I want to enjoy chess

 夢の中に私は小さな煉瓦の城の虜となっている。私は謀反を企てた罪人であり、城の主を父母の仇だか親友の仇だか、ともかくそんなようなもので憎んでいる。
 あるとき突如扉が開き、私は牢を追い立てられる。十と数日ぶりに立って歩くが、左右には鉄の穂先の槍を持って兵士が並び、私の手枷は外されない。
 牢は離れの塔にあり、私は燭台を持たされて長い螺旋階段を一段ずつ降りる。窓の殆どない階段は暗く、土色の煉瓦に私の濃い影が揺れている。
 やがて階段が終わり、私は広間に降り立つ。そこには常識的な窓があり、久々の陽光に私は目を眇める。と、その顔に濡れた布巾が投げられる。どうやら顔を拭くようだ。私は大人しく、顔と首を拭いて布巾を返す。
 眼前の物置代わりの卓には男物の小ぎれいな服がひと揃い投げ出されていて、兵士たちがその服について二言三言を交わす。手枷をしたままでは着替えができない。ズボンは、面倒だからいいだろう。ではどうするか。上着だけ、肩から掛けておいてはいいだろう。私は黒い上着を掛けられる。上着には金モールの飾りがつけられている。こんな上等の服は見ることすらそう幾度もない。突如自分の垢じみた腕が気になり始める。しかし、そうした自分たちのみすぼらしさのそもそもの元凶がこの城の主である。それに思い至ればなお主が憤ろしい。
 階段室の広間から短い回廊を渡り、バルコンから城の裏手に入る。囚人を逃がさないためなのか、回廊は城の二階か三階に続いている。
 陽の差す部屋を通り抜け、陰る廊下の扉を開けると、白黒のタイルが敷かれた床の小部屋である。厨か、と思うが、厨が二階にあるはずもなく、更に奥にある扉を見ればここは次の間のようである。ならば隣は浴室か。市松模様に並んだタイルは冷たく、扉の隙間からは光も喧噪も、僅かも漏れてこない。陽光に蒸される塔にいた私は軽く身震いをする。
 兵士が扉を叩くと、すぐに細い声が答えた。女の声である。主は女である。
 私は部屋に通される。市松の白黒の部屋で椅子に掛けた女が顔を上げる。主だ。謀反の折には見るも叶わなかった主が、手の届くところにいる。
 私は卓を挟んで主の向かいに座らされる。卓には枝分かれしない燭台と、白黒の市松の板。チェス盤だ。
「あなたは右利き?」
 主が問う。手枷を引いていた兵士が私の背を押すので、首だけで肯うと、主はよかったと言って手を合わせた。
「あなたはチェスができると聞いたの」
 確かに私はチェスが少しできる。私はそんな事を話してはいない。話したとすれば、先に囚われた同志だろうか。
 頷く義理はないので黙っていると、兵士が一丁の猟銃を卓に置いた。続いて同じものを、主の前にも。
「私にチェスで勝てば、自由にしてあげる」
 その言葉に、初めて私は主の顔を見た。真正面からじっと。主は薄い笑みを浮かべていた。
「本当よ。その兵たちは、私が死んだ後まで私に義理を立てたりしないわ。思うように仇を討てばいい」
 主は小柄な女だった。小柄というより、がりがりである。黒いドレスで締め上げたにしても、胴まわりが私の腕ほどしかないように思えた。銃など使わなくても、首を片手で握り潰せそうだ。
 痩せぎすの主はじっと私を見ている。値踏みしているように見える。その小さな顔は、燭台の赤い光に照らされてもなお青白く見える。金持ちの女は、もっと肌につやがあるものだと思っていた。こけた頬には重く影が落ちている。これでは、貧乏に痩せたか、病んだ女に見える。
「興味はない?」
「しかし」
 私は疑う。
「あなたも銃を持っている」
 主が破顔した。にやにやした薄笑いよりは健康的に見えた。
「しかり。あなたとは、ちょっと特別なルールで遊んでみようと思うの」
 主はチェス盤の、自分の側に白い駒を並べた。そしてその初期陣形から、ビショップをひとつ手に取る。
