冬枯れの恋
冬枯れの恋
寒さと言う物は、人を委縮させる。体を縮こまらせ、筋肉を固める。そんな中に、人を待たせておいて連絡も無いということは、罪だと思う。
長く 吐いた息が白くなって消えて行く。首を縮め、マフラーに顔を半分ほど埋めた。両手をポケットに突っ込んでもなお、寒い。周りの人に聞かれないように舌打ち を打った。あの野郎、人を呼び出しておいて、いったい何時間待たせるつもりだ。意を決してポケットから手を出し、腕時計に目をやれば、約束の時間から十分が経過していた。深く溜め息をつき、壁にもたれかけた。
目の前に、ひらりと白い物が舞った。軽いそれは、地面に向かってふわりふわりと落ちて行 く。濃い白色のそれが汚れてしまうのがなんだか惜しくて、俺は思わず手を伸ばした。俺の手の中にしっかりと収まったそれは、天使の羽根でも天女の羽衣でも 何でもなく、ただの白いハンカチだった。
「あの、落としましたよ」
そのハンカチの一瞬前に通り過ぎた女性に、後ろから声をかけた。彼女は立ち止まって振り返り、少し視線を落とした。こげ茶色のコートに黒いスカート、膝まであるブーツで足を覆った、クールな顔立ちの女性だった。
「ああ、ありがとうございます」
見た目通り、冷たく発せられたその声色に聞き覚えがあった。何だったかと考えを巡らせているうちに、彼女は俺の手からハンカチを奪い取って去って行ってしまった。
彼女が少し視線を落としたことが、今更ながら気になった。今まで、三十年近い年月を生きてきて当たり前となっていたことなのに、何故か、今になって気に なってしょうがない。彼女の後姿を見送るついでに足元に目をやると、彼女の履いたブーツのヒールはかなり高い物だった。片手で額を覆って、溜め息を落とした。
「光!」
後ろから聞きなれた声がして、ゆったりと振り返った。目線の先からは、長年の友人が駆けてきていた。天然パーマを無理矢理ヘアピンで抑えた髪型は、いつもと変わらない。
「悪い、待たせた」
「遅いんだよ! 呼びだしておいて待たせやがって!」
「そ、そんな怒るなよ。悪かったって」
八つ当たりをするように言葉をぶつけてやれば、そいつは簡単に眉を下げた。
「駅で、ちょっとした知り合いに会って……」
慌てて言い訳を溢すそいつの言葉を右から左に受け流し、人ごみの中を進んだ。後ろから足音が追ってくる。
「で、何の用だよ」
「話も聞かずに歩きだすなよ」
「どうせ俺の店に来るんだろ。だったら待ち合わせなんかしないで直接来ればいいのに……」
「あ、今日は店じゃ無くて……」
珍しいその言葉に、脚を止めた。俺に用事がある時は大体店に来るのが日常だ。勿論勤務中だろうと開店前であろうと定休日であろうとお構いなく、だ。
振り返ると、友人、晴香は、照れたようにはにかんでヘアピンに手をやっていた。
「妹の、誕生日がもうすぐなんだ。何かやりたいんだけど、何が良いかなって」
「和希の? そうか、あいつもうすぐ誕生日か」
晴香には年が離れた妹がいる。兄妹そろってシスコンブラコンな二人は、お互いの誕生日を忘れたことが無いらしい。
俺がそう言った途端、晴香は緩みきった顔で自分の妹について語りだす。自分の誕生日には何をくれただとか、小さい頃はお兄ちゃんと結婚すると言ってくれた だとか、何度も聞かされた話にうんざりだ。そんな話題の中心である晴香の妹、和希は、つい先日も好みのタイプはお兄ちゃんだと言っていた。兄妹そろって末 期である。
「シスコン」
軽蔑の視線と共にそう言ってやると、晴香は両手で頬を包み込みながら勝ち誇った顔でだろ? と返した。
一人でにやにやと頬を緩める友人を連れて、道端にある雑貨屋や服屋に顔を出した。女子高生が誕生日に欲しがる物なんて、三十路間近の俺達に分かるはずが無 い。お前から貰う物なら何でも喜ぶだろ、と言えば、そんな事は知っている、ときょとんとした顔で返された。なんだか無性にむかついたため、会話はそこで終 わらせた。
