Das Unisono fuern Dasein. 存在者のためのユニゾン
司教区の片隅に悪魔憑きの子がいるというので、若い司祭が一人、使いに出された。
本当に悪魔憑きなら、遠くイタリアから悪魔祓いを呼ばねばならないが、その費用はどこから出るのだろう、と思いながら司祭は歩いた。
司教は、信仰よりも政治に熱心だ。この夏いっぱい、王の一行を司教座の大きな修道院いっぱいに泊めていたし、来月は法王に面会するといって、雪に閉ざされる前に隊列を率いて出発する。
貧しい田舎の子供一人に、どれだけ銀貨を出すだろう。それとも、悪魔祓いの実績のためならちゃんと出資してくれるだろうか。内張りをした四角い革の鞄(コッファー)の中が、カラカラと鳴る。
村は絵に描いたような寒村で、麦蒔きを終えた人々は草引きもそこそこに、森へ木こりか、キノコ取りにでも行っているようだった。
あるいは家で機織りか、糸紬ぎか、古鉄磨きでもしているのだろう。ともあれ、緩い登り斜面の畑には人がなかった。司祭は、やっと水汲みに行く子供の一群に出会い、件の悪魔憑きの家を突き止めた。
その子は椅子に座っていた。
五歳ほどか。両腕を左右に広げて突っ張らせ、足も同じく広げたままで伸ばしており、頭をやや上へ固定したまま、視線だけを彷徨わせていた。
いや、よく見れば、右目と左目とが、違うものを追って見ていた。それでも、珍しい客人、つまり司祭を認めると、離れていた視線がすっと一つに寄って、口が声を挙げた。
「ここんんににちちはは!!」
その声は二人が同時に叫んだように聞こえた。しかし、その居間一部屋しかない家には、幼い子供はその子しかいないのである。上の子はいたが、もう十や十幾つかの子ばかりなので、聞き違えようもない。
「こんにちは」
司祭は慎重に、家人から聞いたばかりのその子の名を呼んだ。
「君がダミアンかな?」
すると子供は両手を司祭へ突き出し、一つの口で、同時にこう言った。
「コダズミマアスンだだよよ!!」
えっ、と司祭が息を飲んだ。すると子供ながらに気を利かせたのか、子供は再度、ゆっくり自分の名を呼んだ。
「コダ、ズミ、マア、スン」
そして椅子を飛び降りた。司祭に駆け寄ろうとしたのだ、ということは容易に知れた。
しかし子供は、右の足と左の足を同時に前に出し、宙に飛んで思い切り尻をついた。
それから起き上がろうとし、両手を同時に脇に突いて体を起こした。それは成功したが、続いてまた両足を同時に前に振り上げて転んだ。今度は両腕まで前へ振り上げたから、本当に走ろうとしたのだろう。
それはさながら、片側を前に出し、反対側を後ろに振る体の動きを、きっかり体の真ん中で区切り、片側だけを鏡に映したような動きだった。
人間は、その体の左右を全く同じに動かすことは多くない。歩く時も然り、体を起こす時も、自分ならば片側の身を傾けて起き上がるだろうと司祭は思った。
子供は再度両腕を突いて起き上がり、今度は立ったまま少し考えたように自分の足を見てから、二度細かく頷いて、両腕で上体を浮かせて足を地に着け、立ち上がった。そのまま頷いて調子をとりながら、両足を交互に出して前に歩いた。下を見い見い、確かめながら歩くので、司祭にぶつかった。子供はぱっと顔を上げて、笑顔を見せた。
「うおれきゃしくいさなんあだ!」
司祭に寄り添っていた母親が慟哭を漏らし始めた。
「この子は生まれった時からこんなんで、まるで一人の中で、二人の人間がいるみたいなんです」
母親が泣いているのに気付いた子供が、はしゃぐのを止めた。
「ものが言えん時は、ちょっと変わってるなと思っただけだったけども、ことば話すようになったら、今みてえに、ふたりぶんをいっぺんに話すんです」
婦人が涙を前掛けで拭い、司祭は軽く十字を切った。切ってから、司祭はもう一度、もっと慎重に子供に尋ねた。
「コズマスとダミアンだね?」
「コダズミマアスンははおにというちゃとんだだよよ」
子供は右の人差し指で左の半身を指そうとし、左の指で右の半身を指そうとし、ぶつけて胸の前で手を打った。
「子供にはダミアンと名前をつけましたけど、双子の兄弟だと言って聞かなくて。この子には悪魔が乗り移ったと、みんなにも言われて」
