朝
窓のないホテルのベッドで目が覚め、部下の安見子の寝息を聴き、裸のぬくもりを感じながらうずくまっていたら、ふと、「僕たちは生きる屍だ」という言葉を思い出した。
ジョージ・オーウェルの「1984年」に出てくる言葉だ。
小説の中で、情事のあと、男がそう呟くと、女は「生ける屍だわ」と唱和する。
すると、彼らの背後にある壁から突然、「お前たちは屍だ」と声が響く。
僕は、安見子との行くあてのない情事に現実逃避している自分が、ふと、生きる屍のような気がしたのだ。
別に彼女を愛しているわけではない。好きというだけの儚いつきあいだ。僕には妻がいる。部長のわがままな末娘だ。小学生と幼稚園に通う子どもも二人いる。愛しているなんて意味不明な言葉は、結婚した時、嘘だと思いながら一度だけ使ったきり、とうに捨てた。
それでも、安見子と肌をふれている時だけは、自分にとって心地よい安らげる時間だった。
時刻を知りたくて、手を伸ばし、携帯を見る。もう朝の6時だ。日の差さない部屋は暗いまま。昨晩の二人の体臭をそのまま残している。
僕の動きで彼女も目を覚ましたようで、仰向けになった僕の首元に、額を押しつけてきた。彼女の髪の香りが、鼻腔をくすぐる。安見子の匂いだ。
「このまま、死ねたらいいのにな」
「今、何時?」
「朝の6時だよ」
「朝から物騒な話ね」
「朝は必ず来るって言うね。その朝が確かに来たんだ。でもこの朝は、昨日となんら変化のないどんよりとした一日の始まりに過ぎないよ」
「どうかしたの?」
彼女は顔を離し、上目に僕の顔を覗き込んだ。
「もうこれ以上生きていても、いなくても、どうでもいいような気がしてきたんだ」
「あなたが死んだら、私もきっと同じように思うわ」
彼女は、そう言うと、ベッドから立ち上がり、バスローブを身に着けた。
「珈琲、飲む?」そう言いながら、すでにポットに水をくみ、電源を入れていた。
会話の途切れた沈黙の中で、安見子は、ドリップの封を開け、カップに乗せた。封を切る音、湯の沸く音、皿の上のスプーンの立てる音が、スタンドの明かりの中から聴こえてくる。
僕は、肘を枕に、珈琲を淹れる彼女の細い背中を見ていた。自分の優柔不断さが、彼女をも苦しめている。申し訳ない気持ちからか、あるいは単なる自己憐憫なのかわからなかったが、涙が出そうになった。
その時、心地よい香りが、部屋を満たした。
「あなたは、ブラックね」そう言って、安見子はカップの乗った皿を枕元のボードに置き、また背中を向けて、今度は自分の分を淹れている。
「あなたに奥様と別れてなんて言わないから、心配しないで。昨日と同じ、今のままでいいの」
ミルクと砂糖を入れて、スプーンでかき混ぜながら、彼女は言った。
「君はまだ若いよ。僕は、君の将来を奪っているんじゃないか?」
「ずいぶんと傲慢な言い方をするのね。人が誰かの未来を奪えると思ってるいの?」
「交通事故とか、レイプとか、そんな風に言われるだろう」
彼女は、それに応えず、カップを持ってベッドに入ってきた。猫舌でふーっと息を吹きかけ、珈琲を冷ましている。カップに目を注いだまま、彼女は言った。
「不思議だと思わない。人は暖める時もこうして息を吹くの。私の今は、自分で選んだものよ。被害者じゃないわ。それより、ねぇ、逆もありうるんじゃないかしら。あなたはそれを恐れているのでしょ」
「逆って?」僕は、心に波が立ったようにざわめき、言葉の意味を明確に理解できなかった。
「私が、あなたとのこと、あなたのお義父さんか、奥様に話せば、あなたの将来は終わりでしょう。それでそんなに弱気になっているんじゃなくて?」
僕は、カップに口をつけた。酸味の効いた珈琲が美味い。彼女の言葉に、不思議と自分の気持ちを理解してもらえた気がした。安堵感を覚えたら、可笑しくなってきた。
「まったく、その通りだ。僕が考えていたのは、君の未来ではなくて、僕自身ことだ。僕は誰をも幸せにはできないし、愛することさえできない。生きる屍だよ」
「私は、あなたとこうしている今が好き。でも、あなたが私に飽きたら、そう言ってね。私は失恋でなんか死なないわ。そのかわり、しっかり慰謝料を請求するから、覚悟しておいてね」
彼女はカップをボードに置いて、キルトの中に潜ると、僕の胸に唇をあてた。僕もカップを置いて、キルトを引き上げ彼女を抱きしめた……。
翌日、翌々日と、安見子は職場を休んだ。係長から風邪をひいたらしいと報告を受けた。気になって、職場から家や携帯に電話をかけたところ、繋がらない。
係長を彼女のマンションに向かわせた。間もなく、彼女が風呂場で手首を切っていたと連絡が入った。うろたえている彼に、救急車を呼んだかと確認した。すぐに119番をしたということであったが、素人目に見て生きている気がしないと電話口に言われた。
後日、警察の調べで、遺書はなかったが、状況から自殺と断定された。
その間、会社にも刑事が来て、係長と、課長である僕が、初めに事情を訊かれた。安見子は、僕との関係を想起させる何も残していなかった。警察 は、彼女の携帯電話の履歴が故意にすべて削除されていたので、通信履歴を調べたという。ところが、電話では職場や女友だちとのアクセスしかなかったらし い。他にメールのやり取りがあったが、相手は不明とのことだった。また、体内から眠剤服薬の形跡があったことも知らされた。このところ不眠で、心療内科へ の通院も明らかになったとのことであった。
警察は、正体不明のメール相手が何かしら事情を知っているものと疑っていたようである。しかし、その相手は、インターネットで振込口座つきで転売された携帯を使用していた。そのため、使用者の捜索は困難なようだった。その後、僕に捜査の手が及ぶことはなかったから。
僕は彼女と肌を合わせながらも、まったくもって、彼女の孤独を理解していなかった。彼女もまた僕を理解していなかったのだと思う。それでも、死の間際に僕との履歴を削除したのは、安見子の愛だったような気がする。
(了)
朝