無題
『会いたい性理論』 冒頭100枚
鴨居慎平が消える魔球を投げた革命的大事件は我が学園のみならず隣町の学校にその噂が轟くほどの一大センセーショナルを巻き起こした。
聞くところによれば、七月十四日の鴨居はすこぶる機嫌が良く、体操着に腕を突っ込みながら「やっべ、今の俺なら余裕で一六〇キロくらい出しちゃうかもしんねーわ」などと鼻息荒く漏らしていたという(※二年C組石川高志談)
奇しくもフランス革命が起こったとされるその日、期末テストから解放され、消化試合のような授業を夏休みまでこなすだけの誰にとっても自由で穏やかな時間が流れていた。教師とて例外ではなく、常日頃から熱血と恐れられる体育顧問も機を見るに敏と悟ったのか、たまには俺にも楽させろとばかりに「ソフトボールでもやって遊んでろ」と言い出す始末だった。
その中でもひときわ自由を謳歌しまくっていたのが後の渦中の人物、鴨居慎平だった。
準備運動で勝手にラジオ体操を踊りだす、本来三周でいいところを四周も五周もグランドを走り回る、校庭に出没した野良犬に油性マジックで眉毛を書き足す、軟式ボールを体操着に突っ込んでくだらないジョークをやらかす、いい加減目に余ると体育顧問が石球のようなごつい拳骨を落とすもどこ吹く風といった様子で、鴨居は人生楽しくて仕方ないとでもいうふうにげらげら笑っていたという。
鴨居を取り巻くクラスメイトの見解はおおむね一致していた。
――これで何も起きないはずがない。下手したら怪我人が出るぞ。
仲間への相談もなく、プレイ・ボールのホイッスルと共に鴨居は一目散に駆け出し、ピッチャーズマウンドを一国の主であるかのように踏み締め、それを占拠した。誰も止められなかった。だいたい、アホ面ぶら下げながら「一六〇キロ出しちゃうかもしんねーわ」などと馬鹿の極みのようなことをほざいている奴を止める術など誰も持ち合わせていなかった。何事もなく平和に済めばいいと天地神明に祈る以外には。
鴨居はにやにや笑いを顔に貼りつけ、バッターを見据え、意味もなく足場を慣らし、大きく上半身を捩じった。
そして――、
大上段に振りかぶった右手をぶん! と下ろし、キャッチャー目掛けてボールを投げつけた。
体育顧問は慌てて立ち上がり、「アンダースローで投げろ! 馬鹿もん!」と叫び終わる間もなく、実は一六〇キロどころか一〇〇キロも出ていないへろへろ軌道を描くボールが、バッテリーの彼我を結ぶ中心あたりで“すっ……”と色を失うように、そうでなければ風景に溶け込むように消えてしまった……という。
これにはその場に居合わせた誰もが言葉を失い、我が目を疑った。アブラ蝉のけたたましい鳴き声もぴたっと止まってしまったというし、投げた張本人でさえも狐につままれたが如く口をあんぐりと開け、一本足の唐傘お化けの姿勢のまま石膏像のように固まってしまった。
さあ、ここで怒り心頭の体育顧問である。彼はソフトボール部のコーチでもあった。というのも部が夏合宿のために新調した軟式ボールのひとつひとつに、体育顧問直筆のスポーツ名言が書いてあり、そんな我が子同然のように可愛がっていた迷惑な代物を部員でもなんでもない奴が失くしたとあっては腰間の秋水を抜く以外にない。そして彼は根性論は信じる一方でヒカガク的なことは一切信じない頑迷の鑑のような男でもあったので、どんなに鴨居がボールが消えてしまったことと自分は関係がないのだと言葉を尽くして説明しても聞く耳を持たなかった。自分でも消える魔球を目の当たりにしてあんなに驚いていた癖に、おおかたお調子者の鴨居が皆を驚かせるために手の込んだ手品でもやったんだろうと決め込んでいるようだった。
結局、お楽しみのソフトボールはお流れとなり、消えたボールを全員で捜すハメになった。
噂は千里を走る。実際に千里を走ったかどうかはさておき、その伝播力たるやパンデミックも真っ青の速さであった。
昼休みになった途端、鴨居をひと目見ようと大勢の人間が詰め掛けた。知らない顔の奴もいたので、確実に他校の生徒も交じっていたと思う。
ミステリー研究部の部長が『衆人環視下におけるボール消失の謎』を解き明かすべく詳しい話を聞きに鴨居のもとに訪れたし、映画部では消える魔球を題材とした8ミリ映画の制作を電撃発表し、放課後には新聞部でゼロックス・コピーの号外が刷られた。消える魔球がいったい何の役に立つのか皆目見当もつかないが、運動部間で鴨居を巡るヘッドハンティング紛いのいざこざまで起きていた。騒ぎは生活改善委員会の耳にまで届き、緊急職員会議が開かれる大事態の様相を呈していた。さしずめ鴨居は台風の目だった。
そして極めつけは何と言ってもその騒動から一夜と経たず鴨居に彼女ができてしまったことだろう。それもめちゃくちゃ可愛らしい彼女ときたものだ。しばらくの間、近所のスポーツ用品店で飛ぶように軟式ボールが売れた。どうせそれまで興味のない振りをしていた男子が、消える魔球さえ投げれば俺もモテモテに……なんて膨らむ夢を弾ませて買って行ったに違いない。
今思えば、男が一生のうちに一度しか起こせない奇跡を革命と呼ぶなら、確かにあれは大した革命だったと思う。おいそれとやろうとしてできることじゃない。高校生で一六〇キロを投げられることのほうが有用性という観点から見てよっぽど凄いことなのだろうけど、じゃあ一六〇キロでここまで学園全体が面白おかしく盛り上がったかといえば、それは違うような気もする。消える魔球という荒唐無稽な馬鹿馬鹿しさが上手く皆の心に作用したのだと思う。
非日常に会いたいと願う心。
誰だって平和な日常が一番だと思っている。けれど自分が思っている以上に、人はまた非日常も多かれ少なかれ求めているのだ。
もちろん自分だって例外じゃない。消える魔球に対して冷ややかに距離を置いていたけれど、自分のもとに、自分専用の非日常が会いに来てくれたら、やっぱり嬉しいだろうな、と思う。その時は変に距離を置いたりしないで、笑顔で歓迎してあげたいとも、思う。
なぜ、夏休みも明けた二学期になってこんなことをつらつら考えているかというと、今まさに村崎蝶太郎の手には軟式ボールが握り締められていたからだ。さっき何気なく拾ったものだった。
よく見ると、ボールに字が書かれている。掠れていて読みにくかったが、なんとか蝶太郎は解読に成功し、それをぽつりと読み上げる。
「……【人生は一度】」
いかにも体育顧問が好んで使いそうなフレーズである。
これはもしかすると、C組の男子が校庭中を隈なく捜しても見つけられなかった、幻の消える魔球なのでは?
それにしても――、
なぜ、このボールは、こんなにもボロボロなのだろう。正直、触れるのも躊躇うほど汚れ果てている。
まるで何年も置き去りのまま、風雨にでも曝されていたような……。
第一章【非日常よ、こんにちは】
1
突然だが、我が家に未来人がやって来た。
蝶太郎が暮らしているプレハブ小屋の離れに。
未来人とは言葉遊びではなく、そのままの意味で。
夏休みに水道管を勝手に伸ばして自己流で設置したシンクで蝶太郎はちゃっちゃとシャンプーし、その泡で野性味溢れる洗顔を済ませ、「今だから水でいいけど、やっぱ冬になる前に湯沸かし器も取り付けなきゃな……」なんてタオルで髪の雫を拭き取りながら呟いていると、「部屋の改造する前に洗顔フォームを買ったほうがいいんじゃないの?」という思わぬ返事がかえってきて、はっと振り返る。
やたらと背の高い男が突っ立っていた。
歳は三十手前くらいだろうか。紺のベストに鼠色のネクタイ。サラリーマン風の恰好からして少年ということはあり得ないのだが、男の面差しにはそのあどけなさが色濃く残っていて、容易に年齢を悟らせない狡猾さのようなものが読み取れる。……理知的なイタズラ小僧。そんな言葉が思い浮かんだ。
男は眼鏡のブリッジを軽く中指で押し上げ、「やあ」と力ない微笑みを蝶太郎に差し向けた。
やあ、と顔パスするみたいに言われても、こちとらあんたの顔なんて全然これっぽっちもご存知ないわけで。
普通、見ず知らずの人間が本人の了解もなしに部屋にいたら、まずは泥棒を疑うのが鉄則かもしれない。けれど、こそこそしているふうには見えないし、そもそも泥棒とは留守を狙いにやって来るものだ。声だって掛けるわけがない。それとも挨拶を済ませた上で、「これから金目のもの盗っていきますけど、いいですよね」なんて今から宣言し出すのだろうか。
蝶太郎は男をちらりと横目で見遣る。
――やりそうな気がする。この男は、そういう頓珍漢なことを言っても平気でサマになってしまう恐れがある。
男は無反応の蝶太郎を眠たげな顔で、ちょっと首を傾げながら窺っている。
面倒くさいが現状を正しく認識する必要がありそうだと、蝶太郎は口を開いた。
「……どうやってこの部屋に入ったんですか?」
幅五メートル、奥行き三メートルの室内に、扉はひとつ。昨夜、窓も併せてきっちりと施錠したはずだ。スペアキーは蝶太郎が管理していて、それは唯一の家族である父親にだって渡していない。
「うーん、ちゃんとノックはしたんだよ?」と前もって自己弁護するように男は話す。
シャンプーをしていてノックの音に気づかない。そういうことは、たまにある。そして父親と口論になる。それはよくある。
「まだカーテンも閉まってたし、もしかしたら寝てるのかな、って思ってさ。学校に遅刻したらいけないから扉を開けさせてもらったよ」
「……どうやって?」
彼にとっては意外な質問だったのか、男は僅かばかり目を丸めた。
「あれ、まだここの扉を開ける裏技、知らないんだっけ。簡単だから憶えておくといいよ。扉の側面と側柱に二ミリ程度の隙間があって、丁度これがスリット状になってるから、そこに頑丈なカード……レンタルビデオの会員証なんかを差し込んでラッチボルトを巻き込むように下ろせば簡単に開錠できるんだよ。デッドボルト式じゃこうも行かないけど。知らなかった?」
「……知ってますよ。かなり前から」
前言撤回。やっぱりこいつは手練の泥棒に違いない。
だが、この会話の噛み合わなさはいったい何なのだろう。遅刻を心配される覚えはないし、扉の開け方をレクチャーする、その真意が理解不能だった。
蝶太郎が訝しげな顔で次なる言葉を言いあぐねていると、男は諦めたようにふっと笑みを漏らし、「凄いよね、本当に」と同意を求めるように、いよいよ頓珍漢なことを言いはじめた。
「……過去を振り返ることについて、『昨日のことのように思い出せる』と言う人がいるけど、僕はそうは思わない。十年前の過去は一瞬じゃない。だって昨日何を食べたのかさえ曖昧な僕が、十年前を昨日のことのように思い出せるはずがないんだよ。……でもね、そんな僕にもさっきまで断言できることがあったんだ。今の自分は、絶対に十年前の自分とは何一つ変わっちゃいないだろう、と。それは裏を返せば、十年あっても人間は変わらないと言っていることに等しい。まるでペシミストの言い分だけど……ああ、それがどうしたことだろう。僕は感動したんだよ。人はちゃんと成長している。日々変化している。しかしその変化は牛の歩みのように緩やかだから人は自分の成長に、僕は自分の誤りに気づけなかったんだ。いやあー、本当に凄いよねっ?」
うん、確かに凄いよ。こいつの言っている意味不明さ加減が凄すぎて、逆に怖いくらいだ。
……さあ、これはやばいぞ。黄色い救急車のお出ましだ。泥棒よりやばい奴が来てしまった。こんなことならもっと頑丈な扉を用意しておけばよかった。
「……あの、どちら様ですか?」
完全にびびっている蝶太郎を、「そんなに他人行儀になるなよ」と男は快活に笑い飛ばした。
他人行儀って……あんたは他人じゃないか。
顔だって見覚えな……、
――ちょっと待て。それは本当か?
