レモン(三大噺)
小学五年生にもなると、クラスの中での力関係もはっきり理解できるようになるし、自分がどの位置にいるのかもわかる。だから、ユリちゃんが「かくれんぼしよ」と言ったとき、ああ、また今日もユリちゃんと遊ばなきゃいけないのか、と思った。
かわいくて、勉強もできて、服も人気のブランド物を着ているユリちゃんは、クラスの中でボス的な存在だった。明るくって、いつも先生に褒められているし、クラスで話し合いをするときだって、真っ先に手を挙げる。みんなユリちゃんと仲良くなりたくって、何かをするときはいつもユリちゃんを誘うし、ユリちゃんがみんなに声をかけたときは、絶対にその意見が通った。だから今日も、ユリちゃんがかくれんぼをすると言ったら、絶対にしなきゃいけないのだ。
かくれんぼは、いつも学校の裏山でやっていた。裏山は学校の名前から、光の森と呼ばれていた。名前はピカピカしているけど、実際に入ってみるとそんなことはまったくない。光の森は校舎の北側にあって、校舎側から入ると急な傾斜になっている。木がたくさん生えていて校舎の影もあるから、太陽の光はあまり入らず昼でも薄暗かった。
「光の森」と書かれたアーチをくぐって森の中に入り、昔の生徒が作ったという木の階段で下に下りていくと、すぐに緑のフェンスにぶつかって、左右の道に分かれる。右にいけば、急な上り坂になり、木にくくりつけて垂らされているロープを使わないと、上にあるブランコのところにまではたどり着けない。ロープを使わずに登れるのは、六年生の人たちだけだ。それもほんのちょっとしかできない。左に行くとまた二つの道に分かれる。左にはそのまま校舎の方に行ける階段があり、右はでこぼこした崖がある。その崖は、木の根っこがたくさん突き出ていて、それを掴んで崖の上に登ることができる。いくつかのルートがあるけど、私は一つしか知らない。かくれんぼをするときは、みんなこの崖の周りにかくれることが多い。上から鬼が来たら、下に急いで逃げればいいし、下から来たら、上に行ってぐるっと回って逃げられる。見つかったらもうそこでおしまいだけど、いつも途中からかくれんぼじゃなくて鬼ごっこになっているから、鬼にタッチされるまでみんな逃げ続けている。ユリちゃんは絶対に鬼にならない。
じゃんけんをして鬼が決まると、みんな一斉に逃げ出した。なんでグーを出してしまったんだろう。少し後悔をしながら、私は木に手を着いて三十秒をゆっくりと大きな声で数えはじめた。
「もーいーかぁい」
顔を伏せたまま言うと、どこからか「まーだだよー」という返事が聞こえた。だから、もう一度叫ぶ。二回ほど繰り返して、やっと「もーいーよー」と返ってきた。
顔を上げると、少し目がちかちかした。辺りを見渡すと、みんながいなくなったから、なんだか光の森が少しだけ広くなったように感じた。うるさい蝉の声も、なんだか遠くなったような気がする。
声は右の方から聞こえてきたから、最初はそっちを探してみることにした。ロープを掴んで上に登ろうとすると、慌てたような声が聞こえてきて、「早く! 早く!」と駆けて行く音がした。ミチコちゃんとユウナちゃんの声だとすぐにわかった。
ブランコのところにたどり着くと、二人が光の森の隣にある畑に行くのが見えた。そこは三年生が野菜を育てている畑で、そこを抜けると校舎の東側に出られるのだ。このまま追えば、きっと二人に追いつくこともできるけど、鬼の私はこの森から出ることはできないから、私は諦めてまたロープを使って下に下りた。そして、今度は左の崖のある方に行ってみる。上に登るルートは一つしか知らないけど、きっとそこにユリちゃんたちはいるから、誰か一人は捕まえられるかもしれない。
「わっ、来た、来た!」
「こっち! こっち!」
