歴史プロファイリング『人魚姫』その2
皆さんは、『ジャンテロウ』という単語を聞いたことがあるだろうか?
アンデルセンの故郷、現代デンマークの
価値観の根幹になる考え方がこのジャンテロウという思想らしい。
仏教でいうところの、知足の思想のようなもので、
現代デンマークでは、
アメリカンの社会的な幸福観(社会的な成功とか、地位、金)を問題にしないで、
個人的な幸福度が生きる尺度になっているらしい。
例えば、
たくさん金を持っていてもストレスが多ければ幸福度は下がるから、幸せじゃない。
地位をめぐって競争する事は、幸福度とは関係ない競争であり無意味な事だ。
同じキリスト教でも、アメリカンとは考え方がだいぶ違うようだ。
最近は、スウェーデンやフィンランドの北欧の映画ばかり観ていたけれど、どうやらそれらの映画にひきつけられたのは、
こんな価値観の違いがこれらの国々には存在していたからだったようだ。
価値観が違えば、出来上がる作品も違って当たり前なのだ。
さて話は1800年代のアンデルセンのお話。
この年代デンマークは戦争など、経済的にはどん底の時代だった。
そのくせ、
社会経済は産業革命が起こり新しい身分格差が生まれていた。
フランスでは、国王やマリーアントワネットが首を切られ、
新しい権力が生まれた。
日本では、徳川幕府が長い支配の歴史を閉じようとしていた時代。
そんな時代に赤貧の中でアンデルセンは生まれ育った。
マッチ売りの少女も後味が悪い。
誰にも知られず道端で餓死凍死している。
そんなことが当時は日常的にあった。
当時高級品のマッチを擦ってみることなんてマッチ売りの女の子には、あり得ない事だった。
貴族の城の貧しい使用人の少女が、
主人のコレクションの宝石を鏡に自分の姿をうつしながら、つい身に付けてみたくなるような。
マッチを擦るという行為にはそんな意味がある。
そしてその炎の向こうに、
貧乏でない暮しの幻を垣間見る、
マッチの炎は高級な炎なのだ。
現代は、
マッチの炎なんて当たり前のただの火でしかないけれど当時は格差の象徴だった。
さて人魚姫の話。
当時もデンマークには王様がいた。
人魚姫に王子様が出てきてもおかしくない。
人魚姫は、片想いはするけれど、
お妃さまにはならない。
他の国ではお妃さまの首がギロチンでちょん切られたりしている現実がある。
現実的にお妃さまになることは、
幸福度を一杯にしてくれるものでは、
ないようだ。
そこいらへんがアメリカのアニメ映画の価値観とはおおいに違うし、
現代の子供たちはわからない。
アメリカンの価値観とは、地位や金持ちになること成功が全てだからだ。
そして、もし王子様と人魚姫が、
肉体的な関係を持ったとしたら、
どんな展開になっていたろう。
はたしてお互いが理解しあえる関係を本当に築いて行けただろうか?
二人はあまりに違う環境世界で育って来たのだから。
話は、人魚姫の一方的な片想いであって、悲恋じゃない。
悲恋にすらならないストーリーなのだ。
現代だと下手すればストーカーと言われかねない話だ。
しかし彼女の幸福度を一杯にするものは?
と考えた時に、
アンデルセンはクールに毒を持ってストーリーを展開している。
子供が納得しようとしまいと、それは、
彼の幸福度とは、関係のないものなのだ。
彼にとってはそんなものより、
現実社会での幸福になれない現実の不条理、刹那さの方がずっと問題だったのだ。
人魚姫のつづきの話を書いているロマンチストの方々は案外多い。
でも、これらの推理から考えていくと話のつづきはロマンチックなものではなく、
例えば、
ある日、新婚して王子様と王子が命を助けられたと誤解して嫁にもらった娘が新婚旅行に旅立った。
船が大洋を進んで行くと、何処からか美しい歌声が聴こえてくる。
あっちからも、こっちからも。
船を操縦しているものたちは、その歌声にみいられ、船を何処に向かって進ませていくのか見失ってしまう。
海の中では、人魚姫の坊主頭の姉たちが、それぞれに歌を歌っている。
天国に昇って行った妹に捧げる歌声だった。
そのうち船が座礁して船底に穴が開いてそこから海水が船の中に流れ込んで巨大な船が真っ二つに裂けて大洋に沈んで行く。
王子の首に必死にしがみついているお妃さまを見た時に王子は、あの嵐の中で自分を助けてくれたのが実はこの女ではないことをおもい知る。
しかし、それがわかった時には後の祭り。
海の中にお妃さまと一緒に沈んで行く中、自分たちの周りを泳いでいる人魚の姿が幻を見るように見えていた。
また、人魚姫の姉たちは、この二人を誰も助けようとはしないでただ沈んで行く二人の周りを泳いでいる。
そのまた後には、人魚姫の姉たちのペットのサメが、餌をもらうのをじっと我慢して待っていた。
というような、ロマンチックでないクールなオチかもしれないです。
歴史プロファイリング『人魚姫』その2