男を見ていると、蝶太郎の胸に激しい既視感が打ち寄せた。
他人なのに、他人のような気がしない。
「すっかり申し遅れたね」
そんな変な感覚に囚われ、自分の立っている足場が今にも崩れ落ちそうなひどい眩暈を起こした。
男はくすくすと笑い続ける。それ以外の表情を忘れ去ってしまったかのように。
「どうも、はじめまして……というのも可笑しいけど」
男は恭しく頭を下げ、蝶太郎の眼をじっくり見つめながら、言った。
「――僕は村崎蝶太郎。今から十年後の世界からやって来た、メタファーでもレトリックでもない、正真正銘の未来人だ。言っとくけど、苦情は一切合財受け付けないからね」
蝶太郎の思考回路が、一拍だけ停止した。
朝も早いというのに、豆腐屋のラッパの音色が遠くで聞こえた。
「んなっ……そんな馬鹿な話あるわけねーだろっ!」
苦情は受け付けないと言われたそばから蝶太郎は怒鳴りつけた。
もういいだろう。もう充分だろう。非常識な登場にも目を瞑り、これだけ下手に出てやったのだから、苦情のひとつくらいは言ったって構わないだろう。
「いい加減にしないと、警察呼ぶからな……」
男は顔を曇らせたじろいだ。
「あ、あれ、もしかして信じてないの?」
「今の説明のどこに信じられる要素があるってんだよ! 本当に十年後の俺だっつうんなら俺の個人情報を全部言ってみやがれ!」
「個人情報って……誕生日とか血液型とか?」
「それだけじゃない。他にも色々だ!」
「えー、じゃあ……うんとね」
男は少し悩むように虚空に視線をさまよわせる。
「まず、誕生日は十二月二十一日。血液型はO型。名付け親は祖父だったかな。僕の記憶が正しければ、荘子の有名な説話『胡蝶の夢』に感銘を受けて、そこから蝶の一文字を授けられたんだ」
「……っ、正解」
「嫌いなものは歯医者。初恋の相手はチューリップ組の鵜島千沙都ちゃん。今でもよく使用するパスワードは231121で、これは小学校で属したクラスの番号を学年の低い順に並べただけ」
「うっ………せ、正解……」
「中学時代の一番の失敗は修学旅行で泊まったホテルで夢精したのがばれたこと。ついたあだ名がむっつりすけべ。おかげでその呪縛から逃れるために知り合いのいない一駅離れた多門学園にわざわざ通わなければならなくなった。ちなみに夢に出てきたのは本城司くんだったよね。まあ夢なんて不条理の塊だからさ、責任能力もないんだし気に病むことはないよ。それに僕も大人になってから知ったんだけど、案外男で夢精する奴って多いみたいだよ」
その失敗は蝶太郎の人生史上における最高機密扱いで、気が置けない友人にすら話してなどいないというのに、なぜ、夢の登場人物まで知り尽くしているのだ……。
蝶太郎は言葉を失くしていた。誘導尋問が介入する隙間もないほどぴたりと言い当てるので、本当にこの男が十年後の自分なのだと危うく信じかけそうにもなった。
何かトリックがあるはずだ。実は天才的な読心術の使い手だとか、興信所を使って片っ端から俺のことを調べさせたとか……未来人説なんかより、遥かにそちらのほうが信憑性に優れる。
しかし、そうまでして蝶太郎を調べさせるに足る何かが、庶民の自分にあるとは到底思えなかった。かといって読心術で夢の中身までわかるとも思えない。だいたい夢なんて自分にしか知覚しようがない。
「で、現在は……二年の二学期だから、三菱くんの勧めで落語研究会に入ったろ。確か牛尾さんは引っ越してきたばかりかな。ああそれと、今の君を語る上で絶対忘れちゃいけないのが、彼女の存在だ。あの娘、元気にやってる?」
彼女の話題を出された途端、胸が不規則に騒ぎ、自分でもよくわからない怒りの感情に鳩尾のあたりがかっと熱くなる。
――ああ元気だよ。最悪なことに。もしかしたらあんたもご存知だろうけど、俺と一緒にいる以外の場所じゃ全然元気にやってるよ。
蝶太郎は真っ赤になった顔を見られないようにつかつかと男の横を通り過ぎ、ドアノブのつまみを横にして扉をしっかりと施錠する。それから遮光カーテンを限界まで閉め切って、間違っても窓から室内を見られないようにする。
準備完了。
完璧な密室空間。
蝶太郎の不可解な行動に「あはは……あれ、地雷踏んじゃった?」と笑っていても、さしもの男も嫌な気配を感じ取ったのか動揺を隠し切れていない。
――もう考えんのもまだるっこしいんだよ。
蝶太郎は甚く思い詰めた表情で、男に言葉の爆弾をぶん投げた。もう知らん。あとは野となれ山となれだ。
「……ちんちん見せろ」
「は?」やっぱり笑みが消えた。
「だ……だから、ちんちん見せろっつってんだろ!」
何が『だから』なのだろう。『ちんちんを見せろ。だからちんちんを見たいのだ。』傍から聞いたら完全に接続詞がぶっ壊れた瞬間だったが、もう蝶太郎は引っ込みがつかなくなっていた。ちんちんを見せるまでここから一歩も帰すわけにはいかないとさえ思っていた。
だが、「ああ、なるほど。僕にもほくろがあるか確認したいわけだね」と、すぐに男は理解してくれた。蝶太郎は恥じ入るように小さく肯く。
蝶太郎の恥ずかしい場所には、二つのほくろがある。ひとつは先端、もうひとつは裏側の付け根に。
自分のことを未来人と名乗るくらいなのだ。男にも同様のほくろがあれば黒、なければ白。本当にあったとしたら現時点で、暫定的に認めてやることにする。
「疑り深いなあ……僕ってそんなに人を信用しないタイプの人間だったっけ」男は渋々とその場に座り込んだ。
そしてクワガタの鋏みたいに両脚をぷらぷらさせながら、
「さ、どうぞ」
と、無防備を曝すように蝶太郎を見上げた。
いやいや、『どうぞ』じゃねえって。それは子供が母親にズボンを脱がしてもらう時の格好だ。
「何やってんだよ! お前が自分で脱ぐんだよ! そのくらい大人なんだからわかれよ!」
「え、やだよ。なんで僕が自分からズボンを脱ぐような恥ずかしいことしなくちゃいけないんだい。僕の股間をねっとりと愛撫するように凝視したいと言ったのは蝶くんじゃないか」
「言ってねえ!」
「ならば蝶くんがその手で僕のズボンを脱がすことだ。さあ、頑張りたまえよ」
「俺の話聞けよ! あと蝶くんって呼ぶな!」
睨み合いの膠着状態……もっとも睨んでいるのは蝶太郎だけであって、男はそれをあしらうように余裕の笑みまで浮かべている。
「あのさあ……」痺れを切らして、蝶太郎は溜め息を吐く。「お前、俺を困らせるためにわがまま言ってるだろ?」
「あはは、ばれたか。だってこの時代に来ても、知り合いなんか蝶くん以外にいないんだもの。人恋しくて仕方なかったから、つい、嬉しくなってね」
「お前は嬉しいとズボンを脱がせたがるのか?」
「僕は指図するのは好きだけど、指図されるのは大嫌いなんだ。パンツの中身が見たかったら脱がしに掛かってきなよ。僕は叫びもしないし暴れたりもしない。ただし、自分からは脱いであげない。脱げって命令されて脱ぐなんて、なんだか強姦っぽくて嫌じゃない?」
自分で脱ぐより脱がされることのほうがよっぽど強姦っぽいだろ、という反論を、すんでのところで飲み込んだ。このままでは埒が明かない。
なんで俺が男のズボンを脱がせなきゃならねえんだ……。
男のペースに流されているようで気に食わなかったが、蝶太郎は跪くようなポーズでかちゃかちゃと一思いにベルトを外した。
「……おい。腰、浮かせろよ」
「はいはい」
ほとんど抱きつくように腰に腕を回し、ズボンに両手を突っ込む……柔くて、年のわりにすべすべしていて、人肌の温かさが妙に気持ちいい。
痩せた草食動物のような男なのに、近くで嗅ぐと、ちゃんと雄の匂いがする。
男の息遣いを耳元で感じながらパンツごと引き下ろすと、小さく、意識をしていなければ聞き漏らしてしまうほど小さな声で「あっ」と漏らした。
なんとなく、そんな気分でもないのに蝶太郎の心がざわめいた。
「……恥ずかしいんだったら最初から自分で脱げよな」
「誤解だよ。床が冷たかったんだ。夏場でもカーペットくらい敷いておきたまえ」
「あっそ。……ったく、なんで男の股間なんぞ見なけりゃならねえんだ……」
言いだしっぺは自分。しかし、元はといえばこの男が未来人だなんて言い出さなければこんな事態にはならなかったのだ。
本当に。
物取りでないというなら、この男の目的はなんなのだろう――という蝶太郎の思考は、男の股間を視界に捉えた瞬間、ダイヤモンドが粉々に砕け散るような衝撃を伴って、綺麗に掻き消された。
「な……な…………」
餌を食む金魚のようにぱくぱくと空気を噛むだけで、まったく言葉にならない。
何かの見間違いだと目を皿にして凝視するも、控えめな繁茂から頭を覗かせるそれは、紛うことなき大人の男の象徴そのものだった。
蝶太郎はその場に手を突き、歴然とした敗北感に打ちのめされた。
男の理解は早い。自分の口元に手を宛がい、ぷーっと吹き出す。
「あれ……そういえばこの時代の蝶くん、まだ被ってるんだっけ?」
蝶太郎は光の速さで下半身丸出しの男の前頭部を引っ叩いた。パシィーンと、殊のほか気持ちのいい音が鳴って、心配になる反面ひょっとしたらこの男の頭蓋骨の容積には何も詰まっていないんじゃないかと不安になる。
「うーん、ナイスツッコミ。ツッコミ上手は床上手とも言うからね。結構結構……」
「お、お前は偽者だ! 俺の未来人なんかじゃねえ!」
「……なにちょっと涙目になってるのさ。ねえ蝶くん、これは喜ぶべきことだよ。このまま順当に成長していけば蝶くんも大人になるってことだよ。それはこの未来人である僕が証明しているじゃないか」
はっと蝶太郎は天を仰ぐ。
「そ、そうか……俺も、あと何年かすればちゃんと剥けるんだよな…………って」
危ない。蝶太郎ばぶるぶると頭を振る。
考えなしに男の言葉を鵜呑みにするところだった。
「ふむ。どうやらまだ信じてないって顔だね」
「あ、当たり前だ。ほくろを検分するまでは絶対信じねえよ」
しかし、近い将来、自分の下半身が大人の仲間入りになれるという未来に関してだけいえば、蝶太郎は信じてもよかった。というより、前向きに信じたい未来だった。ちょうど、バイトを増やし、専門の病院で手術を受けるべきかと悩んでいたところだったから。
「……んじゃ、ほくろを見せてもらおうか」
「はい、どうぞ」
男は器用につま先でズボンを脱ぎ捨て、差し出すように脚を広げる。男だと頭では理解していても、ワイシャツの白さと股座の暗さのコントラストが妙に劣情を煽ってきて、蝶太郎はわけのわからない意識の翻弄に苛立たしくなる。
「はい、どうぞ」
ん、と男はつま先で蝶太郎の横っ腹を小突く。
「だ、だから……よお……」
怒りの余り、蝶太郎のこめかみがエイト・ビートを刻む。
「俺に何やらせようってんだ。触らせようとしてんじゃねえ! お前が見せるんだよ! 大人なんだからわかれよ! そろそろいい加減にしねえと警察呼ぶぞバーカ!」
「あ、ごめん。警察は困る」
「お?」
警察の名前を出した途端、いきなり男が素の顔つきになったので、蝶太郎としては少しだけ気掛かりだった。
「……警察呼ぶと、なんかまずいのか?」
「ちょっとまずいだろうね。なにせ、僕は免許証諸々の入った財布を元の時代に置いてきちゃったからさ、これで警察の厄介になんてなったら、僕は不法入国者扱いだよ」
蝶太郎は嘲るように鼻で笑ってやった。
「だったら僕は未来人なんですぅ~って説明してみたらどうだ? ブタ箱なんかより素敵な病院を紹介してくれるぜ」
