天才になれなかった秀才

これは、プロローグ(?)になります。
本編は、連載形式(?)でときたま追加します

暇潰しでもいいから読んでみて

天才になれなかった秀才 ~プロローグ~

俺の名前は唯本街生。滝間市に住む小学六年である。
滝間市は、神奈川県北部にある比較的大きな市だった。
平成の大合併によって、旧滝間市とその周辺の三つの市町村が統合され新たな市が誕生した。そして、じゃあ新しい市の名前はどうすんべ、という事になったのだが議会でもなかなか力作が出てこず一般公募の提案もあったみたいだが却下された。いよいよ議会も面倒臭くなったのか統合した四つの市の中心にあった滝間の名前を借りてトントン拍子で今の新滝間市ができたというわけだ。
しかし、元々ここら辺は何か特筆して栄えた産業はなく、無論人気の観光地はなく、かといって老人ばかりの、コンビニも無い過疎地でもなく、ただ市の面積がすこしばかり広いだけの割と平々凡々な街だった。
そんな滝間の中でもずば抜けて平凡なのが俺の住む遠藤町だ。
どれくらい平凡なのかと聞かれれば、何も無いということ以上説明できない。もう何も無さすぎて説明するのも困難だ。簡単に言うと住宅地なのだがそれではなにか不十分な気がする。何か足りない気がする。しかし、これ以上の具体的な適語が浮かんでこない。
まあ、要約するとその程度の街ってこと。ほんとドラ○もんの町みたいな所。
ただ、そんな環境も決して不満というわけではない。むしろそれぐらいが丁度いいと思っている。日本有数の繁華街に住んで不良に絡まれたり、野蛮な事件に巻き込まれたりするより平穏な生活の方がずっといい。安心さえあればいいのだ。

俺の通う滝間市立第一遠藤小は遠藤町に住む小学生の約八割が通っている。一学年に120人ほど在籍し、四クラスで一クラスおよそ30人の体制をとっている。都心の小学校と比べると、少し多く感じられるかも知れない。まあ、町のほとんどの小学生が通っているだけあって町で会う同年代の子供は大体、お互い顔見知りだ。そういった状況もこの町ならではなのかもしれない。
俺はいつものように学校に着き自分の席に座っている。瞼が重い。この時間はいつも眠い。俺の家は学区域の中でも割と遠い。学校に行くのは習慣だがやはり学校に着くと疲れが出てくる。これもある意味習慣だ。
ああ眠い。今寝ないと一時限目に寝る。やっぱり寝よう。これでも授業には参加する方だ。俺はやがて落ちた。
どれくらい経っただろうか。多分、二十分も寝ていないと思う。もしかしたら、数分しか
寝ていないのかもしれない。
だが眠気をとるという意味では充分だ。俺の場合どんなに時間が短かろうがほんの一睡でもしていれば、少なくとも六限まである学校の授業は居眠りしなくてもこなせるのだ。言ってしまえば俺の朝はここから始まる。俺は、この時間帯になって初めて目覚める。家
からここに至るまでは前戯と言っても過言ではない。俺の一日の本番はここからなのだ。
グイッと背伸びをした。さぁ朝が始まるぞといった感じで。
「街生~」
おや、聞き覚えのある声が俺を呼んでいる。
「うす」
その声の持ち主が俺のもとへ近づきながら挨拶のように呼び掛けた。
そう、彼こそがもう一人の主人公、『天才になれなかった秀才』徳坂聖文(トクサカ タカフミ)である。
「うす」
俺も聖文の声かけに応じる。
もう聖文とはかなり長い付き合いになる。歴史を辿ったら果てしない。お互い記憶がないところまで遡るだろう。聖文とは家が近所で、ガキの頃はよくそこら辺で遊んでたらしい。記憶に無いが。
小学校のクラスも、六年に進級したのでこれで六年間一緒ということになる。所謂、腐れ縁というやつだ。
よって、俺は聖文の親の次に聖文の事をよく知っている人物だと自負している。いや、聖文の内面に関してなら親よりもよく知っていると思う。
聖文のは、前述したが確かに秀才だ。いや、俺から見たら天才の域に達していると思う。冗談ではない。昨今は、天才という言葉を何だか軽々しく使う風潮があるが、聖文はそんな中途半端なものじゃない。
学校における試験では、満点以外を取ったのをほとんど見たことがないし、通知表でも三段階の評価で少なくとも主要四科目の欄、全てに『良くできる』即ち最高の評価だった。担任からのコメント欄があるがその中でも先生は、聖文をべた褒め。贔屓しているのではない。本当に皆が納得する成績を修め、納得する評価をもらっていた。運動も人並み以上の能力はあるし、男子の苦手とする家庭科、音楽もこなせる。苦手科目ゼロに、誰もが羨む生徒だった。また、ついこの前の時、二人でコンビニに寄ったとき、俺は買おうとしているものの合計が所持金内におさまるかどうかケータイで計算していた。五個ぐらいある買い物のうち二個目を足そうとしたら、聖文が
「36円釣りがくるぞ。」
と言った。は?と思って、疑った訳じゃないが、確認のために最後まで計算してみる。すると確かにお釣りは36円だった。聖文の計算機(脳)は俺の計算機(ケータイ)より速かった。
(まったく、恐ろしいな)
聖文が何かすると、つくづくそう思わされる。こういったエピソードはこの日に限ったことではないのだが、聖文の思考回路は俺からしたら常軌を逸したもので考えられないものだった。そして、そういったことがあるたびに、
(やっぱり聖文は天才だな)
俺はそう思っている。
しかし、それを否定する者が俺の知るなかで一人だけいる。それが、その聖文本人だった。
「お前は天才だ。」
これを聖文に伝えたことがある。すると聖文は、
「俺は天才じゃない。」
と、真っ向から否定した。初めは、よくある謙遜というやつかと思って「いやいやいや、そんな事ないだろ。」みたいな空気を出していたら、どうやら本気のようで、再度、
「俺は天才じゃない。」
と、断言した。
聖文の事だからきっと明確な理由があるに違いない、と思い詳しく聞いてみた。すると、
「俺より成績のいい奴は沢山いるし、俺の思い付かない事を発見する人だっている。それなのに俺が『天才』だなんておこがましい。せいぜい秀才だろう。」
と答えた。『おこがましい』。その意味は分からなかったが俺は二つの苛立ちを覚えた。一つは聖文にも成績のいい、という自覚があるということ。単純にイラッとした。そして二つ目は聖文の思う『天才』の定義に対してだ。俺の個人的な見解であるが『天才』は必ずしも、トップである必要はないと思ったからだ。広い『世界』で一番である必要はない。別にいいじゃん、と凡人の俺は思った。聖文に対して、そう反論したこともある。だが結局は、聖文に論破されるのが落ちだった。いつもそうなのだ。俺の反論に聖文が何と反論したのかは覚えていない。俺の知らない言葉で理詰めにされ、俺は相槌だけうち終いは「確かに」で聖文に屈する。これがいつもの流れだった。
かくして、聖文は自称、非天才、自称、秀才ということになっている。これが本作の題名の由縁である。

この「天才になれなかった秀才」はそんな聖文と凡人の俺の日常を端的に綴ったものである。

天才になれなかった秀才

まあ、こんなです。面白そうだったら検索してでも見てください。

天才になれなかった秀才

自称、天才じゃない徳坂 聖文(トクサカ タカフミ)とそんな彼を天才と崇める友人の唯本 街生(ユイモト マチオ)の二人が織り成す少し変で少しおバカな日常コメディ

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-26

Copyrighted
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