映らない顔

 物語の時代設定は、現在(2014年)より少し昔(10年ぐらい前)を想定しています。

登場人物(五十音別)

石井若菜(いしいわかな)
岡田誠次(おかだせいじ)
郷田翔太(ごうだしょうた)
坂恵美(さかめぐみ)
笹木将(ささきまさる)
佐藤博一(さとうひろかず)
新堂剛(しんどうたけし)
新堂剛の母(康子(やすこ)
新堂(ゆき)
土居淳子(どいあつこ)
豊田和良(とよだかずよし)
平井香(ひらいかおり)
広丘幸二(ひろおかこうじ)
藤村(ふじむら)先生(文男(ふみお)
吉田(よしだ)先生(義雄(よしお)

プロローグ

 その日、多くの人々には、いつもと変わらない朝が訪れたに違いない。そして、いつもと同じような一日を過ごしたことだろう。だけどボクに訪れたのは、いつもとは違う朝だった。いつもとは違う一日だった……。

 七月のある日、ボクは生まれて初めて女の子に告白した。彼女の名前は平井香(ひらいかおり)。同級生で、クラブも同じ陸上部だ。ボクは女の子と話すのが苦手だ。何人かで一緒にいるときは良いのだけれど、二人っきりになると、まるで話せなくなる。だけど、平井さんだけは違った。彼女となら、普通に話すことができた。

 一目見たときから好みのタイプだったけど、話してみて、さらに好きになった。放課後の教室で、たまたま二人っきりになったとき、ボクは決心した。(中学生活も残り少ない。今思いを伝えとかな)「平井さん! ちょっと話があんねんけど……」「何? 改まって、どうしたん?」

「――前から好きでした。付き合って下さい」しばらくの間、静かな時が流れた。ボクの手の平、脇の下、足の裏は汗でビッショリだ。心臓は激しく動き、喉が渇いて、吐き気もする。十分以上にも感じられた沈黙の後、平井さんはボクの目を見ずに、うつむいて答えた。「ごめんなさい……」

 彼女の返事はそれだけだった。「あ、あそう。じゃ、じゃあ先帰るわ」そう言うと、ボクは平気な顔をして教室を出た。(ま、しゃあないな)そう思っているはずなのに、涙が頬を伝って流れた。家に帰り、鏡に映る自分の顔を見て、思った。(振られたんは、この顔のせいなんやろな……)

 次の日学校へ行くと、ボクが平井さんに告白したことが、クラス中のうわさになっていた。「意外に勇気あんのう、お前」席に着くなり、友達の一人が冷やかしに来た。「何の話?」ボクはとぼける。「何のってお前、決まってるやん。平井に告白したんやろ?」「な、何で知ってんの?」

「このクラスで知らん奴おらんで」(だ、誰がうわさを広めたんやろ? あんとき、他には誰もおらんかったはずやけど……。まさか、平井さんが誰かに話したんやろか……?)後ろの方の席から、話し声が聞こえてくる。「あいつが香に告白したんやってぇ」「え~、あの顔でぇ?」

 顔を見なくても分かる。石井若菜(いしいわかな)と。土居淳子(どいあつこ)の、通称「ちびでかコンビ」だ。(一体自分たちの顔は、どれほどのもんやっちゅうねん!)平井さんの声は聞こえてこなかったけど、ちびでかコンビの近くの席だから、側にいるはずだ。

(平井さんがボクとのことを話してんのやとしたら……)そう思うと、ボクは怖くて、後ろを振り向けなかった。――その日、ボクはクラブを辞めた。表向きの理由は受験勉強のため。本当の理由は、できるだけ平井さんに会いたくないから……。

その日、ボクの身に起きたこと

 ピッ、ピピピピッ、ピピピピッ……。午前七時三十分。目覚ましが鳴っている。ボクはいつものように目を閉じたままそれを止め、「ウーッ、アッアー」と伸びをして起きた。またあの夢を見た。(もう一月も前のことやのに、まだ忘れられへん。一体、いつになったら忘れることができんのやろか……?)

 カーテンを開ける。と、まぶしい光が射し込んできて、ボクは思わず目を細めた。(今日も暑くなりそうやな……)夏休みだというのに早く起きなければならないのは、夏期講習で塾に通っているからだ。塾は八時三十分に始まる。塾へは自転車で約二十分かかるので、八時五分には家を出ないといけない。

(眠たいなぁ。でもしゃあない、起きるか)ボクは掛け布団を勢い良くはねのけ、ベッドから飛び下りた。「よっしゃ! 今日もがんばろっ!」気合いを入れると、ボクは二階にある自分の部屋から、下の階へと降りて行った。

 トイレを済まして台所へ行くと、母と妹の雪が朝食を食べていた。「お早う。父さんはもう行ったん?」ボクは一応母に聞いた。「遅よう。とっくに行ったわ。もう七時半過ぎてんねんで」母からは予想した通りの答えが返ってきた(父はいつも七時過ぎには家を出るのだ)。

「今起こしに行こう思てたんやで、あんまり遅いから」「え、嘘ぉ? もう七時半なん? まだ七時過ぎやと思てたわ。部屋の時計、(くる)てたんかな?」ボクは時計のせいにしたけど、目覚まし時計は初めから七時三十分にセットしてある。(()よ起きてもしゃあないやん。ボクはギリギリまで寝ときたいねん)

 ボクは眠気覚ましに顔を洗うため、洗面所へと入って行った。――ところが、そこにはあるべきはずの物が無かった。「母さん、ここにあった鏡どうしたん?」「鏡? 何それ? そんなもん元から無いで」「母さん、朝から何冗談言うてんの?」(昨日までは、確かにここにあったやん)

 だけど、鏡があったはずの場所を何度見てみても、鏡があったような形跡は無い。「まあええわ」急いでいたボクは、何か変だとは思いつつも、とりあえず顔を洗うことにした。(最近ニキビができてきたから、シッカリ洗っとかんと)水道の蛇口をひねる。石けんを泡立て、顔に付ける。――何かが違った。

(ん、何やろ? この違和感は……)ボクは最初、何に違和感がするのか分からなかった。石けんを洗い流し、タオルで顔を拭く。そのとき、気が付いた。(顔や、顔の形や。この顔は、明らかに昨日までのボクの顔とはちゃう。ボクの鼻はもう少し大きかったし、目はもうちょっと小さかった……はずや!)

「母さん! ボクの顔、どっか変とちゃう?」ボクは母に顔を見せ、尋ねた。「別に。いつも通りやで」母は普通に答える。「いつも通りの変な顔やん」妹は憎たらしいことを言う。(母さんや雪の言う通り、ボクはホンマにいつも通りの顔をしてんのやろか?)ボクはジッと考え込んだ。

(そうや、鏡や。鏡を見れば分かるはずや)そう思い付いたボクは、妹に向かって叫んだ。「雪! お前手鏡持ってたよな? 貸してくれ!」「ウチ、そんなん持ってへんで」雪は困惑したような表情を見せている。(嘘つけ! 確かに持ってたはずや)ボクは二階に駆け上がると、妹の部屋に入り、鏡を探し回った。

 ――だけど、鏡を見つけることはできなかった。それから、両親の部屋・自分の部屋・台所・応接間、と家中を調べて回った。――やはり、鏡は一枚も見つからなかった。(まさか! 家の中に一枚も鏡が無いなんてこと、あるわけない)少なくとも昨日までは、三~四枚は確実に存在していたのだから。

(ここはホンマにボクの家なんやろか? それとも、家族みんなで、ボクにドッキリでも仕掛けてんのやろか?)ボクはふと、応接間にあるピアノを見た。いつもなら、そこにはハッキリと自分の姿が映し出される。――だけど、今日に限っては、そこに映るのは「影」だけだった。

(そんなアホな! ほ、他のもんは、ど、どうなんやろ?)金属製の物、流し台・スプーン・空き缶……。ガラス製の物、ガラス食器・窓ガラス・テレビ画面……。いつもなら自分の姿が映る物を全て調べてみたけど、そこには、影だけしか映ってはいなかった。(そんなアホな……)