結局、可愛らしい雑貨屋で見つけた髪飾りとアクセサリーをプレゼントすることにした。似合うだろうなと呟いて笑った晴香の顔を見て、俺も何だか毒気が抜けてしまった。待たされたことも忘れ、彼の背中を軽く叩いてやった。
「そうだ、誕生日の日、俺の店に連れてこいよ。いつもの席とっとくから」
「マジか。ケーキでも奢ってくれんの」
「まあな。光さん特製のホールケーキをプレゼントしてやるよ」
そう言うと、晴香は嬉しそうに笑ってお礼を口にした。可愛らしくラッピングされた袋を持ち、足どり軽く去って行く友人の背中を見送り、自分も帰路に着いた。
自宅前に着き、玄関の扉に手をかけた時に、ふとイメージが降りてきた。考えるよりも先に、あ、と声が出た。
「あの女、たまに店に来てた人か」
あー、スッキリした。腹の奥の靄が解けたような思いで、玄関を開けた。
☆☆
数日後も、俺はいつも通りに店を開けていた。人の入りはまばら。俺とバイトが一人いれば足りるほどだ。平生と何も変わらない。ただ、いつもと違うことと言えば、カウンターの更に奥、キッチンでは晴香が泡だて器片手にバターを混ぜていることだろうか。
待たせた罰だ。そう言って晴香を呼びだしたのが朝七時。開店二時間前だ。甘い物が好きな彼は、お菓子作りが上手い。喫茶店の店長をしている俺が舌を巻くほ どに。武骨なレジの横にはリボンで飾られたバスケット。そしてその中には、シンプルにラッピングされたクッキーが入っていた。一袋二〇〇円。試食も有。た だ働きの晴香が忌々しそうに睨んでくるのを無視して、俺はグラスを磨き始めた。
くすみ一つ残さず拭いきって、さあ次だと手を伸ばした時、来店を知らせるベルが鳴った。すぐさま営業用の笑顔を貼り付けていらっしゃいませと声を上げた。
あの時の女性だ。彼女は俺を見て、目を丸くした。
「先日はどうも」
「あ、はい。ありがとうございます。この店の人だったんですね」
「店長をしております。よく来てくださっていますよね。本日はお食事ですか?」
「いえ、ここのケーキが気になって……」
「では、そちらのショーケースからお選びください。ごゆっくりどうぞ」
彼女は少し腰をかがめ、ガラスケースに目を滑らせた。心なしか輝いている。頬にかかった黒髪を耳にかける動作に、心臓がドクリと鳴った。
「光! いつまでやらせる気だよ!」
ステンレスのボールと泡だて器を持った晴香が、キッチンから顔を出した。店に広がった低い声に、眉をひそめて横目で見る。
「大声出すなよ晴香」
「俺が腱鞘炎になっても良いのか!」
「構わねえな」
まるで玄関に立ちはだかる番犬のような晴香は、ふとレジ前に人がいるのを見てか、元々半開きの目を細めた。前を見ると、彼女がきょとんとしながら晴香を見ていた。
「騒がしくて申し訳ありません。友人が、ちょっと……」
「ご友人が、店のお手伝いを?」
「今日だけです。こちらのクッキーなんですが、彼が作ったんです。お一つどうですか?」
「そうね……じゃあ、ガトーショコラとシュークリームと、そのクッキーを一つずつ」
「ありがとうございます」
彼女が指差したケーキを小さな箱に入れ、クッキーを添えて袋に入れる。八二〇円ですと言えば、彼女は黒い財布から硬貨を取り出した。小銭と交換に商品を手 渡し、またお越しくださいと笑顔で見送る。心なしか足どり軽く去って行く彼女を見て、ふわりと心が温かくなるのを感じた。
「……いつまでそこにいんだよ。さっさと仕事に戻れ」
後ろを振り向くと、晴香がまだ突っ立っていた。訝しげな顔で扉の向こうを見つめている。何を考えているのか、不思議に思って下から覗きこむと、鋭い目で見返された。
「さっきの人、何」
「あ? ああ、この間お前の買い物に付き合った時にちょっとな。よく来てくれる人で……」