「おあにくいまちゃじゃんなだいよよ!」
ふと、司祭は教会にいる同僚を思い出した。幼い頃からの親友で、双子なのだ。彼らと三人で話をすることは何度もあったが、瓜二つの二人は、声もよく似ているのである。
目の前の子供の声は、一人の体から二人の声が確かに聞こえる。司祭は問うてみた。
「ねえ、片方ずつ返事をしてみてね? まず、ダミアン」
「はい」
「じゃ、コズマス」
「はい」
難しいところだな、と司祭は思った。全く同じ声色ではないが、似てもいる。声色の上手い人なら、一人でもっと違う声を出せるだろうから、この子供が演技をしているという可能性はあるように司祭には思えた。確かにこの子の行動は尋常でないし、言葉も、二人の言葉が一つの喉から出ているようにしか聞こえない。とはいえ、子供はどうにかして親にかまって欲しいものだから、何か彼にしかできない発声法でも編み出したのかも知れない。
親、と思って司祭は一間の家を見渡した。
「奥さん、ご主人はどこに?」
家には母親と子供たちしかいない。見習いを卒業したばかりとはいえ、司教座から来た司祭である。大抵の家は一家総出で迎えてくれるものである。しかし婦人は首を振った。
「今日はどっかへ行ってしまってます。町へ行くとか言ったけど、どうだか。たぶん、おあわせする顔がねえんだと思います」
「では、普段は」
「いつもは、抱いとかねえと転んで危ねってんで、おらをこの子と森へ追い出して、畑仕事してます……」
咄嗟に司祭は炉端を見た。鍋は掛かっているが、確かに、幾分散らかっているように思えた。機織り機は手を入れられた気配はなかった。
婦人はしゅんとしてしまった。上の兄弟たちは、めいめい視線をそらし、それぞれの仕事を続ける。婦人は言葉を濁したが、家族はあまりいい状態ではないようだ。
すると件の子供が、両腕をばらばらに振り始めた。
「ななかーなかないいででー、ななーかかなーいなでいーで、いいいいこははななかかずずに、ねんねしなー」
一人の中の二人が同時に喚いた。それは、二つの声がばらばらに交錯する、醜い叫びであったが、後半は偶然にも二人の音が揃った。
不協和音のなかから現れ出たのは、司祭もよく知る子守歌の一節の、二声による斉唱だった。
「奥さん、これは悪魔憑きじゃないですよ」
司祭は笑顔でそう言った。作り笑いなら、修行の間にすっかり板についているのだ。
「ほら、この子、ご覧なさい。お母さんを心配しているんですよ。悪魔はこんなことしません、家族への愛を奪うことこそ悪魔の所業なのですからね。ええ、私が保証するのだから、誰にでもそう仰い、自信を持って」
母親は顔を上げた。
「しかし、この子は精神上、繊細すぎるようですね。ご家庭で育てるのは難しそうだ。いかがでしょう、司教座の孤児院に任せてみませんか?」
相手が子供だというので、司祭はちゃんと孤児院の定員を確かめてきたのだ。
母親は戸惑って司祭と子供を順繰りに見回し、考えさせてくださいと答えた。しかし、その母親の口調からも、上の子供たちの様子からも、この問題児を留めるつもりがないことが、それとなく知れた。
司祭は連絡のたずきを告げて家を出た。帽子を被り、外套を着て、鞄を提げて、土がむき出しの畑へと続く緩い斜面の道を下っていると、後ろから件の子供が追いかけてきた。今度は転ばず、危なげなく、どこにでもいる子供と同じように走ってきた。
立ち止まって司祭が迎えると、子供は司祭の足下へ駆け寄り、真剣な眼差しで彼の顔を見上げた。
「しさいさま、ありがとう」
司祭は驚いた。少し息の上がっている様子も、言葉も、高い位置にある自分の目を見る視線も、全く普通の子供と変わりがない。
「ええと、今話しているのは誰かな?」
「コズマスです」
「君たちは一人のようにも振る舞えるんだね」
「いま、ダミアンはしたいことがなくて、ぼくだけ、おはなししたいから」
「そうか、じゃあ君たちはこれから、なるべく話し合って、何でも二人同時にしようとせずに、順番を決めて、一人ずつ行動するといいね」
「ひとりずつ?」
「そう。双子なんだったら協力して生きていかないとね」
子供は決意と尊敬の眼差しで司祭を見上げた。
