梨の実が香る頃に

1.幼少期の記憶と突然の再会

 生まれて初めて恋愛感情のような、憧れのようなものを誰かに対して抱いた――その時のことを、きっとわたしたちは誰も覚えていない。
 女の子は父親に一番初めに恋をするというし、男の子はどうやら幼稚園や保育園の先生に恋をすることが多いようだ(もちろんわたしがこれまでに見聞きした範囲内で、の話だが)。
 または、たまたま出会った同世代の異性と『おおきくなったら、結婚しようね』なんていう微笑ましい約束をすることもあるかもしれない。
 それらの記憶は普通、成長するごとにどんどん薄まっていき、やがてきれいさっぱり忘れ去られるか、一つの思い出として昇華されていくかのどちらかだ。叶うなんてことは、本当に稀だろう。
 けれどわたしは、はっきりと覚えている。忘れたくても、きっと一生忘れることなんてできやしない。
 あれがもう何年前のことになるかとか、何月何日の出来事だったとか、そんな正確なことはもうさすがに思い出せないけれど……それでもあの日々は、わたしの中に鮮烈に残っている。
 小学校に上がる前、三日間というほんの短い間のことだったけれど、わたしは今でも鮮やかに思い出せる。彼と過ごした日々のことも、あの時確かに感じていた甘酸っぱい気持ちも。
 彼がわたしに向けてくれた、あの眩しい笑顔さえも。

    ◆◆◆

「こんにちは」
 みんなでブロックあそびをしているおともだちからはなれて、一人でお絵かきをしてあそんでいたわたしに、そうやって声をかけてきたのは、いつもの先生じゃなかった。うつむいていた顔を上げると、そこにいたのはわたしのぜんぜん知らない人……いちども見たことのない、お兄ちゃんだった。
 とつぜん知らない人に話しかけられて、こわくてびくびくしていたら、お兄ちゃんはわたしと目を合わせるようにしてしゃがみこみ、にっこりと笑ってくれた。
「何描いてるの?」
 言いながら、お兄ちゃんはわたしが床にひろげていた紙をのぞきこんだ。おぉ、と声を上げると、わたしの絵を指さして、にこにこ顔でわたしの目を見て聞いてくる。
「お魚と、カニさんが二匹いるね。それで、こっちは果物……リンゴ? いや、この色は梨かな。それからこの大きなピンクのお舟みたいなのは、花びらだね」
 わたしがかいていた絵をぜんぶ正しく言い当ててくれたことに、わたしはびっくりした。先生だって、正解を言ってくれたことはなかったのに。
「そう」
 うれしくて、思わず明るい声で答える。
 お兄ちゃんはもっとにっこりして「上手だね」と言ってくれた。それからわたしよりずっと大きくてがっしりした手のひらで、わたしの頭をやさしくなでてくれた。
 わたしがかいていたのは、おかあさんによんでもらったお話をイメージした絵だ。なんて名前だったかは、わすれた。けれどカニさんと、ぷかぷか浮いてるフルーツと、キラキラ光る水と、おふねみたいに浮かんでるお花のことだけはちゃんと覚えていた。おかあさんが見せてくれた本の絵が、とってもきれいだったから。
 それをお兄ちゃんに言うと、お兄ちゃんはやさしくおしえてくれた。
「それは、『やまなし』っていうんだよ」
「やまなし?」
「そう。宮沢賢治っていう人のお話。……って言っても、難しいかな」
 首をかしげるわたしの頭をもういちどなでると、お兄ちゃんはわたしがかいた絵の中の、水に浮いたフルーツを指さした。
「やまなしっていうのはね、これのことだよ」
「これが、やまなし?」
「そう」
「じゃあ、このお花は?」
 お兄ちゃんが指さしているとなりの、花びらを指さして聞いてみる。お兄ちゃんはさっきみたいに、やさしい声で答えてくれた。
「これはね、(かば)の花だよ」
「カバ? カバって、どうぶつの?」
「違うよ」
 ふふ、とおかしそうにお兄ちゃんは笑う。
「動物のカバじゃなくて、椛っていう名前のお花があるんだよ。……そうだ、明日写真を見せてあげる」
「ホント?」
 目をキラキラさせるわたしの頭をなでながら、お兄ちゃんはうなずいた。
「おーい、寺本(てらもと)。そろそろ集合時間だぞ」
 向こうから、そんな声がした。その時お兄ちゃんはハッとしたような顔になって、おへやの時計を見る。
「あぁ……もうこんな時間か。ごめんね、お兄ちゃんはもう帰らなくちゃ」
 ざんねんそうに言って、わたしの頭をなでてくれる。ホントは帰ってほしくなかったし、もっと一緒にいたかったけど、泣きそうなわたしに「明日また会えるよ」ってお兄ちゃんが笑って言ってくれたから、ぐっとガマンした。
 立ち上がろうとした時、お兄ちゃんがふと何かを思い出したようにしゃがみ直した。もういちど、わたしの顔をのぞきこんでくる。
「まだ、お名前を聞いてなかったね」
 顔が近いことにちょっとだけドキドキしながら、わたしは小さく答えた。
「はるな」
「はるなちゃん、か」
 お兄ちゃんはうれしそうにつぶやいた。
「ねぇ、はるなちゃん。明日も、お兄ちゃんと遊んでくれる?」
 わたしはすぐに答えた。
「うんっ」
 お兄ちゃんはにっこり笑うと、わたしの頭をかるくポンッと叩いてからゆっくり立ち上がった。
 おへやを出ていく前にも、お兄ちゃんは笑いながらわたしに小さく手をふってくれた。わたしもブンブンと、力いっぱい手をふり返す。
 お兄ちゃんがいなくなって、おかあさんがおむかえに来てくれるまで、とってもたのしい気持ちになっていたわたしは、ずっとにこにこ笑っていた。

 次の日、やくそくどおりお兄ちゃんはわたしのところに来てくれた。
 お兄ちゃんが来てくれたことがうれしくてはしゃぐわたしを、おひざの上にのせてくれたお兄ちゃんは、持っていたカバンから一枚の写真をとりだし、わたしに見せてくれた。
「ほら、はるなちゃん。これが、昨日言ってた椛の花だよ」
 うしろからお兄ちゃんの声がして、わたしは内心ドキドキしながらお兄ちゃんが持ってきてくれたお花の写真を見た。
「おもったより、小さなお花なんだね」
「うん。カニさんから見たらすっごく大きく見えるけど、本当はこんな風に小さな花びらなんだね」
 『やまなし』に出てくるカニさんはサワガニって言ってね、大きさはこれくらいなんだよ。
 そう言いながら、お兄ちゃんは大きな手のおとうさん指とおかあさん指を使って、何かをつまむような形を作ってみせる。ふり向いて、お兄ちゃんの顔を見ながら「こんなに小さいの?」と聞いてみると、お兄ちゃんは笑顔でうなずいた。
「そうだよ。ホントは、こんなに小さいんだ」
「やまなしも?」
「うん。やまなしもね、はるなちゃんが思ってるよりずっと小さいんだよ」
 わたしがお話を読んで思いえがいていた世界が、ずっと小さいものだったことを知って、わたしはびっくりした。
 「すごい」とわたしが目をキラキラさせると、お兄ちゃんは笑顔のまま「近くの公園にね、大きな梨の木があるんだ。本物は、秋になったらそこで見られるよ」ともおしえてくれた。
 この日は、お兄ちゃんがほかにもわたしの知らなかったことをいっぱいおしえてくれて、とっても楽しい一日になった。
 お兄ちゃんがいなくなってからも、それまでお兄ちゃんがおひざにのせてくれていた時のように、体がぽかぽかとあったかかった。
 何でかわかんなかったけど、おむねもすごくあったかかった。

 その次の日は、お兄ちゃんが『やまなし』の絵本を持ってきてくれた。昨日と同じようにわたしをおひざの上にのせると、そのままおかあさんみたいにやさしい声で読んでくれる。
 『クラムボンは、かぷかぷ笑ったよ』というところが何回聞いてもとってもおもしろくて、読みおわってからもずっと、お兄ちゃんといっしょにその部分だけをくりかえし口にした。
 楽しいひとときだった。お兄ちゃんといっしょに、ずっとこうしていられればいいのにと思うほど。
 けれど……。
 その日、お兄ちゃんが帰らなければいけなくなったとき。
 「あしたも来てくれる?」って聞いてみたら、お兄ちゃんはふと困ったように笑った。それから何度もしてくれたのと同じように、わたしの頭をやさしくなでると、かなしそうな声でこう言った。
「今日で、はるなちゃんとはお別れなんだ」
 思わず、えっ、と声にならない声をもらす。お兄ちゃんはもういちど笑うと、「またいつか、きっと会いに来るよ」と言った。
「ホント?」
「ホント。約束だからね、はるなちゃん」
「うん」
「寺本、集合時間もうすぐだぞ」
「あぁ、今行く」
 お兄ちゃんと同じかっこうをした、べつのお兄ちゃんにそう声をかけられたお兄ちゃんは、最後にもういちど「またね」とわたしに手をふって……それからすぐに、引き止める間もなく、おへやから出て行ってしまった。
 お兄ちゃんがいなくなってしまったおへやの入り口を、わたしはしばらくぼんやりと見つめていた。
 そうしたらわたしは、知らないうちに泣いていたみたいで、そんなわたしに気付いた先生があわてたようにかけよってきて、わたしにハンカチをわたしてくれる。そっと背中をさすられ、「どうしたの、はるなちゃん?」と聞かれるのにも、わたしは答えることができなかった。

 次の日、お兄ちゃんは来なかった。
 その次の日も、そのまた次の日も、ずっと。
 わたしはお兄ちゃんが『また会いに来る』って言ってくれたのを信じて、毎日やまなしの絵をかきながら、お兄ちゃんが来るのを待った。けれど、どれだけ待ってもお兄ちゃんは来ないまま、からっぽで楽しくない毎日はどんどんすぎていく。
 そして気付けば、わたしは保育園を出て、小学校へと上がることになっていた。

