マスク

【6月15日 水曜日】

 幸村隆敏は封筒をめくり、中に入っている紙を机の下で広げた。書かれている数字を見て、大きな溜め息をつく。今回は例月に比べると、気持ちばかり無遠慮に残業代を付けたつもりでいたが、それでやっとこの金額かと思うと非常に虚しい。半年前と比較して、二割弱も落ちている。あのときの水準まで戻すのに、あと何カ月、いや何年かかるのだろう。先週支給されたボーナスも、社会人になってから最低の金額だった。幸村は頭をかきむしり、その給与明細を乱雑に鞄の中へしまった。
 幸村は、郊外の駅前に建つ小さなビルの3階にある、損害保険会社の支社で働いている。会社の業界内での地位は中堅といったところだが、実際に世間で広く認知されている保険会社は上位数社だけなので、営業回りをしていても、知名度の低さゆえの苦労は多い。
 幸村が中途採用でこの会社に入ったのは、前年の秋頃だった。前職も金融関係の会社に勤めていたが、職場の同僚達との人間関係がどうもうまく行かず悩んでいた折に、突然僻地への転勤を言い渡されたため、良い機会だと思って会社を辞めた。その時点で再就職先は決まっていなかったが、住んでいるアパート(幸村は前の会社にいる頃から一人暮らしをしており、辞めてからも、田舎で就職口の乏しい実家には戻らず、そのアパートに住み続けたまま仕事を探していた)近辺にあるこの職場が、偶然社員を募集しているのを転職サイトで発見して、応募した。交通費支給の必要がないという、会社にとっての好条件も手伝ってか、幸村は運良く採用された。
 幸村の席からは一番遠いデスクで、入社2年目の若手社員、関本康平が電話をしている。「一番遠い」と言っても、この支社にいるのは幸村を含めて7人だけであり、関本の机も幸村の机から桂馬の動きをしたところに位置していて、大した距離があるわけではない。
「はい、桜橋口方面ですね。承知いたしました。今から伺わせていただきます。はい、認印で結構ですので」
 関本は、電話の相手が目の前にいるかのように背筋を伸ばし、メモを取りながら話していた。ただでさえ長身で座高も高い彼が姿勢を正していると、周囲から頭一つ抜けている状態になる。
 やがて電話を切ると、書類の入ったクリアファイルを素早くブリーフケースに入れ、「行ってまいります!」と言いながら、飛脚のように足早に出て行った。関本は最近、担当顧客がどんどん増えて、営業成績も顕著に伸び続けている。
 幸村は、机の上にある書類の束に目を通し始めた。関本を含めた各営業担当から回ってきたものや、営業所から郵送で送られてきたものなど様々だ。これら書類のすべてに対して、今から自分がしかるべき処置を下していけなければならないと思うと、それだけで胃が痛くなる。
 幸村は、春の人事異動に伴い、営業職から査定および事後対応の仕事へと担当が変更になった。保険金の支払いにあたってその請求内容を吟味したり、実際に顧客対応や交渉をしたりする。支社長からはキャリアアップの一環だと言われたが、幸村自身は「嫌な役を押し付けられた」としか思っていなかった。堅気の人間かどうかも怪しい顧客からのクレームと、日々向き合わうことも煩わしかったし、何よりこの仕事は、管理職側から成果をどのように判定されているのか分かりづらい。成績が数字で表れる営業と違って、現在の幸村の仕事は、定量的な成果が表に出てこない。そのため、現在の制度の下では、給与削減の格好の餌食になってしまう。幸村はそんな不満を抱いていた。
 今年の春から、会社の給与制度が大幅に見直された。変更の内容について、会社側はいわゆる「成果主義」の導入と銘打っている。しかしそれは名ばかりで、実態としては給与の削減である。個々人の給与額における、人事考課によって変動可能な領域を増やすことで、会社全体としては給与総額が下がるよう調整できる。明らかな好成績を出している社員は別にしても、それ以外の社員については、なんとでも理由を付けて給与を下げることができる。御多分に漏れず、幸村の給与も制度導入前より大幅に下がっていた。
 関本が出て行ったあとも、フロア内には、残された社員達の電話の声や、キーボードをタイプする音などが響き、慌ただしい空気が漂っていた。成果主義の導入移行、職場の雰囲気は、以前より明らかにピリピリしていると感じられる。
 机の下で脚を組み換えると、太腿の裏が汗でねっとり湿っていることに気付いた。エアコンの使用が今週から解禁になったが、経費削減を目的とした弱冷運転のため、室内は生ぬるく、窓を閉め切って密室になったフロアには、よりいっそうの息苦しさが生まれていた。幸村は首のボタンを二つ目まで開いて、中を団扇で扇ぐ。客先に行くとき以外は、クールビズが認められている。
「内藤さんすみません、ちょっとまた明日までにやってほしい処理があるんですけど……」
「えぇ? あ、はい、いいですけど」
 幸村から二つ左隣のデスクにいる内藤小百合に向かって、戸津田裕二が仕事を依頼している。戸津田は40歳半ばくらいであり、代理店営業を担当している。通常ならば何かしらの役職を与えられていてもよい年齢だが、彼は何の業務を担当しても成績が芳しくないため、出世コースから完全に離脱させられているようだ。小太りの体をアニメキャラのようにピョコピョコ動かして内藤に仕事の説明をする姿には、中年男性の持つべき貫録がまるでない。
 内藤は戸津田の依頼を承諾したが、返事をする声の低いトーンには、あからさまに不満のニュアンスが含まれていた。成果主義の導入移行は皆、自身の成績向上に直接結びつかない仕事を、一般職である内藤にどんどん依頼する傾向が強まってきている。とは言え、幸村を含め大体の人は、一般職という内藤の立場を考慮して、なるべく単純な作業だけを依頼するようにしているが、特に戸津田などは、自分の業務が逼迫すると、見境なく内藤に仕事を任せようとする。次から次へ降ってくる仕事に、彼女はそろそろ嫌気がさしているのだろう。

