とある物語の結末
・これは実際にあったクトゥルフ神話TRPGの後日談を小説として書き起こしたものです。何卒。
鳴きやまない蟲の声。軋む世界に、別れを告げたあの夏の日。
とある物語の結末。
―新しいメッセージを三件お預かりしております
八月二十日 午前二時二十一分 ―
『……もしもし。夕月、俺だ。分かるか? ……分からないかもな。長いこと留守にしてすまなかった。実は、な。もしかしたら、八月の間に家に帰れるかもしれないんだ。……やり直そうとは言わない。やり直したくないなら、それでいい。一度でいい、顔が見せてほしいんだ……。夜中にすまなかったな。それじゃあ』
◇
『もしもし。俺だ』
「……もしもし。久しぶりだな、どうした?」
『ああ。実はな、そっちに帰れる目途がついたんだ』
「本当か?」
『本当だ。恐らくだが、8月中に帰れると思う』
「……しかしまた急だな」
『急な話だったからな。たぶん八月の終わりごろになると思う……久々にお前らの顔が見たい、予定を開けておいてくれ』
「あいよ」
『……夜中に悪かったな。それじゃ』
◇
夢の終わりを告げた、夏の話。
◇
たそがれまいりの事件の直後、僕と姉さんは唐突に引っ越しを決めた。たしか八月の半ば頃の出来事だった。次の日に引っ越しは終わり、僕は姉さんに絶縁を言い渡されて引っ越した理由を何となく察したんだけどね。
……姉さんはそれっきり家に帰ってこない。前の家にも来た痕跡がないから、たぶん凛さんのところにでも泊まってるんだと思う。一ヶ月ほど前に従兄弟が失踪したとかであっちも今かなり揉めてて大変らしいから僕はさすがに引っ込んでおくことにした。
姉さんは好きなようにしろとだけ吐き捨てて話もしてくれなくなったけど、好きなようにしろって言われたって何も出来ないのに何をしろというのやら。料理は一ヶ月の間に少しだけ教わったけどそれ以上も以下でもない。それ以外はほとんど何も出来ないまま、何となく部屋の隅に座ってぼーっと日が暮れるのを待つ生活をそのまま二週間続けた。当然、訪ねてくる人もいない。部屋も思っていたより散らかったりはしなかった。さすがに洗濯くらいは勝手が分かるのでやったけれど、それだけ。大して食欲もないので二三日に一度コンビニでパンを買う程度で済んでいた。
さすがにこのままじゃだめだろうなと自覚しつつも何も出来ない。一日中電気もつけずにカーテンを閉め切った部屋で座っているだけ。何か外から反応でもあれば動けたかもしれないけれど、充電器に繋ぎっぱなしのケータイが鳴ることは二週間一度もなかった。
そんな感じで二週間が過ぎ。久々にコンビニまで出かける道すがら、窓に写った自分を見てあまりのやつれ方に苦笑したのがきっかけだった。
僕はほんの気まぐれで、ちょっとした運動のつもりで前の家に少し帰ってみることにしたんだ。
◇
『もしもし。俺だ』
「ああ、今度はどうした?」
『帰る日程が決まったから伝えておこうと思ってな……ところで、夕月とはまだ仲直りしてないのか』
「当たり前だろ」
『意固地にならなければ良い物を……まぁいい、夕月とも一度じっくり話して見たかったんだ』
「親子水入らずってか。……こういうの、初めてじゃないか?」
『そうだな……もっと夕月の相手も知ってやればよかったと、我ながら後悔してるよ』
「しっかり取り戻して来い。で、帰る日程ってのはどうなってるんだ?」
『ああ。明後日の便でそっちにつくから、二十八日の夕方には帰れると思う』
「また急な……明後日だな。夕月にはちゃんと自分の口で連絡しろよ」
