二進数の三次元

二進数の三次元

 世の中で本当に幸せな人間はどれくらいいるだろうか。幸せを感じたことがないわけじゃない。しかし、それはあまりに微量だ。お金持ち? イケメン? 才能?彼らの生活には、僕が必死に努力しても届かない幸せがあふれている。
「………」
 分かっている。そんなわけがない。皆に与えられる幸せはそれぞれ少ない。その質は違うだろうけれど、勝手に比較して自分を不幸にしているだけだ。
「はぁ」
 吐いた息が白い。もうそんな季節だ。夕方は暖かかったのに、深夜は別世界だ。いつもより薄着してしまった不幸が、僕を小さく震わせる。幸せとか、幸せじゃないとか、世界にはどうだってよくって、ただ地球を回しては時間を進めていく。
 僕が就職できないのも、バイトをしなくちゃいけないのも、世界さんは同情どころか関心すら示さない。世界様には責任はない。吐いた息が言っている。全てお前のせいだと。


 部屋には誰もいない。電気はついていない。

「帰ったときにつけっぱなしにしてると怖いんですよー」

 いつの日だったか、バイト先の女が言っていた。それって男がいることを暗に言いたいのか、ただ単にそういう癖なのか。どちらにしたって僕は共感できない。
 あんな女のことははどうだっていい。週に一回の楽しみが今日だ。忘れるわけがない。テレビの電源を入れて、最高画質に設定したビデオレコーダーの電源も入れる。さぁ、いよいよ始まる。おなじみのソーカイでダークなオープニングでバイト先の女なんか切っ裂いてくれよ。今日のアーシェはどう暴れるんだろう。


   「今日の作画さぼってたなー」

   「だんだん話面白くなってきたじゃん?」

   「ただの製作者側のオナニーアニメ。見る価値なし。お前らセンスねーな」
   「フェリオは俺の嫁。もふもふふにふにすんだ! 異論は認めない」
 
 思いのままに身勝手なことを書き込んでいる。どうせリアルでのお前らなんて、のべつまくなしに語ることなど恥ずかしくて出来ないくせに。相手もいないくせに。いつも自己完結に心酔しているくせに。だからここに書き込んでいるんだろ。僕もそうだから分かる。

   「アーシェは理屈抜きに理屈をぶっこわしてくれる。その姿を見ているのが気持ちいい。今までの魔法少女モノにはなかった、爽快感を提供してくれている。その分萌えやキャラのアピールが排他されているけれど、それがまた魔法少女モノの概念を打ち破るスパイスになってもいる」

 こいつは話が分かる。まるで僕なんじゃないかと疑うほどだ。顔も知らない同族に親近感を覚える。
 その後も、スレッドは有象無象の書き込みで埋められていく。やがて飽きてくればパソコンの電源を落とす。訪れる暗闇。これが居心地のいい空間だ。アニメは暗くしてみるのが当たり前。そして『ルーイン・サーガ』が終わったその後は、毎回掲示板を覗くのを日課にしている。ぼうっと光るテレビに目線を移せば、つけっ放しになっていたテレビからは誰も見ないような安っぽい通販番組がやっていた。毎晩の通販番組がバカのひとつ覚えのように放送されている。昨日も見た商品が同じように紹介され、寸分の狂いもなく同じタイミング、同じリアクションをとるおっさんとお姉さん。
 毎日同じことの繰り返し。こんなこと思うのも繰り返しのうち。テレビを消すのもいつものこと。そしてまた明日にはつける。ベッドに入るのも。
(こんな日常を、アーシェはぶっ壊してくれないだろうか)
 フリーターで定職ナシ、顔面偏差値底辺組の僕のことを必要としてくれる世界はここじゃない。こんな幻想を抱いているうちに周囲は結婚やら子供やら成功やらを―――。
 布団にもぐって携帯でスレッドのリンク集を開く。ネットの世界も僕のための世界じゃない。クソの掃きだまりという意味では正しい。アニメの話でなくとも、あぶれもののいうことは限られている。

  『十一月十一日は満月。ついに世界滅亡キタコレ!』
 
 そんなスレッドタイトルを見つけた。どうせ世界滅亡など興味のないアーシェはこないけど見ることにしよう。そういえば、昔は天体望遠鏡を持っている父と一緒に観測につれていかれた―――。もうやめよう、思い出すのは。今、思い出とか、父のこととか、回想したら深手の自傷を負いかねない。

   「やべぇ、マジでくるんじゃね?」
 
   「ついに粛清キター! 三十まで童貞貫いた甲斐あったわ。中古どもは濁流に流されろ!」
 
   「海割れたり、世界が核の炎につつまれるんですね!」

   「リア充が消え去る日の、歴史の立会人になれるなんて……」
 
   「生産性のないおまいらのほうが消されるって(笑)」

 僕と同じことを思っている人間がこんなところにもいるのか。空しいシンパシーにやりきれなくなった。結局、僕は特別じゃない。有象無象の凡庸の一部、社会のベンチウォーマーを痛感させられる。今日もこの世界に僕の活躍できるステージがないことを確認して、特別を呪った。
 特別なだけで特別を占有できると思い込んでいる自分も、ついでに。


 起きたら起きたで、昨日の絶望から醒めていた。僕の悲しみや苦しみなど、一日で忘れられるほど都合がいい。
 恒例の自己嫌悪から始まる朝。今日は昼からバイトだ。もうこのままフリーターでいいや、と心底思っているが、親はそうさせてくれるはずもない。世代や経済が違えば就職の常識や傾向など、言うほど簡単なものじゃないことくらい親は分かりそうなものだ。ただ、正しいのは親だ。していない自分がいくら吼えた所でただの駄犬の喚きにしかならない。
 若干遅いブランチを採ってバイトまでの時間、ゲームを始めようとした時だった。インターホンが鳴った。ネット通販で頼んだ覚えはないし、騒がしくした覚えがないから大家さんでも隣の人でもなかろう。もしかしたら実家からの仕送りかもしれない。玄関に向かう。玄関のドアを開けるとそこには誰も居なかった。悪戯なのかと悪態をつきながらドアを閉めようとするが、視線の片隅に何か映る。箱、だった。ただただ無機質な、ベージュ色をしたちょっと大きい、目のないサイコロのようだった。拾い上げて振ってみても音はしない。箱のくせに開けられるような箇所は見つからないし……。本当に悪戯なんじゃないか。箱を放ると、ころころと乾いた音を立てて転がり、止まる。なんとなしに興味が沸いた。『ルーイン・サーガ』の主人公、統治だって、こういうところから特異な日々が始まった。くだらないことかもしれないが、気まぐれに重ねてみたい。
 部屋に入って開けようか開けまいか考えた。よくよく見ると、開封出来るところが見あたらない。箱、というよりはただの立方体、目のないサイコロ。明らかに怪しいこの箱をどうしたものか。ふとよぎるのは十一月十一日、今日という日。昨日あんなことを知った次の日に、変化が転がりこんでくるなんて思わなかった。好奇心が勝ってこんな箱を拾ったけれど、特に変化はないようだ。
(もしかしたら、危険なモン……?)
 爆弾……、ってことはないかもしれないが。急に恐ろしくなって僕はベランダに箱を置いておくことにした。次第に箱のことよりも、ゲームの攻略に興味が移るのだった。気づけばもう出ないとバイトの間に合わない時間になっていた。あくせくしつつも僕は支度して、バイトという義務をはたそう。


 コンビニに入ってくる客が、一時間で十人くらいとはどういうことなんだ。街に人が居なくなってったかのような気さえさせる。お昼時とはいえ、この客入りは珍しいというよりはおかしい。今日の箱のこともある。もしかしたら『不思議なこと』が起こっているのではないか。いつもじゃ掃いて捨てたいくらいの妄想さえ、十一月十一日なら実現してしまうのではないか。今、アーシェが外の道路でその大きな禍々しい鎌で悪魔と壮絶な戦いを―――。
「いらっしゃいませー」
 あともう少しでアーシェがコンビニの前を通りそうだったのに。今日としては珍しいお客様のご来店のせいでかき消されてしまった。お客様のおっさんは、昼からワンカップを選んで不機嫌そうに帰っていった。
(皆嫌なんだろうな)
 だから酒やタバコ、はたまたヤクとか。そういうのが何千年も続いているんだな。妙に納得するのだった。あとは宗教とか神話とか? 現実逃避は文化開闢の一端をになっているのかもしれない。
(アーシェも所詮……、ね)
 二〇一一年、十一月十一日。11、11、11。そんなことは関係ない。現実で生きている僕には、現実で一日一日を刻むしかない。成功者はいつも僕を励まそうとするけれど、それが何の解決策になっていないことは知らないのだ。蜘蛛の糸にすがるように新書なんか買ってその通りにして失敗する。あんなものは天才や成功者が凡人を作り上げるための洗脳の道具なのに。


 ガラの悪い少年にバイトを引き継いで今日は早めの帰宅となる。あの声を端を変に上げる感じがどうもいけ好かない。あんなナリをしているのに、店長から気に入られているのが気にいらない。人の嫌いなところはよく目立っていい。自分はこうならないように思えるからだ。しかし、人の嫌いな部分は潜在する自分の性格だと、とあるアニメで言っていたのを思い出す。と、なると僕は欠点の寄せ集めなのかもしれないな。と、なると僕は欠点の寄せ集めみたいなものなのか。
 帰る道すがら、昨日見ていた『ルーイン・サーガ』を回想していてふと気づく。アニメをただの暇つぶしだとか、話のネタとか。そういった消費物として使いすぎだ。また、そこについて回る印象を面白おかしく取り上げるメディアのせいで、アニメのことを詳しく語ろうとすると引かれてしまう。アニメは何回も繰り返して見て、どんなことがしたいのか、何を伝えたいのかを常に念頭に入れて鑑賞するのが、アニメに対しての礼儀だ。漫画でもアニメでもドラマでも映画でもテーマが存在し、それを表現する力がある。僕はそれらに教わったこと、感動したことがたくさんあるのに、いざ、それを薦めてみれば苦笑いで遠慮されるのだ。
(やめよう)
 こんなことを本気で思っているから気味悪がられるんだ。それでも何故音楽や読書が趣味と胸を張って言えている世間で、何故アニメ鑑賞が趣味には一線引いてある事実に苛立ちを覚えざるを得ない。
 オタクの宿命だとは悟っている。さぁ、今日も帰ったらネット、アニメ、ゲームが僕を待ってくれているぞ。女の子は特別、画面の中で待ってくれている。急に幼馴染が押しかけてきたり、女友達が実は魔法少女だったり、女の子の形をしたアンドロイドがゴミ捨て場に落ちていたり。は、この味気も興もないこの世ではありえない。ありえないから。
 玄関をドアを開けてもワクワクしない。買ってきたお惣菜をおかずにただ無機質な夕食。餓死はしたくないから食べているのか、英気を養うために食べているのか分からなくなってきたこのごろ。食べ終われば食器を洗ってしまう癖には母に感謝しなくてはいけない。おかげでキッチンは綺麗だ。
 パソコンのディスプレイには現実に居ない、かわいい女の子が僕に微笑んできた。ただ、僕の心は揺れ動かない。もうこのゲームは飽きたな。タバコに火をつけて一服してウィンドウを閉じた。一瞬で女の子は消えた。次はなんのゲームをしようか。積んであるゲームを順々にニコチンまみれの脳みそは提案してくれるけれど、どれに対してもやる気がもてない。そうなると―――。
(箱、見てみるか)
 ベランダに置いた箱を思い出す。爆発した様子はないけれど、恐る恐る持って部屋に入る。窓を閉めるとき、夜空に吊り下がった満月が目に入った。なんともいえない心地になって、満月から目を背けた。
 見れば見るほどただの箱。箱、というよりはただの立方体。つるつるとした質感に、ベージュ色。朝となんら変わりがない。夜風に当たってひんやりとしている。底面と思われる箇所には「Toy Casket」と刻印されている。聞いたことのないメーカーだ。ネットで検索にかけてみるけれど、めぼしい情報にはヒットしない。「おもちゃの小箱」、ふざけているのか。この箱で遊べとでもいうのだろうか。
(テレビでも見よう)
 興味はないけれど、何もしなくても騒がしいから暇つぶしになるだろう。無駄に広まったクイズ番組のひとつがやっていた。面白さを増長しているつもりなんだろうけれど醜いものだ。テロップや効果音が入っていてもクスリともこない。チャンネルを変えようと画面端に目をやると、十一時になろうとしていた。シンキングタイムの芸能人なんかより、右上の時間のほうが面白い。二〇一一年十一月十一日十一時……。性格には二十三時だけれど。十時五十八分。月が満ちるのは夜でしかない。五十九分。さぁ、何か起きろ、箱から何が出てくる? ほら!
 十一時
 パソコンの時計には二十三時。見て確認した。流れるのは正解した人の歓喜の声、下卑て聞こえる。
 分かってたからショックじゃない。だまされてやったんだ。安物のソファに背中を預けてため息をひとつ。部屋の片隅でアーシェのフィギュアがこっちを見ている。その大鎌は何のためにあるんだアーシェよ。今日の昼時といい、それは悪魔を切るためにあるんだろう? 神は悪魔だ! 早く殺してやってくれ。テレビの中の奴らはカコデモンだ。殺しにいかないと人々が冒されてしまうぞ。憂さ晴らしに玄関に放り投げてやった。
(バカバカしい)
 十一月十一日十一時も、テレビも、アーシェも、僕も。うさばらしに明日捨ててやろうと玄関に放り投げてから一服することにした。が、タバコがどこかへ行ってしまった。探す気力もないから、そのまま液晶ディスプレイの発光をぼんやり見つめておく。
(………)
 十一時三分……。七分……。九分……。十分……。
 十一時十一分。
 カタカタカタカタ……。ガーッ。キュー、キュイーン、キュキュー。
 パソコンのハードディスクが回っている音がする。パソコンが勝手にアップデートしているのか? いや、その形跡はない。走っているプログラムもない。と、いうか、パソコンからはその音はしない。キュインキュインと、機械音まで鳴ってくる。もちろん僕のパソコンじゃない。テレビでもない。DVDレコーダーでもない。背中に伝わるのは静かな怖気。空気が震えている気さえする。テレビの音が遠くなり、謎の音がフェードインして増幅する。言いえぬ危機感は神経を蝕み膠着させる。何か居る? ようやく立ち上がれた。音のする方へ。期待してもいいのだろうか……?
 音の原因は玄関だった。何故ならそこには、裸の女の子が転がっていたから。
 他に思い当たるものがない。
 けだるく起き上がった少女の、細い肩と背中のなんと白いことか。玄関にたたずむ闇に光るようだ。薄い光のベールをまとった少女は、画面のなかのどの女の子よりも美しく映る。ただただ見とれてしまう。少女は僕に気づいていないのか、背伸びをして間の抜けたあくびをした。そして、立ち上がりあたりを見回す。
「………」
 目が合った。小さく僕は声を発してしまった。少女はただだまって、こちらを見つめる。終末を予想する。ついに犯罪者に成り下がってしまう。何故か知らないがまっ裸の少女が玄関先に転がり込んでいたなんて言い訳、女尊男卑の世俗では通用しない。
「………」
 沈黙を破って少女が叫んだら人生終わりだ。だが、少女は依然として叫ぶどころか、僕に乳房や陰部を恥じて隠す様子もなくこちらを射抜くように視線で縛り付けてくる。そしてスタスタとこちらに近づいてくる。目の前に来た。無の瞳に見つめられる。魅入ってしまう。そして。
 パンッ!
「何見てんだクズがっ!」
 パンッ、パンッ!
「服貸せ」
 僕はいきなり、往復ビンタを食らった。面食らった。さらに胸倉をつかまれる。表情ですら無に徹されて、息を呑むことすら困難なほどの戦慄に肺はひゅうと音を立ててしぼむ。
「どうなんだ、貸せないの?」
 今度はアイアンクローだ。非力な僕は締め上げられる。その細い腕のどこに、こんな気が遠のくような握力があるんだ。

 次に意識が戻ったのは、お気に入りのアニメの時間だった。深夜アニメは僕の生きがいの一つだ。アニメのオープニングで目が覚めるとは、どうやら生粋のオタクらしい。悲しいものだ。
「起きた。この部屋男臭いしタバコ臭いんだけど。どうにかして」
 いきなり心臓をアイアンクローされた。そう、隣にちょこんと座るのは、布団に包まったさっきの素っ裸少女だ。ここは僕の部屋だよな。アーシェのフィギュアはしっかり僕を見ているし、テレビもパソコンも僕のものだ。僕の部屋。僕はついに妄想を具現化できるようになってしまったのか? まだ三十歳じゃないのに……?
「どなた様でしょうか?」
 困惑で渦巻く僕の口からようやくこぼれてくれたのは、たったの一言だった。
 裸で玄関に転がっていた少女は流麗な金髪で、瞳は輝く海のようなコバルトブルー。明らかに僕より年下のアイアンクローしてくるような現実規格外のキャラは好みの僕だけれど、可愛いとか、愛おしいという感情は芽生えたことはない。目を合わせるのが恐ろしくて、少女の顔をまともに見れないが、突き刺さる視線は勘違いじゃないはずだ。こっちを向いている。
「セレナ。それよかお腹空いたんだけど。あと、喉渇いた」
 セレナ……? 僕は車オタクじゃあないはずだけど。
「ちょっと聞いてるの?」
 突如訪れた不可思議な出来事。何をしたら正解なんだろうか。静かに考えたいのだけど、混乱と雑念でこんがらがって思考がヒューズしてる。僕は大丈夫なのか? 頭がおかしくなりそうだ。堂々巡りになってきた。つまりはちゃんとした思考は出来ていないのか。冷静に、冷静に。僕は現実に生きているし、アニメもちゃんとやってる。アニメを冷静に見れば、きっとこの幻影も消えてくれるはずだ。と、アニメに没頭しようとしても、まともに見られるわけもなく。
(いつの間にか玄関で裸で倒れてて、往復ビンタで、アイアンクローで……)
 身勝手に思い出す脳みそが、痛覚を復活させる。そういえばひりひりする頬と、きりきりするこめかみ。どこの誰にも頼んでいないぞこんな破天荒な女は。玄関は鍵かけておいたはずだし、箱があっただけだろうし……。
「箱っ!」
 言ったと同時、少女がびっくり仰け反るのを無視して飛び上がる。やはり、玄関には箱はない。玄関に立ち尽くして僕はついに途方もないことを思うのだ。
(箱から、少女?)
 薔薇からアーシェが出てきたみたいに? 箱から傍若無人の少女が? 急いで少女に訊く。
「もしかして、箱から出てきた?」
「あ、そうかもしれないわね。どうでもいいから何か食べるもの頂戴」
 どうでもいいように不躾を垂れ流した少女はじろりとなじってくる。言われるがままに、僕は台所に向かう。すぐに出来るものがよさそうだ。おにぎりがいい。本当に箱から出てきたのか、あの小さな箱からか? 吸水ポリマーのように巨大化したのか。飯を要求する吸水ポリマーなんて、現代の科学で作れないだろう。もし作れたなら、全国の僕と同じ畑の人間はもっと幸せになれるはずだ。
 三つおむすびを作り、牛乳を注いでやる。何を言えばいいのか分からないから無言で渡すと、礼も言わずにおむすびにがっついた。
 今さらなのだが、この少女は何故こんなにえらそうなんだ。見た目はものすごくかわいい。それこそ、ネット住民が女神と誇張する声優アイドルなんかよりもずっと。肌もきめ細かいし、晴天をくりぬいたような目はラピスラズリのよう、はじけるほど可憐なブロンドヘヤーは男心を悪戯にくすぐる。見た目外国人なのに、流暢な日本語。しかし、言動に難がある。高貴な雰囲気ぶち壊しだ。最近のアニメにあふれかえっている、この少女のようなキャラ設定でも、リアルに居るとなるとそれは異端になる。その異端こそ、特異なフィクションストーリーにこそふさわしい。
 思考を反転させろ。もしかしたら、僕は本当に不可思議の入り口に立っているのかも知れない。僕がこそこそと生きていた中、ずっと願い焦がれていたことがようやく、十一月の満月で!
「ねぇ、服早く貸してよ」
 頼む態度じゃない。それが僕の義務であるかの如く強要してくる。さっきから聞いていれば、僕の昂ぶりに水を差すようにかみついてきやがる。勢い任せで反撃しようとする。が、その寸前でくじける勢い。
「あのー」
「訊きたいことがあるのは分かるわ。でも私は何でここに居るのか、何で裸だったのか、何でお腹空いているのか分からないの。分かるのは名前くらい。いいから服を着させてよ。ほら、タバコ臭くない服を、か、し、て、く、だ、さ、い」
 言葉の端々に殺意をにじませ僕を凝視する。アイアンクローの恐怖に、僕は簡単に屈服して言葉を引っ込めてしまった。不当な脅しと分かりつつも、追い出していつもの日々に戻るのは嫌だ。仕方なく中身の乱雑なクローゼットを開く。奥に確か高校以来着ていない体操着があったはずだ。服という服を荒らしまわってようやくたどり着いた。
(………)
 バカみたいだ。なんで僕がこんなにがんばっているんだ。訪れた現実脱却のチャンスに、僕は従順に乗っかっているだけじゃないか。どこの誰とも分からない少女に舐められて、我侭放題を受け入れようとしている。僕にだってプライドがあるさ。さっき簡単にへし折れたけれど、何とか立て直してみる。一言言ってやらないと気がすまない。ならばこう思おう。
 ―――もしかしたら美人局かもしれない。
 だったら、ズバッと言ってやるべきだ。ハプニングで麻痺していた、本当の冷静を取り戻してきた。理不尽な言い分に怒りがふつふつと音を立てて煮え立ってくる。叫ばれたりしたって関係ない。おもむろに近づき、今度こそ、確固たる意識で以って。
「だまって聞いてりゃ飯をタダで食わしてやったのに、それはねーんじゃねえのか。頼み方ってもんがあんだろ」
 僕にしては珍しく他人に怒った。怒り方を忘れかけていたくらいだ。人間、怒っていれば、そのまま、怒れるものだ。そのまま、怒りを露にして僕は目の前の横暴な少女をきつく睨みすえたまま迫る。
「女の裸をタダで見ておいてよくそんなこと言えるのね」
 ジェンダーを利用しやがる卑怯者め、お前の裸を見るくらいならネットで検索かけたほうがてっとり早いぞ。
「そんなこと今は関係ない。掃き違えるな!」
「タバコ臭いの、離れて」
「嫌だね。嫌なら出てけよ。お前みたいな無礼者は呼んだ覚えはない」
 身勝手少女はやっと観念したのか、深くため息をついて嫌々謝った。
「すんません」
「よし」
 百パーセント納得できないが、手元のジャージを一式渡してやった。
「これなら大丈夫だ。上京してきてから着ちゃいないからな。お前の言う臭いのはないぞ」
「あんた、お前って言わないで。セレナって言う名前があるんだけど。それとね、着替えるから、また気絶したくないでしょ」
「お、おう」
 僕はあわてて台所まで避難しにいく。服の、布のすれる音に、胸が異様に高鳴る。リフレインする、セレナの裸にどうにかなってしまいそうだった。
「そうそう、布団も用意してください」
 あさっての方向へ放り投げるような敬語のおかげですっと鼓動が収まった。セレナの横柄な言動に感謝しなくてはいけない。怒りが頭を鎮めてくれた。
「もういいわ」
 台所から戻ると、クロセ、と胸に名前がついているジャージをセレナが着ていた。ぶかぶかで、しかし、いややはりかわいさが倍増した。ゲーム、アニメじゃよく見るのに現実で見るとこんなにもすばらしいものか。
「掛け布団はあるんだが、敷布団はねーんだ。だからソファで寝てくれ」
 明らかに難色を示すが、しびしぶとソファに向かうのだった。
「この服タンス臭い」
「お前、文句言うなら脱げ。そして出て行け」
 これで出て行かれたら、と後ろ髪引かれる思いだったが、言ってやった。さっき言った手前、きっちり決めないといけない。だが、どうやら杞憂のようで、ソファに倒れるように寝て、ぼそりつぶやいた。
「ソファもタバコ臭い。あと、お前っていうな」
 こうして、僕のあわただしい十一月十一日は終わった。