 午後の鐘が鳴るのとほぼ同時に、午前休暇を取っていた橘道則が出社してきて、幸村の左隣の席に座った。橘は幸村より一歳年下であり、職場では最も年齢が近いため、普段から仕事終わりに飲みに行ったりなどもしていて、同僚の中では一番交遊の深い人物である。彼の見た目は、パーツごとの際立った特徴こそないが、じゅうぶん美男子に含まれる整った顔立ちで、金融機関の社員にしては長めな髪型も、すっきり綺麗に整えられて清潔感は損われていない。どちらかというと寡黙で、お世辞にも社交的な性格とはいえなかったが、仕事への取り組み方は非常に論理的かつ粘り強く、上司からの評価は高い。
 パソコンの電源を入れながら、橘は2、3度咳払いをした。よく見ると、顔にマスクを付けている。
「橘、体調悪いのか?」
「はい、ちょっと風邪ぎみで喉が痛くて。朝も病院に行ってたんです」
 ログインパスワードを一瞬で打ち込みながら、橘が返事をする。
「大丈夫か? 季節の変わり目は風邪を引きやすいもんな。エース橘がいないと会社は倒産しかねないんだから、気を付けてくれよ」
「えぇ、すみません。ありがとうございます」
 幸村の冗談に気のない返事をしつつ、橘はさっそく仕事に取りかかる。そのとき、橘の左の席の内藤が、キャスター付きの椅子をスライドさせて橘に近付いた。
「橘さん、昨日言ってた顧客先のリスト、共有ファイルに保存しときましたんで、見といてくださぁい」
「ありがとうございます。いつもすいません」
 内藤は、合コンに来た女子大生のように、シナを作ったしゃべり方をした。彼女が橘に話しかけるときはいつもこのような調子で、橘の肩を触ったりなどの不必要なスキンシップも多い。戸津田と話すときの事務的な対応とは露骨な格差があった。
 よく見ると、橘も内藤もマスクをしている。まるで新手のペアルックのようだと幸村は思った。もっとも、この日たまたま体調不良でマスクを付けてきた橘と違い、内藤の方はここ数週間程、毎日マスクを装着している。
 内藤がマスクを使用する理由について、幸村は勝手な想像をしていた。
 彼女はおそらく、自分を美人に見せるため、マスクを装着している。彼女の顔はおかめのような下膨れで、おまけに歯並びが悪く、お世辞にも美しいとは言い難かったが、マスクで鼻と口を隠せば、大概の顔はバランスが良くなる。あとは目もとの化粧さえ重点的に決めれば、誰でもそれなりの美女に見えるというわけだ。30代半ばになって未だ独身である彼女の、苦肉の策なのだろう。この推測は幸村の中ではほぼ確信に近く、今度橘あたりに話してみようと思っていた。
「戸津田くん」
 右方向から、ドスの利いた廣瀬支社長の声が静かに響いた。幸村の向かいにいる戸津田が、「はいっ」と上擦った声で返事をしながらドタドタと立ち上がり、支社長のデスクに向かう。
「亜興代理店のノルマ達成率、今月このままだと7割も行かなさそうだよね。このままで大丈夫なの? ちゃんと策はあるの?」
「は、はい、いま検討中ですが、必ず達成させます」
「必ず、という言葉の価値を、君はどこまで下げる気なんだろうね。結局いつも実現しないじゃないか。大体、この進捗率を知っていて自分から何の報告もしてこないのはどういうこと?」
 支社長の廣瀬哲士は、戸津田を滔々と質問攻めにしていた。廣瀬は、宇宙人のような痩せぎすの体に天然パーマというコミカルな見た目でありながら、仕事にはストイックで厳しく、とりわけ戸津田などはいつも容赦ない叱責を受けている。
 ぺこぺこと壊れたおもちゃのように頭を下げる戸津田を横目に、幸村は仕事を再開し始めた。午前中にチェックしておいた請求書類の中から、付箋を貼ってある客先に電話をかける。
「お世話になります、わたくし旭損害保険の幸村と申します。送付いただいております傷害保険のご請求内容についてお話を聞かせていただきたい点があるのですが、ただいま少々お時間いただいてもよろしいでしょうか……」
 相手にとって喜ばしくないことを伝えるには、できるだけ、昼食を食べ終わって腹が満たされているであろう、この時間帯を選ぶことにしている。「空腹だと人はイライラしがちだが、満腹のときは機嫌がいいので話が上手くいきやすい」と、前の会社の上司に教わった。とは言え、どの時間帯に電話してもこじれるときはこじれるので、これは気休めのようなものだ。昼食後でも構わず殺気立っている自分の職場を思い返せばよく分かる。

