骨の音

 骨を鳴らすのは危ないと、整体の先生が言う。
「運が悪けりゃ、歩けなくなるよ」
 骨の声を聞いていたのだと、彼女が言う。
「時々聞いてあげないと可哀相な気がして。だってどうしようもなく必要なのに、表に出ることを歓迎されない存在だもの」

「態々音を立てなくても、耳を澄ませてみたら骨の声はちゃんと聞こえるのに」
「――先生はそうやって骨の声ばっかり聞いてるから、どこまでも先生なのよね」

 先程彼女が軒下に吊っていたてるてる坊主には骨がある。骨格標本のおもちゃに布を被せて拵えたそうだ。吊るための紐は頭頂部。首でなくて良かったと、心の底から安堵した。
 掌サイズのその骨に果たして御利益はあるのだろうか。風が吹けばからから鳴る、これが骨の声なのだろうか。
 カウンターを回り込んで彼女が座る指定席。体重を受けて椅子が鳴る。ぎい。これは椅子の骨の音なのだろうか? だけど誰一人、その音に注意を払わない。彼女の背中は真っ直ぐだ。青竹みたいに真っ直ぐだ。
 海を渡り熊笹を潜ったみどりの風が、ブラインドを抜けパキラを揺らして彼女の手元の書類を捲る。てるてる坊主の骨が鳴る。
 至る所であらゆるものの骨の音。



「あんたもう先生のおヨメに貰ってもらったらいいよ、カヨちゃん」
老婆は言う。電気治療器のコードに絡め取られている老婆。顔見知りの他人は、本当に顔と名前しか知らないが故にこういう気楽なことを言う。
「だめよ、先生のカノジョはあれだもの」
彼女――カヨちゃんは、待合室近くに置かれた骨格標本を指して言う。
「あら、あれ女の子なの」
「そう、女の子みたいね」
 カヨちゃんの椅子は、診察券やカルテの詰まった棚、電話やFAX、パソコン等がのった棚、私物の置かれたラックや、カウンターの下の小さな机などに埋もれてちんまりしている。椅子の上にはぺたんこのクッション。カヨちゃんのジーンズの下で褪せたオレンジの花柄が潰れている。
 書類に紛れて、都市部の地図と求人情報誌が並ぶ。



 老婆の台詞はカヨちゃんを少しだけ傷つけた。少し――例えば窓枠を掃除していてちくりと棘に指先を刺されたくらい。きっちりその痛みの分だけ、カヨちゃんは先生のことが好きだった。
 先生はカヨちゃんより六つ年上で、カヨちゃんは来年三回目の年女である。
 一度か二度、先生の胸に抱かれることを想像した。時々お醤油の染みがついている白衣。短い爪と厚い掌。もじゃもじゃしている太い腕。がっちりした体格と、少しだけ丸い背中。想像するたびカヨちゃんは思った。熊に抱えられるのと大差ないのかもしれない、と。
 


 カヨちゃんはそれから半年経たぬうちに集落を出た。そして、三年後、抜け殻のようになって戻って来た。
 カヨちゃんは、明るくけらけら笑うカヨちゃんではなくなっていた。よく喋りよく食べよく飲むカヨちゃんでもなくなっていた。帰ってきたカヨちゃんはいつも、淋しそうに口元だけを三日月にして、相槌代わりに微笑んだ。

 別人のように淋しげで頼りないカヨちゃんを、先生はお嫁さんにした。



 夜。戸締りをした診療所の二階に灯りが点ってまた消える頃、カヨちゃんの姿がベランダに現れる。影のように、煙のように、音もなく。カヨちゃんのおなかははっきりそれとわかるくらいに大きく膨らんでいる。
 カヨちゃんはただじっと、ベランダで耳を澄ませている。
 カヨちゃんは音を聞いている。波に揺れて傾いだ船の、骨が軋む音を聞いている。海風に嬲られる木々の、悲鳴のような音を聞いている。引き戸の向こうで眠る先生の、微かな鼾を、背骨の音を聞いている。

 カヨちゃんの耳にはきちんと骨の音が聞こえている。
 だけどひとつだけ、どうしても聞こえない音がある。
 そしてそれは聞こえないほうがいい音なのだと、カヨちゃんは知っている。

骨の音

骨の音

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-21

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