「まず──ビショップを取られたら」
 その駒を盤上に寝かせ、主は銃を手に取る。
「脚。右脚を、ズドン」
 私は思わず背筋を強ばらせる。主はくすりと笑ったが、手枷のある身では、すぐにも撃たれる恐怖があるのだ。
「それから、クイーンを取られたら、左腕」
 主は猟銃を控えた兵士に預け、クイーンの駒とキングの駒を取っては寝かせた。
「そして、キングを取られたら、頭か胸」
 白黒の部屋に沈黙が降りる。いくつかの燭台が赤く燃え、僅かな炎の足もとのみに辛うじて色彩が残っている。白は生気なく白っぽく、黒はあくまで濃く黒かった。
「二つ目のビショップは左脚。その他は普通のチェスと同じよ。──ポーンは取り放題」
「あなたらしい」
 兵士が私の襟を掴み上げたが、主は揶揄ごときでは動じないらしく、長い指で兵士を制した。
「いかがかしら。ご質問は?」
「なぜビショップで脚なのだろう。ルークではないのか」
 うん、と主は頤に手を当てて首を傾げた。
「ナイトでもいいのよ。ルークの方が強い駒だけれど、それじゃ、緊張した勝負にならないと思ったの」
 つまり、ルークの取り合いは試合の後半になりやすいために、撃ち合いが早く回ってこないということだろう。何を考えているのだ、この女。
「それに、ルークもナイトも捨てるために仕えさせているけど、ハンサムなビショップがいなくなれば、甘い心は傷つくわ」
 そういえば、司教座の前の司祭は成り上がり者で、いろいろな方面に奸策を弄して地位を上げたという噂である。司教座は王権には仕えないので、表向きは友好的でも、裏では主と覇権争いをしていたのだろう。その司祭は先月急死していた。
「だからビショップは脚」
「生々しい」
「ただの喩えよ。クイーンが左腕なのは、残った右腕で銃を撃つため。その右腕で杖をついて歩けるように、ビショップは右脚」
「では、なぜ、そんなことを」
「チェスを楽しみたいの」
 主は卓に肘をつき、重ねた手に顎を乗せた。
「普通に勝つのも、普通に負けるのも、もう飽きちゃった。私はチェスを楽しみたいの」
 私は口を閉ざしている。罵って兵士に小突かれるのは面白くない。
「安心して。私は強くも弱くもないわ。……チェスくらいしか楽しいことがないのに、大して上手くなれなかった」
 主は視線を落として溜息を吐く。私の胸に、義務感なのか、正義感なのか、そういった正当性を伴った攻撃性が湧いてくる。
「いかが。申し入れているのは私よ。あなたは断ってもいいのよ」
 見え透いたレトリックを私は責めなかった。
「受けよう」
 すぐさま手枷が外され、私は卓に向き直る。

 私は黒の駒。主の駒に向かい合わせて並べる。
 オープニング、そう一言言って主はポーンを進める。中央右側二コマ。
 私がそれに対面するようにポーンを進めると、主はもう一度呟いた。
「オープンゲーム。ヴィエンナ・ゲーム」
 そしてその通りに駒を進めたので、つまり、右手のナイトを進めたので、私は疑念を持った。
「いちいち手の内を明かすつもりか」
「オープニングはもう明かされているようなものよ」
 主はそう言って卓に肘をつき、手に顎を乗せた。
「これまでにこのオープニングを、この国の何百倍、何千倍もの人が繰り返してきたの。いまやオープニングは完全に解き明かされて、体系化されているわ。私たちが、特別な方法で始めることなんてできないの」
 私は主の言葉を聞きながら、定石通りに駒を進めた。
 いや、主の言葉に気を取られ、定石通りに打ってしまったのだ。クイーンに脅かされるキングを守り、ビショップを前に出してしまった。
 主の唇が吊り上がる。
「私たちは特別ではないわ」
 主の白いクイーンが、居並ぶ市松の対角線をすーっと滑り、黒のビショップを取った。
 主が姿勢を正し、右手を出すと、控えていた兵士がその手に重い猟銃を勢いよく載せた。同時に、私は一人の兵士に羽交い締めにされ、もう一人に右足を押さえつけられる。