 ――それから、お兄ちゃんには一度も会えていない。
 会ったらきっと分かるだろうけれど、探し出すには情報が足りないから、探すことさえもできない。
 ただ、覚えているのは……太陽のように明るくて眩しくて、優しくてあったかかったあの笑顔と、他の人に『てらもと』と呼ばれていたことだけ。
 幼い頃の思い出なのだから、もういい加減忘れていたっておかしくないはずだ。現に、これ以外の記憶はほとんどないのだから。
 なのに……どうして、忘れられないのか。
 どうして今でも、あの日々のことを思い出すたびに、甘く胸を締め付けられるのか。
 どうして『やまなし』とか『てらもと』とか、『かばの花』とか……あの時聞いたワードを耳にするたびに、わたしは心躍ってしまうのか。

 成長して、色々なことを理解できるようになって……それで初めて、あの時感じていた気持ちに気付く。
 きっとそれが、わたしの初恋だったのだと。

 そしてわたしは今でも、その初恋を引きずっているのだと。

    ◆◆◆

「じゃあ、行ってらっしゃい。頑張ってね」
 担任である女教師の言葉を背中に受けながら、わたしは数人の同級生と一緒にバスを降りた。他のみんながまっすぐに入口へと向かう中、少しだけ立ち止まって、門の横に設置されている看板を見る。
山ヶ岳(やまがたけ)保育園』
 卒園してからもう何年もの月日が経っていたけれど、この場所は記憶にあるものとほとんど変わらない。変わったと言えば、施設全体が少しばかり古くなったかもしれないというくらいだろうか。
 ここで確かにあった、あの日々のことを想うと、胸が甘く締め付けられる。
 そう。『てらもと』というお兄ちゃんと出会って、一緒に絵を描いたり本を読んだりして遊んだ、あの――……。
晴菜(はるな)、何してるの。行くよ」
「あっ……ごめん、今行くね」
 先に入っていた女の子にそう呼ばれたわたしは、慌てて止めていた足を動かす。そうして、みんなと同じように建物の――かつて通っていた、山ヶ岳保育園の中へと入った。

 今日から三日間、わたしたちは保育体験をする。
 保育体験とは、わたしの通う学校をはじめとした各中学校で毎年行われている授業の一つである。いくら保育の道に進みたいわけじゃなくても、子供が嫌いでも、これは強制だから(風邪でも引いて欠席しない限りは)必ず行かなくてはいけない。
 簡単に言えば、地域の保育所や幼稚園と呼ばれる場所を三年生が何人かずつで訪ね、保育士の真似事をやらせてもらうというものだ。決して園児の真似事をしに行くわけではないので、その部分にだけは誤解のないよう注意してもらいたい。
 訪ねるのは基本、自分がかつてお世話になった場所となる。つまり、わたしがここ――むろん、かつて通っていたこの山ヶ岳保育園のことだ――に来ることになったのも、いわば必然のようなものだった。
 担当の保育士さんを待つ間、同級生たちは忙しなく辺りを見回し「あそこ、変わったね」とか「あー、見てアレ! 懐かしい」とか、そういうことを口々に言っていた。
 そんな中で一人、わたしはぼんやりとマイペースに周りを見る。
 園内の配置はほとんど変わっていなかったけれど、わたしがいたころはまだ生まれていなかったであろうタイプの新しいおもちゃがあったり、あの時よりずっと綺麗になった備品があったりして、確かに何年もの時が経ったのだと思い知らされる。
 ふと、期待にも似た感情が胸をよぎる。
 当たり前だけど、あの日彼と会ったのもこの場所だ。
 だったら……ここに来ている今、もしかしたらまた彼と会えるんじゃないだろうか?
 でも……と、わたしはすぐにその考えを打ち消した。
 今考えれば、『てらもと』というあのお兄ちゃんも、当時こうやってわたしたちみたいに保育体験に来ていた中学生の一人だったのかもしれない。だってほんの短い間しかここにいなかったし、そういえばわたしたちが今着ているような、半袖短パンの簡素な体操服姿だったような気がする。
 だったら……会えるわけ、ないよね。
 保育体験に来たからって、保育士の道へ進むわけじゃない。だってこれは、進路を決めるための職場体験でもなんでもないのだから。
『またいつか、きっと会いに来るよ』
『ホント?』
『ホント。約束だからね、はるなちゃん』
 あの日、お兄ちゃんと最後に交わした会話を思い出す。
「あの約束は、一体いつ果たされるのかなぁ……」
 ほぼ吐息に近い声で、わたしは人知れず呟く。
 その時だった。
「すみません、遅くなりました。青葉(あおば)第一中学校の生徒さん方ですね」
 不意に向こうの方から、慌てたような男の人の声がした。どこかで聞き覚えがあるような気がして、わたしはふと首をかしげる。
 パタパタとスリッパの音をフローリングに響かせ、出てきたのはエプロン姿の男性。きっと、担当をしてくれるという保育士の人なのだろう。
「こんにちは、初めまして。保育体験に参りました、青葉第一中学校の三年生七人です。これから三日間、お世話になります」
 わたしたちの代表を担う男子生徒が、立ち上がってそんなことを口にしている。それに合わせて慌てて立ち上がり、わたしは他の人たちと一緒に「よろしくお願いします」と一礼する。
 顔を上げ、その人の顔をはっきりと目に写し……わたしは、思わず固まってしまった。
 その人は、遠い記憶にあるあどけない顔立ちとは違って、姿も仕草もずっと大人っぽくなっていた。けれど……間違いない。間違えようもない。
 明るく笑って、わたしたちの前に立っている、この男の人は……。
「初めまして。今回君たちと一緒に働きます、山ヶ岳保育園の寺本陽平(ようへい)です。これから三日間、よろしくね」
 遠い記憶にあるのと同じように、朗らかに彼は――寺本さんは、笑った。

2.保育体験一日目

 当然のことだが、中学生七人で幼少クラス、年少クラス、年中クラス、年長クラスの四つに散らばるとなると、誰かは必然的に一人っきりで園児たちに混ざって行かなくてはいけないことになる。
 そして、事前に行った公平を期すじゃんけんにて、その一人になってしまった気の毒な人間がこのわたし――楠木(くすのき)晴菜だった。
 正直、わたしには周りに年下というものがほとんど存在しなかったため、小さな子供と関わることはあまり得意ではない。それなのに、この仕打ちは何たることか。
 しかも、だ。
 ただ一人の頼みの綱である寺本さんは色々と忙しいらしく、「何か分からないことがあったら、一緒に部屋にいる他の保育士さんに聞いてね」と笑顔で言い残し、自分はさっさと仕事に戻ってしまった。
 大した指示も聞かなかったし、それ以上に――保育体験とは何ら関係なく、とても個人的な話だが――確かめたいことだってあったのに、そんな暇さえも寺本さんは与えてくれない。にこにこ笑っていながら、中身はとんだ悪魔じゃないかとわたしは思った。
 心細い気持ちで、わたしはこれから担当することになった年中クラス――通称『ゆり組』の、教室のドアを開けた。
 空調がしっかりしている部屋の中で思い思いのことをして遊んでいた十五人の園児たちの、邪気を感じさせない澄んだ瞳がいくつも並んで、わたしをまじまじと見つめてくる。
 ……そんなに、見ないで。いたたまれなくなる。
 おどおどとしながらもとにかく笑顔を向け、か細い声で「こんにちは」と声を出し、小さく手を振ってみる。
 とたんに、わたしの半分くらいの身長の子供たちが、わらわらとこちらへ群がってきた。
「ね、あたらしい先生?」
「あそぼ、あそぼ」
 思ったよりもみんな人懐っこい性格らしく、初対面であるはずのわたしの存在を訝しがることもせず、すんなりと受け入れてくれたらしい。まだまだ人を疑うということを知らない、純真無垢な子供たちのようだ。
 群がってきた子供たちのうちの、ひときわ活発そうな男の子が、わたしの手を取った。小さくて柔らかくてぷくぷくとした、暖かなそれは、握りこむだけでも潰れてしまいそうな気がして、ちょっと怖い。
 わたしの手を引き、その男の子は言った。
「ね、こっちでブロックあそびしよ」
「えー」
 とたんに、傍らにいた別の男の子が不満そうな声を上げる。
「お外で、ボールあそびしようよ。そっちのほうがたのしいよ」
 そしたら今度は、細い髪をツインテールにした女の子が割り入ってきた。
「だめよ。それより、ご本よんで。せんせ」
「えー、ブロックあそびがいい」
「ボールあそびだよ!」
「ご本をよんでもらうのー」
 突如始まった三人の園児たちの言い合いに、周りもそれぞれ三チームに分かれて加勢する。
「あたし、ブロックあそびがいい」
「おれは、お外がいい。だってそしたら、みんなであそべるもん」
「ご本だって、みんなでいっしょによんでもらえるよ!」
 わぁわぁと口々に騒ぎ出すゆり組の園児たちに、わたしはこういう時の対処法を知らないため、どうすればいいかわからなくてオロオロしてしまう。
 こういう時に限って、ゆり組担当らしき保育士さんたちは誰もいない。呼びに行こうにも、先ほどの男の子がわたしの手をぎゅっと握りしめて離してくれないため、この部屋から出ることもできない。
「ブロックしたい!」
「お外であそぼうよぉー」
「だめぇ、ご本よんでもらうのぉ!」
 そうしている間にも、園児たちの間での言い合いはさらにヒートアップし、中には泣き出す子まで出てくる始末。止める術を知らなくて、途方に暮れていると、不意に落ち着いた声がした。
「どうしたの、みんな?」
 とたんに、今まで騒いでいた子供たちの声がピタリと止んだ。きょとんとしたような表情で、彼らはわたしの方に――正確には、わたしの背後に――澄んだガラス玉のような目をいくつも向ける。
 わたしの真後ろからひょこりと出てきたのは、失礼ながらも先ほど心の中で悪魔だの何だのと悪態をついていた相手――寺本さんだった。わたしの手を握っていた男の子が、真っ先に声を上げる。
「てらもと先生!」
「んー? ……あれ、ちぃちゃん。どしたの、何で泣いてる?」
 泣いている子供をすかさず見つけ、駆け寄った寺本さんは、その子をあやすようによしよしと頭を撫でてあげていた。
 泣いているショートカットの女の子は、わたしを指さしながら、嗚咽混じりに寺本さんに事情を話す。周りの子供たちもそれに同調するように、口々に寺本さんに訴えた。
「あのね、そのお姉ちゃんとね、みんなであそぼうってはなしになったんだけど、なにをしてあそぶかでケンカになっちゃったの」
「おれがさいしょに、ブロックあそびしよっていったのに、みんなが反対するから」
「ブロックあそびはいつでもできるし、つまんないよ。それよりも、みんなでお外にでてボールあそびするほうがいいって」
「ボールあそびはこのあいだやって、あやちゃんがケガしちゃったじゃん! それより、中でご本をよんでもらうほうが、あんぜんだよ」
「ご本をよんでもらうのだって、ほかの先生にたのんだら、いつだってしてもらえるじゃん」
 みんなの言い分を決して否定することなく、寺本さんは時折うんうん、と相槌をはさみながら話を聞く。
 やがて寺本さんがいることの安心感からか、みんなはだんだん落ち着いてきた。それを見計らうように、彼は静かな声で告げる。
「じゃあ、みんなで話し合ってみようか。言い合うだけじゃ何も始まらないし、どんどん遊べる時間が減っていくからね」
 うん、と子供たちは揃って頷くと、先ほどよりも幾分落ち着いたトーンで話し合いを始めた。
 その声は、だんだんと冷静な、真剣味を帯びたものになってくる。まるで討論を見ているようだ、とわたしは思った。
「やっぱり、お外にでようよ。その方が、いつもとちがうこといっぱいできるでしょ」
「でも、ボールあそびはあぶないよ」
 うーん……と、みんなの意見がそこで行き詰まってしまったらしい。何か言おうとわたしが口を開きかけたところで、不意にこれまでとは違う別の女の子の、高い声がした。
「わたしはこないだケガしちゃったけど、べつにボールあそびでもいいよ」
 その声の主――おかっぱ頭の小柄な女の子は、群がる子供たちをかき分け、わたしたちの前に出てきた。みんなの注意が自分の方へ向いたのを確かめると、女の子はスカートの裾から覗く、白く細い足を指さし、自信満々に言う。
「足はもう、なおったもん。それに、ボールあそびたのしかったし」
 みんなだって、あんなにたのしんでいたじゃない。
 ボール遊びが否定される原因となっていた張本人にそう言われてしまっては、さすがの反対派も口をはさむことができないらしい。少しずつざわめきがよみがえって来たかと思うと、他の子供たちは周りと顔を見合わせ、頷きあう。
「たしかに……ボールあそびは、いつもよりずっとたのしかった」
「おれも」
「ぼくも」
「あたしも」
「ぐすっ……わたしも」
 どうやら、ボール遊びをすることで話はまとまりそうだった。
 寺本さんを見ると、彼はこちらに軽くウインクを送ってきた。その悪戯っぽい仕草に、幼少期に感じたのと同じような――いや、それ以上の心臓の高鳴りを覚える。
 寺本さんは何事もなかったように両手を打ち鳴らすと、声高らかにみんなへと声をかけた。
「じゃあ、みんなでボール遊びに決まりだね。そうと決まれば、早速外へ出よう!」
「「「はーい!!」」」
 元気のいい返事が返ってくる。気づけば、先ほどまで泣いていた女の子も、いつの間にやら満面の笑みを浮かべていた。
 寺本さんを筆頭に、子供たちは次々と外出の用意をする。わたしもずっと手を繋いでいた男の子に「いこっ」と笑顔で手を引かれ、みんなと一緒に外へと向かった。

