山に登る
山ガールの比路未に誘われて、初めて山に登った誠一だったが、
山頂で意外なアクシデントに遭遇する。
週末のピクニックはどんな展開になるのやら・・・
汗が流れる。呼吸はかなり荒くなっている。
普段から運動なんてしていないんだから、いきなりこんな事、無謀だよな。誠一は心の中でそうつぶやく。
前を歩く比路未が振り向いて声をかけてくる。
「大丈夫かな。ちょっと小休止しようか。」
「大丈夫だよ。」
誠一は無理に笑顔を作って、そう答える。
「無理しちゃ駄目だよ。疲れる前に少しずつ休憩しなきゃ。」
「ああ、それならちょっと休もうか。」
誠一はそう返事をして、その場に立ち止まる。
比路未は誠一のストックを受け取ると、慣れた手つきで、背負ったままのザックの下にあてがう。こうやって荷物を下ろさず、重みをストックに預けるようにして立ったまま休憩をするのが山の流儀だという。腰を下ろさずに、立ったまま休んだ方が疲れないという話だ。
「まあ、この程度の荷物じゃ、こんな事しないでも良いんだけどね。」
比路未は笑ってそう言う。
確かに、弁当と水筒、雨具とカメラ程度しか入っていないザックは、重さが苦になる程では無い。
周囲は雑木の林で、空気は涼しい。人がすれ違える程度の登山道が、林の中を曲がりくねりながら、山頂方向に向かっている。
平日で、普通の登山者が居る時間帯では無いからだろうか、さっきから人の姿を見かけない。こんな山中で比路未と二人っきりだ。
「やっぱり、日頃の鍛え方の問題ね。誠ちゃん、運動とかなんにもしてないものね。」
比路未は、ちょっとからかうような口調で、そんな事を言う。
その口ぶりにちょっとムッとするが、確かに事実なのだから、反論も出来ない。
「こいつ、こんな山の中で二人っきりなんだから、そんな事言うと襲っちゃうぞ。」
苦しまぎれにそんな事を口にするが、比路未は笑って相手にもしない。
「無理、無理。そんなに息が上がってるんだもの、追いかけても私に追いつけないわよ。」
「そうだな。追いついて抑え込んでも、蹴飛ばされて終わりだろうしな。」
誠一も苦笑いしながら、認める。
誠一にしてみれば、登山など中学の林間学校以来だ。高校では帰宅部だったし、大学でも特に運動はしていなかった。
社会人になってからも、バイクや車で峠道を走る事は有っても、自分の足で山に登るなんて無かった。
会社の同僚の比路未とは、半年程前から付き合い始めた。
会社が終わってから、食事に行ったり、飲みに行ったり、週末はどちらかの部屋で、朝まで一緒に居たりする関係になっている。
比路未は大学時代に生物学を専攻していて、フィールドワークであちらこちらの山に入った経験も有り、会社に入ってからも先輩に誘われて、「山ガールの会」なる女性だけの登山会で山に登っている。経験も鍛え方も違うのだ。
そして、五月のゴールデンウイークが過ぎた週末に、比路未は誠一を登山に誘った。
自分のやっている楽しみを誠一にも知ってもらいたかったのだ。
最初は尻込みした誠一だったが、比路未の誘いは断りきれなかった。
「大丈夫だよ。小学生だって登ってるような処なんだから。」
「二時間位登って、頂上でお弁当食べて降りてくれば、一日のんびりと山歩き出来るよ。」
「お弁当は私が二人分作るからさ。」
そんな言葉で比路未の手作りの弁当に釣られてしまったのだ。
行先は二人の住んでる街から、車で一時間くらいの処にある夜叉神峠だ。
「峠って、山じゃないの。」
「名前は峠だけど、手軽で素敵な処なの。頂上まで行けば目の前に南アルプスが大きく見えるし、富士山も見えるわよ。写真を撮るには絶好の場所よ。」
誠一が最近一眼レフのカメラを手に入れて、いろんな写真を撮りたがってるのを知っていて、そんな事も言う。
「風景写真か。山なんて専門家が沢山居て、たくさん撮ってるからな。それより良い写真撮るなんて、なかなか難しいんだよ。」
「そんな事無いわよ。山の表情は日々違うんだから。」
「それはそうだけど、そのチャンスを捕まえるのは大変だろう。」
「じゃあ、そのカメラは何に使うの。」