 珍しく朝に起きた。セレナがいきなり肩をがくんがくんと振ってきた。休みの日くらい寝かしてほしい。頼むから、やめてくれ。
「ねぇ、お腹すいた」
「じゃあ自分で作ってください」
 薄目で開けて見てセレナも寝起きらしく、昨日の凶暴さよりも、かわいらしさがクローズアップしていく。
(そういや、あのまま寝ちまったのか……)
 謎の少女、セレナが玄関に裸で出現してから一晩経った。特別な、本当に特別な事件が起きたのに、僕は動じずにセレナの我侭をスルーした。自分でも眠気の中驚いている。しかし、未だ、何者かによる美人局の可能性も十二分にある。そうやって昨晩は念じていた。セレナの寝息に何度禁断の扉を叩いたか知れないが、開くことなく無事に朝を迎えることが出来たのだ。
「トーストくらい自分で作れるだろ」
 セレナは観念したのか、台所を荒らしながらトーストを焼いていた。素性の知れない少女を家に泊まらせる……。これは所謂ラッキーなのかもしれないが、実感が湧かない。そういえば、不意に「トースト焼け」と言ったが、日本製のオーブンを使えたり、会話が成立するところを見ると、日本の生活に慣れているようだ。日本で育った少女なのだろうか。警察に届けたほうがいいのだろうか。セレナの今後を寝起きで考えていたら、トーストの香ばしい香りに僕も釣られて台所に向かう。
「何よ、作るなら待ってればよかった」
 セレナの小言を無視して、どうせせびられるであろうコーヒーを淹れておく。
「なぁ、おま―――、セレナは日本人なんだよな? どこから来た? ちゃんと家に帰らないと駄目だろ」
 僕の質問など聞いちゃいない。ジャムはどこよ、と呟きながら冷蔵庫をまさぐっている。昨日のことを思い出して訊いてみたが返事は期待できそうにない。と思ったら、冷蔵庫に顔を突っ込んだセレナから、くぐもった声が聞こえてきた。
「だ、か、ら。昨日も言ったんだけど。私は自分の名前と、一般常識知識しか覚えてないのよ」
 困ったものだ。一般常識が決定的に欠如しているが本人は気づいていないようだ。妙に納得するのだった。冗談はさておき、おそらく記憶喪失しているのか? しかし、あの短時間で、しかも裸で、玄関に倒れている事実をどう消化する? 
「それじゃあ何か? 僕はセレナを警察に届けたほうがいいんじゃないか。もしかしてセレナ、ここに住むつもりか」
「そうよ。警察なんて嫌よ。どうせ長い時間かかるんだからさ」
 ずいぶんきっぱりと言って、トーストにジャムを塗りたくり始める。イチゴジャム。
 正直な感想としては嬉しかった。しかし、独身定職無し、親とは疎遠。経済的に無理がある……。が。秤にかけたら喜びの比重が強い。
「セレナはその……、僕と一緒に暮らしていくつもり、ってことか。昨日あんなことがあってさ。僕男だぞ? 何か危機感とかないのかよ」
 塗り終わったセレナは、僕の質問に怪訝な顔をした。桜色の唇をへの字にまげる。
「別に大丈夫よ。ひっぱたくし。昨日の夜だって何にもなかったし。あんたこそ訳分からなかったでしょ? いきなり玄関に裸の女だもんね。分かる。うん。あんたこそ、私をここに置いていいの? 何か理由があるわけ? いつか襲うとか?」
 初めてセレナの謙虚な言葉を聞けた。感動だ。幾分か毒があった気にしない。確かに、僕に下心がないとは言えないけれど、他に強い理由がある。
「あのな……、こんな不思議なことって、滅多にないだろ? アニメやゲームみたいじゃないか。ついに僕にも特殊イベントが、って、思って……」
 感動に突き動かされて、思っていることをべらべらと喋ってしまった。セレナの顔を見ていれば失言と嫌でも分かる。顔がどんどん嫌悪でゆがんでいくから。
「キモッ」
 僕から逃げるように居間に戻る。あぁ……、一つとして分かってもらえなかった。言っていて自分でも途中からかなり痛いことは知っていたけれど、面と向かって言われるとやはり傷心してしまう。


「あー、そうそう。私にもコーヒーちょうだい」
「……ブラックでいいのか?」
「あまあまにしてよ。泥水飲ませる気なの?」
 傷心の上、暴言されたので苛立ちにも拍車がかかる。が、どうせ言ったところでさらに傷つくだけなので、小さな復讐心で砂糖を大匙四杯入れてやった。持っていってやると、セレナはさっそく飲んだ。
「うん、おいしいわ」
 小さな復讐は不発になってしまった。ハムを乗っけたトーストを齧って、セレナの満足そうな顔を見る。
「もうコーヒーじゃなくてカフェオレ飲めよ」
「作ってくれるの?」
 地雷を踏んでしまったようだ。僕は適当に明日ね、といってはぐらかしてパンを頬張る。だまっていればかわいいのに。
 二人の間には会話はなく、コーヒーをすする音と、焼きたてのパンのサクッという音だけ。他人と、しかも女と食事をするのは久しぶりだから気まずい。テレビの電源を入れる。相変わらずテレビはつまらない。
 昨日出会った、しかも衝撃的な出会いを果たしたセレナ。初対面のはずなのに、そんな気さえしない。バイトのメンバーや、久しぶりにあった顔なじみ程度の学友でさえ、僕は緊張してしまうのに、どうしてこんなにもフランクに接することが出来るのだろう。さらには現実の女と接するような機会もなかったし、オタクの身分の宿命か距離を置かれることもしばしばあった。女と接することに慣れていないのに、セレナとは普通に話せる。出会いが衝撃的過ぎた、からだろうか。いきなり出会って「飯、服、よこせ」だからな。ビンタとか、アイアンクローとか。
 なるほど、女っぽくないから距離感を感じにくいのか。正当な文句を言っても跳ね除けるようにののしる勝気な物言いにも要因がある。そういえばこんなキャラいたなぁ、最近のアニメでよくある、『ツンデレ』のツン部分の典型的要素じゃないか。そうか、特異すぎるセレナのキャラは、僕が数多く見てきたアニメのキャラに似てるから自然に対応出来ているのか。
(それはねぇか)
 飛躍しすぎた。どちらにせよ興味本位。幼い頃に捨て猫を見つけて拾ってくるようなものだ。叱る親はいない。自分でどうにか出来る範囲で、不思議な二人暮らしを始めたらいい。何とかなるさと安請け合いしてみたものの、それでも普通の日常に飽き飽きしていた僕には、これ以上にない刺激だ。
「決めたわ」
 長々と考えている間、テレビを見ていたセレナがいきなり立った。その勢いでジャージの襟が反れてうなじが見える。パウダースノーのような滑らかさを誇るうなじに、僕の目はいざなわれたが、すぐに目線をそらす。罪深い女よ。
「あんた、今日、服を買いに行くわ!」
 声高々に宣言した。確かに、セレナの服は僕のお下がりしかない。
「あんたって言うな。僕はサタローっていう立派な名前がある」
 僕に注意するくせに、あんた呼ばわりだ。言い返してやる。これには何も言い返せまいと、自信満々に言ってみせると、我が振り見ないセレナ様は上から見下してきた。
「立派なの? でもまぁ、私も、お前、って言われたくないし。サタローって呼ぶことにするわ」
「お、おう」
 目を見て話してくるセレナにドギマギした。意識を吸い取られてしまいそうだ。セレナはこんな性格でも、男からすればセレナは暴力的なまでに女としての魅力がある。するな、という方が無理な話だ。
「いいけどさぁ。セレナ、金持ってるのか?」
 ただかわいいだけなら画面の中だけでいい。服だって、鞄だって、買わなくてもいい。
「持ってないわよ」
「僕が出すのかよ」
「いいの? 私女なんだけど」
 得意げに言いながら、セレナはジャージをなまめかしく脱いでいこうとする。服の中から篭った声で脅してきた。
「叫ぶけれど、いい?」
 現実の女なんて、こんなもんか。


 休み返上で、昨日知り合った女の服を買う。フリーターで、アニメゲーム以外にお金をかけることのない僕は、貯金ならそこそこあったので、我慢することにしてやった。デパートで買うことを提案したら、思いのほかセレナはすんなり認めた。曰く「買ってもらうんだから」だそうだ。案外謙虚な部分がある。
 外に出て困難があった。少々の対人恐怖を持っている僕の方ではなく、セレナの方だ。今、セレナが着ているのは僕の高校時代のジャージ。ジャージだけならギリギリセーフかもしれないが、『クロセ』と名前入りのワッペンがボーダーラインを振り切った。
 ブロンドヘヤーで白肌の美少女が、冴えない男の隣で、ダサいジャージを着ている。
 稀有の眼を集めて歩く当のセレナは、全く気にしていない。もしかしたら気づいていないかも。
 まるでファッションショーのモデルウォークのように堂々と歩く様のせいで、道行く人はセレナを見ているはずなのに、僕まで見られて比べられている気がして精神的に不安定になりそうだ。けれど、世俗を画すような振る舞いに、アーシェのような気高さを見て、心の中で感動してしまった。


 目的地のデパートの有名カジュアルファッション店についてもじろじろと視線を向けられる。店員ですら二度見してくる。その中を僕ら、主にセレナが無視してお気に入りを探す。友人から聞いていたけれど、果たして女の服選びはどれくらい時間がかかるのだろう。気が重くなってきた途端。
「これでいいわ」
 次々にセレナは選んでいくのだった。セレナはやはり違った。
 質素なデザインで有名な安物ブランド店で、地味なジーパンにスウェットをいくつか、無地のトレーナー、男物の白と赤のストライプのパーカー。どれもこれも安物だ。その選び方たるや、選ぶ悩みをズバズバ切り倒していくかの如く、いや、その悩みさえ感じさせない。サバサバしている。
「こ、これでいいのか……?」
 拍子抜けして、思わず聞き返してしまった。
「いいよ。着れれば何でもいいし」
 手に束ねて、今にも持っていこうとするセレナを引き止めて更衣室に連れて行く。
「おま―――、セレナ! サイズはちゃんと合ってるのか? 一回着てみねーと分からないだろうが」
「あ、ありがと……」
 てっきり覗くなと毒づかれると思ったけれど、素直にセレナは受け入れてくれた。薄いベニヤ板一枚向こう側から聞こえる音に過敏に反応するのは、まだ僕が経験がないせいじゃない、と思いたい。だから、更衣室から少し離れてケータイをいじる。しばらく経ってセレナが出てくる。しかし、どういうことかまだ買ってもない服を出てきた!
「バカヤロー! 元のジャージで出てこいっ!」
「えっ、いけないの?」
「いけないに決まってるだろ、まだ買ってねーんだからさ……」
「そっか」


「お腹すいた」
 しっかり買ってから体育着から着替えたセレナは、恥も恩も知らないせいか僕に荷物を持たせた。断ろうとしたけれど、持ってあげる甲斐性を示すために我侭に付き合ってみた。その気まぐれを知ってかしらずか、今度は飯をせびってきやがった。
「マックだぞ」
 おごってもらう立場を理解しているらしく、ありがとう、と笑って答えた。その笑顔で僕は許してしまうのだった。現実の女はずるい。同じデパートにあるマックで昼飯を食べることにした。メニュー表がレジにしかないマックは、僕はあんまり好きじゃない。付けあわせで買わせようとか、せかす気持ちを利用させようとする、会社側の目論見が透けて見えるようだ。しかし、値段ははらないしすぐ食べれる。
 いらっしゃいませ、と店員が言ってくる。顔は見れないけれど、早くしろと脅迫されているかもと疑心を抱く。
「私これでいいわ」
 一番安い、普通のハンバーガーを指差す。いいのか、と問いただすと。
「私はこれが食べたいの。そんなにお腹空いてないし」
 気を遣っているのか本当にお腹が空いていないのか。僕は目に付く期間限定のハンバーガーセットを頼んだ。空いていたこともあってか、すぐに食べることが出来た。セレナは質素なハンバーガーを一生懸命頬張っている。
「お前……」
「お前って言わないで」
 お腹が空いているなら素直に言えばいいのに。僕に文句を垂れていてもハンバーガーから注意が反れないくらいハンバーガーに集中している。
(正直に言えるような性格なのにな……)
 それこそ我侭気ままに生きているようだったのに、今日で少しセレナを見る目が変わりそうだ。だから、そんな謙虚な一面もあるセレナに僕のポテトを差し出す。
「何よ」
「僕お腹いっぱいだから、あげる」
 しばらくセレナはきょとんとしていたが、すぐに僕の気遣いに気づいたようで、小さく「ありがと……」と、らしくもなくしおらしく呟いた。僕にもこんな甲斐性がまだあったんだなぁ、と他人事のように思う。同時にセレナのレアな表情を脳に焼き付けようとぼんやり見つめるのだった。


 昼食も食べ終わり、手持ち無沙汰になった僕らは、ただデパートをぶらぶらしていた。案外、殊勝なセレナに僕は心を許すようになっていた。
「おい、セレナ。他に何か必要なものはないか?」
 訊くとセレナは考えているのか、うーん、とうなる。そしてふとハッとしたセレナは、すぐに口を硬くつぐんだ。
「何、どうした」
「え、別に……」
 恥ずかしがるセレナの姿にときめき始めてしまっている。胸が高鳴っているのがいい証拠だ。さっきからなんなんだ、今日のセレナは。
「いや、いいたくないなら、い、いいけれど……」
 どもる自分の姿など、ここにあるセレナの姿に比べたら月とスッポンもおこがましい。目を泳がせながら必死に体裁を立て直そうとしているセレナが何を言うかと思えば。
「あれよ……、女の子の……、そう、ナ、ナプキンよ!」
 本人はなんともないように言おうとしているのだろうか、声が裏返ったり噛んでしまっていたりと、努力が透けて見えてしまう。気を抜けば変態エロゲー脳の僕は気味悪く頬を歪ませてしまうだろう。しかと口を結び、能面を作ることを心がけて言う。
「お、そうだな。今まで気がつかなかった……。ごめん」
「全く、言わせないでよね……。別にいいけど」
 そっけなく言い放ったセレナ。それから調子に乗ったのかあれこれ強請るようになった。例えば雑誌とか、お菓子とか。僕がバイトに行っている間は、セレナは一人ぼっちなんだ、と僕も財布の紐を緩くしてしまった。それでもセレナは贅沢を言いすぎることはなかった。しかし。
「女の子に荷物持たせないでよね」
 やはり僕に荷物を持たせた。そうして目的のナプキンを買った後、手ぶらでデパートの中を練り歩き、品定めをしていた。服、菓子、本、そして中古のゲームまで、僕が持つ羽目になった。気づけばこんなに買っていたか。セレナの卑怯な手口に文句も言えないままでいいのだろうか……?


 デパートを出たらすでに日が暮れていた。帰路では嬉々としてセレナは僕の前を歩く。空には僅か欠けた満月が帰り道を照らして、昨日の夜のような高揚を覚える。セレナが何故僕の所に転がりこんできたのか、未だにそれが分からない。あの箱が人為的に置かれたのかさえも、分からない。
 僕はパソコンの中の世界に憧れるあまり、ついに僕は長い夢でも見ているんじゃないのか? セレナのような現実離れした美しさを誇る少女が現実で、僕と暮らしているなんて、どう考えても異常だ。
「ねぇ、月があんなにも綺麗よ」
 セレナが、高名な小説家が講義で発した有名な台詞なんて知るわけないけれど、知っていたとしたら相当な悪女だろう。
「そうだな」
 上機嫌で、僕の困惑など知らずに月を指差して僕に知らせるのだから、やはり知らないはずだ。両手のかさばる荷物があるせいで追いつけないというのに、目の前ではしゃいでいる。荷物持ちの僕は怒るどころか、心がとても穏やかになっていく。さざなみの音を聞いているかのような心地。月光からあふれ出る柔らかな光のせいだ。
 目の前のセレナははしゃぎ疲れたのか、静かになって月を見上げる。じっと見つめるその後姿にノスタルジアを感じた。そんな要素ないのに。
「セレナ、お前ってさぁ……」
「何?」
 お前、ととっさに言ってしまったが、それでもセレナは噛み付いてこない。珍しいこともあるものだ。今日はセレナの初めての部分をたくさん見られた気がする。きっとセレナも楽しかったからだと思いたい。今なら聞いてみてもいいかもしれない。
「なぁ……、セレナは何で僕の部屋に居たんだ?」
 静謐な輝きを宿す月を背にセレナは振り返る。はしゃいでいた陽気は一転、影を潜めた。雪原にただ一匹、赤い目をこちらに向けて警戒する白兎のように。
「知らない……。気づいたら全裸で、私は転がってた」
 セレナの瞳は赤くないけれど、代わりに潜むは不安の色、揺れる色。
「でも、分かることはあるわ。月を見ると―――、安心する」
 また振り返って月を仰ぐ。さっきまで穏やかだったはずの光の波長が、切なく輝きを放っている。
「私がセレナって言う名前だということ。他は何も」
 声をかけたら、指で触れたら、いや、僕が今ここから動いても、セレナは月光に溶けてしまいそうなほど、儚く僕の目に映った。これ以上見たくなくて、見られなくて、僕はただうつむくだけだった。月光からも、セレナからも視線を背けた。
「やめてよ、そんな顔しないで。めんどくさいなぁ、早く帰るわよ」
 白兎は寂しさから逃げるように早足で歩き始めた。この時、僕はセレナの正体を真剣に調べようと心に決めた。


 セレナ……。
 そうネットで検索してみた。「Toy Casket」ではまともな検索結果が出てこない。オア検索にひっかかってしまう。限定したところで、海外のサイトにヒットするだけ。読めないわけではないが、おもちゃ関連の情報しか出てこない。だが、セレナで検索したら目当ての情報にヒットした。車の情報が圧倒的に多かったが、それでもたどり着いた。
『月の女神』
 だそうだ。他にも、セレーネ、アルテミス、とあったが、ゲームをやってきた僕としては、ルナがしっくりきた。
「セレナが、月の女神……?」
 セレナが振り返ったあの時、月の光が切なげに色を変えたことを思うと、もしかして……。
 二〇一一年十一月十一日、満月の日。セレナはやってきた。エジプトのピラミッドでは観光客の見学禁止だと聞いたし、これは、予想以上に事態は大きいことなのかもしれない。―――しかし、期待するものの、それ以上の情報は出てこない。セレナとToy Casketの関連では一つもヒットせず、セレナ単体の、神話でのセレナでしかめぼしい情報がない。セレナ……、月の女神。自分の夫を迷惑にも永遠の命にした女神。どうでもいいこと。かぐや姫とかと関連はあるのか? とも考えたが、一向にピン、とくるものはなかった。
 セレナはというと、この間買いためた雑誌や、僕がもともと買ってあった漫画を読み漁っている。ソファに寝そべって、だらしがなく。そこらへんの女と同じように、いいなー、かわいいー、と声を時々漏らしては次のページをめくる。服なんて着れればいい、と言っていたセレナだが、ファッション雑誌なんて読んでいる。普通の女のようにかわいい服を見てうれしくなったりするみたいだ。
「ちょっとー、ミカンもうないんだけどー、とってきてよ」
 僕もかれこれ三、四時間くらい調べていたから疲れた。カフェオレを作りに立った。セレナは相変わらず勝手気ままにくつろいでいる。僕がゆっくりするはずのソファがセレナに占拠され、僕が大好きな紅茶は全てセレナに飲み干された。そろそろミカンも危ないかもしれない。コーヒーを淹れ終わって、その後、温めておいたミルクを入れる。昨日新しく買ってきたスティックシュガーを二本入れたのはセレナの方。
「あのなぁ、お前。もうちょっと遠慮を知ってくれよな」
 ミカンとカフェオレをそばに置いてやったというのに、セレナは言うも事欠いて。
「だから、お前って言わないでよね!」
「お前のような無礼な奴を名前で呼ぼうだなんて思わないぞ、僕は」
 文句を文句で返すと、セレナは無愛想にこっちを見て、そして無視するように雑誌をめくり始めた。


 バイトから帰ってくると、セレナが寝ていた。午前0時半だから当然なのだろうが、セレナは最近夜更かししていた。おそらく睡魔に勝てなかったのだろう、傍らには漫画が落ちている。
 今日はアーシェのアニメの日というのに、ソファはセレナによって乗っ取られているので、僕は仕方なくパソコンのチェアを引っ張ってくる。先週はアーシェによって事件が解決したから、今週はおそらく新しい事件があるはずだ。まだ学校になじめないアーシェが見れると思うと、ワクワクしてくる。さぁ、そうこうしているうちにオープニングだ。あぁ、このアニメは曲がいいなぁ。作画は細かいことを言えば、たまに手を抜いているのが分かってしまうことを引いて考えれば満足できる作りだ。先週の戦闘シーンはものすごく力入れていた。
「何見てるの?」
 テレビの音量を上げたからか、セレナが起きた。
「これって、あの漫画のアニメ?」
 ぼーっとしている眠気眼のセレナはいつもより色っぽくて、扇を煽らされてしまう。その気持ちを悟られまいと封殺し、そっけなく返す。
「そうだけど」
 本編が始まった。余計なことは考えず、煩悩を滅却しアニメに集中するべきだ。ところが、セレナときたらテレビの明かりだけの中、漫画の方の『ルーイン・サーガ』を探し始めた。がさごそと耳障り、ぱらぱらとめくる音がやかましい。
(今アーシェが小声で何か言ったのに!)
 きっとイライラしているシーンだ! あの教師にペンダントをはずせって言われたからだ。漫画だとおそらく……。

「死に損ないのその薄髪、隠してるつもりなのかしら」

 だったはず。録画しておいたから後で見ればいいんだけれど、セレナときたら。
「おおっ!」
 来たっ! ハーチャットだ! と、いうことは漫画通りなんだな。おそらくは、『ルーイン・サーガ』ファンにとっての正規ヒロインとなるこの子が出るということは―――。


「気持ち悪い」
 充足感と幸福感に浸っていた僕に吐き捨てられた一言。さんざん僕の邪魔しておいて、何を言うと思えばそれか。
「独り言とか勘弁してよね。うるさくて寝れなかったわよ」
「僕だってお前のおかげで集中できなかったよ! 物音がもーうるさくてうるさくて」
「勝手に気にしてんのそっちでしょ! 気にするから余計に大きく聞こえるのよ。それと何? このアーシェ、とかいう子が好きなの? あんなのただ大っきな、そんでもって悪趣味すぎな鎌で、フリフリのコスプレして、なんか偉そうにしてるだけじゃん」
「お前……」
 分かる。今、僕の中で沸騰する『ルーイン・サーガ』への想い。音を立ててぐつぐつと……。じっくり煮込んでいた想いが。爆発寸前の憤怒にどうにか蓋をして、吹き零れそうな言葉に何度も何度も水を差す。
 僕は、セレナに、『ルーイン・サーガ』の面白さを、伝えるんだ。
「い、いいか。この作品はね、今までの魔法少女ストーリーを、大いに覆すであろう作品なんだ」
 ただならぬ僕の雰囲気を捉えてか、セレナはつまらなそうに漠然と返事だけした。ああ、そう、と。いけない。今の伝え方はアニメオタクを相手にした場合じゃないか。アニメを見ない人にルーインサーガを薦めたことはない。そもそもとっつきにくいアニメだ。こういう時どうしたらいい……? アニメを普通の人に勧めることなど、恐れ多くてできない。たいていやんわりと否定されるのだ。さっきのセレナのように。いや、しかし。やるしかない! セレナを屈服させ、アーシェのすばらしさを伝えるんだ。
「お前が言った気味悪い鎌持ってた女の子いただろ? アーシェっていうんだけど。あの子がな、今までのつまらない生活を全てぶっ壊してくれる……。そんな所に憧れているんだ。そこが、いいところの一つだな」
 やるしかない! 振り絞って出した言葉は、僕が『ルーイン・サーガ』の本当に感動した気持ち、そのままだった。
「ふぅ~ん」
 ただただ平淡な、どの感情も入っていない返事が僕の耳に入ってきてしまった。やはり所詮アニメオタクの意見、ということなのだろうか。普通の人には伝わらないんだ。だったら、逆に、普通の人の趣味の楽しさを説明してほしい。僕は絶対受け取らない。そっちが偏見と軽蔑の視線を持っているならば、僕だって受け取らない。その面白さなんて。
「分からないか……」
 失望に沈む僕のこの気持ちは、おそらく、アニメオタクなら誰だって味わったことがあるはずだ。僕も何度もこの辛酸を舐めたというのに、反省していないみたいだな、馬鹿野郎だ。
「うん、なんか、すっごい好き! っていうのは伝わった」
 作り笑顔でセレナは気を遣ってくれている。正直それが一番堪える。今日はあきらめてアニメオタクと普通の人との間にある大きな、ベルリンの壁が存在するのを悟らざるを得なかった。