「母さん! 雪! 鏡知ってるやんな?」ボクは母と妹に何度も聞いた。だけど何度聞いても、二人とも、「鏡なんて言葉は聞いたことない」と言うのだ。「そんな……」(あっ、そうや。辞書や。辞書になら載ってるはずや)そう思い立ち、辞書を引いてみる。

(鏡、鏡、か、か、か……)「無い、無い、無い、無い、無いーっ!」辞書には、「鏡」という単語は載っていない。(どういうこっちゃ? この世界には鏡というもんは存在してへん――いうことなんか?)昨日までは当たり前に存在していて、有り難みも何も感じなかった物、鏡。

 その鏡が無いだけでこんなに不安になるなんて、ボクは思いもしなかった。(ボクは夢を見てんのやろか?)頬を思い切りつねってみる。(痛っ!)ただ、それだけだった。(夢とちゃうんか? そうやとしたら、ボクの頭がおかしなってしもたんやろか?)「(たけし)、どうしたん? さっきから変やで」

 顔を上げると、母が心配そうにボクの方を見ていた。こんなに心配そうな顔をした母を、ボクは見たことがない。「な、何でもないって」そうは言ったものの、動揺して声が震えているのは、自分でも分かっていた。「気分悪いんやったら、寝ときや」いつもは怒ってばかりの母だけど、こういうときは優しい。

「大丈夫大丈夫、行ってきまーす」ボクは母に心配をかけないように、何ともないふりをして、家を出た。ボクは自分の顔が好きではなかった。正直言って、嫌いだった。ジックリ鏡を見たことなんてほとんどないし、できれば鏡なんて見たくもなかった。

 だから、こんなにも自分の顔を見たいと思う日が来るなんて、思いもしなかった。(自分の顔が見たい。自分の顔を知りたい)自転車で塾に向かう間中、頭の中はそのことで一杯だった。――そのせいで、前から来た自動車にぶつかりそうになった。

(危ないっ!)間一髪、ボクは避けることができた。(よかった、避けられた)そう思った途端、ドカンッ! 電柱にぶつかってしまった……。幸いにも怪我はなかったけど、自転車のかごはペチャンコになったし、一時間目の授業には遅刻した。

 授業中も考え続けた。(何でこんなことになってしもたんやろ? 昨日までは何ともなかったよな……)ボクは昨日のことを順番に思い出そうとした。(昨日は日曜で塾もなかったから、朝から岡ちゃんたちと池へ釣りしに行ったっけ。それから……、ん、それからどうしたんやっけ? ――思い出せへんな)

 そんなことを考えていると、「新堂(しんどう)くン」数学担当の吉田先生に当てられた。先生の頭部は「河童」のように禿げ上がっているので、どんなに若く見積もっても、四十代には見える。だけど実際の年齢は、まだ三十代の前半らしい。「この問題を解いてくれますカ?」吉田先生はいつも、語尾を強めて発音する。

「え~と、その~」授業など全く聞いていなかったボクが、答えられるわけはない。そのとき、キ~ンコ~ンカ~ン~コ~ン、キ~ンコ~ンカ~ン~コ~ン、ちょうどチャイムが鳴った。「それじゃ、今日はここまでにしときましょカ。当てられた人は、明日までにやっておいて下さいネ」

「フゥ」(助かった)ボクは胸をなで下ろした。(そうや、確かめとかんと)ボクは急いでトイレに走った。バンッ! 勢い良くトイレのドアを開ける。――淡い期待は裏切られた。先週の金曜日までは確かにあったはずの鏡が、そこには無かった。「やっぱり……」

(どうやら、ここは昨日までボクがおった世界とはちゃうようや。異次元におんのか、まだ夢の中なんかは分からへんけど、本来ボクがおるべき場所やないことだけは、確かや。元の世界に戻りたい。どうしたら戻れんのやろか?)教室に戻っても考え続けた。(どうすれば戻れんのやろ……)

 と、「おい!」急に、後ろから両肩を掴まれた。ビクッとして振り返ると、そこには、岡ちゃんとカズが立っていた。「何や、岡ちゃんたちか」「何やとは何や。――ん、どうしたんや? 元気ないやん。ま、普段でもそんなに元気なわけでもないけどな」そう言ったのは岡ちゃんだ。

「岡ちゃん」こと岡田誠次(おかだせいじ)はバスケットボール部に所属している。とは言っても、身長は決して高くはない。ホッソリしているのでボクよりも背が高く見えるけど、実際にはボクの方が三センチほど高いのだ。悪い奴ではないんだけど、カッコ付けでお調子者。口は悪いし、ケンカっぱやい。

 エッチな話が大好きで、女の子の前でも平気で話し出すほどだ。性格はかなり強情で、(たとえ間違っていようとも)自分の考えは決して変えようとはしない。また、ボクとは違って、女の子に積極的に話しかけたりもする(その割には、彼女と呼べる人はまだいないようだが)。

 岡ちゃんは三人の中では自分がリーダーだと思っているらしく、それが時々鼻に付くこともある。けど、彼とは幼稚園以来の付き合いだから、大抵のことは許し合える。「ゴウくん、どうかしたん?」と聞いてきたのはカズだ(ボクの名前は本当は「タケシ」なんだけど、友達からは「ゴウ」と呼ばれている)。

「カズ」こと豊田和良(とよだかずよし)は水泳部に所属していて、身長が高く、ガッシリした体格をしている。自分のことよりも他人のことを心配する性格で、誰に対しても優しく接する。そんな彼を悪く言う人は、まずいない(ただ、のんびりし過ぎているところがあるので、イラチなボクはイライラすることもあるが)。

 穏やかなカズが怒ったところは見たことがないけど、うわさによると、「本気で怒ったら、めっちゃ怖くて強い」らしい。この二人とは、学校では同じクラスなんだけど、夏期講習ではそれぞれが別々のクラスになってしまったのだ。

「ボクの顔、どう思う?」思い切って聞いてみた。カズは不思議そうな顔をして、ボクの目を覗き込んだ。「どう思うって、どういう意味で?」彼は普通に話しかけてくる。ということは、いつもと同じに見えているのだろう。「いや、別に……。聞いてみただけや」。

 ボクは言葉を濁すと、すぐに別の話題を切り出した。「それよりなぁ、昨日のこと聞きたいんやけど……」「昨日のことぉ?」岡ちゃんが聞き返す。「昨日、一緒に釣りしに行ったやんな?」「ああ、昨日はサッパリ釣れへんかったよな。――それがどうかしたんか?」怪訝な表情をして、岡ちゃんが聞く。

「実はな……、昨日のことあんまりよう覚えてへんねん。詳しく話してくれへんかな……?」ボクがそう言うと、二人は黙ったまま顔を見合わせた。二人とも、かなり戸惑っているようだ。「もうチャイム鳴りそうやから、次の休み時間でええけど……」

 ボクは横目で腕時計を見ながら、そう言った。「ほんじゃ、次の休み時間にな」そう言うと、岡ちゃんは軽く右手を挙げ、教室を出て行った。「ほんなら、次の休み時間にはぼくのクラスに来てな」少し遅れて、カズも自分のクラスに帰って行った。

「ゴウ! つい昨日のことを覚えてへんってのは、ホンマか?」次の休み時間、ボクがカズのクラスに入るなり、岡ちゃんが強い口調で聞いてきた。「ホンマやねん。だから、教えてくれへんかな? 昨日のこと」「どこまで覚えてんの? ゴウくん」カズが心配そうな顔をして、聞く。

「昨日、ひょうたん池へ釣りしに行ったとこまでは覚えてんねんけど、その後、どうやって帰ったかは覚えてへんねん」「どうやってって……、なあ」岡ちゃんはキョトンとした顔で、カズの方を向いた。「うん、いつも通り自転車で帰ったで」

「何か変わったことなかった?」ボクがそう聞いても、二人とも「変わったことなんか何もなかった」と言う。(ひょうたん池まで行って、調べてみるしかないか……)「今日、塾が終わったら、ひょうたん池まで行ってみよう思うねん。何か思い出すかもしれへんし」「なら、ぼくらも行くで。な、岡ちゃん」

「フゥー」岡ちゃんは大げさにため息をついた後、提案した。「しゃあないな。でもよ、どうせやったら、今から行かへんか?」(どうせ勉強なんて頭に入らへんしな……)ボクはすでに決断していたが、しばらく考えているふりをしてから、答えた。「よし! 今から行こ!」