「けれど、こうする限り私たちは特別なの」
 主は猟銃を構え銃眼を覗く。唯一自由な左脚を狙っている。
「ほうら、動かないでよ。散弾銃なのよ。もっと大事なところに当たっちゃうでしょう?」
 思わずぎくりと身を竦めたところを、主は見逃さずに引き金を引いた。
 雷が光ったのだと思うほど視界が白く閃いた。しかし赤いような気もする。赤と白がちらつく目の奥で、脳が今起きた事実を否定しようとして混乱している。その間に、痛みが届いた。視界の白が増す。体が膨れるようなのは、毛穴が開いて脂汗が出ているのだ。
 私は喚きながらでたらめに腕に力を入れるが、兵士の力は強く私の腕は僅かに動くばかりだ。脚を見れば、脛に三つか四つの穴が穿たれていて血が細く吹き出ている。右足を押さえていた兵士が紐でその傷の上を手際よく縛った。出血の勢いは弱まり、吹き出すということはなくなった。
「しっかりして。途中で降りたら、殺しちゃうわよ」
 私が暴れなくなったので、兵士は私の戒めを解いた。私は暴れるのも叫ぶのもやめたが、実際は手を握りしめ歯を噛み、痛みと、脈動と、冷や汗の冷たさに耐えていた。チェスどころではない。
 やめるの、と主が念を押してきたので、私はいいやと言い、少し待て、と言った。人間の生きようとする力は凄まじい。私はその言葉を無意識のうちに言った。言えば神経の苦しみは収まり、興奮は混乱の代わりに集中へと変化した。
 私はオープニングを続けた。定石と違って、クイーンが丸裸である。私は遠慮なくポーンでクイーンを取った。主は驚きもせず、腕を掲げ、市松の床と水平に伸ばした。控えの兵士が猟銃を私に預ける。
「手が震えていてよ」
 猟銃を構えた私を主が茶化す。実際私の手は震えている。軽い貧血と神経の昂ぶりのせいだ。私は苛立つ。私はお前と違って、銃口など人に向けたことはないのだ!
 嫌悪が最大になると同時に、銃が火を噴いた。それほど憎しみを膨らませなければ、引き金が引けなかった。主はかくんと首を垂れた。当たり前だが、私は見てしまった。主の握り込めそうな細い腕は、通過する散弾の威力に耐えられなかった。腕は二の腕の先から、千切れて飛んでいった……。
 私は血の気が引いた。すでに血を失っているところに血の気が引いたのだから、一瞬目の前が暗くなり、椅子に尻餅をついた。頭を低くすると血が巡り始め、視界が戻った。上目遣いに主を見ると、兵士に腕を縛り付けられるに任せて体が揺れているが、首が揺れていない。それで、主が悲鳴を噛み殺しているのだと気づいた。
 主は止血が終わった後も暫く項垂れていたが、やがて肩を震わせ始めた。ようやく懲りたか、とやや安堵した瞬間、主の喉も震えているらしいことに気がついた。それは確かに、ふふふ、と聞こえた。
 笑っている。なんて女だ。
 主はひとしきり肩で笑うと、突如、ぱっと顔を上げた。
「楽しいわねえ」
 楽しくない。
 私は自分が狂女の相手をしていることにやっと気がついた。まともに相手をする必要がないことにも。撃たれ、腕を吹っ飛ばされて楽しがっている女である。撃てばいいのだ。遠慮など、することはない。端から相手がそう言っている。どんどん駒をとり、さっさと撃ち殺して助かってしまえばよいのだ。
 そう思うと、俄然勝つ気になってきた。折良く、オープニングは終わり、十重二十重のミドルゲームが花開く頃である。私はひょいひょいとポーンをジグザグに進め、ポーン二つとナイトを仕留めた。主はビショップを狙って、いきなりルークをぶつけてきた。しかし私は構わず、ポーンを取らせて、ビショップとキングに同時にチェックをかけた。主は品のないことに、ちっと舌打ちをした。面白い女だ。確かにチェスはうまくないが、一丁前に悔しがるところなどなかなか愉快だ。
