恋文
さしも知らじな
学校で全ての授業を終え、いつもならそこで帰れるはずだった。しかし、今日はそういうわけにはいかなかった。国語担当の先生から呼び出しがかかっていたからだ。
何故かは知らない。優等生でないことは承知の上だが、特別あの人の気に障るようなことをした覚えもない。何故だろう? と考えることも面倒臭かったので、おとなしく従うことにした。
「――失礼します」
定型句を発し、私は淡々と職員室へ入った。
目的の席へ足を進めると、私を呼び出した張本人である先生は、パソコンに向かって何やら打ち込んでいた。クラスに配布するための学級通信のようだ。ちなみに先生は一年生の担任を持っている。一年生の子が羨ましい……と少しだけ思ってしまうのは秘密だ。
「先生、来ましたよ」
つっけんどんな調子で先生の背中に声を掛ける。先生はパソコンを打つ手を止め、こちらへ向き直った。
「あぁ、来ましたか」
いつも通りの柔らかな口調で微笑む先生。先生がこちらを見て微笑むだけで、何故だか胸のあたりがむずむずするような、苛々するような、訳のわからない気持ちになる。気が狂ってしまいそうになりながらも、私は冷静を装った。
「何の御用ですか。何も悪いことをした覚えはありませんが」
クスクス、と先生は上品に笑った。
「えぇ、確かに悪いことはしていませんね。三年生で卒業も近いのに、わざわざ問題を起こすような根性が君にあるとも思えませんし」
品定めをするかのような視線とその口調に、私はムッとした。発する声が自然と低くなる。
「では何故私は呼び出されたのでしょうか」
「いえね、少し確かめたいことがありまして」
また先生は笑う。そのひとつひとつの仕草は、流れるように美しい。男の人とは思えないほどだ。
「本題に入りたいところですが、ここでは……少しまずいですね」
笑うのをやめてそう言うと、先生は突然辺りをきょろきょろとしながら呟いた。私はますます訳がわからなくなった。人前で話すのがそんなにはばかられるような内容の話なのだろうか。
そんな私のことなどお構いなしといった様子で、先生は立ち上がると、私についてくるように促した。
「司書室にでも行きましょうか。あそこなら今の時間、誰もいないはずですからね」
◆◆◆
先生に連れられてやってきたのは、図書室の隣にある司書室。先生の言った通り、そこに人の姿はなかった。
先生は自分の席に座ると、隣の椅子を引いて自分の横に置く。座りなさい、ということか。私は多少躊躇ったが、先生のやさしい眼差しにつられるようにふらふらと近づき、用意された席に腰をおろした。
「さて、本題ですが」
そう言って先生は机の上に、二つ折りになった一枚の紙を置いた。
「この紙に見覚えはありますか」
「ありません」
感情を込めず、私は即答した。先生はふぅん、と不思議そうに唸った。
「おかしいですね。確かに君の字だと思ったのですが」
「だから何の……」
何の話ですか。そう言い募ろうとした時、先生がぺらりと二つ折りになった紙を開いた。女子らしさの欠片もない冷たい字が紙の中心にポツリと佇んでいる。それを読み、私は思わず息を呑んだ。
「…………」
「見覚えは、ありませんか?」
先生が私の目をじっと見つめて聞いてくる。
「これは君が書いたものでしょう?」
否定することなど出来ないような空気だったし、今更という気もしたけれど、ここで肯定してしまうのは何となく悔しい気がした。
「決め付けるのはまだ早いんじゃないですか。字だけで私だと判断するのは安直な気がしますが」
「一筋縄では行きませんか……なるほど、強情な子だ」
先生は面白がるような口調で呟くと、腕を組んで椅子の背もたれに身体を預けた。ずいぶんとフランクな格好だ。いつもきっちりしている先生にしては珍しい。
「言っておきますが……教師たるもの、生徒の字の判断ぐらいついて当然です。特に君の字は男子のように角張ってもいないし、他の女子のように丸くもない。実に独特だ。だから尚更覚えていたんですよ。それに、」
そこで先生は言葉を切り、ニヤリと悪徳めいた笑みを浮かべた。
「君の先ほどの反応を見て、確信しました」
できるだけ表情に出さないつもりでいたのに。この人には全てお見通し、という訳か。私は諦めることにした。ため息をついて、先生を見据える。