 そう言ったとき、(自分では意識していなかったけど)ボクは大声を出していたようで、周りの塾生たちが一斉にこっちを向いた。ボクは照れ隠しに笑って、その場をごまかした。――すぐに塾を抜け出したボクたちは、ひょうたん池へと自転車を走らせた。

 ひょうたん池はボクたちの住むS市の、山の方にある池だ。町の中心部からは離れているため、近くに民家はほとんどない。ボクたちがひょうたん池を見つけたのは、たまたまだ。良い釣り場はないかと探索していたとき、偶然見つけたのだ。以来三~四回釣りしに行ったけど、そのつど大物を釣ることができた。

 他の人たちに知られて荒らされると嫌なので、ボクたち三人だけの秘密のスポットにしている。ちなみに「ひょうたん池」という名前は、ひょうたんのような形をしているので、ボクたちが勝手にそう名付けた。名前が付いているのかどうか、本当のところは分からない。

 今日は雲一つない晴天で、まだ午前中だというのに、かなりの暑さだ。着ているTシャツが汗で肌にひっつき、気持ちが悪い。「フゥ、フゥ、ハァ、ハァ」そんな中、思い切り自転車をこいでいるボクたちは、三人とも、かなり息切れしている。途中からはデコボコ道を走っているので、よけいしんどさが増した。

 塾を出てから自転車で二十分ほど走って、ようやく目的地に到着した。「フゥー、やっと着いたな」ボクはTシャツの袖で顔の汗を拭いながら、つぶやいた。「着いた言うても、こっから十分近く歩かなあかんねんぞ。全く」岡ちゃんがいつものようにぐちる。

 そうなのだ。ここからは、自転車ではとても行けないやぶの中を、かき分けながら入って行かなくてはならないのだ。「先行くわ」そう言うと、ボクは先頭を切って歩き出した。ザクッ、ザクッ、ザクザクザク……。ボクは速足で歩きながら、昨日の記憶をたどってみた。(そう、確か、昨日もこの場所を通った)

 その証拠に、昨日ボクたちが歩いた跡が、獣道のようになって残っている。顔の辺りまで伸びた雑草を何度も何度もかき分け、ようやく、池が見える場所までたどり着いた。ひょうたん池を眺めていると、池の北岸(おそらく)に立っている古ぼけた建物の屋根が、目に飛び込んできた。

 ――その光景が、昨日の記憶を鮮明に蘇らせた。

昨日の記憶

 日曜日の午前十時過ぎ。ボクたち三人は岡ちゃんの家に集まり、どこに釣りに行こうか相談していた。そのうち、岡ちゃんが「ひょうたん池に行こうや」と言い出したのだった。ボクは遠出するのが嫌だったので、反対した。「もうちょっと近くのとこでええやん」

 だけど、こういうときの岡ちゃんは、絶対に譲ろうとはしない。「なあええやろ、行こうや。二月ぶりやん」岡ちゃんはしつこく要求する。「あんな遠くまで行くんは、絶対嫌や」ボクはあくまでも反対するつもりだった。「そんなこと言わんと、行こうや」岡ちゃんも譲らない。

(二人で反対すれば、いくら岡ちゃんでも諦めるやろ)「カズも行くのん嫌やんなあ?」ボクはカズも反対すると思っていたので、聞いた。「ぼくはどっちでもええで」予想に反してカズがそう言ったので、ボクは仕方なく折れることにした。(このままではらちが明かへん。それより、早よ出かけた方が賢い)

 行き先が決まるまでは難航したけど、それさえ決まってしまえば、後の行動は素早かった。ボクたちは釣り道具一式――釣竿・ルアー・ナイフなど――をリュックに詰め込むと、すぐに出発した。先頭は、最初にひょうたん池を見つけた、岡ちゃんだ。

 ボクは元々方向音痴だし、(久し振りで)道を覚えている自信もなかったので、最後尾に付いて行くことにした。「飛ばすで! カズ、ゴウ、遅れんなよ!」岡ちゃんは自転車にまたがると、勢い良くペダルをこぎ出した。その後にカズ、そしてボクが続く。

(遠いとこまで行くんは嫌やけど、どうせ行くんやったら、楽しまな損や。今日は思いっ切り遊ぶぞっ!)――少し迷いはしたものの、ボクたちは比較的スムーズに目的地に到着できた。「あ~あ、こっからが結構あんねんな」自分から「行こうや」と言い出したくせに、岡ちゃんは嫌な顔をして、そう言う。

(まあでも、岡ちゃんの気持ちは当然やな。何せ、ここに自転車を置いて、道もないとこを歩いて行かんとあかんのやから)ボクたちは顔まである雑草を、かき分けかき分け歩いて行った。そして十分ほどかかって、やっと、池が見える所まで来ることができた。

 少し高くなっているこの場所から見ると、池はまさに、縦向きのひょうたんの形をしている。手前のふくらみの大きさは、学校の二十五メートルプールを、横向きに二つくっつけたぐらいだろう。向こう側のふくらみは、手前のものより一回り小さく見える。

 ボクたちは手前にある大きい方のふくらみで一緒に釣り始めたんだけど、一時間以上経っても、一向に釣れる気配はなかった。そこで、それぞれがバラけて釣ろうということになった。岡ちゃんは来た方から見て右側の、くぼんでいる所に行った。カズは「同じ場所で釣り続けるわ」と言う。

 そしてボクは、奥にある小さい方のふくらみで釣ることにした。ポツッ、ポツッ、ポツッ……。新しいポイントで釣り始めて、しばらくすると雨が降り出した。(これぐらいやったら大丈夫やな)ボクは気にせず釣りを続けた。が、最初は小降りだった雨は、段々激しくなってきた。ザァー、ザァー、ザァー……。

 雨は激しさを増す一方だった。「これはたまらんなぁ……」(そういや、この辺に小屋があったはずやな。そこで雨宿りしよ)ボクは辺りを見回した。………………………………………………………………………あった。ボクの後方十数メートルほど離れた所に、雑草の合間から、小屋の一部が覗いた。

「岡ちゃーん! カズーッ!」大声で二人に呼びかけ、ジェスチャーで小屋に入ることを知らせると、その小屋へと駆け込んだ。この小屋はボクたちがいつも来る方向からだと、雑草が邪魔して、屋根だけしか見えない。注意していれば気付くんだけど、初めてひょうたん池に来たときには、全く気付かなかった。

 ボクたちは最初にこの池に来たときには、ただ見つけただけで帰ったので、二度目に来たときに池の周りを詳しく調べた。そしてそのとき、この小屋が見つかったのだ。

 ――最初に小屋を見つけたのはカズだった。「あそこに建物があんで!」カズが指差して、叫んだ。ボクと岡ちゃんはその声を聞き、カズの指差す方角を見た。そこからは木製の屋根だけが見えた。気になったボクたちは、その建物に近付いて行った。それは木造の小屋で、出入り口の扉は外れて地面に落ちていた。

 ボクたちは恐る恐る出入り口から中を覗いてみた。が、奥の方は暗くてよく見えない。「誰かいますか?」ボクが呼びかけても、返事はなかった。「よし、中入ってみようぜ」そう言う岡ちゃんの言葉に、ボクとカズは顔を見合わせ、ほぼ同時にうなずいた。そして、ボクたち三人は小屋の中に入ることになった。

 窓のない小屋の中は暗かった。とは言っても、天井や壁の所々にある隙間から光が入ってくるので、目が慣れれば結構よく見えるようになった。小屋の幅は、ボクたち三人が並んで歩くのもきついぐらいだけど、奥行きはかなりある。タタミで言うと、(長い方の辺)三枚分ほどの長さだろうか。

 床には砂ぼこりが積もっていて、足を踏み入れると足形が付いた。中を見回してみたけど、ここしばらく誰かが入ったような形跡はない。ボクたちは手分けして詳しく調べることにした。カズは入り口近くを、岡ちゃんは真ん中辺を、ボクは奥の方をそれぞれ調べた。