 次の日、僕は驚愕した。
「今日バイトなんでしょー」
 昼過ぎ、起きた僕の眠気眼に飛び込んできたのは、『ルーイン・サーガ』とセレナだった。なんと、セレナが『ルーイン・サーガ』四巻を読んでいたのだ!
「これ昨日やってたところの巻でしょ?」
「………」
 まだ夢を見ているのだろうか。言葉が出ない。
「何で……、読んでるの」
「暇だから」
 ブロンドヘヤーの少女が、日本庶民臭い手元のせんべいを、バリバリ食べながら読んでいる。読書用だから許すことにしよう。全て初版の『ルーイン・サーガ』だが、セレナがこの漫画に興味を持ったこと自体、価値がある。
「面白いか?」
「うーん」
 緊張の一瞬。恐ろしきセレナのうなり声が長く聞こえる。
「びみょー」
 平たく伸ばしたセレナの答えに、肩透かしを食らった気になった。しかし、ここでセレナの興味に水を差してはいけない。
「そ、そうか。ゆっくり見ていてくれ」
 この調子でセレナがハマってくれればいいけど、セレナはこの世間に僕ほど反感や退屈を感じているようには見えないから、どっぷりハマることはないだろう。
(まぁ、身近に『ルーイン・サーガ』の話が出来る奴がいるってだけでよしとするか)
 トーストを焼きながら妥協することにした。ネットの住民か、はたまた数少ないアニメ好きな友人とでしか話せなかったことを思えば、うれしい出来事ではある。
 身近? すっかり、僕の生活にはセレナが溶け込んでいる。セレナが、どこの、誰で、何故ここにいるのか分からないのに。しかし、当の本人に聞いたところで暖簾に腕押しだろう。調べたところで有力な情報に引っかかることもない。かわいいとは思うし、異性としてはこれ以上にないくらい魅力的ではあるけれど……。恋人にしようとか、したたかな下心は湧き上がらない。無論そんな勇気もない。あれほど非日常に憧れ、理想の女を画面で眺めていたのに、今はその理想が目の前に存在するのにもかかわらずだ。それもかなりアットホームな雰囲気で。
「セレナは、その……。不安じゃないのか?」
 背中越しのセレナに届くように言う。セレナは考えているのかしばらくの後口を開いた。
「どういうこと?」
「何でここにいきなり居るとかさ。だって見知らぬ男の部屋に、しかも裸だったんだぞ? 何が起きたとか思わないのか? あと、自分の記憶がないとか、それを思ったら不安にだってなるだろ普通」
 一つ一つ声に出して挙げるとセレナについて回る問題というのは、途方もなく難儀なものだ。そんなことどうでもいいように、オーブンはチン、と鳴る。焼けたトーストのほのかな香りが立つ。日常の風景に安心する。僕は夢の中でも別世界でもない、現世の日本に居るんだ。セレナの分のトーストも焼き上がり、牛乳と一緒に持っていってやる。セレナは嗅ぎつけたのか、読んでいた『ルーイン・サーガ』をソファにおいて姿勢を起こした。
「この前も言ったけどさ」
 セレナはトーストにマーガレットとジャムを塗りながら続ける。
「何も知らないの。でも不安じゃないって訳じゃないわ。そうね……、いつサタローが欲情して襲ってくるか分からないし、身分を証明できるものがないしね。病気になったら保険利かないしさ。でも、あいにくサタローが衣食住支えてくれてるし。うろたえたって仕方ないじゃない?」
(僕に聞かれても……)
 セレナよりも、僕のほうがセレナの身の上を不安に思っているのか。セレナが楽観的すぎるのか、僕が杞憂しすぎているのか。
「そうは言うけどな……」
 竹を割るようなセレナの性格に戸惑ってしまうばかりだ。トーストを齧りながら『ルーイン・サーガ』を読むセレナは、僕の過ぎた杞憂などどこ吹く風か、ジャムのついた手を舐めて、吹かずにそのまま『ルーイン・サーガ』をめくる。心の中では悲鳴をあげていたが、実のところセレナの少しセクシーなシーンを見て嬉しかったりした。また見たいので、言わないことにする。外見は日本人には珍しい外国人特有の気品さあふれる顔立ちや、透き通るような白い肌、天の川を思わせるような流麗な金髪、その全てがハイクオリティで現存し、眼前に居るのだ。外国人が好きな日本人のニーズを全てものにしていると言っても過言ではない。それほどまでに美しい少女が、裸で、いきなり転がりこんできて、同棲まがいなことになったのだから、それはそれは色魔の誘惑の力のなんと強いことか……。
「え? セレナ、僕そんなに、その、あの、エロい目で見てるように見えた?」
 今になってセレナの言葉を思い返して顔から火が吹き出てしまいそう。「いつ襲ってくるかわからない」。つまりそんな気配をさせていたことと同義じゃないのか? セレナはどもる僕を見、卑しく微笑して口の端をほんのわずか上げる。
「そうねぇ。女って、男のそういうところに鋭いの。見たところサタロー残念童貞っぽいし。あ、図星でしょ? 残念童貞。ま、しょうがないよ、私魅力あるもの。裸見てもオナニーのネタにしないでよね?」
 心が、痛い。何もかも見透かされていた。オナネタにしようとしていたところまで……。唯一の救いが、そっけなく、冗談めかして言ってくれたところだ。 セレナという女は底知れない。華麗なる大器だ。まるでそう、アーシェのような。髪が黒くて、瞳が赤かったなら、アーシェにさらに近づく。あぁ、やっと、やっと……。
 アーシェ、じゃなくてセレナを見ていて思う。待ち焦がれていた非日常と憧れのアーシェのような女と過ごしていることに、かなり遅刻してきた歓喜の大波で心を満たされていく。セレナ、いや、アーシェじゃなくてセレナの記憶などどうでもいいから、このまま非日常に引きずり込まれたい。セレナは実は月の女神で、この世の魔物をひたすら倒すために降臨していて、僕がそれを助けたりするのかも。いや、もしかしたらバトルモノじゃなくって、ただただ愛を育むだけのラッキー野郎日常ラブコメのパターンなのかもしれない。が、しかし、幻想はセレナの一言によってあっさり微塵に粉砕される。
「あー、でも暇つぶしに、記憶取り戻したいかも」
 それは、もしかしたらセレナが変わってしまうかもしれないこと。記憶が戻ること、それすなわち僕とセレナの特別な日々から、目が覚めること。お互いの生活に戻ったり、二度と会えなくなったり、月の姫だったら月に帰ってしまったり。今も昔も、出会いと別れは二律背反。共存してこそのストーリー。
「そ……っか。でも今週は予定がな」
「こないだ日曜休みって言ってたじゃん。私の記憶のためなんだよ? さっきあんなに心配してたの、嘘だったわけ?」
 不穏な寒気が漂い始めた。セレナは怒ると無表情で声の波長が低調になる。今みたいに、仮面をかぶったようなそんな顔。
「分かった。分かったから……。日曜だな」
「そうね、なら今度はもっと歩き回りたいな。記憶、早く取り戻さなきゃね、うん!」
 真意なんて推し量らなくても分かる。だから、僕はため息をとっても大きくして、長いため息をついたのだった。


 電車で六駅またいで降りて賑わう街へ。僕が約束通りに起きなかったせいで、昼飯を食べそびれた。セレナはヘソを曲げてしまったが、ファミレスに入った時点ですっかり元通りになった。毎回毎回僕がおごるのは嫌なのだが、保護者の立場としては仕方ない。いつもセレナは気を遣って安いメニューを頼む。普段の食事の量以下のものを頼んでくれるのはありがたい。ありがたいけどお腹空いているはずなのに平気な顔をされるから、ちょっと複雑だ。
「遠慮してんのかセレナ。いつもより食べる量が少ないじゃないか」
 ついに聞いてしまう。甘やかすのはよくないと重々承知だが、それでも言ってしまったのだ。ドキっとした顔になったセレナはしどろもどろで隠そうとした。
「はぁ……。セレナって遠慮してんだか分からないよな」
「う、うるさいわよ」
 セレナの目の前にスッとメニューを出すと、すぐさまそちらに目を落とす。僕がメニューを下げる。予想通り残念そうな視線でメニューを追うセレナ。もう一回差し出す。どれにしようと目が泳ぐ、そのタイミングでまた引っ込める。
「遊ぶなっ!」
「はいよ」
 素直に渡してやる。まだ食べたかったのか、僕からふんだくったメニューから速攻で頼んだ。もう目をつけてあったらしい、和風ふんだんキノコのハンバーグ九八〇円。千円くらい大丈夫なんだけどな。いや、甘やかすのはよくない、よくない。


「私、バイトとかした方がいいのかな?」
 ウインドウショッピングなるものを生まれて初めて女としている中、セレナは真剣なまなざしで、店員を目で追っている。
「なんだ、一応考えてるんだな」
「悪い? 分かった。じゃあ、このバッグとあのストール、買ってよ? 合計二万くらい? あと、さっきのお店のポンチョとか―――」
「分かった、分かったから。セレナは僕の財布の中を気遣ってるな。すっげぇな。流石セレナだ」
「勘弁してあげるわ」
 持ち上げるだけ持ち上げたら勘弁してもらえた。それにしてもそんなに欲しいものがあったのか。音に聞く女のコーバイイヨクというものは、女なら誰でも持っているようだ。
「別にあんなんいらないけど。暇つぶせないし」
 ここに例外がいたようで。セレナに限って物欲基準は「暇つぶし」が正解。無骨な服装で街を歩いていたセレナを見ていれば分かることだった。
「僕の部屋は暇つぶしに最適だな。漫画もゲームもあるし」
 もう見飽きたのかセレナはショーウインドウから目を離して振り向いた。
「サタロー、悪趣味だもん。あんなのばっか読んでるから根暗なんだ。あ、違うか。根暗だから読んでいるのか」
 せっかくの休みを割いて散策に付き合ってやっているのに、ここまで言われるとは。しかし……、核心なだけに、つくづくサトラレ気質を実感する。
「確かになぁ……」
 しかも、妙に納得する自分がいるのだ。
「ちょっとすぐ認めないでよ。張り合いないなぁ。ほら、次はあんたの行きたい場所なんでしょ? いくわよ」
 変に優しさを見せられても惨めになる。けれど、滅多にないイベントだからしっかりいただいておこう。
 ついたのはアニメグッズ専門店。ここが僕の来たかった所。

『ぽっぷれんたるぅ~☆ 限定あーりゃんバリキュンチアコスフィギュア発売中』
 
 店頭にはこんなポップ。平常運行なんだ、これでも。かわいさが飽和しているポップがでっかく飾られていても、だ。ただただオタクに媚びやがるように萌え押しがドキツイこのクソアニメめ。『ルーイン・サーガ』よりでかい顔してんじゃねぇ。と、いつもの悪態が沸いてくる。隣のセレナを試しに見てみると、予想通り表情が凍りついている。活動停止。唖然と口を開けて流れてくる「ぽっぷれんたるぅ~☆」のオープニングに頭をかき混ぜられているのだろう。無理もない。ここは魔窟なのだ。
「お、おい。お前外で待ってろよ……」
 声をかけてようやく洗脳から解き放たれたようで、我に返って僕を見る。
「お前って言うな……」
 洗脳の音波は深く響いてしまっているようで、いつもの文句にも覇気がない。重傷を負いかねないぞこれは。
「なぁ、ホントに……」
「いくわよ。今日付き合ってくれたんだし、いくわよ」
 意を決したのか、一歩重く踏み出した。これは早く用を済ませたほうがいい。セレナがあの表情で固定されかねない。欲しいものだけ買って帰ろう。まずは漫画コーナーを回る。下調べを済ましておいてよかった。これと、これの新刊―――、お、この作者新しい漫画出したんだな。あとこのオムニバス面白そうだな。財布の中身は多く入れてあるから買えるだろう。
 漫画という名の煩悩が蔓延る店で泳いでいて気づく。下調べなど一切意味がなかったことと、セレナがそれに見かねて一話限定の試し読みをしていたことだ。このコーナーだけでも試し読みは数多くあるから、ここで待ってもらおう。夢中になっているみたいだし、洗脳電波からも身を守れるはずだ。
「セレナ、この辺に居ろよ」
 だまってセレナはうなづいた。よし、今日諦めかけていた同人誌コーナーに足を向けられる。こここそ、煩悩なぞ生ぬるい、変態の巣窟、歪な性欲の奔流……、魔窟最深部。俗に言う、エロ同人。集めてはいるが―――、今回は目ぼしいものはないようだ。アーシェが淫らな視線でこっちを見る。やめてくれ、アーシェはそんな顔をしない。この同人誌を書いた奴はジャーマンスープレックスをぶちかましても足りない。裁かれてしまえ。そうだ、普通の同人誌を買おう。確か出ているはずだ。この店はエロ同人に力を注いでいるから探すのに苦労しそうだ。見当たらない。これらを女性店員が陳列していることを思うと実際に並べている姿を見つめたい。どんな顔をして、どんなことを思っているのだろう。などと腐った妄想をしているから、不意に近づく足音に飛び上がる。穢れた欲望を打ち消して、歪んでいるであろう顔面を感情ゼロに戻す。
「サタロー、あんた……」
 いっそ、女性店員のほうがマシだった。セレナが、乱れる女の裸体がずらりと勢ぞろいするエロ同人コーナーを目にしてしまった。むせ返るようなエロの瘴気にあてられて、入店時よりも致命傷を負ったであろうセレナも、流石に一歩たじろいで、金魚のように口をパクパクさせる。
「あ、あんた、ま、ままままぁ、あんたも男だよね、うん。そうね」
 今から僕は何を言われるんだ。おののき震えて、僕は動けない。言い訳なんて浮かぶわけもなく、視線を東奔西走させる。
「ところでなんでこの女の子は小さいのに裸なの? 見るからに小学生くらいじゃない? この白い液体は何? ねぇ、なんで皆こんなにおっぱいおっきいの? っていうか、なんで皆気持ち悪い顔して喜んでるの? 何に喜んでるの? ねぇ、なんで?」
 鬱屈してブッ壊れた性欲の塊たちに次々と、純粋な疑問をキラーシュートで放っていく。全ての問いの答えなど、一つでまとまる。「そうしたほうがエロい」から。つまりは性癖だ。しかし、そんなことをセレナに言えるわけない。ナイフで開いた傷口に丁寧に塩を摺りこんできやがる。痛い。ずくずくと痛い。狂った性欲所持者に対してセレナは無敵だ。
「す、すまん。もうちょっとさっきのコーナーで待っていてくれ」
「なるほど、ここは性犯罪者生産場なのね、この店は……」
 目の前の悪魔は白い目をして僕を睨む。魔窟最深部に悪魔がいる。倒せっこないぞ。言い返す武器もない。悪魔は羽虫を見るようにして自分の城、もとい漫画立ち読み安全区域に帰っていった。とたんに周りの奴らの恨めしい波動をひしひしと感じた。そういうや僕はセレナの裸を見たし、一緒に暮らしちゃってるし、一緒にお出かけとかしている。優越感で頬が緩む。でも帰ったら帰ったらで、セレナがいろいろ訊いてきたり、探されたりすることを思うと、あがった口角も下がってしまう。
(早く選ぼう)
 セレナを待たせると後が怖い。今度バイト行くとき詳しく見よう。魔窟最深部から抜け、早々に女性店員が流れるように本をレジに通していく。エロ漫画があっても、やはり慣れているのか眉を微動だにしない。つまらない。恥ずかしがって欲しいのに。
(……っ。これだから僕は!)
 そろそろ変態の性欲を払拭しよう。さすれば女も出来れば定職にも就けるかもしれない。そう思って過ごしてしかるべきだ。いい加減にしよう。せめて、現実世界に妄想を持ち込むのはよそう。自分の部屋の中だけにしよう。いや、セレナがいるから……、トイレ? 風呂? 一人の空間なんて限られてきてしまっている。オタクを卒業しなくては。出来るとは、思えない……、けど。
「セレナ、帰るよ」
「………」
 試し読みの冊子を無言で置いて、凍てつく目をして近づく。
「言わんとすることは分かる。今ここで言わないでくれ」
 僕より早足でセレナは先に出た。もう二度と連れてこない。セレナのために。何より僕の精神衛生のためにも。


 帰り道、僕はセレナから一切話しかけられなかった。僕から話そうとしたけど、何を話しかけても返事すら返ってこない気がしたから話さなかった。
「今日は何のアニメやるの?」
 いきなり何の話だ。訳が分からない。
(アニメなんて興味ないだろ! お前!)
 僕がアニメ見てるときセレナは寝てるか雑誌読んでるかしていたはずじゃないか。どうした、いったいどうなっている。少し動転してしまう。
「あー、うん。『ぽっぷれんたるぅ~☆』やるな」
「それ何」
「今日行った―――あの、アニメ、ショップの……、店頭に飾ってあったでっかいポップのヤツ」
「ふぅ~ん」
 空にきらめく星が遠い気がする。月はどこにも姿は見せず、星は薄い雲にさえぎられて弱弱しい。不穏な雰囲気を彩るものはない。
「サタローはあーいうのが好きなんでしょ?」
 抑揚がないセレナの声に、僕は怯えながらも正直に答える。
「僕はああいうのは好みじゃない。っていうか、好きじゃない。かわいくみせようというのが目にうるさいし」
「ふぅ~ん」
 家についてからもセレナは僕に対しての反応が薄い。僕の存在を無視しているみたいにそそくさと買ってきた雑誌を読み始めた。いたたまれない。今度は夕飯があるというのに買ってきたお菓子をむさぼるセレナ。食べ終われば、セレナは買ってきた服のタグをはずしてたたみ始めた。
「お菓子食べた手で新品の服さわんなよ。僕がやっておくよ」
 引け目を感じていたから、セレナのために何かしてやりたかった。あせって服を奪うようにセレナの手から取って、畳み始める。よくよく見れば、セレナの畳んだ服は、形も折り目も歪だった。だから、そっちも崩して畳みなおす。
「いいか、こうやって畳むんだ」
 僕は父親になったような心地で、セレナに優しく教える。だが、当のセレナはむすっと口を一文字に結び、怒りの篭った目で僕を睨むのだ。
「私、自分で畳みたかったんだけど」
 アニメショップでの事件以来、初めて感情が篭った声を聞いた気がする。それは突き放すような、冷たい温度。一気に殺伐とした空気が部屋を支配する。僕が畳んであげた服を粗雑に積み重ね、この間クローゼットに急ごしらえしたセレナ自身のスペースにしまう。
「そっか。サタローくらいになると、さわったってだけで女の子の服でもネタになるの? 私の吐いたCO2でさえ喜んで吸ってそうよね」
 汚物を見る目が僕に向けられている。腐ったゴミを片付けるように気遣いのかけらもない言葉を僕にぶちまけた。
「お前、それは言いすぎだ―――」
 その瞳はやめてくれ。虐げるような視線は、学生時代に何度も向けられてきた。理由無き迫害。
「お前って言うな! ……あんな本がたぁっくさんある所で平然と、ううん、犯罪者の顔してたもんね。そのくらい変態なんでしょ?」
 僕は仏じゃない。人間だ。冗談なら今すぐ謝れ。威圧しているつもりなら今すぐ訂正しろ。お前はついに言ってはいけないことを言ったぞ。憤りで足が勝手に動き、立ち上がって言ってやる。
「なぁ、その偏見はなんだよ。言いたいことは分かるけどな……、言い方ってもんがあるんじゃないか?」
 震える僕の喉から、煮えたぎるマグマの熱を静かに言葉に出来た。目がかっ開いているのが分かる。激怒を押し黙らせている表情を目の当たりにして、セレナが少したじろぐが、気丈にもセレナも立ち上がる。
「何よ。本当のことでしょ」
「そうだな、その通りだ。お前の言うとおりだ。だけどな、実際に行動に移したこともないし、横暴なお前以上に良識を持ってる。誰とは言わねーけどさ、記憶喪失の誰かさんにとやかく言われる筋合いはないね」
「はぁ? 何でキレてんの! だいたいお前って―――」
「また、そうやって馬鹿の一つ覚えみたいに言いやがって。いいだろお前って言ったって。こっちは服も本もお菓子も買ってやってんだ。飯も食わしてやってる。しかもタダでな! その上てめぇの我侭もこっちは聞いてやってんだ。訳分かんないことばっかのたまいやがって。記憶喪失のてめぇを、何の関係もない僕が! よくしてやってんだろうが! てめぇには恩義ってものはないのか!」
 ついに火蓋を切ってしまった。とめどなく荒ぶる烈火のごとき怒り。こっちが怒鳴れば怒鳴るほど、セレナはわなわなする。何故お前が怒る? 僕が正しいだろ? 正常な脳があれば、ここはおとなしく聞き入れてしかるべきだろう!
こともあろうに、セレナは目を吊り上げて言い返してきやがった。
「はぁ? あんたがいいって言ったからでしょ! だいたい私だってこんな気味悪い男の部屋なんかに居たくないわっ! あんたなんてキモくて根暗な犯罪者予備軍の一人が、私みたいにかわいい女の子と一緒に暮らせるなんて一生ないんだから、むしろありがたいと思ってほしいくらいよ!」
 言葉の刃でさらに僕の傷口をえぐりにかかる。この期に及んでまだ激昂させたいのか、この雌穴野郎は。
 
 だいたい僕は好きでキモくなったんじゃあ、ない。
 好きなものがアニメとか、漫画だったから。それに真面目に向き合ってただけなんだ。
 世間がそれを気味悪がっているせいで、僕は肩身の狭い暮らしを強いられてきたんじゃないか。
 僕が悪くない、といいたいわけじゃない。ただ、認められないことが腹立たしいんだ。真面目に向き合っていることが、そんなに悪いことなのかよ。真面目に生きろって教わったのは嘘なんじゃないか。自分に正直でいろって教えた奴はどこの誰だ。
 こんなのってない。いつもこんな形でののしられ、不当な、傾ききった一般論で扱われるのは、我慢ならない。

「は? 居たくない……? じゃあ出て行けよ」

「今すぐ、出て行けっ!」
 
 噛み締めた歯の間から漏れ、次は咆哮した。悲痛な慟哭で部屋が揺れた。握った手のひらに爪が食いこむ。めくり上がってしまうくらい見開いた瞳に、射すくめられたセレナは、怯えた表情を見せた。今の僕が、それで背徳を感じるはずもない。むしろ逆だ。加虐心が怒りで煽られていく。
「聞こえなかったかよ。出てけ」

 パンッ!

 冷たく、重く言い放った瞬間。僕の頬に衝撃が走った。ひっぱたかれたのだ。セレナは、ひっぱたいておきながら涙を零していた。顔をぐしゃぐしゃにして、けど、目だけは強く吊り上げて、涙を我慢しようとしていた。
 走って出て行く。ドアを開けっ放しにして出て行ったのか、足音が遠のいていく。聞こえなくなるまで待っていた。
 閉めに行くその時、開いた玄関のドアから覗く外を見ようとしたけれど。
 
 勢いよく閉めた。


 目が覚めた。静かな昼だ。周りを見回してセレナが居ないのを確認する。ため息が自然と部屋に落ちた。機能あんなに怒鳴り散らしたから、隣人から文句が来るんじゃないかとドギマギしている。
(あー、時間危ないなぁ……)
 今日は昼の一時半からバイトだったんだ。急いでベッドあら抜け出して準備をする。コーヒーもトーストも二人分用意する必要は無い。スティックシュガーを買う必要もない。ここの二週間くらい、静かな昼なんてなかった。
 本当に、セレナは居たのだろうか。突如として消えたせいで実感が湧かない。昨日あんなに激怒し、追い出したにもかかわらずだ。実感も何もないのだが、部屋を見ればセレナの好きなお菓子とか、雑誌が転がっている。面倒なことに、セレナは居た証拠を律儀に残していきやがった。
「まぁ……、どうでもいいか」
 セレナの残滓をどうしようか迷った挙句、お菓子は床下収納に、雑誌は机の引き出しにしまって、僕は部屋を出た。
 バイト先へ向かう道。いつもと同じ道。新鮮に感じるのもおかしな話なのだが、つまらないと感じだ。もともとつまらない道だ。道行く人とか、車道を通る車とか、赤信号の待ち時間とか。どれもこれもモノクロアウトして、灰色に染め上げられている。
(そりゃ、そうだよな)
 特別な時間だったんだ、あれは。むしろ、この風景が僕の生きるべき世界なんだ。やっと目が醒めた。


 バイト中、バイトメンバーの女―――「部屋の明かりをつけっぱなし」が話しかけてきた。
「今日元気ないみたいですねぇー」
 歳は同じくらい、ちょっと厚めのファンデに対照的に、控えめに書かれたアイライン。染めすぎなのか、痛んだ暗めのブラウンアッシュの髪。セレナの美しさに比べたらかわいそうなのだが、比較にならない。先ず素材から違う。もう一つ言えばオーラも貧弱。一生懸命作ろうとしているかわいさなど、領域に近づけるはずもない。そう、この女もまた、凡庸世界の住人。僕と同じ、灰色の現実に生きる残念な存在だ。
「あー、そうですか?」
 この女はよほど話すことが好きなのか、よくメンバーと話している。浮いている僕にも話してくるほどだから、相当だ。
「そうですねぇ。やる気的な? そういうのがいつもより無い? こういうのってなんていうんですっけ? カッキ? ハキ?」
 声の端を無意味に上げるな。かわいいとでも思っているのか。と、いうか、僕の様子がいつもより暗いなら話しかけてくるな。
「あー、すいません。そう見えますか」
「あ、違うんだ。そういう風に言いたかったわけじゃないんだけど」
「そうなんですか」
 汲み取れよ、この気まずい空気を。お前が作ったんだぞ。だいたい、僕はお前と話していても面白くもなんともないんだよ。この間の飲み会がどーだ、友達の別れ話がどーの、毎回毎回退屈なんだよ。と、心の中でフラストレーションを発散していたら、ようやく察したのかやっと口を閉じた。僕は女からは離れて、無意味に在庫のチェックを行う。この時間帯にはしないことだ。いくらお前でも分かるだろ、この雰囲気と僕の行動で、お前を避けてるということが。
「クロセさーん。在庫チェックの時間、まだですよー」