 予定通りに仕事を消化しきれないまま時間は過ぎ去り、気付けば20時を回っていた。フロアに残っているのは幸村と橘、そして武森由奈の3人だった。武森は橘の1年後輩、幸村からは2歳年下ということになる。童顔でかわいらしい見た目だが根はしっかりしており、担当している中小企業顧客からの評判も良好らしい。幸村の左斜め前の席で、自分の肩を揉みながら、ぐりぐりと腕を回している。
 幸村は立ち上がって口を開いた。
「疲れたなぁ。なんでこんなにぼこぼこ仕事が溢れてくるんだろう」
「ほんと、定時退社日が聞いて呆れますよねぇ」
 両手の指を組んで伸びをしながら、武森が答える。
「武ちゃんも、あんまり仕事ばっかりしてプライベートを疎かにしてると、内藤さんみたいに婚期逃しちゃうよ。気を付けなきゃ」
「ちょっと幸村さん、失礼ですよ」
 束の間の談笑で、フロアの空気が久しぶりに和やかになるのを幸村は感じた。橘は特に発言せず仕事を続けていたが、たまにマスクの下で小さく笑い声を洩らすことによって会話に参加していた。
「どうだ、虚しく散った定時退社日のかたき討ちとして、今から軽く飲みに行かないか? 最近はこのアラサー飲み会も御無沙汰になっていたしな」
 子どものように無邪気な表情で、幸村はデスクから身を乗り出し、二人に誘いかける。
「もう、私までアラサーに入れないでくださいよ。飲みには行きたいんですけど、今日はちょっとこのあと用事があるので、すみませんけど帰ります。お二人で是非行ってきてください」
「俺はもう少し残ることにします。午前中休んだ遅れを取り戻さなくちゃいけないので。すいませんが、また今度ぜひ」
 二人にあっさりと断られ、幸村はしぶしぶ着席する。
 数分後、武森は書類を片付けてパソコンの電源を切り、いつもの朗らかな笑顔で「おつかれさまでーす」と言いながら帰っていった。幸村は、橘が仕事を切り上げるまで残ろうかと思ったが、21時を過ぎても終わる気配がなかったので、「おつかれ」と声をかけて先に帰った。
 蛍光灯の薄暗い灯りに照らされたビルの階段を降りながら、幸村はまた溜め息をつく。最近、同僚達の付き合いが明らかに悪くなった。少し前まで、歳の近い橘と武森を誘って飲みにいくのが幸村の楽しみだったが、成果主義導入以降、職場の雰囲気が殺伐としているせいでなかなか誘いづらく、誘ってもまず捕まらない。
 橘や武森が釣れなかった場合、以前なら若手の関本を誘ったりもしたが、最近は彼も仕事にのめり込んでいるようで、めっきりつれない男になってしまった。真面目で気配りのできる仕事熱心な青年だった関本が、最近は「会社のため・諸先輩方のため」というよりも、ひたすら「自分の数字を獲得するため」に奔走している印象を受ける。
(みんな、変わってしまった……)
 物悲しさを感じながら、エントランスの重たい扉を押し開ける。涼しげな夜風が、幸村を出迎えた。


【6月16日 木曜日】

「完全に賞味期限切れの報告だね。なんで昨日の段階で言わなかったの?」
「いや、あの、すいません、ちょっと中身の精査に時間がかかっておりまして……」
 またもや戸津田が廣瀬に詰められている。腹の底へ直接響いてくるような廣瀬の声は、職場がどんなに騒がしくても認識できるが、みんな聞こえないふりをして仕事を進めていた。
 隣の橘は、今日もマスクを付けている。
「風邪、まだ治らないのか?」
「えぇ、熱があるわけじゃないんですけど、喉の痛みがしつこくて。体もだるいんです」
「お前、無理しすぎなんじゃないか? 昨日も帰るの遅かったろう。やっぱりあのとき、早く切り上げて飲みに行くべきだったんだよ。酒は百薬の長とも言うしな」
 冗談めかして幸村が言うと、橘は乾いた笑いだけを返した。
「戻りましたー」
 緊迫した空気を中和する快活な声が聞こえた。外回りに行っていた武森が戻ってきたのだ。その姿を見て、幸村は「おや」と思った。武森がマスクを付けていたからだ。
「武ちゃん、そのマスクどうしたの? 朝来たときは付けてなかったよね」
「いやぁ、それがちょっと……」
 一瞬間を開けてから、武森は小声で続けた。
「むかつくお客さんの相手して、ストレスたまったから、昼ご飯のときにビール引っかけてきたんです」
 武森は、尚も戸津田を責めている廣瀬の方をちらっと見やって、マスクの上に人差指をあてた。よく見ると、マスクに隠れていない頬周りが、微かに赤らんでいるようにも見える。相変わらずちゃっかりしているな、と幸村は思った。
 橘、武森、それと内藤。このフロアにマスクを付けている者が3人もいる。しかも、理由はそれぞれバラバラだ。マスクには多様な使い道があることを実感し、幸村は妙に感心した。
 ようやく廣瀬に解放されたらしい戸津田が、自分のデスクの前で一瞬悩んだあと、内藤の方へ歩いていった。
「内藤さん、すみませんけど、昨日頼んでた型別データの集計、やっぱり今日中にやってもらえませんか?」
「え? 今週中でいいって言われたからまだ手を付けてないんですけど」
「すみません、やっぱり今日中に資料をまとめないといけないことになっちゃって。ほんとに申し訳ないんですけど、お願いします、すみません」
 ふてくされた様子の内藤に向かって、芸をしているチンパンジーのように、戸津田は何度も頭を下げた。ボサボサの髪がかかったカッターシャツの襟足は黒く汚れている。一応は空調のかかった室内にいるにも関わらず、戸津田の額には粒上の汗が、文字通り水玉模様のごとくぽつぽつと浮かんでいた。

 夕方頃、幸村はビルの外へ出た。屋外にある喫煙所へ行くためだ。
 16時を過ぎるとさすがに日差しは弱くなり、そよそよと肌を撫でる心地良い風も吹いているため、密閉されてぬるくなった室内よりも外の方が涼しく感じられる。
 喫煙所には橘がいた。マスクを顎に引っかけて、立ったまま煙草を吸っている。ベンチくらい設置してほしいと、職場の喫煙者達でよく愚痴を言う。
「よぉ、おつかれ」
 幸村が声をかけると、橘は軽く会釈をしてそれに答えた。幸村は煙草をくわえて火を付け、煙を肺に行き渡らせる。
「橘、お前今月どんな感じだった?」
「何の話ですか?」
「給料だよ給料」
「給料ですか。まぁ、決して喜ばしい金額ではないですね」
「そうか。橘大先生でさえそうなんだから、きっと皆も似たような状況だろうな。俺も先が思いやられてくるよ」
 不安のガス抜きをするようなイメージで、幸村は大きく煙を吐いた。
「俺は独身だからまだいいけど、橘は結構深刻じゃないのか? 子どもさん、来年から幼稚園だったよな?」
「そうですね。おっしゃる通り、なかなか辛いです」
 橘もゆっくりと息を吐く。橘は見た目に似合わず肺活量が多いようで、もくもくと溢れ出る煙の量は、幸村のそれを上回っていた。
「でもまぁ、不満を言っていても解決しないし、前を向いてやっていくしかないですね」
 いつものように棒読みに近い口調でそう言うと、橘は煙草を灰皿に押し付けて始末し、血管の浮いた華奢な手でゆっくりとマスクを付け直した。橘のしぐさには、いつもどことなく不思議な余裕と、色気のようなものがある。彼のこういうところに、内藤のような盛りのついたメスたちはすぐ引きつけられるのだろうと、幸村は思った。
「じゃぁそろそろ、仕事に戻ります」
「おぉ、おつかれ。風邪も早く治せよ」
 去っていく橘の背中を見送りながら、幸村はまた大きく煙を吐いた。根元ぎりぎりまで吸うのは健康に悪いということを知っているが、現在の収入を思うと、一本一本をありがたくいただかなければいけないような気持ちになってくる。