    ◆◆◆

 外でのボール遊びは、思ったよりも白熱したものとなった。
 ゆり組の十五人の園児たちはみんな笑いながら、心から楽しそうにボールを投げ合っていたし、わたし自身も気づけば彼らと『遊んであげている』というより『一緒に遊んでいる』状態になってしまっていたくらいだ。
 寺本さんや、途中で戻ってきたゆり組担当の保育士さんも混ざって、昼食の時間ぎりぎりまでわたしたちはボール遊びに興じていた。
 そして昼食を終えた園児たちは、現在教室で昼寝をしている。
 ボール遊びの疲れが出たのか、各々の布団を敷いたとたん、みんなはまるで倒れこむようにして眠りについてしまった。わたしや保育士さんたちがあやしてあげる必要もほとんどなく、寺本さんやゆり組担当の保育士さんが「こんなにすんなりと寝てくれたのは久しぶりかもしれないですね」と笑っていたくらいだ。
「ふぅ……わたしも、疲れちゃったなぁ」
「お疲れ様」
 園児たちが昼寝をしている教室の、布団が敷かれていないスペースに足を投げ出していると、寺本さんが麦茶の入ったグラスを出してくれた。「ありがとうございます」と口にしながら、冷たいそれをありがたく頂く。
 寺本さんはにっこり笑うと、わたしの隣にゆっくりと腰を下ろした。
 そういえば……と、もう一つお礼を言わなければならないことを思い出したわたしは、微笑ましげに子供たちの寝顔を眺める寺本さんに、小さく声をかけた。
「さっきは、ありがとうございました。子供たちの扱いに慣れていないので、わたしじゃあぁいうケンカをどうやって止めたらいいのかわからなくて……本当に、助かりました」
「大丈夫だよ。慣れていないなら、仕方ないさ」
 子供たちから目を離さないまま、まるで気にしていないとでも言うように、寺本さんはあっけらかんと答えた。
「子供って、些細なことでよくケンカになるからね。こういう仕事してると、嫌でも慣れてくるんだよ」
「そうでしょうね」
 冗談っぽく肩をすくめる寺本さんに、わたしは小さく笑うことで答える。
 それから寺本さんは、わたしの方へ目を向けた。やっぱりそこに笑み以外の表情はなかったけれど、その笑顔は先ほどよりもずっと柔らかで、優しいような気がした。
「楠木晴菜さん……ね」
 名乗っていないし、彼がわたしを覚えているという確信すら持てていないのに、彼はどうしてわたしの名前を――しかもフルネームを――知っているのかと、一瞬期待に胸が高鳴った。けれど彼の視線が私の胸元、手作りのルビ付きネームプレートに注がれているのに気付いて、そういうことか……とすぐに納得する。
 そんなわたしの複雑な心情を知ってか知らずか、寺本さんはそのまま話を続けた。
「大変でしょ。慣れてないのに、友達もいないところに一人で放り出されて」
「えぇ……まぁ、じゃんけんで決まったことなので、仕方ないです」
 小さく答えれば、寺本さんはフッ、と軽く噴き出すように笑う。
「俺も、他の保育士さんも忙しいから、君らの様子をずっとは見ていられないけど……できる限り、サポートするから」
 その声と言葉、そして笑顔には、絶対的な信頼感があって、わたしは心から安堵してしまう。
 その寺本さんは、どうやら自分の発した言葉に少し照れたらしく、ほんのりと頬を染めていた。その様子が可愛らしくて、思わず笑みをこぼす。それに気づいた寺本さんは、わたしと目を合わせると、恥ずかしそうに笑った。
 それからまるで照れを隠すかのように、寺本さんはおもむろに腕時計に目をやる。「もうそろそろ、他のところを見て来なくちゃ」と言い訳めいたことを口にすると、よっこらせ、と立ち上がった。
 見送るように視線を送っていると、教室を出ていこうとした彼は一度立ち止まり、振り返る。
「そうだ、せっかくだし一つアドバイスしとくよ」
 まるで先輩のような――実際、保育の仕事をしているという上では先輩といっても差し支えないのだが――表情と口ぶりで、寺本さんはこう言った。
「子供たちの話を、しっかり聞いてあげることが大事だよ。その主張がどれだけわかりにくくても、最後まで聞いてあげて。言いたいことは、ちゃんと見えてくるはずだから」
 きっとそれが、子供の心を掴むための、保育士としての寺本さんなりの秘訣なのだろう。そういえば初めて会った時から、彼は園児の――わたしの話を、ちゃんと聞いてくれていたような気がする。
 だからこそ、その言葉には説得力があった。
 その効果を、わたしも知っているから。
 心からの信頼を込めた瞳を向け、わたしは力強く答えた。
「はい。肝に銘じておきます」
 寺本さんは控えめに笑い、頷く。
 それからゆったりとした仕草で踵を返し、寺本さんは今度こそ教室を出て行った。

 わたしはぼんやりと子供たちの寝顔を見つめながら、考えに耽っていた。
 しばらくして我に返り、壁に掛かっている時計を見る。
 寺本さんが出て行ってからもう三十分ほどが経っていて、時刻はそろそろ送迎バスの来る時間を指していた。
 わたしは無言のままゆっくりと立ち上がると、未だ昼寝中の子供たちを起こさないように、一つ一つの所作に気を配りながら、静かに教室を出た。

 ――彼の本質は、何も変わっていないらしかった。初めて会った時から、今でもずっと。
 そのことへの安堵と、そして苦手だった子供たちと(少しだけではあるけれど)打ち解けることができたという喜びを心に刻み、わたしの保育体験一日目は幕を閉じることとなった。

3.保育体験二日目

 保育体験二日目。
 わたしは昨夜自室から探してきた、とある絵本を手にしていた。昔よくお母さんに読んでもらい、お兄ちゃん――もとい、寺本さんにも読んでもらったことがある、宮沢賢治の『やまなし』だ。
 あの頃よりもくすみ、ボロボロになってしまったそれを鞄から取り出し、ページをパラパラと捲る。古いため多少読みにくい箇所もあったけれど、それでも記憶にある通りの綺麗な挿絵は健在だった。
 昨日『本を読んで』と言っていた子供たちもいたから、保育体験中にぜひとも読んであげたいと思い、持って来たのだ。
 今日彼らがどんな遊びを選ぶのかは分からないけれど、もしまた喧嘩になったとしても、寺本さんのアドバイスのおかげで、今度はちゃんとうまく落ち着けてあげられそうな気がした。
 昨日も付けていた、手作りのルビ付きネームプレートを安全ピンで服に留め、「よしっ」と気合を入れたわたしは、ゆり組の部屋のドアを開ける。
 わたしの存在に気付いた十五人の子供たちが、遊びの手を止める。それからまるで気に入りのおもちゃやお菓子を見つけた時のように、わらわらと嬉しそうに駆け寄ってきた。
「あっ、はるな先生!」
「はるなお姉ちゃんだ!」
 みんなも昨日の寺本さんと同じように、ネームプレートを見てわたしの名前を覚えてくれたらしい。そのことにわたしは、今まで感じたことのなかった種類の喜びを覚えた。
 今までこんな風に誰かになつかれることってあんまりなかったから、わたしはなんとなく新鮮な気持ちになってしまう。
 昨日はほぼ寺本さんのおかげで事なきを得たようなところがあるし、それでも懐かれる意味は正直よくわからないけれど、それでも今日は自分からこの子たちに何か与えられるものがあれば……と思う。
「今日はね、面白いご本を持って来たよ」
 わたしは子供たちが話しやすいように腰を折ると、昨日よりもずっと出やすくなった声で、明るく言ってみた。表情もそれに比例して、自然と笑みが零れる。
 口に出した直後は、彼らが興味を持ってくれるかどうか不安に思ったけれど、当初の期待通り、みんなは嬉しそうに目を輝かせてくれた。
「ホント!?」
「ご本、よんでほしい!」
「きのうはボールあそびしたし、きょうはご本にしようっ」
「「さんせー!!」」
 このクラスの子たちは、どうやら読み聞かせも他の遊びと同じくらい好むクチらしい。未来の読書家たちをたくさん見ているような気がして、微笑ましい気持ちになった。
 子供たちはわらわらと、教室の中心の方に移動していくと、きちんと並んで座り出した。どうやら地域の図書館などで司書さんがよくやるような、読み聞かせ風にして読んでほしいらしい。
「はるな先生、こっちだよ」
 わたしのすぐ近くにいた、おかっぱ頭の女の子――確か昨日、あやちゃんと呼ばれていた子だ――がにこにこ笑いながら、わたしの手を引いてくれる。それに着いて、わたしはみんなが座って待っている前へと、少し緊張気味に向かった。