馬鹿にするような口調に皮肉たっぷりの言葉でやり返すと、男は口の端を引き攣らせてぼそりと「……くそがき」と呟いた。
ぴくぴくと耳朶が震える。蝶太郎は聞き漏らさなかった。
「あ? てめー今俺のことくそがきって言ったな!」
「ああ、ごめんごめん。くそがきってのはね、僕の時代の言葉で『この包茎野郎。せいぜいバイト増やして病院にでも行ってろバーカ』って意味だから聞き流してくれ。立派なものをお持ちの蝶くんには関係ない話……ぐぇぁっ!」
七面鳥を絞め殺すような声。
蝶太郎の右ストレートが男の肩に食い込む。筋肉の境目に拳骨をぶつけてやったから死ぬほど痛いはず。過去、それで何人もの愚昧な男子を学校裏に沈めてきた、試行錯誤に試行錯誤を重ねた蝶太郎印の黄金の右ストレート……「ぐぇぁっ!」
今度は蝶太郎が九官鳥になる番だった。
刑事の殉職シーンさながら、恐る恐る視線を下げて見ると、男の足の親指が鋭利な槍と化し、蝶太郎の鳩尾をめりめりと突き上げている。
蝶太郎はくの字に崩れ落ちた。朝飯前で良かったと思う。しかし、吐くものがないから苦しみは倍増。
「やっだー、ごめん、足が滑っちゃった。だ、だいじょうぶー? 怪我してないよねっ?」
「て、てめぇ……この……くそ大人がっ!」
こうなったら徹底的に戦争だバカ野郎、と蝶太郎は陸上のクラウチング・スタートの要領で地面を蹴飛ばして勢いをつけ、男の下半身にタックルで絡みつく。そして腿の裏側の柔らかい肉の膨らみをぎゅーっと摘んで捻ってやった。地味ながら、これも痛い。
断末魔の悲鳴を上げる男。
蝶太郎はぜはぜはと青息吐息で立ち上がりながら、
「ど、どうだこの野郎……がき舐めてんじゃねえぞ……」
男も荒く息を吐いて立ち上がる。
「過去の自分だから可愛げのある奴だと思ったが……大人を舐めた以上、少々お灸を据えねばならんな……」
お互いに不敵な笑みを浮かべ、ばちばちと火花を散らせて二人は対峙する。
……ちょっと想像してみて欲しい。
シャンプーし立てでドライヤーもしていない、髪の毛がばさばさに散らかった上半身素っ裸の俺。
そしてその目の前におわすは下半身をパージさせた……すなわちフルチンの、自分のことを未来人などと抜かすやばい毒電波系サラリーマン(推定二十七歳)
この二人の姿、まるで前衛芸術。
上半身素っ裸はまだいい。だが、フルチンは絶対にまずい。ワイシャツにネクタイをきっちり締めたフルチンなど言語道断だった。
たちまち喧嘩の興が殺がれる。
「お前……その格好、恥ずかしくないのかよ。少しでも自分に疑問を抱かないのかよ」
それに対して男は屹然と言い返す。
「なんで君の前でいちいち取り繕ったり、嘘を吐いたり、気取ったりしなきゃならないんだい。鏡の前で恥ずかしいもくそもないだろう」
衒いのない言い草に、ふと、蝶太郎は、ほんの少しだけ。
この未来人の存在と言葉を、信じてあげていいように思えてきた。
初対面の蝶太郎を前にして下半身を曝け出しても、臆さず、動じず、恥じらいもなく接してくるのは、彼が生きる時代を違えただけの正真正銘、もうひとりの村崎蝶太郎である証拠になりはしないだろうか。
だとすれば、傍若無人で自由極まりない態度にも、一応の解釈を与えられる。
ただ彼は鏡を見ているだけなのだ。鏡に嘘を吐く馬鹿はいない。そして鏡の役割を与えられた俺は、愚かにも彼のことを少しだけ信じようとしている。
……親友の三菱もことあるごとに言っているではないか。『縁無き衆生は度し難し』と。確かに、与太だろうがなんだろうが人の話に耳を貸すくらいの懐の余裕は常に持ち歩いていたいものだ。
珍しく殊勝になった自分を褒めてあげたくなる一方で、未来人は蝶太郎に生じた油断を見逃さなかった。
「ふふん、占めた! 隙ありっ!」
「えっ?」
男の足の甲が蝶太郎の顔面に迫る。どうしたってこれは避けられないと悟る。潔く喰らうしかなかった。めきょ、と変な音を立てて頬が陥没し、瞬時にして殊勝の看板を下ろし、手加減もへったくれもないハイキックを貰いながら、こいつはもう絶対に殺すしかないと心に誓いを立てた。
蝶太郎は部屋の端に追いやられた空のペットボトルの集落に頭から突っ込み、さながらボーリングのピンが四方八方爆ぜるように吹っ飛ぶ。ナイス・ストライク。
その衝撃で壁掛け時計が落下し、本棚でワンバウンドを経て、蝶太郎の頭頂部にがっつん見事直撃する。
「なんだってんだよおおっ!」
昨今の新喜劇でもやらないような一幕に、最早どこに怒りの矛先をぶつけていいかわからなかった。
とりあえずわっしと時計を掴み、つかつかと歩み寄って男との距離を詰めてぶん殴ろうと手を振り上げると、
「ストップ。そんな悠長なことしてる場合かい?」男は制止するように手を突き出す。
「今更命乞いなんて大人のすることじゃねえだろ。臆病風なんて吹かれてんじゃねえよ」
「いやいや、とりあえず蝶くん、落ち着いて時計を見てみようよ」
「時計……?」
嫌な予感がした。
いや、予感などではない。既に理解の早さがそれを上回っていた。
恐る恐る、手にした壁掛け時計を見遣る。
「八時、二十分……?」
ホームルーム開始まで、残り二十分。
どう足掻いても決定的な遅刻だった。
「うわああやべええ、もういい、もう帰れお前! 話とか全部後で聞いてやるからお願いだから今は帰ってくれ!」
「うん、それがいい。じゃあ僕は帰るよ。また来るね」
と言って男は踵を返し、下半身生まれたままの状態で部屋を出ようと、
「いやああああああああああ! やめてえええええええええええ!」
蝶太郎はヒステリックな金切り声を上げてズボンを放り投げる。
男は顔だけ向けて、ちょっと勝ち誇ったような、イタズラ小僧のような微笑みを浮かべた。
最低最悪の、未来人の挨拶だった。
2
遅刻が逃れようのない決定事項なら、あとは腹を括るだけだった。
そして一度腹を括ってしまえば、いったい俺は何をくよくよ悩んでいたのだろうと心地よい解放感に包まれながら電車に揺られることができた。顔を上げれば窓の外一面に虹が見えるんじゃないかとさえ思った。
というわけで、蝶太郎は一限目の授業を丸ごとさぼった。いっそのこと一日休みたいくらいだったが、真面目と不真面目の半々で打ち鳴らしている蝶太郎にはこれが精一杯の学校に対する反抗だった。
コーヒー・スタンドのアイスブラックを気だるげに吸いながら教室に向かう途中で隣のクラスの月山晴海に出くわした。種族・霊長類チャラ男。またいつもの悪巧みを持ち掛けるような軽々しさでがっしりと肩を抱かれる。毎度のこと、香水がきつい。これならサバンナに放り出されてもライオンに襲われる心配はあるまいというほどのきつさだ。
「よお~旦那。いい金儲けの話があんだけどよ」
「お前の持ってくる話、いつもいつもろくなもんないだろうが」
蝶太郎はこのチャラ男をあんまり信用していない。
ちょうど夏休みが明けた去年の今頃、彼女を孕ませてしまったとはらはらと涙を流しながら平然と嘘を吐いて同級生から巻き上げたカンパ額二万六千三十二円をちょろまかした超のつく極悪人である。
だが、憎めないのもまた事実で、グループに入れば賑やかになるから退屈しない。それに加え、落語に齧り立ての俄かな自分にとって、口の上手い奴は素直に尊敬してしまう。人間性はどうあれ、だ。
「金欲しいだろ? 簡単に稼げる方法があるんだって。先着一名のところ、真っ先にお前に白羽の矢を立ててやったんだ。どうだい? 乗ってみる気はねえか?」
少し考える。
金は、欲しい。
可及的速やかにあの根城に湯沸器を設置したい。そしてできればもうカセットコンロは卒業し、思い切ってガスコンロも取り付けたい。あと、扉は防犯レベルの高い頑丈なものにしたい。――未来人の再来に備えて。
「お前のことだから正直気乗りしないけど、話だけなら聞いてやってもいい」
「ん」
「……なんだよ、そのあからさまな手は」
「おーいおいおいおい、ロハで金にありつこうなんて虫がいい話だぜ。情報料に決まってるだろ。しっかりしてくださいよ旦那ぁ~」
蝶太郎はこの金の亡者にげんなりした。
「うるせえ引っ付くな。ガソリンスタンドでチキンでも売ってろバーカ」
「あ、チキンで思い出した」
「コンビニ行って来いよ。俺の分も頼むわ」
「んや、チキンだよチキン。ほら、C組の」
「ああ……あいつ」
フルネームは知らない。ただ、C組にそう呼ばれているやつがいる。
臆病者だから“チキン”、そのまんまだ。
「なーんか、また出たみたいよ、幽霊が」
「へえ、チキンが遭遇したのか」
「そ。昼休みに、音楽室のピアノでこっそりとアニソンの耳コピしてたら後ろから声がしたんだとさ」
「けっこうやってることが暗いな、チキン」
「ブロイラーの幽霊だな。チキンだけに」
「おもしれー」
なんとなく月山の肩をぶん殴ってから教室に入った。
が、トリモチを踏んづけたように、蝶太郎の足が強制的に止まる。
女子が泣いている。
藤代こよみ。
いや、別に珍しくもない構図か、と思い直す。
泣いている女子の周りに女子が集まる、いつものパターン。
まるで悲歎に呼応するかのように群がるその光景は、虫の習性を眺めているような、男には理解できない別世界の遣り取りを見せられている感じがする。
「……なに、あれ?」
どさりとバッグを下ろして、藤代こよみを視線で牽制しつつ、後ろの席の親友に声をかけた。
三菱恭司。俺の背中を蹴っ飛ばして落語研究会の仲間に入れてくれた、ちょっとした恩人。
今思い出したとばかりに三菱は殺害の凶器にでもなりそうな分厚いハードカバーから顔を上げ、「付き合ってちょうど一年目になる彼氏にふられた……ま、そんなとこ」と手帳のスケジュールでも読み上げるような調子で言った。
ふうん、と蝶太郎は藤代こよみの小刻みに震える小さな背中を見つめた。
俺もふられたら、あんなふうになるのだろうかとぼんやり思った。
顔を伏せ、小さく背中を丸め、かごめ遊びのように友人に囲まれ、毒にも薬にもならない慰めを浴びせられながら。
藤代こよみの友人のひとりがこちらを睨みつける。私たちは見世物じゃないんだ、とでも言いたげだったので蝶太郎は慌てて目を逸らした。
「……次、体育だよ。着替えないの?」
ちょんちょん、と三菱が人差し指で蝶太郎の尻をつついてくる。
「そういうお前こそ着替えてねえじゃん。なあ、三菱、もし良かったら……」
「体育サボろうよ、って?」
「ダメか?」
「いいよ。話したいことあるんでしょ? そのボサボサの無造作ヘア過ぎる頭と頬っぺたの痣見りゃだいたいわかるよ」
持つべきものは頭が良くて優しい親友である。だが、どんなに頭が良くても、まさかこのボサボサ頭と頬っぺたの痣から未来人の話になるなどとは思いもしないだろう。この若き落語家の驚いた顔を想像すると、蝶太郎は少しだけ愉快だった。
語弊は承知の上で敢えて言ってしまうと、三菱はオタクなのに顔がめちゃくちゃ良かった。
オタクにも美男子はいるだろうし、そもそもオタクは顔が良くないなんて恐ろしいほど失礼な偏見だし、その論法でいえば顔の良くない奴はみんなオタクってことになるぞ……ときつい反論が飛んで来るに違いない。
だが、勘違いしないで欲しいのはオタクという業を背負ったパーソナリティーのことをここで説きたいのではなく、三菱恭司という不可思議な人間について自分なりに言葉を選び、今のうちに蝶太郎の中で整理しておきたかったのだ。