『分かってるさ……ただ、あいつこの時間は寝てるんだよなぁ。留守電も聞いてるのやら』
「ああ、あいつ寝るのは早いしな……。ま、明後日はこっちは後回しで良いからまずは夕月とじっくり話し込んで来い」
『そうさせてもらうよ。それじゃあ、おやすみ』
◇
ー八月二十七日 午前三時五十六分ー
『もしもし……留守電聞いてくれてたか? お父さんな、明日中にそっちに着きそうなんだ。夕方頃には戻れると思う。急ですまないな……少しでいいから、時間を開けておいてほしい。それじゃあ、また明日。』
◇
ぞくり、と首筋に冷たいものを押しつけられたような悪寒が走る。ボロボロと内側から理性を崩される感覚。ずいぶんと久しぶりの感覚だ。何もかもを否定され、何をしても罵倒されるあの自分が内側から腐っていく悪寒。
どうして、あいつがここにいる。
もぬけの殻となった古い家には来客があった。僕たち姉弟そっくりの群青色の髪と長身。片手には大きな鞄を提げており、先ほどからインターホンを鳴らしたり門をたたいたりしている。時折首を傾げたりする仕草は、何処となく姉と似ていた。
ああ、知らないのか。そう嘆息すると同時に胸の奥でふつふつと何かが煮えたぎる。胃がひっくり返りそうになるどす黒い感情。それの言葉には耳を貸してはならないのに。
男は不意に振り返り、僕の姿を見つけて驚いた顔をする。
「夕月か……大きくなったな」
ぐしゃ、という醜い音を立てて認識がゆがむ。耳鳴りが止まない。
その目で。姉さんそっくりのその目で、僕を見るな。嘲笑を浮かべるな。姉さんを汚すな。
「……うん」
「なんだお前、ちゃんと飯食べてるのか? 顔色が悪いぞ。とりあえず中に入ろう。鍵、持ってるよな?」
うつろに頷き、家の鍵を開けた。相変わらず頭の中の虫はぎちぎちと嫌な声で鳴いている。うるさいうるさいうるさいうるさい。
男はやや上機嫌な足取りで家に上がり込む。家具がないことにやや不審げな顔はするものの、それ以上は無い。きっと、この男の興味はそんな所にはないんだろう。僕の想像が正しければ、こいつはきっとあれを聞いてくる。
「で、羽月はどうしてるんだ? 母さんもいないようだが……」
……来た。
「……友達のところ」
「出来れば……顔を見たかったんだがなぁ」
何気ない一言一言が内蔵をえぐっていく。うるさいうるさい。フラッシュバックする光景のひとつひとつが脳髄をきしませる。
ぼくは、やっぱり。
躊躇なく居間に向かう男はどこまでも無防備だ。僕はそれすらきっと許せないから。許せないから。うるさい、きっと僕は許せない。でも赦したい? わからない。
置き去りにしていた凶器に手をかける。過ちを繰り返そうか。だってそうすれば、
家具のなくなった居間で立ち尽くし、今にも振り向こうとする父親の無防備な後頭部目掛けて、錆びたバールを振り下ろした。
ごっ、と言う木を殴ったような弾力のある固い手触りが手に跳ね返る。瞬間、あの景色がフラッシュバックする。飛び散る血液が、脱力し地面に崩れ落ちる姿が重なる。たった一回の簡単な動作で衰弱しきった体は簡単に軋んで腕は衝撃に耐え切れず悲鳴を上げた。
混乱した目でやつは地面に倒れこみ、もがくようにして身を起こす。大きく見開かれた気の強そうな目の形は、本当に姉そっくりで姉を殺そうとしているかのような罪悪感に吐きそうになる。
「ゆ、づき……!?」
「……うるさい」
ぎちぎちぎちぎちぎち。蟲が鳴く。脳みそを食い荒らされる感覚。余りの頭痛に涙が出る。胃のひっくりかえるような吐き気と酸欠で視界はすでに白い。
あああああああああああああああああああああああああああ。