「だったらどうだというんです」
「図星、ですか」
得意げな顔だった。先ほどまでの上品な様子はすっかり抜けている。これが先生の素なのだろう。騙されたような気がして悔しかったけれど、先生の新しい面が見れて何となく嬉しいような気も少ししてしまった。
誤魔化すように私は口を開いた。また声が自然と低くなる。
「で? わざわざそれを確かめるだけの為に私を呼んだんですか」
「いいえ。まさかそれだけの為に呼ぶわけないでしょう」
「じゃあ他に何の用事があるというんです。説教でもなさるおつもりですか」
「いいえ」
知られたところで『ふざけたことを』と馬鹿にされるか、咎められるものだと思った私は、そのあっさりとした答えに拍子抜けした。先生は気にせず続ける。
「お返事を差し上げなくては、と思いまして」
「返事?」
私は顔をしかめた。不機嫌な私とは裏腹に、先生はどことなく機嫌がよさそうだ。長い指で紙をそっと手に取り、しげしげと眺めている。そんな様子も絵になるのだから、余計に腹立たしい。
「いわばこれは君からの、一世一代の恋文じゃないですか。そうでしょう? でしたら僕のほうも、しっかりとお答えせねばなりません」
『恋文』という古めかしい表現をする所が、国語の先生らしい。私はふいと横を向いて、馬鹿らしいというように鼻を鳴らした。
「これがラブレター……恋文だという、証拠はあるのですか。和歌が書かれただけのこの紙が」
そう、私はその紙に「好きです」といった類の言葉を書いたわけではない。一つの和歌を書いて、先生に届けた。ただそれだけだ。
先生はククッと笑った。もう素を隠す気などないようだ。
「この歌の意味を知ったうえで、君は僕に送ってきたのでしょう? 意味のない和歌を送るような無駄なことなど、君はしないでしょうから。だとしたら……それは立派な恋文だ」
そう言った後、先生はしばらく何かを考えるかのように目を閉じた。沈黙があたりを包む。
やがて、長い睫毛が再びゆっくりと持ち上がった。漆黒の甘い瞳が私を捕らえる。初めて見るその表情に、私は息が詰まるのを感じた。心拍数が一気に上昇し、顔がかぁっと熱くなっていくのがわかる。
「だ……だったら」
苦し紛れに私は口を開いた。私がこんなにも動揺していることだって、先生はとうにお見通しなのだろう。
「だったら、早く言ってください。もう帰りたいんです。だから……」
早く、断ればいいじゃないですか。
自然と声が震えた。怖いのだろうか? 結果などわかりきったはずなのに。何かを望んでいた訳でもないのに。
ただ私は……先生に知って欲しかっただけだ。あなたのことを好きでいるような馬鹿な女が確かに存在しているんですよ、と。
私の顔を見た先生は、困ったように笑った。
「泣きそうな顔をしていますね」
「っ、気のせいでしょう」
「そうですか? まぁいいです」
不意に先生が私に近づいた。しなやかな指が頬に触れ、自然と身体が強張る。
「では」
囁くように先生が言う。
「その紙に書かれた歌、読んでください」
小さな小さな声で、私は紙に書かれた恋の歌を読んだ。
「……『かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを』」
――こんなに恋い慕っていると言おうにも言えずにいるのですから、きっとあなたは知らないのでしょうね。伊吹山のさしも草のように燃える、我が恋の思いの火を。
「よく出来ました」
先生は柔らかく笑った。先ほどまで頬に当てられていた手が頭に移動したかと思うと、子供をあやすような手つきで撫でられる。私は上目遣いで先生を睨んだ。
「子供扱いしないで下さい」
「はいはい、ごめんなさいね」
おっとりとした口調。気付いたときには、先生はもういつもの上品な仕草に戻っていた。
「いいかげんにしてください」
この状況から早く脱したくて、つい急かすように言ってしまった。先生はしょうがないな、といった風に笑った。
「そうですねぇ」
もったいぶるように呟くと、先生はおもむろにペンを取った。私の書いた和歌の下に、サラサラと何かを書き加えていく。私はその様子をただ呆然と見つめていた。
「これは……」
書かれたものを見て、私は思わず目を見張った。先生はいたずらっ子のように笑うと、書かれた和歌を読み上げた。
