夏のこおり
夏のこおり
どこかの木にとまった蝉が鳴いている。
七月十五日。午前九時。
わたしは家の近くにある公園のベンチに座り、コンビニで買ったアイスコーヒーをストローで吸っていた。
蝉の音だけが響いている。のどかだ。
降り注ぐ日差しは強く、Tシャツから出た肌をじりじりと焼く。日焼け止めは塗っているが、日焼けは気にしない性質だ。毎年、夏はこんがりといい色の肌で過ごしている。
別に、夏が好きなわけではない。どちらかと言えば嫌いな季節だ。
暑いし、虫はいるし。
小さい頃はプールや海に行ける、ということもあって、好きだった気がする。二十六にもなると、プールや海に好きで行くようなことはなくなった。海開きのニュースを見ても、何も感じない。もうそんな時期か、どうりで暑いわけだ。せいぜい、そんなことを思うだけだ。
数年前のわたしなら、多分、プールにも海にも、心が躍っていただろう。
高校二年生。十七歳。
そして、あの子と一緒だったなら。
いつの間にか、蝉の音は止んでいた。
「ユーコ!今日の午後って何かある?」
「わたしは何もないけど。アリサは忙しいんじゃないの?」
「今日のバイトは休みなのだー」
彼女はそう言って、胸を張った。
午前の部活を終えた帰り、わたしたちはコンビニにいた。
一緒にいるのは安田アリサ。クラスメイトだ。何の因果か、部活も同じである。
「ユーコに予定がないならさ、海行こうかなーって」
「海ぃ?ここからどれだけかかると思ってるの」
「ママが車出してくれるって」
アリサの母親はわたしたちのクラスではちょっとした有名人だ。
親バカ。
一言で片付けるなら、まさにそれだ。
娘のアリサだけが生き甲斐なのではないか。世の親は大半が「子ども命」だとは思うが、彼女の母親は度が過ぎている。
アリサは普通に振る舞ってはいるけれど、心の中ではどう思っているのか。
わたしだったら、間違いなく、グレる。ウザい、ってやつだ。
幸い、わたしの両親は丁度いい距離にいてくれるので、今のところは家出も考えていない。
アリサが家出したら、あのお母さんはどうなるんだろう。
前にアリサに聞いてみたら、「ママも失踪するねー」と返ってきた。
アリサは分かっていることに対して、時にドライだ。母親のことも、おそらく分かっていることになっているのだろう。彼女もなかなか大変な家庭だ。
「ユーコってば聞いてるー?ママの車で海行くの、行かないのー?」
「アリサとふたりだけでなら、行く」
彼女の母親が嫌いなのではない。
ただ、ふたりだけになりたいのだ。
アリサが好き。
そんな気持ちに気づいたのはいつだったか。
彼女を知るたび、惹かれていった。
アリサは、そんなわたしの心を知ってか知らずか、わたしを「親友」と言う。
恋とは厄介なものだ。「親友」より、もっと彼女に近い存在になりたくなる。例えば、恋人。
けれど、今の立ち位置には満足している。好意を持ってくれているのだと、思い込むことができる。下心などないと、思わせることができる。
抑え込んだ気持ちに気づかれたら、わたしは嫌われてしまう。
怖い、と思う。この立ち位置を失うことが。自分の醜い心が。
わたしの目に、アリサが映っている。
「じゃあ、いつ行くー?」
無邪気に笑う彼女は、どこまで気づいているのだろう。
わたしは、目が眩むような錯覚に陥る。
「アリサはいつバイト休みなの?」
「んーと、今度の土曜日―」
「その日にしようよ。わたしも暇だから」
「りょーかい」
紙パックのジュースと、安いアイスを買って、わたしたちはコンビニを出た。
「また明日ねー」
手を振りながら歩いて行く彼女を呼び止める口実は、今日のわたしにはなかった。
十七歳。わたしたちはまだ、青い春の中にいる。
家に帰ると、まずはリビングのテレビを消すのが常になっている。誰もいないのに、画面の向こうから聞こえるタレントの声。笑い声がわたしの体をすり抜けていく。無性に苛立つその音を、テレビの電源を切ることによって遮断した。
テーブルにビールの空き缶がある。ということは、父が帰って来ているのか。他にも、つまみにしていたと思われるスナック菓子の袋や惣菜のパックが散らかっている。
いい年して片付けもできないなんて。