 馬鹿女と接するのは面倒だ。今日は木曜日、ルーイン・サーガの日。この日じゃなかったら、ずっと不機嫌のままだったろう。今日の嫌な時間があってこそ、ようやくのルーイン・サーガだ。
(馬鹿な女ねぇ)
 セレナも馬鹿女だったけど、疲れはしなかった。
(未練がましいなぁ)
 僕が追い出したんだ。今も、戻ってきて欲しいと思わない。イライラしたり気を遣ったり、そういう人間との摩擦に過敏になることはない。だから僕はこの現実で幻想の世界を覗くことにしたんじゃないか。人と最低限接さず、働き義務を果たす。そうして、自分の趣味のために生きる。親はうるさいだろうが、知ったことではない。孫が見せられないとか、自分の老後とか、そんな問題は就職難の前には取るに足らない。結婚が人生の墓場という言葉を言った人は、間違いなく未婚者に優しい人だ。すばらしい。
 無駄なことは今、全て排除するべきだ。ルーイン・サーガを僕の中に満たす準備をするべし。
 今日はオープニングがなかなか始まらない。長いアバンだ。確かにあと四話くらいだから、盛り上げる部分の冒頭として使っているのだろうか。アーシェと統治が話している学校の喧騒の中、いきなり夜の帳が落ちた。周囲の喧騒も生徒も消え、妙に漂うは悪魔の気配。二人の周りには悪魔の手下、カコデモンどもが―――。そして急フェードインする新オープニング。原作、つまり漫画にはなかったシーンを使っての、既読者への刺激を促すニクい演出。展開としてはベタだけれど、マシンガン撮影や、俯瞰から一気に引きついていってのアーシェの瞳とか。鋭く尖った完成を持っている監督さん、音響さん、アニメーターの方々に深々と頭を下げるしかない。感服した。ぞわぞわと鳥肌が立ってくる。
 新オープニングも、先週までのオープニングのダークな空気を残しつつ、よりハウステクノに近づいた。リズミカルなテンポに合うカットを多めに使っており、材料を生かすテクニックも引き寄せられる材料になっている。サビに入っての過激戦闘シーンのアーシェがかっこいい。戦闘衣装が変わっているカットが一瞬置いてあるということは、覚醒したアーシェも今後出てくる可能性があるということだ。そこまで見せるのか。
(スゲェ……)
 漫画の上のアーシェでさえも十分に美しく、気品にあふれつつも、暴虐の使途として暴れまわる姿は描かれていた。けれど、それが動き、なおかつ音楽が乗せられていると、ここまで素晴らしい作品になるのか。
 約二十分はあっという間に過ぎて、そしてまた通販番組が始まった。余韻を確かめてテレビをゆっくりと消した。

「神 回 決 定」
「ってか来週からアーシェ『寵愛体』見れるんじゃね?」
「今日で原作からズレたな。1クールだから仕方ないけどさ。俺としてはチャットとヘリオスが絡むシーンも見たかったな」
「今回ヘリオス空気だからなぁ。そこが失敗だよな」
「いや、でも来週活躍しそうじゃん。チャットとフェリオと組んでたし」
「いやぁ、でもこのオリジナルストーリーは面白いと思う。世界観をちゃんと維持して進行してくれればそれでいいな」

 終わってまもなく、ネットの住人どもは徒然に感想を述べていく。今日ばかりは一様にいい意味でだまされたらしく、満場一致とはいえないが、おおむねみな褒めちぎっている。僕も書き込んでゆく。今日は荒れることなく、掲示板は盛り上がっていく。

「おそらく『寵愛体』の出るタイミングで面白いか面白くないかが面白さの分岐点なんじゃね?」
 
 これは僕の書き込みだ。レスが早い。もう来た。明日は休みをとってあるし、朝までこのスレにいるとするか。


 暗い。夜だ。そうか、あのあと……、朝方まで起きていたのか。風呂も入っていない。体が若干汗ばんでいる。気持ち悪い。でもシャワーを浴びることすら気だるくて、僕はそのままベッドで呆けることにした。だけど、呆けることにさえ体力が要るし、お腹もすいた。晩飯を食べることにする。ご飯に漬物だけで済まそうと思ったけど、炊飯ジャーの中は空だった。インスタントも無い。ちょうど今朝食べてしまったことを思い出し、悪態をついてパスタを作ることにした。沸騰させたお湯に塩とオリーブオイルを入れてからパスタ麺を入れる。缶に入ったミートソースをフライパンに移して弱火で暖めておいて、茹で上がったパスタ麺と絡め、ささっと皿に移す。
 昨日の夜から立ち上げっぱなしだったPCの前で、謎解きサウンドノベルをプレイしながらの晩飯。結構前に買ったのだが、やる気が起きなかったり、別のゲームをやっていたりと、手を出せずじまいだった。昨日書き込んでいたスレッドの奴らのレビューが興味深かったのでやることにしたのだ。
 目でPC上に流れてくる文字追って、右手でフォークをくるくると回して口へと運ぶ。PCの画面の上では、むごたらしく殺された事件が起きても、僕の右手と咀嚼は止まらない。左手でクリックして犯人探し。ストーリーが進めばまた人が死ぬ。目ぼしい人はいるが、それは見え透いたフェイクで毎回怪しいと思わせる人間は死んでいく。ただ流れていく事象に僕はクリックで流されていくだけ。そういうゲームだ、サウンドノベルは。
(楽しくない……)
 ギャルゲーやエロゲーもサウンドノベルだけど、なんかこれは面白くない。勝手にストーリーが進み、それらしいヒントもフェイクのせいで疑わざるを得なくなる。しかし、今はこっちのほうがいい。選択肢がほとんど無い方がいい。女の子が選べるギャルゲーよりか、こっちはただクリックしていればいいだけだから。


 謎解きサウンドノベルは、結局は謎解きじゃなかった。一族の家系の呪いとかなんとかで、精霊の悪戯でした―、というエンディングを迎えたとき、僕はマウスを画面に投げてやろうかと思った。謎解きだ! と銘打っておいてそれはないだろう。確かにキャラが独特だし、話の進め方も見やすく、かつスリリングだったから引き込まれる力は強かった。昭和の高度経済成長期を迎えた日本を背景に、未だ残る呪いや死神の恐怖が、文体からにじみ出ていた。ただ展開が斬新というか、なんと言うか……、斜め四十五度に行けばいいってもんじゃないだろう。やってるうちに飽き飽きしていたから、他のゲームと平行してやっていた。だから、一週間とちょっと掛かった。こんなものに時間をかけるくらいだったら、ギャルゲーや積んである漫画を読んだのにな。時間を埋める道具など、腐るほどある。
 そういえば、セレナを追い出してからもだいぶ経ったみたいだ。思い返すと楽しい思い出だったな、と独りでごちてみたりも出来る。それほどまでにセレナは遠い、それこそ画面の向こう側の存在と同等のものになってしまった。僕が記憶を取り戻してやろうなんて思ったくせに、そんな自分の中の約束は、もう紙くず同然に消えうせてしまった。灰色世界底辺の住人としてこれからも暮らしていく僕からすると、あの日々は眩しくて眩しくて、夢か妄想か勘違いしてしまうほどだ。真夏の夜の夢のようだった。
 今日も今日とて昼からPCをつけた。今日は休みだ。何故休みか。バイト終わりにメンバーが飲みに行くらしい。あの馬鹿な女は僕を誘ってきたが、他の面子は僕など望んでいないだろう? 器用に休んでおいた。もしバイトを入れたならば、帰るときに居心地が悪くて仕方が無い。来て欲しくもない人が来て喜ぶ馬鹿も居ないし、わざわざ傷つきにいくような馬鹿も居ないだろう。誰にも求められていないならば、誰も求めないでいよう。
 眼前のモニターが移す素晴らしいセカイでさえただの現象で、灰色の世界の中では幻、空想の泡沫と成り下がる。そんな灰色の世界だって、ゲームやアニメのように、現象と環境がただ変わっていくだけだ。移ろいゆく常識と世界情勢の中で、自分だけが真実。そうだろう? 分かり合えるだとか、ずっと一緒だとか、耳にタコが出来るほど聞いてきたけれど、そんなに残酷な事実から目を背けることが面白いか? 生きるっていうことは、孤独と付き合っていくことだぞ。皆分かっているくせに。
(まぁ……)
 それも付き合ってはいけない。だから僕はそれと付き合っていくためにオタクになったのかもしれない。いや、絶対そうだ。現実に出来ない、起こりえないことを僕の変わりに主人公が叶えてくれるからだ、現実には起こりえないから、毎回僕は悲しくなるんだけど、それでもオタクはやめられない。僕な好きな生きがいはこれなんだから。
 PC画面上でかわいい女の子は僕に微笑んだ。四つ選択肢がある。この選択肢しかない。実際に話せたのならどんなにいいことだろう。逆か、四つに縛ってくれる分、面倒はないしな、助かる。決まったエンディングに、決まったルートで行けば簡単にたどり着ける。今回は、たぶんこの選択肢じゃないか。
 選んでいくうちに、バッドエンディングのルートに入ったようだ。どうやらあの選択肢は間違いだったみたいだ。戻ることにしよう。内心傷ついている女の子に優しくするだけじゃ駄目だったみたいだ。そうして、何度もセーブとロードを繰り返していれば、どうせ時間も思考も忘れる。


 PCをつけても、テレビを見ても、漫画を見ても、何一つ面白くなくなってきた。漂うのはただの夜の闇、傍らによりそうのは無。おかしい話だ。普段と何も変わらない部屋で、いつもの僕でいるはずなのに、この零を体現したかのような気持ちはなんなのだろうか。どんなにかわいい女の子も、ときめくシチュエーションも、ルーイン・サーガでさえ、僕の心は動かなかった。所詮灰色世界の産物だと思うと、どうしたって気分は向上しない。
 むなしい……。これがその気持ちなのだろう。忘却の彼方に置いてきたはずの、あの日々の記憶は色鮮やかに僕の心のフィルムに映しこまれている。あんなに刺激的な日々はなかった。だって、美少女とのあんな出会いは、灰色の世界にはないはずだったから。待ち焦がれていたはずの僕は、それが訪れたところでそのチャンスを自分の手で逃がしてしまった。あんなつまらない口論で追い出すだなんてどうかしていた。追憶が二次曲線を描いて加速する。そのせいで僕の孤独が飽和を通り越して破裂寸前だ。慣れた毒も致死量ならば死んでしまう。戻ってきてくれと今更思う。
 この哀れで醜い底辺オタクに舞い降りた女神。さぁ、そろそろ戻ってきてご褒美をくれないか。ベランダ際に立って、僕は月を探す。あの日の満月はそこに無く、代わりに猫の瞳のような三日月だった。満月には程遠く、その月の光と影の具合と僕の心が重なる。わずかな光のせいだ。見えるから届くと思ってしまう。手を伸ばせど届くわけもない。まるで安い歌の歌詞みたいで、一気に僕の感情を外に投げ捨てたくなった。一般ピープルが聞くような同情の焼き増しの曲に共感できる日がこようとは、僕も根本的なところではあのバイトの馬鹿女と所詮同じなんだ。寂しがり屋。孤独に慣れたつもりでいる渇望者。
 寝よう。これ以上考えていたら変になってしまいそうだ。時の流れは流し雛に似ている。流してしまえば、救われる。流された日々はただ無為に彼方へむなしく消えていくだけ。僕らは雛の行き先なんて気にしていられない。
 ベッドに入る。相変わらず部屋は暗い。たまに聞こえるのは遠い車の音。考えないように、考えないように。車の音に耳を傾けていく。次第に秒針の進む音にまどろみを誘われるが―――。
(あ、やべ。アニメ録画しないと)
 いつもより早く寝るからアニメが見れない。せっかく訪れた薄い眠気に水を差してしまった。かすかな月明かりを頼りにビデオレコーダーを起動させる。
(えぇっと、今日は何時からだ……?)
 録画予約は週ごとで登録してあるけれど、毎回確認しないと安心して眠れない。予約一覧を見ようとリモコンをまさぐる。そんなときに、音の少ない部屋に新しい音が響いた。
 コン……、コン……。
 弱弱しく響いた乾いた音。心臓が跳ねる。一気に覚醒する意識に、体が追いつかない。固まる。テレビには「録画予約を取り消しますか?」の文字。それでもなお、キャンセルのボタンを押せずにいる。

 コンッ……、コンッ……。
 聞き違いじゃない。音の先は玄関。高鳴る鼓動に打ち付けられて体がやっと動く! もたつきながらも、手をつきながら立ち上がって走り出す。すぐに玄関につくけれど、そのドアを開けるまでには至らなかった。開ける、ただ単純なことなのに、いたく難しいと感じた。手がノブに伸びない。届かない。覗き穴から覗けばいいのに、体はそこで急に止まる。もし、何もなかったら。

「サタロー」
 
 した。声だ。セレナの声だ。か細く、ドアの厚みすら越えないような、そんな音。

「セレナ……?」
 
 名前を呼び合う二人。
 それだけで存在が分かる。触れることなく届く。だから隔てるドアを開ける。重かった体は簡単に、けれどぎこちなく動いた。
「もっと、早く、気づいてよ……」
 セレナ、倒れていた。磨かれた珠のように美しい頬に一筋の赤い傷を作って。
「お前、なんで……」
「お前って……、言わないで……」
 力なく顔を臥して、セレナはそれ以上何も言わなくなった。
「セレナっ!」
 抱きかかえて、セレナを確かめる。冷たい。凍えている。息はある。身は小さく震えてしまっている。生きている。よくよく見れば、服は僕が買い与えた無骨なものではなく、もっと女の子らしい、セレナによく似合ったものだ。だがそれはところどころ破け、ほつれていて、土汚れも目立つ。いったいどうしたというのだ。
「とりあえず、暖めないと!」
 セレナを背中に乗せ、部屋に入った。セレナは小さく、また軽かった。僕の背に簡単に収まった。響く心音に、一抹の安心を得て、部屋へと急いだ。


 さっきまで不貞寝していたベッドにセレナを寝かせる。布団をかぶせて、暖房をつけて温度のボタンを連打した。ぬくもりに、セレナの体は力が抜けたのか、お腹を鳴らした。なんだか間抜けでいつもと同じ、セレナが帰ってきてくれたと、自然と薄く涙が出た。
 涙せいでかすむ視界をぬぐって、うどんを作ってやることにした。温まるように、しょうがもすって作ることにした。味がマッチするか分からないが、豚汁をベースにする。母さんに教えてもらった、直伝の豚汁だ。風邪をこじらせた時によく作ってもらった。困った人を助けるのは当然のことなのよ、と教えてくれた母さんの意思と、なんともありませんようにと、ぬくもりをこめる。弱火で具を煮込む。その間にセレナの様子を見ることにする。漂う味噌の匂いに誘われたのか、セレナはかすかに鼻を動かした。野性味を感じさせるしぐさなのに、そこに所謂「萌え」がある。なんだか犬に似ている。
「ん……」
 意識がもどったのか、声を漏らしたセレナ。顔をだるそうにして目を覚ました。
「サタロー……」
 確かめるようにセレナは呟いた。てっきり「いいにおい」とか、「ごはん?」とか、そういう食欲に忠実なことを言い出すかと思っていた。そんな濡れた瞳で僕を見つめないでくれ。セレナらしくもない。
「いい、におい。ごはん?」
 ワンテンポずらして僕の予想に漏らさず合わせてきた。濡れた瞳も、よくよく考えれば、寝起きなんだから当たり前か。
「うどんを作ってるから、もうちょっと待ってろ」
「………。うん、ありがと」
 まるで借りてきた猫のようにおとなしいセレナ。この一週間半くらい、何があったというのだ。聞くに聞けない……。顔に傷を作って、ぼろぼろになるほどの出来事。とりあえず、今はぐつぐつと煮えている鍋の待つキッチンへ。
(こういう時って、話すまで待っといたほうがいいんだよな)
 普段見ているアニメのストーリーがこんなところで役に立つとは。空気の読めない主人公とかだと、たいてい地雷を踏んで面倒なことになる。女の話の聞きだし方を少しも知らない僕の出来る限りの気遣いだった。
 いい具合に煮立ってきた。もうそろそろいい頃合だろう。このタイミングで卵を入れるといい具合に半熟になる。どうせおかわりをせびってくるだろうから多めに作った。卵も固まってきたから、おわんに移して持っていってやる。
「できたぞー」
 ベッドの枕元におぼんを置く。そろそろと布団をどかして、ベッドに座る。そうして僕をまじまじと見、うどんもまじまじと見る。何回も繰り返す。
「気に入らないのか?」
「そんなことない……」
 前までガツガツと平らげていた様子だったのに、嘘のように落ち着いて食べようとするセレナ。おわんを持って、「あつぅ」と小さく悲鳴を上げた。
「そのまま顔近づけて食っちまえよ」
 下品だが今日くらいいいだろう。僕にうながされるまま、吐息で麺を冷ましてからすすって食べていく。
「おいしい……」
 顔をおわんに近づけ、犬が水を飲むように低姿勢で汁もすする。コンニャク、豚肉、ごぼうにさといも。セレナはどれもこれも、ふーふーしてからおいしそうに食べる。うれしそうに、顔をほころばせながら。しかし、その目は寂しそうに伏せたままだった。
「もうお腹いっぱい」
 半分も食べ終わらないうちに、セレナはごちそうさまをした。これくらいの量だったら、セレナの胃に収まってなお余ると思っていたが、これはどうしたことだろう。ますますセレナの様子が気になってしまう。
「そうか……。冷えただろうから、風呂にも入れ。沸かしておくから」
 再び布団に入り、顔をうずめながら小さくうなづいた。男臭いとか、タバコくさいとか、文句もいわない。静か過ぎる。
 セレナの残したうどんにラップをして冷蔵庫に保存、残った豚汁と麺は別々に作っていたので、麺は冷蔵、豚汁の鍋には蓋をしておいた。それから風呂場の蛇口をひねってお湯を貯める。入れるようになるまで二十分くらいか。居間に戻ると、セレナは眠っていた。お風呂沸かす、って言ったのに寝てしまうとは。今日は久々に風呂に入るか。
「何で……」
 布団でくぐもった声。なんだ、起きていたのか。言いたそうにしているのが分かるが表情はかぶった布団のせいで見えない。
「何でドア開けてくれたの?」
 どうやら後ろめたさを感じているらしい。道理でおとなしいわけだ。寒さのせいだけではなかったようだ。セレナの今日のしおらしさは、そういう理由があったからなのか。
「二回も厳寒でぶっ倒れてる奴なんてセレナくらいだよ。キモいオタクにも道徳くらいあるよ。ただ拾っておけば面白そうだしね。そういや、前は裸だったもんな。それを思えば冷静に対処できたな、うん」
 冗談めいて僕は言ってやった。気を遣っているつもりならば、気にしていないことを示してやればいいのだ。
「なんなのよ……。馬鹿みたいじゃん、私」
 むすっと、しかし、声が明るくなったのを聞いて素直に嬉しくなった。だから、自然と言えた。
「でも……、あのときは僕も言い過ぎたよ。お互い様ってことでな」
「うん、そうね。わたしも、ごめんなさい」
 セレナから素直な謝罪が聞けるとは思ってもいなかった。照れたように深く布団をかぶって消え入りそうな声で謝る。そのセレナの姿は見えずともかわいい。心がむずむずして、そわそわして、どきどきする。
 しかし、そんな甘酸っぱい感情を味わっているうちに僕らの間には言葉がなくなっていた。気まずさと、静かさが漂っている。その場に立ち尽くしてしまった。僕から何か聞くのは、野暮なきがしてしまう。簡単に踏み込んで、また怒らせたらどうしよう。そんなことばかり考えている。今セレナを傷つけることは出来ない。聞きたくても……、聞けない。
「聞かないの……、今までのこと」
 切なげなセレナの声色。零れた問題の核心。言って欲しかった一言だった。
「だって、僕から聞いたらなんか……、あれかなって、思ってさ」
 話をふってくれたにもかかわらず、僕には訊く事はためらわれた。口から出てからでは遅い。ここで、ちゃんと引き出さなくてはいけなかったのに。
「そうなの? 気にならないの?」
 さびしそうに呟くセレナ。布団に包まっている。身を固く丸めて、何かから怯えているようだった。もう逃さない。せっかく与えてくれたチャンスなんだ。
「気にならないわけ……、ない、な」
 本当は洗いざらい聞きたいんだ。でも、追い出したのは僕だ。記憶を取り戻すと約束して、それを破ったのは僕だ。後ろめたい気持ちが出した言葉は歯切れが悪かった。
 セレナは黙った。僕も黙った。セレナは震える。布団をかぶっているはずなのに、震えている。
「あのね、ちゃんと聞いてね。私、頑張るからね」
 布団から抜け出して、声も震わして、ようやく言い切った。ベッドに座ったセレナは、僕に目を向けてくれない。
「この、服はね、『たかちゃん』から、もらったもの、なの……」
 それはもう、忌々しそうに、でも、恐れを抱いた言葉。僕は、ただセレナがこれから話すであろうことを真剣に聞こう。