 ゆり組担当の保育士さんが持ってきてくれた丸椅子に腰かけると、持って来た絵本を子供たちに見えるようにして、そっと開く。傍らに控えた保育士さんの視線を感じながら「『やまなし』」と絵本の題名を告げると、それまでざわついていた子供たちは一斉にシンと静まり返った。
 自分の話をちゃんと聞いてくれようとするその姿勢は嬉しかったし、よく教育されていると思う。けれど、こんなにも静かにされてしまうとやっぱり緊張が高まった。
 パラリ、とページを捲る音が、シンとした教室に響く。
 できるだけ声が上ずらないように気を付けながら、通りやすさを心掛け、わたしは一文目を口にした。
「『小さな谷川の底を映した、二枚の青い幻灯です』」
 多分、『幻灯』という言葉の意味は分からなかったと思う。わたしも読んでもらった当初はわからなくて、お母さんに意味を尋ねたものだ。
 あの時お母さんは、どう答えたのだっただろう……。
「『一、五月』」
 お兄ちゃんにも、同じことを尋ねてみたことがあったっけ?
「『二匹の蟹の子供らが、青白い水の底で話していました』」
 けれど子供たちにとってそれは至極どうでもいいことだったらしく、青を基調とした幻想的な挿絵に見惚れるように、わたしの開いた本に一心に視線を注いでいた。
 子供たちの心を掴めたらしいことに内心ほっとしながら、わたしはさらに次の一文を口にする。
「『クラムボンは、笑ったよ』『クラムボンは、かぷかぷ笑ったよ』」
 プッ、と誰かが噴き出す声が聞こえる。それを合図とするように、まるでさざ波のように子供たちの間にクスクス、という笑い声が響き渡った。
 その反応も、予想の範囲内だ。だって初めて読んでもらったわたしだって、その意味不明な文章のおかしさに、思わず笑ってしまったのだから。
 どう感情を込めていいのかはよくわからないものの、それでもできるだけ棒読みにならないよう、わたしは続けた。
「『クラムボンは、はねて笑ったよ』『クラムボンは、かぷかぷ笑ったよ』」
 笑い声が、ひときわ大きくなった。わたしもつられて吹き出しそうになったけれど、どうにか堪える。
「クラムボン! またでてきたよクラムボン!」
「かぷかぷ、かぷかぷ!」
 そんな、ちょっとふざけたみたいなひそひそ声が聞こえる。
 しぃっ、と横から、咎めるような保育士さんの声が聞こえる。そのすぐ後に、同じく横から「止めなくて大丈夫ですよ」という小さな声がして、わたしは少し目を見開いた。
 わざわざ確かめるまでもなく、この声の主が誰なのかすぐに分かってしまう自分が、いっそ恐ろしいとさえ思う。
 不自然にならないよう、動揺を隠しながらわたしは読み続ける。
 子供たちの小さな、それでいて楽しそうな笑い声をBGMに、わたしはただ自分の気に入りの本をみんなにも気に入ってもらいたいというその一心で、心を込めて朗読を続けた。
 保育士さんも、その後は咎めようとしなかった。先ほどの声の主――寺本さんも、それ以上何も口にはしない。
 子供たちや保育士さんの、そして寺本さんの視線を感じながら、わたしはどうにか最後まで本を読み切ることに成功した。
「『――私の幻灯は、これでおしまいであります』」
 パタリ、と本を閉じると、一瞬辺りがしんと静まり返る。
 その直後、まるで音楽の演奏会でよくあるスタンディングオベーションのような拍手が、園児たちから巻き起こった。
「おもしろかった!」
「絵が、すごくきれいだった!」
 口々にそんな感想を述べられて、わたしは嬉しさと同時に気恥ずかしささえも感じてしまう。はにかみながら小さく「ありがとう」と答えるのが精いっぱいだった。
 横からも、拍手が聞こえる。ちらりと見てみれば、ゆり組の保育士さんと寺本さん、そしていつの間にやらもう一人、年配の女の先生が隣に並んで、わたしに笑顔と拍手を送っていた。
 目をぱちくりさせていると、寺本さんがわたしのところに来て、小さく耳打ちをする。その距離の近さに、幼い頃のときめきを思い出してしまったのは秘密だ。
「園長先生だよ」
 へ、と掠れた声が漏れる。
 園長先生と呼ばれた、年配の女の先生は、人の良い笑みを浮かべながらこちらに来た。
「保育体験に来てる、青葉第一中学校の子ね。読み聞かせ、とってもお上手だったわ」
「あ、ありがとうございます」
 まっすぐな褒め言葉に、さらに照れてうつむいてしまう。そんなわたしに園長先生は「あらあら、顔を赤くしちゃって。可愛いわね」と、とてもほのぼのとした調子で言った。
「ねぇはるな先生、クラムボンっていったいなぁに?」
 いつの間にか、男の子が一人こちらに来ていて、わたしにそんな質問を投げかけてきた。
「あ、えーと……うーん、何だろうね」
 赤くなった顔を隠したかったのと、質問の答えが見つからないのとで、非常に曖昧な笑みと答えを返すことしかできない。
 そんなわたしに助け船を出すように、寺本さんが口を挟んできた。
「みんなで、自分が思うクラムボンを描いてみたらどうだろう?」
「いいねそれ、おもしろそう! おれ、さっそくみんなに言ってくる!」
 男の子は花開くような笑みを浮かべ、機嫌良さそうにスキップで園児たちの輪の中へと戻っていった。
 十五人の子供たちがクレヨンを手に、それぞれ思い思いの『クラムボン』を描いている最中、わたしは思いがけずゆり組の保育士さん、寺本さん、そして園長先生の三人の大人たちと話す機会を設けることとなった。
 ゆり組の子供たちのこと、保育園の仕事のこと、わたしの学校の授業のことなど、実に様々なことを話した。とはいっても主にわたしが三人の質問に答えたり、三人が好き勝手に自分の業務について話すような形だったから、ほぼわたしは受け身のようなものだったけれど……。
 同僚として働いていたら、もっと違う話ができたのだろうかと、そんな今の状況では絶対にありえないことをふと思ってしまう。
 やっぱり彼らにとって――もちろん、寺本さんにとっても――わたしは所詮一人の子供でしかないわけである。まだまだ、追いつくには足りない。
 保育士になりたいという明確な気持ちがあるわけでは、まだないけれど。
「――さて」
 ひとしきり話し終えたところで、園長先生が教室に掛かっていた時計を一瞥し、声を上げた。
「そろそろ行かなくては。寺本先生も長谷川(はせがわ)先生も、それぞれのお仕事に戻りなさいよ」
「「はい」」
 寺本さんと、ゆり組担当の保育士さん――長谷川さん、というらしい――が揃って返事をする。
 長谷川さんに見送ってもらいながら、寺本さんと園長先生が部屋を出ていこうとするところで、不意に園長先生が振り向いた。わたしと目を合わせると、悪戯っぽく微笑む。
「あなたみたいな保育士さんが、うちに来てくれると嬉しいのだけれど」
 一瞬何を言われたのかわからずぽかんとするわたしに、園長先生はヒラリと手を振り、先に出て行った。寺本さんが目を丸くして、遠ざかる園長先生の後姿とわたしを交互に見る。
「園長先生って、あぁ見えて結構気性の激しい人なの。そんなあの人があんなこと言うなんて……すごいわね、あなた」
 長谷川さんが感心したようにそう言った。
 気性が激しいって……そんな風には全然見えなかったけれど。案外、人は見かけによらないようだ。
「君、案外素質あるのかもね」
 寺本さんが重ねるように言う。その顔が何故か、普段園児たちに向けるものよりもひどく優しく見えて、わたしの心臓は馬鹿みたいにドキリと跳ねてしまった。
 そんなわたしの心情など全く知る素振りもなく、寺本さんは案外すぐに視線をそらすと、長谷川さんとわたしに順番に声を掛け、さっさと他のクラスの見回りに行ってしまった。
 園長先生や長谷川さんの言葉にも、寺本さんの表情にも、もちろん色々と思うことはあった。けれどその思考はすぐに、たやすく断ち切られる。
「先生、みて! クラムボン!」
「わたしもかけたよ、クラムボン!」
 そう次々に、園児たちがわたしのところへやって来たからだ。
 彼らが自慢げに見せてくれる、クラゲのようなものや恐竜みたいなもの、はたまた線の集まりのような意味の分からない物体を次々と目にしながら、わたしは自然と笑みをこぼしていた。
「すごいね、みんな。こんなにいっぱい描いてもらえて、クラムボンもきっと喜んでるよ」
 ね、長谷川先生。
 傍らの長谷川先生に話を振ってみると、彼女も微笑みながら「えぇ、そうね」と同意してくれる。
 その笑みに何か含みのようなものを感じたのは、気のせいだろうか。
 一瞬そんなことを思ったけれど、子供たちに「もういっかいクラムボンよんで!」とせがまれてしまったので、その思考もそこで断ち切られる。
 結局お昼ご飯の時間も含め、子供たちがお昼寝する時間――つまりそれは、学校から送迎バスが来る時間ともいう――になるまでずっと、わたしは園児たちにクラムボン、もとい『やまなし』を繰り返し読み聞かせてあげたのだった。