バタバタと足音がして、後ろ姿がいくつか見えた。みんな上にいたようで、すごい勢いで散っていく。崖を登り切ったときには、もう誰もいなくなっていて、崖の下で笑い声を上げながら走っていくのが見えた。先頭を走っているのは、ユリちゃんだ。
こんなの、絶対に無理だって言ったのに。鬼は二人にするべきだった。私一人じゃ、絶対にみんなを捕まえることはできない。一生懸命登ったから、暑くて仕方がなかった。木にもたれてしゃがみ込み、少し前のめりになると、おでこから汗がぽたぽたと落ちた。黄土色の土がこげ茶色に変わったところを見つめていると、胸がきゅうっと痛くなって、涙が出そうになった。
靴でこすって汗の跡を消して立ち上がったとき、目の端に黄色いものが見えた。そちらに顔を向けると、鮮やかな黄色が木の向こう側にあった。遠くてよく見えないが、それはレモンのように見えた。
途端に唾がでてきて、ごくりとそれを飲み込んだ。ずっと前に家族でレストランに行ったときのことを思いだした。お父さんが頼んだ唐揚げに、ここから見えるのと同じ黄色のレモンがついていて、すごく美味しそうに見えた。食べてみたいと言うと、お父さんが少しにやにやしながら手で取ってくれた。その笑いの意味が最初はわからなかったけど、レモンを唇で挟んだ瞬間、その意味がすぐにわかった。あまりの酸っぱさに目をぎゅっとつぶった私を見て、隣にいたお母さんも笑った。
あのときの味が口に広がったような気がして、私は目を細めた。みかんよりも酸っぱくて、びりっとするような味だったけど、もう一度試してみたかった。だけど、またお父さんとお母さんに笑われるんじゃないかと思って、レモンを食べたいとは言い出せていなかったのだ。
あそこに、きっとレモンの木があるのだ。昔、この小学校にいた人が種を植えたのだろう。あそこにレモンの木があるなんて、誰も言っているのを聞いたことがなかったから、見つけたのは私が最初だ。ユリちゃんも知らない。レモンを取って戻ったら、みんなきっとびっくりする。かくれんぼなんてやめにして、みんなでレモンを取りに行くことになるだろう。
みんなを放っていくことに少し迷ったけど、やっぱり最初に見つけるのは一人の方がいいと思って、私はレモンの木の方へと進んだ。崖はでこぼことしていて、下に落ちてしまわないかすごく怖かった。いつも自分が通っているルートとは違って、いつもユリちゃんたちが通っている方から下りたから余計だ。そのルートの途中で、木の根っこを掴みながら、もう一つの崖に伝うことができるから仕方なかったのだ。そっちの方には、みんなあんまり行かない。先生から、ハチの巣があって危険だからやめろ、と言われたからだ。ユリちゃんはハチの巣がどこにあるか知っていると言っていたけど、ちゃんとした場所は教えてくれなかった。
もう一つの崖に行くと、私は慎重にそこから下の草に飛んだ。膝と手を着いてしまったけど、少し汚れただけで怪我はしなかった。レモンの黄色がさっきよりも近く見えて、嬉しくなった。一個くらいなら、ポケットに入れて持って帰れる。みんなに見せた後、家庭科室の包丁を借りて、みんなに食べてもらおう。きっとみんな酸っぱくてびっくりする。ユリちゃんも、酸っぱさに目をつぶってしまうはずだ。
草をかき分けて、私は奥へと進んだ。光の森の更に北は田んぼがあって、その真ん中に下水処理場がある。違う道からそこに行ったことはあったけど、光の森から行くのは初めてだった。きっとみんなも行ったことのない場所に、私が初めて行くのだ。草木をかき分けて、いつ出てくるかわからないヘビやハチを恐れながら、勇敢に進んでいくのだ。まるで自分が冒険家になったような気分だった。