「『恐ろしや木曽の懸路の丸木橋ふみ見る度に落ちぬべきかな』」
――恐ろしい、恋の路に懸けている女性からこのように恋文がやってきてしまった。見る度に転落してしまいそうだ。しかし、丸木橋を踏み外して恋に落ちるのも悪くはないね。
「私は恋に懸けるような女ではありません」
歌を聞いた私の第一声はこれだった。
「知ってますよ。あなたがそんな女性でないことぐらい」
先生はまた私の頬に手をやった。ひんやりとしたそれは、火照った頬を冷ますのにちょうどいい。
「それよりも……通じましたか? 僕の気持ちは」
「…………つまりは、どういうことでしょうか」
事態を上手く呑み込むことが出来ていない私を見て、先生は意外そうな顔をした。
「おや、通じていないようですね。では直接言いましょうか」
頬に手をやったまま、先生は私の耳元へと唇を寄せた。私の顔は、先生の冷たい手が効果を無くすほど熱くなってしまった。
先生は私の耳元で、甘ったるく低い声で囁いた。
「教師という立場を捨てて、あなたと恋に落ちるのも悪くないということです」
「う、あ……え?」
頭がぼうっとして訳がわからなくなり、私はしばらく固まった。先生はそんな私をぐい、と自分のもとへ引き寄せた。私の身体はいとも簡単に、すっぽりと先生の胸の中におさまってしまう。
「先生……」
「どうです? 僕と、恋に落ちてみませんか?」
頭上で聞こえる柔らかな声と、髪を梳かれる暖かな手の感触。いつもすれ違うごとに香っていたラベンダーに似た香りが、普段より強く鼻腔を満たす。そのすべてが心地よくて、このままたゆたうように身を委ねたくなってしまって……。
返事をする代わりに、私は先生の背中へ腕を回した。そしてそのまま先生の胸の中で、そっと目を閉じた。
忍ぶることの
本日のお勤めを果たすため学校へと来た僕は、いつも通り職員玄関の下駄箱を開ける。その時、靴を出そうと伸ばした手の横をすり抜けるように、かさり、と音を立て一枚の紙が落ちてきた。
折りたたまれた白いメモ帳サイズの紙を拾いながら、ふと、ひと月ほど前にもこのようなことがあったと思い出す。ひとりの女子生徒の顔を思い浮かべて、僕はクスリと小さく笑みを零した。
恋文とはまた、酔狂なことをするものだ――……初めて貰った時は、ただ単純にそう思った。正直、今でも同じ考えを抱いている節がある。
もちろん、奥ゆかしいと言えば聞こえはいいのだろうが……それでも、かつてそんな手段に出たあの少女に、自分は今やすっかり落ちてしまっているのだから、人生とは何があるか分からないものである。
今回のこれは、再び彼女の仕業か。それとも、彼女のやり方に倣った(かどうかは知らないが)、また別の人間の仕業か。
はたまた、恋文などという甘い響きをもつ種類のものとは百八十度異なる、別の何かか。ひょっとして脅迫状めいたものだろうかと、少しだけ不安が過ぎる。……いや、もちろん恨みなど買った覚えはないけれど。
ゆっくりと紙を拾い上げ、開いて中を確かめてみれば、あの時と同じ筆跡で、文章が一言だけ書かれていた。
僕は一瞬、思わず目を見開く。それから書かれている内容の意味、そして書いた本人の意図を瞬時に理解して、徐々に表情を和らげた。片手で元通りに折りたたみ、スーツのポケットへと滑らせる。
「おはようございます」
「あぁ、おはようございます」
後ろから掛けられた同僚教師の声に、得意のおっとりとした笑みで応えながら、僕は早くも放課後のことに考えを巡らせていた。
――今日もまた、呼び出し。ですね。
◆◆◆
「……失礼します」
どことなく不満げな、耳をそばだてていないと聞こえないのではないかと思うほどに小さな声と共に、一人の女子生徒が姿を現す。自分の席でパソコンのキーボードを叩いていた手を止め、僕は敢えてゆったりとした動きでそちらへと振り返った。
「あぁ、来ましたか」
こちらへいらっしゃい、と軽く手招きすれば、きまり悪そうに、それでも足取りだけはしっかりと、言われた通りにこちらへ近づいてくる。そんな彼女に僕は、僕の席の隣にある、部活の監督に行ってしまった教師の席へと座るよう促した。