なぜなら――今年、夏祭りを二人で冷やかしに行った時、蝶太郎は、三菱に愛の告白をされたから。
返事は勿論うやむやにしたし、それはそれで三菱も止む無しと考えているふうだったが、やっぱり、蝶太郎は今でも少し混乱しているのだ。変な奴だとは思っていたけど、実際には自分が想像しているよりもっと変な奴だったんだと。
雑食系と呼ばれるオタクがいる。いわゆる広く浅く、というタイプのオタクなのだが、出会ったはじめ、三菱はこれに分類されるだろうと蝶太郎は考えていた。
しかし、三菱と付き合っていくうちに、そんな分析が恥ずかしい間違いだったことにすぐに気づいた。
彼の守備範囲は広く、そして深い。知識量なくしてオタクを名乗る人間は最低の詐欺師だ、とまで言うようなクレイジー野郎なのである。
だから蝶太郎は言ってやった。お前は雑食でも肉食でも草食でもない。過食系オタクだよな、と。「なんだよそれ」と不服そうに口を尖らせながらも、三菱はその呼び方をけっこう気に入ってくれたみたいだった。
ただし、興味のない分野にはとことん興味がないし、彼の知識には壊れて遊べなくなったシーソーのような偏りが見られる。サスペンションだとかハッチバックだとか多気筒エンジンは知っている癖に、日本の自動車企業をほとんど挙げられなかったり、19世紀の産業革命と共にサッカーの母体となる歴史がはじまったことは知っていても、レアル・マドリードと聞けば「スペインのコメディアンには疎いんだよな……」と苦笑請け合いのことを真顔で言ってのけたりする。もっとも蝶太郎だって自動車やサッカーの知識に明るいわけではないが、それでも常識レベルの、平均的な知識くらいは持ち合わせている。やっぱり、三菱がちょっと変なのだ……いや、ちょっとじゃないかもしれないが。
得意分野になるとオタクはうざったいくらい饒舌になるというが、三菱にはそういうところがまるでない。彼に言わせれば知識をひけらかして得意になってるオタクは最低の詐欺師なのだそうだ。詐欺師は言い過ぎにしても、これは三菱の大きな美点であると蝶太郎は認めている。彼は必要な分だけ、相手に求められた分しか語らない。衒学趣味は露悪趣味、というやつだ。
だからこそ、わからない。
俺に好きだと言ったわけが。
あの時、脈絡も、予感も、なにもなかった。
ソースの焦げた匂いに誘われ、後ろからせっつくような祭囃子に押され、「さあ行こうぜ」と三菱の肩に触れた時だった。
三菱は思い出したように顔を上げ、わりと大きな声で、
「――オレ、蝶太郎のこと、だいっ、好きだ」
そう言いやがったのだ、あいつは。
すぐ近くでベビーカステラを売っていた男は居心地悪そうに「ああー、ヤニ切れちまったなあ」なんて下手糞な芝居をやり始めるし、男が男に好きなんて気持ち悪い光景だろうに小学生くらいの女の子グループが一斉に足を止め、こちらを見、三菱が美青年だとわかった途端にきゃあきゃあ言い出す。喧嘩がはじまったと勘違いしたガラの悪い兄ちゃんたちがどんどん群がり出す。
さすがに居た堪れなくなった蝶太郎は産毛もないんじゃないかってくらい白くてすべすべした三菱の腕を掴んで「なんか食おうぜ。奢るから」と怒気を込めて引っ張った。すると三菱は「いいよ一人で歩けるから」と蝶太郎をするりと追い抜いてずんずん進んでいく。
なんか食おうぜ?
奢るから?
おいおい、村崎蝶太郎。
それが好きだと言ってくれた人間に対する言葉だろうか。
だから駄目なんだ俺は。気の利いたことも言えない、相手に求められた言葉をすぐに察知して、理解して、自分なりに租借して、それをちゃんと言葉にできない。三菱の言った好きは単なる好きではないのだ。それくらいすぐにわかる。落語をこよなく愛し、言葉を厳格に扱う三菱が『だいっ、』という弾みまでつけてくれたスペシャルな『好き』なのだ。でももう遅い。三菱のスペシャルな『好き』はなかったことになって、なんでもない顔をしながらスーパーボールを掬って、蝶太郎の怒りや混乱は射的のコルク弾にできるだけ封じ込めてキャラメル・ボックスにぶつけて捨ててきた。
自分は、あらゆる局面で間違ったことしか言えないんじゃないかと、蝶太郎は自身を呪いたくなった。
そんなだから少しずつ、彼女に愛想を尽かされていくのだろう。
落語研究会に入ったばかりの身とはいえ、この体たらくはさすがにこたえた。
しかし、三菱もどうかしている。別にムードとかシチュエーションを無理に作ることはないけれど、告白するにしたってTPOを考えて欲しかった。空気を読む、という能力が、もしかしたら三菱には希薄なのかもしれない。
空気、そして月山晴海で思い出すことがあった。
いつだったか、蝶太郎は月山のカンパ詐欺事件について三菱に話したことがある。
「月山ってひっでえ奴だろ」と蝶太郎は話を締めくくった。
「まあ、そうだね」と三菱はゆったりと笑った。「でも、よかったじゃない」
「……え、何がよかったんだよ?」
「妊娠させてしまった女の子はいなかったわけでしょ? じゃあ、よかったじゃん」
能天気というか、何と言うか。どこかの外国では『君といると春を感じることができるよ』という口説き文句があるそうだが、確かになるほど、この時の三菱は春の暖かい空気を全身に纏っているような気さえした。
オタクで、顔がよくて、ちょっと偏狭で、優しくて、空気があまり読めなくて、男が相手でも『好き』という言葉に躊躇わない、変な奴。
蝶太郎の持ち得る語彙を駆使すれば、結局、それが三菱恭司という人間になってしまう。
* * *
サッカーゴール裏の、雑草がほうぼうに生い茂る小高く盛り上がった地面に腰を下ろし、グラウンドを思い思いに走るクラスメイトを眼下に眺めながら、蝶太郎は言いにくそうに口を開いた。
「もし突然、自分の前に未来人――十年後の未来からやって来た自分が現れたら、どうすればいいと思う?」
未来人という単語は実際に口に出してみるといかにも現実離れしたフィクションじみていて、将来の夢を打ち明けてしまったような青臭さが後味として残った。
「……どうしようもないと思う」と三菱。
「どうしようもないってのは、つまり、何もしないほうがいいってことか?」
「そうだね。もし未来人を私利私欲のために利用したいのだったら、これから起こり得る宝くじの当選ナンバーでも教えてもらえばいいよ。無理だと思うけど。あのね蝶太郎、その設問は間違い。設問として成立してない。だって、そんなの矛盾してるもの」
「荒唐無稽な話に矛盾はつきものだろ」
「噺家に喧嘩を売るような発言だね。荒唐無稽な話にも秩序は必要だよ」
「う、すまん。失言だった。話を続けてくれ」
「……いいかい? 未来人は過去の自分の目の前に、わざわざ、むざむざとその姿を現すはずがないんだ。絶対、とは断言しないよ。この世に絶対はないからね。でも、その可能性は限りなく低いものであると考えたい」
この世に絶対はない、は三菱の座右の銘だ。
「その心は?」
「……時間矛盾の危険を孕んでいるから、さ」
――タイムパラドックス。その仰々しくも、男の知的好奇心を刺激するようなSF用語は、古い映画や何かで、確かに見たり聞いたりしたことはあるのだが、蝶太郎はそれをはっきりとは理解していない。蝶太郎の読書の嗜好はSFよりもミステリーのほうに軍配が上がる。ミステリーの知識だけなら、三菱にも引けを取らぬだろうと自負するほどだ。
「SFは不勉強です、って顔してるね、蝶太郎」
「……すまん」
「素直に謝れる友人は好きだよ。開き直って無知を標榜する奴は最低のクズ野郎だからね。根絶やしにしたいくらいさ」
ときどき三菱はこうやってけろりと毒を吐くので油断しているとぎょっとしてしまう。
「タイムパラドックスについて説明する前に確認したいんだけど、蝶太郎はなんでそんなことを訊くんだい?」
「たぶん、言っても信じてくれねえかもしれんけどさ」
蝶太郎はぽりぽりと頭を掻く。それを見た三菱は穏やかに微笑む。
「人は自分が見たいと思った現実しか見ないし、信じたいと思った話しか信じないものだ」
「お前の話は難しいな」
「蝶太郎の話なら信じてあげる、ってことだよ。そら、話した話した」
三菱にさぞ面白い話が聞けるのだろう、と期待するような目を向けられ、蝶太郎はひと思いに話す決心をした。もとより隠すつもりはなかった。それどころか三菱にもっとも効果的に驚きを与えられるタイミングで切り出してやろうと狙い澄ましていたくらいだった。
「あー、今日の朝、俺のとこにマジもんの未来人がやって来たっぽい」
「ちょっと蝶太郎、マジなのか『ぽい』なのかはっきりしてよ」
「……半信半疑なんだろうな、俺自身も」
「その、未来人って、なにかの例え話だったりする? 将来、自分がこうなるであろうと思い描いていた人物像ぴったりの人間が現れた、とか」
「いいや。あいつの言葉を借りるならメタファーでもレトリックでもない、正真正銘、十年後の未来からやって来た俺――村崎蝶太郎なんだとよ」
他人なのに、他人だとも思えない、あの奇妙な感覚を思い出すと、蝶太郎が好むと好まざるとにかかわらず信じてきた常識が引っくり返ってしまったような脱力感をおぼえ、唖然としてしまう。朝、テレビをつけるといきなりニュースキャスターが『実はこの世界は天動説でした!』なんて報道したら、きっと似たように唖然としてしまうだろう。
「……で、その頬っぺたの痣とぼさぼさ頭は、未来人とどんな関係があるの?」
「ちょっと殴り合いの喧嘩をしちまってな」
「ふうん……」と、三菱はつまらなそうに嘆息する。
殴り合いの喧嘩だなんて恰好つけてしまったが、とんでもない。実に地味で陰気な舌戦と攻防ではなかったか。あれは恐ろしく幼稚な喧嘩だった。
「……やっぱ信じられないだろ、未来人だなんて」
半ば自分に言い聞かすように、蝶太郎はぼやく。
三菱は真剣な顔つきで考え込むふうだったが、
「いいや、オレは一部を除いて蝶太郎の言葉を信じるよ。エイプリル・フールでも嘘を吐けない親友が、今この場で嘘を吐くとは考えにくい。――だけど、やっぱり気に喰わない。その蝶太郎の言い方だと、未来人・某は自ら進んで村崎蝶太郎と名乗ったわけだろ?」
三菱の熱のこもった声調に、蝶太郎は少々たじろぐ。
「あ、ああ。確かに名乗ったな」
「そこなんだ。オレが気に喰わないのは。蝶太郎の前に姿を現すだけならまだしも、自分から名乗るなんて自殺行為だ。手品の種を明かしてしまったら手品師は御飯の食い上げだよ。タイムパラドックスなど恐れるに足りんと高を括っているようにしか思えないね」
自殺行為とは、なんとも穏やかではない。
「タイムパラドックスって、なんなんだよ?」
「少し想像して欲しい。そんなに難しい話じゃないから。まず、現在の村崎蝶太郎が存在する。そして、その十メートル離れた先には、未来の村崎蝶太郎が存在する。二人はロープで繋がっている。これは『時間軸』と呼ばれるロープで、現在の蝶太郎が未来の蝶太郎になるまでの絶対不変の道筋なんだ。――さて、未来人・蝶太郎はひょんなことから過去の――そう、現在の君だよ――蝶太郎の存在する時間にタイムスリップし、本人の目の前に姿を現し、あまつさえその本性をばらしてしまう。すると君はどんな行動を取る? 学校を遅刻し、体育をさぼり、なんとかその未来人の存在の是非を証明したいがために、親友であるオレに相談してしまった。さあ、おかしなことになってしまったぞ」
おかしなこと?
