火遊び

火遊び

勝負

 「結婚する気がないのに、こんなことになってごめんなさい。」
 育ちの良いセックスフレンドは、申し訳なさそうな顔をしてそんなことを言った。悪いと思っていない。まるで、幼稚園児が隣にいる子のボールを取ってしまい、喧嘩になって相手の子を泣かせた末、担任の教師にしぶしぶ謝るときの顔だ。謝れば許されると思っている。脳内お花畑のクソガキである。この一言は潔く、彼が私にとって物凄い失礼だということに気づいていないことが伺える。そして、この一言を言われた瞬間に、8歳年下の彼と32歳の私の上下関係がはっきりついてしまったことを認識する。

 「あなた、悪いと思っていないでしょう。子供ができて、堕胎した後、私がどうなるかわかってないでしょう。もう、32歳なんだよ。今後、もう恋愛も結婚も出来る気がしないよ。」
 と、完全に私は当たる。涙をポタポタと流しながら。仕事で泣きたいことなんか山ほどあり、けれどその全ては泣いてはいけないときだ。彼と会う前から、私は自分が恋愛も結婚もできない人間だとわかっていた。わかっていなければ、彼になんか手を出さない。彼は社会人になったばかりで、実業団のラグビー選手で、体を狙ったのは私の方だ。自分が悪いのはわかっているのに。ただどうしても誰かに当たりたくて仕方ない。

 カフェで隣のテーブルにいるカップルが気まずそうに沈黙している。明日は我が身かもしれないと思い知れ。
 グレープフルーツジュースのグラスに水滴がつき、テーブルの上につるりと落ちた。

 彼はもじもじして私の出方を見ている。ラグビー選手として頑張ってはいても、私立の学校をエスカレーターであがってきたような彼は、自分が愛されて許される生き物だと思っている。
 私がここで引かなければ、空間が終わらない。しかし、終わらせたくない。自分自身が過度のストレスを抱えていたことに私は気づく。新卒で入った会社はブラックともいえるITベンチャーで、同期はほとんどやめ、私はこの年で部長になった。入社したときは絶対に続かないと思っていたのに、負けず嫌いな性格のせいか、がむしゃらに目の前にある壁を越えることを考えて過ごして来たら、ここまできてしまった。学生時代の彼氏とは入社後3ヶ月で別れることになり、それ以来、特定の彼氏はできていない。

 彼と出会ったのは半年前だ。母に言われたお見合いに行ったら、高学歴で仕事ができなそうな童貞の男が震えながら待っていた。彼が36歳にもなって歯列矯正を始めたのは、パートナーを見つけたいためだろう。ガタガタと音を立てるティースプーンを見つめながら、全然だめだと思う。幼い頃、田舎で過ごしていた頃は楽しかった。自分がまっとうな大人になって幸せな人生を歩んで行くと信じていたのに、どうしてこんな状況になってしまったのだろうと、帰り道ぼんやり歩いていた。そのとき、コンビニ前で顔の綺麗な年下の男の子にぶつかった。おみくじ感覚で追いかけて連絡先を渡したらびっくりしていたけれど、その日すぐに電話がきた。恋人と別れて傷心していた彼につけこみ、次の日にはセックスしていた。

 「もういいよ。帰るね。処理はなるべく1人でするから。」
 とそれだけ言って立ち上がる。うつむく彼を放って、ヨロヨロと歩いて店を出る。涙がまだ出ていることに気づかなかったせいで、お気に入りのトップスが濡れているのが、何故なのか一瞬わからなかった。
 種を植えて、木を育て、果実を実らせるという当たり前のことが、私はできていない。売り上げを認められても、いくら仕事ぶりを褒められても、年収が跳ね上がっても、私は何もできない。仕事ができて、生理前にセックスフレンドを使って性欲処理をすれば、全てはうまく回っているような気がした。人からおかしいと言われても、私の価値観では正常で何の問題もなかった。妊娠と性病には気をつけなよ、と言った学生時代一番仲がよかった友達の顔を思い出す。彼女は今月末皮肉にも結婚する。
 お腹に誰かがいる、というほど怖いことはない。そして、その誰かを殺すほど辛いことはない。どうしてこんな嘘、ついてしまったのだろうと私は考える。終わりたいなら普通に終わればよかったのに、どうして、どうして、と考える。

空の彼方に

 中絶という嘘をついたのは今回が初めてではない。
 32年も生きてくれば、こういうことだってないわけではない。私はどこかで、自分がもう恋愛も結婚も、一生できない女だという確信を持っている。信じていればその通りにしかならないのに、どうしてもそれが真実としか思えない。

 困った彼を置いて、家に帰り、シャワーを浴びてから会社の接待に参加した。
 一旦仕事をしてから、彼との待ち合わせの喫茶店に行き、そしてまた仕事に戻る。そのことに違和感はない。
 シャワーの音に混ぜて泣いて、涙なのか鼻水なのかよくわからないものを全て水で流し、泣いていたのを隠すために濃い化粧を暗い中していたら、タクシーの運転手から「ご出勤ですか。」と言われて吹き出した。
 中学生の頃はスポーツ刈りに近いショートカットだったのに、今の私は所々細くハイライトカラーを入れた巻き髪のロングヘアである。爪はどこまでも鋭く長く、薬指以外は濃いピンク、薬指だけはギラギラのラメで固めている。社会人になってからどんどん派手になり、既に収集がつかないレベルまできている。ホステスですと言っても皆信じるだろう。