黄色はぼんやりと浮かんでいた。私は夢中になってそこを目指した。そして、あと十メートルほどになって、ようやくその黄色の正体がわかったのだった。
それは、ただの注意書きの看板だった。真ん中に黒い文字で「キケン」と書かれた、通学路でよく見るものだった。所々欠けており、薄汚れたその看板は、ひっそりとそこにあった。弦に巻かれて、もはや自然と同化しているように見えた。
黄色の正体がレモンじゃなかったことがわかると、私は少しの間茫然としてその場に立ち尽くした。もう、近づいてみることさえしなかった。今すぐ戻ろうと思った。いつの間にか日が暮れてきていて、森の中はかなり薄暗くなっていた。あんなに鮮やかに見えた黄色も、今はもうくすんで見えた。
ついさっき通ってきたばかりなのに、知っている道に戻るまではとても長く感じた。その間にもどんどんと暗くなってきて、周りが見えづらくなっていった。木の枝で腕を引っ掻いても、何かのトゲが足に刺さっても、私は一心不乱に走り続けた。後ろから何かが追ってくるような気がして、一度も振り返らなかった。崖も飛び越えて、やっと光の森の入り口に着いたとき、ぶわっと安どの波が押し寄せてきて、涙が出てきたのだった。
そのとき、校舎の方からたくさんの人が走ってくるのが見えた。懐中電灯を持って「林田!」と叫んだのは、担任の真壁先生だった。その後ろに、引きつった顔をしたユリちゃんやミチコちゃんたちがいて、みんなも私の名前を呼んだ。
「どこに行ってたんだ! さっき時沢たちからお前がいなくなったって聞いて、急いで探しに行こうと思ってたんだぞ!」
そう言って、真壁先生が私の肩をゆすったので、私はまた泣いた。すると「よかった、よかった」と先生が優しい声で言ってくれたのだった。
「チエミちゃん、どこ行ってたの? すっごい探したんだよ!」
「そうそう、かくれんぼの途中でいなくなるんだもん。ずっと捕まえにこないから、先に帰ったのかと思った」
「どこにいたの? ずっと光の森の中にいたの?」
口々にそう言われ、私は困ってしまった。まさか、レモンの木を見つけたからとは言えない。あれはレモンの木でもなんでもなくただの看板で、それを言ったら絶対にみんなに馬鹿にされてしまうからだ。だけど、上手い嘘も思い浮かばず黙っていたら、真壁先生が、「林田はずっと鬼で、みんなを探してたんだよな。お前は必死になると、そういうところがあるからな」と言ったので、私は赤くなってうつむいた。
それから体育館の渡り廊下のところに置いてあったランドセルを背負って、下校することになった。校舎の真ん中にある時計を見てみると、まだ完全下校時刻にもなっていなくて、運動場で遊んでいる人たちもたくさんいた。もうすっかり日が落ちてしまったと思っていたのに、それは光の森の中だけだったようだ。
「チエミちゃん、行くよ」
ユリちゃんに呼ばれて、私は少し走った。私がいなくなったから、ユリちゃんはきっと怒っているのだと思ったのに、ユリちゃんは普通にミチコちゃんたちと今日のテレビの話をしていた。
ユリちゃんたちの後ろをついていきながら、足元を見ると、靴下に大量のくっつきむしがついていた。とげとげのやつもついているし、三つや四つに連なった、取りにくいやつまでついている。家に帰ったら、きっとお母さんに怒られるだろう。これをすべてとるまでは、家に入れてもらえないはずだ。
「チエミちゃん!」
立ち止まってくっつきむしを見ていた私に、少しイライラした声でユリちゃんが言ったので、私は「ごめん」と言ってユリちゃんたちに追いついた。けど、隣に並ぶことはしなかった。少し後ろでユリちゃんの黄色いランドセルを眺めながら、私は歩いた。
「レモン」
そう小さく呟くと、口の中にあのびりっとした酸っぱい味が広がった。
おわり
三大噺「北」「レモン」「憂鬱な遊び」
レモン(三大噺)