「現在の蝶太郎と未来の蝶太郎を結ぶロープに、そんな行動は予定として、網目として組み込まれていないんだ。絶対不変と言っただろう? 現在の蝶太郎という前提あっての未来の蝶太郎なんだ。未来人がしゃあしゃあと登場なんてしなければ、君はそんな行動を取らなかった。遅刻だってしないし、体育だってさぼらなかっただろ。しかしもう遅い。未来は変わってしまった。こんなふうに――」
三菱は手をハサミの形にして、ちょきん、と人差し指と中指を閉じた。
「現在と未来を繋ぐロープが残酷にも切れてしまった。そして未来人は消滅する、哀れなクライマーが崖から転がり落ちるように――これが時間矛盾さ」
なるほど、理解はした。なんとなくだが。
「う……聞いてて、全っ然現実感が湧いてこねえ」
「フフッ、もう少し判り易い説明をご所望というなら、『親殺しのパラドックス』はどうだろう。ルネ・バルジャルは知らずとも、これくらいのSFは聞いたことがあるんじゃないかな。本来『親殺しのパラドックス』はタイムパラドックスの理解を助けるために使われるべきじゃないんだろうが……まあ、瑣事は置いておこう。――未来人・蝶太郎は十年前、つまりオレたちでいうところの現在の、この世界にやって来た。じゃあ、もし、三〇年前の世界にやって来たとしたらどうだろう?」
三〇年前、つまり今からさらに二〇年遡る、ということか。
途端に蝶太郎は眉をひそめる。
「……となると、まだ俺は産まれてねえぞ」
「そうなるね。だが、蝶太郎がまだ産まれていない、というのが重要なんだ。話を戻すよ。未来人・蝶太郎は、君の両親に会う。父上か母上の、どちらでもいい。とにかく、若かりし頃の両親に出会い、そして殺してしまうんだ」
物騒なことを、あっけらかんと三菱は言った。
「……気を悪くしないでくれよ。あくまでこれは荒唐無稽な例え話だからね」
「いいよいいよ。気にしてねえ。んで?」
「んで? じゃないよ。さすがに判るだろう? 少し頭を働かせて考えてみなよ。蝶太郎が産まれる前に、両親のどちらかが死んじゃったんだよ?」
両親が死ぬ。
両親が死ねば、俺は産まれない。取りも直さず、この世に存在しないことと同義である。
……あれ?
「俺が存在しないってことは……つまり、未来人の俺も存在しないんじゃねえか?」
「その通り!」
握手を迫るように、三菱は爛々と目を輝かせ蝶太郎に歩み寄った。
「両親を殺せば蝶太郎は産まれない! そこで矛盾――タイムパラドックスが起き、未来人は消滅してしまうんだ。未来人がどう足掻いても両親は殺せない、という説もあるけれど、どちらが正しいかなんて誰にも判らない。しかしタイムパラドックスは自身の消失の危険性を孕んでいることは間違いないと断言していい。だから、未来人は過去に対して迂闊な干渉を行うことはできないんだ」
なんだか産まれないことを酷く歓迎されている気がしたが――、
三菱の説明は的確で興味深く、蝶太郎はしっかりとタイムパラドックスを理解できたと感じた。
「あ、体育の授業、終わりそうだね。まだまだ話し足りないし、蝶太郎に訊きたいこともいっぱいあるんだけど……ねえ蝶太郎、ミステリーに傾倒するのもいいけどもう少しSFの知識もつけなよ。今度ハインラインの『夏への扉』貸してあげるからさ」
「SFかあ……」
俺に理解できるだろうか? SFはやたら小難しいというイメージがどうにも付き纏う。
「蝶太郎、SFは何の略だか言ってごらん」
突然の質問に蝶太郎は慌てそうになる。
「えっ……す……スペース・ファンタジー?」
自信なさげに回答した蝶太郎を見て、三菱はくしゃみのような笑い声をあげた。
「なるほど、本当にSFは不勉強なんだね。それなら未来の蝶太郎がタイムパラドックスの怖さも知らずに蝶太郎に近づいたのも肯けるかもしれない」
そう残してさっさと三菱は立ち去ろうとする。
「お、おいちょっと待てよ。SFの略ってなんなんだよ!」
三菱は首だけ向け、にっこりと横顔で微笑む。
「辞書を引けよ、親友」
3
未来人は今ごろどこで何をやっているのだろう、と蝶太郎は黙々と考えながら家路についた。
もしかしたらもう消滅してしまったんじゃないだろうか? 俺が学校を遅刻し、体育をさぼり、三菱に打ち明けたことで、機械的生真面目さでタイムパラドックスは発動してしまったあとなんじゃないだろうか?
消滅するというのはどういうことなのだろう。徐々に色を失うように、身体が透明になって、すっ――と消えてしまうのだろうか。はたまた身体から光の粒子が舞い上がり、天に召されるように神々しく消えるのだろうか。それは時と場所を選ばないのだろうか。
そしてそれは存在と質量と共に他者の記憶まで消してしまうのだろうか。蝶太郎の記憶や思い出から未来人に関する項目がすぽんと抜け落ち、「そんな奴いたっけ?」状態に陥るのだろうか。「そんな奴いたっけ?」とすら思い出さないかもしれない。忘れるのではなく、全部なかったことになってしまい、どんなに頑張っても誰一人として未来人を記憶の中で憶えていてあげられなくなるのだろうか。
なんだかその想像は途轍もなく哀しいことで、理不尽な暴力を見ているような、絶対にあってはならないことのように思い、蝶太郎はひとり勝手に涙ぐむ。
涙もろい性格ではなかったのに、最近、ふとしたきっかけで泣くことが多くなった。
彼女と付き合いはじめてからだろうか。
プレハブ小屋の離れの扉を開き、ひょっとしたら未来人が勝手知ったる他人の家のごとく蝶太郎の帰りを待っていてくれているのではないかと変な期待を抱いたが、中には誰もいなかった。
「……ん?」
その代わり、煙草の箱が床に落ちていた。
もちろん蝶太郎のものではない。
未来人のズボンを放り投げた時にポケットから転がり落ちたのだろう。
近い将来、蝶太郎は酒やギャンブルに走っても煙草だけはやらないだろうと根拠もなしに信じ込んでいた節がある。
しかし、そうか、いずれ俺は喫煙者になるのかとちょっとだけ自分に失望しながら煙草を拾い上げようとした手を、慌てて引っ込めた。
ちょっとした思いつきの電気が身体を駆け巡ったのだ。
今すぐ確かめたいことができた。
* * *
去年の冬、
蝶太郎の住んでいるリラ町に探偵がやって来た。
同世代の人間からしてみれば「あっそ、だからどうした」程度の些細な出来事で、ほとんど見向きもしなかっただろうが、ミステリー狂いの蝶太郎は、正直、告白してしまおう。あまりの嬉しさに胸が高鳴った。この嬉しさを分ち合いたいがために延々と三菱に「探偵とは何たるか」を延々と語って聞かせ、苦笑させた。蝶太郎にとってのヒーローとは悪に敢然と立ち向かう巨大ロボットでも9回裏ツーアウトの土壇場でサヨナラ満塁ホームランをかっ飛ばす野球選手でもなく、あくまで論理と推理によってスマートかつエレガントに犯人を指摘する、物語の中の探偵だった。
そんな活字でしか御目に掛かれない物語の探偵が蝶太郎の家から歩いて三分の距離にやって来たとなっては、おちおちじっとなんかしていられなかった。なんとしてでもお近づきになりたかった。
「牛尾さん、俺です。蝶太郎です。入りますよ」
マイム通りという名のついた商店街の一角に『牛尾探偵事務所』はあった。
名は体を表すと云う通り、牛尾は筋骨隆々とした、見る者に雄牛を思わせる格闘家のような大男で、蝶太郎が想像する探偵とはあまりにかけ離れた肉体労働向けの身体つきをしていた。仕事着も背広ではなく、ごてごてと鋲のついたワインレッドのライダースジャケットである。「探偵って名乗っても、たいていは詐欺師を見るような目を向けられて、誰も信じてくれねえんだよな」とは本人談。
そんな彼が神妙な顔をしながらワークデスクで書き物をしている。反省文を書かされる不良学生のように見えて、蝶太郎は笑いそうになった。
「ごめんなさい、お仕事中でしたか。都合が悪ければまた出直してきますけど」
「いい、いい。気にしないでくれ。ちょうど休憩を挟もうと思ってたところだし、このままお前を帰すには惜しい」
そう言って牛尾は、蝶太郎が胸に抱えた茶色い油紙の紙袋をじっ、と凝視し、
「ふむ。その匂い、間違いなく、あの差し入れだな?」
「さすが探偵、相変わらず鼻がいいですね。その通り、牛尾さんの大好きな『金のメンチ』ですよ」
知る人ぞ知るマイム通り名物『金のメンチ』は精肉屋「とら吉」が一日に限定五個だけ販売する4等級和牛をふんだんに使った採算度外視・超絶品メンチカツである。
牛尾がリラ町にやって来た時、お近づきになるにも手ぶらでは失礼だろうと思い、蝶太郎は思い切ってこれを使わせてもらった。
「揚げ物に対する常識が覆った」と言わしめた金のメンチは、すぐさま牛尾の大好物となった。
探偵に憧れて会いに行った蝶太郎を警戒するでも邪険にするでもなく、実の弟ができたような気軽さで牛尾は接してくれた。
以来、ミステリー小説を貸し借りしたり、牛尾の趣味のボードゲームで遊んだりするような仲になった。兄弟のいない蝶太郎にとっても、牛尾は優しくて恰好良くて頼りになる兄貴だった。
牛尾は紙袋を受け取って中を覗くと、困ったような表情を浮かべた。
「……おい。メンチはひとつだけか?」
「はい。最後の一個しかなかったもので。あ、でも、気にしないで牛尾さんが食べちゃってください。そのために買ってきたんですから」
「バーカ、育ち盛りが何をナマ言ってやがるんだ。ほらっ、半分食え」
「いえ、牛尾さんが食べてくれなきゃ、意味がないんです」
「気持ちは嬉しいが、意味がないとはどういうことだ?」
「つまりですね……牛尾さんにちょっと、頼みがあって来たんです。金のメンチは、その報酬ですよ」
沈黙。
ややあって、牛尾は豪快に笑い飛ばした。
「おれは成功報酬しか受け取らん。話せ」
「感謝です……あのですね、とりあえずこれを」
蝶太郎は肩に提げたボディバッグからビニール袋に包まれた塊を取り出し、ワークデスクにそっと置いた。
「このビニールにとある人間が落とした煙草が入ってます。それで、煙草の箱に付着した指紋の中に、俺の指紋も含まれているかどうか調べてもらえませんか?」
牛尾の眉間に皺が刻まれた。
「なんかワケありって依頼だな。お前、この煙草に一度でも触れたか?」
「触れないように回収しましたから、俺の指紋はそこにはないはずです」
蝶太郎が確かめたかったこと。
ちょっとした思いつきのつもりだったが、今ではこれこそがクリティカルな手段だという確信に摩り替わっていた。
未来人が蝶太郎であると証明できるカギ、
それは、指紋だった。
「牛尾さん、指紋って同じものはないんですよね?」
「自分以外に同じ指紋を持つ人間、か?……いねえってことはないが、何百億って確率だから無視してもいい数字だろうな。だから指紋認証ってもんができた」
だとすれば、触れてもいない煙草の箱に自分の指紋が出てくれば、さすがに疑り深い蝶太郎も認めざるを得ない。
答えの出ない想いを悶々と胸にしまい続けることなど蝶太郎には不可能だった。とにかく白黒はっきりさせたかった。
奴が正真正銘、自分の未来人であるか、どうかを。
「……で、言っちゃった手前あれなんですけど、そんなことってできますか? 指紋を採取して、それを照合するなんて……」
現実の探偵は完全無欠の万能なヒーローではない。組織もない。怪しい横の繋がりくらいあるだろうが動くのは常に単騎であり、できる仕事はごく限られた範囲だろう。何でもできると思ったら大間違い……ということくらい蝶太郎だって知っている。
指紋を採取し、それを照合するとなると科学捜査の領域に踏み込むことになるだろう。刑事ドラマなどで見る鑑識官はコンピューターや物々しい機材を使って指紋を調べ上げていた。
ぱっと事務所を見渡しても、せいぜい使えそうなものはラップトップパソコンくらい。そのパソコンに関しても、機能美とは程遠い、ちょっと洒落たタイプのものだった。
そんな不安がる蝶太郎の胸中を見透かしたように、牛尾は軽々と、
「できるよ、そんくらい」
と言ってのけた。
いつ嵌めたのか、牛尾の両手には白い手袋が装着済みだった。
「おーおー、粋がってわりと強いの吸ってんな……ん、なんだこの煙草? 中の厚紙が千切られてんぞ」
「ああ――」それはですね、と言いかけて、口を噤む。
未来人が錠前破(ピッキング)りをするのに煙草の箱を千切って使ったのだろう。財布はないと言っていたから、スリットに挿し込む手頃なカード類を持ち合わせていなかったのだ。
頭を抱えそうになった。厚紙程度で破られる扉なら、あってもなくても一緒じゃないか?