 こんな細い腰で身ごもっているわけがないだろう、と自分で思う。
 タクシーがつき、ピンヒールで六本木交差点近くにある少々高めの居酒屋に向かった。白いツイードのセットアップは、やはり水商売っぽかっただろうか。リクルートスーツに身を包み、化粧っけのない顔で、固い田舎育ちの世間知らずだった頃が懐かしい。地方の国立大学を出て、東京に住むことになったときは右も左もわからなかった。営業職についてから、外見が良いことが成績につながることを知った。美人だ美人だともてはやされ、派手な服と化粧、お決まりのクロエの香水が私のアイデンティティになった。

 居酒屋に入って先に待っている間にどうにか気持ちを落ち着けて、クライアントを迎え、私はいつものようにお酌をした。適当に話を合わせ、自然に売り込みをした。料理もアルコールも味がしなかった。顔には笑顔を貼付けていたけれど、全然楽しくなかった。その場には4人いた。上司と私と2人のクライアント。確かに4人いるのに、どこまでも1人の気がした。相手側の1人が、酔っ払って私を褒めて、手相を見たいと言って手を握った。
 「沙織さんほどの美人だったら相手を選ぶのは大変じゃないですか〜」
 「いやいや、大したことないし、困ってますよ〜」
 どうでもいい会話を飛び交わせてヘラヘラ笑う自分は、なんなんだろう。
 いつもは全然平気なのに、ひどく気持ち悪かった。

 いないはずのお腹を抑えて、ごめんと思った。頭がおかしいのかもしれない。
 ごめんと言った相手は、いないはずの子供ではなく、間違いなく自分だった。何かを殺して上って来た場所がここならば、私はなんて大したことがない人間なのだろう。

子供

 翌朝、ベランダで水を飲んでいた。
 飛んでいる鳩が見え、生きていくことはただ単純なことなのだと改めて気がついた。
 夜はあまり寝れず、朝までがひどく長かった。

 「子宮の形に問題があって、妊娠が難しい体かもしれないですね。」
 と言われた26歳の自分を思い出す。
 ブライダルチェックを婦人科で検査を受けた結果、そう言われたのだった。

 その頃、友達の開いた飲み会で出会った一回り以上年上の開業医を好きになった。
 今よりも男の人から夕飯をおごってもらえる機会が多かったし、可愛いと言われた。私は彼氏を決めていなかった。その頃連絡をとっていた何人かの人は裕福で、アパートのそばまで車で迎えに来てくれ、デート代を全て持ってくれるような人だった。着飾れば着飾るほど、そういう人種の男達が近づいてきたから調子にのっていた。大学卒業後3年働いて、疲れが出ていたのもあると思う。
 そしてその中で、一番気に入っている人と結婚してしまいたいと考えていた。大病院の息子である彼は、育ちの良さがそのまま表れたような人で、一緒にいると安らいだ気分になれた。仕事は変わらず忙しかったけれど、癒されるとはこういうことかと思ったし、彼もそう言ってくれた。私にはもう一生回って来ないチャンスとさえ考えていた。
 高級住宅街の一軒家で、穏やかで優しい彼に養われながら、子供の受験に燃える母親としての役割をこなすことを本気で目指していた自分のことを今冷静に考えると、かわいいとさえ感じる。

 どうしよう、と当時の私は考えていた。
 病院からの帰り道、気が動転し、途中で胃液を吐いてしまうほどだった。頭ばかり必死に回転させ、どうにかできないものかと考えていた。きっと彼は、子供が産めないかもしれない、と言ったら、簡単に私を切り捨てるだろう。優しいけれど、それは裕福さが生む優しさであって、本当の優しさではない。そこそこに人に恥じない程度の奥さんが欲しいだけで、私のことを愛しているわけではない。全て理解した上で、それでも進めようとしていた話だったのに。
 義母になる人は日本舞踊の先生をしていて、とても綺麗だけれど、とても怖そうな人だった。ブライダルチェックの指示を出したのも抜け目ないが、嫌みと感じるほどの余裕がその頃の私にはなかった。家柄の違う自分を受け入れてもらえるかもしれないチャンスだったのに悔しいと本気で考えていた。

 悩みに悩んで、私は医者との連絡を絶った。
 面白いのは、私たちが付き合っていなかったことだ。
 お互いに何人かの異性と連絡を取っていて、お互いに疲れていた。居心地が悪くない相手で話を進めてしまいたい、という共通認識だけが、私たちの一番深い絆だったように思う。

 急に連絡をストップしたのに、彼からはなんのレスポンスもなかった。
 その医者はその後、別の誰かと結婚したが、本人自体が膵炎になり死にそうになっていたと誰かから聞いた。

 妊娠するわけがない体だとしたら中絶をできるわけがない、と自分に問いかける。
 そして、もっと自分を大事にしろと自分自身に伝えるが、それが届くのはいつになるのかよくわからないと思う。

 ごくり、とベランダで水を飲むと、自分が爽やかに生きているような気持ちがするが、実際は散らばり過ぎた感情も現実も収集がつかないし、散らかっていないものを散らかしてしまいたい衝動を抑えきれない。
 幸せ、とか、そうじゃないとか、そういう価値観があるとしたら、今の私はどこにいるのだろうと、ふつふつと考えていた。
 

火遊び

火遊び

  • 小説
  • 短編
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2014-05-03

Copyrighted
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  1. 勝負
  2. 空の彼方に
  3. 子供