この司書室には現在、僕と彼女の他に誰もいない。今のところ誰も来る気配はないし、この後もきっと誰も来ないだろう。いつも使っている職員室ではなく、普段めったに使われていないこっちの部屋へ呼び出したのは、もちろん僕なりの意図があってのことだ。
彼女が僕と向かい合うようにして座ったのを確かめてから、僕は笑みを絶やさぬままにこう言った。
「今日、君をこうして呼び出した理由。分かりますね?」
「わかりません」
クールに振る舞う彼女の口から出たのは、予想通りの淡々とした返答。僕は小さく笑うと、スーツのポケットに手を滑らせ、今朝僕の下駄箱に入っていたあの紙を取り出した。
彼女を始めて呼び出した日と同じように、机の空いたスペースに折りたたまれたそれをスッと置く。
パラリ、と開いて中身を見せれば、彼女の顔が僅かに強張った。
囁くように、僕はすっかり暗記してしまっているそれ――百人一首の一つである、有名な一句を口にする。
「『玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする』」
――私の命よ、絶えるならばいっそ絶えてしまえばいい。もしこれ以上長く生きていたら、これまでずっと隠し通してきたこの気持ちがいずれ露見してしまうだろうから。
彼女の頬が、カァッと朱く染まった。色づいた唇が小さく開き、言葉にならない言葉と共に、途切れ途切れの甘い吐息を吐き出す。あっという間に高校生らしからぬ壮絶な色気をまとった彼女に、触れたくなるのをぐっと堪えながら、僕は笑みを深めた。
「どうして、このようなものを僕に書いて寄越したのです?」
恥ずかしそうに目を伏せた彼女は、軽く唇を噛む。それから一転して、キッと強気なまなざしをこちらへ向けてきた。どうやらもう、下手な言い訳をしても無駄だと悟ったらしい。
妙に棘のある声で、彼女は一言こう言った。
「先生なら、とっくにお見通しなんじゃないですか」
私が書いた、この文章の意図くらい。
僕は唇に笑みを刻んだまま、すっと目を細めた。
もちろん、分からないわけがない。君の考えていることなら、僕は手に取るように理解できてしまうのだから。
だけど……簡単にそう即答してしまうのは、いささかつまらない。
不意に生まれたのは、子供じみた悪戯心。
「さぁ、わかりませんね」
「先生!」
彼女が激高した様子で、椅子から立ち上がる。それからすぐに自分の浅はかさを反省したかのように、シュンと小さくなった。「ごめんなさい」と呟いて、もう一度椅子に座り直す。先ほどの扇情的な雰囲気とは打って変わって、それはさながら小動物のように可愛らしかった。
そんな彼女を見て、思わず零れる笑みを抑えきれず、僕はついクスクスと笑ってしまった。恨みがましげな視線に気づき、口元を押さえながら「ごめんなさい」と形だけの謝罪を入れる。
頭に手を乗せ、そのままよしよし、と撫でてやった。
「少し、いじめすぎてしまったようですね」
「っ……馬鹿」
「おやおや、先生に向かって馬鹿は失礼ですよ?」
彼女の頭から手を離すと、僕は少しだけ彼女との距離を詰める。わざと声を低くして、意味深に視線を向けてみせれば、もともと朱かった彼女の頬がさらに染まった。
「それで……どうなんです?」
もちろん、追及の手を止める気はさらさらない。このような彼女の頬を染める姿は艶やかで美しく、また動揺する姿は小動物のように可愛らしい。つまり、困らせれば困らせるほどに彼女は魅力を最大限に発揮するわけだ。
このようなことを考えてしまう自分は、相当に悪趣味なのではないかとも思うけれど……これも愛情の裏返しだと思ってくれればそれでいい。伝わるかどうかは、微妙なところだが。
彼女は真っ赤な顔でうつむくと、ぼそぼそと、小さな声で呟いた。
「――かった、から」
「え?」
彼女との距離をさらに詰め、聞き返す。意地悪ではなく、本当に聞こえなかったのだ。
意を決したように顔を上げた彼女は、思いの外近かった僕の顔に驚いたように一瞬だけ目を見開いた。けれどすぐに、少し潤んだ瞳に再び強気な光を宿す。それからまるでやけくそでも起こしたかのように、大きめの声で半ば叫ぶようにこう答えた。
「だからっ、寂しかったんです!」
予想外の言葉に、今度は僕の方が目を見開く番だった。
――寂しかった?
ただ単に、こうして逢引するための口実が欲しかったからじゃなくて?