 私はサタローをビンタして部屋を飛び出してから、その辺をぶらぶらさまよってた。今ならまだ謝ったら許してくれるかな、とか都合のいいこと考えながら。
 けど、この間サタローがくれたおこずかいがまだ残ってたから、残ったお金で暮らしてやろうと思って、この間連れて行ってくれた街へ行ったの。あの、ヤバいお店、「なんたらレンタル」がひっきりなしに流れてるお店ね。そこで私より貧弱そうで、それでサタローよりヤバそうな奴を待ち構えていたの。怒らないで、サタローは自分が思ってるより普通よ。
 待ち構えて何するんだ、って思うじゃない? いわゆるオタク狩りよ。財布ふんだくってやろうって思ったの。私、かわいいから簡単だと思ったのよ。うん、案の定、うまくいった。目当てになりそうな奴に声をかけた。
「すいません、駅ってどこですか?」
 知ってるのにこんな嘘までついて。そいつ、よっぽど嬉しかったのか、どもりながら視線を動かして、なんか呼吸も荒いし。
「こ、こここっちでです」
 いつもサタローと接するより、もっともっとかわいくかわいく、ってイメージで話した。
「アニメとかよく見られるんですか? 私も最近友人に薦められて見てるんですけど、アニメって面白いですよね」
 自分で言っていてかわいいって思ったわ。こんなかわいい声出るんだって、びっくりしたくらい。サタローと一緒にアニメ見ててよかったって思った、初めて。
 私の一言でそいつったらぱぁっ! ってあからさまに明るくなってさ、メチャクチャ饒舌になって、聞いてもないのにずっとアニメの話してるの。なんだか会話を流すのも可哀相なくらいね。ああ、この人話す相手居ないんだなぁ……、って思ったら、一生懸命話について言ってた。一種の慈善事業みたいにね。正直チョロかった。だから、駅について私は言った。
「ちょっとお腹、空きません?」
 それで前サタローと行ったハンバーガーのお店に行ったの。おごってくれる、って言われたとき、もう確信したわ、いけるって。いっぱい注文しても、媚びた猫撫で声でお腹空いちゃって、って言えば満足してた。出来るだけゆっくり食べて、そいつの話も長引くように続けさせてやった。とうとうトイレに行った。しばらく戻らないことを確認して、そいつのバッグを持って店を出た。駅に走って、急行に乗って、なるべく遠くへ行こうと適当に降りた。とりあえず漫画喫茶で一晩明かすことにした。シャワーもついてたから助かった。オタクの財布の中は結構あって、着替えとかを買うお金を抜かしても二週間くらいはどうにかなりそうだった。
 それから私はメイド喫茶とかいうところでバイトしようと思った。オタクが全員簡単な奴らってわけじゃないけど、なんだか性に合いそうだったから。住所はパクった財布の中にあった保健証を使ってね。案外簡単に受かったわ。困ったことに口座が作れないことがあったんだけど、店長は現金払いでもいいといってくれたからよかった。もともと手渡しだったみたいだし、逆に助かったと言ってくれた。
 メイド喫茶のルールを教えてくれたのは、店員、というよりメンバーね。優しく教えてくれた。皆良い人たちばかりだった。メイド喫茶の嫌なところ面倒なところをグチりながら教えてくれたのは面白かったわ。実際その通りだったから。暇だったから、ずっとそのお店で働いてた。メンバーとも仲良くなって家出を装って皆の家を渡り歩いてた。妹みたいに接してくれた……。
 ある日私にお得意様がついた。自称カメラマン、通称撮り専。普通の客とはちょっと違って、結構面白い人だった。オタクってほら、自分本位で話を進めるじゃない? サタローがそうだって言いたいわけじゃないの。本当だよ?
 私働き始めてすぐに結構指名をもらっていたから、きっと、その撮り専、そう、『たかちゃん』のお目に適っちゃったみたいで。
「モデル的なこと、してみない?」
 お金も出るっていうから、やるって言った。メンバーの皆は止めたけど、別に私は写真とられることくらいどうってことないし、貧弱そうなたかちゃんくらい、どうとでも振り切れるとタカをくくってた。だから、皆の説得も聞かなかった。
 フリフリのコスプレ服から、なんでか知らないけれど、軍服もやった。そういや、アーシェもやったの! 好評だった。
「すごいね。才能の塊だよ!」
 そういってたかちゃんは私を褒めた。うれしかった。悪い気はしなかった。私の魅力はやっぱり通用するんだって、自信を持てたんだもん。調子に乗った私は、今後もやるように約束した。でもね、たかちゃんは褒めながら私にこういうの。
「さすがオレのセレナだな。話が早い」
 違和感っていうのかな? いや、悪寒だ。私は別に『たかちゃん』のものでもない。お互いが楽しく出来ればそれでいい。私はあんたの何? 着せ替え人形? 潜むもやもやを押し殺しながら笑顔でありがとうを言った。一応、たかちゃんは撮り専の間では有名みたいだったし、癒着しておくくらいならいいかなって思ったから。
 でも、それは大きな間違いだったわ。
 それから私、ストーキングされるようになった。毎日我が物顔でお店に来て、彼氏面した。他のメンバーも迷惑してた。たかちゃん、良い意味でも悪い意味でも有名だった。それを知ったのは、メンバーが愚痴を零したのを盗み聞きしたとき。たかちゃんの周りの仲間たちは、全員たかちゃんを慕ってたし、ネットでもすっごい応援されてたのを見せられてたから、たかちゃんはすごい人なんだって先入観を植え付けられてたのね。
 気づいたときではもう、遅かった。メンバーには申し訳ない気持ちでいっぱいだった。ちゃんと忠告を聞いておけば、こんなことにはならなかった。皆笑って許してくれたけれど……。そんなはずない。だから、もう泊めてもらうように言えなかった。もし泊まったら、たかちゃんがきっとそのメンバーの嫌がらせする。私は確信していた。予感じゃない。絶対する。あいつは私のことを自分のものだと思ってるから。気に入ったおもちゃを他人に横取りされないよう、永遠に自分のものだと、それが当然の権利とさえ思っているような、そんな奴。いろんなものを私に買い与えては、自己満足する。エゴの塊。いろんなものは、私のものじゃない。買い与えられたものを持っている私は、あいつのもの。あいつの中ではね。だから私、あいつの家で暮らす他なかった。そんな男が私を求めてこないわけもなく、何回も私は夜這いされそうになった。そのときばかりは、本気で怒っておいた。一応、気の利く言葉を選んでおいたから、あいつも納得してくれた。
「セレナが僕を求めてくれるまで待つよ」
 名前で呼ぶな。気持ち悪い。その舐めるような視線で言われても信用ならねぇんだよ。
 もう限界。逃げようと思ったそのとき、ついにバレちゃったの。財布を盗んだ奴から、たかちゃんにメッセージが来たらしくて、ネットでも写真を乗っけていた私はちょっとした人気になっちゃった。私はそこでひどいことを言われ続けていた。別によかった、報いがついにきてしまったと、そう思えたから。これは当然のことなんだ、そう思えた。けど、それに追い討ちをかけるように、あいつが言うの。
「火消ししといてやったから」
 その言い方。どうだ、すごいだろ? 力の誇示。信用の強要。それは暗に私にヤラせろ、さもなくば追い出す。そういう、弾圧的で、下劣で、最低な庇護だった。今私が追い出されたら住む場所もない、お金が持つ限り、ホテルや漫画喫茶通い。たとえそれでも、ネットの力は怖い。私を見つけた奴らが襲ってくる可能性もある。戸籍も、後ろ盾もない私に守るものはなくなる。
 ………。私、記憶あるのここ一ヶ月くらいだけど、でも思ったの。あんなに悲しい思いをするのは、産まれて初めて。もう、あのね、あの……、あの夜の……。
 うん、だからね、私怖くて。もう、こいつを殺してしまえばいいのか、と思った。でも、出来なかった。だからまた満喫生活。バイトには行かなくなった。もう顔向け出来ないわよ。私があいつの家を出て行けば、あいつはバイト先に来て難癖つける。そしてネットで悪い評判を言いふらし、ネタにする。そんなことは目に見えていた。
 これからどうしようか、なんてちゃんと考えられなかった。二日、ただぼーっとして、漫画を読んだ。その二日だけだった。私に許されたのは。
 だって、あいつ私を追ってきた。
 いつもの満喫から出て、違う満喫へ行こうと店を出たとき、居たの。すごいのよ、そこには私に財布を盗まれた奴もいた。合計で五人くらいだった。今思うとそれ以上いたのかもしれない。心臓が勝手に大きく跳ねて、それからずっと私の耳にはバクバクしか聞こえなくなる。私は広い街先で、そいつらを見つけて一歩も動けない。
「あいつだ!」
 瞬間、いっせいにこっちを向く。足はすくんで、声も出せない。逃げろ、逃げろ! 心が叫び声をきりきりと上げて痛み出す。あいつらが駆け出してからやっと、私の足は動いた。でも、ヒールがある靴だったらか、走りにくかった。とにかく逃げたい、その一心で足からそのまま放り捨てた。後ろを振り返ったらもうおしまいだ。きっと走れなくなる。ただ前だけを見て走る。目に付いた地下道に逃げ込んで撒こうと思った。でも、それはあいつらの罠で、挟み撃ちにされた。上がる息に、ひゅーひゅーとなる喉。どっと疲れが足に、上半身にのしかかる。どうにか逃げようと、前を向くけど、そこには欲望にまみれた、獣の目。捕まったらされるであろうことを考える。吐き気がした。でも、出したら、その隙にあいつらは私をひっとらえる。根性で飲み込んで、再び前を見据える。すると、通行人が遠くからやってくる! 整っていない息で、今生の思いで叫んだ。そしたら前からやってくる二人はビビッて、通行人は私に気づく。ただ事じゃないと、果敢にも近づいてきてくれる。その隙に前から迫る一人をバックでぶん殴って、脱兎の如く逃げだした。
 人ってあんなに走れるものなのね。死ぬより怖い思いってあるのね。走って逃げてて思ったわ。これは私のせいで起こった事だから誰も攻められない。だからといって、こんなことになるだなんて聞いてない。死ぬほどあいつらに犯されるくらいなら、死ぬほど走って逃げ抜いてやる。その後にしてださい神様、私はちゃんと罪を清算します、って。都合のいい話。自分でも笑えちゃう。
 人通りの多い道を走った。泣きながら、人の目が突き刺さる中、そんなことお構いなしで。こっちのほうが、見つかろうともまず手を出してくることはない。でも、だんだん不安をあおるように日は傾いていく。早く逃げ切らないといけない。夕闇時は結構危ないの。私、同じところを二回も走ってた。注意がそれやすくなるから道に迷っちゃう。それはあいつらも同じだったみたいで、追いついてこないのを確認するために、勇気を持って後ろを振り返った。
 私はタクシーに乗った。サタローの近所の駅まで、出来る限り近づけるように。ある分のお金だけ走ってと運転手に告げる。駅前、とまではいかなかったけど、駅まで一本の道でおろしてもらった。
 着いた頃にはもうすっかり暗くなってた。流石に撒いた。周りには誰も居ない。私はついに逃げ切ったのだ。そう実感すると、今度は疲労感と、後悔が肉体を蝕んでいく。歩く足も重い。考えたくない。今は眠りたい。
 サタロー、起きてるよね……。
 それは甘え。よくよく考えてみてよ、ずうずうしいよ。私は罪を償うんでしょう? 私があそこに帰ることはもうないんだよ。そう言い聞かせる。
 公園が目に付いた。ベンチがあった。休みたい……。満喫は駅の近くにあるけど、一文無しだ。いよいよ年貢の納め時かもしれない。夜は寒くて、追われる恐怖から解放されたからかな、急に冷えてきた。靴も履いてないで走ってたから、痛いし寒いしで、だんだん惨めになってきて。私なんてあいつらに犯されてしかるべき存在なのかって、さっきまであんなに必死で逃げてきたのに。そんなことまで思いつくようになった。だって、あいつらの慰めになるだけで、衣食住が与えられるんだ。私にはそれがお似合いなんだ。それとも、誰かの家の前で裸で倒れて、慰み者にでもなろうか。そんなことまで―――。
「見つけた! こんなとこまで逃げてやがった!」
 大きな声が、夜の静けさで満たされた公園に響く。声の方向、財布を盗まれた奴。携帯を使っている。
(なんでこんなところにまで)
 逃げる? でも私にはもうそんな気力も体力もない。でも、でも、もしも、ね。サタローは私のこと許してくれるかな。私は私を許せないけど、サタローは、私を許してくれるかな。こんな土壇場で、すがるような祈り。都合よく私の足は動いた。奴の意識が携帯に向かっている間に、公園のフェンスを乗り越えて、民家の塀を乗り越えて……。逃げて逃げて……。人も通らなければ、車もまばら。見つかれば終わる。今度こそ。知らない道でも、知らない人の庭でも、そこが逃げ道なら。
 ついに、知ってる道に出た。サタローのマンションまで、もうすぐ。あと少し。
 本当に……、ほんとうに、ね。うれしかった。うれしくてうれしくてなみだがでたの。もうほとんどうごいてくれないあしのせいで、よつんばいになってかいだんをのぼった。それでサタローのげんかんに、やっとたどりついたの。やっときづいた。わたしはかえりたかったんだ。ここにいたかったんだ、って。
 くやしくてないてた。たちあがるきりょくもないわたしは、がんばって、さいごのちからでノックした―――。


 ベッドに座って、語り続けてくれたセレナは、疲れたのかそのまま頭を垂れ深くうつむいた。泣くのを我慢している。泣いたらいけないと、自分に課すようにずっと話してくれた。
「はぁ……」
 一息ついたその声は、案の定、小さく、早く震えていた。
 僕は、ただ立ち尽くしていただけだった。セレナの二週間は長くて、壮絶だった。壮絶とか、そんな言葉で表現してはいけない。かける言葉を見つけられない僕には、形容だきない。それが悔しくて、悔しくてならない。情けない。こんなことを経験させてしまった僕が、こんなことを話させてしまった僕が。
「本当、どうしようもねぇな」
 心の中に居る、どうしようもない僕は、ここに居るどうしようもない僕を勝手に動かす。そこにいるのはやっぱり、白くて、小さな、弱くてすぐに引き裂かれてしまうような存在だった。そのことに気づくのは、ごく簡単だったはずだ。
「セレナ……、ごめんな」
 深く、強く。ここにお前はいていいんだと、伝わるだろうか。僕は君を許すと、聞こえるだろうか。抱きしめたセレナの温度は、かつて見せた雪兎のように芯まで冷たく、ほんのり暖かかった。そのか細い鼓動は、鼓動となって溶けることのない恐怖とトラウマと、何より自分の罪と戦っているのが伝わってきた。分けてほしい、その苦しみは僕のものでもある。より強く抱きしめる、抱きとめる。こんな温度で和らぐのならば、いくらでも分け与えてやる。
「サタロ、うぇっ、ぁあ、さたろーぉ……」
 堰を切ったように、セレナが泣く。嗚咽とともに吐き出していく。
「うぁああああー! も、もう、もういやだー!」
 恐怖を。
「ううう、わああぁーん! えっえっ、寒かったよぉ……」
 寂しさを。
「なんで、なんで……、うううう」
 孤独を。
「いやだー! ぜんぶぜんぶ! いやだー!」
 自己嫌悪を。
 この華奢な体に押し殺していたんだ。こんな灰色世界で生きていくには、セレナは鮮やかすぎて、またあまりにも無垢で稚拙だった。
 もちろん、セレナがやってきたことは正しくない。同時にセレナも悪くない。他人は聞けば否定し、因果応報と嗤うだろう。けれど、百人のうち一人くらいは許してくれるだろう? 僕はその一人になるだけだ。善と悪、その境界はあいまいで、その基準は常に揺れ動く。この二律背反は僕にとって、ちんけな言葉では蹴っ飛ばせない。させてたまるか。「それはしょうがない、あきらめろ」とか、「気にすんなよ」とか、眠たい類の言葉は在庫処分でもしておけ。セレナはこうして傷ついたのだ。その事実がここにある。そうして悲しむ僕もいる。今はそれだけで十分だった。混沌としているしがらみを混濁させてしまえば、たちまちその色を消してしまいそうな淡い淡いセレナから、今日だけは守ってやらなくてはならない。その後からでもいい。自分の罪を背負うのは。
 その夜、十二月九日。冬も冷え込む日。セレナが身も心も凍えさせて帰ってきた。わんわん泣き喚いて疲れたセレナは僕の肩にあごを乗っけて寝てしまった。僕もなんだか一緒になって泣いていたみたいだ。僕はゆっくりとセレナを布団に寝かせて、僕は、その隣で沈むように寝た。
 



「思い出したわ、私のこと」

「私、月の女神様だったみたい」

「……気まぐれ。で、旅行に来たみたい」

「ふふっ、どうして忘れていたんだろうね」

「あと……、二週間くらいしか、ここに居れないみたい」

 セレナの言ったことは、真実だった。


 朝日でも目覚ましでもなく、僕は突然の電話で目が醒めた。
「クロセさん、今日バイト入ってるんですけど」
 バイト先からの、少し機嫌が悪い男メンバーの声。そして。
「えっ!」
 バイトに遅れたという事実よりも、超至近距離にセレナの蠱惑的な寝顔があったことのほうに驚いた。吐息が僕の敏感な扇情をいたずらに靡かせて、襲ってしまいたくなる。
「え、あ! すいません……。今すぐ向かいます」
 ここで襲うのは『たかちゃん』とやらと同じ人種だ。僕は電話を切って、ベッドから逃げだした。
 昨日のアニメは結局撮れていなかったようだ。テレビの画面には煌々と「予約消去しますか?」の文字が映っていた。楽しみにしていたアニメではないから、別にいいや。しかし、今度は聴覚に訴えるものがあった。水の音……? 僕はハッとした。昨日お湯を張りっぱなしだった。約半日の間で水道代と光熱費がどれくらい上がったかを考えると気が遠くなってしまいそうだったが、時間がない。誰も入ることのなかったお風呂は、むなしくあふれて音を立てていた。すぐに閉め、そのままにしておく。洗濯機に使うことにしよう。そう思ってどうにか平静を保てた。
 セレナには悪いけれど、昨日のうどんを食べてもらうことにした。火を使わせることはためらわれたので、おわんに移してチンするように書置きを残しておく。僕には何か食べる余裕はないから、着替えて身支度することなく部屋を出た。


 バイト先では僕のせいで上がれないメンバーが、やっと来たかと顔に書いて迎えてくれた。悪いのは一方的に僕のほうなので、平謝りして帰した。同じ時間帯の、最近入った新人メンバーにも謝っておくと、こちらは愛想良く「今日空いてたんで大丈夫っすよ」と言ってくれた。ものの十分でそれは証明された。きっと今日は何かイベントがある日なんだろうと推定する。今日は土曜日だから、特段空く要素があるわけでもないが。
 焦ってきたからか、ある程度時間が過ぎてからまたしても今朝、いや昼の欲情が沸き立つ。前までセレナを見ていても、ただ綺麗だとか、かわいいとか、まるで、そう、ただのキャラクターとして見れていたのに。それがどうした。久しぶりに会ったセレナが弱弱しく、そしてしおらしくなっていた。泣きつかれただけでこうも簡単に心が揺れるのか。店に流れているBGMの歌手が、僕をからかうように「会えない時間 長くて長くて 二人の愛 育てていくよ」と歌う。
(くそっ、僕としたことが)
 こんなくだらないうわっついた曲にさえ諭されてしまう。それが嫌で嫌で仕方がない。が、しかし、その反面うれしくもあるのだ。僕もまともに恋が出来る人間だと実感できた。この二十四年間、色事には無関係だった僕に初めての感情。浮ついた心、相手の全てを欲しくなる衝動。
(キモチワリィ……)
 僕は僕なのか? ちゃんと僕は僕でやっていけているか? 顔はキモくなってないか? 平然としているか?
「どうかしました?」
「おっ! だ、いじょうぶっ、でっす!」
 驚きすぎて、でかい声で思いっきり噛んでしまった。どうやら他人から見たらその様子はよほど面白かったらしく、新人君は笑うのを我慢して、口の端がひくついている。客が居なくて本当によかった。
「今日なんかあたふたしてますね」
 妙に抑えたトーンで言ってきた。そこまで面白いかよ。どうせキモいとか思ってるんだろ。悔しくなって浮ついた思考を弾き飛ばす。平常運行の顔に戻す。
「何かいいことあったんですか?」
 何でお前に言わなきゃいけないんだ? とも思ったけれど、僕はメンバーの人たちとコミュニケーションを取らなすぎる。だから、珍しくまともに返事することにした。
「そ、そうですね。ちょっと、気になる人が出来まして。あ、現実でですよ?」
 僕は真面目に答えた。この新人君は、今までのメンバーの中では割とちゃんと僕を見てくれていると思ったからだ。馬鹿にするとか、つまらないとか、顔に出さない。だから、ちょっと信用したのに、新人君は噴き出して笑う。
「ぷっ! あーははは! そりゃ分かってますよ! 面白い人だなぁ!」
 何がそんなに面白い? 僕に現実で好きな人が出来たから笑っているのか? 大口開けて笑うほど? 訝しげに睨んでみると、あ、すいません。と笑うのをやめた。
「それでなんですか? 好きなコが出来たんですよね? どんなコですか? 教えてくださいよ」
 普通の男子高校生の新人君は、とても興味津々そうに訊いてきた。活き活きとした瞳に負けて、僕はつい口を開いてしまう。
「えっと……、すごい、美人、かな。外人なんだけど、日本語上手で……」
「えぇー! うらやましいな! プリとかないんですか? 見せてくださいよ!」
 プリだなんて言葉、僕に向けられるとは思わなかった。こそばゆい。慣れない響きに動揺を隠せない。
「え、あ、プリクラなんてないよ。とっ、とったる、いや、撮ったことすらないし」
 責められているわけじゃないのに、さっきよりひどい噛み方をしてしまった。いたたまれない。いつもなら懐疑の口先であしらい、無反応無関心無表情の仮面で跳ね除けるはずなのに、僕は新人君を疑いたくないとまで思ってしまっている。だから、跳ね除ける術がない今の僕はどうしていいのか分からなくなる。
「マジっすか。あ、でも、僕の友達にも居るんで、結構居るのかもしれませんね。やっぱり恥ずかしい、っていうのがあるんすかね? で、そのコとはどこまでいきました?」
 ああ、もうなんでこんなときに限って客がこねぇかなぁ。頼むからきてくれよ。皮肉とか、暗に含まれた声が聞こえないんだよ。でも、それが……、うれしかったりもしたのは事実だ。僕も普通の、一般人とこんな話をしてもいいんだ。今だけなら、嬉しい勘違いをしてもいいか?
「どこまでとか、そういう感じにはまだ……」
「えー、そうなんだ。―――あ、いらっしゃいませー」
 ようやっと! 待望のお客様が来てくれた。もう来て欲しいと思うことはこれっきりだろうな。隣の新人君はうらめしそうな視線を客に送り続ける。そんなに聞き出したかったか。
 僕から話を引き出そうとする新人君の思惑に反して、これを皮切りにその日は今までの暇が嘘のように忙しくなってしまった。


 帰りしな、僕は新人君に口止めしておくことにした。
「あの、他のメンバーには話さないでね。あんまり訊かれたくないからさ」
「へ? あぁ、ごめんなさい。なんかそんなに話したことなかったんで、喋ってみたかったんです。大丈夫、内緒にしておきますよ。好きなコの話で照れるなんて中学生みたいっすね、クロセさん」
 人懐っこいメンバーを僕はまだ疑っている。もしかしたら話のネタにされるかもしれない。だから念には念を押す。けど、こういう疑念こそが人を遠ざける、最大の理由であることに気づいた今日の僕は、いつもしていることなのに、心苦しい。だったら人を信じてみればいいのだ。簡単なことだ。いやしかし、裏切られることも簡単だ。裏切られないように生きる術を身に着けて、それで僕は何か変わっただろうか。傷つくことはなくなったが、刺激的な日々は送れていただろうか。僕はそういうのに縁がないと決め付けていたんじゃないのか?
 どちらにせよ、人はそう簡単に変われない。けれど、人に言われて変わるよりは自発的に気づき変化するほうが明らかに進歩出来るはずだ。人がやはり怖いが、今よりは人と接しよう。帰り道に長々と、今日の出来事を思い返した。素直にうれしいと思う。帰ったら、セレナの写真でもケータイで撮って、新人君に見せてやろう。珍しくバイト帰りで早足になる。夜空を見上げれば、まん丸のお月様。満月とともに来たセレナと出会ってからもう一ヶ月になったのか。早いものだ。と、いっても一緒に居たのは半月ほどなのだが。けど、セレナのことは誰よりも知っているつもりだ。セレナの言っていた、『たけちゃん』とやらよりも、何百倍知ってるつもりだ。
「ただいまー」
 玄関を開けて一言。部屋に明かりがついている夜は久しぶりだ。セレナが
起きている、セレナが居る。そんな異常を当たり前と思うようになったあたり、僕は本当にセレナを生活の一部として見ているようだ。感慨深くなっているのもつかの間、足音が近づいてくる。セレナが迎えに来るなんて初めてのことだ。笑顔でこっちにくる―――。
「遅いっ!」
 パンッ!
 うれしい妄想を展開する間もなく、ビンタ一発。けれど、今までのビンタよりはあんまり痛くない。触れるみたいなビンタだった。
「ちょっと待てって。まだ七時だろう?」
「だってサタローお昼分しか置いてなかったじゃない!」
「豚汁が残ってただろう」
「私が火を使っていいの?」
「あぁ……」
 僕の落胆と敗北のため息を切れ目に、セレナは勝ち誇った。
「ね? 賢いでしょう? いいから作ってよ」
 ツン、と背を向けて居間へ戻っていくセレナ。昨日の衰弱っぷりはどこへやら。すっかりもういつもの強いセレナに戻ってしまった。残念ではない。むしろ嬉しいくらいだ。普段のセレナは勝気で、横暴で、でもどこか脆くて消えてしまいそうな奴だ。かわいこぶったり、人から恐れることはない。
「今日はどうしようかなぁ……」
 ひっぱたかれながらも、冷蔵庫を開けて今日のメニューを考えるあたり、自分でも健気に思える。あまり物が多いな。野菜もあるし。
「今日は野菜炒めとギョーザでいいよなー?」
 台所の向こうのセレナに投げかけたメニューをセレナは二つ返事する。
「今日は……、どうしようかなぁ」
 よろしく、ってやっぱり手伝ってくれないんだなぁ。分かってたから、嬉しいやら悲しいやら。下手されて台所を荒らされるよりはいいけど。ため息を一つ、ついたところで料理しよう、と思ったその時。
「ねぇ、私も作る」
 近くで声がして、驚き振り返る。いつの間にかセレナが居たらしい。
「おー、ん、んじゃ簡単な冷凍ギョーザをやってほしい」
 やっぱりセレナは変わりつつあるのかもしれない。僕への罪の意識か、それとも「二週間」への罪の意識か。もし、前者の意識ならば、それは今すぐ捨ててくれていい。
「セレナ……」
「何? 今集中してるんだけど」
「集中って……。セレナはタイマー鳴ったら皿に移せばいいだけじゃん」
 飽きれてしまう。真面目な話をしようと思っていたら、いつもの調子だもんな。でも。これでめげてはいけない。いつまでたっても話せない、咳払いして気持ちを切り変える。
「セレナ……、ボランティア、してみないか?」
 セレナのために言う。少しでもセレナの自己嫌悪を拭えないかと考え付いた案だった。当のセレナは僕の顔に穴が開くくらいまじまじと見ている。
「それって、該当で募金したりするヤツよね」
「そうだな」
 声の温度が急激に冷えた。セレナは外に出ることを極端に怖れている……? 十分な事実を僕は知っている。よぎった予感はきっと間違えていないはず。しかし、セレナの気持ちを察っせるからこそ、僕はセレナに罪滅ぼしをさせてあげようと思っていたのだ。
「え、っと。どうしようかな」
 目線を泳がせて言葉を濁した。外に出るのはやはり嫌か。
「んー、まぁ、ボランティアっていうのは自発的にやるものだからな。迷ってるくらいならやんないほうがいい」
 もっともらしい理由をつけてやんわりと話を流そうと思ったが、挑発的な物言いになってしまった。やはりセレナは一瞬ムッ、と顔をしかめたがすぐにしぼんで目を伏せる。
「また今度にすっか。ほら、そろそろタイマー鳴るぞ」
 ピピピピ、と鳴ったタイマーは僕が止めを刺して、セレナにギョーザの調理―――というよりただフライパンから皿に移す作業なんだが、やるように促す。物憂げなセレナはあわてて調理、いや作業にとりかかる。
「じゅわじゅわ言ってるー」
 フライパンから皿に移す簡単な作業だというのに、何を驚いているんだか。野菜炒めを放っておいて、セレナの手伝いをしてやる。危なっかしくて見てられない。結局その作業も僕がやる羽目になる。
「全く、どっちが手伝ってんのかわからねぇな」
「出来たし! もう仕事取らないでよ!」
「じゃあお前は皿とかコップとか出しとけよ」
「お前って言うな!」
 晩飯の用意だけで、ここまでにぎやかになるなんて。ついこの間までの廃れた晩飯が嘘のように活気に満ち溢れている。会話があるだけでこんなに楽しい。ご飯をよそって牛乳や野菜炒めを居間に持っていかせる。
「いただきます!」
 全て揃うやいなや、セレナは晩飯にがっつき始めた。いつもの食いっぷりだ。お腹空いていた、とか言っていたからか、とても嬉しそうだ。勢いの早いセレナに僕の分が奪われないうちに、自分の小皿に自分の分を移す。するとセレナが顔を真っ赤にしご飯粒を飛ばされる勢いで怒鳴る。
「何勝手に取ってんの! それ私取ろうと思ってたんだけど!」
 不当な要求に屈せず、半ば自慢に鼻を軽く鳴らす。
「そんなペースだったら僕の分がなくなっちまう」
「そんなに大食漢じゃないもん」
 もぐもぐしながら喋る口から出る言葉か、それは。
「飲み込んでから喋りなさい」