「もちろん、人物画像さ。いつか比路未のヌードを撮ろうと思ってね。」
「馬鹿。私を撮るんなら十年くらい修行してからにしてね。」
「十年も経ったらおばさんになっちゃって、被写体にならないだろう。」
などという馬鹿な話もして、カメラもザックの中に収まった。
靴もザックも、誠一が持っている物で充分使える。比路未にそう言われてちょっと安心した。
本格的な登山靴でも無ければ登れないような山に連れて行かれるのではかなわないと、ちょっと怯えていたのだ。
「ピッケルを使うような事も無いし、ストックが一本欲しいくらいかな。」
そう言われて、先週アウトドア用品の店に連れて行かれ、登山用のストックを買わされた。スキーのストックと違って太目でまっすぐで、グリップ部分はT字形になっている物だ。
「ストックって言うよりは、杖って呼んだ方が良さそうだな。」
そう言って誠一は笑った。
「そうね。本当に杖だからね。山ではこれが必要なのよ。これが有るのと無いのでは、すごく違うんだから。この前、うっかり谷に落とした先輩なんか、そこらに落ちてた木の枝をちょうど良いくらいに折って、ストック代わりにしたんだからね。」
持ち物も揃えて、天候も確認して、五月の後半のある金曜日に、二人で出かけて来たのだ。
二人の勤める会社では、ゴールデンウイーク中に営業をする代わりに、この日が休みになっている。週末に出勤する当番は居るが、今回は二人とも外れているから、土日までの三連休になる。
「筋肉痛で動けなくなる程でも無いでしょうけど、次の日が仕事っていうよりは、休みの方が気が楽だからね。」
「そうだね。もしも何かトラブルが有っても、二日有ればなんとか出来るだろう。」
「トラブルって何よ。」
「そうだな。比路未が道を間違えて遭難するとか、かな。」
「失礼ね。あそこで迷うなんて無いわよ。」
「まあ、それは冗談だよ。車がトラブルを起こして、麓まで歩いて降りるはめになるとか、考えればいろんなケースが有るだろう。」
「そうね。あそこは猿の群れが出るから、車に悪戯されてトラブルになるかもね。」
「おい。本当かよ。」
「まあ、屋根に足跡が付くくらいは覚悟しておいた方が良いわね。」
今朝、誠一が比路未を迎えに行き、ファーストフードの店で二人で軽い朝食を済ませ、そのまま登山道の入り口まで車を走らせた。二人分のお弁当はきちんと二つの包みに分けられ、それぞれのザックに収まった。
登山口の駐車スペースも車はほとんど無く、人影も見えない。
ここは峠の登山道への入り口だが、南アルプスへの登山口の広河原への通過点でもある。車でここを通り過ぎ、広河原駐車場に車を停めて、南アルプスに登る人の方が多いのだろう。比路未がそう説明する。
車を停めて、ザックを背負って、いよいよ登山の開始だ。
とは言っても、林の中に人が歩く道が伸びているだけで、傾斜もあまり感じられない。
ちょっと近所を散歩しているのとおなじような感覚で、二人で道に踏み込んだ。
「こんなくらいの歩きなら楽勝だよ。」
最初は誠一もそう言って、足元に花などを見つけると、カメラを取りだし写真を撮っていた。
急がなければならない行程でもないので、比路未ものんびりとそれに付き合っている。
誠一は比路未にもカメラを向ける。比路未もふざけて樹の枝に手を置きポーズを作る。
「はい、じゃあそこで、胸のボタンをはずしてみようか。」
「馬鹿。モデル料は高いわよ。」
「野外撮影だから半額だろう。」
「何言ってるの。野外の方が高いに決まってるでしょう。」
そんなふざけたやりとりも出る。
道は次第に勾配が判るようになり、ちょっとした登りだったのが、斜面を曲がりくねって進むようになる。もう、林間散歩とは言えず、斜面を頂上目指して進む、登山になってくる。
比路未は平然とした顔で歩を進めるが、誠一は足も重く呼吸も荒くなる。ストックにすがるようにして、一歩ずつ歩いている。その様子を見ながら、比路未はペース配分を考える。
林の中は日差しも厳しくなく、空気も涼しく感じられる。比路未は汗もかいていないが、誠一の額には汗が見える。