二度、三度。滅茶苦茶に振り下ろされた得物が場所すら狙わず叩きつけられる。床だろうと頭だろうと関係ない。その時、振りおろした得物が掴まれる。
「夕月……!」
ざらざらと音を立てて理性が崩れる。はやく、**ないと。頭蓋をガリガリとかきむしる声を無視して得物を奪い返そうと手首をひねるが、上手く行かない。当たり前だ、この人に純粋な力勝負で勝てるわけがない。簡単にバールは奪い取られて突き飛ばされた。
鈍い音と共に視界に火花が散る。まともに動かないからだが、酸素を求めて震えていた。男は奪い取ったバールを振り上げて、
ずっとむかし。ぼくがまだおくびょうなこどもだったころ。
反射的に、ポケットに忍び込ませていた折り畳みナイフを手に取る。そして無防備な男の腹部目掛けて、何のためらいもなく突き立てた。
とうさんはぼくをよびつけてこういった。
ぶちぶちぶち、と布を引きちぎるような手ごたえがナイフ越しに伝わる。反射的に動いた腹筋の動きに合わせてナイフの先端が肉の中をうごめき、数秒の沈黙が流れる。
目の前が白くて、ただ痛くて苦しい。これ以上何も奪わないで。あの女は姉さんを殺そうとした。今度は、お前が僕から姉さんを奪うのか。そんなの、ゆるさない。
「お前、は」
男は僕の肩を掴む。僕とは似ても似つかない武骨な手。昔、よく姉さんの頭を撫でていた手は今は血まみれで。
ごふ、と言う咳き込む声と共に口の端を血液が伝っていく。僕と姉さんの中にも流れている、血。同じ血が流れているはずなのに僕だけ何も持っていない。圧倒的な才能はもはや暴力だ。
僕の事なんて、誰にもわからないんだ。
『おねえちゃんを、守ってやるんだぞ』
ナイフを引き抜き、再び突き刺す。あおむけに倒れた男の上に馬乗りになり、二度三度と胸も腹も構わず突き刺していく。吐き気を催すような手ごたえとともに理性がクラッシュし、視界が崩れる。
崩れた理性の中、蟲の声に紛れて音がなだれ込む。罵倒と嘲笑。それらに痛みなんてなかった。傷つくことには慣れてた。ずっとずっとずっとずっと。その分ずっと苦しかった。声に出せない苦しみだけが雪のように降り積もっていた。どうして、ぼくだけが。そんな理不尽さだけがあった。
姉さんの、何も知らない笑顔ですら許せないと思うほどに。
どれだけ刺したか。分からなくなってから、ナイフが手から抜けて落ちる。拾い上げる気力は残っていない。見下ろせば男が一人死んでいた。もしかしたら生きていたのかもしれないけれど、確かめる気にはなれない。酷く重たい体を起こしてゆっくりと立ち上がる。
……どうしよう。そんな簡単な言葉ががらんどうになった脳裏に浮かぶけれど、そんなのどうしようもない。そんなくだらないこと、考えてなかった。
外はじきに夜が来る。燃えるような夕暮れが、リビングに太陽の残滓を投げかけていた。凄惨に彩られたリビングは灼けつくような赤。軋む肺が、体が純粋に休息と栄養を求めていた。
……そう。どうして、気づかなかったのか。僕は今更のようにゆっくりと部屋を出て、2階に上がった。
「……いつからいたの?」
「最初から」
当然のように佇む彼女は、酷く酷薄な声でそう伝えるとじっと僕を冷ややかな目で見つめる。
透けるような白髪に、純白のウェディングドレス。ゾッとするほど酷薄な笑みの浮いた顔は僕の学校でも見れないくらい整っていて、肌はドレスに誂えたように白い。だけど、その光の射さない赤い瞳は底と言うものが見えなかった。廃墟の廊下なんて場所にそぐわないような少女は、驚くほど感情の無い目で僕を見た。
……一目で、察した。彼女は、人間じゃない。