【6月17日 金曜日】

 やじろべえのように体を揺らす独特の歩き方で、戸津田が出社してきた。幸村は視線をパソコンに向けたままあいさつをしたが、向かいの席に座った戸津田の顔が視界に入ったとき、思わずそちらを凝視してしまった。戸津田がマスクを装着していたからだ。
「戸津田さん、風邪ですか?」
「え? あぁ、うん、そうだと思う。ちょっと熱っぽくてね」
「おだいじにしてください。おい橘、お前がいつまでもこじらせてるから、戸津田さんにうつっちゃったぞ」
 幸村が笑いながら言うと、こちらも相変わらずマスクを付けている橘は、ひとこと「すみません」とだけ言った。
 ほどなくして武森が出社してきた。なんと彼女もまた、マスクを装着している。
「武ちゃん、今日は朝から飲んできたの?」
 幸村にそう聞かれ、一瞬きょとんとした表情になった武森だが、すぐに質問の意図を理解したらしく、破顔しながら答えた。
「ちょっとやだ幸村さん、さすがの私でもそんなことしないですよ。なんか朝から鼻の調子が悪くて。たぶん、花粉のせいだと思います」
「そうなんだ。っていうか、武ちゃん花粉症だったっけ?」
「いえ、違いましたけど、あれって誰でも突然なるらしいじゃないですか。きっと今日が私の記念すべき花粉症デビューの日なんですよ」
 言いながら、武森は早くも仕事に取りかかり始める。幸村はいまひとつ腑に落ちなかったが、ちょうどそのとき本社の審査部から電話がかかってきたため、武森との会話はそこで打ち切られてしまった。
 内藤、橘、戸津田、武森。7人の職場で、過半数の4人がマスクをしている。マスク自体は特に珍しいものではないが、集団の中でマスク装着者が多数派になっている光景というのも、意識して見るとどこか不気味なものだ。

 誰からともなく発生する舌打ちの音や、キーボードを苛立たしく連打する音が、フロア内に響く。幸村は息詰まる心地がした。まるで、みんな酸素を吸って憎しみを吐いているような雰囲気だ。『安全と安心』をキャッチコピーにしている保険会社の職場に、少しも安らぎが存在しないのは皮肉なものである。
「戸津田くん、ちょっといい?」
「あ、はいっ」
 廣瀬の呼び掛けに、戸津田が素っ頓狂な返事をした。慌てて立ち上がったせいで、机の端にあった金属製の定規が床に落ちてガチャガチャと大きな音が鳴り、周囲の苛立ちを増長させた。戸津田は落とした定規を拾うか一瞬迷う様子を見せたが、結局そのまま廣瀬のデスクに向かったので、関本が代わりに拾って戸津田の机に戻した。
「昨日提出して帰ってくれた書類さ、型別の合計と代理店計の数字が合ってないんだけど、どういうこと? ちゃんと確認した?」
 天然パーマを右手の人差指でいじりながら、廣瀬が訪ねる。
「あ、いや、すいません、確認不足でした。もう一度見ます」
「確認不足ってさ、合計の一致なんて一番に確認するところでしょ? まったく確認してないってことじゃないの? いくら期限が迫っていても最低限やるべきことがあるのくらいわかるよね? 何年社会人やってるの? いつまでこんなやっつけ仕事続けるつもり?」
 後半にいくほど、廣瀬の口調はどんどん速くなっていく。傍から聞いている幸村まで滅入ってきそうな責め具合だった。戸津田は途中から廣瀬の質問にすべて「すみません」で答えるようになり、完全にコミュニケーションが破綻していた。
 いつものように怒られ続ける戸津田を見て、幸村は感じた。今日の戸津田は、なぜかいつにも増して可哀想に思えてくる。そしてそれが、彼がマスクを付けているせいだということにも同時に気付いた。
 体調不良の戸津田が怒られているのはかわいそうに見えるし、怒っている廣瀬が無慈悲な人間であるようにも見える。もしかすると、戸津田がマスクを付けてきた背景には、そういう魂胆があったのかもしれない。「体調が悪い」ことをアピールできるマスクを、免罪符のように誇示したくなる気持ちは、幸村にも少し分かる。
 しかしそんなことは、周囲の人間には極めてどうでもいい場合が多く、事実、廣瀬の証人喚問のような容赦ない詰め具合からは、体調不良の戸津田を労わってやろうなどという心遣いは、微塵も感じられなかった。
 責任を背負う社会人の苦悩を思いながら、幸村は飲みかけの缶コーヒーを一気に飲み干し、また書類をめくり始める。