4.保育体験最終日

 そうして迎えた保育体験三日目、もとい最終日。
 同じ学校の人たちと離れ、一人きりで疎外感を感じていた一日目とは打って変わって、今ではもう園児たちの輪に入ることにもすっかり慣れてしまっていた。一日目や二日目よりもスムーズにゆり組の教室へと入っていくことができた。
 この日の園児たちは何人ずつかの仲良しらしいグループに分かれて、おままごとをしたりブロック遊びをしたりしていた。すべてのグループと一緒に交じって遊んで、わたしは前二日よりも格段に穏やかな時を過ごした。
 本来ゆり組の担当である長谷川先生も一緒だったし、時折寺本さんや何故か園長先生まで教室に来てくれたので、一日目のように困ることもなかった。できればこの処置を今ではなく一日目に取って欲しかった……と思わなくもないが、色々な経験をしたおかげでわたし自身が成長できたような気がするし、なんだかんだ言っても楽しかったので、とりあえず良しとする。
 園児たちはもうすっかりわたしになついてくれていて、一時は各グループに引っ張りだこにされ再びケンカが勃発しそうになったことになったこともあったけれど、そういう時はタイミングよく寺本さんが助けに入ってくれたり、長谷川さんがサポートしてくれたりして、どうにか事なきを得た。
 今日は最終日ということでいつもより長くいることができるので、子供たちのお昼寝の時間を少し遅くして、わたしのお別れパーティーが開かれることになった。
 みんなはわたしが明日から来ないことを知ってとても残念そうだったし、中には「やだ、ずっときてよー!」と駄々をこねる子も現れた。けれど最終的には「またぜったいきてね。やくそくだよ」と指切りげんまんすることでこの件は案外すぐに丸く収まった。
 ――でもきっと、この約束は守れない。
 そう思うと、とたんに切なくなる。
 そうして同時に、あの時のお兄ちゃん――寺本さんも、同じようにわたしに嘘を吐いたのだろうかと思ってしまって、哀しさが増していく。
 寺本さんは結局これまで一度も、あの頃のことを話してくれようとしない。『久しぶりだね』とも『覚えているかな』とも、何も言ってくれない。
 寺本さんは、わたしを覚えてくれているのだろうか?
 それとも、中学校の頃にあったほんの三日ほどの出来事なんて、もうどうでもいいと忘れてしまっている?
 わたしは、ちゃんと覚えているのに。
 十年経った今でも、わたしはちゃんとあなたのことが分かったのに。
 再会を内心喜んでいたのは、やっぱりわたしだけだったの?
 結局あの頃のことは全部、幼いわたしの独りよがりにすぎなかったのだろうか……。
 いつもより格段に寝つきが悪かった十五人の子供たちを何とかなだめすかし、ようやく全員を寝かしつけることに成功したあと、安らかな寝息がいくつも聞こえる教室で一人考え込む。
「はぁ……」
「どうしたの、楠木さん。お別れが、そんなに寂しい?」
 唐突に降ってきた声に顔を上げれば、そこには気遣うような笑みを浮かべた寺本さんがいた。わたしが座っているからか、両手に膝をつき、まるで幼児を相手にする時みたいな体制でわたしを見ている。
 その姿が十年も前のものと重なって、わたしの胸はさらにキュッと締め付けられた。
「大丈夫です。明日からまた学校か、めんどくさいな……とか考えてただけですから」
 誤魔化すようにわざとふざけてそう答えてみれば、寺本さんはフッ、と小さく笑って「そっか」と言った。
 それから寺本さんは「よっこらせっ」と小さく呟いて、わたしの隣に静かに腰を下ろした。一日目にも聞いたそのオジサンみたいな掛け声に、思わず吹き出してしまう。
「ずいぶん、年をお取りになったんですね」
「失礼だなぁ、俺はまだ二十五だよ」
 むぅ、と寺本さんが口を尖らせる。こんなおどけた素の表情を見たのはもちろん初めてのことで、新しい一面を見られたことが何だか嬉しくて、わたしは落ち込んでいた気持ちがちょっと浮上してくるのを感じた。
 一日目と同じように子供たちの寝顔を眺める寺本さんの横顔に、気付けばわたしは問いかけていた。
「寺本さんは、どうして保育士になろうと思われたんですか?」
 寺本さんが、小さく笑う。
「また、ベタな質問だね」
「いいじゃないですか。聞きたかったから聞いてみたんです。最後なんですし、答えてくださってもいいでしょう?」
 そう言い返せば、寺本さんは目を細めながら「そうだなぁ……」と考えるそぶりを見せる。少しして顔を上げ、こちらに視線を合わせてくる彼の瞳には、まるで昔を振り返るみたいな穏やかな色が浮かんでいた。
 物語を口にするみたいな口調で、寺本さんは言った。
「俺が保育士になろうと思ったのは、中学校三年生の頃。きっかけは、ちょうど君たちと同じく、この保育園に保育体験をしに来たことだった」
 トクン、と胸が鳴る。もしかしてという期待にも似た想いが、心を支配した。
「俺はあの頃、子供の扱いとかあまり得意じゃなくて。弟はいたけれど、年が近かったから……小さい子の相手をしたことなんて久しくなかったから、ホントにどうしていいか分かんなくて。そう、一日目の君みたいにさ」
 一日目の自分の姿を思い出して、恥ずかしさのあまり縮こまりそうになってしまう。子供の喧嘩を前にオロオロしていたわたしは、傍から見れば――寺本さんの目から見れば、相当滑稽に映ったことだろう。まったく、穴があったら入りたいとはこのことだ。
 その場で小さくなるわたしに気付いたのか、寺本さんは可笑しそうに小さく笑った。
「でね、そんな時に……ある女の子と出会った。その子はみんなで遊んでいる園児たちの輪から離れたところで、一人ポツンと絵を描いててね。俺はなんとなくその子のことが気になって、思い切って声を掛けたんだ」
 寺本さんが口にしたその時の状況が、わたしの遠い記憶とぴったり重なり、どんどん明確なものとしてわたしの脳裏に描かれる。
 気づけばわたしは、「えぇ」と小さく相槌を打っていた。そうでしたね、というニュアンスをわずかに込めて。
 訳知り顔でうなずいたわたしに驚いたのか、寺本さんが僅かに目を見開く。それでもその語り口は止まることなく、さらに続いた。
「その子が描いていた絵は、君が昨日読んでいた宮沢賢治の『やまなし』のワンシーンだった。それを指摘したら彼女はとても喜んで……気を良くした俺は、薀蓄を語って聞かせた。浮かんでいる花は椛の花というんだよ、とか、確かそんなことを。女の子はさらに喜んでくれてね。それが、俺はとっても嬉しかった」
 そう。わたしもあの時お兄ちゃんに、知らなかったことをたくさん教えてもらって……すっごく、すっごく嬉しかったの。
 十年前の記憶の一つ一つが寺本さんの言葉に乗って、いつも思い出す時よりも断然はっきりと、明確に思い出される。
 同時に、あの時感じていた気持ちも、鮮明に……。
 まるであの頃に戻ったような、不思議な錯覚を覚えた。きっと今のわたしはひどく無邪気で、怖いほどに穏やかな表情をしているに違いない。
 きっと寺本さんは、その女の子がわたしだなんてこと、露ほども思っていないのだろう。今すぐここで、それはわたしのことだと叫んでしまいたい衝動に駆られる。
 けど……。
 それでも、寺本さんがあの時のことを――保育体験で一緒に過ごしたあの女の子のことを、今でも覚えていてくれたという、その事実を知れただけで。今、彼とあの日の記憶を共有できているという、その事実だけで。
 それだけでわたしは今、幸せだと思った。
 幸福に満ちたわたしの心情を、寺本さんはきっと知らない。
 それでもわたしは、彼の話の続きに耳を傾ける。まるで絵本の続きをせがむ子供のように、彼から話を聞こうとする。
 寺本さんはリクエスト通り、その続きを語ってくれた。
「結局俺は保育体験の三日間全てを、その子と過ごした。初めはおどおどしていた彼女も、日を追うごとに俺になついてくれるのが分かったし、俺自身も保育体験を心から楽しんでたし……このまま別れるのは、嫌だなって思ったくらい」
 わたしだって……お兄ちゃんと、ずっとこのまま一緒にいたいって思った。帰ってほしくなんかないって、ずっと思ってた。
 わたしが見守る中、寺本さんはゆっくりと瞳を閉じる。
「でもやっぱりさ、日程を伸ばすことはどう考えても不可能だったわけ。無情にも、時は過ぎる。だから……最終日、『明日も、来てくれる?』って純真無垢なまなざしで聞いてきた彼女に、俺は今日でお別れだと答えた。それで……呆然とする彼女と、約束したんだ。『いつかまた、きっと会いに来る(・・・・・)』って」
 わたしは思わず、眉根を寄せた。
 そこまで覚えているくせに、どうしてわたしに気が付かないのだろう。寺本さんは今まさに、その女の子に会っているというのに。目の前に、彼女(・・)はいるのに。
 どうして、声を掛けてくれないの……?
「彼女がそのことを、今でも覚えているかどうかは分からない。でもいつかは絶対に、その約束を果たさなければ、って思う。まだ一度も、会いに行くことはできていないけれど……」
 『会いに行く』という言葉に、何か彼なりの意志がこもっているような気がしたけれど、わたしにはよくわからなかった。
 私は、覚えている。ちゃんと覚えているし、その人があなただということも、ちゃんとわかってる。
 それなのに……その言いぐさは、一体何なのか。
 わたしのことを覚えていないのは、むしろあなたの方じゃないか。
「寺本さん」
 耐えきれなくなって、思わず彼を呼ぶ。寺本さんは笑みを浮かべ、わたしを見た。
「なんだい」
 その微笑みはきっと、あの子(・・・)に向けたものとは違う。きっと、昔出会った女の子――つまりそれは、わたし自身のことなのだけれど――とわたしは、同一人物だと思われていないのだろう。
 その事実に、胸が痛いほど締め付けられた。大きく息を吸って、全て吐き出そうとするかのように、言葉を紡ごうとする。
「わたしは――」
 ちょうど、その時だった。
「晴菜、バスの時間だよ」
 隣の年少クラス、通称ひまわり組の教室から出てきた同級生の女の子が、タイミングよくゆり組の教室に入ってきた。わたしは叫ぼうとした言葉を呑み込み、思わずその子を睨んでしまう。結構な剣幕だったのか、彼女はわたしを見て一瞬固まってしまった。
 分かっている。その行動に、まったく悪意がないことくらい。
 でも、これ以上持て余す自分の気持ちをどこにやればいいのか分からなくて、それはどうしても苛立ちになってしまう。
 わたしの様子になど目もくれず、寺本さんは穏やかな声で、けれど急かすように言った。
「ほら、楠木さん。お迎えの時間だって。もう行かないと」
「……」
 わたしは気持ちを落ち着ける暇もないまま立ち上がらされ、スムーズに教室から出される。
 その瞬間、わたしの中に存在していた一抹の期待も希望も、全てが消えてなくなってしまったような気がした。
 けれど……。
 送迎バスへと向かおうとする直前、寺本さんが不意にわたしの頭に手を置いた。多分わたしにしか聞こえないくらいの小さい声で、こう囁かれる。
「じゃあまたね、晴菜ちゃん(・・・・・)
 わたしは驚きのあまり、大きく目を見開いた。寺本さんはわたしの頭をポンッと叩くと、ゆったりとした足取りで歩いて行き、何事もなかったかのように奥へと引っ込んでいく。
「何やってんの晴菜! もうバス来てるって。早く行くよっ」
 苛立った様子の同級生に乱暴に手を引かれ、送迎バスへと乗り込む途中にも、わたしは茫然としながら、寺本さんが紡いだその名前を脳内で反芻し続けていた。

