秘密

ありゃ、いつのことだったけか。


 落ち葉の降りしきる林のなか、背中を丸めて、一人しゃがみこんでいた。

 茸採りに夢中になって、いつの間に山の奥まで入り込んでいたのやら、ふと気がつくと、辺りには獣道さえ見当たらない。自分が今どこから来たのかも分からなくなっていた。
 木枯らしは骨までひびく。風が吹くたび、鼻の奥と、身体の芯がキンキン音を立てて痛んだ。山の冷気に当てられて、身体が強張ってうまく動かなくなってしまった。あかぎれだらけの手足は、もう感覚がない。
 じきに、日が暮れる。このままいたら、ほんとに帰れなくなる。
分かってはいても、立ち上がれないほどに背中の籠はずっしりと重く感じられて、ひもじいやら寒いやら心細いやらで、震えながら泣いていた。
と突然、

「なんで泣く」

 頭の上から声がする。見ると、いつの間にやら、目の前にゆうに六尺はある大狐がいて、こちらを見下ろしていた。あんまり驚いたので声も出ない。すると、狐はもう一度訊いてきた。

「なんで泣く。」
「…は、腹が減ってせつねえのだ」
「腹、くちくなったら、泣かねえか」

 腹が満たされたところで家には帰れないのだけど、回らぬ頭でただうなずいた。狐は少し首をかしげて、

「したら待ってろや。」というなり、林の奥に消えてしまった。

 風がざあざあ、と鳴る。途端に、怖くなった。さっきまでの疲れもどこへやら、思わず立ち上がったところに、なにか上からばらばらと降ってきた。頭に当たったそれを拾い上げる。見ると、干し柿だ。
狐が、降らしたんだか。周りに落ちている干し柿を二,三個拾い集めて、かぶりついた。柿は身体を冷やすんだが、そんなこと気にしていられなかった。柿の甘さが身に染みて、なんでかまた涙が出てきた。

「今度は、なんで泣く。干し柿、やった」

 狐だ。また、知らないうちに近くに座っていた。今度は頭が働いた。

「干し柿、ありがとう。んでも、今度は寒くて涙がでんのでがす。うちさ帰りたいのだけど、道がわかんねのだ。おめさま、里までの道わがっぺか」

 狐は目を細めて歯茎をむき出しにした。獣がこんな顔をするときは威嚇しているのが常だけど、もしかしたらこの狐は笑ったのだったかもしれない。

「ただでは嫌(や)んだ」
「ぼた餅届ける。稲荷ずしもやろう。必ず、山までお礼さくっから」
「嫌んだ嫌んだ。…んだ、おめえがおれんどこに嫁っこさ来るならいい」
「嫁?」

困ってしまった。なんだって狐が人間の嫁など欲しがるのだろ。

「…えと、おれ、わがんね。」
「今ではねえさ、おめえが年頃になったら迎えに行ぐ」」

近所の姉さま達は十五,六で嫁にいく。だったらまだ何年かはある。とりあえず父ちゃんに相談すれば、きっとそれまでになんとかしてくれる。とにかく早く家に帰りたい一心で、よく考えもせずにうなずいた。すると、狐は目を見開いて飛び跳ねはじめた。なにしろ大きな体をしているものだから、そのたびに風が巻き起こる。舞う枯葉で上も下もわからなくなるほどだった。しゃらしゃら、狐の毛が擦れ合って鳴る。

「ほんでは、里まで送って行ってやろう。」

 細い月が、紫色の空に浮かんでいた。だんだんと夕闇が迫ってくる山の中で、先を歩く狐の姿を見失なってしまうんじゃないかと怖かった。なにしろあっちは獣だから歩くのが速いのだ。けれど、その心配はなかった。不思議なことに、狐の赤茶色の毛の一本一本がぼんやり光っていたのだ。少し離れてみると、ホタルが寄り集まって狐の形をしているみたいに見える。
ようやく分かる道に出て、里の明かりが見えてくると、急に元気が出てきた。思わず駈け出してから、ハッと後ろを振り返ると、もう狐の姿はなくなっていた。
 息せき切って家に帰れば、家の者に、帰りが遅かったことをしたたか叱られた。山で迷って狐に送ってもらったというと、今度は笑われた。夢でも見たんだべ、いまどき狐に化かされるなんて。終いには呆れられて、相手にしてもらえなくなった。あんまり言い張っていると、気味悪がられて大人がこそこそ相談し始めたので、それきり口にしなくなった。