 20時を回った。廣瀬と内藤はすでに退社していたが、他のメンバーはまだ残っている。週末の追い込みに没頭する周囲とは対照的に、幸村の集中力はとっくに切れていた。「残りの仕事は来週に回そう」ということで気持ちが固まっていたが、なんとなく直帰するのがさびしくてフロアに残っている。しかし、みんな自分の世界に閉じこもっている様子なので、なかなか飲みに誘える雰囲気ではなかった。
 しかたなく幸村は、気分転換のためにネットサーフィンをすることにした。パソコンで検索サイトを立ち上げ、さて何を見ようかと考えながら、周囲を見渡して、思いついた。
『マスク』
 そう入力し、エンターキーを押す。検索結果の一番上に表示されたのは、かの有名なインターネット百科事典の記事だった。このインターネット百科事典は、幸村が大学時代にレポートを書く際にいつもお世話になっていたし、現在でも、暇なときにサイト内のリンクをたどって記事を読みながら時間つぶしをするので、幸村にとっては非常にありがたい存在だ。
 記事を開いて、内容を読み進める。
 マスクの種類やその効果、有効性に対する懐疑論、「外国だと一般人はマスクを使用しない」という豆知識など、多岐に渡る情報が載っていた。幸村は、最初のうちは興味深く読み進めていたが、内容が理系チックなものになっていくと理解するのが面倒になり、後半はほとんど画面をスクロールするだけになった。
 しかし、記事の終盤に、「衛生上の目的以外での利用法」という項目を見つけると、幸村は再び手を止めて、姿勢を前のめりにした。
 その項に書かれていた内容を要約すると、以下のような具合だった。マスクは、風邪予防などの衛生目的以外の用途で使用されることがある。中でも近年、特に若者の間で増えているのが、「自分の世界へこもるため」にマスクを使用するケース。メールやSNSなどの、表情を見せないコミュニケーションに慣れた若者は、現実世界でも相手に本音を悟られることへ抵抗があり、マスクで顔を隠すことで、他者と自分の間に壁を作ろうとする。
 幸村はフロアを見渡し、同僚達の顔を眺めた。実際は彼らの中にも、ここに書かれているような目的で、マスクを付けている者がいるのだろうか。
 成果主義の導入移行、疑う余地もなく、職場の険悪な雰囲気は確実に増している。自身の成果を上げることに集中するため、周囲との関係をシャットアウトする考え方、それが、「マスクを付ける」という行為につながっているのかもしれない。
 興味深い話ではあったが、しかし、幸村には今一つピンと来なかった。たかが布切れ一枚、顔面に装着するだけで、それほどの心理的効果が得られるものだろうか。普段風邪を引いてもマスクを付けない幸村には、その感覚が分からなかったし、効果のほども疑わしかった。
 ほどなくして戸津田が退社したのをきっかけに、幸村は残った若手のメンバーを飲みに誘ってみた。しかし、橘も武森も関本も、残っている仕事を片付けたい様子で、誘いには乗ってくれなかった。マスクの効果について、彼らに意見を聞ければと期待していた幸村は、がっくり肩を落とし、諦めて退社することにした。
 フロアを後にして、幸村はふと考える。飲みの誘いを断るという行為などは、まさにさきほどの記事に書かれていた、「周囲との関係をシャットアウト」の典型的パターンではないか。彼らがマスクを付けたくなる動機は、やはり他者との関係を断つということと少なからず関連しているのではないだろうか。
 マスクに対する興味がいよいよ抑えがたいものになっていき、幸村はタップを踏むような足取りで、リズミカルに階段を降りていった。


【6月20日 月曜日】

「おはようございまーす」
 間延びしたあいさつと共に出社した幸村の方へ、すでに席に着いている者達から視線が集まった。
「……幸村さん、風邪引いたんですか?」
「おぉ、そうなんだよ。朝起きたら喉の痛みがひどくてな」
 幸村は2、3度大きく咳払いをした。顔に、マスクを付けている。
「そうですか。俺のがうつってしまったかのもしれないですね。すいません」
 橘も、相変わらずマスクを付けていた。その左隣にいる内藤も、あとから出社してきた戸津田と武森も、先週同様マスクを付けていたので、マスク装着組はこれで5人ということになる。
 マスクの下で、幸村はにやにやしていた。本当は風邪などまったく引いていない。マスクを装着することによる効果がどのようなものか、自ら試してみることにしたのだ。
 幸村はいつものようにメールチェックを済ませてから、前日に各営業担当から渡された書類の精査にとりかかる。気になるポイントがあれば付箋を貼り、コメントを記載していく。
 マスクを付けたまま行う仕事は、予想以上に快適であった。たかが布切れ一枚と侮っていたが、顔を覆って表情を隠しているだけで、かなりの安心感が生まれる。まるで、今ここにあるこの体が、実はただのロボットでしかなく、自分の本体は安全な場所からそのロボットを操作しているかのような、そんな不思議な感覚だった。
 午前中に一件、自動車保険の適用範囲をめぐり、ヤクザのような怒鳴り声で脅迫をまくしたてる顧客と電話で交渉したが、心なしか、普段よりも冷静に事態を治めることができた。ひょっとすると戸津田も、マスクを付けている方が、廣瀬から責められているときの苦痛がましになることに気付いて、味をしめたのかもしれない。
 
 結局この日は一日中、仕事が捗った。普段は業務中も周囲の様子が気になってしかたない幸村だったが、今日は、疲れた目を癒すために武森の愛くるしい顔をチラチラ見ていた時間を除けば、ほとんど自分の仕事に没頭していた。先延ばしにしていた懸案を勢いに乗って片付け、雑務も手際よくつぶし、19時頃には颯爽とフロアを出ることができた。
 口笛を吹きながら階段を降りているとき、幸村は気付く。今日は何のためらいも迷いもなく、気付けば自然と一人で退社していた。普段の幸村であれば、仕事が終わってからも、なんとなく帰るのがさびしかったり、誰かと飲みに行くのを期待したりして、だらだら職場に残りがちだった。しかしこの日は、そんな思いはまったく浮かんでこなかったのだ。マスクの力で、いかに強く「自分だけの世界」にのめりこんでいたかを思い知り、幸村は驚嘆する。
 エントランスの重い扉を押し開けながら、幸村はふと思った。
(皆も、こんな気持ちでいるのだろうか?)
 同僚達の残る三階の窓の灯りを外から見やって、ふいに少しだけ物哀しい気持ちになりながら、幸村は帰宅の途についた。