 数分後、岡ちゃんが聞いた。「おーい、何か見つかったか?」「一応何かあったで」とカズが答える。「とりあえず、見つけたことは見つけたで」とボク。「ほんじゃ、出るか」と言う岡ちゃんの言葉に同意し、ボクたちは小屋を出た。外に出ると、ボクたちはそれぞれが見つけた物を見せ合った。

 岡ちゃんが見つけたのは、ビー玉(のような物)だった。大きさはビー玉の大玉程度。透明なガラス製(たぶん)の球体だ。ボクにはただのビー玉にしか見えない。カズが持ってきた物は、木のスプーンだ。木製なので、「スプーン」と言うより、「さじ」と言った方が似合う気がする。

 そして、ボクが拾った物は古ぼけた砂時計だった。はいているジーンズのポケットに充分入る大きさで、砂の色は砂鉄のように黒っぽい。古いという以外には、どこにでもありそうな、何の変哲もない、普通の砂時計のように見える。

「大したもんはないな。オレは別に欲しいもんないけど、何か欲しいもんある?」と岡ちゃんがボクたちに聞く。「ぼくも欲しいもんはないわ」とカズ。ボクには気になる物が一つあった。それは古ぼけた砂時計だ。自分が見つけた物だということもあってか、ボクはなぜかそれを気に入った。

「ボク、記念に一つだけ持って帰るわ」ボクは古ぼけた砂時計をジーンズのポケットに入れると、他の二つは小屋の中に戻しておいた。そして、ボクたちは小屋を後にした――。

 小屋の入り口から空を見上げると、晴れている。(狐の嫁入りとかいうやつや。雨は長続きせえへんやろ)ボクは雨宿りのために小屋に入って、岡ちゃんとカズが来るのを待っている。(床は汚れてるけど、とりあえず座って待と)出入り口付近だと雨がかかるので、少し奥の方に入って腰を下ろすことにした。

「よっこらしょっ、と」ドスンッ!「イタタタタタ……」ボクが腰を下ろすと、お尻に何かが当たった。(何やろ?)ボクはお尻の下の物を拾い上げた。かなり重い。それが何なのかを確認するために、ボクは出入り口近くまで移動した。それは、「鏡」だった。

 と言っても、それが何なのか、一目見ただけでは分からなかった。なぜなら、それは普通の鏡ではなかったからだ。ボクは歴史が好きで、教科書や資料集をよく見ているので、しばらく眺めて気が付いた。(こういうやつ、教科書で見たことある)それは金属でできた、円盤状の鏡だった。

 CDよりも一回り大きいぐらいで、厚さは一センチというところか。古い物なのだろうが、不思議とさびてはいない。裏側(デコボコした方)には数頭の(たぶん空想上の)動物と、見たこともない文字が刻まれている。中央部には直径二センチ、高さ一センチほどの丸い突起(おそらく取っ手だろう)があった。

 ボクはその上にお尻を乗せてしまったようだ。鏡の表面(平らな方)は汚れていて、何も映らない。ボクは鏡の表面の汚れを、持っていたハンカチで拭った。すると、鏡は光を取り戻し、そこにボクの顔が映った。ボクは自分の顔が嫌いだ。(この顔のせいでボクは……)

 鏡を見て、つぶやいた。「顔が変わってくれたらええのに。こんな顔なんて、もう、見たないねん」ボクがそう言い終わると、いきなり、鏡が輝き出した。ボクはあまりのまぶしさに、目を閉じた。

第一の結末

 ボクが覚えているのは、そこまでだった。そこから今日の朝起きるまでの記憶は、全くない。(そうや、あの鏡や。あの鏡を見てから、ボクの記憶は途切れてんのや。ちゅうことは、全ての原因はあの鏡にあんのかもしれへん)居ても立ってもいられなくなり、岡ちゃんとカズを置いたまま、小屋へと駆け出した。

(まだ、小屋に鏡はあんのやろか……?)不安な気持ちで小屋に駆け込み、中を隅々まで探した。………………………………………………………………………あった。(出入り口から見て)奥の方の右隅に、例の鏡を見つけた。ボクはそれを拾い上げると、明るい所まで行って、覗き込んだ。

 昨日ハンカチで拭いたはずなのに、鏡の表面には汚れが付着していて、何も映ってはいない。(これが昨日と同じもんやったら、昨日と同じことをすれば映るはずや)ボクはTシャツの裾で鏡を拭った。と、鏡に光が戻り、自分の顔が映し出された――かに見えた。だけど、そこに映ったのは「影」だけだった。

「何やて!」(そんな……)ガッカリしながらも、鏡を見ながら強く念じた。(元の世界に戻して下さい。お願いします。神様)我ながら虫が良いと思う。日頃は神様のことなんて考えたこともないのに、こういうときだけは、神様に頼ろうというのだから……。ボクは鏡に向かって手を合わせ、懸命に祈った。

 三十秒、一分、一分三十秒……。何も起こらない。「ハァ……」ボクは気落ちして、うずくまった。そして、鏡を見ながらボソッと言った。「ボクの顔、どんな顔になってんねやろ? 見てみたいなぁ……」ボクがそう言い終わった途端、光を反射して、鏡が光った。それは尋常な光り方ではなかった。

 ボクはあまりのまぶしさに目を閉じ、鏡を持っていない方の右手で、目を(おお)った。しばらくしてから、恐る恐る薄目を開け、指の合間から鏡を覗いてみる。と、そこにはボクの姿が映っているように見えた。ボクは目を見開き、顔を鏡にひっつくほど近付けた。今度は本当に、鏡は光を取り戻していた。

 そこに映っていたのは、やはり、いつもの見慣れたボクの顔ではなかった。本来のボクの顔は、自分でも、決してハンサムとは言えない顔だ。だけど、今鏡に映っている顔は、シュッとした、なかなかの二枚目だった。それなのに、ボクはその顔に少し不満を感じていた。

(確かにこの顔は、前のボクの顔と比べると、かなりのハンサムや。でも、ハンサムはハンサムやけど、クラスに一人はおるようなハンサムやん)だから、つい口に出してしまった。「どうせなら、とびっきりの男前になってたらよかったのに……」すると、鏡の中から太い声が聞こえてきた。

「お前の望みをかなえてやろう」(えっ!)ボクは驚いて、鏡を覗き込んだ。不思議なことに、ボク自身は口を閉じているはずなのに、鏡の中のボクの顔は口を動かしていた。「お前がなりたい顔を持つ者を、殺せ。そして、その者の顔にお前の右手を当て、言うのだ。『顔よ入れ替われ』とな」

(こ、殺すやて? そ、そんなこと、できるわけ……)鏡の中のボクは話し続ける。「もし、目や鼻などの部分だけが欲しいのなら、それも可能だ。『顔よ入れ替われ』を、『目よ入れ替われ』と言い換えればよい」鏡の声が途切れたそのとき、出入り口の方から声がした。「おいゴウ! 何してんねん?」

 顔を上げると、そこには岡ちゃんが立っていた。岡ちゃんのキリリとした目と形の良い眉は、ボクの理想に近い。ボクの心に邪悪な考えが芽生えた。(ボクは何考えてんねや!)ボクはその芽を刈り取ろうとした。だけどそれは、刈っても刈っても生えてきて、アッという間に成長し、ボクの心にはびこった。

 ふと気付くと、ボクは背負っていたリュックから、バタフライナイフを取り出していた。このナイフは、父親に貰った切れ味の鋭い逸品だ。昨日釣りに来たときから、リュックに入れっ放しにしてあった。(まさか、これをこんなことに使うとは、思いもせんかったな……)

「何するつもりやねん、ゴウ!」岡ちゃんがそう叫ぶのと、ボクのナイフが彼の腹部を突き刺すのとは、ほぼ同時だった。二度、三度、四度……。ボクはナイフを突き刺した。岡ちゃんは声を上げる間もなく、その場でうつぶせに倒れた。

 鏡の中から聞こえてきた、「死体の始末なら心配しなくてもよい。お前が顔を入れ替えた者の身体はこの世から消え去る。安心しろ」という言葉によって、躊躇(ちゅうちょ)していたボクは背中を押され(あるいは軽く触れられただけで)、清水(きよみず)の舞台から飛び降りた。

