猿人間

誕生

　動物病院の待合室。混雑している。　

　私はソファーに座り、左手に少し大きめの籠を持っている。中には、衰弱したキツネザルのような者が丸まっている。
　
　千客万来のその動物病院で、すでに２時間近く待たされている。客が多いのか、一匹の動物に時間がかかっているのか、キツネザルのような生き物はこの２時間の間に更に衰弱し、名前が呼ばれ診察室に入り獣医が籠を開けたのだがピクリとも動かない。持ち上げて診察台に置き、正確に死亡を確認した。

　諦めて帰ろうと、屍体を籠に戻した時、キツネザルのような生き物がショックを受けたようにして飛び上がって生き返った。それからまたぐったりとして、キツネザルのような生き物は

　「私は悪の世界からこの世に生を受けた。もう少しで死ぬので放っておいてくれ」

と力弱く言う。

　私は彼の真剣さを受け取り、獣医や看護婦が慌てて蘇生への準備を始めるのを止めようとした。その猿と、私の思いは獣医達には一切通用しなかった。

　彼らは無情にも猿にカンフル剤のようなものを注射し、猿はみるみる命を取り戻した。

　そして籠から飛び出て来て、診察室にあるあらゆるものを破壊し始めた。割れる物は落とし、高価な物は壁にぶつけ、獣医と看護婦の肩や頭を挑発的に飛び移って、できうる限りの悪さを施した。

　看護婦がほうきを手に何度か叩き損なった。人間の動きでは彼には追いつけない。怒り心頭する獣医と看護婦。皆武器を持ってどこぞに隠れた猿に、現れた時に一気に噴出する怒りを保留して息をこらす。

１、２分経ったが現れる様子は無い。時間の経過が、獣医と看護婦の怒りを更に強いものにする。

　この惨状の中考えた。どうするのがいいのかを。
そして猿に提案してみる事にした。

「おーい。」

何事も無かったかのような、間の抜けた呼び声に反応はない。

「この先に交通量の多い国道があるんだ。そこは山沿いの曲がった道で、見晴らしが悪いのにトラックが無謀なスピードで走っている。そこに行けば、楽に死ねるかもしれない」

１０秒くらいの沈黙があっただろうか。

獣医と看護婦の怒りが充満する診察室の、一番高い棚の上から猿が顔を出した。猿はまっすぐ私を見ている。私も猿の目を見ている。先ほどまで邪気で充満していた猿の目は、知的といってもいい程の落ち着きを取り戻してこちらを見ていた。

半日の旅

　彼の目を見て、私は彼を籠に入れない事にした。

　獣医はこの動物病院に責任を負わされてはかなわんと、看護婦を２人見張りに付ける事にした。もう診察も終る時間だというのに仕事熱心な話だ。２人の看護婦はホウキという武器を放さぬまま我々２人に付いて来る。

　小さな町を出ると、周りは木々が生い茂っているだけの道に出る。猿は当然おとなしくはしていない。理知的な表情に見えたのも一瞬の事で、歩いている間、思いつく限りの悪さをし、整理整頓された人間世界を荒らしまくっている。私は国道に向かう歩調を緩めない。悪さにかまけて我を忘れそうになっていても、一定距離私から離れるとピョンピョンピョンと物を伝って私のいる所まで追い着く。看護婦は律儀にも猿のペースに振り回され、疲労と怒りで眉間に皺が寄っている。

　信号や渋滞で時間を取られる都会での１時間の距離なら歩けないでもないが、田舎の道というのは信号も無く、車で走って１時間というのは、とても人が歩く距離ではない。
　こんな調子の猿を連れてバスに乗る事なんてまずできないので、ここは地道に歩くしかないが、付くのは夜中を過ぎるだろう。

　大型チェーン店が並ぶ、今やどこにでもある風景の町を抜け、山沿いの小さな道路を歩く。ここから配送業の無謀なトラックが猛スピードをで走る国道まではとんでもなく長いが、距離は関係ない。とても大切な問題だから。

　猿はイキイキと木から木へ飛び移り、あたるものが少なくなったせいか２人の看護婦従者の髪を引っ張ったり石を投げたり、とにかく悪い事のアイディアはいくらでも出てくるようだ。

　日も沈み、街灯も無い山沿いの道はそれ以上進めなくなっていた。あと２時間も歩けば付きそうだったけど、この時間に見つけた集落を見過ごすのはリスキーだ。昔の名残なのか、ちゃんと民宿らしいものも一軒ある。今日はそこに宿泊することにした。

　夕飯のお膳が出された。看護婦達は嫌な予感がしたのか、自分のお膳をひっくり返されないように猿を睨みつけている。

　食べる前に行っておく事があった。私は猿に言う。

「明日の朝一で出発しよう。２時間後くらいには国道に出れるはずだから。」

　猿はそれを聞いて、とても穏やかな顔になった。

　看護婦達の怪訝な表情をよそに、猿は箸を使い、静かに食事を始めた。注文によってお膳のおかずが微妙に違うので、私は猿のお膳にない料理を、少しずつ取って猿に分けてやった。猿は始終おとなしく色んな料理を味わった。