山歩きでは十五分から三十分程度の間隔で小休止を取る。疲れる前に休んで、疲労を溜めないようにするのだ。そして二時間程できちんと休憩にする。
小休止の時は、歩くのを停めて、そこに立ったままで呼吸を整え、足を休める。腰を下ろしてしまうと足の筋肉が緩み、歩き始めた時に余計に疲労してしまうからだ。
そして、立ったままで休む時は、背負った荷物の下にストックを立てて、荷重を軽くして休む。
そんな事も誠一に教え、実際にやって見せた。
「日帰りピクニック程度なら良いけど、テントを背負った縦走なんかだと、かなり荷物は重くなるからね。」
「そんな事までするのかい。」
「そうね。今はやらないけど、学生の頃は南アルプスの縦走とかやったわよ。」
「テントまで持って行くのか。」
「まあ、山小屋が有るところは山小屋泊まりで済ませるんだけどね。」
「テントなんて重いんじゃないの。」
「今のテントは軽量化されてるし、何人かで分けて背負うから良いんだけどね。
それより重いのは食料と水よ。」
「そうか。当然、何日分も持って行くんだものな。」
「食料はなるべく軽いもの。水は出来るだけ現地調達。お酒はビンじゃなくて紙パック。」
そう言って笑う。
「なんだ。お酒まで持って行くのか。」
「もちろん。テントの中で星空を眺めながら飲むワインは美味しいわよ。」
「そういうロケーションなら、紙パックのワインでも旨いんだろうな。」
誠一は比路未の山の話を聞かされて、感心することばかりだ。
「どう。山登りもやってみたくなった。」
「そうだね。話を聞いてると面白そうだけどな。」
「面白いよ。テント泊なんて。」
「でも、一人じゃ行けないだろう。」
「そうね、何人か仲間が居ないとね。」
「まさか、山ガールの会に入れてもらうわけにはいかないだろうしな。」
「それはそうよ。誠一だけを特例で参加させるっていうのも無理だろうからね。私と二人で行くくらいしかないかな。」
「比路未と二人でテント泊か。」
「あっ、なんか今、エッチな事考えてない。」
「そんな事ないよ。尻に敷かれてこき使われそうだなって、思っただけだよ。」
「どうかな。まだまだ鍛えないと荷物も背負わせられないだろうし、火を起こすのから、テントを張るのまで、慣れないと難しいからね。」
「山で一番困るのは、トイレとお風呂だからね。そういうのにも慣れないといけないしね。」
「やっぱりトイレなんかもアウトドアなのか。」
「そうよ。山小屋なんかのあるところではトイレを使わせてもらうけど、途中じゃなんにも無いからね。」
「人目を避けて、草むらでっていう処か。他人の目とか気にならないのか。」
「平気って事はないけど、それなりに人の視線を遮る場所を選ぶから大丈夫。それよりも、そういう場所を見つけたら、先客の遺物が有ったりとか、虫や蛇なんかが居たりとか、そっちの方が面倒ね。」
「お風呂なんてどうするの。」
「基本は無し。一週間の縦走なら、その期間は我慢ね。
男の人だと、谷の流れが有るところで、上半身裸になって水浴びしてる事なんかもあるけど、女性はそんな大胆な事も出来ないから、夜テントの中で、濡れタオルで体を拭くくらいね。」
「そういう事を承知の上で、不自由な場所に出かけて行くんだから、しかたないのかな。」
「そうね。そういう不便をしても、それ以上の楽しみが有るから、山に登るのね。」
斜面はもうかなり急になっている。建物の階段を登っているのと同じ感覚だ。
やがて背の高い木がまばらになり、人の背丈ほどの松や熊笹が生えているようになってくる。
「ここまで来るとそろそろね。」
「森林限界ってやつなのかな。」
「違うわよ。それは三千メートル級の山の話。山の尾根って一番高い所だから、雨が降れば土が洗い流されてしまうの。だから、荒れた土地に根を張れるような種類の植物しか生えないのよ。」
さすがに生物学を専攻しただけあって、そういう解析は得意なのだろう。
道も途中の急勾配のようでなく、またなだらかになって来ている。
「ここからは尾根歩きだからね。もうちょっとでゴールよ。」
道の両側に視界が開けるようになってきて、眺めてみると、甲府盆地が遠く見え、御坂山系の上に雄大な富士山が望める。