(理想の顔を得るためにはしゃあないんや、許してくれ)目的のためには手段を選ばない。ボクはそういう人間になっていた。一番嫌っていたはずの、そういう種類の人間に……。ボクは違う世界の住人になってしまったようだ。元いた世界には、二度と戻れはしないだろう。

 ボクは今日も理想の顔を手に入れるため、町中を歩き回っている。(今すれ違った男の鼻はカッコよかったなぁ)ボクはUターンして、彼を尾行することにした。彼を殺すチャンスが訪れるまで、ずっと……。

ボクと彼と彼女の関係

「先生、どうですか?」「う~ん、最後がナ……。暗い、暗過ぎるナ」藤村先生はボクが書いた脚本に目を通すと、顔をしかめた。「ラストを、もう少し明るくできひんかナ? 締め切りまで後一週間あんねんから、書き直せるやロ?」

 ボクは、文化祭でやることになっている、ビデオ映画の脚本を担当している。先生に見せた『映らない顔』という題名の脚本は、ボクのオリジナルで、朝起きると全く別の顔になっていた少年の話だ。色々あって、最後には主人公の少年は殺人鬼になってしまう。それが藤村先生には不満のようだ。

 もっとも、脚本を読んだ先生が不機嫌なのは、それだけが原因ではなく、『映らない顔』に出てくる塾の先生のモデルが自分自身だということに、気付いたせいでもあるのだろう。『映らない顔』の吉田先生が見事にハゲているのに対し、目の前の藤村先生の髪はフサフサなので、見かけ上はまるで違っている。

 だけど、二学期最初の全校集会で先生が壇上に上がって礼をしたとき、頭髪がズレたのをボクは見逃さなかった。そのことに気付いていた者は、少なくともボクの周りには、いなかった。ボクは当然誰かに話したかったけど、グッとこらえて、いまだに誰にも言っていない。ボク一人の胸に仕舞ったままだ。

 もし、人の隠したいことを知ってしまっても、他の誰にも話してはいけない。そう、ただの一人にも……。ボクが先生の秘密を知っているということに、感付いたせいかどうかは分からないけど、藤村先生は脚本の書き直しを要求してきた。

 ボクは脚本を書き直したくはなかったけど、脚本担当から外されるという事態だけは避けたかった。だから仕方なく、「はい。分かりました。書き直します」とぶっきらぼうに答えると、返された脚本ノートを丸めて左手に持って、職員室を出た。

 職員室を出た所には、カズのモデルとなった佐藤博一(さとうひろかず)が、ボクを待ってくれていた。脚本内ではボクと同じクラスのカズだけど、現実では隣のクラスだし、彼の所属していたクラブは水泳部ではなく、卓球部だ(三年生なので、二学期になった今では、すでに引退している)。

「ゴウくん、職員室に何の用やったん?」カズはクラスが違うので、ボクがビデオ映画の脚本を書いていることは、知らない。「まあ、ちょっとしたことや……」ボクは言葉を濁すと、自分でもわざとらしく、急に大きな声を出した。

「あっ、そうや、思い出した。教室に忘れもんしてきたわ。取ってこなあかんから、ちょっと待っといてくれへん?」「ええよ、ここで待っとくわ」嫌な顔一つせず、カズは快い返事をしてくれた。「悪いな。ほんじゃ、ちょっと行ってくるわ」そう言うと、ボクは自分のクラス(三年五組)に向かった。

『映らない顔』の登場人物には、全て実在するモデルがいる。前述のように「吉田先生」のモデルは藤村先生。カズこと「豊田和良」のモデルは佐藤博一。主人公「新堂剛(しんどうたけし)」のモデルはもちろんボク、郷田翔太(ごうだしょうた)。そして、岡ちゃんこと「岡田誠次」のモデルは広丘幸二(ひろおかこうじ)

 広丘幸二(丘ちゃん)とボクは現実でも同じクラスで、無二の親友だ。――いや、親友だった。そう、夏休み前、七月のあの日までは……。夏休み前、ボクはずっと好きだった女の子に告白し、失敗した。二人の他には誰も知らないはずのそのことは、次の日の朝、クラス中に広まっていた。

 何と、そのネタ元は丘ちゃんだった。そのことを知ったボクは、彼を問い(ただ)した。すると丘ちゃんは、「ゴメンゴメン。実はオレ、あんとき教室の外におってな、聞くつもりはなかってんけど、聞いてしもてん。それでな、つい、一人にだけ言うてもうたんや。スマン」と悪びれもせずに弁解した。

「誰に言うたんや?」ボクはさらに追及した。「――坂や。口止めしといたんやけどな……」丘ちゃんが答えたのは、クラス一、いや学年一「喋り」の女子の名前だった。口止めなどしても無駄だ。彼女に話したことは、その日のうちに学校中に知れ渡ってしまう。

 だから、「坂に秘密の話をしたらあかん」というのは、クラスの暗黙の了解になっている。当然、丘ちゃんもそのことを知っていた。それなのに……。(まさか、よりにもよって、あんな奴に言うやなんて……)ボクは大きなショックを受けた。以来、彼とは一切口をきいていない。

 ボクは放課後の誰もいない教室に入ると、後ろの隅にあるゴミ箱の所まで行き、そこで、脚本ノートの書き直しを命じられた後半部分を、ビリビリに破いた。ボクは、先生に書き直すように言われて、内心ホッとしている自分に気が付いていた。

 脚本がそのまま採用されるのを、ボクは、心から望んでいたわけではなかったのだ。ボクは脚本の最後で丘ちゃん(=岡ちゃん)を殺してしまった。確かに、丘ちゃんが殺される場面を書き上げたとき、一瞬、スッキリした。(ざまあみろ)と思った。だけど、すぐに心の中が空しさで一杯になった。

 そして、ボクは自己嫌悪に陥った。――それは今でも続いている。(ボクは最低の人間や……)そう思うと、我ながら情けなくなって、笑いが込み上げてくる。「クックックックッ……」そして同時に、涙があふれ出した。しばらくの間、ボクはゴミ箱の前にたたずみ、笑いながら泣き、泣きながら笑っていた。

 二~三分ほど経ったとき、ガラガラガラ……。前のドアが開き、誰かが教室に入ってくる音が聞こえた。(カズやな)と思ったボクは、悟られないように涙を拭きながら、「ゴメンゴメン、待たしてしもたな。もう行こう思てたんや」と、背を向けたままでそう言った。

 そのとき、「郷田くん?」と聞き覚えのある声がした。ボクがハッとして振り向くと、そこには平井さんがいた。「何してたん?」平井さんはボクに聞いた。「――いや、別に何も」ボクはそれだけ言うと、黙ってしまった。以前と同じような十数秒に及ぶ沈黙の後、話し出したのは、平井さんの方だった。

「郷田くん、前のこと、まだ気にしてんの?」「……」ボクは言葉に詰まった。「ウチ、郷田くんのこと、嫌いなわけやないよ。ただ、郷田くんをそんな風に見たことなかったから……。ゴメンな」平井さんはいつかのときと違って、ボクの目を見て話してくれている。

 それだけでボクは嬉しくなり、気持ちが少し軽くなった。「あ、謝ることやないと思うで。それより……」「何?」「ボクと、友達にやったらなってくれるかな?」平井さんは笑いながら答える。「何言うてんのゴウくん、前から友達やんか」その一言で、ボクの心は完全に解放された。

(平井さんが初めて、ボクを「ゴウくん」って呼んでくれたっ!)彼女が再び話し出す。「ウチ、何で今、ここ来た思う?」「忘れもんでもしたんとちゃうの?」「ううん、ちゃうねん……。さっき広丘くんに言われたんよ」

「『ゴウの奴の話し相手になってやってくれへんか。それがあいつの一番の励ましになるやろから。頼むわ』って。それで来たんよ」「あいつが……」「それから、ウチ、広丘くんから手紙預かってきてんねん。はい、これ」平井さんは手提げカバンから取り出した封筒を、ボクに手渡した。

 ボクは汚い字で「ゴウへ」と書かれた封筒から、サッと手紙を取り出し、スッと読んだ。その手紙には、「ゴウ、あんときは悪かった。オレはお前がそんなにショックを受けるとは思てなかったんや。スマン。許してくれ」と書かれていた。