「どうして……」
口を開きかけて、ハッとする。
こちらを一心に見つめる彼女の瞳は、先ほどと違って不安げに揺れていて……今にも、滴が零れてしまいそうだった。唇を噛む姿は、何かに耐えているようにも見える。
確かに、ここで彼女と『恋に落ちてみないか』と言ったあの日から、僕は彼女のことをほとんど構っていなかった。こうして彼女を呼び出して二人きりになったことだって、あの日以来今日まで一度もなかったのだ。
僕自身、仕事が忙しかったために構えなかったというのももちろんある。けれどそれ以上に、教師と生徒ということで、普通の恋人同士のように付き合うにはそれなりに他人の目を気にしなければならなかったし、彼女だって受験という一大イベントを控える大事な年だったから、どこかで遠慮していたのかもしれない。
僕なりに、彼女を大切にしたかったから。僕のせいで、不用意に傷つけたくだけはなかったから。
けれど……それが逆に、彼女を傷つけていたのだとしたら?
今まで何も言ってこなかったから、彼女はきっと僕がいなくても大丈夫なのだろうと思っていたけれど……本当は、ずっと我慢してきたのかもしれない。本心を、隠し続けてきたのかもしれない。
それこそ、あの紙に書かれていた句のように。
本心を隠し、耐えることに疲れたあまり、いっそ死んでしまいたいとさえ考えるほどに……いや、死んでしまいたいというのはさすがに大げさかもしれないけれど、とにかくそれほどまでに彼女が追い詰められていたのは間違いない。
膝の上で握りこんだ拳に力を込め、うつむいたままぷるぷると震えている彼女の手を取ると、そのまま自分の方に引き寄せる。座っていた椅子から離れ、僕の腕の中にすっぽりと収まった彼女の身体は、突然のことに驚いているのか、ガチガチに固まってしまっている。そんな背中を、安心させるように優しくポンポン、と叩いてやった。
彼女の身体から力が抜けたのを見計らうと、真っ赤な耳に唇を寄せ、吐息交じりに囁く。
「『春たてば消ゆる氷の残りなく君が心はわれにとけなむ』」
――春が来れば溶けて消えてしまう氷のように、あなたの心もすっかり私に打ち解けてほしいものですね。
「……っ」
彼女が息を呑んだのが分かる。何か言われる前に、僕は声のトーンを変えぬままさらに言葉を続けた。
「人の目もあるから、君が卒業するまでは色々連れ回したりできないけど……これからはできる限り、構ってあげられるようにする。だから、遠慮しなくていい。いつでも……こうやって、逢いに来てくれていいんだよ」
だって僕たちは……恋人に、なったんでしょう?
「先生……」
背中に華奢な手が回され、ギュッと抱き着かれる。小さな身体のぬくもりが愛おしくて、僕もまた、抱きしめる腕に力を込めた。
「ふふ。それにしても、君の方から行動を起こしてくれる日が来るなんて、思いませんでしたよ」
まぁ、かなり遠回しではありましたけれどね。
茶目っ気たっぷりな声と表情でそう口にすれば、顔を上げた彼女はむぅ、と不満げに唇を尖らせた。
「私だって……先生の敬語が抜けた言葉遣いが聞けるなんて、思いませんでした」
きっと、精一杯の意趣返しのつもりだったのだろう。
僕は小さく笑うと、黙って彼女の顎に手を掛けた。何かを感じたのか、彼女が真っ赤な顔でギュッと目を瞑る。
いい子だ、と小さく呟いて、そっと顔を近づけた。
思ひそめてん
一月も終わりに差し掛かった、ある冬の日のこと。
私たち三年生は明日から自由登校なので、今日は実質高校生最後の授業となる。数学、物理、体育など、どんどん終わりを告げていく授業と、終了直前に行われる担当教師たちの挨拶にしんみりとした気持ちになりながらも、私には密かに待ち望んでいたことがあった。
「次……七限目は、古典かぁ。これでホントに、高校で受ける授業は最後だね」
友人が何気なくといったように発した言葉に、そうだね、と半ば無意識に答える。
一つ、また一つと卒業の証が近づいてくるのを感じて、一抹の寂しさが胸を過ぎる。そして同時に、大人になることに対する――つまり、あの人に一歩近づけることに対する、喜びにも似た気持ちが湧きおこった。
自分の席で頬杖を突きながら、教卓をぼんやりと見つめる。やがて、授業開始のチャイムが鳴る少し前に、あの人が姿を現した。
「先生、それはなんですか」
