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九十






 行き来する人の中にはオープンした玄関の近くで結ばれているような長い紐もなく,大型犬としてじっとしている一匹と保護者の姿を探してしまう歳の小さい子が同じ高さで揃っていた。店内の様子が窺える大きいガラス窓の前で一方は座って,もう一方は立っている。きちんとした身なりという点は,勿論それぞれに違いがあるけれども同じに見えた。育ちの良さはともに窺えた。起立して伸ばした手はチェックの半ズボンの縫い目に沿い,靴下を履いていない犬は命ぜられた待ての姿勢を崩さない。ときおり互いに顔を見やることから,作りものじゃないと判断したという冗談も聞こえてくる。頬張られずに舐められたまま目の前を通り過ぎた大きなキャンディーについても,もっと大きく,もじゃもじゃの他の犬が興味を向けて鼻をすんすんとさせても変わりがなく,口を手で隠して欠伸をする姿に妙に安心したという人の気持ちが分からないでもない。ガラス越しの店内へと写した視線を戻して声をかけ,腰を屈めて聞いたことは皆が共通しており,そして返事として受け取ったことも皆が共通していた。首を傾げながらそれを持て余していたことも。それは流暢なフランス語のようであったといい,親指と人差し指の間に挟んでそれを見せるある年配者は,カフェのテラスで椅子に奥深く腰を沈めながら光の照り返しに目を細めている。それは素直な頷きで,続けて聞いた返事は取り立てて話すことでもないという女性は,しかしながらブロッコリーを刺したフォークを持ったまま,視界に入るように大型犬を探している。パスタのソースが垂れている。きちんと聞いたことがある話を買い付けに来たと言って,雑貨屋の店主を困らせたのはしゃっくりが止まらない先生で,喉ぐすりをしこたま渡して帰したらしい。料金は全額をし払って貰っていないとは聞く。
 ボックスの公衆電話の受話器は取りながら,使い込んでよれた革の財布の中から硬貨を必要な分だけ取る。開けたチャックの口が狭いために探すのには相変わらず困る。より分けながら一枚一枚を電話機本体の上部に乗せていく。表面が古びたものは最後になった,新しく見えるものから投入していく。プッシュ音は耳の中に現れる。電話番号は諳んじられる,本当に長いから大したものだと褒められるものだ。最後の数字を押し終わればコールが切れて,相手が出て来る。
「ハロー。」
  はこういう時に言うものだ。
「ハロー。今日は早いのね。」
「調査,という程のものでもないんだけど,まあその聞き込みが思ったより時間が掛かりそうでね。だから早めに電話を掛けた。そういう意味では,確かに『早い』ね。」
「ふふ。減らず口はいつも通りだから,心配はいらないわね。」
「そういうことだね。何か買って来るものは?」
「そうね。卵と牛乳と,玉ねぎかしら。」
「普通だね。」
「あら,普通じゃいけない?」
「いやいや,張り合いってやつが足りないってことさ。」
「悪い癖ね。」
「どうにも抜けなくてね。」
「じゃあ,とびきり重いものをお願いしようかしら?」
「両手がふさがると,電話も掛けられなくなる。」
「あら,電話は帰って来てから出来るわ。」
「話し相手は目の前にいるのにかい?」
「電話は誰にでも出来るわ。」
「確かに。こうしてね。」
「ええ,こうしてね。」
 硬貨はもう無かった。かしゃんとどこかの音がする。
「じゃあ,話はあとでしよう。」
「あら,何の話かしら?」
「そうだな,」
 と置く間は勿体無い,という。半透明のプラスチック板の向こうで小型犬がキャンとひと鳴きして,花束を持ったお嬢さんが驚いているのが分かった。お腹が出ている中年の男性は梯子を持って諸々の道具をぶら下げて歩いている。漕がれる自転車に乗っているのは長いパン,それと溌剌な青年。後ろには誰も乗っていないのが,軽快な速さの理由になりそうな気がするのは,気のせいじゃない。
 首に手を回された大型犬と,それからは長い。
「そうだな。」
 と二度目を言ったところで電話は切れた。通話音は聞こえていた。だから続きは後で,話すことにしよう。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-03

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