蝉の声。

晩年、祖父はよく言っていた。
故郷の裏山に行きたいと。



祖父は長年の闘病生活に、ついに折れてしまった。
凛と伸びていた背筋は、さて。どのくらい見ていないのだろうか。
今や思い出すことも難しい。
私たち家族を支えてくれていた太い手足は、いつの間にか枯れ木のように痩せ細り。ついさすると、記憶と感触の差異に涙がうっすら浮かんでしまう。
私たちのわがままのせいで、すっかり無理をさせてしまったのだと、手を握る度に感じる。
抗癌剤と手術の繰り返し。
祖父はみるみるうちに、やつれていってしまった。
知識は一つもいらない。
カンでわかる。
祖父の死期は近い。



「お爺さん。すっかり春になったね」
窓の向こう側ばかりを日がな一日、眺めている。
その横顔は外に焦がれているのではなく、どちらかと言えば絵画を眺めているような顔だ。
祖父にとって、窓の向こう側はもう、現実ではないのだろう。
「お爺さん、何か食べたい物とか欲しい物はある? 桜餅でも買ってきましょうか?」
「いや、それよりも裏山に行きたい」
「裏山? お花見をしたいの?」
「いや……」
蝉を捕まえに行きたいんだ。
祖父は小さくそう呟いた。
5年前に亡くなった祖母が、時々言っていた。祖父と幼い頃、蝉を山に捕りに行っていた、と。



満開だった桜は舞い散り、早朝の肌寒さも、夜の帳とともに降りる温度もなくなり。
ゆっくりと季節は移ろってゆく。
暦は五月。
時はあっという間に刻み。
いつの間にか六月。
湿気が煩わしくなり、週の四日は雨ばかり。
紫陽花の花は咲き乱れ、葉上の雫が艶やかに輝いている。
鬱蒼と生い茂る山々は緑色の原色に染まり、なんとも若々しい。
蝉の声はまだ聞こえない。
祖父は時の移ろいとは逆行して、徐々に徐々に意識のある時間が短くなってきた。
眠りから目覚めている時間は少なく、そして若かりし頃に意識は退行していく。



「珠、珠子。蝉を捕りに行こう!」
俺は納屋でつまらなそうに不貞腐れている珠子に、小さな声で呼びかける。
なんでも、朝寝坊して畑仕事をすっぽかしてしまったらしい。納屋に放り込まれて反省中だ。
せっかくの夏休み。
こんな狭苦しくて暑苦しい所で宿題をしてても、捗りはせんさ。
俺はこっそり忍び込んで珠子の腕を掴んで引き起こす。
三角座りをしていたもんだから尻がまっ黒だ。俺はぱんぱんと払ってやる。
「なにすんじゃ!」
親切にしてやったというのに顔を張られる。
「ほれ行くぞ」
腕を引いて納屋から飛び出す。後ろから珠子のオッカアが叫んでいるけれど、まぁ後で謝ればいいだろう。頭を引っ叩かれるだけだ。
せっかくこんなに晴れているんだ。野山を駆け回り、沢で水浴びして、魚を釣り、焼いて食べて、山菜でも採ろうじゃないか。土産を山ほど持って帰れば許してくれるさ。
納屋でじっとしているだなんて、勿体無いだろう。
僕らは腕を繋いだまま駆け抜ける。
夏風が身体に巻きついて鬱陶しい。湿った風は重たいけれど、それでも山に入ればマシになる。それまでの辛抱だ。汗は後で、水浴びすれば良い話さ。気にせず走ろう。
今だけの時間を。