「んだなあ、確か十になるかならないかの頃だったべか」
「ほんで、ばあちゃん、どうなったの?」

婆さまの膝の上で、今年六つになった千代(ちよ)が訊く。

「どうもしねえよ。それきりだ。」
「狐の嫁になった?」
「したら今ここにはいないべな。」

 婆さまはそう言ってほんのり笑った。

 暖かい日差しが差し込む縁側で、千代はいつものように婆さまに昔話をせがんでいた。足が悪い婆さまの膝に乗るのはよくないことだと普段は母ちゃんに叱られるが、今はみんな出払っているので平気だ。婆さまが子供の時分にあった本当のことだという昔話の数々は、たいてい婆さまの脚色が加えられていて(なにしろ聴くたび話の筋が違う)、その晩なかなか寝付けなくなるほど面白い。
今日の婆さまは、話し終わって少し疲れたのか、それきり話を止めてしまった。なんで狐は来ねかったのかなぁ、みんなに信じてもらえなくて悲しかったべなあ、と小さな千代は小さな頭で考えた。
カラスが群れをなして、山の方に飛んでいくのが見える。そろそろ夕方だ。大きな咳が聞こえた。近所の寄り合いから帰ってきたらしい爺さまが、道端に痰を吐きつつ、こっちに向かって歩いてきた。縁側に座っている千代と婆さまをみて、

「いい場所とったなあ、千代」と笑った。
「二人で日向ぼっこしてたのか」
「うん」

 千代はうなづいて、お土産をせがんだ。爺さまは懐から煙管と金平糖の入った紙包みを取り出すと、包み紙の方を千代の手に乗せてくれた。自分は隣に座って煙管に煙草を詰める。

「今日はどいな話してもらってたんだ」
「ばあちゃんがな、小せえ頃に狐に会ったんだど。ほんでな、嫁っこさこいって」

 爺さまは何度か小さくうなづくと、

「おめえはその話すんのが好きだなあ」と婆さまに向かって苦笑いした。
「おれが一緒になろうって言ったときも、『狐と約束したから駄目だ』つって断るんだものな。びっくりしたっちゃ」

 隣の婆さまは何も言わずに千代の髪を梳く。

「狐がきたら追い返してやるって説得したが…。童ができてからも何年かは、狐にひかれるんじゃねえかって本気で心配してたもんだった」

 少し呆れたような口調で話す爺さまになんだか腹が立って、千代は怒って聞いた。

「じいちゃんは、ばあちゃんのこと信じてねがったの?」

  爺さまが煙管を銜えたまま目を丸くした。婆さまは千代がどうして怒ったのか分かったようで、優しく言う。

「千代、ほんでもなあ、じいちゃんはばあちゃんのこと笑ったりしねがったよ。気味悪がったりもしねがった」
「それはおめえ、あんまり真剣な顔で話しすっからよ。まあ、獣が人間様を化かすだの嫁取りするだのは迷信だけんど、童の時分は夢と現をよく取り違えるもんだからよ」

 それって結局、婆さまの言うことをまるっきり信じていなかったということじゃないか。千代はやっぱり釈然としなかったが、婆さまはそれでいいようだった。


「ほんでも、仲間にゃよくほら吹きだの言われたっけ。よくそんな娘っ子を嫁にする気になったごだ。おめえは昔っから変っとる」
「別に嫁にすんのに不都合あったわけでねえしよ。働きもんだったからな」

 爺さまが気の抜けたようにぷかり、と煙を吐き出した。
 冷えてきたな、といって婆さまが手水に立ったすきに、千代は爺さまの膝の上に移動した。千代は爺さまの煙管の匂いが好きなのだ。爺さまは盆に灰をぽんと落とすと、その動作と同じ調子で千代に言った。

「俺も、一度だけしゃべる狐に会ったことがある」

千代は驚いた。「いづ?」

「さあて五十年がとこ昔だったか」
「どいな狐?婆さまの狐とおんなじやつだった?んで、んで、爺さまはなじょしたの?」

「殺して、煮て、食った。嫁取りの約束は俺が先だなんぞ、畜生の分際であんまり生意気だったでな」

 あっさりしたものだった。6つの千代がなんとも返せずにいると、爺さまは、婆さまには決して言うなよ、と獣のように歯肉を剥きだして笑った。

秘密

秘密

  • 小説
  • 掌編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-21

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