「……止めなかったんだ」
「止めてほしかったのかしら?」
「ううん……それで、君はどうするの?」
「そんなことを聞いて、貴方は一体どうしてほしいのかしら」
ほんとうに、ぼくはどうしてほしいのだろう。
言葉が続かない。肺が痙攣し、上手くしゃべれない。どうしてだろう。暗い廊下は凍えるほどに寒くて。蟲の声の代わりに、今はがちがちと歯が鳴っていた。余りの寒さに両手で体を抱くも、寒気は一つも引かない。
「……成る程、愚かね。そして貴方は恐ろしく自分勝手。輝かしい記憶もあったでしょうに、どうして葬ってしまったのかしら」
わからないよ、ぼくには。
輝かしい記憶なんてない。無かったと、信じたい。
「奇跡が欲しい? あなたが否定し踏みにじった奇跡が」
◇
―八月二十八日 午後七時四分―
『……すまない。俺は、父親失格だ……許してくれ……』
◇
……そう。それは、記憶の残滓。
まだ寒かった春先。僕は、帰り道を見失ってしまったんだ。
いや、帰り道はわかりきっていた。なのに帰れなかった。理由はわからない。ただ家に帰ると言うただそれだけが、泣き叫ぶほど恐ろしかった。だって僕にはできない事しかなくて、上手くできた試しなんて一つも無くて。何かをするたびに否定されて、とうとう壊れたんだと思う。
そんな僕に、たった一人の友人は帰り道を探してあげると言ってずっと一緒に歩いてくれた。泣きじゃくる僕の手を引いて、寒いとも帰りたいとも文句ひとつ言わずに。……本当に、聡明で賢すぎる子だった。全てを知った上で道化を続けられる、手を伸ばしても到底届かない存在。
彼女は僕の家の場所を知っていた。僕が本当に道を見失ったんじゃないと気づいていた。だから、あんな馬鹿な提案をしたんだ。
対する僕は息をすることすらこのまま上手く行かなくなりそうな何よりも滑稽な出来損ない。もういいよ、って言って彼女の手を振り払えばそれでいいのにそんなことすらできなかった。だって、何をしてもきっと無駄なんだから。
やがて、すぐに夜が来て。僕たち二人は家に帰らなきゃならなくなった。
彼女はやんわりと僕に帰ろうと提案した。僕は俯いたまま答えられなくて、ただ寒さに体を震わせていた。
そう。あの日。あの時、あの場所で。僕が永遠に迷子のままだったとしたら。きっと、この世界はもっときれいだったのに。
この世界は、ずっと輝いていたのに。
僕は奇跡を踏みにじった。願ったって叶わない。祈ったって届かない。最初から、知って、いたんだ。
だからこそ。僕は、毒よりも甘い。毒そのものだと分かっている奇跡に縋り付いたんだ。
◇
『もしもし。そっちの予定のめどはついたか?』
「ああ、一応こっちはな」
『……実は、羽月に土産があるんだがな。これがドイツ物だから着くのは9月に入ってからになりそうなんだ』
「何買ったんだよ……」
『それはついてからのお楽しみだ。あいつ、きっと喜んでくれるぞ』
「そりゃ何よりだ。あいつもいいリハビリになるだろ」
『ああ。本当に、今から楽しみだよ。おっと、搭乗の時間だ。それじゃあ、凛。また後でな』
「おう。こっちに着いたら羽月と二人でじっくりシバキ倒してやる」
◇
―新しいメッセージを一件 お預かりしております
八月二十八日 午後九時四十五分―
『どうした、結局来なかったじゃないか。またのっぴきならない事情ってやつか?
……もう何も言わないよ。私も、もう慣れっこだ。だが羽月にはまだ何も伝えてない……あいつが悟る前に、戻って来いよ? それじゃあ』
とある物語の結末
ぼくは きっと なにもしらない
ふかんぜん