前の方の席に座る一人の生徒が、先生の抱えるものを指さしながら尋ねる。
先生の手元に、よく見ると教科書らしきものは一つもなかった。代わりに、図書館で借りてきたかのようなハードカバーの太い本が数冊抱えられている。
先生はそれらを教卓にどさりと乗せながら、あぁ、と呟いた。
「今日の授業で使おうと思いましてね。上から順に古今和歌集、万葉集、後撰和歌集」
「あ、一番下は小倉百人一首」
「よく御存じで。……まぁ、後撰和歌集以外は名前ぐらい聞いたことがあるのではないかと思いますが、やはり小倉百人一首あたりが君たちにとっては馴染み深いでしょうか」
一番下の本――小倉百人一首を抜き取ると、パラパラとページを捲っていく先生。重厚なハードカバーに触れるしなやかな手も、伏せられた長い睫毛も、僅かに動く薄い唇も、途切れ途切れに聞こえてくる柔らかな声も……彼を構成する部分の一つ一つがあまりに精巧で、その姿につい見惚れてしまった。
そこで授業開始のチャイムが鳴ったので、先生はパタリと本を閉じた。それを今度は、積まれた本の一番上に乗せる。
「それでは始めましょうか」という声掛けとともに、学級委員の号令が教室中に響いた。私もまた、重い腰を上げ立ち上がる。
けれど視線だけは、相変わらず先生の方へ固定させたままだった。
「――というわけで今日は、恋の句をいくつか紹介していこうと思います。平安時代には、自作の歌に花を添えて贈るのが流行ったようです。気に入ったものがあれば、皆さんもぜひ告白のお供にしてみてください」
なかなかに趣があって、素敵ではありませんか?
そう付け加えた先生の笑みに、妙に意味ありげな何かを感じてしまった私は、少し考えすぎだろうか。
「最後なんですから、先生の恋の話聞かせてくださいよ」
「時間があれば、またあとでお話しますよ」
「やった~!」
野次のようにあちこちから飛んでくる生徒たちの声に笑みを零しながら、先生は再び小倉百人一首を手に取った。
「まずは小倉百人一首から。こちらは、かるたで有名ですね。皆さんの中には、一度遊んだことがあるという方もいらっしゃるのではないでしょうか。百首のうち、恋歌と呼ばれるものは四十三首あります。たとえば……」
先生の歌うような優しい声が、スッと耳に入ってくる。
「『筑波嶺の峰より落つる男女川恋ぞつもりて淵となりぬる』」
――筑波山の峰から流れる細い男女川も、やがては大きな川となり淵ができていくように、あなたを恋しく思うこの気持ちも積もりに積もり、やがては深い淵となっていくのです。
「筑波山とは、茨城県に位置する山。西側に位置する男体山と東側の女体山からなり、そこに流れる川が男女川です。川は上流から下流へ流れ、やがてふもとの方で深い淵ができる。詳細は既に理科で詳しく習っているでしょうが……ともかく、その様子に恋の想いを例えたのが、この句ですね」
「『由良の門を渡る舟人かぢを絶えゆくへも知らぬ恋の道かな』」
――由良の海峡を渡っていく舟の船乗りが梶を失くしてしまい、行く先もわからずただ水上を彷徨うように、自分の恋の道行きや行く末もどうなっていくのかさっぱりわからない。
「由良というのは、京都府にある由良川の河口のこと。門ととは海と川の出合う場所で、非常に流れが激しいところです。そんなところで梶――船を進め、方向を決める水かきのことですね。カヌーやカヤックを思い浮かべて頂ければわかりやすいと思います。それを失くしてしまったわけですから、当然乗った船はどこに行くか分からない。そんな様子に、自分の恋の道行きを例えた句です」
「『今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな』」
――あなたへの想いを諦めることにした、ということだけでも、人に頼むことなく自分の口から直接あなたに言うことができればいいのになぁ。
「この歌の作者である藤原道雅は、三条天皇の娘である当子内親王と恋仲にあったのですが、それを知った三条天皇の怒りを受け、失脚してしまうのです。その時に、当子内親王に贈った歌がこれだと言われています。昔は時代が時代でしたから、道ならぬ恋というのはよくあったようですね……ひょっとしたら、今より色恋が盛んだったかもしれません」
平安時代の恋を語りながら、どこか困ったように笑む先生は、いつもより艶やかな雰囲気を纏っているように見えた。