「オッカアが最近うるさいんじゃ」
珠子は釣りをしながら愚痴を流す。そんなに流していると、垂らした糸を伝って針まで届くだろうよ。餌はいらないんじゃないか?
「お淑やかにせんと、嫁の貰い手みつからんよ」
オッカアの物真似をして、一人で盛り上がる。糸に八つ当たりをしてぶんぶん揺らす。昼飯捕れるだろうか。
「家の手伝いもせんと外で泥だらけんなるまで転げまわって、鼻っ面におっきな傷つけて帰ってくんし」
お前は小僧かー!!、と最後は心のままに叫んで小芝居を締めくくる。
「好きで女に生まれたわけじゃないわい! こんな小言言われるんなら、アタシだって男が良かったわい!」
竿を勢いのまま振り上げて針が飛び上がる。ミミズが千切れて宙を待って、どこか彼方へ飛んでいった。
俺は大の字で全身で不満を表現している珠子の手から竿をもぎ取り、ミミズを付け直して川に垂らす。
「無視すんな!!」
背中を蹴られた。
「おわっ」
竿ごと川の中に落ちた。
「アタシの不満を晴らさせろ!!」
珠子が俺を目掛けて飛びかかってくる。
俺はそれを受け止めようとしたけれど、見事に潰された。
深くない川なんだから仕方がない。
「おりゃあ!!」
意趣返しに持ち上げて投げ飛ばす。
珠子は軽いもんだから簡単に持ち上がる。お姫様抱っこをして、振り回して、川に投げ入れる。
それでも何度もは無理で、珠子も疲れて、二人で川にぷかりとぷかりといつの間にか浮かんでいた。
「誰も珠子を嫁に貰わんでも、俺がもらっちゃる」
返事はない。
「だから心配すんな」
返事はない。
「むしろ、どこにもいくな」
返事はない。
代わりに冷たい川の水が降ってきた。
冷たい川の水は、真夏の太陽の光に反射して、きらきらと綺麗に輝いて、虹色がわずかに映り込んで。
すぐに俺の顔にかかる。
「阿呆なこと言ってんな。魚釣って昼飯にすんよ」
珠子はさっさと岸に上がって、俺に手を伸ばす。
赤くなった顔は夏の暑さか、それともはしゃぎ回った故か。
俺は伸ばされた白く透き通った小さな左手を掴み、引っ張る。
うわぁと色気からはまだ程遠い珠子の悲鳴が耳に残る。
俺は落ちる前に抱きかかえる。
「俺は本気だぞ」
そう言って、初めての口づけをしてしまった。
勢いで。
珠子は冷えた腕を首に回し、俺から離れようとしなかった。
離れようとは、しなかったんだ。



十四の夏。
あの頃が一番無邪気だったのかもしれない。
気が付けば、俺も珠子もいつの間にか大きくなって、珠子は子供の頃よりもますます綺麗になって。
夏になっても二人で野山に行くことはなくなった。
暑い。
強い日差しが容赦なく降り注ぐ。
ふと後ろを振り返る。
小さな裏山がぼやけて見えた。
あの頃はまだ裏山を山と感じるくらいには大きく見えて、それでも俺と珠子が大人になる頃にはそれが実は錯覚だったと気が付いてしまった時、それが子供の時間の終わりだったような気がする。
二七歳。俺は気が付けば教師になっていた。
そして、珠子は嫁いでいった。
両親の勧めに押されてお見合いをして、東京の家に。
俺はまだ独り身で。
あの夏を忘れられず。
あの日の熱病じみた喉の渇きと胸の熱さを時々思い出して、叫び喚き散らしたくなる。
でも、それが出来ないくらいの大人に、俺はなってしまった。



風の噂が流れた。
珠子が帰ってきている。



蝉が鳴いている。
俺は、花火がバラバラと打ち上がる祭りの夜に、一人で裏山にきていた。
なんとなく。
虫の知らせじゃないけれど、蝉の声に埋もれたくなって、誘われてきた。
虫の誘いだ。
裏山は花火がよく見えるんだ。
毎年のように珠子と来ていた。
会いに行こうかとも思ったけれど。
人の妻にそんなことが出来るはずもなくて、出来なかった。
俺は教師だし、そんなことをしたらこの街にいられなくなる。
ふらふらと、ぐちぐちと。
そんなことばかりを考えながら山を登る。
真っ暗な山を一人で登る。
花火が終わる前に登りきれるだろうか。
少しばかり息が上がって、子供の頃のようには足が進まない。
身体は重く、背も伸びて、手足は草木のように育ったものだ。



風の噂だと。
珠子は離婚をするらしい。
何でも、子宝に恵まれないとか。
相手に妾の子が生まれたとか。



珠子は良いところ男に見初められたらしいけれど、なかなか子供が生まれなくて。
相手には不倫相手がいて子供が出来て。
別れる寸前だとか。
何だそれは。
三文小説か。
俺は熱病にうなされるように、定まらない足取りで、珠子とよく来た場所まで来た。
時々、辛い時に来る。
一人で。
でも、今日は珍しく先客がいて。
綺麗な柄の、落ち着いた雰囲気の浴衣を纏った女性がいた。
珠子だ。