 食い荒らしてご満悦なセレナは、食休みなのかソファで寝転がっている。片付けもしない。もとより期待など、いいや、前例があったからちょっと期待はしていた。肩を落として片付けることにする。食器を運ぼうとすると、ふとセレナが言う。
「ねー、サタロー。なんかキーンって聞こえない?」
 間延びしたセレナの問いに、僕はため息をつきながらも、PCや、その周辺機器、家電なんかも調べてみるが、機動音ではない。大体僕には聞こえない。
「やーだ、サタローったら老けてきたんじゃない?」
 とからかわれたので、解決するのをやめた。片付けが終わるまでは無視してやる。皿洗いしている間、セレナから話しかけてくることはなかったので、僕の目論見は空振りに終わった。
「おーい。食った後に寝たら牛になんぞ」
「………」
 寂しくなって冗談を返してもセレナから反応はない。逆に無視された。悔しい。
「聞いてんのかー?」
 もしかしたら本当に寝ているのかもしれない。致し方ない、皿洗いを再開。見たい情報がネットでアップされるから、とっとと片付けることにする。手馴れたものですぐに終わるが、シンクの汚れが目立った。特に三角コーナーが汚い。掃除用のタワシで綺麗にしてから僕はお風呂にお湯を張る。今日は昨日みたいなことがないように、しっかりと覚えておこう。
 居間に戻ってPCの電源をつける。聞こえてくる電子音は耳鳴りには聞こえないし、内外耳の気圧差ではないことはあくびで分かった。原因を考えているうちにホーム画面になった。ブラウザを開いて、さっそく目当てのページへ。
 少ししたら風呂のタイマーが鳴ったので、先に風呂に入ることにする。セレナを先に入れようとした方がいいのだろうが、どうせ起きないだろう。風呂に浸かってセレナのこれからを空想する。まずあいつには日本国籍はないかもしれない。ちゃんとした国籍をはっきりさせなければ、国の保障も受けられない。それと、セレナの心のこと。こちらのほうが重要かもしれない。今日こそ平気な顔をしていたが、外に出る話をしただけであの反応だ。心の中では、巨大な自己嫌悪と迫る恐怖によって、常にさいなまれているんだ。心の支えになるならば、僕がなってあげたい。きっとセレナもそう思ってくれているはずだ。
 僕がこんな気持ちになれるとは、思ってもみなかった。満たされているはずなのに、ズキズキと心が痛むのだ。―――人を想うとは、意味のない一人相撲だ。想っていようとその相手には届くことはない。口で伝えても言葉など泡のように脆い。だから、人を想うことなど無意味だし生産的ではないと、得意の諦観でいなしているつもりでいた。でも、この感情はいなしていいものなのか? そんな簡単なものではないはずだ。一定の思考や、その場で判断していいものじゃない。セレナが僕を信じてくれている、それが僕に気づかせてくれた。僕も信じなくてはならない。そう信じたい。


 風呂から上がってもセレナは起きていない。そろそろ起こして風呂に入ってもらわないと、昨日の無駄遣いを切り詰められない。
「おーい、セレナ。早く風呂に入っちゃって」
 居間に寝転がっているセレナ。顔はソファのせいで見えない。今日昼まで寝ていたというのによく寝るものだ。いやしかし、昨日やっとの思いで逃げ帰ってこれたのだ。疲れが残っていても不思議ではない。仕方ないので、PCに再び向かう。適当にサイトを閲覧していると、おもしろい情報が目に入る。
「十二月十日、今日は皆既月食! 日本全土では十一年ぶり!」
 先月といい、今月といい、面白いことが起きるものだ。六月にも皆既月食があったらしいが、それは一部でしか見れないもので、日本全国で見れるのは珍しいことだと書かれている。おそらく部分月食ならもうすでに始まっているはずだ。十一年ぶりの皆既月食だ。セレナと一緒に見たい。
「セレナ、起きろよ! 今日皆既月食があるんだってさ!」
 揺さぶってみると、セレナは寝苦しそうな顔をしていた。関係なしといわんばかりに叩いてみると、流石に起きた。しかも、文句の一つもなくだ。
「なに?」
「今日皆既月食なんだってよ。すっげー珍しいから、一緒に見ようと思ってさ」
 こうしている居間にも月食は進んでいるのだ。はやる気持ちを押し出す。セレナは気だるそうに、でもうれしそうに返事する。
「へぇー、面白そうだね」
 僕らは小さいベランダで夜空を見上げる。狭いせいで自然と触れ合う。もう十二月。冬の夜風は殺意を含んで僕らの肩と肩のぬくもりさえ奪っていく。セレナはこんな中を走ってきたのか。そりゃ疲れてぶっ倒れるわけだ。上着を羽織る。セレナに羽織らせる時、不安そうにあたりを見渡していたから、フードを被せてやった。
「ほら。あれじゃない?」
 僕が指差した先に、すでに欠けている月があった。肉眼で見ればただの三日月にも見えるが、地球の影に食われている証拠だ。
「………」
 部分月食を、ただぼーっと見ているセレナ。吸い寄せられるように、一心に、一点を。そんなに感動的だったか。見せることが出来てよかった。しばらくは黙って見ていよう。
 
――――――キィ――――――――――――――――――――――――

 始めは小さなものだった。クレッシェンドして耳に障るのはモスキート音にも似た高周波。まだ大きくなる。それは耳鳴りというよりは、頭に直接細い針を刺されたかのような痛みだ。有害電波か、隣人の仕業か? しかし、隣は消灯しているし、僕なんかより一般人をしている人だ。
「セレナ、耳鳴りってこれか?」
「………」
 駄目だ、月食に心奪われている。息すらしていないように感じさせる。様子がおかしい。畏れおののく瞳はかすかに揺らし表情は強張って固まっている。
「お、おいセレナ!」

―――――――――――…………ィン。

 月が、食われた。皆既月食の時間だ。耳鳴りは反芻してやがて止まった。セレナは月の呪縛から解き放たれたのか、力なく、その場にひざをついた。

「セレナ! どうした? 大丈夫か?」
 昨日の今日で倒れる。もしかして風邪をこじらせたのかもしれない。月食観測は中止したほうがいい。セレナの脇を抱えて、立たせようとしたけれど、僕の裾を力なくつかんでくる。わずかに震え、呼吸も荒い。意識はあるようだから、大事には至らないはずだ。「いいから捕まれ」と肩に担いで開いた手でセレナの額に手を添える。
「熱はない、みたいだな」
「ち……、がうの」
 息荒くつむいだ言葉は、予想外のものだった。
「何が、何が違うんだ? 具合が悪いんじゃないのか」
 さっきまでうつろだったセレナが口を開いた。それは『違う』。不穏な空気が漂う。さっきまで煩かった耳鳴りが、嘘みたいに鳴り止んでいる。「たかちゃん」たちの仕業なのか? いや、しかし、セレナはずっと月を見ていたんだ。すぐ近くの僕の声など聞こえていないようなくらいにだ。
「説明してくれ、ゆっくりでいいから」
 呼吸を整えているセレナを急かさぬよう、穏やかに言う。肩に手を回し、軽く抱きしめるようにしてセレナの言葉を待つ。
「うん……。落ち着いて、聞いてね。とても、とても大事なこと……」
 セレナは正常な呼吸を取り戻そうと必死だ。深呼吸を幾度となく繰り返す。セレナがいきなり倒れた理由など、この間の事件くらいしか思いつかない―――。セレナのことを一番理解しているだなんて思い違いだったのか。とにかく、分からない僕はセレナの言葉を待つしかない。
 ようやく呼吸が整ったのか、ゆっくりと、月の揺らめきのような言葉を紡いだ。切なくも悲しげに、言い切った。
「思い出したわ、私のこと」
「私、月の女神様だったみたい」
「……気まぐれ。で、旅行に来たみたい」
「ふふっ、どうして忘れていたんだろうね」
「あと……、二週間くらいしか、ここに居れないみたい」
 それは『セレナ』としての記憶。皆既月食が解け始めて、セレナはわずかな月明かりに照らされた。同じように僕も照らされた。月の光が少し眩しい。この狭いベランダ、触れ合っている体。なのに、セレナを感じられなくなりそうだった。


 まさか、という感想しか浮かばない。以前調べていたことが、そのまま答えだったなど信じられようか。世界の神話は本物だったと証明された、歴史的瞬間を目の当たりで目撃したけれど、そんなこと至極どうでもいいことだった。そして、しかも、二週間もすればセレナはまるでかぐや姫のように月に帰ってしまうという。僕は翁、取り残されて、また同じ日々を繰り返す。
 それは何度も聞きなおした。証拠はないと何度も言われた。強いて言うのであれば、月に帰るその時に証明される、と。皮肉なものだ。それで納得しろと? 信じろと? 怒鳴り散らしたかったけれど、セレナの顔を見れば飲み込むしかなかった。セレナが帰るのと同じように、僕も日常に帰る、その日まであと二週間もない。
 セレナは本当に申し訳なさそうに繰り返し謝ってきた。「今まで思い出せなくてごめんなさい」。そんなこと言われ、僕はなんて返せばいい? 今思えば、あの耳鳴りは部分月食の時間帯からセレナが訴えてきていた。前兆だったのだ。気づくわけもない。皆既月食を原因に、セレナの記憶は戻った。月がなくなっていくとき、一心に月を見上げていたセレナは「ものすごく悲しい気持ちになった」らしい。郷愁の思いに浸っていたようだ。そうして記憶のきっかけを初めてつかんだセレナは、全ての、神としての何千年の記憶の津波に襲われた。それは人間の僕には想像もつかないダメージだったに違いない。
 僕とセレナの間には、あれからずっと虚空が広がっている。時計の秒針が鋭く部屋に響く。お互い、何を話して、これからどうするのか、どうなるのか。分からないから押し黙るしかない。マイナスの感情すら湧かず、ぽっかりと開いた穴は塞がらない。気まずいのは重々承知でセレナの隣に座る。
「月、ってさどんな感じなの?」
 耐えられない、この空気。つまらない会話でしか話を切り出せない僕を許してくれ。
「………。月? うーんとね、何もないなぁ。ウサギはいるのよ。ウサギは白兎しかいないわ。ただただ一面、岩だらけ。目の前にはぽかん、と浮かぶ大きな地球。吸い寄せられるくらい青いんだよ。あっ、でも、他の月の神様もいるのよ。月詠の命さんとか、ヘカテーさん。あと日本で有名なのはかぐや姫かなぁ」
 故郷を懐かしむように、穏やかに楽しそうな声色で話してくれた。どうやらセレナも同じ気持ちだったみたいだ。そうだ、もっと聞かせてくれ。
「そういや、月って何か食いものあるの? 大食いのセレナが何でお腹満たしてるのか気になるな。兎か?」
「失礼だなぁ! ウサギさんは食べないよ。私一応神様なんだよ? 信じてくれる人が居れば、存在はできるの」
「あ、結構……、いや、セレナにとっちゃ最近か。ロケットが月に行ったはずなんだけど、知ってる?」
「何度か来てるわよね。知ってるよ! 私初めて来たとき見に行ったもの。だぼだぼな服を着てずいぶん危なっかしく歩いてたなぁ。ありがたそうに石ころ持って行ったし」
「それ多分月の石って名前ついたぞ。昔あった万博っていうイベントでそれが目玉だったらしい。何千人って見に行ったらしいから」
「ほんと、人間って変ね。ただの石でそんなに人が集まるなんて。空想の話にこり続けるサタローも充分変だけどね―――、だから私、地球に行きたいって思ったのかもね」
 やはり、すぐに静寂に包まれる。僕らの間にある穴を埋めるのは言葉では足りない。肉薄してくる違和感にさいなまれて、次の言葉すら求めるのに精一杯だ。
「私、ボランティアするわ」
 何の脈絡もなく、いきなりセレナは宣言した。セレナにも穴は見えているはずだ。しかし、セレナは大きく声を張って決意を表してくれた。残りの時間を使って罪滅ぼしをしようと、トラウマに打ち勝とうとしている。健気で不器用なセレナの、残り少ない罪滅ぼしに付き合ってあげるのが、僕の精一杯出来ることだ。頼まれてないけれど、してあげたい、と思った。
「うん、そうか。やろうか」
 そうして、僕らのタイムリミットは動き出した。


 セレナが決心した。僕も決心しないといけない。次の日バイトを休むことにした。この間一緒になった新人君に代わりに出てもらった。以前代わったこともあったからか、快く代わってくれたのがとても嬉しかった。
 出来るだけ遠く、セレナの行った逆の方向でボランティアする。NPOセンターがある駅は、大抵大きい。つまるところ、人通りが多いところだ。セレナのトラウマを考えると憂慮するべきなのだろうが、そんなことで足を止めていては前に進めない。セレナの決意を肌で感じた僕は応える。事前にセレナに訊いてみれば、さも当然のように二つ返事で了承してくれた。
 前もって電話で話を通しておいたので、事はうまく運んだ。NPOセンターの会議室に通されて、そこで説明を受けた。周りを見れば、高校生の集団やら、壮年の人々、おばちゃんの集まりなど。多種多様だったが、外国人は居ない。だから、セレナの天の川のような美しいブロンドヘヤーは、まるで醜いアヒルの子のように目立ってしまい、視線がこっちまで来る。ところが当のセレナは気にも留めずに、説明を受けている。視線というのは意識すればするほど刺さるものだ。他人の恐怖をまざまざと師ら占められたセレナには、かなりの負荷のはずだが……。もしかしたらセレナの肝っ玉なら、本当に気になっていないかもしれない。
 僕らは駅前の広場で募金することになった。笑顔で、大きな声で。説明ではそう言われていた。抵抗を覚える。僕には向かない。接客業をしていても、笑顔を作ろうものなら、硬直して表情筋が引きつって頬が勝手に上がって、どこからか切って貼り付けたような笑顔になってしまう。大きな声が響くのも恐ろしい。聞き障りな僕の声で人がこっちを向くのだから。
「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いしまーす!」
 パッとしない僕とは対照的にりんとした立ち振る舞いで、花のような笑顔で、そしてよく通る透き通った声で、さっそく慈善活動に精を出している。昼でも容赦なく吹きすさぶ北風が、身を震わせ体温どころかやる気も奪っていきそうな中、率先してセレナは声を次々にかけていく。そのやる気は、他のボランティア員を置いてきぼりにするようで、セレナ一人でやっているかのようだった。
「サタロー! ぼさっとしないでよ! 声も小さいし、笑顔だって―――、ありがとうございます!」
 セレナの一生懸命を見るのに一生懸命になっていたら、肩をはたかれた。怒った後だというのに、募金してくれた人にはしっかり笑顔で言うあたり、神様も人間も、女性は表情を簡単に操れるんだな、としみじみ思う。他のボランティア員だって、僕とそんなに変わらないじゃないか。
(でも、やらないと)
 いや、そんな受身でやってはいけない。もっと自発的にやろう。
「あ、あかっ……」
 呟いただけで、自分の声の気持ち悪さに嫌気が差す。僕の声はセレナのように美しくないし、僕は容姿だって醜い。こんな僕を見知らぬ誰かに注視されたくない。
「あ、っかい羽、共同募金に、ご協力お願いしまーすっ!」
 やるんだ、と決めた。こんな簡単なことすら出来ないから、僕は駄目人間なんだ。響く僕の声。十年ぶりくらいにこんな大きな声を出した。自分でびっくりしてしまう。
「なんだ、出来るじゃない。あとは笑顔ね!」
 僕を励ました後も、セレナは声をかけるのを休まない。簡単のはずが、僕にかかれば難しいことになってしまう。
「ありがとうございます……」
 僕の声を聞いて募金してくれたおじいちゃんに作り置きの笑顔を、出来る限りの、全力で。
「がんばってね」
 おじいちゃんが返してくれた笑顔のほうがいい。胸を撫で下ろした。嬉しいと素直に思えた。この募金で誰かが救われるのなんてどうでもいい。セレナはセレナ自身の欠損を埋めたい。その協力をしてやりたい。だからやっている。結果的にどこかの誰かが救われるのだろう。もしかしたら、セレナも僕も、きっとそのどこかの誰かの一部なのかもしれない。だから、声を出す抵抗が薄くなった。
「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いしまーす!」
「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いします」
 二人で駅前の視線をこっちに集める。やはりまだ恐怖はある。でもそれは気にしない。もう会わない赤の他人だ。痩せた考えだけど僕の緊張は緩和する。
「ご協力ありがとうございますー!」
「ご協力、ありがとうございます」
 その他人が、僕らとどこかの誰かを救ってくれる。笑顔は返ってこなくとも、それでも、やる気力は自然と湧いてくるのだ。
「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いします!」
 僕らのじゃない。触発されたのか、他のボランティア員も声を張って、笑顔で行き交う人々に声をかけ始めた。僕が他人に影響を与えるだなんて思っても見なかった。多分セレナの影響のほうが強いだろうけど。なんなのだろうか、この暖かく包まれるような心地は。
 僕はセレナに微笑みかけた。勝手に笑みが溢れてきたのだ。セレナもちゃんと返してくれた。はじける輝きに、不意にときめいてしまう。僕はどうしてしまったのだろう。純粋な理由で明るい気持ちになるなんて僕らしくない。
「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いします!」
 誰かが言えば、継いで誰かが言う、誰かが募金してくれれば、また違う誰かが募金をしにくる。見知らぬその場限りの他人でもこの一瞬につながりを感じられる。他人とのつながりを忌み嫌い、遠ざけていた僕は打ち震えていた。
(あ、あれ……)
 目頭が熱くなる。ぐにゃぐにゃと視界が揺らぐ。いい歳こいて衆目の前で泣くわけにはいかない。
「どうしたの?」
 すぐにセレナが気がつく。気づいたのがセレナだけでよかった。
「なんでもねぇ」
 声まで揺れていやがる。恥ずかしくてうつむき涙を拭く。セレナの心配を振り切って大声を張る。
「赤い羽根共同募金にご協力お願いしまーすっ!」


 終わった後ペットボトルを支給された。四時間太陽の下に居たとはいえ、寒空のなかで立ちっぱなしだったのだ。ホットのお茶が染み渡る。思わず握り締めると隣のセレナも同じようにしていた。
「今日寒かったですねー」
 セレナが駅前面子の一人のお姉さんに話しかけた。お姉さんはそうねぇ、と一言、お茶を飲んで続ける。
「でもお二人が熱かったから、そうでもなかったわよ」
 いたずらっぽくお姉さんが言うので、ちらほらとこっちに生暖かい視線が集まる。
「ち、違います! そんなんじゃないです」
 全否定するセレナを傍目に僕はベタな展開の存在を確認した。
(バカだなぁ、逆効果だよそれじゃあ。ほら、そんなおっきな声で否定するからいらない視線まで浴びるハメになったじゃないか)
 当事者に含まれているはずの僕だが、完全に傍観を決め込み何も言うまいと一文字に口を閉ざしていたのだが。
「もう、信じてくださいよ! ほらぁ、サタローもぼぉーっと突っ立ってないで何とか言いなさいよ!」
「なっ!」
 定番も定番だが、とんだキラーパスをしてくれたものだ。くすぐるような視線の集中放火が飛んできている。当然のことで逃げ場を探せど見当たらず、言い訳を作ろうにも追い詰められる。思考はクールにしていたつもりだが、いざとなるとガラスの心は簡単に軋む。
「え、あ、そのぉ……。セレナは、ともだちです!」
 しどろもどろの言葉は方向が定まらず、なんとも気の抜けた返事になってしまった。さっきセレナを小馬鹿にしておいて自分も大きな声になってしまった。
「プッ、そ、そうなの? でも二人お似合いだと思うんだけどなぁ」
 暑い、顔が暑い! なんだこのお姉さんは。僕を体温上昇で殺す気か。穴がないからマントルまで掘り進めてしまおうか。恥ずかしさの二重苦に板ばさみで僕の脳は茹で上がってしまった。
「もう、からかわないでください」
 セレナがついに業を煮やした。するとお姉さんもやりすぎたと思ったのか、ごめんね、と謝って追求は止めてくれた。その印にクッキーを箱ごと貰った。
 集合の点呼がかかって、今日の苦労をスタッフ達ににねぎらわれた。いくつがあった拠点からの合計は約百万強だったそうだ。ちらほらと声が上がり拍手が広がった。僕は素直に拍手出来なかった。僕は僕のためにやったのだ。どこかの誰かが不自由だろうと知ったことか、そんな風に思っている人間だ。そんな人間がここで拍手するのはとても不誠実だ。隣のセレナは嬉々として拍手している。当初の目的の罪滅ぼしなど忘れてしまったかのように無垢な笑顔。その笑顔の手前、小さく拍手をしておくのだった。
 帰り道、どこかで食べていくかと聞いてみるが、セレナは断った。
「外食なんかしてたら、お金なくなっちゃうよ」
 なるほど、働いたことがあればお金のありがたみが分かるわけだ。真っ直ぐ家に帰ることにする。電車の中ではちょうど二人分空いていた。座って何か話そうとするけれど、セレナは疲れたのか、目を瞑って寝てしまった。各駅停車に乗ってしまったので、ゆっくり寝かしてやる。イヤホンで車内の喧騒を消してケータイで時間を潰す。ふと周りを見れば、目の前の高校生は単語帳の文字を追い、大学生くらいの女は死んだ目を伏せている。すぐそこには灰色の風景―――。まだ夕日に照らされたビルが流れていくのを見たほうが暖かい。三十分ほど経ち、いつもの駅で降りる。寝起きの悪いセレナでも電車の中ですぐに起きてくれた。人並みがプラットを埋める中、セレナは早足で先へと進んでいってしまう。見失わないように、他人の合間を縫ってセレナを追う。ようやく改札口で追いつく。
「どうした」
 息を切らしながらセレナの肩を掴むと、跳ねて振り払うように振り返った。僕の顔を見て刹那に見せた緊張を解いた。それだけで察しがつく。
「おい、まさか。いたのか?」
 寝ていたのは、もしかして視界の中に「あいつら」が入らないようにしたかったから?
「早く、帰ろう」
 僕からそういうと頷いた。それだけで充分な返事だった。帰路を急ぎ、引っ張った手はやはり震えていた。ずっとつけてきている? 後ろを確認するが人影は見当たらない。カーブミラーも見るが、やはり居ない。セレナの話では駅までしか足取りは掴まれていない。しかも、セレナはあれから外出していない。ストーキングは考えにくい。とりあえず、今は家に急ぐしかない。
 ようやくたどり着くと、セレナは靴を脱ぎ捨て居間のソファに体を投げた。呼吸が荒い。すすり泣いているようだ。声はかけずに、ホットミルクでも入れながら落ち着くのを待つ。深呼吸をし始めたあたりで、ホットミルクを持って様子を見る。
「大丈夫か?」
 泣きつかれたのか、うつろな目で僕を見る。マグカップを愛おしそうに持って、口へ運ぶ。安心したのか呼吸が穏やかになったのだった。


 やはり、今日帰りに乗った電車の中に追ってきた「あいつら」がいたようだ。セレナに事実を聞いてみると、その通りだった。セレナがその一人を見つけてしまったのだ。向こうはセレナに気づかずに耳を塞いでいたようだ。ようやく少しの平穏を感じていたのに、嫌でもこの間のセレナを思い出してしまう。電車の中のセレナは思い返してみれば、見つからないように体を縮こまらして目を閉じて息を潜ませていたんだ。他人の視線を恐れているのに、目を閉じてしまうと全ての他人の視線が怪しく、猜疑の念が押し寄せてくる。早く着け、早く着けと祈っていたに違いない。だから、僕はもうセレナは外に出ないんじゃないかと思っていた。
「でも私、まだやってみたい」
 泣きじゃくった翌日には、いつものセレナに戻っていた。気丈に振舞っているのが見え見えだったけど、その強がりのせいで僕は首を横に振ることが出来なかった。だから、行くときは僕のケータイを持たせておくことにした。電話帳にはすぐにバイト先に連絡できるように「あ」で登録しておいた。バイト中の今、僕はもちろんケータイを持っていない。今日ももちろんセレナに持たしてある。安心なことに未だバイト先の電話は鳴っていない。
(やはり一人で行かせるべきじゃなかったかな)
 心配で心配で仕方がない。セレナはあの風貌だから駅前で突っ立って大声出していたら嫌でも目立つ。それをセレナも分かっているはずなのに。
「クロセさん? クロセさん休憩ですよ」
 例の面倒女が肩を叩いてきた。隣に立っていたことにすら気づいていなかったからびっくりしてしまった。
「今日はぼーっとしてますね。前もぼーっとしてたし。何かあったんですか?」
 相変わらず面倒だが、話をちゃんと聞いてくれそうなメンバーだ。歯には歯を、女のことは女に訊く。分の悪い賭けだがしないよりましだ。今は少しでもこの焦燥を紛らわしたい。
「ちょっと……、えと、その。実家の妹がストーカーにあってるみたいで。外に出るのが怖いらしいんですが、今日どうしても外に出かけないといけないようで。心配なんですよね」
 セレナのことは隠しておきたい。居もしない妹に立て替えて相談してみる。
「怖いですねー、警察っていうのが一番手っ取り早いかもだけど。実際捕まえるまでが長いらしいですよ。ストーカーの詳細が分からないとどうしようもないんだけれど……」
 セレナには住所もなければ国籍もない。警察に頼ろうとすると密入国者として扱われる可能性も無きしもあらず。極力自分の力でなんとかしたい。しかし『たかちゃん』のことならセレナは分かるだろうが、「たかちゃん」が捕まると同時にセレナも窃盗犯で捕まってしまう。
「そうなんですか……。ありがとうございます。妹と話してみますね」
 これ以上話しても解決は出来ない、そう思った。女は悪くない。むしろ気づくきっかけになった。きっと答えはセレナと僕の間にある。鳴らない電話に恐々とするのは変わらないけれど、幾分かは気もまぎれた。
(今まで面倒女と心の中で呼んでいてすみません、今度からちゃんとコウノさんにします)
 今までの無礼を面倒女、改めコウノさんに心の中で謝罪して、業務に戻ることにする。


