似合う彼女ならではの日本炊き風景。

 三女は、家の中からウーロン茶や冷えたビールを運び、楽しそうにニコニコして席に座る。
時の流れで風化の止まらないブロックは、その角を丸くし、過ぎ去った時の長さを知らせ、
二段に重ねて、ズレることなくピッタリと落ち着いている。

 時折、七輪の小窓から、口を丸くして息を吹きかける彼女の様子に、自然と笑みが零れる、
母を見る楽しげな三女、心からの笑顔だろうか。

 どうやら、彼女も、全てを俺に話したことが項をそうしたのか、スッきりした様子に見え、
俺の目にも、三女の目にも同じく映っいると確信した。

 七輪の上に渡し網を乗せ、小窓を火鋏でスーと閉じると、炎も揺らぎながら消えた。
長い箸で、肉を焼くと、ジュワァーっと食欲をそそる音を立てて少し反り返る…
落ちた油で白い煙がスーッと立ち昇ると、パチパチパチと拍手する三女の幼い笑顔。

 それを、嬉しそうに眺める無言の彼女は、優しいお母さんだった。
こんなにも、優しい笑顔の出きる彼女が、死に行く次女を妊娠させようとしたんなんて、
どうしても考えられない… 絶対に何か事情があるはずだが、今は聞く時ではない。

 家から外に零れる部屋の灯が、徐々に明るく感じられる、秋の夜長の外での食事は、
周りの静けさを、賑やかなものに変えた。

 時折、山から吹き注ぐ風は、七輪の炎を舞い上がらせ一瞬だけ、辺りを照らす。
彼女の作ってくれたオニギリを、頬張る三女の無邪気な笑顔を肴にクイっと缶ビールを煽り、
俺は長めの箸で、コンガリ焼けた、スライスポテトを口に運ぶ。

 彼女が、三女のためだろうか、オニギリを網の上でタレを塗って焼き始めると、
一際、目を大きく見開いた三女は立ち上がって、大喜びして見せた。

 ひっそりと、窓から外に零れる灯の下、窓のサンに置かれた二つの位牌が、我が子を思う、
母親の愛情を俺に伝えていた。

 楽しかった宴(うたげ)も、山からの吹き注ぐ冷たい風が、終わりを告げた。
肩をすぼめながら、みんなで後片付けをするのも、楽しいイベントの一つだったが、
家に入ると、彼女がお風呂を用意してくれ、その間、俺は三女とオセロに熱中していた。

 二人のオセロに、横から顔を入れて何やら考え込む彼女…
俺の攻めに四苦八苦する三女の顰めた顔が愛らしい… そんな三女が突然。
「お兄ちゃん… ずっと一緒に暮らせばいいのに~」と、腕組みしながら何気なく言う三女。

 一瞬、固まってしまった俺を、チラッと見た彼女のドキっとした表情が忘れられない。
三女の一言で、一気に形勢は逆転され、俺はズタボロに敗退してしまった。
「キャハハ♪ 引っ掛かった~♪ キャハハハハハハ~♪」 と、嬉しそうな三女。

 三女の作戦に嵌ったと確信した時の、俺は恐らく一番、マヌケな顔をしていたと思った。
ただ、三女のネタばらしの笑顔に、寂しさが見え隠れしていたのを、俺も彼女も見ていた。
楽しそうに微笑む三女の本心だったに違い無い。