司祭は司教座の街に戻り、教会に事の顛末を伝えた。曰く、精神的に不安定な子供のため家庭不和が起こり、妻の身に危険が及ぶ可能性があるため、子の出家を勧めた、と。
若い司祭はそれだけを伝えた。若い司祭は、それが親切であり、良き采配であり、虚偽でなく良心に依る、神の御心にも沿う行いだと信じた。
半月のち、両親ではなく村の司祭に連れられて、コズマスとダミアンは司教座にやってきた。新しい大きな外套を旅装がわりに、一人の少年が顔を輝かせて、初めて見る丈高い街並みを見上げていた。この、外見上は一人の少年が、二人の少年であることを知っているのは、この司教座の街では彼ら自身と司祭だけだった。
司祭が迎え出ると、コズマスとダミアンは順序よく挨拶をした。その動きに淀みはなかった。話し合いは、すでにできるようになっていたのだ。付き添っていた村の司祭は少年が二度も挨拶するのを不思議に思ったか、あるいは、思う間もなく急いて帰ってしまった。
「しさいさま、これからおなじまちでくらせるね」
初冬。太陽が死に、夜が興る月々。二人の少年がひとつの顔をほころばせた。
十月。麦蒔きの終わる月。
修道院に隣り合う棟の学校へと、聖書を持って渡り廊下を渡る少年の姿を司祭は時折見ることができた。孤児院は広場の向こう、少し歩いたところにある。寒空の下、つんつるてんの外套の裾をはためかせ、早足に歩く彼らは、十歳になっていた。
早朝の日課を済ませ、子供たちは午前だけ学校に来る。でこぼこした茶色い石畳の道を、小さな足で歩くのだ。学校の後はめいめいの仕事をするのが子供の一日なのだが、コズマスとダミアンはよく学校に残っていた。
一人のように振る舞う術さえ覚えてしまえば、彼らは驚くべき神童へと変貌した。何せ、一人の身体に、二人分の知恵と機転が詰まっているのだ。何を教えてもよく覚えるので、面白がって自分の特技を教える司祭や修道女が、少なからず現れた。何人もの教師を渡り歩き、彼は人より早く字を覚え、本を読み、ラテン語を習い、レース編みもこなし、ビールの醸し方まで聞き出してしまった。
そして、聖歌隊に入った。近頃はこの聖歌隊の練習が増えているのだという。
彼らは練習の帰りに司祭を訪ねた。大体は、習っている聖歌の詞について質問をしに来るのだが、それが日々の報告も兼ねるようになっていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
二人は司祭の前でだけ二人分の挨拶をした。他の人間には、その時々で互いに分担して会話するのだった。
厚みが大人の拳ほどもある木の扉を、少年は勢いをつけて閉めた。
「どうです、最近は。喧嘩はもうしていませんか」
はい、と弾けるように明るく微笑むのは、ダミアンである。
「コズマスったら、疲れるとすぐに会話役を投げ出すんだもの。人付き合いの悪いやつって思われないように、僕が多めにお喋りするようにしたんです」
おい、と不満そうに眉をひそめるのは、コズマスである。
「ダミアンこそ、疲れるとすぐぼうっとして、何も耳に入らなくなるだろ。返事もしないやつって思われてるのは、おまえの方だよ」
そして右手がびくりと動いて止まった。彼らは左右で異なる、しかしともに驚嘆の表情をしている。左のダミアンは目を開いて、右のコズマスは目をすがめて。
おおかた、互いに互いを突っつこうとして、同時に右手を動かそうとしたのだろう、と思い、司祭はくすくすと笑った。
「何でも順番で、交代でと言ったでしょう」
「だってえ」
甘えた声で大きな目を瞬き、赤い頬を膨らませるのはダミアン。
「いつもというわけにはいきませんよ」
すねたように唇をとがらせ、淡く褪めた金色の髪を揺らすのはコズマス。
「この間だって」
ダミアンが可愛らしくむくれ、彼にとってはそこにいるはずの、右側のコズマスを睨む。すると、その瞳がくるりと大きく、睫毛は長く、また頬も唇もつややかに赤いことに気がつく。
「あれはダミアンも」
コズマスが鋭く言い返し、彼にとってはそこにいるはずの、左側のダミアンを睨む。すると、その瞳が青く知性に澄みわたり、目蓋の影は繊細で、鼻筋も顎もその稜線がすらりと引き締まっていることに気付く。