【6月21日 火曜日】

 背筋にびくっと寒気が走り、幸村はエクセルに数式を入力している手を止めた。やはり、視界に入ると、どうしても気になってしまう。自分以外の皆は平気なのだろうか。幸村は、自分を取り巻くシュール絵画のような光景があまりに不気味で、仕事に集中できずにいた。
 フロアにいる全員が、マスクを装着している。前日までは付けていなかった関本と廣瀬も、とうとう付けてきた。そして幸村自身も、マスクを付けている。付けずにはいられなかった。ここで自分だけ素顔を現すのは、まるで武装集団の前に無防備な姿を晒すことになるような気がして、それがあまりにも怖かった。
 幸村は、自作のエクセルマクロを使ってデータ集計を行っていたが、前日と違って作業がはかどらない。やはり、全員マスクの光景はインパクトがあり過ぎる。腋の下を、嫌な汗がツーっと流れていった。

 昼前頃、バンッという大きな音が突然フロアに響いた。幸村を始め、さすがにそのときは周囲の同僚達もびっくりした様子で、音のした方向を確認する。どうやら、内藤が手の平で机を叩いた音のようだ。彼女はおもむろに立ち上がって、支社長の廣瀬の方に歩いていき、小声で何かぼそぼそと話を始めた。まもなく廣瀬が立ち上がり、二人でフロアに隣接している会議室に入っていった。
 「会議室」と言っても、せいぜい4人程度が収まるだけのせまい個室であるため、支社のメンバー全員で会議をするときは会議室を使わず、廣瀬のデスクの周りに集まって立ったまま話し合う。では会議室を使うのはいつなのかというと、もっぱら廣瀬が、特定の誰かにきついお説教を加えるときだ。戸津田などはしょっちゅう呼び出されて怒られているし、今週の初めにはめずらしく橘も呼び出され、かなり長い時間会議室にこもっていた。支社の誰もが恐れる処刑部屋である。
 しかし、そこに一般職の内藤が呼び出されることは普通ない。むしろ、気分屋の内藤の機嫌を損ねて業務が滞ったりしないよう、普段から廣瀬の方が気を遣っているくらいだし、先ほどの様子からは、明らかに内藤の方が廣瀬に用件があるように見えた。
 二人が会議室で何を話しているのか、幸村は気になったが、5分ほど経った頃に聞こえてきた内藤の声で、おおかた察しがついた。
「もうさすがに我慢できませんよ! なんとかしてください!」
 会議室のドアが閉まっているため、実際に幸村の耳に届いたその声は微かなものだったが、ここまで聞こえてくる時点で、相当ヒートアップしていることが分かる。
 内藤はやはり、最近の負荷状況に並々ならぬ不満を抱いていたようだ。成果主義の導入移行、彼女が周囲から押しつけられる雑務は格段に増え、これまでのように毎日定時上がりすることがままならなくなっていた。今日も朝一番で、武森から依頼されていた書類を完成させるや否や、戸津田から追加の仕事を頼まれていたし、とうとう鬱憤が爆発したのだろう。
 内藤の声は、遠くの方で猫が喧嘩をしているかのように、断続的にフロアへ響き続けたが、同僚達は誰一人としてそれに反応しなかった。橘に話をふってみようかとも思ったが、感情を抹殺したような目でパソコンと向き合う彼の姿に気圧されて、結局幸村も黙っていた。

 あくびをしながら時計を見やると、長針と短針が綺麗な直角を作っている。時刻は21時、フロアに残っているのは、幸村と関本の二人だけだった。1時間ほど前から二人きりの状態だが、お互い一言も会話をしないまま仕事を続けている。
 幸村は、思い切って話しかけてみることにした。
「よぉ、最近忙しそうじゃないか。頑張ってるな」
「あぁ、いえ、とんでもないです。ありがとうございます」
 スポーツ刈りが少し伸びたような頭を掻きながら、関本は愛想よく答えた。顔の下半分はマスクで見えないが、目元と眉の形から、ちゃんと微笑んでいることが分かる。
「幸村さんも遅くまで大変ですね」
「いやぁ、昼間なんとなくやる気が起こらなくてぼーっとしちゃってね。五月病の延長戦かな」
 二人は声を出して笑った。後輩と笑顔で言葉を交わせたという当たり前のことが、そのときの幸村には非常にありがたく、安堵した気持ちになった。
「関本は何やってるの?」
「あぁ、私は橘さんからの引継ぎの仕事を整理してます」
 関本があまりにあっさり答えるので、幸村は一瞬聞き流しそうになったが、すぐに「おや?」と思った。橘からの引継ぎ? 知らないあいだに、担当替えの通知でも回っていたのだろうか。
「引継ぎって、どういうこと?」
「え、いや、橘さんが転職するから、それで引継ぎを……」
 幸村が目を見開くのを見て、関本は自分がまずいことを言ってしまったのに気付いたらしく、慌てて言葉を切った。
「関本、橘は転職するのか? それは本当なのか?」
「いや、えぇと、はい、そうみたいです……。すみません、てっきり幸村さんはもう知ってるものかと……」
「他のみんなはもう知っているのか? お前はいつ聞いたんだ?」
「みんなが知っているかどうかは、えぇと、ちょっと分かりません。私が聞いたのは、その、先週末に……」
 関本は、自分が橘の転職について聞いたときの状況を幸村に話した。目を泳がせて取り繕いながら話す関本の様子が、かえって幸村に与えるショックを大きなものにした。
「分かった、教えてくれてありがとう。おつかれさま」
 作業途中だった書類の左上をクリップでとめ、パソコンの電源を切り、幸村はフロアを後にした。胸の中で、怒りとも哀しみともつかない複雑な気持ちが、膿のように育っていくのを感じた。