 風呂を貰った、俺は浴衣に着替えると、三女の出るのを待ちながら、窓から月を眺め、
ウイスキーの入ったグラスの氷を回していた。

 台所から着物の上の割烹着を脱いで、俺の側に来た彼女が…
「もう、一つ作りますか?」 と、正座して俺に聞いてきた。

「いえ、自分で出来ます…」 と、彼女の顔を見ずに答えた俺。

「アナタは… 俺の母親なのですか? 本当に俺の産みの母親なのですか?」
 と、酔いに任せて、小声で彼女似聞いた俺。

「私は、生んだだけで、あなたの母親ではありません… アナタの母親は向うの方です…」
 と、俯く俺に毅然と応えた、彼女。

「では、どうして…」 と、コンドームの件を持ち出した、俺。

 彼女は、驚いた表情を一瞬、見せたものの、根も葉もないことと言って、取り合わず、
アナタには関係の無いことと言って俺の問いを、突っぱねた。

 俺は、彼女の驚いた表情で、答えを感じていた…
「アナタに、私の心の中まで晒す必要は無いと思います…」 と、俯く俺に語る、彼女。

「お昼前に、アナタにお話ししたことが全てです、それ以上は何も…」 と、小声の彼女。

 俺は、もどかしかった。
母親かと聞けば、生んだだけで母親ではないと言い、俺が、女性を見る目で見れば、
彼女の目はそれをも、否定し続ける…
やがて、三女が風呂から出ると、彼女は入れ替わりに風呂へと姿を消し、
暫く、涼みながらの三女と、オセロをしていた俺だったが、心はオセロから離れていた。

 時計を見れば、夜の10時を回り、三女もアクビが止まらず、オセロ大会は終了。
隣の家に、行くと、布団が知らぬ間に敷かれていた…
冷蔵庫に自分で入れた缶の水割りウイスキーを手に、窓辺に体育座りして月を眺めながら、
明日で、ここを離れる寂しさに、心の中に空白を感じていた。

 時計の針は11時を少し回った辺りだった、カタカタと玄関の戸が開いた…
「お兄ちゃん! お母さんが! お母さんが!」 と、全身を震わせて飛び込んで来た三女。

 彼女の異変を知らせる怯えた三女を連れて、彼女の家に…
家に行くと、奥の部屋の仏壇の前に正座して一人で呟く彼女の姿があった…
その光景は異様で、まるで心霊物の映画の1シーンのように、俺の目に映り、
そして、彼女の左横には、封の切られた、母さんが彼女に当てた手紙が開いたまま置いてあった。
 薄明かりの中で、彼女は、母さんからの手紙を読んでいたのが解った。
彼女の姿を見て、怯え俺にしがみ付く三女を、落ち着かせて、別の部屋で寝るように即し、
仏壇の前で、微笑みながら話す彼女の横で肩に手を添えて、彼女に語りかけてみた。

 彼女は俺に対しては無反応で、仏壇の誰の写真や位牌を見ている様子もなく、
ただ、ひたすら、小声で誰かと話していた。
「バシッン!」 彼女をこっちに向かせて、頬を平手打ちした、俺。

 彼女は、そのまま気を失って俺の側へ崩れた…
三女に、大丈夫だからと、襖越しに伝え、彼女を布団に寝かせて、俺は様子を見てから、
彼女のもとを去り、何かあってはと思って寝室の明かりを小玉にしたまま眠った。

 【深夜2時ごろ】

 何かの物音で、俺は眠りの世界から呼び戻された…
誰かが、居る! 人の気配に気が付いて、ゆっくり、静かに、起き上がると…
左側の襖(ふすま)に、ゆっくりと首を向けた俺が、目にしたものは…
真っ白な、白衣(びゃくえ)に身を包み、真っ赤なベニで唇を染めた彼女が、俺を見ていた。

 驚いて、声も出ずにジッと彼女を見ていると、彼女は静かに、三つ指ついて…
「貴方… お帰りなさいませ…」 と、深々と俺に頭を下げた。

 俺には、その姿が、まるで、新婦が主(あらじ)に夜伽するかのような光景に映った…
真っ赤なベニは、部屋の暗さをも飲み込んでしまうかごとく、煌々とその赤を俺に焼き付けた。

 俺が黙って彼女を見ていると…
彼女は、ゆっくりと、顔を上げ、空ろな目をしてゆっくりと立ち上がり、白衣のまま、
俺の真ん前に来て、白衣を肌蹴(はだけ)俺の真正面に女座りをした。