反対側には、目の前に大きく南アルプスがそびえる。
確かに比路未が話したように、撮影にも絶好の景色だ。
やがて頂上を示す道標が立つ場所に到着する。
「頂上って言っても、峠だから山のてっぺんとは違うんだよね。」
比路未はそう説明してくれる。
その先は熊笹に囲まれたちょっとした広場のようになっている。
小学生くらいの一群が元気にはしゃぎまわっている。
学校の遠足なのだろうか。先生が三人ほど付いて、数十人が居るようだ。
「ほらね。この子たちだって、今の道を登って来たのよ。小学生でも登れる程度のところだって言ったでしょう。」
比路未は得意げに言うが、誠一は子供たちのはしゃぎようにあっけにとられている。
「さあ、私たちもお弁当にしましょう。」
広場の一角の空いたスペースに荷物を下ろし、二人で座り込む。
隣にシートを広げていた女の子の一群れが、比路未に話しかけてくる。
「二人で来たんですか。」
「彼氏なの。」
「どこから来たんですか。」
「下に車を停めて来たの。」
様々な声が飛び交う。
やはり女の子だけあって、比路未には話しかけるが、誠一には距離を置いている。
比路未は、そんな子供たちの相手をしながら、お弁当を広げる。
どうやら、子供たちは地元の小学校の三年生と四年生らしい。春の遠足で、毎年ここに登っているそうだ。各学年一クラスしかない学校らしく、付き添いは担任の二人と養護教諭の三人しかいないと言う。
比路未の作ったお弁当は、おにぎりとから揚げやウインナー、ミートボール、サラダなどだ。誠一と並んで食べている時にも、子供たちが覗き込む。
「わあ、美味しそう。」
「それ、お姉さんが作ったの。」
「彼氏の為に頑張ったんだね。」
「うらやましいな。」
比路未もお弁当を褒められて、まんざらでもない様子だ。
おやつのチョコレートを分けてあげると、お返しが来て、おやつの交換会になってしまう。
誠一は、食べ終えるとカメラを取りだし、比路未と子供たちの様子を撮りはじめた。
周囲を見回すと、画像として残したい圧倒的なパノラマが広がる。
人物と山の配置を考えながら、沢山の写真を撮った。子供達も写して欲しくてカメラの視角に入ろうとするので、かなり大量の画像になった。
液晶で撮った画像を確認していると、子供たちが覗き込んで大騒ぎだ。
最初は敬遠されていた誠一も、すっかり子供たちに取り囲まれるようになってしまった。
比路未は、お弁当の包みを片付けてザックにしまうと、シートの上でニコニコしながら、誠一が子供達とやり取りする様子を眺めている。
ところが、そこに他のグループの男の子が走って来た。
どうやら追いかけっこでもしているらしい。後ろから追ってくる子を振り返りながら走っている。
その子が比路未の目の前で、誠一のザックに足を引っ掛けて転んでしまったのだ。
転んだ子は、倒れたままで、足を抱え込むようにして呻いている。
痛みで立ち上がれない様子だ。
追いかけて来た子も驚いて立ちすくんだままだ。
女の子たちが一斉に駆け寄ってくる。
「大丈夫。」
「先生呼んでくるね。」
「ふざけっこしてるからよ。」
「膝のところから、血が出てるよ。」
「ホントに男の子たちって、しょうがないわね。」
その行動と口調に、誠一は思わず笑いそうになる。
養護教諭らしき人が、薬箱を手にして現れる。普段は山登りなどしそうも無いような、華奢な女性だ。
「ヒデフミくん、大丈夫。」
そう言って、手早く傷の様子を調べている。男の子はまだ倒れたままだ。
とりあえず膝の擦り傷に消毒薬を付け、血止めをする。処置が済んだところで、誠一と比路未の方に向き、頭を下げる。
「すみません。お騒がせしちゃって。」
「いいんですよ。何も迷惑してませんから。こちらこそ、そんなところにザックを置いたから、それにつまずいて転んじゃって、申し訳ありませんでした。」
誠一がそう口に出すと、周りの女の子が一斉に誠一をかばう。
「先生。そうじゃないんだよ。ヒデくんがよそ見しながら走って来て、勝手に転んだんだからね。」