【6月22日 水曜日】

 喫煙所で煙草を吹かしている橘のもとに、幸村が近付いてきた。今日、幸村は、マスクを付けていない。
「よぉ、おめでとう」
 幸村が声をかけると、橘は一瞬だけ間を空けてから、すぐに何のことを言われているのか気付いたらしく、「ありがとうございます」と返した。
「いつ決まったんだ?」
「……先週の、金曜日です」
 橘はいつもどおり、時報を読み上げるような淡々とした口調で話した。特に悪びれるような様子は感じられなかった。
「良かったな。ジャパン損保だろ? エリートじゃないか。支社長には引きとめられなかったのか?」
「引きとめられましたよ。でもまぁ、自分や家族の将来のことを考えて、行くことにしました」
「いいなぁ。俺たちも、もう30近いし、そんな簡単に転職先なんて決まるもんじゃないはずなのに、さすがは橘大先生だ」
「やめてくださいよ。運が良かっただけですから」
 橘は煙草を灰皿へ垂直に押し付けて処理し、顎に引っかけていたマスクを付け直して、「では」と言いながら立ち去る動作をしかけた。
「なぁ、なんで言ってくれなかったんだ?」
 幸村の質問を背中に受け、橘が歩みを止める。彼は首だけこちらを振り向きながら言った。
「……なんでって、何をですか?」
 白々しく答える橘の冷淡さに、幸村は一瞬背筋が寒くなったが、すぐに胸の奥から熱い怒りが湧いてきた。
「転職のことに決まってるだろ。なんで教えてくれなかったんだよ」
「なんでって、そんなことは、会社の人に言わないのが普通じゃないですか」
 橘は幸村と目を合わせようとしなかった。動揺やうしろめたさからではなく、煩わしい会話を早く切り上げたいという気持ちが、態度に表れている様子だった。
「それでも、せめて転職が決まった後で教えてくれてもいいじゃないか。しかもお前、先週の金曜日、俺が帰ったあとで、関本と武ちゃんと飲みに行って、その話してたんだろ」
「……関本に聞いたんですね」
 幸村に話したのは関本の方だということが、橘には察しがついたようだ。武森ならそのあたり抜け目ないはずだ、とでも思ったのだろう。
「あの日は、幸村さんが帰ったあと、みんな仕事の終わるタイミングが偶然同じだったんで、自然と飲みに行く流れになったんですよ。別に幸村さんを仲間外れにしたわけじゃないですし、もちろん二人を口止めしたわけでもありません。俺が幸村さんに話していなかったのも、言うタイミングが無かっただけです」
「タイミングだって? タイミングなんか作ろうと思えばいつでも作れるだろ。なんだよ、俺に話すのがめんどくさかったのか? 俺は、話す時間を作るほどの価値もない先輩だってことか? それはちょっとあんまりじゃないのか?」
 幸村の声が急に大きくなった。橘は、仕事中によくするように舌打ちをしてから、いよいよ苛立ちを隠さない調子で答える。
「いちいちヒステリックにならないでくださいよ。別にめんどくさかったとかじゃないです。忘れてたんです。幸村さんに教えるのをうっかり忘れていました。これでいいですか?」
「ふざけるな。最近ずっと俺に対してよそよそしいと思ってたんだよ。お前だけじゃないぞ。武ちゃんも関本も皆そうだ。ほんとはしばらく前から、俺抜きで飲みに行ってたんじゃないのか? なぁ、俺が一体何したっていうんだよ。俺がお前らに嫌われるようなことしたのか? 気に入らないことがあるならはっきり言えよ」
 畳みかけるように幸村が言う。完全に頭に血が上っていた。橘は、熟れたいちじくのように顔を赤くしている幸村へ冷ややかな視線を送り、少しだけ考える様子を見せてから、また抑揚のない調子で話し始めた。
「僭越ながら、と言いますか、本当はこんなこと言いたくないんですけど、幸村さんがどうしても聞きたいとおっしゃるなら言いますが、もう良い歳なんだから、そういう、子どもじみていて、女々しい性格は直した方がいいですよ。それと、なんというかまぁ……もう少し自分自身を客観的に見るくせを付けた方が、いいかと思います」
 言い終えて、橘は幸村をちらっと見やったが、幸村には返す言葉が見つからなかった。
「一方的に言いっぱなしだと申し訳ないので、幸村さんも俺に指摘したいことがあれば、俺が辞める前に教えてください。メールで結構ですので」
 幸村に背中を向けながらそう言い残し、橘は建物の中へ戻っていく。
 幸村は、橘の背中を追いかけることもなく、罵声を浴びせるでもなく、ただただ、雷に打たれて廃人になったかのように立ち尽くしていた。急激に体の力が抜けていき、倒れそうになったところを何とか堪えて、職場へ戻るためにふらふらと歩き始める。区間を走り終えた直後の駅伝選手みたいな足取りだった。フロアに着くと、客先へのあいさつ回りにでも行ったのか、橘は席にいなかった。
 仕事を再開すべく、机に積まれた書類を手に取って目を通す。「船積輸送中の製品破損事故に対する保険金請求書」という見出しが、ただの記号にしか見えなくて、中身がまったく頭に入ってこない。集中しようとすればするほど、橘の冷然な態度が頭に甦り、あの辛辣な言葉を反芻してしまう。
 たまらなくなって顔をあげると、周りにいるのは、マスクで顔を覆ったままパソコンと向き合っている人、人、人……。皆、感情を真っ白な布で覆い隠している。幸村は背中に氷を投げ込まれたかのように背筋が寒くなった。もう、誰も信じられない。ここにいるのはみんな、仮面をかぶった、虚無の人格なのだ。逃げ場のない恐怖が心を支配していき、幸村は頭がおかしくなりそうだった。
「……幸村くん」
 背後から名前を呼ばれ、心臓が弾けそうなほど強い拍動を打つ。振り返ると、そこにいたのは支社長の廣瀬だった。右手に、書類を挟んだクリアファイルを持っている。
「ちょっと話したいことがあるんだが、いま大丈夫かい?」
「あ、はい」
 幸村が返事をするやいなや、廣瀬が会議室に入っていったので、幸村もあとを追った。
 何かまずいことをしでかしただろうかと、幸村は記憶を高速で巻き戻し、最近の仕事を振り返る。特に大きなミスは思い当たらなかったが、こうして廣瀬に呼び出されるということは、何か怒られるネタがあるのだろう。橘から無下にされたかと思えば、今度は廣瀬に詰められる。泣きっ面に蜂だ、と幸村は思った。