「へへえ? その様子じゃ、なんか知ってるって感じだな。まあ話したくないなら無理にとは言わねえさ」
「……すみません」
未来人の話を出すのを避けたのは、三菱から聞いたタイムパラドックスの脅威性が、脳裏から拭い切れないでいたからだ。できれば慎重に。このことはあまり大っぴらにはしたくない。
「しっかし……今日は立て続きに変な依頼が舞い込んで来やがる」
牛尾は手袋を外す。
「変な依頼ですか?」
「そうそう。変な依頼だよ。正式に受けたわけじゃねーが、ありゃ探偵に頼み込むようなもんじゃない……っと、いかんな。おれとしたことが守秘義務を忘れるところだった」
牛尾はワークデスクの下段の抽斗から白くて四角い物体を引っ張り上げた。
光沢のある、スチール製の機材。グリップと液晶画面がついた、少し大きめの電子握力計という風情だった。
「なんです、それ?」
「モバイルAFIS」
「もばいる……えいふぃす?」
「“Automated Fingerprint Identification System ”――自動指紋識別システム。の、小型版」
意外に語学に堪能なのか、牛尾は滑らかな発音でそう話す。
「一介の私立探偵が持つには大それた代物だよ。日本でもほとんど出回っちゃいない」
牛尾は白い歯をキラリと見せて笑う。
「おれがボストンにいた時、司法省のボンボンどもからポーカーで巻き上げた戦利品だ。一度は誰かに自慢したかったんだよな。いやいやマジですげーぞ。これ一つで指紋の照合ができるし、やろうと思えば複製もできる」
「……それ一台で浮気調査が捗りそうですね」
それに捏造とかも……。
「いんや、そーでもないんだなこれが。ミステリーだったら指紋は物的証拠として雄弁に物語ってくれるが、浮気調査なんてのは決定的な一枚の写真のほうが遥かに効果がある。だから、こいつの使い道を用意してくれた依頼にちょっとだけ感謝だな」
話しながら、牛尾の長くてごつい指はそれ自体が独立した道具でもあるかのように動き、リズミカルにモバイルAFISを操作していく。ボードゲームで遊んでいると、よく感心してしまうのだが、牛尾の駒の扱いは丁寧で官能的な色気がある。指の動きに目を奪われ、うっかりぽかをやらかしてゲームに負ける、という展開はそれなりに経験してきた。本気でやったら、少なくとも自分はこの人相手にポーカーでは絶対に勝てないだろう、と確信を持って断言できる。
「んじゃ、とりあえずお前の指紋採るから、ここに右の親指をのせてくれ」
液晶画面に“standby R-T ”と表示されている。Rは右、Tは親指という英語の頭文字なのだろう。
端末に嵌め込まれたマッチ箱サイズのアクリル板に親指の腹を押し付けると「ピピ」という電子音が鳴り、次に“standby R-F ”と表示された。F……人差し指の英語は“forefinger”だったか。
「早いですね。コピー機の原理と一緒ですか?」
「そ。光学スキャナで読み取ってる……んじゃねえかな。おい、牛尾お兄さんは博覧強記の物知り博士じゃねえんだぞ」
蝶太郎とてコピー機の原理を口で説明できるほど知っているわけじゃない。光学スキャナひとつとっても、なんとなく速くて正確なのだろうという知ったか振った憶測のもとでしか語れない。
だが、知ったか振りでも知識は知識。知識は蝶太郎を安心させる。三菱も大概極端だが、実は自分だって似たようなものかもしれない。蝶太郎が一番恐れているのは、よく判らない問題を解決領域に持っていけず、鼻炎に掛かった野良犬みたいにおろおろと心が立ち往生してしまうことだった。
恋愛、
彼女、
人の気持ち。
よく判らないのに、なぜだか当たり前のようにそこにある問題たち。
体育の長距離走みたいに無意味で馬鹿みたいに疲れさせて苦しめるそれを安心させてくれる知識を、術を、蝶太郎はまだ何も獲得していないのだ。
うんざり……その一言に尽きる。
すべての指紋を採り終わり、モバイルAFISをいじくり回しながら「ほう」と牛尾は感心したように声を上げた。
「何です?」
「いや、お前の指紋って弓状紋なんだな。こいつは珍しいと思ってな」
端末に登録した蝶太郎の指紋を眺めているらしい。興味をそそられ、蝶太郎も液晶画面を覗き込んだ。
「……? 別に球みたいに丸くないですよ」
「そっちの“きゅう”じゃねえよ。弓のほうな。ほら、弦を引っ張った弓みたいな形してるだろ?」
そうだろうか。弓というには線が歪み過ぎていて、どちらかと言えば小さな頃に読んだ『星の王子さま』のウワバミの絵を彷彿とさせる。身体を丸めた象と呼ぶべきか、頭が潰れた麦藁帽子と呼ぶべきか、そのような隆線が幾重もの層を描いて指紋を形成していた。指摘されて気付いたが、確かにあまり見ない種類の指紋かもしれない。
「人間の指紋のパターンってのは、おおまかに分けて三つだ。渦状紋、蹄状紋、弓状紋。どこの国に行っても弓状紋だけは絶対的に数が少ないんだが、日本人は特別少ない。ちなみに、おれは蹄状紋な。馬の蹄に喩えられているらしいが、おれにはエドヴァルド・ムンクの『叫び』にしか見えん」
ほら、と牛尾は親指を突き出し、蝶太郎は観察するように目を眇めて顔を近づける。なるほど、確かにムンクだった。でなければ頭だけが異様に膨らんだ風船が波紋を描いているようにしか見えない。
「まあ、特徴的だからな。弓状紋なら照合もラクにできるだろうよ」
「どれくらいで判りますか?」
「すぐだよ。結果は明日にでも、メールで送ってやる」
「了解です。報酬は金のメンチだけじゃ少々寂しいですから、今度、俺の店に食べに来てください。一生懸命、牛尾さんのために美味しいもんじゃ焼き、焼いてあげますから」
下町らしく、蝶太郎はもんじゃ焼き屋でアルバイトをしている。まだキャベツの千切りしかやらせて貰えない見習い従業員ではあるが、先輩の熱心な指導の甲斐あって少しずつ焼き方もサマになってきた。腕前を披露するなら最初は三菱か牛尾と心に決めていた。
牛尾は頬杖をつき、やや首を傾げるようにしながら、
「お前ってさー……たまに誘うようなこと言ってくるから恐ろしいよ」
「はい?」
「おれが食いたいのはもんじゃではなくて……お前、なんだけどな」
「あはは。それ、ボストン仕込みの探偵流ジョークですか?」
「……………………」
「………………あれ?」
長い長い、沈黙の末、がくっ、と牛尾の肘がデスクから落ちる。顔を上げれば明らかな落胆と失望の色。この世ならざる異形に向けるような眼。しまった……また俺は、何か言葉を間違えたのだろうか。
「す、すみません。俺、ボストンとかよく判らなくて……」
「そういうことじゃないんだが……なんつーのか……まあ、あれだぞ。いずれ、もしおれが本気でお前を口説きに来た時、またボストン仕込みの探偵流ジョークですかとか抜かしたら有無を言わさず制服ひん剥いて犯すからな」
今、何か、凄まじく不穏なことをさらりと言われなかったのだろうか。
「えーと……」
つまり、
「う、牛尾さん、俺のこと口説こうとしたんですか?」
思わず声が情けなく上擦る。
「お前の思考速度はゾウガメか。行間を読め、文脈から察しろ。もしお前が探偵のようにクレバーに生きたいんだったら、もっと深くミステリを読み込むことだな」
何がなんだか判らない。つまるところ、俺は口説かれたのだろうか?
だが、これだけは判る。どうやら俺はまた言葉の選択肢を間違えたのだ。見れば、牛尾はやれやれみたいな顔をしていたので、決定的なミスにはならなかったようだが。
「はあ……修行して出直してきます」
三菱にはSFを勉強しろと言われ、牛尾にはミステリを読み込めと言われる。そりゃ溜息も出るだろう。自分の無教養ぶりが腹立たしく、喚き散らしたいくらい悔しい。推理小説を数だけこなすように読んでいい気になっている青臭いガキのままでは絶対に駄目なのだ。もっとクレバーに生きなければならない。何があっても傷つかぬように。
「なあ、ちょっと訊きたいんだがよ」
どよん、と背中に暗いオーラを放ったまま事務所を出ようとしたところで牛尾に呼び止められた。
「……はい、何でしょう?」
「お前――歳の離れた兄貴とか、いないよな? 確か一人っ子だったよな?」
その通り、蝶太郎は一人っ子だ。頼れる兄貴も、賢い姉も、可愛い弟も、わがままな妹もいない。
なぜ、そんな当たり前のことを訊くのだと無実を疑われたような気分になりながらも、しかし蝶太郎は肯定も否定もせず、瞬きも忘れて牛尾を見返した。
ふっと溜息を吐き、牛尾は降服するように両手を挙げた。ライダースジャケットの袖から垂れた銀色の鎖が音も立てずに揺れる。
「これは尋問じゃない。お決まりのミランダ警告を読み上げるつもりもない。だから、そんなに怖い顔で睨みつけるなよ。可愛い顔が台無しだ」
「あ、いえ、そんな……。ごめんなさい。でも、どうしてそんなことを訊くんですか?」
無意識に牛尾は自分の胸ポケットを探ろうとして、「ああ、そういえば禁煙中だった」と惚けたように呟きながら手を引っ込めた。
「もしも質問を質問で返されたら嫌な顔をせず、丁寧にお答えするのがおれの探偵としてのポリシーでね…………なんて、偉そうに告白してみたはいいが、何に於いても守秘義務を優先しなければならないのは辛い立場だな。だからと言ってお前を蔑ろにして嫌われるのも困る。囚人のジレンマ……もとい、探偵のジレンマだな。まあ、言っても構わない範囲で答えるとだな、ほら、さっき依頼が来たって話したろ」
「変な依頼……ってやつですか?」
「そ。――でまあ、その依頼主が、お前の顔とよく似ていたもんでね。瓜二つとは言わんし、歳もまるで違うが、なんだかお前がそのまま順当に育っていけば、その内こんな顔になるだろう、とそいつを見ていて思ったよ。気のせいかもしれんが、声も似ていたかもしれん」
「き…………」
気のせいじゃないですか?――そんな簡単な一言なのに、蝶太郎の口は嘘を知らない純真な少年のそれに変わり果てていた。
気のせい……そんなわけがないのだ。我々には顔認識機能が備わっている。人間の最も優れた知覚はそれであり、瞬間的にすれ違っただけでその人物が知り合いか否かの区別、誰それに似ているという類似性を人間は一発で引き当てることができる。探偵の力を過大評価するわけではないが、牛尾の観察眼に掛かれば真贋の見分けは実に容易いものではないか。
人間観察は探偵の十八番。現に牛尾は蝶太郎の反応を、出方を、面白そうに窺っている。
俺は今どんな顔をしてるのだろう――胸に隠している未来人のことなどとっくにバレてしまっているのではないかと気が気でない。
依頼主は十中八九、あの未来人と見て間違いないだろう。
あいつ……金もないのに、裸一貫で牛尾さんに何を頼んだというのか……。もしや、元の時代に帰る方法を探している? まさか。馬鹿げている。いや、しかし、あり得ない話ではないのか?