「何て書いてあったん?」平井さんが聞く。ボクは無言で、彼女にその手紙を差し出した。いつの間にか、ボクの目は潤んでいた。涙がこぼれないように天井を向きながら、思った。(ボクも謝らなあかんな。明日会ったら謝ろ。「ゴメン丘ちゃん。ボクも向きになり過ぎてた」って)

 その日、ボクは徹夜で脚本を書き直した。

第二の結末

 ボクが覚えているのは、そこまでだった。そこから今日の朝起きるまでの記憶は、全くない。(そうや、あの鏡や。あの鏡を見てから、ボクの記憶は途切れてんのや。ちゅうことは、全ての原因はあの鏡にあんのかもしれへん)居ても立ってもいられなくなり、岡ちゃんとカズを置いたまま、小屋へと駆け出した。

(まだ、小屋に鏡はあんのやろか……?)不安な気持ちで小屋に駆け込み、中を隅々まで探した。………………………………………………………………………あった。(出入り口から見て)奥の方の右隅に、例の鏡を見つけた。ボクはそれを拾い上げると、明るい所まで行って、覗き込んだ。

 昨日ハンカチで拭いたはずなのに、鏡の表面には汚れが付着していて、何も映ってはいない。(これが昨日と同じもんやったら、昨日と同じことをすれば映るはずや)ボクはTシャツの裾で鏡を拭った。と、鏡に光が戻り、自分の顔が映し出された――かに見えた。だけど、そこに映ったのは「影」だけだった。

「何やて!」(そんな……)ガッカリしながらも、鏡を見ながら強く念じた。(元の世界に戻して下さい。お願いします。神様)我ながら虫が良いと思う。日頃は神様のことなんて考えたこともないのに、こういうときだけは、神様に頼ろうというのだから……。ボクは鏡に向かって手を合わせ、懸命に祈った。

 三十秒、一分、一分三十秒……。何も起こらない。「ハァ……」ボクは気落ちして、うずくまった。そして、鏡を見ながらボソッと言った。「ボクの顔、どんな顔になってんねやろ? 見てみたいなぁ……」ボクがそう言い終わった途端、光を反射して、鏡が光った。それは尋常な光り方ではなかった。

 ボクはあまりのまぶしさに目を閉じ、鏡を持っていない方の右手で、目を(おお)った。しばらくしてから、恐る恐る薄目を開け、指の合間から鏡を覗いてみる。と、そこにはボクの姿が映っているように見えた。ボクは目を見開き、顔を鏡にひっつくほど近付けた。今度は本当に、鏡は光を取り戻していた。

 そこに映っていたのは、やはり、いつもの見慣れたボクの顔ではなかった。本来のボクの顔は、自分でも、決してハンサムとは言えない顔だ。だけど、今鏡に映っている顔は、シュッとした、なかなかの二枚目だった。それなのに、ボクはその顔に違和感を覚えた。

(確かにこの顔は、ハンサムと言ってええ顔や。……けど、何かちゃう。ボクの顔やない)そのとき、ボクは元の顔を恋しいと思っている自分に気が付いた。「元の顔に戻れんのかなぁ……」と、ボクが無意識のうちにつぶやいたとき、鏡の中から太い声が聞こえてきた。

「お前の望みをかなえてやろう」(えっ!)ボクは驚いて、鏡を覗き込んだ。不思議なことに、ボク自身は口を閉じているはずなのに、鏡の中のボクの顔は口を動かしていた。「元の顔に戻りたいのなら、戻してやる」「ちょっ、ちょっと待って下さい!」

 ボクは一分以上鏡を見つめ続けた末に、意を決して、言った。「お願いします。全てを元に戻して下さい」その瞬間、鏡が再び輝き出した。さっきと同じく、あまりのまぶしさに目を閉じ、しばらくしてから目を開けた。すると、そこに映っていたのは、いつもの見慣れたボクの顔だった。

 顔を触って確かめてみる。いつもと同じ感触がした。(確かにいつもの顔や。元の顔に戻ったんや)鏡の中のボクの顔が涙を流し始めた。(ボクは何で泣いてんのやろ? あんなに嫌やったはずの自分の顔を、目にしてるっちゅうのに……)「おいゴウ! 何してんねん?」出入り口の方から声が聞こえた。

 ボクはとっさに左手の甲で涙を拭い、右手で鏡をパンツのゴムに挟んで隠した。パンツの中がとてもヒンヤリする。顔を上げると、そこには岡ちゃんが立っていた。岡ちゃんの身体はビショ濡れだ。(さっきまでは、雲一つない快晴やったのに……)「雨降ってきたん?」ボクは疑問に思って、聞いた。

「さっきから降ってたやん。今更何言うてんねん。お前も濡れてるくせに」「えっ!」ボクは驚いて自分の身体を触ってみた。確かに、ボクの服は濡れている。(急いどったから気付かんかったんやろか?)ボクは急いで外に出ると、空を見上げた。大粒の雨が顔に当たり、目を開けていられない。

 だけど、空は明るかった。(昨日と同じで天気雨か……)「中入れよ! カゼ引くぞ!」「ああ」岡ちゃんにそう言われて小屋に戻ろうとしたとき、向こうの方からカズが走ってくるのが見えた。カズは細長い棒を手にしている。(あれは……)

「いやぁ、まいったまいった」そう言いながら近付いて来たカズが、右手に持っているのは……釣竿だ。(今日は塾から直接ここに来たから、釣竿なんか持ってへんはずやけど……)「それ、どうしたん?」ボクは釣竿を指差して、聞いた。「ああこれ? さっき急いどったらこけてん。けど、大したことはないで」

 カズは笑いながら、右腕の擦り傷について説明し始めた。(悪いけど、ボクが聞きたいんはそんなことやないねん)「いや、そうやなくて……」改めて尋ねようとしたそのとき、「フェクション! フェクション! フェクション! フェクション!」ボクはくしゃみを連発した。

 いくら夏とは言え、雨に打たれ過ぎたようだ。このままだと、岡ちゃんの言うようにカゼを引くかもしれない。(とりあえず小屋に戻るか……)ボクはカズと一緒に小屋に入った。小屋に戻って中をよく見ると、さっきは気付かなかったけど、岡ちゃんも手に釣竿を持っていた。

 しかも、さっきはなかったはずのボクの釣竿が、壁に立て掛けてある。しばらく考えてから、ボクは岡ちゃんに聞いた。「今日って、何曜日?」「はあ? 何言うてんねん。日曜に決まってるやん」(日曜日か……。この鏡のせいで時間が戻ったんやろか?)パンツに挟んだ鏡を服の上から触りながら、思った。

(あるいは、この鏡に幻覚を見せられてたんが、解けただけなんかもしれへん。どっちが正しいのかを確かめる方法はないやろな……。しょせん、夢と現実は表裏一体。どっちが表でどっちが裏かなんて、分かるわけない。せやから、自分が現実やと思てたら、それが現実なんや。きっと……)

 ボクがそんなことを考えていると、「お前、さっきから変やぞ。どうかしたんか?」と、岡ちゃんが怪訝な顔でボクに近付き、耳元で囁きかけてきた。「何でもないって……。あっ! ほら、外見てみ。雨やんできたで」ボクは大げさに外を指差すと、そう言った。

 確かに雨は小降りになっていた。だけど、ボクの言動が話をそらすためのものだというのは、誰の目から見ても、明らかだったに違いない。岡ちゃんはチラッと外を見て、「ホンマやな」とだけ言うと、黙り込んだ。カズは何か言いたそうな顔をしてボクを見ていたけど、結局、何も言わなかった。

 それからしばらくの間、気まずい空気がその場を(おお)い、誰も口を開かなかった。十分近く経った後の、「なあ、そろそろ帰る用意した方がええんとちゃう?」と言うカズの呑気な口調と、人懐っこい笑顔のおかげで、沈黙という名の氷はようやく溶け出した。

 それをきっかけにして、ボクたちは普段通り、無駄話をしながら帰り支度を始めた。そのころには雨はほとんどやんでいて、帰り支度を終えてほどなく、完全に降るのをやめた。ちなみに例の鏡は、帰り支度のどさくさに紛れて、リュックに仕舞うことができた。それは人肌に温まっていた。