「置いてあったザックを、ヒデくんが蹴飛ばしたんだからね。悪いのはヒデくんの方なんだよ。」
「中身は壊れてない。壊れてたらヒデくんが弁償するんだよ。」
などと容赦は無い。
「大丈夫。壊れるようなものは入ってないよ。カメラは出してあったし、お弁当はもう食べちゃったからね。」
比路未がそう言うと、先生も安心した表情になる。
「それより、ヒデくん大丈夫なんですか。まだ痛そうだけど。」
「傷は大した事ないけど、骨折や捻挫が心配ね。」
そう言って、倒れたままの子に声をかける。
「ヒデくん。いつまでも転がってないで、立てるかな。」
男の子は立とうとするが、右の足首辺りが痛そうだ。
誠一が手を貸してやって、なんとか立ち上がったが、体重を片足にかけたままで、真っ直ぐに立てないようだ。
先生は、もう一度腰を下ろさせ、素早く痛む方の足をさぐる。
「うん。骨は折れていないようだけど、足首を捻っちゃったかな。捻挫ね。」
そう判断すると、一人の女の子に声をかける。
「保坂先生と吉岡先生を呼んできてくれるかな。お願いね。」
そう言いながら、薬箱から湿布薬と包帯を取りだし、器用な手つきで男の子の足首に処置を行う。
やがて二人の先生が現れる。保坂先生は五十代の男性で、髪は白くなりかかっているが、いかにも山男という風貌だ。
吉岡先生の方は三十代の女性で、ふくよかな体型で山登りは苦手な様子だ。
三人が相談を始める。捻挫した子供をどうするかという話をしている。
あの様子では普通には歩けない。誰かが背負っていかなければならないかもしれない。下まで降りても迎えのバスが来るのは夕方だ。病院には早く連れて行った方が良い。携帯で学校に連絡を入れれば、誰か車で迎えに来てくれるだろう。
ここで保坂先生が抜けると、残った子供たちを二人で誘導するのは不安だ。では一緒に降りるか。下に降りて登山道の入り口で、残りの子供たちを夕方まで待たせるのも可哀そうだ。
そこに比路未が声をかける。
「山ではみんな仲間ですから、私たちがお手伝いしましょうか。」
その一言で、三人の先生の顔に安堵の色が浮かぶ。
「お願いしても良いんですか。」
真っ先にそう言ったのは吉岡先生だった。
仕事柄、生徒を引き連れてここまで来たが、山歩きなど経験は無いし、子供を背負って降りるなんて事も無理だし、困り果てたという顔だった。
「でも、知らない人に子供をお願いするのは。」
そう言って養護の先生はためらう。
「大丈夫ですよ。僕たち怪しい者じゃありませんから。」
誠一がそう言うと、比路未も
「怪しい人物が、カップルで、わざわざこんな山の上まで来ませんよ。」
と言って笑う。
ザックのサイドポケットから財布を取りだし、中に入れてあった名刺を渡す。
「二人ともその会社の者です。今日は仕事じゃないですけどね。」
保坂先生が大きく頷く。
「山登りをする人に悪い人は居ないって言うからな。この二人のお言葉に甘えよう。」
「じゃあ、私たちがヒデくんを連れて、先に下山しますね。」
比路未がてきぱきと段取りを決める。
学校に連絡を入れておくので、誠一の車で学校まで送ってやれば、後は校長先生が病院に連れて行くようにしておいてくれるとの事だ。学校までの道は、ヒデくんが説明する。
三人の先生は、残った子供たちと予定通りの行動を取り、夕方下山する。
そういう事で話がまとまった。
ヒデくんの荷物は、女の子の一人が持って来てくれたので、これも比路未と誠一に託された。
比路未のストックを手にし、誠一に支えられたヒデくんを真ん中にして、先に下山する三人に、先生たちはかわるがわる頭を下げて見送った。
同級生たちも、心配そうな表情で手を振っている。
さっきまで比路未と一緒にはしゃいでいた女の子たちも声をかけてくれる。
「気をつけてね。」
「ヒデくん、ちゃんと歩くんだよ。」
「歩けないようなら、捨てて行ってもいいからね。」
すっかり比路未と親しくなって、そんな言葉まで飛び出す。
ヒデくんのゆっくりしたペースに合わせて、歩を進める。
痛みも有るのだろうが、自分で歩かなければいけないと、懸命に自分自身に言い聞かせて、歩き続けている様子だ。