わたしが男に惹かれないのは、父親のだらしない部分を見ているからなのだと思う。
男性のすべてがこういう人ではないと知っているが、このイメージが強くてなかなか男性を好きになれない。
母はいつも家にいない。仕事が忙しいのだ。そのはずだ。
テーブルに散らかったゴミを片付けながら、少しだけテレビを見る。何も映っていない黒い画面に、制服姿のわたしが映る。
父にも、母にも、似ていないと言われる顔。
わたしは、わたしが嫌いだ。
でも。
あの子が「好きだ」と言ってくれるのなら、少しは好きになれるのかもしれない。
やっつけ仕事で片付けを終わらせると、体を休ませるべく、自分の部屋へと向かう。
何事もなく明日が来ますように。
当たり前のことだが、この家には、「何事もなく」なんて、天地がひっくり返ってもありえないことだった。
夜中、母のヒステリックな声に叩き起こされたわたしは、いよいよ家出しようか、と思った。
あの子の夢を見ていたのに。まったく、面倒な家だ。
二度目の夢では、リュックを背負ったわたしが、この家を燃やしていた。
約束通りに海に行ったのはきっとアリサも想定外だったに違いない。
遅刻魔のわたしが時間通りに待ち合わせ場所にいることに、彼女は驚いていた。
「明日台風でもきたりしてー」
軽口を叩きながら、ローカル電車に乗って海へとやって来た。
海開きはとうに過ぎているのに、砂浜にはほとんと人がおらず、波の音だけが大きかった。
「ユーコは泳ぐ?」
「泳がない」
「そう言うと思った」
わたしは泳ぐ気なんて更々なかった。水着だって持って来ていない。
一方のアリサも同様で、荷物は必要な物しか手にしていない。
まったく、何のためにわざわざ海に来たのか。
「人いっぱいいそうだから泳ぐの諦めてたのにー。水着持って来ればよかったなー」
「因みに聞くけど、アリサの水着ってどんなの?」
「ひーみーつー」
「なによ、教えてくれてもいいじゃない」
「また次回のお楽しみでーす」
次回、ということは、またここまで来るのか。正直、ちょっと遠慮したい。アリサの水着が気にならないわけではないが、電車に酔うわたしは、片道二時間の長旅はなるべくなら避けて通りたい。今日の帰りにもその長旅が待っているのは、考えたくない。
「それで、今日はこの後どうするの?お昼食べて帰る?」
「んー、それしかないねー」
本当に、何をしに来たのだろう。
結局、わたしたちは海を遠くから眺めただけで、砂浜で遊ぶこともせずに帰って来た。
わたしは、そんな時間が無駄だとは思わない。好きな人と出かける。それだけで幸せなのだから。
アリサは、どうなんだろう。わたしと出かけて良かった、と思ってくれているのだろうか。
電車の中で眠る彼女を見ながら、わたしはずっと、波の音を思い出していた。
小さい頃に家族で行った海はとても大きく、一度の波で体が持って行かれそうだった。両親が笑いながら隣にいて、体中が潮臭いのにも関わらず、ずっと波打ち際で遊んでいた。
無邪気に笑っていたあの頃は戻らない。
四人掛けの席の隣でアリサは寝息を立てている。アリサの小さい頃はどんな子だったのか。きっと大事に育てられていたに違いない。
すうすうと安心しきった顔で眠る彼女は、同性のわたしから見ても充分可愛らしかった。
今は閉じられた瞼の中に輝く瞳。ほんのりと上気した頬。艶やかな唇。
じっと見ていたら、アリサの瞼がピクリと動いた。どうやら起きたらしい。わたしたちが降りる駅まであと一駅。彼女の体内時計がとても正確なのは新たな発見だ。
「アリサ、もう少しで着くよ」
軽く肩を揺すってやれば、大きな欠伸とともに彼女は目を開けた。まだ眠そうではあるが、ここで寝過ごされては反対の電車が来るまでゆうに一時間は待たなくてはならない。
「ユーコぉ、今、何時ぃ?」
「四時二十三分」
腕時計を見てアリサに伝える。
今日は移動だけで四時間も使ったことになる。その間、わたしは酔いとの闘いだったし、アリサは睡眠に充てていた。海にいたのはほんの数十分。もったいない時間の過ごし方だったかな、と呟いた。
「ウチは楽しかったよー」
「なによ、ほとんど寝てたくせに」
今だってほとんど覚醒していない状態ではないか。
軽く頭を小突いてやって、彼女からの反撃を喰らって、ふたりして笑う。
