花泥棒
強い性的表現は多分使わないとは思いますが、一応成人向けにしておきます。
書きながら公開。
花泥棒
何気なく本棚の奥を見てみると、女性が高い場所に手を伸ばしていた。
一見して、触れてはいけない雰囲気の色気のある人だと感じられる何かがあった。
それは一瞬見えた、左手の薬指の指輪のせいであるかもしれない。
僕は低い脚立を取ってきて、その人の前に置いた。
彼女は僕を見、少女のような微笑みを浮かべた。
年齢がよくわからない人だった。
若くも見えるけれど、どことなく人妻らしさが匂う雰囲気なのだ。
でもそれは生活に疲れた感じではなく、誰かの庇護があっての生活ができている雰囲気、とでも言えばいいだろうか。
悪く言えば、苦労をしていなさそうな、そんな印象を受けさせる人だった。
そこは僕がよく使う古本屋だった。
御茶ノ水は音楽人と大学生の多い街だが、僕はその近辺の大学には通っていない。
只、お気に入りの古本屋があって、その為だけに御茶ノ水に行くことが多かった。
すれ違う若者は僕と違う色をまとい、彼らからしたら僕はきっと、目に留める意味も無かったと思う。
何故、そんな流れになったかはわからない。
お茶にでも行きましょう、という彼女の誘いを断る理由も無く、僕たちはその古本屋を出た。
古本屋といえど多少マニアックな在庫の店だったので、そこに行くだけでほぼ、共通の趣味があるようなものだ。
僕らはその共通点によって、もっとお互いを知ってみたいとでも思わされたのかも知れない。
学生たちが騒々しい御茶ノ水から電車に乗って、わざわざ少し静かな場所まで移動した。
僕の自転車は古本屋の横に停めっぱなしにしておいた。
彼女の名前はネネさん、音々と書いてそう読む。
僕の名前はワト、和登と書いてワトだ。
僕らは全国展開の店に入り、安いアイスコーヒーを頼んで飲んだ。
別に凝った喫茶店である必要は無いと感じた。
そういう場所に頼って雰囲気を作るほど、音々さんは難しい人ではないように感じた。
ニコニコとしてついでにケーキを頼む音々さんは、きっと昭和記念公園で花を見ることの方が、ディズニーランドよりも楽しく感じられる類のような気がした。
僕は翻訳のバイトをしている。
ある外国語だけ、父親の仕事の都合で僕も会話ができるほどに理解できていた。
その言葉の本を日本語に翻訳するバイトで、僕は生活費を賄っている。
両親からは仕送りも無く、学費は奨学金のみ。
家を出られればとりあえず、と選んだ大学は、その外国語ができることが幸し、AO入試で合格できた。
学費もその件で少し安くなる制度もあったし、卒業後も翻訳があればなんとかなりそうだった。
僕のアパートは一部屋の中に台所も詰まっている狭くて古いところで、よく隣人の体育学生がうるさく騒いでいた。
白い木の外壁はペンキが剥がれかけ、桃色のトタン屋根は塗り直しが必要そうだった。
部屋の壁は本棚で隠れ、小学校の入学時に買った学習机を実家から運んできていた。
狭い中にロフトが備え付けられていて、その上に薄い布団が敷いてあった。
音々さんが部屋に来ることになるのは、アイスコーヒーを飲んだ時点から薄々感づいていた。
誘われたとは思っていない。
だからと言って、僕が人妻を誘惑したとも思っていない。
音々さんの夫は、誰もが知っている大企業の偉い人で、かなりお金を持っているとのことだった。
音々さんとその人はいとこ同士の関係で、高校時代くらいから、親が決めた許嫁という関係にあったそうだ。
音々さんは、体が弱いのだ。
とても妊娠や出産を耐え切れるような力のある体ではないらしい。
音々さんの夫もまた、子供を作る能力の無い体の持ち主だったので、そこで親同士が手を打つような形で、二人の結婚が決まったそうだ。
しかし音々さんの夫には、かなり年上の心に決めた人がいることを、音々さんは知っていた。
その女性には家庭があって、二人が到底一緒になることができないということも、知っていたのだ。
音々さんは、いつ死ぬかもわからないような人生だから、と割り切って、その状況を受け入れることにした。
仮面夫婦として生活していくことを、音々さんは受け入れて結婚した。
その結果、夫は仕事を理由にたまにしか帰ってこない。