「お腹空いた。早く作って」
 帰って来るなりいきなり玄関まで来て、仕事終わりの人間に対して辛辣に言い放つセレナ。普段通りすぎて一気に心配など吹き飛んでしまった。いや、迎えにくるのは初めてかもしれない。
「はいはい」
 生返事でたしなめて、ミートスパゲティを作ることにした。いい料理はないけれど、インスタントよりは手作りのものを食べさせてあげたい。
「手伝わせてよ」
「えー、それなら、パスタ茹でるから吹き零れそうだったら火を弱めてくれ」
「おっけ」
 セレナは例の件を思い出してから料理を手伝ってくれるようになった。今更料理を覚えても、と思う。まぁ、パスタなんて茹でてソースなんかは市販のものを使えば誰でも作れるから、たいしたものでもない。もし僕に恩返ししているつもりなら、とても嬉しい。あんまり期待はしないでおこう。僕は僕で簡単なサラダを作る。これならセレナに目を配りつつ出来る。沸騰するお湯でさえ悪戦苦闘しているセレナ。息を吹きかけて静めようとするけれど、その勢いは止まらず吹き零れる。きゃ、と小さく悲鳴を上げて火を消してしまう。
「あーあ、中火より弱いくらいで……。こんなもんか。吹き零れそうだったらこのつまみを左にちょっと回せよ」
「あ、うん」
 珍しくも僕の忠告を受け入れたようで真剣に鍋を見つめる。
(もっと時間があるならな)
 ふと、叶わぬ風景を思い浮かべた。二人で料理を作っている。セレナはもっと上手くなっていて、ご丁寧にもセレナが作っているのは肉じゃがだ。僕は隣で感極まっているのを不器用に隠しながら副菜なんかを作っていて―――。思えば思うほど儚いものだ。タイマーのけたたましい音で簡単に打ち消される。せめてパスタの茹で方くらい教えてあげる。
「いいか、このザルを出しておいて。火傷しないように。鍋を持って……、そう、そうしてザルに流すんだ。気をつけろよ、流し終わった後はザルが熱いから……」
「あっつ!」
「言わんこっちゃない」
「もっと早く言ってよ!」
 よっぽど熱かったのか耳たぶをつまむセレナ。このくだらない日常のやり取りは当然のような出来事なんだろうな。
「おー、分かったからセレナはコップを運んでください」
 一気にいろいろ教えても覚えられないだろう。セレナはしぶしぶどいて言われた通りにコップを運んでいった。別に温めておいた自家製のミートソースを適当に盛り付けて大皿で持っていく。
「いただきます」
 持って行ったらすぐにセレナが待ち構えていた。すぐに食べ始めた。いつものセレナ、だ。僕に心配をかけない為だと思う。少し自惚れているだろうか?
「いただきます」
 手を合わせていただきます。ここもセレナに教えるのか? それはやりすぎだろうな。そんなことよりも訊きたいことがある。聞くタイミングを探りながらフォークで麺を巻く。
「今日、あのアニメなんじゃない? あの……、なんちゃらサーガ」
 口に含みながらセレナは言った。
「あ、そうだったな」
 どう切り出そうかとしていた僕は適当に流してしまった。
「どうかしてるじゃん、大好きなアニメなのにー。放送日忘れるなんてらしくない」
 からかってくるセレナにお前のせいでもあるぞ、と言えば切り出し易かったか。もう言うタイミングは逃してしまった。訝しげにセレナは僕を見つめながらパスタを頬張る。口元のソースに見とれている場合じゃない。
「今日のボランティアはどうだった?」
 セレナがここに居る、ということはおそらくあいつらには会ってはいない、ということだ。過ぎた心配は迎えにきたセレナを見て薄くなった。が、セレナは気丈に振舞うところがあるから、少しでも挙動を見ておくべきだ。
「うん、今日も楽しかったよ。スタッフと仲良くしてたら名前覚えてもらっちゃった」
「おお、そうか。よかった、ちゃんとやってるみたいで。次はいつなんだ?」
「来週の火曜日だって。土日は出来ないらしいからないって」
 来週の月曜日、セレナと過ごす最後の日曜日になるかもしれない。こんなことをいちいち悲しむ僕は女々しいとあざ笑わう人はいるだろう。僕がその一人だから、被害妄想が強いせいで誰も責めもしないのに自分の感情を押さえつけてしまう。
「そうか、来週の火曜なら空いているから一緒に行くか」
「そうなの? また無理にスケジュール合わせたり―――」
「いいって言ってるだろ? 大丈夫だって、本当に空いてるんだから」
 僕はセレナと一緒にいたい。それが素直な気持ちだ。募る気持ちは膨れて、いずれその日にはじけてしまう。だから願いたくない。それにセレナは帰りたがっているかもしれない。僕がセレナに頼み込むのはおこがましい気がする。それに……、それを言うということは、告白するようなものだ。
「分かった」
 僕の言葉をさえぎるように強くセレナは言った。それ以上の言葉はなく、静かな食卓に戻ってしまった。しかし、セレナがいきなり大皿から退寮にパスタを持っていく。誰も横取りはしないのに。
「箸……、じゃなくてフォーク止まってるよ! 食べちゃうもんね」
 もしゃもしゃと食べては吸っていく様は、フードファイターも顔負けの食べっぷりだ。セレナなりの気遣い、なんだろう。
「どうぞー」
 どうしたってセレナの心労を解いて上げられる言葉は僕にはない。もともと女と喋るだけで緊張するほど腑抜けていたんだ。そんな奴は天地がひっくり返ったところで大事なことすら切り出せない。
 自らに失望するのは慣れているから大してショックではない。パスタとサラダを食べて後片付けをする。この時もセレナは手伝ってくれる。皆既月食は僕だけでなくセレナにも強く影響しているようだ。
 皿洗いを終えればいつものようにセレナはソファを独占する。この習性は変わらない。僕はパソコンの前。いつもの風景。でも、時間は進んでしまう。いつもと同じことをしようが悲壮な未来があろうが、関係なく等しく刻んでゆく。面白い動画やサイトを閲覧しても、焼き増しのようなドラマを見ても時間は戻ってこない。ただ時間を消費し続けるだけなのか。僕はセレナと話して時間を消費したい。あわよくば触れたい。またこんなしょうもない衝動が僕の心をキリキリ締め付ける。意識してしまっている僕に、このソファとイスの距離は遠い。
「お風呂沸かしてあるから、先に入ってくれ」
「はぁーい」
 ドラマの続きを気にするそぶりも見せずにセレナは風呂に向かった。時間よ、早く今日を終わらせてくれ。微妙に踏み出せないこの空気をリセットさせたい。希望通りに三十分という時間があっという間に過ぎてしまった。
「上がったよー。入らないの?」
「入るよ」
 セレナが来たとたん、時間がゆっくりになってしまう。湯上りのセレナは傍を通るだけで僕を誘惑するようだ。上気した頬が、シャンプーの香りが、なによりその日本人がうらやむ天使の跳ねのような軽さと美しさを秘めた髪が卑怯なまでに魅力的だ。逃げるように風呂へと急ぐ。お風呂から上がったらセレナは寝てくれていないか。僕には寝込みを襲うような勇気も男らしさもないから、そのほうが助かる。しかしセレナは寝てはいなかった。不意打ちのように突然目の前に現れて、
「ハイフハヘフー?」
 カップアイスをよこしてきた。セレナは棒アイスを咥えながら無邪気に振舞う。
「お、ありがとな」
 どぎまぎする心を悟られぬように努める。丁寧にもスプーンも渡してくれた。いつものイスに座るのだけれどPCは見たくない。あんな可愛い姿を見せられたらセレナを見たくなる。つまらなそうにあくびをして棒アイスを舐めずにがぶりと食らいつく。シャクシャク、と軽い音だけなのに何千万と金が動いているはずのドラマより楽しい。うれしい。カップアイスの周りがやわらかくなって溶けていってるのが分かる。そんなに見とれていたのかと、意識をカップアイスに集中させる。セレナと僕は愛すを食べている。シャクシャク、シャクシャク、セレナは食べ終えてしまう。僕はまだ食べている。残ってしまっている。一気に味気なくなる。食べたくなくなる。
(あ、ああ……)
 声にならない声は、どこにも伝わらずになかったことになる。こういうことなのかもしれない。こんな小さな喪失にすら僕は弱くなってしまっている。セレナはアイスの棒を捨てた。僕も捨てたい。でも余っている。もったいないと思ってしまう。
「何ぼーっとしてんの」
 ソファから頭だけをだらん、と逆さにしてこちらを見てくる。
「ん、考え事」
 僕は一気にアイスを平らげて台所に逃げる。ちょっぴり涙を飲んだ。甘いのにしょっぱい。止まれよ、無駄に動くな思考。こんな気持ち一過性の気まぐれなんだ。消えたところでどうせきっと十年後には忘れているんだ。便利に忘れるように出来ているんだろ、脳みそは! 忘却に徹するように紙カップを無駄に丁寧に洗って捨てる。
 意を決して居間に戻ると、セレナが気を利かしてアニメ専門チャンネルにしてくれた。と、いうことはもう十二時なんだ。変身バトルものだ。あんまり興味がない。録画対象でもないのに、見たいアニメの前にやってるアニメってどうしても見てしまうな。
「ねぇ、前から思ってたんだけど、なんで変身中に敵は攻撃してこないの?」
 突拍子もなく元も子もないことを。そんなこと言ったら魔女っ子ものとか、特撮ものとか成立しない。
「まぁ……、その疑問はごもっともだな。よっぽど空気読めない敵だと攻撃してくるけど。こういうアニメは変身するのが一番の見せ所だからさ」
「そういうものなんだね」
 納得するしかないんだ。その前提があって初めてかっこいいと思えるわけだ。幼稚園児はその前提を生まれながらに持っている。
 次のアニメはちょっと興味はある。レコーダーのタイマーが起動して録画が始まる。働く女性達の日々を淡々とコミカルに描く、所謂日常系のアニメだ。片手間でいい。インスタント食品のようだ。食べすぎは審美眼を粗末なものにする。さっそくセレナは笑っている。女子高生ものとかにすればウケはよりいいものの、そこをあえてOLの、しかも女のリアルな部分を全面に押し出しているのは、ある意味挑戦だと思う。こういう売れる萌えへの反骨精神を見せられると見たくなる。
「このアニメ面白いけど、なんか女の私から見ると虚しくなるときあるわ」
「セレナ確かにあれくらいズボラだもんな」
「んなわけないでしょ!」
「……ま、そうだといいな」
 せっかくアニメのおかげで忘れられそうだったのに。気まずくて目を伏せた。何かをしていれば忘れられるほど僕は単純じゃない。神様だったら煩悩を消せるだろうか。セレナに頼むのは皮肉だろう。
 会話が無くなってCMだけがこの苦い空気を通り過ぎていく。やがてお目当ての『ルーイン・サーガ』のオープニングがかかるけど、僕は目で追わずに、ただ端っこに映しておく。セレナはソファで寝転がるのを止めて普通に座りなおした。セレナのうなじに目が行ってしまい、気づかれぬうちにテレビに戻す。
「ね、始まったよ。そんなとこでいいの? もっと近くで見なよ」
 背中越し、セレナは言うのだった。表情は見えない。ここ、というのはぽんぽん、とソファを叩いた場所、セレナの隣だ。
「あ、あー、うん」
 勝手に返事した口はすぐに閉じて緊張で一文字になる。ソファに向かって歩くだけなのに、生きた心地がしない。薄く目を開けて隣に座る。腕も、うなじも、足も見れない。せっかくの『ルーイン・サーガ』のオープニングは結局見れやしなかった。本編が始まる。ここからはしっかり見よう。先週はいいところで終わったから今日はきっと面白くなるんだろうな。しょっぱなから剣戟のシーンが始まった。食らいついてこようとするカコデモン達に大鎌を滑らせる。カット枚数が普段より多い。低予算のアニメ業界でこれはそうそう出来ない。カコデモンは夜の闇からうじゃうじゃと湧き、それを切り払うアーシェ達。キリがない。夜から影を取り除くようなものだ。そしてやはり味方のウレオとアウリルが「先に行け」と展開を見せる。チャットとフェリオのコンビプレイは原作の違う敵で使っていたものを出してきた。これは評価が割れるだろうが、ファンからすれば見たかったシーンだ。主人公の統治が剣を構えると、うごめいていたカコデモンたちの闇が飛沫となって体に降りかかる。そのしずくがあっという間に統治を覆い満たす。漆黒の化け物と化した。カコデモンが近づこうとしても、その渦巻く闇にかき消されて統治に吸収されてしまう。漫画でもこのシーンは大人気だった。僕もこの統治の変身は大好きだ。敵の作る堅牢な結界を剣の一振りでなぎ払う。アーシェは破壊された結界の中へと急ぐ。悪魔となった統治もそれに続く。その中には巨大な赤ん坊の顔にタコの足のような触手が生えたような不気味な悪魔。追い詰められる。
「何故だ、男。お前は、女、そいつに殺され、れる、のだぞ。ケケケ。理解、を、に、苦しむ。協力、した、するのは何故? その剣をあれ、これ、こっちによこせば、いいものを。男を救うのは私だ。さあ、女、を殺し、世界を得よう―――」
 と、ここで言葉が途絶える。統治がうるさいハエを払うように右手の剣を振った。斬られた触手の一塊が転がり、醜い悲鳴が上がる。
「ピーピーピーピー聞いてもねぇことを。悪魔ならどっしり構えろ」
 人間の統治が悪魔に悪魔の何たるかを解いた。もっとも、今の統治の方が悪魔らしいから、その説得力は覇王の凄みに近い。
「わ、私を切れば、切る切る切るだけ、ほど、その剣に力が溜ま? る? のだぞ! 生贄の羊は、その運命を、知れば逃げ出すと言う、のに?」
 無邪気な子供のような声の悪魔は、統治の愚かさを気づかせようとする。しかし。
「どうだっていいよ、そんなこと」
 もちろん、悪魔の言っていることは本当だ。それすらお構いなしに、統治はよく喋る赤子の悪魔の言葉を切り捨て、顔に剣を突き刺した。
「前置きはいいから、早く出てきなさいよ。アルハハン」
 アーシェは至高の愛を注ぐ大鎌、ブランを横に薙ぐため構える。統治によって無様に切り刻まれた顔は、悲鳴を上げずに闇に霧散するが、暗闇の霧の中から巨木のような馬の足が出でる。姿を現したそれは、腹にいくつもの赤子の顔を並べ、能面のような面を首にはっつけた、歪んだのっぺらぼうにヤギの角。本物のアルハハンだ。
「何故悩まぬ? 人は自我の保存に徹しているはずだ」
 本物のアルハハンは無邪気な子供の声ではなく、しわがれた老人のような声。重く低く、言葉だけで抑圧できてしまいそうな威圧感。悪趣味な仮の姿とは打って変わって悪魔のそれだ。
「あなたはそこにつけこんで、人を食らうのでしょう?」
「悩んでるヤツだけ相手にしてなよ。オレはアーシェに会ってからそういうのから関係なくなったから」
「女、お前は、後ろめたくないのか。ブランがそんなことをして喜ぶとでも思っているのか」
 言いよどむこともなく、アーシェは言葉の凶刃で薔薇の造花を紡ぐ。
「統治も大事よ。けれど、私の愛はダディだけのものだもの。それは統治も分かってくれている。何より、ドブネズミより醜いあなたにダディの名前を出されて私はどうにかなってしまいそうよ」
 大鎌を持つアーシェの手が強く握りこまれる。その内に秘めたる憤怒の力は、真紅の渦となってアーシェを取り巻く。アーシェが覚醒する。
「死のうが生きようが、そこじゃないのさ問題は。よりしたいように、『楽しい』方へ。命なんてもとよりあってないようなものだしな」
 統治の纏う闇が暴走を始める。その闇は縦横無尽に動きまわり、やがて姿を安定させていく。もはや人の姿をしていない。闇の怪物。赤い瞳。肉薄する両者、死すら想わせないような異次元を感じさせて、エンディングに入っていった。
(………)
 ド肝を抜かれる……。悪魔はいったいどっちなんだ。悪魔のほうがより人間らしかった。でも、悪魔じみたアーシェたちが僕の中の未練というか、ぐずぐずと踏ん切りがつかなかった気持ちにとどめを刺してくれた。自分のしたいよう、楽しいほうへ。
 今の僕はセレナと出会う前の『ルーイン。サーガ』を知って面白いと感じたときよりは、楽しいと思うことが多くなっている。
 それは何で?
 隣のセレナを見た。
 見れたから思う。セレナのおかげで僕は今までの僕から離れることが出来た。他人と話すことに抵抗を覚えなくなっているし、素直に考えることを放棄しなくなりつつある。何よりも、セレナのことを、他人を、大事に想う気持ちがちゃんと心にあるのだと今なら分かる。
 では、僕のしたいことは?
 隣のセレナはエンドロールを見ている。僕が凝視していることに気づいているかもしれない。僕を変えてくれた異変、その日常、その性格、美貌。統治の日常を変えたアーシェのように、セレナ、君が変えてくれたんだ。君への恩返しがしたい。そして、いつまでも君といたい。こんな風に思わせてくれた君だから、一緒に居たい。吹っ切れた僕は言いたい。僕なんかが口走っていい気持ちじゃないかもしれない。あと一週間の関係と割り切ってしまえば楽かもしれない。でもそれは僕のしたいことじゃない。僕が一番したいことは、君に想いを伝えることなんだ。
 エンディングテーマがフェードアウトして、『ルーイン・サーガ』は終わった。僕はテレビを消した。当然セレナは僕を見る。
「どうしたの?」
 そうは訊くが、セレナなら少しは勘付くだろう? 僕が今から何を言おうとしているかくらいは。
「いや、その……。うん。セレナ、もう消えちゃうんだなぁーって思ってて」
(いや、そうじゃねーだろ!)
 もう言っている途中で引き返したかった。しかし、退路はない。セレナはあっけにとられて口をぽかんと開けている。しばらくセレナはそのままで、僕をまじまじと見てくるが、とたんにくすくすと意地悪く笑う。
「なん、なんだよ! たまにはこーゆうこと言ったっていいだろ!」
 血が流れる音が聞こえそうなくらい顔が熱くなる。それでもセレナは止まらない。ひとしきり笑いつかれてふぅ、と一息ついた。愉快そうに笑っていたはずだが、重く首もたげうつむく。
「告白でも、しようと思った?」
「なっ!」
「………。分かりやすい」
 そうだよな、やっぱ分かるよな。揚げ足を取られたけど、潔くなれる。否定は出来ない。しない。自分がしたいって思うことに嘘をついたら灰色になっていずれは消し炭だ。あの街の一部になってしまう。そんな世界をブチ壊すのは、僕の言葉だよ。
「とっくに気づいてたんだろ」
「うん、だから余計に……、悲しくなるんじゃない」
 月の女神様は、雪山のか弱い白兎になってしまわれた。肩を縮こませて体育座り。足の間に頭を挟む。
「どうせ気まぐれよ、その気持ちは」
 迷える子羊を諭す神のように諭す言の葉、しかしその色は切ない色。本音はどっちなのか。
「私ってば可愛いし、性格もいいから、そりゃ気にならないわけないよ。でも、そんなのってただの幻想よ。サタローがやってるゲームと変わらないわ。その時だけよ」
 愛だの恋だの謳歌しているだけでその真理を求めない、そんな奴らが次の想い人を求める世界だ。確かに、神の前では人の気持ちなど泡沫のように脆い。でも、神が創られたのだって人の幻想じゃないか。こじつけかもしれないが。
「……うるさいな、関係ねーよ」
 言ってみても統治みたいにカッコつかない。僕はこの心に在る気持ちが僕を変えると信じたい。だから言おうって思った。僕を変えたセレナが、そんなこと言うなよ。
「セレナがいつ行っちまうとか、神様だとか、気持ちがどーのこーの、そんなのは! 関係ないんだ。じゃあ僕の気持ちはどうなる。僕は僕を変えたいって初めて思えた。セレナに協力したいって思ったんだ。セレナは偽者だと、幻想だと思ったのかよ」
 一気にまくし立てたらセレナに響いたのか分からないけれど、セレナは足の間から抜け出した。僕を見た。
「そんなわけないじゃん……」
 そうだろ、そう思った。ここに帰ってきてくれた時、セレナが僕にそう思わせた。しかしこの想いさえ幻想なのだろうか。やはりどうしたって世の中の灰色のデクと同じような、現実に理想を焼き尽くされる運命なのか。違うさ、僕は逃れるんだ。
「セレナが消えちゃうって知ったからじゃない」
 諦観と消極が僕を引きずろうとする。助けてほしい。でも、自分を助ける真理は他でもない、自分だ。戦うしかないんだ。そして勝ち取るんだ。変わった自分を。なけなしのひ弱い勇気を示すよう、体半分、セレナに寄る。そして言う。
「セレナに知っていてほしいから……。一緒に居たいって」
 消え入りそうにかすれた声は、強く伝わるか。
「僕にないものを、セレナが与えてくれた。それは、ずっと、ずっと僕が欲しかった。けれど、ずっと自分と向き合わなくて、逃げて逃げて。怖いんだ、こんな自分と向き合うのは。でも、こう思えた、言い出せた今なら」
 パンッ!
 何をされたのか、慣れた僕でも理解に時間が要る。頬がひりひりする。セレナは真っ直ぐ僕を見据える。瞳が涙であふれている。
「はっきり言ってよ、男でしょ」
 やめろ、なんで。なんでそんなに。辛そうに笑うなよ。そんなのってねぇよ! 叫びと痛みをセレナにぶつける。体全部使って伝えるために抱き寄せた。
「好きだ。僕が伝えたかったのは、これなんだ」
 くそ、くそぉ……。言ってて情けなくなる。好きな女を傍に置けないような男が何を言っていやがる! 悔しくて涙が出てきやがる。こんなものでセレナを救えるとでも思っているのか!
「バカ……。ありがと。私も、好き」
 神様、どうすればセレナは神様を辞めれますか? 無力な僕らを救わないようなあなたは、何か僕に教示を述べますか? 納得いく答えはありますか。僕らが涙を流さない世界はありますか。
「何が出来る? 僕はどうすればいい?」
「………。バイト辞めてよ」
「バカ、飯食えなくなっちまう」
「もう、冗談よ」
「やめろよ、そんなの。……本気にしちまうだろ」
「じゃあ……、さ。消えるまで傍に居てよ。もう、こんなこと言わせないで」
 消えるまで……。その言葉どれほど辛いか。
 そばに居てよ……。その言葉がどれほど欲しかったか。
 こみ上げてくる嗚咽は行き場を失った。悲痛な叫び。うれしいのに、何故こんなに苦しい。伝わった想いを喜べばいいのに笑顔は作れない。この頬に流れてしまった涙は、止まらない悲しみは僕とセレナを繋ぎとめるための唯一の感情だった。


 外は明るく鳥は幸せを謳歌する。今日はクリスマス。
 僕の枕元にはプレゼントはないけれど、セレナなら隣にいる。あまり直視出来ない。布団から少し出ている肩が艶やかに呼吸で上下している。起こさないようにゆっくり髪を撫でてみると、案の定セレナは起きてしまった。眠気眼で僕を確めて、僕の頬にキスをした。その照れた顔に微笑みかける。今日くらいはこうしていてもバチはあたらないはずだ。そう、今日は―――。
 セレナと過ごす最後の日だから。


 クリスマスに旅館にくる若者というのは少ないみたいで、だいたい壮年、もしくは老夫婦がちらほら居た。そりゃそうだ。若者の皆様は栄えた街でクリスマスツリーを見上げて、それからディナーを食べて、いいムードでホテルに行くのが定番だろう。街の騒ぎから離れるのは落ち着きたいからかもしれない。あと、僕にはそういうのは似合わないかも。
 でも賑わう街に今日僕らは行かなくちゃならない。朝風呂に別れを惜しみながら入っておく。部屋に帰ると女将さんが朝ごはんを用意してくれている最中だった。布団はいつの間にか片付けられていて、一人だけで手持ち無沙汰になる。セレナもどうやら温泉に入っているようで姿が見えない。にっこり会釈して女将さんは出て行った。先に食べているのもなんだから待つことにする。一分二分が長く感じる。こうしている間にもセレナは消えてしまうんじゃないか。不安が常に駆り立てると、たとえ捕まってもいいから女風呂に突入したくなる。そんなことしなくてもやはりセレナは帰ってきた。今日のボランティアに気合が入っているみたいで、もう私服に着替えていた。
「もう料理来たんだ。昨日頼んでおいて良かった」
 濡れた髪がつややかに光る。ドライヤーで乾かしていくとシャンプーの香りが和室の部屋に広がっていく。この日常も協で最後だと―――。いや、止めろ。もう悲しんだり、悔やんだり、ましてや思い出にする準備なんて。
「知らなかった。気が利くね。大食いセレナさんはもうすきっ腹ですか」
 ドライヤーのうるさい音が止まってもセレナは聞こえてなかったのか、ずらりと並んだ朝食を見渡す。
「あのー」
「もう、態度で分かりなさいよ! いただきます!」
「え、あ、いただきます」
 無茶な要求に混乱されながらもいただきます。お味噌汁がおいしい。小松菜おひたしも味付けがちょうどいい。セレナは朝の風情だとか味付けなどには興味なさそうに男顔負けで喰らいついている。
 窓辺のイスに座っているセレナが食後のお茶を飲んでゆっくりしている。その間に僕は洗面台でヒゲを剃って、着替えようと浴衣を脱いだら鏡に映った鎖骨にセレナのキスマークがあった。いつの間にされていたのか。大事に愛しんでトレーナーを着る。戻るとセレナがお茶を淹れてくれていた。小じゃれたラウンドテーブルを挟んで二人外を見る。山並みから見下ろす街は白く染まっていない。ホワイトクリスマスなんてそうそうあるわけじゃないが、期待してしまう。クリスマスなどと無縁だった去年の僕は今の僕をどう思うだろうか。
「サタロー」
 不意に名前を呼ばれた。セレナは視線を窓の向こう側に留めたままだ。
「今日、いろんな人が幸せなんだね」
「そうだな」
 キリスト教徒でもない奴がうんぬん、サンタはいないかんぬん。そんな行き届かないことしか浮かばない去年の僕をぶっ飛ばして、肯定だけしておいた。僕にとっては忌々しいクリスマスさ。皮肉なことにこの日にセレナを失うのだから。
「ごめんね、私、サタローのこと不幸にするね」
 僕の顔を見ずに眼下の街に呟いた。
「……大丈夫だ」
 本当は大丈夫じゃないから、僕も街に呟いた。二人して押し黙る。寂お茶が冷めるくらいに僕らはただただ長く街を見ていた。愛を謳歌する時間も与えられなかった僕らの短い恋路は今日、あの街で終わるだろう。
「もう時間だ」
「そっか」
 あとは、セレナのしたいことを存分にさせよう。