比路未は様子を見ながらヒデくんの脇に付き添う。
誠一はヒデくんの荷物を背負い、その後ろから続く。
下りの道だし、ゆっくりしたペースなので、苦にはならない。
熊笹地帯を抜け、林の中に入り、下り勾配がはっきりと判るようになると、ヒデくんのペースは極端に落ちてきた。足首が痛むのだろう。一歩を踏み出すのが辛そうだ。
途中で比路未の指示で休憩を取った。
ヒデくんに合わせて、三人で腰を下ろして一休みする。比路未はザックの中からチョコレートを出し、三人で分ける。
「この先も下りがきついし、自分で歩くのは無理かな。」
「そうだな。ここからが一番傾斜のある道だったよな。」
「仕方ない、おんぶするか。」
比路未は最初からそのつもりだったようだ。
「ヒデくん、割と小柄だし、縦走の荷物を背負うと思えば、そんなには変わらないでしょう。」
「それなら、俺が背負うよ。」
誠一は思わずそう口に出す。
いくら比路未が山に慣れていても、体格や体力の差ははっきりしている。
ヒデくんは、そんな二人の会話を黙って聞いている。
「さっきの登りじゃ、かなりきつそうだったけど、大丈夫。」
「今度は下りだからな。ゆっくり休んだし、美味しい弁当もしっかり食べたから、エネルギーは充分だよ。」
「下りだと、荷物の重さと自分の体重が膝に来るからね。気をつけて歩いてよ。」
「ああ、もしも駄目になったら、二人を比路未がおんぶして行ってくれ。」
そんなふざけたセリフも出る。
比路未が三人分の荷物を背負う。荷物とは言っても、弁当が半分程を占めていたので、ザックの中に残っているのはカメラ程度だ。誠一の荷物と比路未の荷物は、背負いやすいように一緒のザックにまとめる。
誠一の首に腕を回させ、ヒデくんをおんぶして立ち上がってみる。
人一人分の体重は、小柄とは言えそれなりに重く感じる。
「どうしようかな。誠ちゃん、それで片手を離せる。」
誠一の両手は背中に周り、ヒデくんのお尻を支えている。
右手を離してみると、落ちはしないが、首にまわされた腕に力が込められ、苦しい。
「ちょっと苦しいかな。」
「そうね。不安定だね。でも、下りはストックを使った方が絶対に良いからね。どうしようかな。」
そう言うと、自分のザックの中の何かを探している。
「有った。これで何とかなるかな。」
比路未が取り出したのは、ザイルだった。
「そんなモノまで持ってるのか。」
「別にロッククライミングをやるわけじゃないんだけどね。山では何かと便利なんだよ。ザックの外側に荷物をくくりつけたり、テントの抑えなんかで使ったりね。」
「で、それでどうするんだ。」
「うん。赤ちゃんをおんぶするおんぶ紐と同じようにしようと思うの。」
一度、ヒデくんを降ろし、誠一に空にしたザックを背負わせる。
中身の無いザックは、ザック分の厚みしか無く、誠一の背中に密着する。ウエストベルトもきちんと長さを調整して締めさせる。
「じゃあ、もう一度おんぶして。」
誠一の背中に乗ったヒデくんにザイルを回し、誠一の肩やザックに留める。
ヒデくんの太腿やお尻の部分に何度かザイルを行き来させ、誠一のザックにまわして固定する。
「これでどうかな。誠ちゃん、右手を離してみて。」
今度は、大丈夫そうだ。
「ヒデくんも、足とかが痛くないかな。」
ヒデくんは無言でうなずく。
「じゃあ、これで出発しましょうか。」
比路未はそう言って、誠一にストックを手渡してくれる。
三人分の荷物の入った二つのザックを背負って、比路未が先に立つ。
重みは苦にならないが、こんな山道でおんぶしたまま転んだら、またトラブルになってしまう。誠一はゆっくり一歩一歩踏みしめるように歩き始めた。
比路未は、誠一の足元に気を配って、あれこれと声をかけてくれる。
誠一はその声に応えながら、ゆっくり歩を進める。
やがて、道は次第になだらかになり、林間散歩程度の歩きに変わってくる。
「もう、降りて歩きます。」
ヒデくんが、背中からそう声をかける。誠一に遠慮しているんだろう。
「いいんだよ。ここまで来たら、車まで背負って行ってやるよ。」
「そうだよ。早く車まで行って、早く病院に行った方が良いよ。」