音々さんは山手線上にある高級住宅街の、芸能人も暮らしているようなマンションで、死を待ちながらひっそりと暮らしていた。
夫は罪悪感からなのかなんなのか、音々さんに十分すぎるほどの生活費を渡している。
だからと言って、それらを理由にしていいかと言われれば、倫理的に間違っているとはわかっている。
けれど僕らは、陳腐な不倫小説で人妻と若い男が交わる描写のように、そのまま体を重ね合った。
安っぽい展開だったけれど、僕の緊張はそのまま僕の心臓を止めてしまいそうなほどだった。
恥ずかしながら、僕は女の子と付き合ったことが無く、体の関係だってもちろん持ったことがなかった。
僕はどうにも動けずに、只、黙って音々さんのされるがままになっていた。
透き通るような音々さんの白い肌に、憂いの色を感じながら。
床に直に敷いた布団は汗で湿っていた。
背徳感というものを、僕はその日初めて味わうこととなった。
人に恋をするというのは、きっと錯覚なのだと思う。
でなければ、どうしてこんな簡単に、その日あったばかりの人に恋焦がれるというのか。
錯覚を現実だと信じて、人は惑わされていくのだろう。
古本屋へ自転車を取りに行かねばならなかった。
音々さんも、泊まりはしないで帰る、と僕に告げた。
次はいつ会えるの、と言いたげな僕を察したのか、音々さんは、僕が今手をつけている翻訳の仕事が終わったらまた会いましょう、と微笑んだ。
僕は、音々さんのきっと短いであろう人生で、彼女が暇つぶしに寄ることにした船着場でしか無いのかもしれない。
いや、きっとそうでしか無いことも、わからないわけでは無い。
けれど、僕はそれでも良かった。
僕のつまらない人生において、ほんの一瞬でも音々さんとの時間を過ごせたのなら、きっと僕は死の間際に、それを思い出して幸せな記憶に浸って逝けるだろう。
だから、赦される限りの時間を、僕は音々さんと過ごしたいと思った。
錯覚だってなんだっていい、少しでも甘い香りに包まれていられるのなら。
蕾
仕事は無理やり終わらせた。
人の多い構内を、自転車を押しながら歩いていた。
ふいに届いたメールには、夕方に待ち合わせをしようと書いてある。
彼女に会うのは一週間ぶりだった。
僕とは関わりの薄い生徒たちが、ますます関係の無い人々に見えてくる。
僕は、自分の世界がひどく閉鎖的であることを良しとしていた。
それで構わなかった。
僕は人から見て不幸な人間だったとしても、自分が幸せならそれでいいと思って生きてきた。
だから急いで自転車を押して、そのまま校門を出た。
電車に乗って、鶯谷へ向かった。
音々さんがどうしてそこを知っていたかはわからないが、外観からして高級そうなホテルが、安っぽい建物たちにひっそり紛れていた。
今夜は泊まりがけでもいい、と彼女は許可した。
だからここへ来た。
一番高い部屋は、普通の、そういう目的ではないホテルと変わらないような値段設定だったが、ためらうことなく音々さんはそこを選んだ。
勿論宿泊代は彼女の奢りだったが、情けないながらも僕にはそれに甘えることしかできなかった。
コンビニで修学旅行みたいにたくさん買い込んだお菓子だけは、僕の自腹だった。
今夜だけは、自分は自分の立場を忘れていようと思うと音々さんは言った。
そして左手の指輪を外し、財布の中へしまった。
この人はとうの昔にきっと、壊れてしまっているのだ。
高級マンションの一室みたいなその部屋は、浴室から夜の風景が見えた。
夜景だなんて言葉は似つかわしくない、薄汚れたホテル街の建物と切り取られた夜空が見える。
二人で泡風呂に浸かり、じゃれあい、僕は音々さんの白い肌を見ながらこの夢のような時間を味わった。
20歳まで生きられても、30歳を迎えられる見込みは無いと言われ続けた人生だったそうだ。
カウントダウンは始まっている。
僕が大学を卒業して、新社会人になって、その頃果たして音々さんは生きているだろうか。
食後には大量の薬を飲んだ。
中には精神安定剤も混じっていると言う。
たまに発作的に精神の安定が崩れ、呼吸がおかしくなったりするそうだ。
しかし僕には、音々さんがいずれ死んでしまうという事実が、
花泥棒