 山沿いの旅館を後にした僕らは最寄りの駅まで歩くことにした。ちょっとした観光名所であるこの一帯は、県外から来る人から見れば新鮮だろうけど、同じ県民であるバイト先の人たちにお土産としてあげるのは喜ばれない。しかし、何も買っていかないのは、休ませてくれたバイト先のメンバーに申し訳ないし、電車内で食べるためにも買っておこう。セレナに選ばせると手荷物が増えに増えるから僕が選んだ。
 強い風で止まってしまうくらい足が弱いワンマンの私鉄電車に乗る。田舎の風情ある昔ながらの私鉄ではなく、観光地の線路として急造したような間に合わせの私鉄。ボックス席などない、かといってたくさん人が居るわけでもない。ほとんど貸切所歌だったので人目をはばからずお土産、もといは早めの昼飯を食べる。そこらへんの売ってるようなまんじゅうとかせんべいとか。案外腹が膨れるものだ。お茶が欲しくなるね、と笑いあう。散々さっき飲んだのにね、と。
 窓を流れる木々たちを、セレナは子供のように食い入って目を凝らす。たまに何かを見つけてははしゃいで僕に知らせた。その様子を微笑んで見守る。
 電車に乗り換えてからは人目も気になってかセレナは大人しくしていた。流れる風景はさっきと打って変わって変化のないコンクリート乱立地帯。クリスマスだからか息が詰まりそうな車内は今日に限って甘ったるい。カップルが多いのだ。向かい側の男がセレナをまじまじと見て、僕を見た。不服そうだ。気持ちは分かる。僕もお前だったらそう思うさ。僕には不釣合いな女だよな。他のカップルの女なんか、比べるのもおこがましいと思えるほどにね。男共の羨望を一身に集めて、僕とセレナは別れに向けて電車は走っていく。
 

 セレナはそろそろ降りなれた駅に昼過ぎに着く。NPOセンターには夕方前に着けばいいことになっているが、その美貌と快活な性格なおかげでスタッフと仲良くなったセレナは、半ばセレナを仕事仲間のように接してくれるのだった。僕を見て、「今日は彼氏さん連れてきたんだ」とはやし立てるおばちゃんが居て、早速居づらくなるのだけれど、
「そうなの、私よか役には立たないけど、クリスマスだし、カップルでボランティアするのもいいかなって」
 恥じることもなく、セレナは当たり前のように言ってのけたのだ。するとスタッフの皆は顔を見合わせてから一呼吸置いてドッ! っと沸いた。セレナを祝福するスタッフたち。そして、僕には恨めしそうな音子供の眼が向けられている。
(僕だって付き合えると思ってなかったんだ……)
 どうせ、何でお前なんかがとか思っているんだろう? と卑屈になるけれど、そんなもの僻みだ、と心に念じておけばいいだろう。セレナも僕も嬉しい束縛から解放されて、いつの間にかスタッフの人たちと一緒になって、今日のボランティアの支度をすることになっていた。当日説明の為の会場セッティングを、僕らに気を遣ったのかセレナと、セレナの仲のいいスタッフでイスや机をそろえることになった。
 イスの数を見ると、この前見たときより一目見て少ない、と分かる。そりゃクリスマスだもんな、と同情しつつもキリスト生誕日でデートするくらいなら、隣人に無償の愛を尽くすキリストのように慈善活動の一つくらいやってもいいんじゃないかと皮肉をつきたくなる。
「サタロー! 列がズレてるんだけど!」
「へ? あぁ、そうか……、っていつセレナにあわせることになってたんだ」
「最初私が並べたイスは私のじゃん。それくらい勘付きなさいよ!」
「言われなきゃ分かんねぇよ」
 僕達がみっともない口論している間、生暖かい空気を肌でぬるりと感じたので、逃げるようにして僕が折れた。やっかいな空気に背を向けてイスを並べ直す。セレナはもういっぱしのボランティアスタッフみたいだ。僕なんかよりも早く社会に順応出来ている。数回しか会っていないスタッフとあんなにも仲良さそうにしている。あまりにも日常に馴染めている風景にセレナは神様じゃないのではないかとさえ思えてしまう。別れが確定してから二週間と一日、もしかしたら、と期待をするが皆既月食の日に予知し、二週間後の新月の今日、月の女神が一年の終わりの月とともに消える。邪推ながら核心をついている気がしてならない。どちらにしてもセレナがボランティアをやりたいのなら僕はそれを全力でさせてあげるだけだ。会場のセッティングが終わると、今度は台紙の募金箱作り。小学校の図画工作を彷彿とさせる安っぽい作りだ。セレナは大雑把だと想っていたが、僕に自慢気に作り方を教える。
「こう切っていって……、ここで、折り目をつけて……」
(ほらっていうか、やり方書いてあるけど)
 カラー台紙に丁寧に「山折谷折」の説明書きがあるし、セレナが作っていく募金箱はどうにもよたよたして頼りない。指摘するのもかわいそうなので、僕はそれを半ば無視しながら作っていく。
「えっ」
 ものの一分もないうちにセレナが作ったものよりも早く上手に出来た。もともと手先は器用だし、プラモにハマっていた時期もあったからか、こういうのは得意だ。こっちも得意気に返してやるとわなわなとセレナは嫉妬に震える。どうやら火をつけてしまったようだ。
「なんなのよ……。そんなに自慢したいの? 私最近になってようやく出来るようになったのに……」
 セレナの努力を嘲ろうとやったわけではなかった。可愛そうなことをしてしまったと、謝ろうするが、
「教えなさいよ、どうやったらそんな上手くできるの?」
 懇願しながら脅してきた。その必死さについつい笑ってしまった。
「何がおかしいのよ。もう、こっちは全然出来なくて、やっと出来たと思ったらサタロー、さらっとやっちゃうんだもの、やんなっちゃう」
 素直じゃないその姿に、素直なセレナを垣間見る。顔に出ている。うつむいたって逆効果だ。
「はいはい、分かった。いいかい、まず、ここから切ったほうが他の所を曲げずにすんで―――」
 僕のはさみを凝視して、それに習うセレナ。折り目をつけて、ノリでくっつけて。前のものより上手に出来てとても喜んでいた。その笑顔がもっと欲しい。
 ボランティアの時のセレナはどのセレナよりも活き活きしている。きっかけは贖罪。しかし、そんなことはとうに忘れてしまっているかのようだ。もちろん忘れているはずがない。初めて行ったあの日、あんなに怯えていたのだ。必死に恐怖と戦っている。見つかればタダではすまないのに、あえて大声で慈善活動にいそしんでいる。
 ボランティアとは本来、誰かを助けることに意義がある。僕らは誰かを助けようとして動いているわけではない。自分を助けたいからボランティアをしている。セルフボランティアだ。困っている誰かのためにやるはずが、僕はセレナのためだけにやっている。利己的だ。でも、困っている誰かが身近にいる、それに協力してやるのは間違いではない、だろう?


 日が翳ってきている。会場に人が集まっていく。ざわめく中僕はずっと外を見ている。太陽が地平線の向こうに逃げて、やがて夜が来る。―――別れの時がすぐそこまで来ているのかもしれない。落ち着け、というのが無理な話だ。いっそ、セレナを引っ張ってどこかへ連れ去りたい。逃避の衝動に体は従おうとするが、決めたはずだ。セレナを応援し続けると。隣のセレナは普段通りにしている。前に立っているスタッフたちが話を始めて会場は静かになっていく。注意事項を言っているのだろうが、右から左に流れていく。セレナは何回も聞いているにもかかわらず、真面目にしっかり聞いているようだ。
(消えるのが僕になればいいのに)
 傷ついたセレナじゃ自らの傷に向き合って、ようやくやるべきことを見つけたのに。それは今日で終わってしまう。
 毎日セレナは声無き声で懺悔していた。それを行動で示していた。『たかちゃん』達に襲われることも省みず努力した。それが報われてもいいはずなんだ。
「それでは皆さん、よろしくお願いしまーす」
「お願いしまーす」
 会場のボランティア員がまばらに返事をして動きだした。心を現実に突き飛ばされて呆けている最中、セレナに声をかけられる。
「いこう」
 固く結ばれた声。ダイヤモンドよりも強固で高貴だ。輝きは瞳のきらめき、それと、内に秘める心痛。雪兎は今、僕の元から離れる覚悟をしたんだ。
(そうか……)
 セレナのためにこの二週間を過ごしてきた。覚悟はしていた。最期まで共にいると。それが僕とセレナの絆の証になる。
「うん」
 出来るだけはにかんで、セレナの先を歩く。いつ来るか分からぬ宿命。確実に、一歩ずつ、そこに向けて歩いてゆく。


 この前僕も来た駅前。
 街には木枯らしが吹き宵闇へと移ろうとする世界の瑠璃色。それを派手に打ち消すイルミネーション。幸せそうに手をつないで歩くカップル、寒さに震えるリーマン。ここが最後の晴れ舞台。きゅっと固く僕の袖をつかんだ感触。わずかだけれど聞こえてくる迎えの音。

 リィーーーン、リィーーーン、リィーーーン……。

 不思議な音だ。以前聞いた怪電波より澄んでいて、聞いていて心地いい。宇宙に音はないはずなのに、まるで遠くから僕ら、いや、セレナを呼ぶように響く。
(ついに来たか)
 迎えの鐘の音は僕らの不安を駆り立てる。僕は見えない上空を睨み、僕はめいいっぱいの気持ちでその手を握りしめ、目を閉じる。
 言葉というのは、音にすると急に脆くなってしまう。移ろう空の色に溶けてしまいそう。セレナに愛していると伝えたい。それだけじゃない。稚拙で堕落した僕のあまりにも多い欠点さえ洗いざらい伝えたいんだ。僕の全てを言い表す言葉で、それを伝えるための言葉なんて、月を、太陽系を、アンドロメダ星雲を、彼方のブラックホールを探しつくしても存在しない。
 五秒だったか、十秒だったか、その時間は分からない。ただ、僕らは立ち止まっていた。他人からどう見られたかも分からない。そんなことはどうだってよかった。セレナが指を離したのを合図に、目を開けた。手作りの募金箱を確かに手に持って、腕時計が六時を指すのを見つめる。スタッフがメンバーに時間を告げる。
「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いしまーす!」
 率先してセレナが声を出す。その声は道行く人たちの耳に届いて、その美貌と快活さで男女関係無しに興味を引いていく。クリスマスということも手伝って、幸せそうな人々はほんの少しの幸せでもと、分けようとお金を募金箱に入れていく。
「ご協力ありがとうございます。よろしければこちらプレゼントになりまーすっ!」
 セレナが渡したプレゼントを人々は受け取って帰ってゆく。その背中をセレナは見送っていた。
 リィーーーン、リィーーーン、リィーーーン、リィーーーン……。
 この音が聞こえる僕には、セレナの姿は消える星の瞬きのよう。その姿をかき消すよう僕も言う。
「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いします!」
 幸せそうな子連れ家族。その子供がプレゼントのお菓子を貰ってはしゃいでいる。若い夫婦の妊婦はそれを見てお腹を撫でて微笑んだ。あぶれ組みの学生男子達は、騒ぎつつも純真な気持ちで募金していった。へとへとの中年リーマンは、財布の中も寒いだろうに「お疲れ様」と一声かけてくれた。ガラの悪そうなカップルは、「オレ、一日一善って決めてっから」「はぁー? じゃあなんで昨日プレゼントくれなかったの」「いや、そりゃ、昨日バイトだったから」と千円札を入れて仲睦まじそうに帰っていった。高そうな紳士服を着た老人は一万円を入れてくれた。その後、お小遣いを貰いそうになった。女子高生はちょっとうつむいた顔でそっけなく入れてくれた。セレナと同じような、ブロンドへアーの女性も入れてくれた。日本語がほとんど話せないのか、終始ボディランゲージだった。車椅子のおばさんを押す、友人であろうおばさん。クリスマスなど関係なさそうに暗い顔をしていても入れてくれた。
 ―――僕が知らないだけで、こんなにいろんな人々がいるんだ。知らない、というより気づこうとしなかった。いろんな人の、いろんな表情と言動。全て違えど、目的は違えど、何かをすることで繋がっている。目に見えぬ、他人同士の繋がりなど信じるに値しないと小馬鹿にしていた。こんなのただの感傷かもしれない。人に裏切られたらこの気持ちを裏切ってしまうだろう。
 それでも……。僕は大事に取っておきたい。信じるものの足が掬われる世代に、僕はそれでも救わると信じてみたい。もうセレナはとっくに感じていたんだ。呼びかけるセレナの目はらんらんと意気込み、この聖夜の街頭を照らすライトアップをかすませる。
「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いしまーすっ!」
 僕の熱い視線に気がついたのか、にっこり微笑んで僕の顔に手を伸ばす。
「泣いているの?」
「え……」
 人目をはばかるように小さい声だった。泣いているのか僕は。目を拭くと確かに濡れていた。取り繕うようににかっと笑ってみせる。
「いや、こうしているのも、いいなぁって」
 一瞬セレナが困った表情をして、すぐに笑顔で隠した。
「そうね」

 キン、キン、キン、キン、キン―――。

 音が断続的に聞こえはじめた。僕の顔色で悟ったのか、さらに笑顔になる。
「そう、もうすぐ。……かも」
 僕ですらこんなに強く聞こえるのだ。セレナにはとっくに―――? 今更気がついてもどうしようもない。せわしなく、まるでせかすようにセレナを責めたてる。
「なぁ―――」
 僕は言ってその先をすぐに引っ込めた。何度も決めただろう! 言っちゃいけない、言ったらセレナは消える。でも、どうしようもない。僕らは繋がっている。
「最後までこうしたい。もちろん、サタローと一緒の気持ちなの……。だからこそ、隣で街の人たちに声をかけたい。笑って、幸せを運ぶの。それってとっても素晴らしいことじゃない? 輝いてない? ねぇ、サタロー? 私達の願い、叶うよね」
「………。ずるいぞ、お前ばっかり」
「セレナって呼んでよ」
「ははは……。分かったよ。セレナの言う通りにするさ」
「ありがとう……」
 サンタクロースは昨日でこの街から去ってしまった。大人の僕には姿すら見せず、女神のセレナは願っても叶わぬ夢を持って消えてしまう。二人、こんなに声を震わしていても幸せな街には誰一人として助けてくれる人も神もいない。

 キィーン、キィーン、キィーン、キィーンキィーンキィーンキィーン。

 目には見えぬ何かが僕らを引き離そうとする。もうさっきからずっと鳴っている時の知らせに抗うように、セレナは叫んだ。
「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いまーす!」
 それは、傍から見ればただ熱心なボランティアだと思うかもしれない。誰でもいい、僕のほかにセレナを知ってくれ。この小生意気で純粋な少女に気づいてくれ。雪は降らずとも、奇跡起こらずとも。
「赤い羽根共同募金に、ご協力、お願いします!」
「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いしまーす!」
 僕らはもう泣かない。嗚咽にむせいで座り込んだりしない。幸せに包まれた今日をぶち壊してはいけない。セレナがそう願う。強い誰かが叶えないのは知っていたさ、僕が叶えてやる。
「赤い羽根共同募金に、ご協力、お願いします!」
「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いしまーす!」

 ああ、セレナ。好きだ。こんな風に思えるのは、今日この世界で一番の幸せ者だからだよな? 今なら素直に思えるよ。

 うん……、私も。ねぇ、分かる? こんなに幸せなんだよ。こんなにもあるんだよ。世界中に伝わるくらい大きいよ。

「ぁ、あ、赤い羽根、共同募金、に、ご協力おね、がいします!」
「赤い羽根共同、募金、にぃ……、ご協力、お願いします!」
 笑いあう人たち。明日からは年明けに思いを馳せる。今日のことなんて、忘れてしまったかのように。
 僕らが強いて願う思い。このひと時だけは皆、笑顔で居てください。好きな人と、大事な人と、一緒に過ごしてください。
「ぁ、あ、あ、かい、羽ぇ―――」

 キィーーーーーーーーーーーーン。

 魔法が解けたように、僕は醒めた。
 隣にはサンタクロースの衣装と、募金箱が落ちていた。
 音は、もうしない。
 分かっていたことじゃないか。
 覚悟、していただろう。
 最初から知っていただろう。
 孤独が心を押しつぶす。ひどい、無慈悲な力。
「う、うう、うぇ……っ! はぁ」
 喉から出たがる激情、勝手にあふれようとする涙。僕はここで撒き散らしていいだろうか? 目の前を歩く人に殴りかかってもいいだろうか、ライトアップを引きちぎっても―――。
「クロセさーん、ちゃんと持ってもらわないと困ります」
「あれ、なんでこんなところにコスチューム落ちてたっけ?」
 横からメンバーが声をかけてきた。その言葉の意味を即座に理解した。うつむいたまま深呼吸して、セレナもそうしたように笑顔の仮面を貼り付けた。
「あー、すいません。僕が二つ持つって言ったんだった。そのコスチュームは、僕が手違いで持ってきてて、回収まで待とうかなぁって」
 そう言って二つを拾った。僕のものよりずっと重い募金箱を、まだ暖かいコスチュームを持って、気丈に言ってやる。
「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いしまーす!」
 納得してくれたようで、声をかけてきたメンバーも持ち場に戻って募金を呼びかける。
 暖かい……。誰も覚えていなくても、ここにセレナの証拠がある。この街にまだセレナの声が響いている。そう思えば暴走しそうになっていた心が、凪のように穏やかになるのだ。
 灰色の街、色を失った世界の住人。今日から僕も元通りの色へ。それでも構わない。セレナが僕に世界は僕の思っているより、ずっと美しいものだと教えてくれたから。

 だから
 さよならだ、セレナ。


「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いしまーす!」
 僕はまだここで、こんなことを言っている。NPOセンターの一員として働けている。父は一昨年死んでしまった。仲違いをしていた父だが、就職した後久しぶりに会いに行ったら殴られた。でも、全然痛くなくて、でも心はすごく痛かったのは今でも覚えている。それから僕は稼いだお金は親孝行に使ってきた。僕と実家の貯蓄で建てた墓に今日も母はお墓参りをしていると思う。
 僕はあの日からずっと、セレナの意思を継いでいる。アニメやネットにはない面白さがある。やりがい、というヤツか。一年間通いつめて、職員として受け入れられた時は本当に嬉しかった。二十五になってようやく定職につけたことよりは、素直にやりがいのある仕事に就けたことの方が喜びだった。
 セレナが居なくなった。世界が切り取られたように、忘れ去られた。強大な喪失感に、僕は泣く涙も無くすくらい泣きとおした。正月の賑わいで、テレビも特番ばかりでアニメもやらず、かといって撮り貯めたアニメややりきれなかったゲームがはかどるわけもない。「ルーイン・サーガ」は今でも僕のお気に入りだけど、一回見たきりだ。
 セレナが消えようが、僕が独りさみしいさみしいとすすり泣こうが、世界はセレナをつれてこない。律儀にも世界様は「毎日」を朝日と共に押し付けてくる。所詮僕は灰色世界の住人。その事実には不変だし、逃げ道もない。前から気づいていたけれど、やっと理解出来た夜があったから、こうしている。
 今日はこれが終わったら、新しく出来た友人と飲む約束をしている。セレナとの一ヶ月とちょっとを語るつもりだ。
「赤い羽根共同募金に、ご協力お願いしまーす! あ、はい。どうも、ありがとうございます!」


 どこにでもある何の変哲もない、大手居酒屋の前で友人を待つ。酔っ払ったリーマンが居酒屋のキャッチのお姉さんにしつこく話しかけているのを傍観しながら、「ご愁傷様」と心の中で呟いた。かわいそうとは思うけれど、ああやって酔っ払っているヤツは大抵酔っている間は何でも許されると錯覚している。いつまでも大学生気分が抜けないしょうもない社会人。煙草に火をつけて、空に煙を送った。満月が浮かんでいるのを見るとついやりたくなる。あそこにセレナが居る。今だとまるで童話か何かに感じてしまう。セレナが僕の中で希薄になった訳じゃないと思う、思いたい。灰色が僕の心根を侵さないように生きてきたつもりだ。時が経ち、常識に調教されると、どうしても幻想の世界のものだと洗脳されてしまうようだ。
「待たせたかい?」
 街の賑わいには似つかない、作務衣を着た友人がこっちに手を振る。
「そうでもないよ」
「ああ、そうか。じゃ、さっそく行こうかい」
 間違いなく浮いているのだが、僕はかっこいいと思う。流されず自分のスタイルを通す。なかなか出来ることではない。
 中に入るとうるさいくらいに元気な挨拶で迎えてくれた店員に席を促された。最初にビールは頼まない。「とりあえずビール」が常識なのが、僕は許せない。友人もそのようで、冷酒を頼んだ。僕は焼酎、タコわさび、軟骨を頼む。
「トーノ、シナリオのほうはどうだい?」
 友人トーノはゲームのシナリオライターを生業としている。と、いっても、同人活動の域を出ないのだが、それでも名は広く知られている。本業はフリーター、僕と同い歳。NPOセンターに何故か取材に来て、話が合って仲良くなったのだ。
「あぁ、あれねぇ。もう飽きちゃったかもしれないねぇ、ふふふ。委託先が僕の作風を理解していないと思うのさ。無理矢理なハッピーエンド……、なんてやらないって、何度も言っているのにな」
 少々ナルシズムな口調のトーノを話し方が生理的に受け付けない人も居るだろう。しかしそのクセが彼の作家である風格を際立たせている。
「へぇ……、シナリオライターって、エロゲーでも結構シナリオ絞られるんだな」
「エロゲー、だからさ。テンプレートに少し味つけをしておけばいい。あとはいかに女の子を可愛く描けているかだよ。ストーリーは二の次三の次さ。確かにストーリーを重視するニーズもあるねぇ。しかし、それを把握していてもなお、絵に対するニーズは強い」
 消費者側の僕でもそれは気づいていた。パッケージ買いという言葉が存在するほど、現行のアニメやゲームにはキャラクターデザインは売れるキーファクターだ。ストーリーがあって初めてキャラが成り立つのに、キャラ重視、声重視の業界のやり口には、僕も憂いているからトーノの言っていることはよく分かる。
「僕の話はどうでもいいのさ。それよりクロセ、君の面白い話を聞かせてくれないか」
 身を少し乗り出してまで、トーノは楽しみにしてくれていたようだ。セレナ、ここにセレナに興味があるヤツがいるってよ。
「さっそくか。そう急かすなよ」
「クロセには悪いけど、今日はクロセが一方的に話す日だ」
 退路は釘を打たれて断たれてしまったようだ。仕方がないから、お冷で喉を潤す。
 
 部屋に今もある、セレナの作った募金箱と、着ていたサンタクロースの衣装を目蓋の裏に浮かべた。まず、あの引っ叩かれた日から話すことにしようか。

二進数の三次元

どうもお初にお目にかかる方は初めまして、そうじゃない人はおっす。

前作、『アミィに捧ぐ”Duet”』とはまた違った作風にしてみようと書いた作品です。

私はラノベ、『キノの旅』を小学生のときに読んで、作家を志すことにしました。そのあと『灼眼のシャナ』に出会ったことでラノベから離れるのです(『半分の月がのぼる空』は読んでましたね)。ラノベ発進の作家志望など特に何も珍しくもなんともないと思います。さらに言えば、そのラノベというあいまいな分類に足を踏み込まなくなることももちろん。

しかし、毛嫌いするのもどうかと思い、食わず嫌いを治すように『とらドラ!』を読みながら今作へとこぎつけました。

この小説はCLAMP作『ちょびっツ』を元にしています。……とは言っても、そのなんだ、『うる星やつら』とか、そんなかんじの、単なるラッキー野郎としての設定だけ借りてきてるかんじですけれど。『ちょびっツ』では描かれていた、「私だけの人」を、違った角度で書いてみようかな、とも思って書いてみましたが、どうでしょうか。

ここまで読んでいただいてありがとうございます。もう一年二年くらい前のものなので、あとがきをどう書いていいかわかりません。
こういうのって勢いで書くものだと思ってますので。

では、またご縁がありましたら。

二進数の三次元

もしも僕に彼女がいたなら、人生はどう変わっていただろう。 そんなしょーもないことを考えているのに、まったく行動に移さない主人公クロセ。 劣等感ばかり強くなっていくフリーター生活に、いらいらは募るばかり。 しかし、ある晩、2011年11月11日に満月の日にそんな「しょーもない」ことが現実にかわる!

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-20

CC BY
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