「あの……」
「うん?」
「少しだけ待って下さい。そうしたら、牛尾さんにちゃんとお話できると思います」
蝶太郎にちょっぴり似た、未来人からの変な依頼。そして指紋を照合してくれという、あまりにも要領を得ない蝶太郎の依頼。
ここまでラインが組み上がってしまっているのだ。共通点を探すなと言うほうが間違っている。相手は牛尾。その人とは無関係です、と言い張れるほど面の皮は厚くできていない。
いずれ牛尾には打ち明けねばならないだろう。
「そう言ってくれて良かったよ」と短く言い、牛尾は口角を上げ、屈託のない笑顔を蝶太郎に向けた。
その笑顔に蝶太郎は救われた気分になる。こそこそと隠し事をして平然としていられるほど蝶太郎は強くできていない。
事務所を出たあとで、もっと俺は強く生きなければならない、と思った。今のままでは弱すぎる。もっと強く、クレバーに……。
* * *
良いニュースと悪いニュースがある。
だが、どうかこの男に諧謔的な答えを期待しないで欲しい。なぜなら今ここでとびっきり気が利いたアメリカ式ブラック・ジョークをやれるほど蝶太郎は元気ではないからだ。
誰も聞いてくれる人などいないというのに、良いニュースと悪いニュースがあるなどと、なんと意味のない脳内会話だろう。よっぽど俺は疲れているのだ、と卑屈な笑みを浮かべたくなった。怒ること、悲しむこと、誰かに期待すること、さみしさをどうにかすることにいい加減疲れてしまった。トートロジー的にもう蝶太郎は疲れることに疲れてしまっていた。とにかく今は泥のように眠りたい。誰かにコーラと睡眠薬をセットで処方して欲しい。
良いニュースの方だが、指紋の照合結果が牛尾から送られてきた。
本当に良いニュースであったと断じてよいのか判断の迷うところではあるが、蝶太郎の思った通り、結果はクロだった。
触ってもいない煙草の箱から、蝶太郎の指紋が大量に、べっとりとこびりついていた。
つまり……これで疑う余地はなくなったのである。
同じ指紋を持つ、もうひとりの蝶太郎。あの男は、メタファーでもレトリックでもない、真実の未来人だった。
しかしその未来人も一度姿を見せたきりで、その行方は杳として知れなかった。訊きたいことが山ほどあるので、野垂れ死になどしていなければいいが……。
そして悪いニュース。
彼女にふられた。
九月二十五日を以って、蝶太郎の恋愛は終わった。
たった五ヶ月の、短く、儚い恋愛だった。
どこぞのクラスメイトは上から目線で言いました。
「俺たちの恋愛ってのはとかく寿命が短い。付き合って次の日に別れるなんてのはザラよ。いいか蝶太郎、学生の恋愛ってのは三ヶ月がヤマなんだ。三ヶ月さえ過ぎちまえばしめたもので、男と女の絆はそこで完成する。コーヒーとミルクみたいにがっちりさ。三ヶ月の壁を越えたら離れようと思ったって簡単には離れらんねーのよマジで」
マジかよ本当に、と訝しく思いつつも、蝶太郎はその言葉をよすがに、心の支えにするしかなかった。
何しろ彼女は恋愛よりも友情に重きを置くタイプだった。一ヶ月の交際記念より友人達のボーリングの頭数に入ることのほうが重要だと思っている感じだった。いや、まあ、それはそれで素晴らしいことだし、人より少し義に厚い戦国武将系ガールだと思えば蝶太郎の胸のわだかまりも少しは和らいだ。
とにかく三ヶ月は我慢しよう。我慢しつつ、彼女の交友関係を乱さない程度に彼氏をやってみよう。電話やメールは最小限に抑え、慎重に慎重を重ねるつもりで立ち振る舞った。
そして三ヶ月。
蝶太郎の我慢の功績はことのほか大きく、なんとか関係は継続された。三ヶ月の壁を乗り越えたわけだ。
しかし、
何も変わらなかった。
何も起きなかった。
何も、なかった。
ブタ箱の死刑囚のほうがまだイベント事に富んでいるんじゃないかと笑いたくなるほど、何もなかった。
相変わらずデートの提案はことごとく却下された。「用件はなるべくメールで」という彼女の指示に従っていたが、そのメールすら返って来ない有様だった。時々、おはようとおやすみのメールだけがちょっとした気紛れのように届くだけだった。
その気紛れが悲しくもあり、どうしようもなく嬉しかった。
どれだけ蔑ろにされても、蝶太郎は彼女のことが本当に好きだったのだ。
もうどれくらいそうしているのか判らない。とにかく動くのが億劫で仕方ない。
蝶太郎の身体は鎧をまとうように毛布に包まり、顔の半分は枕に沈んでいる。露出した顔の半分、片目は亡羊と力なく開き、その視線は床に転がった壁掛け時計に向けられていた。アルバイトの時間が刻一刻と迫っていた。
彼女にふられるなんて誰もが通る道だ。お前は五ヶ月間、よく頑張ったよ。くさくさしたって仕方ないさ――などと己を奮い立たせたわけではない。
蝶太郎はの身体は自動的だった。身を起こし、毛布を蹴っ飛ばし、ボディバッグと自転車の鍵を引っ掴んで外へ出た。生きていることを後悔するほど心は悲しいのにアルバイトにだけは行かなければならないこの使命感はなんなのだろう。この世界は、どこか間違っている。
しかし『働く』というのは一種の救いだ。彼女にまつわるあれこれを完全に頭の外へ追いやれるわけではなかったが、働いている間はいくらかそれも霧散し、心が軽くなった。アルバイトをやっていて良かったと心底そう思った。
ただ、キャベツの千切りはまずかった。
キャベツの千切りは自己との対話だ。
真っ二つにカットしたドーム状のキャベツを手馴れた包丁捌きで三ミリ間隔に切り刻んでいく。集中力はいらない。これまでにもう何百個とこいつを相手にしているのだ。包丁を下ろすリズムは身体が覚えている。よそ見をしたってできる。――もちろん、考え事をしながらも。
彼女のことを考えずにはいられなかった。もうどうしたって手遅れなのに『あの時こうしておけばよかった』と『あんなことを彼女に対して言うべきではなかった』と内なるもうひとりの自分が蝶太郎をじわじわと責め立てる。
わかってる。そんなことは。嫌と言うくらいわかってる。俺はガキだ。無知なガキだ。他人より少しだけ多く本を読んでいる程度のくだらないガキだ――そう言えば満足なんだろう、お前も。
まな板を包丁で叩く音が心にさびしく反響する。子供の貯金箱みたいに心は空っぽだった。トントントン……トントントン……次第に目がかっと熱くなって、涙腺がぷっくりと膨らむ感覚があって、もう駄目だと思った瞬間から大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。唇の隙間から滑り落ちる涙を舌で舐め取る……塩辛い、悔しさの味が口いっぱいに広がる。
「お、おっ、お前、何泣いてんだよ!」
先輩が大慌てで蝶太郎のそばへ駆け寄る。
まな板からはみ出すほどのキャベツの千切りを見て、蝶太郎は我に返った。
鼻水をずずずと啜り、泣き笑いの表情を先輩に向ける。
「はは……何ででしょう……なんか、キャベツが目に沁みたんですよ……もう、痛くって、痛くって……」
泣いたことでまたいくらか気分が回復し、上がったり下がったりと自分が情緒不安定に陥っていることを自覚する。少しだけ身体が熱っぽい。心なしか頭がぼぅっとする。だが、なんとか閉店まで持ち堪えることができた。
暖簾を下ろし、竹箒で軒先の掃除をしていると店の中から「野郎どもっ、一列に並べ!」と若き女主人の勇ましい声がする。
なんだろう、と頭を出して見ると、女主人が従業員に茶封筒を配っていた。
カレンダーを確認。
九月二十五日。
そうか、今日は給料日でもあるのか。そしてすぐに、俺は給料日のたんびにふられた彼女のことを思い出さなきゃならないのか、と気づき、思わず前掛けの裾をぎゅっと握り締めた。
涙で眠たそうに瞼が腫れた蝶太郎の顔を見て、女主人は何かを言いかけたが、結局は何も言わぬまま給料の入った茶封筒を差し出した。その気遣いを有難く感じながら、頭を下げてそれを受け取った。
ぱんぱん、と女主人は手を叩き、それに負けじとするように高らかに言った。
「お前ら、若いんだから貯金なんてしようと思うなよ。もらった給料はその日にぱーっと使っちまえ。呑む、打つ、買う、なんでもござれだ。若いんだから好きにやれ。何せ――明日戦争が起こるかもしれないんだからな」
女主人はけらけらと笑って売り物の生ビールをジョッキで豪快に飲み干した。
戦争が起こる……本当に起こるのだろうか?