クスクス、と控えめな笑い声をあげ、「では、小倉百人一首はこのくらいにしておきましょうね」と、開いていたハードカバーをパタリと閉じる。それから次に、万葉集を手に取り開いた。
「では次は、万葉集。日本最古の歌集と言われる万葉集には、平安時代の和歌集よりも素直で力強い句が多いです。その中でも特に紹介したいのは、こちら」
「『あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖降る』」
――紫草の生える野を、あっちに行ったりこっちに行ったりしながらそんなことをなさって……野の番人に見られてしまうではございませんか。あなたが私に向かって袖をお振りになっているところを。
「『むらさきのにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我れ恋ひめやも』」
――紫草の色のように美しいあなたを憎らしいと思っているとしたならば、どうして私はこれほどまでにあなたを恋しいと思うのでしょう。あなたは恋をしてはいけない、人妻であるというのに……本当は憎いなどと思っていないから、このようなあなたへの恋心が出てくるのですね。
「有名かもしれませんが、天智天皇の妻となった女性である額田王と、天智天皇の弟にあたる大海人皇子の歌のやりとりです。実は昔、この二人は婚姻関係にあったのですが、別れているんですね。それでもまだ二人とも互いに未練があるんですよ……みたいな感じのことを、宴会か何かで茶目っ気たっぷりに歌ったのがこのやりとりなのだとか」
その場には天智天皇もいたらしいですが、そういうことをネタにできる辺り三人の信頼関係が伝わってきますね。
柔らかな笑みを浮かべ、先生はちらりと時計に目をやる。気づけば、授業の時間は残り半分となっていた。
「では、古今和歌集と後撰和歌集を軽く紹介して……残り時間があれば、僕自身が体験した恋の話でも少ししましょうかね」
フゥ~、と辺りから冷やかしにも似た声が上がる。そんな野次を受けても照れた様子は少しもなく、先生はあくまで上品な笑みを零すと、万葉集をパタリと閉じた。
「古今和歌集と後撰和歌集は、天皇陛下に贈るためにまとめられた勅撰ちょくせん和歌集という種類の歌集です。どちらかというと、情緒豊かで上品な句が多く揃っていますかね。それでも、当時の恋の様子は十分伝わってくるのですが……」
暗記しているのか、今度は本を開くこともなく、先生は目を閉じながらそらんじるようにいくつかの句を口にする。
「『夕暮れは雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人を恋ふとて』」
――夕暮れになると、ついぼんやりと雲の果てを眺めてしまいます。遠いあのお方のことを想って。
「この歌は、実は詠み人知らずなのです。つまり、誰が詠んだのか分からない。夕暮れの遠い空を見つめながら、その人が心に思い描いたのは……果たして男性なのでしょうか、女性なのでしょうか」
生徒たちが、物思いにふけるように目を閉じる。みんな、それぞれの想い人を心に描いているのだろうか。
私の想い人は今まさに、目の前で……教卓で穏やかに、けれどどこか熱っぽく、恋の歌を詠んでいるのだが。
「『わが恋を人知るらめやしきたへの枕のみこそ知らば知るらめ』」
――私が恋していることを、あの人はきっと知らない。知っているのは、涙に濡れたこの枕だけ。
「『あひ見しもまだ見ぬ恋もほととぎす月に鳴く夜ぞ世に似ざりける』」
――思いを遂げられた恋にも、遂げられなかった恋にも。すべての恋には、ほととぎすが月に鳴くこの夜こそふさわしい。
「『我が恋にくらぶの山のさくら花まなく散るとも数はまさらじ』」
――暗部山の桜の花びらがどれほど絶え間なく散り続けたとしても、私の散らした恋の数にはきっと比べようもないだろう。
「暗部山とは、京都府にある鞍馬山の古名だという説がありますが、『くらぶ山』という言葉自体が歌枕……つまり、和歌でよく使われる言葉の一つのようです」
「『はかなくて同じ心になりにしを思ふがごとは思ふらむやぞ』」
――頼りない気持ちのまま、夢うつつのうちに私たちは心を一つにしたわけでございますが、私があなたを想うほどにあなたは私を想ってくださるのでしょうか。