その二つの表情が、彼らが互いに言葉を発する度、ひとつの顔の上に入れ替わる。あるいは同時に、左右に分かれて現れる。またあるいは、同時に顔を異なるさまに支配しようとして、顔を激しく引きつらせる。
そうなった時には、細部は人にあり得べきとしても、全体の表情は、人なら誰もがそうはしない、醜い歪みとなる。
それでも、司祭はその表情を愛せるようになっていた。
「やれやれ。喧嘩は、まだ終わっていないのですね」
左右で勝手に体を暴れさせはじめた二人は、ぴたりとその動きをやめた。そして淀みなく直立し、項垂れた。どんな子供でも、叱られる時はそうするのだ。
「あなたたちには勉強も良いが、歌はもっと良いですね。二人で一つの音を出す練習をするうちに、二人で協力する術も上手くなるでしょうから」
コズマスとダミアンの目が一瞬だけ中央に寄った。互いを一瞥するとき、彼らはこうなるのだ。
「歌はとても面白いんです、司祭さま」
ダミアンが含みのある微笑みをし、それから、コズマスが真っ直ぐに大きな青い瞳を司祭に向けた。
「でも、詞について、どんな気持ちで歌えばいいか、二人で意見が分かれてしまって」
「ほう、解釈が割れたのですか」
司祭は目前の少年の、その瞳をのぞき込んだ。淡い青で、端がやや透けている。幼い子供の、色素がまだ安定していない目だ。
「まだ若いのによくものを考えることは素晴らしい。しかし、まずは先生の話を思い出し、どういう意味で歌われてきたのかを学ぶことが大事です。二人とも、それを聞きに来たのでしょう」
「ははいい、おおねねががいいししまますす!!」
二人が同時に、同じ言葉を話す時、やはり二人分の声が一つの喉から飛び出るのだった。
司祭は二人を愛していた。しかし、この瞬間には、重い息が胸の底から漏れて出た。
十一月。冬の悪魔に備える月。それは轟々と野を渡る風に潜んでいる。
少年たちは青年と呼んでよい年齢になっていた。身体はしなやかに成長し、幼さによる儚い面影を残しつつ、逞しさを帯び始めた。上背は司祭に追いつこうとしていた。
彼らが修道院の背後の棟にある神学校へと廊下を渡るのを、時折司祭は見ることができた。孤児院からは、もう通っていない。彼らは今年から、修道士としてこの棟の一室に暮らすようになっていた。
彼らは二人で調子を取ることも、二人で所構わず話し合うこともなくなっていた。所作は洗練され、会話は淀みなく、表情は常に調和を保っていた。
新しく支給された修道士服に身を包み、部屋を修道院に移し、勉学を始めた彼を、誰もが一人の才人と認め始めた。
そして、彼らは声変わりを迎えた。
声変わりは極めて短かく終わった。声変わりの後も声の高さはさほど変わらず、子供さながらに高いまま声質だけが太くなった。
理想的なコントラテノールだった。天上で朗らかに鳴り響く自然の宝物を、彼らは神から賜ったのだ。
咽が気持ち悪い、と、変調に耐えかねて二人が訪ねてきた日を、司祭はよく覚えている。
司祭は彼らの一つの咽をのぞき込んだ。窓辺から入る冬の光は白々と弱い。咽は赤くなっていたが、腫れ上がるというほどでもなかった。
「歌の練習をしてはだめと言ったでしょうに」
睫毛を伏せて殊勝に項垂れるのはダミアンのほう。司祭も、もはや迷わなくなっていた。
「音に避けられていくような気がして」
嗄れた声で彼はそう言った。
「この時期に酷使すれば、生涯戻らなくなると言いますよ」
「いままでのように歌えなくなる気がして」
「神がそのように望まれるのだから、受け入れるべきでしょう」
ダミアンは口ごもり、言い出しにくそうに肩を揺すった。
「……それに、コズマスはもっと調子が悪いみたいなんです」
司祭は青年の顔の、やや右側に呼びかけた。
「コズマス、具合が悪いのですか?」
呼ばれた青年が、煩そうに両の目蓋を閉じ、そして、両の目蓋を開けた。
「……私が?」
司祭は息を飲んだ。
コズマスの声が違っていた。
以前とも違った。ダミアンとも違った。決して似ていないわけではないが、確かに違った。
「体調が悪いわけではありませんよ」
ダミアンの声は子供の頃の明るさのままに、大人の柔らかさを持っている。咽の荒れが治まれば、滑らかな声になるだろう。