こんな時間が続けばいいのに。けれど、電車は降りる駅に着いてしまった。
長旅が終わって、また、日常が戻ってくる。駅のホームに降り立つと、独特の匂いがする。
潮の匂いの中にいたからなのか、今日はその匂いが際立っている。どんな匂いかと聞かれても上手く表現できないのだが、とにかく安心する匂いだ。
一度深呼吸して、改札へと向かう。隣にいるはずのアリサはまだ眠いのか、しきりに目を擦っている。
幼さの残る彼女は普段とは少し違う雰囲気を放っている。わたしと同じ、高校二年生なのに、アリサはやはりわたしとは違う。
改札を出て、バスプールに通じる道を歩きながらそっと隣を見た。アリサの顔はもういつものそれに戻っていた。
「ユーコ、海に行って楽しかった?」
「アリサとだったらどこでも楽しいよ」
本心だったのだが、アリサは信じないようで、「なーんかつまんなさそうにしてるー」とわたしの脇腹を突いてくる。電車を降りる前のことは彼女の記憶に残っているのだろうか。残っていなければいいのに。
バスプールには既にバスが停まっていた。発車にはまだ数分あるが、待たれると急いでしまうのが人間だ。わたしたちは小走りにバスへと乗り込み、がらがらに空いた車内で笑い合った。
数分後にバスが動き出して、更にその数分後にはわたしの最寄りのバス停に着いた。このままアリサのところに行ってしまいたい思いに駆られながらも、渋々バスを降りた。
アリサは手を振っている。いつか見たのと同じ景色。
呼び止められる口実もないわたしは、走り去って行くバスの中のアリサに手を振り返すことしかできなかった。
十七歳。子どもと大人の間に揺れている時期を、わたしは失いたくなかった。
家に帰ると、なぜか鍵がかかっていた。どうやら誰もいないらしい。
自分が持っている鍵を取り出し、玄関の鍵を開ける。鍵を開けるという行為は久し振りだ。ここ何年かは夜勤帰りの父が先に家に帰って来ていたから。母は、しばらく会っていない。
靴を脱いでいると、二階で物音がした。
なんだ、帰って来てるのか。
顔を合わせると面倒なことになるのを知っているので、何も言わずにリビングに向かった。
やはり今日もテレビが点けっ放しで雑音を撒き散らしている。変わることのない父の行動に、怒りは沸かない。怒りを通り越して、呆れる。
自分の不始末がどういう結果を招くのか、父は良く知っているはずなのに。
テレビを消して片付けていると、足音が近づいてきた。
父だ。
そう思うと、自然と体が強張る。気にしないようにしたいのに、体が言うことを聞いてくれない。
がちゃりとドアが開かれて、無精ひげで痩せぎすの男が入って来る。
これが父だ。
女房に愛想を尽かされた男で、わたしの父だ。間違いない。ただ、顔を合わせるのが数週間振りだった。
父は無言でソファーに座ると、どこから出したのか缶ビールを飲み始め、さっき消したばかりのテレビを点ける。
途端、大音量の雑音がわたしの耳に飛び込んでくる。思わず洗っていたコップを落とすところだった。
わたしにはテレビが面白いとは感じられない。だから、見ない。世間に疎くなるよ、とあの子から言われたけれど、どうしても画面を見続けることができない。
他の人から見れば、わたしはずれているんだろう。それは自覚している。
でも、ニュースならば新聞からでも充分に与えられているし、学校に行けばクラスメイトたちの話から流行を窺い知ることができる。
テレビを見ないのは父のせいでもあると思う。
何もしないでテレビばかり見ている父。その姿を見ていると、テレビは人間を駄目にする悪者にしか思えなかった。
耳に飛び込んでくる雑音が、わたしの頭の中を掻きまわす。ぐわんぐわんと頭が揺れる。早く消してしまいたいのに、父が邪魔だ。
邪魔なものがなくなれば、わたしは雑音の洪水から逃れられる。
部屋に戻る、という選択肢はなかった。
キッチンにいたのが功を成したのか、邪魔者を消し去る道具は、ある。
何も考えられなくなって、わたしは。わたしは――。
視界が暗転したと思ったら、次の瞬間には目の前にあの子の顔があった。
きっとこれは夢なんだと、泣いているわたしも偽物なんだと、ぼんやりとした頭で白い天井に目をやった。