「お前、気をつけろよ」
何に、とも言わない晴香の言葉に、首をかしげる。
「やめておいたほうがいい。お前が思ってるほど、お前は強くない」
「訳が分からん」
「分からんなら、良い。戻る」
不機嫌そうに踵を返し、晴香はキッチンへと戻って行った。俺は磨いたばかりのグラスを手にとって、晴香の言葉を反芻する。
晴香が、俺のトラウマの事を言っているのは明らかだ。俺は、自分に向けられる熱を孕んだ視線が苦手だった。女性から好意をもたれるのが。高校二年のある出 来事が原因であるのは確かだ。あの時から、自分に刺さる好きと言う視線が気持ち悪くて仕方が無い。そんな事もあってか、それ以降に人を好きになったことが 無い。きっとそれは、これからも変わらない。
気の迷いだ。そう思っていた。
☆☆
彼女は頻繁 に俺の店を訪れた。ある時は会社の制服らしき姿で、ある時は仲の良さげな友人をつれて、そして大体は一人で、紅茶と甘いケーキをオーダーした。もちろん、あのキ ンと冷たい声色でだ。対応したのはほとんどが俺で、少々の雑談を交わすようにまでなった。彼女の眼はいつも冷めていた。その目が光を帯びるのは、決まって 俺の手によって作り出された甘味を見る時だ。本人は気付いていないらしいが、ケーキを口に運ぶ彼女はこちらが嬉しくなるほど幸せそうな顔をしている。生ク リームを多めに使ってしまったり、乗せるフルーツを増やしてしまったりは御愛嬌だ。一番長いバイトの青年が、苦笑いをしていることが増えた気がする。
たまに、そう、ごくたまに、彼女が俺に向かって笑顔を見せるときがある。それはいつも、呆れたような、気が抜けたような微笑だった。その一瞬がどうにも愛 しくて、胸が甘く締め付けられた。ああ、まずいな。そう感じたが、何もしなかった。晴香の言葉も脳裏をよぎったが、頭を振って無視をした。このどうしよう もなく甘酸っぱい思いを、どこにも逃がしたくなかったのかもしれない。
カランコロン、と音がして店のドアが開いた。生クリームをかき混ぜていたボウルから顔を上げ、歓迎の声を上げた。長い黒髪が見え、ドキリと胸が高鳴ったが、すぐにその気持ちは沈んだ。
「ちょっと、人の顔見てそんながっかりした顔しないでくださいよ!」
「んだと光てめえ! 和希の来店に不満があんのか!」
来店したのは晴香と、その妹の和希だった。俺の落胆は顔に出ていたのか、和希が不服そうな表情で頬を膨らませる。晴香に鋭く睨まれ、俺は降参とばかりに両手を上げた。
「悪かったよ。誕生日おめでとう、和希」
そう言うと、和希は表情をコロッと変えて、照れたようにはにかんだ。外は雪が降っていたのが、頭にはうっすらと雪がついている。今日で一七歳らしい彼女は、恋人の気配も無く、ひたすら兄にひっついている。彼女に淡い恋心を抱く少年たちは可哀想だ。
和希の髪には晴香があの時に買った髪飾りが突いている。手首には、シンプルなブレスレットが見えた。早速か。なんだかこちらが恥ずかしくなってくる。
二人を一番奥の窓際の席へ案内する。テーブルに置かれた「予約席」のカードを取り上げ、和希が座る椅子を引いて見せた。席に着いた二人にメニューを渡す。
「ケーキ、まだなんだ。すぐできるから、飲み物でも頼んで待ってて。和希の分は俺の奢りだ。何でも好きな物頼めよ」
「やったあ! ありがとうございます!」
「じゃあ光、上から順番に持ってきて」
「なんだって? 晴香はピーマンジュース? 仕方ねえな、ちょっと待ってろ」
「ごめんなさい!」
いつも通りの軽口の応酬に、和希がおかしそうに口を押さえた。酷く不満そうな顔をした晴香が、ドリンクメニューを眺める。豊富な種類に長考タイムに入りそうだったため、ごゆっくりどうぞ、と営業スマイルをくれてやり、作業に戻った。かき混ぜていた生クリームは、程よい固さに混ざっている。既に焼いて粗熱を取っておいたスポンジに、ムラが出ないよう丁寧に塗る。冷蔵庫から既に生クリームの入った絞り袋を取り出し、気合を入れてデコレーションに取り掛かる。壁に張ったデザインを見ながら、渾身の作品を作り出していく。最後に文字を書いたチョコレートプレートを飾り、完成だ。トレイに乗せ、慎重に持ち上げた。