コズマスの声は、金属が鳴るような、鋭い響きを持っていた。
震えの幅は大きく、強く、しかしどこか粘りけを持って、耳にとろりと甘く残る。
個性的な声だった。ダミアンと印象は似ているが、紛れもなく他人の声。兄弟の声だ。
「随分変わったでしょう?」
ダミアンに言われた時、司祭は呆然としたままで、曖昧にああと頷いた。
「部屋の同居人にも驚かれて、それ以来、コズマスったらふさぎ込んでしまってるんです」
「ふさぎ込んでるわけじゃない。あまり私が喋っては、変に思われるだろう? ダミアンの方が愛想もいいし、お前の声で覚えられる方がいい」
「でも、僕にもあまり話してくれなじゃないか」
「それは……」
コズマスが口ごもった。
「……二人で話すことなんか……ないだろ」
「どうして、これからどう振る舞っていくか、しっかり話し合わなきゃ」
「ああ……そう……うん、今までのようにね」
コズマスは右手で右のこめかみを押さえた。彼は我慢したつもりのようだったが、不満が声に漏れていた。
ふと司祭は、先刻コズマスが、体の左右両方、つまり全体を支配したことを思い出した。
「コズマス……」
「分かってる、分かっています」
コズマスは右目で司祭を睨んで首を振った。首は体の右に振れ、正面で止まった。
「私たちは助け合わねばならない。そうでないと生きていけない。何ができて、何をしてはいけないか……よく考えて……二人で決めなければならない……何でも……」
「分かってないよ、ちっとも話なんてしないじゃないか」
「分かってる、分かってる」
「分かってない」
「分分かかっっててるない!」
司祭ははっとした。二人が同時に話すのにはすっかり慣れていたが――近年減っていたため、耳にするのは久々ではあったが――、
二つの異なる声が重なるのを聞くのは初めてだったのだ。
声変わりの前は、そっくりな子供の声が二人分重なっているだけだった。
声変わりを経た二人の声は、相性の良い男性二重唱だった。柔らかさの勝ったダミアンが高音域を潤し、張りのあるコズマスがその下をしっかりと支えていた。
司祭は慌てて喧嘩を止めた。それから楽譜を引っ張り出した。
ずっと一人と偽って生きてきたが、二人として生きていく時が来たのだと司祭は思った。
司祭の頭にはすでに一つの風景が浮かんでいた。一人の体ながら、二重唱として歌うのだ。それはある種の奇蹟となる。誰もがそれを見、疑うこと能わざれば、二人は二人と認められながら生きていくことができるかもしれない。
おりしも来月には、一年で最も人が結束する月がやってくる。歌も最も多く求められる。全ての人の前で、神が采配したことを知らせるのだ。彼らが二人として生きるために。
咽の不調はやがて治まるのが見えている。司祭は信念を曲げた。少し声が悪くなってでも、今、重唱を完成させるべきだ。
コズマスとダミアンは強かった。司祭の期待を超えて、彼らは斉唱も重唱も即座に身につけ、そして、声変わりの変調を克服し、歌える咽に戻してみせた。
十二月。闇と死のいや増さる月。そのただ中に照る聖光の月。
この月の初めには、遅い者でも降誕祭の支度にとりかかっている。最も暗く、苦しく辛い月を、人の灯す光で凌がなければ、誰も生きていけないからだ。
聖歌隊は誇りをかけて自らの歌を完成させる。彼らには、神の家に人を集わせ、人に神との契約があったことを思い出させ、残りの闇の日々を乗り切る力を奮い立たせる使命があるからだ。
司祭は僅かの時間を兄弟に与えるために奔走した。集団の中の合唱ではなく、一人の若者の独唱の時間が、奇蹟の披露のためには必要だった。
この司教座の街で最も大きな晴れ舞台、聖歌隊の敬愛する舞台は大聖堂での降誕祭の祭式(ゴッテスディーンスト)だ。しかし、綿密に権威者に時間を配分するこのメッセには、一介の青年に割く時間はない。
司祭はコズマスとダミアンを、この祭式の合唱隊から脱退させた。もともと声変わりは軽微として、二人は聖歌隊を続けることになっていたが、降誕祭までに街いちばんの舞台に相応しい声を取り戻せそうにない、と言うと、隊は惜しみながらひとりの青年を送り出した。
かわりにと言って司祭が用意させたのは、修道院に付属した礼拝堂(カペッレ)での歌唱会だった。