 ボクたちは小屋を出ると、帰路に就いた。ひょうたん池のほとりを歩いていると、岡ちゃんが誰に言うともなくつぶやいた。「今日は散々やったなぁ……」ボクは笑って答える。「ホンマやな」今日(?)は文字通り大変な一日だった。そのとき、先頭を歩いていたカズが、いきなり立ち止まった。

 その後ろを歩いていたボクは、カズにぶつかりそうになったけど、ギリギリセーフ。だけど、ドンッ! 最後尾の岡ちゃんはボクにぶつかった。そして、怒鳴る。「急に止まんなよ!」ボクが振り返って、「ゴメンゴメン、カズが急に……」と言いかけたとき、「あれ見てみ」カズが前方の空を指差して、言った。

 ボクがその方向を見ると、雨上がりの空には、虹が架かっていた。虹は決して大きくはなく、また、ハッキリしているわけでもなかった。だけど、その光景はボクの心に深く刻み込まれた。当分の間は消えそうもないほどに。「一句できたで」ボクがボーッと虹を眺めていると、カズの陽気な声が耳に入ってきた。

「雨上がり ひょうたん池に 映る虹。どう?」「何やそれ。そのまんまやん」ボクはカズに「ツッコミ」を入れた。ボクたちはひょうたん池からの帰りに岡ちゃんの家に寄って、TVゲームなどをしてしばらく遊んだ。気が付くと夕方になっていたので、ボクとカズは岡ちゃんの家を出た。

 ボクは途中でカズと別れると、自転車を止め、リュックから例の鏡を取り出した。ボクは鏡をジッと見つめながら思う。(この鏡は、どんな願いでもかなえてくれんのやろか?)ボクには一つだけ、幻でも良いから、かなって欲しい願いごとがあった。――もちろん、彼女とのことだ。(どうしよ……)

 しばらく迷った末に、ボクは決心した。(やっぱりやめとこ。この鏡は幻を見せてるだけに決まってる。それに、たとえ幻やないにしても、物には頼りたない。自分の力でどうにかせな)ボクは横を流れている用水路に、鏡を投げ込んだ。 

 ボチャンッ! 水しぶきが上がり、鏡は底に沈んで行く。水が濁っているので、すぐに見えなくなった。未練がなかったと言えば、嘘になる。何せボクは、波紋が完全に消えた後も、水面を見つめ続けていたのだから……。ボクは自転車にまたがると、未練を断ち切るために、思い切りペダルをこぎ出した。

 夕焼けのせいで、気持ち悪いぐらい、辺り一面はオレンジ色に染められている。(明日はたぶん晴れるはずや!)

彼の内心

 坂恵美(さかめぐみ)に話したとき、ハッキリ言って、オレには悪意があった。オレはあの日、放課後の教室に平井を呼び出し、告白しようとしていたのだ。それなのに、まさかゴウの奴に先を越されるとは……。オレとゴウとは幼馴染(おさななじみ)というやつで、まあ、今でも友達と言って良いだろう。

 とは言え、あいつにとってオレが無二の親友だとしても、オレにとってのあいつは、数多くいる友人のうちの一人にすぎない。そのゴウが平井に告白しているのを見てしまったオレは、すぐにクラス一、いや、学年一「喋り」の坂に携帯電話をかけた。

 彼女はオレのクラブのマネージャーをやっていたので――あくまで表面上だが――結構親しくしていたのだ。故意にうわさを広めるのに、彼女ほど最適な人間はいない。案の定、次の日の朝にはクラス中にうわさが広まっていた。オレはゴウが教室に入ってくるなり近付いて行き、話しかけた。

「意外に勇気あんのう、お前」「何の話?」あいつはとぼけた。「何のってお前、決まってるやん。平井に告白したんやろ?」「な、何で知ってんの?」「このクラスで知らん奴おらんで」ゴウは驚きと困惑が入り交じった顔で、目をキョロキョロさせた。クラスのみんなの顔を、(うかが)っていたのだろう。

 数日後、誰から聞いたのかは知らないが、あいつはオレが言い出しっぺだということを知り、問い(ただ)しに来た。オレは「ゴメンゴメン。実はオレ、あんとき教室の外におってな、聞くつもりはなかってんけど、聞いてしもてん。それでな、つい、一人にだけ言うてもうたんや。スマン」と弁解した。

 ゴウに話したオレの行動自体に嘘はない。ただ、思惑を隠して話しただけだ。オレの話を聞いたゴウは、オレの制服の襟元をグッと掴むと、消え入りそうな小さな声を絞り出した。「誰に言うたんや?」「――坂や。口止めしといたんやけどな……」

 それを聞いたゴウは、かなりショックを受けたようで、しばらくの間、あいつの目の焦点は全く合っていなかった。そのとき以来昨日まで、オレとゴウは一切口をきいていなかった。その間、こっちからあいつに近付くことはなかったし、向こうからこっちに寄ってくることもなかった。

 そのうち、ゴウはオレだけでなく、クラスの全員と距離を置くようになり、授業で必要な最低限の会話以外しなくなった。最近のあいつからは、人を近付かせないオーラが出ているように感じられたほどだ。さすがに責任を感じ始めたオレは、簡単な手紙を書くと、それを平井に渡し、頼んだ。

「これ、ゴウの奴に渡してきてくれ。頼むわ」「何なん? これ」「――仲直りの手紙や」「それやったら、直接渡した方がええんとちゃうん?」「オレが行ったって、たぶん、受け取ってくれへんやろ。いや、お前以外の誰が行ってもあかんと思うわ」「ウチやないとあかん、ってこと……?」「ああ、そうや」

「ほんでな、ちょっとゴウの奴の話し相手になってやってくれへんか。それがあいつの一番の励ましになるやろから。頼むわ」次の日、ゴウはオレに謝りに来た。オレも謝り返し、オレとあいつとの関係は修復された。これで全てが元通りで「めでたしめでたし」という感じだ。表面的に見れば、の話だが……。

 オレはゴウの奴に言っていないことがある。より正確に言えば、オレと平井はあいつに言っていないことがあるのだ。オレと平井香は、今、付き合っている。ゴウが告白した日には機会を逸したオレだったが、後日告白し、見事に成功した。

 学校では、今までと変わらずただの友達同士として振る舞っているが、下校後は彼氏彼女の関係だ。電話で毎日何時間も話しているし、休みの日には二人きりでデートにも行く。一週間前には、ついに初キッスも済ませた。

 オレはこの前、冗談めかして彼女に聞いてみた。「最近ゴウの奴と仲良うしてるみたいやけど、あいつのこと好きになったんか?」「幸ちゃん! 怒るよ……」彼女は(わずら)わしそうに答えた。「ゴウくんはええ人やと思うよ。見た目と違って、話してみたら結構面白いし……。せやけど、彼氏としては考えられへんわ」

 ゴウの奴がこのことを知ったら、落胆するに違いない。だが、これが現実なのだ。卒業までの後半年、あいつにはオレたちが付き合っていることは隠し通すつもりだ。卒業してしまえば、遠くの高校に行く予定のゴウが、オレたちと会うことは滅多にないはずだ。(ゴウ、お前との腐れ縁も、卒業したらお終いや)

彼女の内心

 午後十時ちょうど。携帯電話の着信ランプが点滅し始めた。画面を見なくても、ウチには、電話の相手が(こう)ちゃん(広丘幸二)だということは分かっていた。付き合い始めて以来、幸ちゃんは毎日ほぼ同じ時刻に電話をかけてくるからだ。「もしもし幸ちゃん? 今日も時間通りやね」

「おう、もちろんや。ところでな、あの話聞いたか?」「あの話って、どの話?」ウチと幸ちゃんはいつものように話し始めた。三十分ほど経った頃、ウチがゴウくん(郷田翔太)のことを話題に出した途端、それまで笑いながら話していた幸ちゃんの声が、急に真剣な口調に変わった。

「ちょっと聞きたいことがあんねんけどな」「ん? 何? 何でも聞いてよ」「最近ゴウの奴と仲良うしてるみたいやけど、あいつのこと好きになったんか?」「幸ちゃん! 怒るよ……」――ウチは考えを巡らす――実はウチ、顔だけやったら、幸ちゃんよりゴウくんの方が好きやねんな。