扉のベルが音をたてた。反射的に振り返って笑顔を作る。長い黒髪がサラリと流れた。髪に着いた雪を、同じくらい白いハンカチで拭っていた。いらっしゃいませ、上ずったような声に顔を上げた彼女は、ふわりと顔をほころばせた。ぎくりと、体が強張った。
見た事がある目だ。熱を孕んだ、まっすぐとした眼差し。冷や汗が流れた。何か言おうと口を開くが、喉が枯れたように声が出ない。心臓が握られたような気が して、左胸を抑えた。持っていたトレイが落ちる。店内に皿が割れる音が響いた。美しく作り上げたケーキが、ぐしゃりと潰れたのが見えた。目の前の彼女が短く悲鳴を上げた。体を折った俺を下から覗きこむように屈んでくる。バイトの青年が、声を荒げた。遠くで乱暴に立ちあがるような音が二つ。俺は苦しさに耐えきれずに膝をついた。息が荒い。目の奥が熱い。視界が滲む ように歪んだ。
十年も前の記憶が浮かんでは消えて行く。甘ったるい視線に、自分の名前を呼ぶ媚びた声色。べたべたと纏わりつくような振る舞いを思いだして悲鳴を飲みこんだ。どこにいても自分の前に現れた。どこにいても見られているような気がしていた。怖くて仕方ない。夜中にちょっとした物音で飛び起きる事が何度もあった。その度に兄と姉を叩き起こした。仲の良い兄弟は、何の文句も言わず、夜が明けるまで俺を慰めてくれていた。一番の友人達も、俺 を心配してくれていた。守られていた。だけど無理があった。四六時中は無理だった。ドアを開ける靴を脱ごうとする知らないローファーがある首をかしげる キッチンから物音がする顔を上げるあの粘着質な声が聞える反射的に逃げ出そうとする長いマフラーを捕えられる。ああ、そういえばあの時も冬だった。
背中に、誰かの手が添えられた。光、と、俺の名前を呼ぶ声が聞える。はっとして顔を上げると、いつも以上に真剣な表情の晴香と目が合った。
「光、立てるか。肩貸すから」
何も答えなくても、ぐいと、体を引っ張られた。身長の低い俺に合わせるように、晴香は膝を曲げている。そのままカウンターの裏を通って、休憩室へ続く廊下へ出た。暖房の効いた店内とは違い、ひやりとした空気に少し心が落ち着いた。掃除の行き届いていない廊下の壁に背を預け、そのまま座りこむ。立てた膝を抱えた。
小刻みに体が震えるのは、寒さからでは無いと思う。
「……だから気をつけろって言っただろ」
俺に合わせるように屈んだ晴香が言った。ひどく傷付いたような声だった。
「晴香……」
名前を呼ぶと、無愛想な声が帰って来た。
「悪い、せっかく、和希の誕生日に……ケーキも」
「いいよ。和希も、お前のこと心配してた」
ホールケーキを、プレゼントすると約束したのに。
何も聞いてこない晴香に、一方的に言葉をぶつける。
「俺、 あの人のことが好きだったんだ。クールな顔も、甘い物食べてる時の幸せそうな顔も、何もかもが、好きだった。でも、あの目は、あの目だけは……俺、気持ち悪いって思ったんだ。確かに。あんなに好きだったのに、あの目だけは駄目だった。晴香の言う通りだった。本気で好きだった。本気で好きだったのに……」
「……知ってるよ。何年友達やってると思ってんだ」
廊下は息が白くなるほどの寒さなのに、目だけが異様に熱かった。留めなく溢れて来る涙を拭うこともせず、嗚咽を抑えることもせず、俺はただそこに蹲っていた。胸の内にあった甘い気持ちは跡かたも無く消え去ってしまっていた。晴香は、黙って手をすり合わせながら、俺の隣に座っていた。
俺は、彼女の名前も知らないままだった。
END
冬枯れの恋