誰得コラム 第3回 「アン・フェア」

 ついに三回目となりました。誰得コラムを始めます。
 今回は平等と不平等について話していきたいと思います。

 不平等。
 と聞くと、ほとんどの人は悪いイメージを持つと思います。
 でも、私はこの言葉を良い意味で捉えることが多いです。
 というのも、平等というものがそもそも不平等だからです。

 なにを言っているのか分からないと思いますので一つ一つ話していきたいと思います。
 まず、この世の中は不平等で満ちています。
 まずは男女の違い。生まれの違い。環境の違い。文化の違い。考え方の違い。挙げたらキリがないです。
 性別が違うのですから同じであることの方がおかしいです。
 男が上半身マッパでいても問題ないですが、女だと大問題です。この時点で平等ではありません。
 富豪と貧乏の家では基準が違うでしょう。日本と中国ではまた違うでしょう。
 そういったもろもろは全部不平等ですし、それを全て平等にしようという方が変です。
 つまりは、不平等であることの方が普通であり、それが悪いことではないということです。

 では、無理やり平等にしたときにどんな不平等が起こるのか考えてみましょう。
 学力テストをしたとします。
 一人は毎日勉強し、努力を欠かしたことがない人。
 一人は毎日遊びまわり、努力なんてしたことがない人。
 二人がテストをしました。
 その結果は、二人とも満点でした。
 どう感じますか?

 結果というものを平等にした結果。過程に対して不平等になりました。
 逆に過程を平等にして、結果を不平等にしても、個人の才覚の差という不平等がやっぱり生まれます。
 与えられるものを平等に。
 という考え方はよく世間で言われる良い意味での平等ですが、その平等はこういう結果にもなるということです。
 なにが言いたいかというと、平等を求めるということはその過程をないがしろにする可能性を孕んでいるのです。
 なんせ結果が同じなら努力をしますか?
 なにをしても同じで、なにをしなくても同じなら、そこに頑張る意味はあるでしょうか?

 こういう書き方をすると無闇に敵を作ってしまいそうなのですが、人も世界も最初から平等じゃなく、生まれた瞬間にその人が行えることの限界というものが決まっています。
 そんなことはない。努力次第で人の可能性は無限大と言える人は是非頑張って欲しいと思いますが、全ての人がそんな人のように強く生きていけるわけではないのです。そう、強さも人によって違います。誰もが強く生きていけるなら人は争いませんし、群れる必要もないでしょう。
 この世界はあまりにも不平等です。
 持てるモノには限界があり、求めるモノにも限界があるのが現実です。
 でも、それのどこが問題なんでしょうか?
 小市民なんて言い方をいつぞやテレビで見ましたが、それのどこがいけませんか?
 毎日あくせく仕事して、家に帰ってビールを飲み、テレビを見て大笑いして寝る。
 毎日社交界に出て、家では高級ワインをたしなみ、中世ロマンの詩篇でも読んで寝る。
 どっちがいいです?
 持っていないものに憧れるのは普通です。
 ですが、憧れが生まれるのは不平等があるからです。
 自分の持つものとの違いを見つけ、それを埋めるために頑張るから世の中楽しいのです。
 もちろん、不平等のせいで不利益を被ることも多いでしょう。
 ですが、その逆もこの世界には起きています。
 特に日本は弱者救済を過剰にやりすぎた結果、ルールが捻じ曲がってしまっている事案が多いです。
 痴漢の冤罪や、少年法による犯罪の低年齢化、子供を保護しすぎた結果教育体制がぐちゃぐちゃになっていたり等々枚挙に暇がありません。
 これこそ不平等ですし、こういうところこそ平等にして欲しいもんです。

 さて、そろそろまとめに入ります。
 私たちが生きている世界は不平等の塊です。
 だからこそ頑張ることが出来る。
 辛いことも多いかもしれません。
 でも、幸せだって多いんです。
 隣の芝生が青いのは世界が不平等だからです。
 自分の彼女が世界で一番可愛いのも、
 自分の子供が世界で一番可愛いのも、
 自分の書いたコラムが世界で一番イケてるのも、
 世界が不平等だからです。

 他人と違うからなんだっていうんですか。
 それが普通だし、それでいいんです。
 むしろ喜びましょう。
 元々この世界は不平等なんですから。

誰得コラム 第3回 「アン・フェア」

誰得コラム 第3回 「アン・フェア」

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-19

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