5.綴られた二度目の約束

 保育体験を終えた翌日は連休で、わたしはこの三日間の――特に最終日のことを思い出しながら、ほぼ部屋から出ずに悶々と過ごした。
 最後に寺本さんが告げた言葉が、頭の中でメリーゴーランドみたいにくるくると、落ち着きなく回り続ける。
『またね――晴菜ちゃん』
 彼の声が脳内で再生されるたびに、息苦しくて仕方ない。その一挙一動を思い出すたびに、何かを期待せずにはいられない。
 どうして……いまだに、そんなことに支配され続けているのだろう。もうあれは、十年も前のことなのに。
 わたしが昨日、ゆり組の園児と最後に交わした約束みたいに……彼のあの言葉は、決して叶いなどしないはずなのに。
 どうして寺本さんはあの時、期待を持たせるようなことを言ったのか。
 どうしてわたしは、こんなにも胸を躍らせてしまうのか。
「もう、どうしていいのか分かんないよ……」
 呟いた声とわたしのこの気持ちは、きっと寺本さんにも……他の誰にも、ひとかけらも届きはしなかっただろう。
 わたしはこれからもずっと、同じ気持ちを抱き続けたまま過ごし……そしてそのまま、大人になる。
 心だけを、あの幸せだった時期に置いたまま。

    ◆◆◆

「皆さん、先週は保育体験お疲れ様でした」
 教室の前方に立つやいなや、機嫌良さそうに口を開いた我がクラス担任の女教師は、その手に何やらプリントの束を抱えていた。
 教卓でトントン、と丁寧に揃えると、彼女はそれを幾枚かずつに手際よく分けていく。そうして「二枚ずつ取ってください」と言いながら、席に座るわたしたち生徒に用紙を配り始めた。
 手元にやって来た二枚を見ると、それは罫線がいくつか引かれた、便箋のコピーらしかった。どうやら世話になった保育園に宛てて、お礼の手紙を書けということらしい。
 女教師は黒板に各保育園の名と担当者の名前を順番に白チョークで書き込んでいくと、黒板をトン、と指した。こちらを向きながら、わたしがまさに思っていた通りのことを口にする。
「これから皆さんには、お世話になった保育園の方にお礼の手紙を書いていただきます。各園ごとの担当者は、前に書いた通りです。手紙の所作については、前に教えましたね。もしわからないところがあったり、紙が足りないなどということがありましたら、言ってください。できた人から清書の紙をあげますから、手を挙げてくださいね」
 黒板を見てみれば、もちろんわたしが行った山ヶ岳保育園の名もあった。その横には教師らしいバランスの良い字で『担当者:寺本陽平先生』と書かれている。
 これがきっと、最後のチャンスになるのだろう……。
 そう思ったわたしは早速便箋に向かうと、小さく深呼吸をした。女教師の言う通り、手紙の所作については前に習ったし、書くことも頭の中でだいたいまとまっている。
 クラスのお調子者の男子が「せんせー、書き始めはやっぱり『拝啓』ですよね?」などと至極くだらない質問をしているのを聞き流しながら、わたしはシャーペンを手にサラサラと書き始めた。
「晴菜、何書く……って、早いねあんた」
 いつもみたいに相談でも持ちかけてこようとしたのだろう、前の席の友人がこちらへ振り向いたのを、声と気配で感じる。そうしている間にもびっしりと埋められていくわたしの便箋を見て、驚いたように声を上げた。
 書く手を止めぬまま、顔を上げずに答える。
「大体、書くことは決まってるからね」
「こういうの苦手なあんたにしては珍しいね……そんなに、保育体験が楽しかったんだ」
 友人は感心したように言う。とりあえず「まぁね」と答えておくと、友人はそれで満足したのか、おとなしく前へと顔を戻したようだった。
 教室中がざわつく中、わたしは一人、淡々と手紙を書き続ける。
 ――ゆり組の子供たちと一緒に過ごせて、もちろん楽しかったという気持ちもあった。もう一度あぁいった機会を設けてほしいと、心から思うぐらい。
 でもそれ以上に、わたしには寺本さんの存在が大きかった。
 それは寺本さん本人も、他のみんなも、きっと知らない真実。わたしだけが持つ、わたし一人だけの秘密。
 誰にも、教えてなんてあげないんだから。
 テンプレート通り『拝啓』と時候の挨拶、そして『先日はありがとうございました』の言葉から始まり、ゆり組の子供たちと遊べてとても楽しかったとか、長谷川さんや園長先生にもお礼を言っておいてくださいとか、そういうことをつらつらと綴っていく。
 そうして十分ほどで一枚半ほどのスペースを埋め、最後に締めの言葉を綴る。『かしこ』と書く前に、わたしはさらにある一文を書き込んだ。
『わたしの幻灯は、これでおしまいであります』
 これは、『やまなし』の最後の一文だ。わたしはこの部分に、ある大きな意味を込めた。
 それから、駄目押しのようにさらにもう一言。
『それは梨の果実のように甘く優しく、淡い灯でした』
 寺本さんはきっと、気付いてくれるはず。この最後の部分に込めた、わたしの想いに。
『親愛なるあなたへ。これからも、どうかお元気で』
 自分でも、思い切ったことを書いたと思う。
 けれど……これがわたしの、最初で最後の恋文だ。
 自分の中学校と名前、そして彼の宛名を書いて、わたしは清書の紙をもらうために手を挙げた。
 担任の女教師が持ってきてくれた、清書の紙を二枚前にして、わたしはもう一度先ほどの内容と同じことを書く。もちろんさっきより心を込めて、丁寧に書くことを心がけながら。
 最後の一文に全身全霊を込めて、授業終了のチャイムが鳴る十分ほど前に手紙を書き終える。書き終えた手紙を指示通り三つ折りにすると、事前に住所と宛名を書きこんでおいた茶封筒に入れ、封をする。
 提出する前、わたしはその封筒を手にしながら、一つ大きく息をついた。
 ――十年前の想い出を引きずるのは、これでおしまいです。
 ――それはわたしにとって甘く優しく、淡いひとときの恋でした。
 この手紙を出せば、全てが終わる。今まで引きずってきた過去とも、これで本当に決別しなければと思う。
 完全に振り切るまでにはきっと時間がかかるかもしれないし、今はまだ、胸を引き裂かれるほどに寂しくて苦しい気持ちになるけれど。
「さよなら、お兄ちゃん」
 人知れず小さく呟くと、わたしは手紙を提出するために席を立った。