 主は怒った様子で力いっぱいキングを隣のマスに叩きつけた。それから腕を組もうとし、片腕が足りないので仕方なく頬杖に代え、そっぽを向いて拗ねた。その次にようやく脚を出した。上品なもので、宍のちっとも付かない色気のない脚は、長いブーツとそれよりも長い靴下で、しっかり隠されていた。それを爪先を伸ばして、おしゃまに掲げている。そこだけ上品でもなあ、と腹の中で苦笑しながら銃を受け取る。都合、顔と脚が反対を向いているのだ。滑稽だ。
 今度は貧血と、違う種類の興奮とで手が震えるが、私は迷いなく銃を構え、ぶっ放した。至近距離である。さして正確に狙いを定める必要もない。主の脹ら脛に三つほど穴が開き、主は今度はウーと唸った。あくまで悲鳴は上げない。
 私は悶絶している主を見る。私の胸元までしかないであろう、小さな体である。とても細い。関節が浮き上がっている。暗い上にすべてが白黒で、色彩感覚の狂う部屋のために顔色は分かりにくいのだが、頬やまぶたに濃い影が落ちていた。考えにくいが、栄養失調なのだろうか。それとも毒でも盛られたのか。私は疑問に思う。わざわざこんなことをしなくても、十分痛々しい姿じゃないか。なぜさらに惨めになるように計らうのだ。
 主は止血が終わると、残った手の甲で額を押さえて痛みを堪えていたが、暫くして、ふと私の方を見た。
 頬が上気している。ということは、そう見えなかった先刻までは、やはり主の顔色は悪かったのだ。そして、目が輝いている。
「楽しいわ」
「そうか」
 私は否定しなかった。
「あなたは楽しくない?」
「楽しくはないな」
「では、不愉快?」
「不愉快と言うより、不快だ。痛いのでな」
「不愉快ではないのね」
 不愉快ではなかった。というのも、実はそろそろ、私には自分の勝ちが見えていたからだ。
 主は確かに強くなかった。本人の言に反するが、むしろ弱いと言っていい。それはつまり、彼女にはチェスを教授する者がなかったということではないのか。
 ひとりでチェスを指すことほどつまらないものはない。
 一城の主、大勢の従える者の主、その主は城で、従者に囲まれ、ひとりでチェスを指す。
 私は迷っていた。私はこの局面から、二手でキングを取れる。そのかわり、ナイトを取らせなければならない。
 痛みを避けようとするチェスの進行は、通常とは全く異なっていた。彼女の言い様に依るなら、このチェスは特別なのだ。私はとても普通の意味で、痛いのは嫌である。しかし、私はできればもう、この特別なチェスを終わらせたかった。ナイトはルールの外である。
 私はナイトを滑らせた。斜め三十度。あ、と主が呟く。暫く動きを止め、瞬きも止めたまま盤面を見据えた後、彼女はナイトを庇ってルークを進めてナイトを取った。
 チェックメイト。後手のビショップからキングを守れませんでした。後手の勝ち。
 彼女は長らく睫毛を伏せ、盤面を見つめた後、顔を上げた。
「楽しかったわ」
「そうか」
 兵士が私に銃を手渡す。散弾の猟銃である。
 私は立ち上がる。血を失った血管は冷たく、目の中が暗雲と緑の星になる。
 白黒のついた勝負。白黒の部屋。緑の星。彼女の髪は深い茶色で、その瞳は青かった。
 星の中に彼女を見る。私は気づく。私はつまらない盤より、試合より、彼女を最も詳しく見ていた。私は、これほど一人の人を、つぶさに見つめ続けたことはない。
「私は」
 私は散弾銃を右手に捧げる。
「あなたに恋をしていました」
 私は引き金を引かなかったが、彼女を死なせたのも同然だ。何故なら、そこで私は夢から覚めたからだ。

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  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-04-19

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