本来ならばこの辺りで一旦小休止を取るのだが、誠一も比路未もそれは口に出さない。
小休止でもヒデくんを降ろさなければならないだろうし、一度下ろせば再度こうやって括り付けるのは手間がかかる。
ヒデくんが自分で歩くと言い出せば、無理やりおんぶさせるわけにもいかない。
またヒデくんのペースに合わせるよりは、おんぶしたまま車まで行って、早く学校に送り届けたい。早く病院に行かせてあげたい。
そんな認識が、二人の間で無言のまま交わされていた。
誠一の歩きも、傾斜が緩やかになるに従い、普通のペースに戻って来ている。
比路未は誠一のペース配分を考えながら、気を紛らわすように、二人にあれこれと話しかけている。
ヒデくんは三年生で、今回が初めての登山だそうだ。幼稚園の妹が居て、お祖母ちゃんとの五人家族。両親は仕事に行っているから、学校から帰ったらお祖母ちゃんが待っている。帰れば、妹と遊んだり近所の友達と遊んだりするけど、お母さんが帰って来るまでに宿題をやっておかないと叱られる。
さっき追いかけっこしていたのも、いつも遊んでる四年生のユキヒロくんで、ふざけておやつを取られそうになったから、逃げていたんだ。でも、ユキヒロくんは宿題も教えてくれたりするんだよ。早く宿題終わらせて、ゲームをしたいからかな。
ヒデくんも、誠一におんぶされている事に慣れたのだろう。
誠一の背中で、あれこれと話してくれるようになった。比路未が主に相槌を打って、話を聞いている。
誠一の足が疲れで重くなるが、なるべくそれは表情に出さないようにする。
ここで、比路未がおんぶを交代するなどと言いだせば、どちらがおんぶするのか、自分で歩かせるのか、どうするのか、あれこれとそれぞれの思惑が交差するだろう。
一休みはしたいが、そんな事を言いあっているよりは、早く車まで戻った方が良い。
もう五分か十分で、車を停めた処まで戻れるはずだ。
その思いが、誠一の足を進めさせる。
もちろん、比路未にヒデくんをおんぶさせるという負担をかけたくないという、男としての意地のようなものも有った。
いくら山登りに慣れていても、女なんだから、無理をさせたくない。
そして、ようやく林も途切れ、車の通る道と駐車場が見えてきた。
誠一は安心して、大きく息をつく。
車まで着くと、比路未はザイルを器用に解き、誠一とヒデくんをその場のベンチに座らせる。
ザックからチョコレートを出し二人に食べさせ、誠一に水筒を渡し、水を飲ませる。
水とチョコレートは、誠一の体に染み込むように、疲労感を消して行く。
「ここでちょっと休憩ね。誠ちゃん、お疲れ様。」
「ヒデくんもよく頑張ったね。おんぶって、してもらう方も、けっこう大変だからね。」
「ザイルで縛っていた足は痛くないかな。」
そう声をかけながら、誠一の額の汗を拭き、ヒデくんの太腿のザイル痕を確かめ、マッサージをしてやりと、こまめに世話をする。
車のキーを受け取り、エンジンをかけ、後部座席を整える。
「どうしようか。ヒデくんを助手席に乗せた方が良いかな。」
「そうだね。しっかりシートベルトを締めて、足を浮かせてやった方が楽かもしれないな。」
「じゃあ、誠ちゃんが後ろね。」
「お前が運転するのか。大丈夫かい。」
「まかせといて。安全運転するから。」
二人とも運転免許は持っているし、日頃は車で移動している。
二人一緒に出掛ける時は、誠一の車で出かけ、誠一が運転するが、比路未が運転出来ないことはない。
下りの峠道なのがちょっと心配だが、自分の足や膝の様子を考えると、素直に比路未に任せた方が良いだろう。誠一はそう思った。
ヒデくんを助手席に乗せ、シートベルトを締めさせ、誠一はその後ろの席に乗った。
比路未は運転席に座り、シートの位置とミラーの角度を調節し、ベルトを締める。
「じゃあ、行くわよ。」
比路未はそう言うと、車を発進させた。
安全なスピードと確実なコーナーリングで峠道を下って行く。
誠一は、しばらく運転の様子を見ていたが、次第に安心し、窓の外を眺めるようになった。
「おい、ヒデくん。あそこに猿が居るよ。」