「久しぶりね」
甲高い笛の音が高く昇る。
「随分、大人びたのね」
ばんと夜の帳が張り裂けるような衝撃が走った。
「珠子は、随分と綺麗になったんだな」
暗い裏山が一瞬で明るくなった。
涼し気な、青い浴衣だ。白い肌によく似合う。
「ずっと、会いたかった」
私も。そう口が語っていたけれど、花火の音で聞こえなかった。
俺はずっと堪えていた衝動を我慢出来なくて、無意識に手を伸ばしていた。
あの時と同じ左手を取る。
あの時と変わらない感触。
成長して美人になっても。
背丈が随分と変わってしまっても。
髪の長さが変わっても。
大人びた顔つきになっても。
胸の奥をくすぐられる香りを放っていても。
腕の中に抱えた重さはあの頃と変わらなくて。
簡単に支えることが出来て。
それでも右手の中に収まった小さな左手は、冷たい小さな感触が合って。
俺は堪らない気持ちになって。
小さな顔を持ち上げて、唇を奪っていた。
抵抗はなく、それでも求められることはなく。
俺は自分の腕で強く抱きしめて、この腕の中に留まることはない彼女を捕まえる。
ばんばんと、身体の芯に響く花火が煌々と照らす。
彼女の瞳からは涙が一滴溢れて、頬に線を引いた。
掬い取ってやると、彼女は眼を開いて俺にしがみつく。
押し倒さんばかりの勢いで、川に落とされた記憶が脳裏に浮かぶ。不意を突かれたものだから堪えきれず、勢いそのまま後ろに倒れこむ。



「久しぶりに会ったというのに、昔と変わらず未だにお転婆か?」
珠子は俺の上に跨る。川の中じゃないからそれなりに重い。
「そんなことはないわ、今じゃあ立派な淑女よ」
社長夫人というやつかしら。鼻で笑ってそう答える。
「何があったんだ?」
「何もないの。夫婦仲に愛がなくて、家族なのに愛がなくて、愛がないから子供がなくて、だから形以外に何もないの」
それもこれも全部、息を吸う為に珠子は夜空を見上げる。
「私が悪いの!!!!!」
花火の音をかき消すほどに、叫ぶ。
「あの人は、私に一目惚れをしたと言って結婚を申し込んでくれた。妻になってくれって。それでもアタシはアンタが好きで、それでも家族も養ってくれるというから、嫌々で仕方なく受けるしかなかった。家族を楽にしたかったから!!」
涙が雨のように降ってくる。
「それでもあの人は丸ごと全部、アタシの気持ちを受け入れてくれて、だけどアタシはそれに応えることが出来なくて。身体は許したけれど唇は許せなくて、それでも子供を産むために抱かれて、だけど子供が全然宿らなくて、次第にあの人の気持ちは薄れてった」
俺のシャツはくしゃりと歪んで、胸の上に置かれた腕に力が篭って、胸が重い。苦しい。痛いくらいに。
「あの人は、ずっとアタシを求めていてくれた!! 何年も!! 何年も!! 
「だけどアタシはその優しさにずっと甘えて、好きって、愛してるって言ってくれる唇を拒み続けて、自分の気持ちに殻を被せて逃げ続けて、逃げてもどうにもならないのに逃げ続けて、あの人を傷つけ続けた!!
「アタシは自分が許せない、でも自分のことが大切で、あの人をただ利用しただけにすぎないのに傷ついて、アタシは逃げ続けて、今も逃げてる」
涙は止まらない。叫びも止まらない。俺には止める資格がなくて、聞くしか出来ない。彼女も、大人になってしまったのか。
叫ぶことも喚くことも、気持ちを散らすことも出来なくなってしまったのか。
「アタシがあの人を受け入れていれば、そうしたら別の形になっていたのかもしれない!!」「そうすればあの人だって、幸せになれたはずなの!!」「そうでないなら、アタシは最初から拒むべきだった!!」「最初から逃げていれば良かった!!」「アンタと一緒になれば良かったんだ!!」「アタシは全部間違えたんだ!!!!」
泣きじゃくり、息も吸えず嘔吐いて、みっともなく鼻水まで流し、浴衣に似合う美人になったと思えば化けの皮が剥がれて、歳と背格好よりも随分と幼い少女にしか今は見えない。
あの頃よりも、ずっと幼く見える。
俺は彼女を振り落とさないように起き上がり、腕の中に抱える。ズボンからハンカチを取り出して、顔を優しく拭いてやる。鼻水は最後に。
花火はすっかりと静かになってしまった。終わってしまったのだろうか。
「旦那とは別れるのか?」
「うん。他の女と子供が出来たって。跡取りにしたいから離婚だって」
随分勝手なものだと思う。なびかず子も産めないなら捨てるってわけか。
「でも、私も悪いわけだし」
そういって左手から指輪を外して、「さようなら」遠くに放り投げてしまった。
俺は膝の上に乗せている珠子を抱き締める。
「うちに来い」
そう言うだけ言って、返事は聞かずに唇を塞ぐ。
涙に濡れた頬はすっかりと柔らかさを失っている。それでも薄化粧はすっかりと落ちてしまったようで、未だにきめの細かい肌に直に触れる。柔く、温かい生の珠子に触れる。
身体は互いに熱くなり、ついに勢いで、俺は組み敷いてしまった。珠子を。
「返事を聞いてもいいか?」
「十四の夏から、随分時間がたったね」
珠子は俺の首に腕を回して、俺を引き寄せる。
柔らかい唇が、もう一度重なる。十四の頃、あの時の口付けはどんな感触だったっけ。
長く、それでも一瞬だったと感じてしまう程、愛おしい時間。唇を深く重ねる。
「アタシは、アンタの妻になることだけをずっと。ずっと長く夢見続けてきた」
俺の肌に触れ、抱き、唇を珠子は求めてくる。
「俺もだ。ずっと、焦がれる程に想ってきた」
珠子の首に、肩に、額に、頬に、うなじに唇を這わす。腕に触れ、腹に触れ、背中に触れ、足を絡ませ、強く抱き、離すまいと力を込める。
二度と離すまいと、印をつける。
「一緒になろう、今度こそ」
「アタシを離さないで、絶対に」
もう一度、唇を重ねる。
花火はもう、上がらなかった。
いつの間にか蛍が飛び交い、蝉の声は止んでいた。
好きだ、愛してる。
そう、二人で囁き続けた。