「『わびしさを同じ心と聞くからに我が身をすてて君ぞかなしき』」
――私が感じているこの胸の苦しさ、切なさを、あなたも同じように感じているのだとお聞きしては、もはやこの身がどうなろうとも、ただただあなたのことが愛おしくてたまらない。
「この二つの句は、中務と源信明という二人の男女の間でやりとりされたものです。きっと、上手く互いに気持ちが伝わっていないうちに二人は一夜を共にしたのでしょうね。ふと不安を感じて恨みがましげな句を贈った中務に、信明はどうしようもなく愛おしさを感じたのだと思いますよ。……まぁ、このあたりは僕の推測なのですが」
そこでふと時計を見る先生。授業終了まで残り数分となっているのに気付き、「少し語りすぎてしまったようですね」と苦笑するのが、なんだか可愛らしかった。
「では、最後に僕自身のお話を」
フゥ~、と再び沸き起こった野次に、ふふ、と先生がどこか悪戯っぽく笑う。
「僕は、かつて百人一首の恋歌の一つを使った告白を受けました。確か『私のあなたに対するこの想いを、あなたはきっとご存じないのでしょうね』といった内容だったと思います」
言いながら、ちらりとこちらへ向けられた流し目があまりに妖艶で、ドキリと心臓が跳ねた。顔が赤くなっていないかと、心配になってしまう。
「それで、先生はどう返したんですか?」
クラスのお調子者系の男子が、テンション高く投げかけた質問に、「んー」と先生は少し考える仕草をした。あの日のことを忘れてなどいないくせに、わざともったいぶったようなその様子が、なんだか憎らしい。
「僕も、句で返したかと思いますね。千載和歌集に載っていた句で、『あなたと恋に落ちるのも悪くない』といったような内容です」
「あやふやだなぁ。具体的には、どんな句のやりとりをしたんですか?」
「隠さないで、全部教えてくださいよ」
「隠したつもりはないのですが。結構前の話ですからねぇ……」
そこで、ちょうど見計らったかのようにチャイムが鳴る。先生はしてやったりというようににやりと笑うと、「では、授業はこれでおしまいですね」と勝ち誇ったように言った。
えぇ~! という不満げたっぷりな声が上がる。そんな彼らに先生は「嘘はついてないでしょう?」と告げた。どうやら、もうそれ以上のことを話す気はないらしい。いまだにドキドキは治まらないけれど、あのことを全部バラされなかったことに少しだけホッとした。
「じゃあ、最後に預かっていたノートを返却しますよ」
ブーイングの嵐の中、先生は飄々とした態度で、一人ずつにノートを返していく。一人一人の席へと歩き、一冊ずつ机にノートを乗せていく先生を、私はぼんやりと眺めていた。
やがて、私のノートを持って先生がこちらへやってくる。ノートを机に乗せられた時、ちょうど顔を上げると、先生と目が合った。
ニヤリ、と意味ありげに笑まれて、落ち着いていたはずの心臓が再び早鐘を打ち始める。
「中身、確認しておいてくださいね」
私にしか聞こえないぐらいの声で小さく告げると、先生は他の子のノートを配るために、ゆったりとした足取りで立ち去って行った。
パラパラ、とノートのページを急いで捲っていく。一番最後に書いたページの端に目をやると、業務連絡風に『放課後、司書室へ』という何ともそっけない一言が書かれていた。
言葉の意味を咀嚼しつつ、緩む頬をどうにか押さえながらノートを閉じようとして……ふと、手を止める。次のページにも、何やら文章が書かれているような形跡があったのだ。
不思議に思い、ページをパラリと捲る。そこに書かれていたものを見て、私は大きく目を見開いた。
真っ白なページの真ん中に、やたらと大きく書かれていたのは、可愛らしい一輪の花のイラストと、先ほどは紹介されなかった新たな三十一文字。
『飛鳥川ふちは瀬になる世なりとも思ひそめてん人は忘れじ』
――飛鳥川の淵が瀬になるという、変わりやすい世の中とはいっても、好きになったあなたのことです。決して忘れるはずなどありませんよ。
いつの間にやら全員分のノートを返却していたらしく、教室から出ようとしていた先生は、案の定生徒たちから次々と質問攻めにあっていた。それでも追及の手をのらりくらりとかわしていく彼は、相変わらずだと思う。
そんな先生を見つめながら、私は音もなくノートを閉じると、そっと腕に抱きしめた。
恋文