「よろしく、お願い致します…」 彼女の紅いベニが口を開いた。

 
 俺の母親は、目の前にいる彼女…
父親は、死んだ親父、彼女と父親は、幼少期より共に生涯を誓い合った仲だった…
親父の幼馴染は、もう一人… 亡くなった、この家の主で彼女の旦那さん。
彼女の旦那さんは、親父と彼女の仲を幼少期より知っていた…
親父は、幼馴染の旦那さんの、父親の経営する木材会社で働いていた。
木材会社の経営者は、この辺りでも有数の富豪で権力者だった…
生涯を誓い合った、彼女と親父は、当然のことながら彼女との愛を育んでいた。
木材会社の御曹司である、彼にも当時恋人がいたものの、そろそろ身を固めろと言う段階に、
御曹司の彼は、権力者である父親に、告白をしてしまった。
「アイツの彼女となら結婚して身を固めてもいい…」と、旦那。
権力者の木材会社はこの辺りでは、唯一の賃金を得る産業で、俺の親父も、彼女の親父も、
親戚も、知人も、友人も、全て働いていた経緯がある。

 親父は、生涯を誓いあった、彼女と無理矢理引き離された挙句に、御曹司の恋人と、
無理矢理結婚させられた…
ところが、御曹司の彼女のお腹には既に、子供がいた。

 同時に、親父の子が、今、俺の前にいる彼女にも…
それが、俺だった。

 結婚を目前に控えた、親父と彼女は、権力によって引き離された上に、とんでもない事も。
権力者は、親父と彼女が、我が子である、御曹司を捨てて縁り(より)を戻さぬようにと、
ほぼ、同時期に生まれた二人の子供を、取り返させた…

 この家で自殺した長女は、俺を育てた母さんの実子…
母さんに育てられた、俺は、彼女の実子…
親父と彼女が、縁りを戻さぬようにと、互いの子供を交換させ、20歳まで、出生の秘密を、
明かしてはならないと、固く約束されたらしい・

 この家の長女として、育てられた、俺の育ての母親の実子は、この事実を知り、
狂い死にするように、自殺したらしい…
痴呆症にかかった、権力者が長女に、その全てを話してしまったと聞いた。

 そして、権力者は他界…

 俺の親父と、目の前の彼女は、俺の本当の両親…
この家の長女は、御曹司と俺を育ててくれた母さんの、本当の子供。
更に、御曹司は俺の実母である、彼女をそこまでして手に入れておきながら、別の女にまで
子供を宿させ、その子まで、彼女に育てさせたと言う非道さだったらしい。

 三女は、非道な旦那と彼女の間に出来た実子で、俺とは血の繋がりはある。
そして、20年の歳月が過ぎた時、幼女として連れて来られた次女は白血病におかされ、
余命10ヶ月と診断されたらしい…

 俺が、この家を離れ自宅に戻った時、一通の手紙が届いた…
その内容は、俺の子を次女に宿させることで、俺の父であり、彼女の婚約者である死んだ、
父親を、自分の下に取り戻したい一心でしたことだと書いてあった。

 余命、幾ばくもない次女でも、死ぬ前に妊娠が解れば、手立てがあるかも知れないと、
彼女は考えたらしい… そして、次女の子を次女の生れ変りとして育てたいとも…
女の浅知恵だったと、彼女は悔いていると手紙には書いてあった。
「次女には全てを話していて、次女もまた同意していたと言う衝撃の内容だった」

 全ては、権力者の下でしか、生きられない里の運命を背負った者たちの悲しい出来事だった。
 そして、俺は今、彼女と三女と仲良く3人で暮らしているよ。

 あの時、あの家で白衣の彼女とあの後、一緒に朝まで添い寝したよ~♪
勿論、母親として… ちゃんと、手を繋いで、朝までグッスリ。

 朝方、彼女が自分の姿を見て、気絶しそうになったんだが、ちゃんと事情を説明して、
解ってもらったから安心してもらいたい。

 夜伽【ベニ】完了

夜伽(ベニ)

夜伽(ベニ)

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2011-12-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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