修道士たちの降誕祭の集いという性格の強いこの祭式では、聖歌隊たちも様々な楽しみの歌を用意して歌うことができた。大聖堂での聖歌を「諦めざるを得なかった」若者のためには、一曲の独唱の時間が喜んで設けられた。
十年の月日が流れれば、嬰児を抱えた若造も、十の子の親になる。親代わりも親の気になる。
子供は青年になる。一人で立って生きていかねばならない大人になる。親はそのためにできることを懸命にしようとする。
司祭は二人の舞台を作るため、生まれて初めて根回しというものをした。清廉潔白を旨とすべき身として彼は生きてきたが、二人のためなら、二枚舌にもなれた。
司祭の奔走ぶりに仲間の聖職者達は感心したり驚いたりした。司祭がコズマスとダミアンの面倒を見、事実上の後見人のようになっていることは知られていたが、この少年のために司祭が何事かを決めようとすることは殆どなかったからだ。
なかには、なにやら名声欲のためかと疑う者もあったようだった。名声と言えばそうなのかも知れない、と司祭は思った。コズマスとダミアンが、一人ではなく二人の人間として生きていくためには、一人の体に二人が生きているという事実が認められなければならない。それが疎外の形にならないためには、名声として──奇蹟として認められなければならないだろうから。
コズマスもダミアンも、二人の兄弟として生きようと考えたことはなかった。幼くとも、生まれた村でどのように扱われていたのか、彼らは正確に把握していたし、偽りがばれないようにこの街に来たことも理解していたからだ。
しかし、司祭が重唱を提案しても、彼らは臆さなかった。
たとえ恐れられたとしても、今の自分たちなら弁舌でごまかせると思う、とダミアンは言った。だから、やれることはやってみたい、と。
たとえ恐れられなかったとしても、自分たちが異常者であることには変わりない、とコズマスは言った。だから、自分らしいことをやってみたい、と。
おとなになりかけの齢、生涯というものがやっと把握できるようになってきた頃の二人は、「偽りながらひっそりと死ぬ」のだろうと思っていた。司祭ですら、できればそうでないようにと願いながら、どこかでそう思っていた。
そうでない未来が俄に現実的になって、二人は今までで一番、真剣に歌を歌った。
ひと月ほどの時間、彼らは練習に明け暮れた。一つの体を二人同時に、また代わる代わる使うので、体を横にする間は殆どないようだった。
肉体は精神ほど睡眠を必要としない。コズマス一人の時間はダミアンが、ダミアン一人の時間はコズマスが寝られるので、体の睡眠時間が極端に少なくても大丈夫なのだと司祭は二人に説明されていた。
だから、毎夜の夜明けの前、相部屋の修道士にばれないようにと廊下の隅で哀れみ給え(ミゼレーレ・メ)や救い給え(サルヴァ・メ)を口ずさみ、あるいはじっと窓縁に佇んで、真っ黒い空と小さな星を見ながら右手で数珠(ロザリオ)を繰っているのが、必ずコズマスだけということに、司祭は気付かないまま、降誕祭を迎えた。
鐘が鳴る。
空は明るかったが、薄く曇っていて、太陽はその輪郭を失い、寒かった。昨夜までの雪が積もり、石造りの建物は冷気を蓄積して屋外よりも寒かった。
大聖堂の祭式には前半だけ出席して、早々に司祭は修道院に帰ってきた。修道院の礼拝堂は小さく、天井が小高い。音のよく響く聖堂だ。
司祭は礼拝堂の木の扉を開ける。すぐに突き当たる壁の右手に内扉がある。
それを開くと麗しい礼拝堂、並ぶ礼拝席は隅々まで掃除が行き届き、左翼右翼に昇架画と降架画。背後の頭上にオルガン(オーゲル)、突き当たりに祭壇。その前に、舞台がわりの飾られた踏み台が一つ。燭が灯って並び、薔薇窓からは色づいた光が差す。そのどこにも二人の青年の姿はなかった。
祭壇の右手側が次の間になっており、司祭はその入り口を潜った。コズマスとダミアンはこの次の間にいた。礼拝堂の次の間はちょうど日陰になっていて、とりわけ寒かった。
この礼拝堂での祭式は、大聖堂の祭式を終えて戻ってくる修道士たちを待って行う。あと一刻はあろうか。歌唱の舞台に上がるとはいえ、青年は慌てすぎていた。これでは体が冷え、声が嗄れてしまう。