    ◆◆◆

「山ヶ岳保育園の寺本先生から、先日のお手紙に対するお返事をいただきました」
 数日後、担任の女教師が口にしたのは、そんな予想外の知らせだった。
 他の保育園に行ったクラスメイト達がそれぞれ「いいなぁ」「すげー」などと零すのをよそに、山ヶ岳保育園に行ったわたしたち七人に、それぞれ宛名の書かれた手紙が一枚ずつ配られる。
 が……。
「先生、なんでわたしだけ違う封筒なんですか」
 他の人たちが皆同様に、薄く小さな封筒を一つずつ渡される中、わたしにだけ別の違った封筒が渡された。めったにお目にかからないような業務用の大きな封筒で、しかも分厚い。
 女教師は苦笑しながら答えた。
「寺本さんのお話によると、ゆり組の園児十五人が描いた絵が入っているんですって。楠木さんは、ゆり組の子たちととっても仲良くできたのね」
 ゆり組の子たちが、わたしに……。
「えー、いいなぁ晴菜。いつの間にそんなことになってたのよ」
「楠木お前、もう保育士になれるんじゃね」
 クラスメイト達からかけられる賞賛(?)の言葉に包まれながら、わたしはその大きく分厚い封筒の封を切った。
「うわぁ……」
 取り出した中身を目にして、思わず感嘆の声が漏れる。
 四つ折りにされた大きな水色の画用紙に、十五個の絵があった。その下には保育士さんが書いたと思われるペン字で、園児たちからのメッセージが一つずつ添えられている。
 『すっごくたのしかったよ』『ありがとう、はるなせんせい』『また、ぜったいきてね』……そんな言葉たちに、わたしは自然と目頭が熱くなった。みんなの前だから(しかもなんだか注目されているようだから)、その場で涙を流すのはどうにか堪えたけれど。
 園児たちの中に、わたしは思い出を残すことができたんだ。ほんの短い間だったけれど、それでも素敵で楽しいひとときを、彼らに与えてあげることができたんだ。
 これまで子供が苦手だったし、一人でゆり組に行くことになった時は正直不安でいっぱいだったけれど、今は保育体験に行ってよかったと、ゆり組のみんなに出会えて本当に良かったと、心から思う。
 次にわたしは、一緒に入っていた三枚の便箋を開いた。こっちは寺本さんをはじめとした、保育士のみなさんが書いてくれたものらしい。
 一枚目は、園長先生と長谷川先生からのメッセージだった。
 園長先生の字は流れるような達筆で『読み聞かせをしてあげていたのが、とても印象的でした。一日目のお話を伺ったり、三日目の様子を見させてもいただきましたけど、あなたは本当に子供の心を掴むのがお上手ですね。また個人的に遊びに来てほしいくらいです』といった、どうにももったいない褒め言葉が書かれていた。横から覗き見ていたクラスメイトが、「すげーじゃん」と声を漏らす。
 長谷川先生の字は丸みを帯びていて可愛らしかった。『初日は一緒にいてあげられなくてごめんなさい。けれどゆり組の子たちはみんな、楠木さんといる時とてもいい顔をしていました。いつも担当をしている私が、思わず嫉妬してしまうくらいに(笑)』という文章を見た時は、思わず笑ってしまった。
 二枚目と三枚目は、寺本さんから。開く時は緊張して手が震えてしまったけれど、書かれたその字を読み進めていくうちに、不思議とほっとした気持ちになっている自分がいた。
 一日目に喧嘩をしていた園児たちの前でオロオロしていたこと、二日目に柔らかな声で『やまなし』の読み聞かせをしていたこと、三日目にはもうすっかり打ち解けて、笑顔で園児たちと遊んでいたこと……。
 こんなにもわたしのことを見ていてくれたんだと、そんな自惚れにも似た気持ちがわたしの中に生まれてきてしまう。それぐらい詳しく、寺本さんはわたしの三日間の様子を事細かに書いてくれていた。
 それから彼は手紙の中で、ゆり組の子供たちが描いた絵は全てクラムボンを表したものなのだということも教えてくれた。水色の画用紙は、きっと水の中を表しているのだろう。
 彼らにとってあのお話の印象がクラムボンだけというのも、それはそれで少し悲しいような気がした。けれどいずれ成長したらきっと、彼らはあの話の詳細を知ってくれることだろう。
 その時に、思い出してくれたら嬉しいと思う。
 保育園の頃に読み聞かせをしてくれた、『はるな』という名前の人がいたということを。
 そして、寺本さんにも……。
 ……なんて、それはあまりにも贅沢な願いだろうか。
 そんなことを思いながら読み進めていると、わたしはふと、最後の締めの部分に何か異変を感じた。これまでの丁寧な調子は変わらなかったけれど、なんだかそれまでとは違うような……これまでの保育体験に来た『楠木晴菜』という生徒に宛てて書いていた手紙と、この先の文章はまったく違うような気がしたのだ。
 最後の締めに当たる部分の、一行目にはこんなことが書いてあった。
『小さな谷川の底を映した、二枚の青い幻灯です』
「これは……」
 思わず、小さく呟く。
 これは、『やまなし』の初め(・・)にあたる言葉だ。これから物語が始まるということを表した、重要な文章。
 確かわたしは彼への手紙に、終わり(・・・)の言葉を綴ったはず。彼との思い出を、彼への恋心を、すべて終わりにするつもりでそう書いた。
 それなのに返事が、始まりの文章とは……これは一体、どういうことなのだろう。彼は一体どういうつもりで、この言葉を引用してきたのだろう。
 不思議に思いながらも、先の言葉を読み進めてみる。
 次の文章は、こうだった。
『花が咲き、実が熟した頃に、私は必ずあなたを迎えに参ります』
 ……え?
 思考がフリーズするわたしの目に、さらに不可解な言葉がもう一つ飛び込んでくる。
『それまで、お元気で』
 寺本さんの手紙は、これで終わりだった。さらに文章を追ってみるものの、その後に書かれているのは日付と差出人――つまり寺本さん自身の名前、そして宛名としてのわたしの名前だけ。
 どこかにヒントがないかともう一度すべて読み返してみるけれど、どこにもヒントになりそうなものはない。
 わたしはこれを受けて、明るい方向へと勝手に解釈してしまってもいいのだろうか。期待してしまっても、いいのだろうか。
 ねぇ、寺本さん――ううん、お兄ちゃん。
 わたしは……あなたとの思い出を、まだ手放さなくてもいいのですか? まだ、あなたを諦めなくてもいいのですか?
 何年でも何十年でも……あなたの言葉を信じて、待ち続ける権利がわたしにはあると、そうあなたは言うのですか?
 心の中で幾度問いかけてみても、答えなど返ってくるはずはなく。
 クラスメイトたちの視線を一身に受けながら、わたしはできるだけ動揺を外部へ漏らさないよう、静かに便箋と画用紙を元通り折りたたみ、封筒へと戻したのだった。

6.そして、時は流れ

 それ以来寺本さんからは何の音沙汰もなく、気付けばあれから実に五年の月日が経っていた。
 わたしは成人し、現在地元から少し離れたところにある短大の保育科に通っている。結局あの出来事があってから、寺本さんと同じ道を歩もうと――保育士になろうと決意したのだ。
 保育体験の後にもらったゆり組の子たちからの絵も、寺本さんたちからの手紙も、全部今でも大事にしまってある。この道に進もうと思った、何よりのきっかけをくれたものだから。
 ゆり組の子供たちとの交流を通じて、あぁいった子供たちとの交流をもっと深めたいと思ったのも事実だ。小さな子の立場に立って、話を聞いてあげたりしながら、正しい道へと進ませてあげる……そんな手助けが少しでもできたらいいという気持ちが、わたしの中にむくむくと湧き起こった。
 けれど、それと同じくらいわたしの心を支配していた、ある一つの願い。
 それは……。
『花が咲き、実が熟した頃に、私は必ずあなたを迎えに参ります』
 寺本さんの手紙にあった一節。
 あの言葉を、もし今でも信じていていいというのなら。
 十年前から今でもずっと変わることのない気持ちで、彼を一心に想い続けていても――彼を待っていても、いいというのなら。
 その時が来るまでに、わたしは少しでもあなたに近づいていたいと思う。
 心も身体も、あなたと釣り合うような人間でいたいと思う。
 迎えに来てよかったと、寺本さんにそう思ってもらえるような『わたし』になりたい……そう、心から思う。
 寺本さんが今でも約束を覚えていてくれているのかは、わからない。あの時二十五歳といっていたから、だったら今年彼は三十歳のはずだ。
 そんな年なら、もうとっくに結婚しているかもしれない。十も年下で、彼から見ればほんの子供でしかないわたしとの約束などとうに忘れて、幸せになっているかもしれない。
 それでも、待っていたかった。
 彼を、信じていたかった。
 その約束が果たされる日が、一体いつになるのか。そもそも守られる約束なのか。それは、どうともいえないけれど……。
 あの人への恋慕を人知れず心に抱きながら、今日もわたしは生きていく。
 どんな形であれ、この恋が終わりを告げることになるその日まで。