「まさかな」
国道沿いの常夜灯に不自然なまでに明るく照らされた遊歩道を自転車で走りながら、蝶太郎は苦笑を滲ませて呟いた。
ここ数年、蝶太郎が中学校に上がったくらいの頃から、誰からともなくそんな冗談が語られるようになった。
いわく、
『どうも近いうちに戦争が起こるらしい』
蝶太郎はたぶん、それをクラスメイトからはじめて聞いた時、笑ったと思う。
だって笑うしかないだろう。
朝のニュースを見ればハリウッド映画の宣伝に『今年の夏はこれで決まり! “カワイイ”に差をつける完璧コーディネート術』だとか、まるで国民の総意でもあるかのようにスポーツニュースを垂れ流し、ときどき生真面目ぶったように不幸な事故や事件を取り上げる。
テレビを点けたって、周りを見渡したって、そこには戦争の『せ』の字もなかった。教室の窓からは戦闘機の一つも見つけることはできなかった。
にも関わらず、情報の出自もはっきりしない、言ってみれば噂話の域を出ない「僕らの戦争」は勝手に一人歩きをはじめる。
蝶太郎の家の隣に住む老夫婦がぱちぱちと駒を鳴らして縁台将棋を挟みながら「戦争がはじまるらしいねえ」なんて暢気極まりない声が垣根の向こうから聞こえた時、蝶太郎は自転車ごとひっくり返りそうになった。
恐るべきことに「僕らの戦争」はついに学外にまでその根を生やしたのだ。
誰だか知らないが、最初に言い出した奴は今頃さぞや愉快だろう。いい大人がありもしない戦争を語っている姿は実に滑稽で、これが面白くないはずがない。
蝶太郎は目的の本屋を見つけて駐輪場に自転車を停めた。
本とゲームとレンタルDVDを一緒くたにした、二階建ての大きな店。ベストセラー小説ばかりが平積みされて品揃えは決してよくはなかったが、夜遅くまでやっている貴重な本屋なので蝶太郎も三菱もよく利用している。
女主人の、「明日戦争が起こるかもしれないんだからな」という言葉に当てられたわけではない。そもそも戦争が起こる可能性について、蝶太郎は一パーミルだって信じていない。
彼女に振られた傷はまだ生々しく肉が割れたように疼いている。ふっと気を抜けば途端に惨めにじくじくと痛み出す心をどうにかしたかった。
人によってはカラオケやバッティング・センターかもしれないが、蝶太郎は本を買うことでそれを実行しようと考えた。
一冊や二冊ではない。せっかく給料が入ったのだ。少しでも目についた本は片っ端から買ってやろう、という気概である。つまり、衝動買いだ。女主人の言葉を借りるなら、ぱーっと使うのだ。普段、高値でなかなか手を出せないハードカバー・ブックだって買ってやる――この痛みを忘れさせてくれるなら。
どよん、と音を立てるように暗い雰囲気を纏いながら、蝶太郎は背を丸めてステップを上がった。
瞬間、
ミラーハウスに片足を突っ込んだような感覚。
「……うん?」
人の気配を感じて、いつもより三倍くらい重くなった頭を持ち上げる。
店の入り口の横に、自動販売機ほどの大きさのレンタルDVDの返却ポストがある。
それにだらしなくもたれ掛かりながら、そいつは蝶太郎の姿を見て「やあ」と力なく手を挙げた。
お前は登山でもしてきたのかと突っ込みを入れたくなるような、しわしわの紺のベストによれよれの鼠色のネクタイ。
いや、ひょっとしたら本当に登山でもしてきたのか、よく見れば顔色も優れない。髪もぼさぼさだ。
しかし眼鏡の奥で、やはりそいつは余裕ぶって、イタズラ小僧のようにニィッと笑うのだ。
蝶太郎は再び鏡と対峙する。
そう――ついに未来人が現れたのだ。
「……何してんだ、お前」
とりあえずタイムパラドックスが起きていないことに安堵しつつ、ぶっきらぼうに蝶太郎は未来人を睨みつける。
「年上のお兄さんに対してお前呼ばわりは感心しないね」
「あのなあ……」
「そう、あれから少し、考えたのさ。僕の名前について。僕は君からどういうふうに呼ばれたらいいのだろう、とね」
「先に言っとくが、口が裂けたってお兄さんだなんて呼んでやんねえからな」
「――牡丹」
「はあ?」
呆れ顔の蝶太郎に、未来人は薄く微笑み口ずさむ。
「松に鶴、梅に鶯、桜に幕。藤に不如帰、菖蒲に八橋、萩に猪。芒に月、菊に盃、紅葉に鹿。柳に小野道風、桐に鳳凰……」
歌うような調子だった。声が透き通るように綺麗なのがやけに腹立たしい。
「店の前でやめろよ。なんだよ、呪文か、それ?」
「まったく察しが悪い子だね……牛尾さんと花札はやらなかったかい?」
「花札――?」
ああ、なるほど、と一拍遅れて蝶太郎は得心する。
松に鶴、梅に鶯、桜に幕……こいつは花札の絵柄のことを言っているのだ。花札は「こいこい」を数回しか遊んだことがないので、気づくのが遅れてしまった。
「なかなか洒落てるだろう? 君が『蝶』で僕が『牡丹』。完璧な一対だよ。僕らは二人で一つなんだ。睦まじくやろうぜ、蝶くん」
「その呼び方はやめろ――牡丹」
蝶太郎という名前も大概だが、さすがに牡丹はいかがなものだろうか。水商売の源氏名を彷彿とさせる。そもそも男に花の名前はどうだろう。
しかし、呼び名があるのは素直にいいことだ。名前が未来人ではちょっとかわいそうだし、互いに「蝶太郎」と呼び合うのは混乱を招く。
「……で」
身体が磁石になってしまったようにぴったりと冷たい返却ボックスに半身を張り付かせる牡丹を怪訝そうに見遣る。立っているのがやっと、みたいな風情である。
「素敵な呼び名が思いついたから、わざわざ俺の前に現れたのか?」
「そんなわけ、ないない。――今日は九月二十五日なんだなあ、と月を見ていたら懐かしく思い出してしまってね」
ひくり、と蝶太郎の瞼がゆっくりと痙攣する。
「九月二十五日だと、何か問題があるってか?」
「今日は給料日。蝶くんはここへ本を衝動買いしに来た。違うかい?」
「……違わねえよ」
もうこの男を前に嘘で取り繕うことはしない。
「ねえ……蝶くん」
「なんだよ」
「今日は帰った方がいいと思うんだ。この店の中に入っちゃいけない。本は明日にでも買いに来ればいい」
「はあ? 店の中に入っちゃいけない?」
突然、こいつは何を言い出すのだ。
首を傾けて店内を窺おうと試みるが、巨大なクレーンゲームの筺体に阻まれてどうなっているか判らない。少なくとも、騒がしいということはなかった。
「普段通り営業してるんじゃないのか」
「男が店の中で包丁を振り回して暴れているとでも思ったかい? それはミステリー小説を読み過ぎた者の危ない発想だね」
「お前が言うなよ」
まあ、図星なのだが。
未来人――牡丹は、時間がないかもしれない、と言い添えて、端的に、一言で云った。
「店の中に彼女がいる」
がつん、と見えないハンマーで叩き潰されたような、衝撃。
次いで、彼女、という言葉の意味を脳内で咀嚼し、息が詰まった。
酸素を求める思考が徐々にまとまりを持たなくなり、構築していた秩序はばらばらに解れ、頭の中が急速に真っ白になる。
汗が吹き出す。吐き気がする。悪寒。震えが止まらない。
牡丹に対して生意気な口をきいていた数分前の自分を殴ってやりたかった。
「彼女は――」
牡丹は一度、そこで言葉を区切る。
「他の男と、一緒にいる。そんなもの、見たくはないだろう」
とどめの一撃だった。
とどめの一撃の――はずだったのだ。
「いや……行く」
牡丹を見向きもせず、ほとんど自分に言い聞かせるように呟いて、震える足を動かした。
クレーンゲームに片足をぶつける。
(動けよ……足っ!)
俺は強くならなければならない。
どうして人は強くならなければならないのか?
――それはたぶん、こういうことだ。
多かれ少なかれ、人は痛みを求めている。
(いや……人じゃない。問題を摩り替えるな)
俺は痛みを求めていたのだ。
本を衝動買いすることで救われる心がないことなど、本当は知っていたのだ。
そこへ向かえば痛いことは判りきっているのに、もしかしたらその痛みが一生癒えない傷を残すかもしれないのに、それでも、
(それでも!)
その痛みによって救われる日が来ることを、蝶太郎は信じる。
だから逃げない。ちゃんと見る。痛みをしっかりと胸に刻みつける。同じ間違いを繰り返さないように、痛めつける。そしてまた更なる痛みを迎え入れるために、俺はもっと強くなるのだ。
店内の角――児童書のコーナーで、やっと見覚えのある女の背中を発見した。彼女だ、と思わず口に出しそうになった。
そしてその隣には背の高い、蝶太郎と同い年くらいの男が、しきりに女の腰を撫で回している。
こんなに夜遅い時間では、児童書のコーナーに人は寄り付かない。蝶太郎も探すのを手間取ったほどだ。
だからこそ、なのだろう。カップルがいちゃいちゃするにはもってこいというわけだ。
痛みと怒りが、セットになって心を絞めつける。今なら血だってどばどばと吐けそうだ。
ふと気配を感じて視線を落とすと、蝶太郎の傍らに幼い女の子が立っていた。女の子も、やはり若い二人の方をじっ、と凝視している。ほどなくして、いや、いや、をするみたいに、小さな丸い身体を揺らし始めた。
もしかして……児童書を読みたいのに、二人がいるから行けないのだろうか?
そう結論付けた途端、蝶太郎の頭がかっとなった。
これ以上、この場に留まり続けていても仕方ない。店員を呼んで、さっさと去ってしまおう、と片足を後ろに出した瞬間、
「お兄さんに任せなさい」
頭上から声がした。
振り向くと、牡丹の顔が目の前に迫っていた。
「ぼ、牡丹?」
驚く蝶太郎を無視して、牡丹は女の子の頭をふんわりと撫でた。
「今からお兄さんが退治してあげるから、ちょっと待ってるんだよ」
「た、退治って、お前……まさか!」
そのまさかだった。
テレビCMのワンシーンのように、牡丹はベストを颯爽と翻して、アメリカン・ワルツを踊るようにステップを踏む。それから助走をつけて、拳を、思いっきり――男の右肩に叩きつけた。
「神聖な本屋で乳繰り合ってんじゃねえぞクソガキがあ――――――――――――――――!」
牡丹の雷鳴のような怒号で、にわかに店内がざわつき出した。
「あいつ……やりやがった」
呆然とする蝶太郎とは対照的に、女の子はきゃっきゃと手を叩いてはしゃいでいる。将来が心配だ。
牡丹が猛ダッシュでこちらに帰ってきた。
「え、ちょ、おま、止まれ! ぶつかるから!」
「はははっ、逃げるよ、蝶くん!」
牡丹はあどけなく笑い、蝶太郎の手を取って走り出した。
ほとんど引っ張られるように足をばたつかせながら、蝶太郎は、
(あの男……鴨居慎平だったな)
殴られる瞬間、横顔がちらっと見えただけだったが、あの男は『消える魔球事件』の張本人、鴨居慎平だった。
牡丹と蝶太郎は店から踊り出て、迷うことなく路地裏に逃げた。
住宅街の合間にある人気のないコインパーキングに忍び込み、自動販売機でコーラを二つ買った。
もちろん、蝶太郎のポケットマネーだ。牡丹は一円たりとも金を持っていないのだと偉そうに言い張る。
「あー……」
一息つき、蝶太郎は地べたに座り込んで、ゾンビの呻き声のような溜息を吐いた。走りに走って、身体はくたくただった。しばらく、ここから一ミリだって動きたくなかった。
「蝶くん……実を言うとさ」
そんな蝶太郎に覆い被さるように、牡丹はやわらかく抱き締めた。
もう知らん。どうせ俺が俺を抱いているようなものだ。振り払う気力もない。
「僕はとても嬉しかったんだよ」
あんまり優しい声で囁かないで欲しい。
疲れている身に、それは辛い。
変な表現だけれど……委ねたくなってしまうから。
「……嬉しい? 最悪の間違いだろ」
「いいや、嬉しかったよ。とても、すごく、最高に、ね」
「お前も……十年前に、あの店で彼女に会ったのか?」
「そうだよ。僕の頃には、『牡丹』なんていう素敵な未来人は現れてはくれなかったからね。彼女に振られた、お給料が入った、さあ本をたくさん買おう、と店に入ったらあの仕打ちさ。半狂乱で店を出て、そして――ここにひとり辿り着いて、コーラをちびり……ちびり……と飲みながら、泣いていたんだ」
牡丹の骨ばった肩に顎を乗せ、蝶太郎はぐるりと辺りを見回した。
パーキングはにおい立つような濃い闇を湛え、まるで悪魔がこの世から音を消し去ってしまったかのように静まり返っている。
こんな暗くて寂しいところに、牡丹は…………。
「じゃ、じゃあ……なんだよ。お前……俺のこと、わざわざ助けに来てくれたのか? だから待ち伏せしてたのか?」
「そうだよ。僕と同じ目に遭わせたくなかった。なのに……」
牡丹の腕に力がこもる。
「君は、それでも彼女に会いに行こうとした。辛くて、苦しくて、ただ痛いだけなのに……そのことが、僕にはたまらなく嬉しいんだ。逃げないで、ちゃんと立ち向かってくれたことがね」
「じゃあ、俺も、ひとついいか?」
「ご自由に」
「――殴ってくれてありがとう。せいせいした」
くすっ、と牡丹は少女みたいに笑う。
「どういたしまして。君は僕にできないことをやってくれたから、そのお礼だよ。君にできないことを僕がやっただけさ」
「なあ」
「うん?」
「どうして、過去にやって来たんだ?」
「知りたい?」
「当たり前だっつうの。俺に隠れてこそこそやってるみたいじゃないか。お前だろ? 牛尾さんに変な依頼したのって」
「あははー……ばれてましたか。まあ、依頼というか、お金持ってないから相談だけね。こっちで頼れる大人っていったら牛尾さんくらいだし」
頼れる大人に『父親』が含まれていないことに不思議と納得してしまった。あの人は、母親が家から出て行くと脆くなってしまった。認めたくはないが、蝶太郎の脆さは父親譲りなのだろう。
「牛尾さんに何を話した。ちゃんと言え」
「うん……驚かないで聞いて欲しいんだけどさ」
耳朶に唇が触れてしまいそうなほど顔を寄せて、牡丹は囁いた。
「今から十年後――この町にミサイルが落ちてくる。そのミサイルを何とかするために、僕はやって来てしまった……そんなところかな。では、蝶くん、おやすみなさい。もう僕はお腹が減って限界です」
本当に限界がやって来てしまったかのように、蝶太郎に上半身を預けるようにして、牡丹は崩れ落ちた。
「え、ちょ、おい、うわあ……マジで寝たのかよお前……」
すーすー、とすでに牡丹は寝息を立てている。
「はあ……こっからタクシー拾えるかなあ。ああ……ってか、こいつ、俺の部屋に泊めなきゃなんねえのか……」
ひとりぼっちの蝶太郎は夜空に向かってぼやいた。
「落ちてくるのかねえ? 本当に……」
辺りはしんとして、汗ばんだ肌に夜風が冷たい。
ミサイルには似つかわしくない、月ばかりが綺麗な夜だった。
<続>
無題