 ハンサムとは言われへんけど、見ようによってはかわいらしい顔してるもん。あんな感じの顔、ウチ好きやねん。ハンサム度で言うたら、そら幸ちゃんの方が断然上やけど、幸ちゃんは何か冷たい感じがすんねんな。そこがちょっと……。でもな、ゴウくんは性格がな……。

 ユージューフダンなとこが、(はた)で見ててイライラすんねん。人はええねんから、もうちょっと決断力があったら、合格点あげてもええねんけどなぁ。性格は幸ちゃんやな。決断力があるし、テキパキしてるし。――強引過ぎんのが玉に傷やけど。

 この前も急にキスしてくんねんもんな。心の準備ができてへんかったから、ビックリしたわ。初チュウやねんから、もっとロマンチックなシチュエーションでしたかったな。場所が観覧車の中なんはええとしても、故障で止まってるときにすることはないやん。

 ウチが怖くて不安なときに、どさくさ紛れに唇を奪うやなんて、ちょっとずるいんとちゃう? あんときはホンマに怖かってんで。(いつになったら観覧車が動き出すんやろか)っていうのと、(このまま幸ちゃんが行くとこまで行くつもりなんちゃうやろな)っていうのと、両方の意味で。

 観覧車は数分後に動き出したし、幸ちゃんも数秒間のキスで終わってくれたから、良かったけど。幸ちゃん、次の観覧車に乗ってた五歳ぐらいの男の子に見られてたん、気付いてたんかな? ――正直、ゴウくんも幸ちゃんも、もうちょっと何かが足りひんねんな。

 キスまでやったらええけど、それ以上の関係にはなる気ないな、二人とも。ウチがホンマに好きなんは、今年卒業したクラブの先輩、笹木将(ささきまさる)さん。あの人にやったら、ウチの全てをあげてもええわ。ウチと笹木さんはずっと前からメル友やけど、先輩が卒業してからは会えへんかった。

 せやけど、ようやく、今度の日曜日に会うことができる! めっちゃ待ち遠しいわ。当日は朝シャンして、キレイに歯ぁ磨いて、新しい下着着けて行かなな……。 えっ! ちゃうちゃう。ウチ、エッチなことなんか期待してへん。ただ、何かあったときのために、キレイにして行きたいだけやて。

 久し振りやし、印象良くして行かな。そう思てるだけ。あっ、そろそろ何か言わな、怪しまれるっ!――(この間約五秒)――「ゴウくんはええ人やと思うよ。見た目と違って、話してみたら結構面白いし……。せやけど、彼氏としては考えられへんわ」

エピローグ

 黄昏時、私は母校、M市立第六中学校へと至る道を歩いている。仕事で近くを訪れた私は、その帰り、久々に中学校を見たくなり、立ち寄ることにしたのだ。中学生の頃、ずっと通い続けたこの道。高校・大学と寮生活を送った私は、中学を卒業して以来、十年以上この道を通っていなかった。

 しばらく見ないうちにかなり風景が変わったものだ。あの頃、この道はまだ砂利道だったし、周囲には田んぼが広がっていた。今では、道はアスファルトで舗装され、田んぼのほとんどは住宅地に変わっている。私は校門から二十メートルほどの所で立ち止まり、夕日に照らされた校舎を、感慨深く眺めた。

 校舎に見入るのをやめ、目の焦点を普通の状態に戻す。と、男子中学生が二人、前から歩いてくるのが目に入ってきた。背の高いガッシリした少年と、気が弱そうなメガネの少年だ。

 二人は楽しそうに話しながら、こちらに近付いてくる。この年代の男子同士の話は、九割方どうでもいい話だ。ゲームの攻略法、昨日観たTVの話、先生や級友のうわさ話や悪口、音楽や映画に関して、そしてごくたまに好きな子について……。

 男子二人の後ろでは、女子三人と男子が一人、仲良さそうに歩いている。この年代の男子で、複数の女子と話せるやつはそういない。彼はイケメンなので、女子の方が放っておかないのかもしれない。女子と話していた少年が、急に走り出した。彼は前の二人に追いつくと、後ろからラリアットをかます。

 怒った顔で振り向き、文句を言う少年たち。しかしその後、三人は何事もなかったように話し出した。私は少し羨ましくなった。今思えば、中学生の頃が一番充実した生活を送っていたのかもしれない。――時が経てば、楽しいことだけが思い出として残るものなのだろうか?

 いや、違う。本当に嫌だったことは、あえて思い出さないようにしているのだ。思い出せば、今でも辛いこともあるから……。私は一瞬目を閉じて、昔のことに思いを馳せた。目を開けると、中学生たちの姿は消えていた。振り返っても、誰もいない。あれは本当に現在の少年たちだったのだろうか?

 そういえば、あの中学生たちの中には、私自身や初恋の人に似た人もいたような気がする。私は今まで何人かの異性と付き合ったが、思えば、その全員に初恋の人の面影があった。(今、あの人はどうしてんのやろ……)私は心の中に封印していたあのときのことを、完全に思い出していた。

 ――私がうわさを広めたのは、「あの人」に「彼女」を諦めさせるためだった。「あいつ」は私があの人を好きだと知っていて、あえて私にあの人が彼女に告白したことを知らせてきたのだ。私はあの人が振られたのを知らされていたが、それでもなお、私はあの人に彼女のことを完全に諦めさせたかった。

 だから、うわさを広めたのだ。その結果、私だけが悪者になった。親友だった彼女には避けられるようになり、好きだったあの人には無視されるようになった。確かに私は愚かだった。が、一番悪いのはあいつだ。それなのに、元凶であるあいつは全てを私のせいにして、すぐに彼女と付き合い始めた。

 結局、私はあいつにいいように利用されたのだ。風のうわさで、あいつは一流企業に入り、将来を嘱望されていると聞いた。多くの人があいつの外面にだまされる。あいつの内面は最悪だというのに……。私はそんなことを考えながら、亀の歩みのようにゆっくりと、校舎に向かって歩き出した。

 校門の前で立ち止まった私は、改めて夕日に照らされた校舎に目を向けた。校舎は、気持ち悪いぐらい綺麗なオレンジ色に染められている。夕日は人を感傷的にさせる。こんなことを考えてしまうのも、全て夕日が悪いのだ。私は全ての責任を夕日になすり付けることに決め、空想上の石を手に取った。

 振りかぶり、夕日に向かって思い切り(エア)石を投げ付ける。ひゅーん。しゅん。どかん。「お姉さん、何してんの?」通り掛かりの小学生が、興味深そうに、だが恐る恐る訊ねてきた。「石を――というても空想上の石やけどね――を、お日様に投げ付けてたんや」「お日様、何か悪いことしたん?」

「してへんよ」「なら、何でそんなことするん?」「思いを受け止めて欲しいから、かな」「お日様は受け止めてくれるん?」「私の石なんか、気にも止めてへんのとちゃうかな」「なんでそう思うん?」「夕日の綺麗な日には、悲しくなったり寂しくなったりする人が多くいて、みんなが石を投げているから」

「僕も投げてみよかな」少年はそう言うと、エア石を握りしめ、思い切り振りかぶった。いい投球フォームだ。ひゅーん。しゅん。どかん。私の石も少年の石も太陽の熱で溶かされて、ドロドロになっているだろう。これからも、嫌な思いは石に込め、全て夕日に投げ付けよう。度量の広い太陽SUNは、笑って許してくれるだろう。

                                        了

映らない顔

 最後まで読んで頂いて、ありがとうございます。

映らない顔

人それぞれに、他人には映らない顔がある。生まれて初めて好きな女の子に告白した少年は、現実のほろ苦さを知ることになる。 そして彼は……。 少年とその友人たちとの、心温まらないストーリー(エピローグを追加しました)。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 登場人物(五十音別)
  2. プロローグ
  3. その日、ボクの身に起きたこと
  4. 昨日の記憶
  5. 第一の結末
  6. ボクと彼と彼女の関係
  7. 第二の結末
  8. 彼の内心
  9. 彼女の内心
  10. エピローグ