「珠、珠子。蝉を、蝉を捕りに行こう」
小さく囁くように、祖父は酸素マスク越しに呟いた。
いや、呟いたわけではないのかもしれない。
ただ声量が落ちて、きっとそう聞こえただけなのだろう。
何日ぶりに目が覚めたのだろう。もう二日か三日だった気がする。
「お爺さん、お加減は如何?」
私はそっと祖父の顔を覗き込む。
すっかりと顔が細くなってしまった。健康的とは言い難い。
酷く言えば生気がない。
「ああ、珠。今日も綺麗だね」
虚ろな瞳が、私を祖母と見間違える。
ずきりと胸が痛む。
えっと、祖母はどう話していたっけ。
「ありがとう、アンタ」
おお。おおおお。
祖父は嗚咽を漏らすように涙を浮かべる。
ぽろぽろと。
さめざめと。
「珠、珠子。ずっと会いたかった。会いたかったんだ。もう、二度と会えないと思っていた。好きだ、愛している。今度こそ離さない」
祖父は私の左手を優しく握り、そう小さな声で囁く。
優しく、愛おしげに。
私は胸を、心を抉られるような痛みを覚えたけれど。
祖父を騙すことにする。
「アタシも好きだよ、愛している。アタシを離さないで、絶対に」
祖父は、体内すべての水分を流しているんじゃないかって程、泣き続ける。
嗚咽を隠さず、ただ一心に、好きだ、愛していると呟き続ける。
「約束する。絶対に、二度と離さない」
祖父は私を、私の向こう側を見てそう囁く。
「待っていて、今から行くから」
私はその言葉を聞いて、胸が締め付けられた。
「お爺さん」
祖父は優しげに笑って、私の頬に触れる。
「ありがとう。最後に良い夢を見させてもらったよ。環ちゃん」

そう言って、祖父は目蓋を閉じた。
それが最後に聞けた、祖父の言葉。
後に母から祖父と祖母の馴れ初めを聞いて、私はなんて残酷なことをしてしまったのだろうと、崩れ落ちてしまった。懺悔をしたくとも、祖父はもう目をさますことはない。私は泣きじゃくり、祖父に縋り付き、謝り続けた。
祖父を見る最後の日、母は祖父の手に優しく握らせた。
一枚のハンカチだ。
随分と古いもののようだ。
「それは何?」
「思い出の品らしいわよ。何でも、プロポーズをした日に持っていたものだとか」
綺麗な青色のハンカチだった。
まるで夏の青空のような、澄み切った青色の。

蝉の声。

蝉の声。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-20

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