    ◆◆◆

 今年受けた保育士試験の実技試験を終え、あとは合格発表を待つばかりとなった頃、わたしは同じく保育士試験を受けた仲間たちとともに、地方の保育士会が主催してくれるという打ち上げパーティーに出席していた。
 普段あまりお酒は飲まないけれど、今日だけは解放感に満ち溢れた雰囲気に流され、わたしはお酒を口にした。あまり飲んだわけではないけれど、ふわふわとした感覚がわたしを包んで離さない。
 こんなに気持ちよくなったのは、いつ振りだろう。
 仲間たちと別れ、帰り道を歩いている間にも、言い難い高揚感が終始わたしを支配していた。
 秋が深まり、日も短くなってきたから、まだそれほど遅い時間ではないけれど、外はすっかり暗かった。ひんやりとした夜風が、ほどよく火照った肌に当たって気持ちいい。
 このまま家に帰るのはなんだかもったいない気がして、わたしは寄り道をしてみることにした。心配してもらわなくても、家までの道のりを見失うほど理性を失っているわけじゃない。ほんの、ほろ酔い程度だ。
 家への道から一本外れたところを歩いて行くと、並木道が見えてくる。そこをずっと進んでいくと、奥に公園があった。
 そこに大きな梨の木が植わっていると、かつてお兄ちゃんが――寺本さんが、教えてくれたことがあった。家からだとちょっと遠いところだったから、見に行くのは今日が初めてだ。
 近づくにつれ、熟した梨の実が放っているのであろう、強く甘い香りが漂ってきた。
 その香りに誘われるように、わたしはふらふらと公園へ足を踏み入れた。甘い香りを放つ梨の木に近づこうとして、はたと足を止める。
 大きな木の下には、いくつかの人影があった。背の高い人影が一つと、小学生の子供ぐらいの小さな人影がいくつか。冷静になって一つ一つ数えてみると、それは十五あった。
 もしかして、これって……。
 わたしはハッとした。残っていたわずかな希望が、胸に広がっていく。
 街灯に照らされたそれらの影は、近づいて行くにつれだんだんと実態を伴うものとなっていった。背の高い影がわたしの存在に気付き、こちらへ片手を上げてみせる。
 それを合図とするように、十五の人影がわらわらとこちらへ集まってきた。
「晴菜先生!」
「晴菜お姉ちゃん、久しぶり!」
 駆け寄ってくる小学生ぐらいの子供たちは、どの子も見覚えがあった。五年もの月日が経っているから、あの頃より格段に成長してはいたものの……どの子も特徴的な面影は残っている。
 そう、彼らは五年前、山ヶ岳保育園のゆり組に在籍していた子供たちだ。現在はおそらくみんな、小学校の四年生くらいだろう。
 そして彼らを連れている、十六個目の背の高い影は――……。
「久しぶりだね――晴菜ちゃん」
 集まってくる子供たちの後ろで微笑んでいたのは、十五年前とも五年前とも違う、完全な私服姿の彼――寺本さんだった。
「寺本さん……みんなも、何でここに」
 呆然としながらそう口にするわたしに、一番前にいた男の子が元気のいい声で言う。
「夕方ごろに寺本先生から電話がかかってきて、おれたちみんな呼ばれたんだよ。晴菜先生に、会えるかもしれないからって」
「夜だったけど、お父さんやお母さんには、寺本先生と一緒だって言ったら許してもらえたよ。寺本先生はぼくたちだけじゃなくて、ぼくたちの親にも人気だったからね」
 わたしは思わずへぇ、と声を上げてしまった。寺本さんにかなりの人望があるだろうことはなんとなく予想してたけれど、まさかここまでとは……。
 当の寺本さんを見れば、彼はふんわりと微笑んでいた。
「電話したら、十五人全員が君のことを覚えていてね」
「今ね、国語で『やまなし』やってるんだ。それで晴菜お姉ちゃんのこと、はっきりと思い出したって子もいるみたいだよ」
 今度は前の方にいた女の子が、教えてくれる。それを聞いて、わたしは幸福感で胸がいっぱいになるのを感じた。
「やっぱり君の存在は、彼らにとって大きかったわけだ」
 ――もちろん、俺にとってもだけどね。
 先ほどより淡く寂しそうな笑みを浮かべた寺本さんが、不意にうつむきながら小さくそう呟いたのが聞こえた気がして、わたしは一瞬どきりとした。
 しかしそこで、そういえばと気が付く。重大な疑問が、まだ残っていた。
「でもなんで今日、わたしがここに来るって……」
「君が行ってたパーティーって、地方の保育士会主催でしょ? 実はあれに、俺も裏方で借り出されてたんだ。とはいっても直接パーティー会場に行ったわけじゃないから、君と直接顔を合わせることは終ぞなかったけれど」
 そう、だったんだ……。
 わたしは全く知らなかったけれど、寺本さんはわたしが来ることを最初から知っててくれたんだ。それで、会いに来てくれたんだ。
「パーティーが少し終わる前に、ここで子供たちと落ち合ったんだ。君がこの道を通ったら……小さい頃に俺が言った、この梨の木のことを思い出してくれるかもしれないって、君がこの場所に来てくれるかもしれないって……正直、賭けみたいなところもあった。けれど君ならきっと来てくれるって、俺もみんなも心から信じた。だから、暗くなってからも一人も帰らないで、こうして今まで待っててくれたんだよ」
 実際、その通りだった。
 わたしは今日この道を通って、ふと彼が昔言った梨の木のことを思い出して……この公園に、足を踏み入れた。あまりに期待を裏切らない自分の行動に、操られでもしていたんじゃないかと一瞬妙な疑いを持ってしまう。
「だってさぁ、言ったじゃん」
 ふと、下から突然聞こえた不満げな声に顔を向ければ、また別の子――確か保育体験最終日に、指切りげんまんをした子だ――がぷくぅっと頬を膨らませながらわたしを見上げていた。
「またぜったい、来てくれるって。なのにどれだけ待っても来てくれなかったから……だから、こっちからお姉ちゃんに会いに来たんだよ」
 叶うはずがないと思っていた約束を、この子はずっと覚えていてくれたんだ。そのことを嬉しく思うと同時に、なんだかとても申し訳ない気持ちになった。一心にこちらを見上げてくる十五人の子供たちに、わたしは笑みを作ってみせる。
「ごめんね、みんな。会いに来てくれてありがとう」
 十五人の顔に、一斉に花開くような笑みがこぼれる。
 この子たちは、五年経った今でもわたしを慕ってくれていた。わたしが寺本さんに、この十五年間ずっと恋し続けてきたように。
 そして……今こうして、わざわざみんなで会いに来てくれたのだ。
 その事実が心に沁みて、わたしは思わず涙が出そうになってしまった。
 それから彼らは五年前みたいに、口々に自分たちの近況について話し始めた。十五人は全員揃って同じ小学校に進学して、今みんなで『やまなし』を学習しているという。
「あの時はクラムボンって印象しかなかったけど、とってもキレイなお話だったんだね。海の中のこととか、かばの花が流れてくるところとか」
「やまなしっていう題名の意味も、今ではちゃんとわかるよ」
「おれは、カニ二匹が泡の大きさできそいあってるところが好きなんだ」
 わたしがかつて願った通り、彼らは『やまなし』をちゃんと読む機会を得て、わたしを思い出してくれていた。そうして同時にクラムボンだけじゃなくて、あのお話の良さも知ってくれた。
 思わず笑みがこぼれるのを押さえられないまま、わたしは相槌を打ちながら子供たちの話にしばらく耳を傾けていた。
 そして、ひと通り子供たちが話し終えた後。
 不意に寺本さんが、パンパン、と両手を軽やかに叩いた。振り返るわたしや子供たちに向かって、寺本さんは満面の笑みで言う。
「さぁみんな、十分晴菜お姉ちゃんと話す時間あげたでしょ。だから今度は、俺に代わってね」
 「えー、まだもうちょっと話してたいよ」という不満の声があちこちから出てきたものの、事前に何か言われていたのか、みんな大人しくわたしから離れてバラバラに散らばっていく。それと同時に寺本さんがこちらへ近づいてきて、気づけばわたしと寺本さんが至近距離で向かい合い、その周りを十五人の子供たちが囲むという、なんだかちょっと恥ずかしい状況が出来上がっていた。
「あ、あの……」
「ん?」
 困惑気味に声を上げるわたしに、寺本さんは優しく目を細め、小さく首を傾げる。手を伸ばせば触れられる距離にある、街灯に照らされたその姿がとても綺麗で、思わず見とれそうになってしまった。
 しばらくどちらからも言葉を発さないまま、わたしたちはただ向かい合っていた。
 すると周りから何故か、子供たちの「ヒューヒュー」というからかい混じりの声が聞こえてきた。寺本さんもそれに気づいたのか、照れたようにはにかんで、頬をポリポリと掻く。
 え、ちょっと待って。これってまるで……。
 お酒ではない熱のせいで、カァッと顔が熱くなっていくのを感じながら、わたしは何も言えないまま寺本さんの言葉を待った。
 寺本さんは幾度か深呼吸をすると、わたしの目をしっかりと見据え、はっきりとした口調でわたしの名を紡いだ。
「楠木晴菜さん」
「っ、はい」
 これから何を言われるのかという緊張やら、名を呼ばれたことに対するときめきやら、色々な感情が心を支配して、自然と身体が強張ってしまう。
 寺本さんは一瞬言葉を詰まらせ、恥ずかしそうにうつむいた。けれど周りから「がんばれー」という子供たちの声が聞こえると、覚悟を決めたように「よし」と唇が動き、わたしの目をもう一度見据える。
 わたしの名を紡いだ時みたいに、はっきりと、彼は続けた。
「約束通り、あなたを迎えに来ました。俺の手を、取ってくれますか」
 これから俺と、ずっと一緒にいてくれませんか。
 幾度か頭を撫でてもらったことのある、大きくてしっかりした手をこちらに伸ばしながら、そう言ってはにかんだ寺本さんの顔が、どんどん涙で滲んでいく。込み上げてくるものに、胸がつっかえた。
 ――この人は、ちゃんと果たしてくれた。十五年前に交わした『会いに来る』という約束も、五年前に手紙に書いていた『迎えに来る』という約束も。
 わたしという存在を、ずっと忘れないままでいてくれた。
「……はい」
 わたしは両手を伸ばすと、彼が差し出したそれを包み込むようにして取った。わたしがお酒を飲んだからか、それとも彼がずっとここで夜風に吹かれて待っていたからか、触れた部分からひんやりとした冷たさを感じる。
 寺本さんは瞳を和ませると、もう片方の手をわたしの頬に添えた。両手に感じている温度よりもずっと冷たく感じて、わたしは思わず一瞬目を瞑る。
「熱いね」
 寺本さんが囁いた。そのままその冷たい指で、目に浮かんでいた涙を拭い取ってくれる。
 それまで静かだったはずの周りから、再び「ヒューヒュー」という声や「キスしちゃえよ先生」という声が次々と聞こえてきた。寺本さんはわたしから目を逸らさないまま、子供たちに聞こえるくらいの声で答える。
「お前ら、そんな言葉どこで覚えてきたんだよ」
「イマドキの小学生は、進んでるんだよー」
 へへん、と小生意気な声が返ってきて、寺本さんは思わずといったように苦笑した。
「仕方ないなぁ……そこまで言うんなら、リクエストに答えてやんよ」
 煽ったのはお前らなんだから、ちゃんと見とけよ?
 おどけるように寺本さんが答えれば、周りの歓声がひときわ大きくなる。その言葉が意味することに気付いて、わたしの心臓が大きく跳ねた。
「目を閉じて」
 子供たちに掛ける声とも、普段話すトーンとも違った、吐息交じりの色っぽく低い声に、緊張が高まる。自分の心臓の音を身体中で感じながら、わたしはそっと目を閉じた。
 熟した梨の実の香りが、ふわりと鼻先をくすぐる。
 そして唇に、温かで柔らかいものが触れるのを感じた。周りから「キャーッ」とか「うぉー!」とかいう悲鳴にも似た歓声が聞こえてきたが、それ以上に自分の心臓の音が大きく聞こえたから、ほとんど気にならなかった。
 どれくらいの時間、そうしていただろうか。
 やがて唇が離れ、ゆっくりと目を開けると、目の前の寺本さんが照れたように、けれど心から幸せそうに微笑んでいた。その表情に、これまでにないほどの身近さと、愛おしさを感じる。
 運命の人を、ようやくこの手に捕まえられた気がした。約束を守ってくれた彼とこれからも共に歩んでいきたいと、わたしは切に思う。
 いつの間にか聞こえてきた、子供たちからの祝福するような拍手に包まれながら、わたしはもう絶対離さないというように、両手の中にある彼の大きな手を握った。

梨の実が香る頃に

とりあえず本編のみの掲載。番外編、おまけ等を載せた完全版は『小説家になろう』の方にあります。
http://ncode.syosetu.com/n3927bs/

梨の実が香る頃に

『またいつか、きっと会いに来るよ』 それはほんの短い間の他愛もない出来事で、ほんの些細な約束事。だけど彼は確かに初恋であり、彼の告げた言葉は絶対的なモノとして、ずっと記憶に残り続けた。 それは、とても強い感情だった。今でもしつこくこの心を、身体を、縛り付けて離さないくらいに――……。 幼少期の初恋と時を超えた再会から始まる、梨の果実のようにほんのり甘い(はずの)恋物語。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-28

Copyrighted
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  1. 1.幼少期の記憶と突然の再会
  2. 2.保育体験一日目
  3. 3.保育体験二日目
  4. 4.保育体験最終日
  5. 5.綴られた二度目の約束
  6. 6.そして、時は流れ