「ホントだ。一匹だけじゃないよ。後ろに何匹も隠れてるよ。」
ヒデくんとそんな話も出る。
「そんな事言わないでよ。気になって脇見運転しそうじゃない。」
比路未も会話に加わってくる。
「このお姉さんはね。山登りの達人なんだ。一週間分くらいの食料を背負って山に入るんだからな。お風呂もトイレも無い処でも平気なんだぞ。」
「へえ。凄いんだ。」
「こらこら、変な言い方はやめてよ。誤解されるじゃない。」
比路未は笑いながら抗議する。
「お風呂もトイレもいらないなんて、猿みたいだね。」
ヒデくんも笑ってそんな事を言う。
やがて峠道も途切れ、人家が点在する山村の風景に変わる。
しばらく川沿いの道を走ると、川の向かい側に小学校の校舎らしきものが見えてくる。
「あそこの橋を渡って、右に曲がると学校だよ。」
ヒデくんがそう告げる。
学校に入って行くと、玄関のところで校長先生が待っていた。一緒に居たのはヒデくんのお祖母ちゃんだった。
ヒデくんを二人に渡し、何度もお礼を言われて、二人は帰路についた。
「お疲れ様。初めての山登りで、とんだハプニングだったわね。」
運転を代わった誠一に、助手席の比路未が声をかける。
「ああ、山では何が起こるか、ほんとに分からないものだな。」
「猿に車を壊されるよりは良かったかな。」
「小学生で良かったよ。比路未をおんぶして下りるんじゃ、今頃二人で遭難してるかもな。」
「そうね。誠ちゃんをおんぶする事態になったら、どこかに捨てて一人だけで下りちゃうかもね。」
二人でそう言って笑う。
「これからどうしよう。大活躍してもうクタクタでしょう。大人しく部屋に帰ろうか。」
「夕飯はどうする。」
「じゃあ、今日のご褒美に。私が作ってあげるわ。」
「それは嬉しいな。お昼の弁当も旨かったし、二食続けて比路未の手料理が食べられるなんて。」
「じゃあ、山の料理でも作ろうかな。紙パックのワインも付けて。」
「帰ってシャワーを浴びたら、写真の整理もしたいしな。」
「沢山撮ったものね。」
「ヒデくんがあんなことになるまでだけどな。そうだ、ヒデくんの写真は一枚も無いぞ。」
「大丈夫。駐車場で座り込んでるあなたとヒデくんの写真は、私が撮っておいたから。」
「そうか。じゃ、そのデータもくれよ。」
「いいけど。何かするの。」
「全部の画像をCDに焼いて、あの学校に送ってやろうかな、なんて思っているんだ。」
「それも良いわね。あの女の子達も喜ぶでしょう。」
「まあ、帰って落ち着いてからだね。あと二日、休みも残ってるし。」
「そうね。じゃあ、あなたの部屋の近くのスーパーに寄って、夕食の買い物して帰りましょう。」
「了解。初登山のお祝いかな。」
「どう、山に登るのも面白いでしょう。」
「そうだね。」
「また行こうね。次は大菩薩峠辺りでどうかな。」
比路未は満面の笑みを浮かべる。
一週間ほど経ってから、会社宛にヒデくんと先生からのお礼の手紙が届いた。
山頂で比路未が名刺を渡したのを、二人はその時になって思い出した。
誠一は学校宛に画像の入ったCDを送ってあげた。
了
山に登る
人は何故、山に登るのか?
そんな基本的な命題が有ります。
山男や山ガールにしてみれば、「そこに山があるから。」としか、答えられないような話でしょう。
本文中にもありますが、汗を流し、重い荷物を背負い、一歩ずつ自分の足を頼りに
不自由な環境に分け入るのです。
そこには風呂もトイレも無く、雨が降れば濡れ、風が吹けば寒い、厳しい自然が待っているだけ。
それでも、人は山に登るのです。
そんなお話のなかでも、初心者の登山を、あるカップルの例をクローズアップして書いてみました。
きっと誠一くんも、この先、さまざまな山を踏破するようになるのでしょう。
日本で一番高い山でも3000m級です。
これはとても高く思えますが、横方向に変えてみれば、約3キロメートル、ちょっとした
ジョギングで走る程度の距離でしかありません。
地球がほんのちょっと出っ張っているだけにすぎないのです。
そんな出っ張りに魅せられた人達の話です。
すこしでも、山の魅力が読んでくれたあなたに伝わると嬉しいです。