「コズマス、ダミアン、修道院の玄関へお戻りなさい。外で炭火を焚いていますから、体を温めていらっしゃい」
「司祭さま」
二つの声が重なった。
「必要ありません、司祭さま」
ダミアンが朗々と言う。
「緊張して、体がかっかと火照ってしまって」
「この体は二人分の血を巡らせているのですよ、司祭さま」
コズマスが粛々と呟く。
「暑きは暑く、寒きは寒く、痛みは倍に受け止めるのです。お気付きになりませんでしたか」
司祭は曖昧に相づちを打った。それを初めて聞いた、というよりは、最後の一言が気になった。
気づかなかったのか。
痛みは、倍に。
棘があるという程ではなかったが、司祭は非難をされたように感じた。この十年、コズマスもダミアンも、よく慕ってくれたと感じていたのに。
祭壇の辺りからダミアンを呼ぶ声がした。伴奏者が打ち合わせのために、早めに聖堂に来たらしい。集まってきたらしい客の声も聞こえ始めた。
ダミアンは柔らかな声で返事をして、壁際の水桶で楽譜を持つために手を洗った。その姿が寒々しい。
「では、参ります」
コズマスとダミアンは司祭に目礼し、真っ直ぐに背を伸ばして歩き出した。
聖堂への入り口をくぐり抜ける時、歩みはそのままに、二人は右肩越しにちらと司祭を振り返った。そうして、伴奏者とともに祭壇前の舞台へと上がっていった。
聴衆は思ったよりずっと早く集まり始め、座席はすぐに埋まってしまった。
司祭は聖堂の後方も後方、オルガンの懐の真下あたりに並ぶ立ち見客の列に加わった。司祭は二人の曲を既に聴いていたし、少しでも多くの人に聴いて欲しかった……
いや、と司祭は自答した。私は、多くの人に聴いて欲しいのではない。
これから二人は、一つの体から二つの旋律を歌い、二人である事を証明する。それに驚愕する人々を、少しでも多く確かめたいのだ。
礼拝堂の司祭長が教壇に昇り、祝辞と訓辞を述べてから、歌手たちを紹介した。数人の若い修道士たちが舞台に上がって礼をし、舞台を降りた。
最後にコズマスとダミアンが残ったのを見計らい、オルガンが前奏の調べを奏で始めた。
深みより我は呼ぶ、あなたを、主よ、
主よ、その耳を傾け賜え、我が嘆きの声に、
よもあなたが種々の罪見咎まば、主よ、
主よ、誰が立つと言えようか……
詩篇は静かな斉唱(ユニゾン)で始まる。
コズマスとダミアン。兄弟二人の声はひたと重なり、同じ旋律を辿る。
軽やかなダミアン、金属の響きのコズマス。ふたすじの声は、細く、強く、緻密に絡み、縒り合わされたまま聖堂の壁を駆け上がる。そして丸天井に触れて初めて四散し、宙に降り注ぐ。
既に二人の声が響いていたが、旋律が同じためだろう、それに気付いているのは司祭一人のようだった。
そして青年は少しの間目を閉じた。これも、青年の右目と左目が目配せをし合ったのだと気付いたのは、司祭だけだった。
繊細な弱音。ダミアンがふたつ音階を上げた。和声(ハルモニー)だ。
主は汝の守護者、主は汝の右手を覆う陰、
主は汝の来ると行くとを守られる、
この時より、とこしえに……
聴衆から細かな囁きが一斉に漏れた。どよめきと言うには控えめだったが、詠唱中だから、修道士たちは驚嘆の声を必死で抑えたのである。
それでも彼らは左右の客と、確認や疑いの二言三言を交わし、首を捻って、一人の体から歌われる合唱に耳をそばだてた。中にはきょろきょろと、隠れた歌手を探す者もあったようだ。
目前で奇蹟が起きている。司祭は、自分にとっては見慣れた光景を、改めて味わい直した。
歌が終われば、聖堂は悲鳴に包まれるだろう。彼らは、彼らが一つの体に二人である事を、今、証明している。この和声を聴く者は誰も、それを認めない訳にはいかない。
主よ救い給え(サルヴム メ ファク ドミネ)、
我は我が声にて主に叫ぶ(ヴォーケ メア アド ドミヌム クラーマヴィ)、
我が声にて神に、そして神は我を聞かれる。
懊悩の日々に我は神を求め、
夜もすがら祈りに手を合わせ、
されど我は慰められず、
我が魂は疲れ果てた。
我は眠らず、語らず、
過日を忍び、久遠の年月を思う。
我、我が霊を糾す、神は永久に我を見捨て、
もはや目をかけては下さらないか?