安田家の異常に気づいたのは、その家の住人であるアリサではなく、隣に住む年老いた夫婦だった。
「夜な夜な叫び声がする」
相談を受けたのは警察官でもあるわたしの父だった。
父は安田家の近くを巡回するルートを考え、それを実行していたある夜に異常に気づいた。
確かに声が聞こえる。叫んでいるのか、怒鳴っているのか。それとも言い争っているのか。
一度目は外で様子を窺うだけだったが、何度目かにそれが聞こえた時、父は安田家の玄関を開けた。
鍵はかかっていなかったという。
声はどうやらもっと奥から聞こえるようだ、と足を踏み入れた父は悲鳴を寸でのところで抑え込んだ。
中がどんな状況だったのかは詳しく教えてもらえなかったが、かなり酷い有様だったようだ。
その中にアリサは立ちすくんでいたという。
わたしと海に行った時の格好のままで。虚ろな目で。茫然と。
「あんまり覚えてない」
お見舞いに行った時に彼女はそう言うだけだった。
何があったのか、自分が何をしていたのか、まったく覚えていないのだ、と。
わたしは本当のことを伝えるべきだと父に言った。彼女にとっては辛いことでも、彼女は受け止めなければならない。
彼女だけではなく、わたしも、事実を受け止めなければならないのだ。
安田アリサの父は死んだ。自殺だった。
よりにもよって、娘であるアリサの目の前で首を掻き切ったのだ。それを見てしまったアリサはすべてを遮断することで自分を守ろうとした。彼女のその行為を咎めることは誰にもできないだろう。
安田家は問題が山積みで、薄い氷の上を歩いているような状態が数年続いていたらしい。
親バカで有名だったアリサの母親は、自殺した父親の愛人だという話だ。
そんなことも知らずに、わたしはアリサと接してきた。何も気づかなかったわたしは馬鹿みたいじゃないか。
好きだ、なんて。彼女を知ろうとせずに、何が「好き」だ。愚かだった。わたしも、アリサでさえも。
病院で目を覚ましたら、「アリサの馬鹿!」と怒ってやろう。そして、わたしも彼女から怒られよう。
痛みも共有してこそ生まれる感情もあるのだ。同情ではない、別の何かが。
「ねぇ、アリサ。わたしたちは大丈夫だよ」
十七歳。わたしたちの行く先にはまだまだ困難が待ち構えている。それを乗り越えた時に、わたしたちは大人へと変わっていくのだろう。
いつの間にか止んでいた蝉の音は、またうるさいくらいに響いていた。
七月十五日。正午。
アイスコーヒーの氷は、全部溶けてしまっていた。
今日の最高気温は三十度近くまで上がるらしい。だから、夏は嫌いだ。熱さは彼女と過ごしたあの頃を思い出させる。
ガラス細工のように、繊細で脆かった、十七歳のわたしたち。
戻らないものを美しく加工してしまうのは、なぜなんだろう。あの頃に戻りたい。またふたりで笑いたい。
戻れないからこそ、過去は美しいんだと、誰かが言っていた気がする。昔読んだ小説だったか、ドラマだったか。もしかしたら、彼女が言っていたのかもしれない。
わたしと彼女の間には、いつも薄い氷があった。
こんなに暑い日でも融けなかったそれは、数年の歳月を経て、ようやく融け始めている。
彼女は結婚するのだそうだ。
わたしにはできないことを彼女には思いっきり楽しんでもらいたい。彼女の吉報は、わたしにとっても喜ばしいものだ。
十七歳という多感な時期。それを共に過ごしたわたしたちの道は離れてしまうのだろうけれど。
彼女に子どもができたら、わたしたちの思い出を教えてあげよう。「あなたのママは素敵だったのよ」と。
「あっ、いたいたー。アリサー!」
公園の入り口に、彼女は立っている。わたしのものだった彼女の隣には、見知らぬ男性が佇んでいる。彼女の旦那様だろう。
わたしはアイスコーヒーが入っていたプラスチックのカップを捨て、彼女に向かって大きく手を振る。
わたしたちの間にあった氷の壁は融け出したけれど、完全になくなることはないのだと、わたしは知っている。
カップに入った氷のように簡単に融けていれば、違う未来が待っていたのだろうか。
十七歳の夏。
淡い恋はまるで夏の氷のように、融けて地面を濡らし、わたしたちは痛みを共有していた。
わたしは、わたしたちは、確かに恋をしていた。
END
夏のこおり