 机をはさんで向かい合う廣瀬と幸村。地獄の数十分間の始まりだ。もし魔法が使えるなら、一時間くらい後まで一気にワープしてしまいたい。幸村は大きく深呼吸をした。
「いやぁ、最近めっきり汗ばむ気温になったな。煙草を吸いに外へ行くのも邪魔くさくていかん」
「え、あ、いやぁ、ほんとにそうですね……」
 開口一番で廣瀬が切り出したのは、当たり障りのない雑談だった。普段ならいつも単刀直入に本題へ入る廣瀬には珍しいことだ。
 困惑する幸村の前で廣瀬は、今度は急に何も言わなくなり、机に置いたクリアファイルの端を指で触りながら、目を泳がせていた。
 自分から呼び出しておいて、どういうつもりなのだろうかと、幸村は訝った。廣瀬はどうも何かを言いあぐねているらしく、マスクの下の口元が、これから言うことをシミュレーションするかのように、もごもごと動いていた。いつも歯に衣着せぬ物言いで部下を厳しく責める廣瀬のそんな姿を、幸村は初めて見たかもしれない。
 そのとき、まるで左右のこめかみの間を一筋の電流が流れるように、とてつもなく嫌な予感が、幸村の頭の中を走った。いま自分は、上司と個室に一対一で向き合っている。そしてその上司は、自分に伝えなければいけないことを、なかなか口に出せずにいる。この状況にぴったり当てはまるシチュエーションを、幸村は知っていた。
「支社長、まさか……」
 幸村の口から、すがるように言葉が出た。廣瀬は返事をすることなく、気まずそうな顔でうつむいている。
「嘘ですよね……。本気ですか、支社長……」
 幸村の頭には少しだけ、「転勤を言い渡されるのではないか」という可能性もよぎった。しかし、全国に支社と支店を持つ金融機関において、転勤などめずらしいことではなく、事実、昨年末にこの支社から九州の田舎の支店へ異動になった先輩は、ニヤニヤ顔の廣瀬に呼び出され、笑いながら転勤を言い渡されたそうだ。
 それを踏まえると、廣瀬がここまで深刻な表情をしている理由といえば、あれしか思いつかない。
「支社長、まさか本気で私を…リ、リスト――」
 幸村が言い終わらないうちに、廣瀬は机の端に置いていたクリアファイルから一枚の紙を取り出し、幸村の前に置いてみせた。一瞬の出来事に目をそらす間もなかった幸村の視線は、否が応にもその書類の上に向かう。破裂しそうな心臓の鼓動を感じながら、幸村はおそるおそる目を通した。
 会議室にまた、沈黙が流れた。
 書かれていた内容は、幸村が予想していたものとは大きく異なっていた。格式ばった仰々しい文章が並び、右下に署名捺印欄があるような、そんな恐ろしい書面を想像してしまったが、そこに印刷されていたのは、いかがわしいチラシを思わせるようなカラフルな背景の中に写っている、白衣を着た30歳くらいの女医の写真だった。不自然にライトアップされたその女医の顔からは、吹き出しが出ている。幸村は呆然としたまま、気付けば、吹き出しの中の台詞を読み上げていた。
「ワキガ、多汗症は、あたしに任せてネ……」
 幸村がゆっくり顔を上げると、廣瀬は目をそらし、必死に頭の中で言葉を紡ぐ様子を見せてから、やがて口を開いた。
「ほら、これ、電車の車内広告とかで見たことあるだろ。俺もネットで評判を調べたんだけど、全体的にすごく評価が高かったぞ。しかも、特別大サービスとして、今なら会社の経費から受診料を支給してやる。おっと幸村、そういえば今日は定時退社日じゃないか。だからさっそく、今日の帰りにでも行ってみろ、な」
 幸村は口をあんぐりと間抜けに開けながら、廣瀬の言葉を聞いていた。
 パズルが早回しで完成していくように、幸村の頭の中で、様々な辻褄が、急激に合い始める。同僚達がマスクを使用するようになったこと。そしてそれが、ちょうどエアコン解禁に伴い、フロアの窓を閉め切るようになってからだったこと。皆が妙に自分によそよそしかったこと。
 そういえば、内藤が昨日、この会議室で廣瀬に「うんざりですよ」と叫んでいたのも、そういうことだったのだろうか。
「まぁ、いきなり言われてもびっくりするよな。ちょっとゆっくり検討してみてくれ。良い返事を期待してるぞ」
 そう言い残し、廣瀬は逃げるように会議室から出て行った。
 一人残された部屋で、幸村は頭を抱え、机に突っ伏してうなだれた。まるで突然海につき落とされたかのように、幸村には、とても安らかに現実を受け入れる術がなく、ただただ乱暴に知らされた事実の中で溺れるのみであった。
 ふと思い立ち、自分の右側の腋に鼻を近づけ、意識を集中しながら一度、吸ってみる。
 ……。
 わからない。橘、わからないよ。やっぱり俺は、お前の言う通り、自分を客観的に見るのが苦手みたいだ。
 幸村は心の中でつぶやき、左側の腋にも鼻を近づけてみる。少し薄めた酢のようなにおいが、ぷわっと鼻の奥に拡がった。しかし、それを幸村が不快に感じるわけではなく、むしろ、慣れ親しんだ自分のにおいとして、安心の心地を得られるほどだった。
 このにおいが、一体なんだというのだろう。こんなものは、誰もが同じように発しているにおいではないのか。やりきれない気持ちがどんどん募っていき、幸村は頭をかきむしる。
 会議室のドアの曇りガラスを、ふっと見やる。話し声、タイプ音。同僚達の仕事をする音が聞こえた。このドアの向こうでは、いつもどおり皆が働いている。
 リストラはされなかった。しかし、自分はこれから、どんな風に皆と接していけばいいのだろう。いや、もっと差し迫った話として、今から、まさに今から、どんな顔をして、皆のいるフロアに戻ればいいのだろう。ドアを開けた瞬間、自分に注がれるであろう視線の集中砲火をイメージして、幸村は思った。
 今こそ、マスクが欲しい。

マスク

マスク

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-02

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