彼は後々まで、その慈しみを絶やされるのか?……
司祭はふと思い出した。二人は寝ないで練習していると言っていた。
それは、眠らなかったのではなく、眠れなかったのではないのか。
深夜に一人、廊下の隅で数珠を繰りながら静かに歌うのだと──
そう、コズマスがこう言った時、彼は一人という言葉を使った。彼は一人になることなど、生涯に一瞬もないはずだったのに。
神は我が救い、我は恐れず、人の我に為すことを。
神は我が救い、そして、我は我が敵を見通す。
彼らは蜂のように我を取り巻き、そして茨の火のように燃え上がった、神の御名に於いて我は彼らに仇なす。
神は我が力、我が賛歌。また我が救いとなられた。
甘やかなダミアンの声、組鐘(グロッケン)のコズマスの声、オルガンの天使の音。
反響残る聖堂を、さらに高さと強さを増した二人の声が覆い尽くす。
音階はさらに上下に分かれ、ちょうど八度。
再度ユニゾン。オクターブの上をダミアンが走り、下をコズマスが担う。
声が、喜びと救いの声が、正しき者の会堂に。
主の右手は力を示される。主の右手は我に高々と掲げられる……
詩節の終わりでダミアンの声が震えた。
司祭は目を凝らす。舞台上の青年の、左目が戸惑いに揺れている。
司祭はさらに目を凝らす。青年の右側へ。その右手がぴくりと痙攣し、そして高々と掲げられた。
主の右手は力を示される……!
コズマスの声が、ダミアンの声を飲み込んだ。
コズマスの右手が自らの首を掴む。大きくなった青年の手は、まだ若々しい華奢な頸を握り込み、きつく締め上げる。
その右手をダミアンの左手が掴む。ダミアンは顔の左半分で呼吸を求める。その口が大きく開かれ、舌が伸びる。
だが、コズマスの手は離れない。
突然の変容にざわめく聴衆を、司祭は押し退ける。二人の許へ。コズマスを止めなければ。
最後の一節で吐き出された息が戻らず、二人の体は大きく震え始める。ぐずぐずしている修道僧たちの波を司祭は割る、が、遠慮して後方で見ていたせいで、ちっとも前に進まない!
「どいて下さい! 二人を止めて!」
二人? と、誰かが呟きざまに問うたのを頭の端で捉えながら、司祭は聴衆達の陰に消えては現れる、自らの首を掴み、また引き離そうとするコズマスとダミアンの顔を捉える。
その苦しむ左目をよそに、右目がくるくるっと周囲を見渡し、司祭を探し当てた。
聖なる哉(ザンクトゥス)!
気道の塞がれた声でない声で、口元だけで、コズマスがそう唱えたのが、司祭には見えた。
音のよく響く聖堂。オルガンがようやく止まり、裏手から奏者が顔を出した。
木霊するオルガンの残響に、コズマスとダミアンの倒れ込む乾いた音が重なり、そして、その瞬間まで青年たちの和声の尾は残り、消えた。
Das Unisono fuern Dasein. 存在者のためのユニゾン