プロローグ:松浦勇魚

プロローグ:松浦勇魚

#創企DDD 参加中

硝子の天蓋の中から暮れる空を眺めていた。傍らに座るその人は赤色の残照の反映を半身に浴び、押し黙ったまま繋いだ手だけを固く握りしめている。

音の失われた空間、熔け落ちる寸前の冬の落日に半球状のドームは切り子面の硝子窓を千の鏡に変え、燃え立つ赤い巨大な宝玉のように輝いた。

だがそれも一瞬の事、やがて雲は光を無くし燃え尽きた灰のように黒ずみ色褪せて、その輝きを喪った。無情なまでの時の移ろいに、勇魚は鼓動が早まるのを感じていた。

日没。

頭上から夜が降りてくる…町の至るところにある物陰から、水に落とした洋墨のように粘性のあるカーボンブラックの冷気が滲み出し息を吹き返した影たちが昼の領域を駆逐してゆく。

光と闇の勢力図がオセロの盤上での鮮やかな逆転劇のように、入れ替わる時。

黄昏、逢魔時、彼は誰時、誰そ彼時。呼び方は変われどその意味する刻限は同じ意味を持っていた……昼から夜への潮の変わり目、光と闇の司る時の分水嶺。

圧倒的な質量をもった黒い水塊、冥い夜の波頭にのみこまれた街は日没から半刻後には完全にナイトブルーの翳の底に沈んだ…

気が付けば、勇魚は一人だった。握った手の温かさと少し筋張ってはいるけれど柔らかいその手触りだけを残し、彼はいつものように消え失せていた。

お兄ちゃん…

声にならない声が波長を持つ力もなく、勇魚の唇に泡沫のように浮かんで消えた。

幾つだったか…両親の不和にいたたまれず、一人庭に出たその時に、ふいに誰かに呼ばれたような気がして…裸足のまま街路に彷徨い出た事がある。

彼が現れたのはその時が初めてだった…どこか遠くに行こうと誘うかのように、勇魚に微笑みかけた少年は無言のまま優しく彼女の手を引いたのだ。

一人娘が無事に発見されるまでの半日ほどの間に、両親の間にどのような会話がなされ、その亀裂が広がったのか狭まったのか、実際の所はわからない。ただ警察に保護された我が子に泣きながら駆け寄り礼を言うのも忘れキスとハグの雨を降らせた両親は、二人とも全く同じ表情を浮かべていた…

実際、それから数日は二人は少なくとも勇魚の前では比較的平和なやり取りを交わし、幼い勇魚は単純にそれを喜んだのだった。

しかしそれよりも印象に残ったのは警察からの帰路の事だった…誰かに誘われたのかと聞かれた時、勇魚は何の屈託も無く「お兄ちゃん」の存在を両親に語った…そして、それを聞いて突然泣き出した母とじっと目を閉じたまま何か聞き取れない祷りの言葉らしきものを口にした父の様子、その取り乱した反応の方だった。
二人が見せた異様なまでの動揺の意味…自分にかつて双子の兄弟が居たことを、母の途切れがちな日記の書き込みから勇魚が知ったのはそれから数年後のことだった。

周産期には稀に不可思議な現象が起こる。
妊娠初期までは双子だった胎児がいつの間にか単胎となっていることも時にあるのだとは言う。それは生理的な母体の保護と自衛の機能によるものなのか奇形や循環不全による自己淘汰に因るものなのか、原因ははっきりしていない。画像や触診でそれと判明するまでに成育した双子の片割れがいつの間にか消えることも稀に報告はされている…彼らはバニシングツイン…生まれる前に溶けてしまった双子と呼ばれていた。

存在しなかった同胞の記憶などというものが、果たして生き残った片割れに残されるものなのか…はっきりとしたことはわからない。

だが胎生期のヒトの持つ知的能力の高さについては胎教などという言葉が市民権を得ているほどには、高度に発達している可能性がすくなからず信じられてはいる……勇魚はもしかすると、生まれ得なかった同胞の存在を記憶し無意識のうちに幻視していたのかも知れなかった。


長じてから小学校時代に一番の親友となった一つ年上の少女は、幻覚の兄の存在を明かした特別な他人のうちの一人だった。

「それってイマジナリーフレンドっていうんだよ?」

年齢のわりには大人びた知識と立ち居振舞いを、豊富な読書体験と人の出入りの多い家庭環境から早々と身に付けたこの華奢で利発な少女は、勇魚の「兄」の「存在」を否定せずに受け入れてくれた数少ない同世代の友人の一人だった。

「勇魚ちゃんにだけ見えるお兄ちゃんか…なんだか羨ましい」

子供っぽく拗ねたような素振りすらみせる素直な相手の言葉に力を得て、勇魚はそれをきっかけに彼女と様々な話をするようになった。
それはちょうど勇魚の後天的な聴力障害が不可逆的で進行性の物だと医師からの宣告を受けた時期と重なってもいた。二人は意識すらしてはいなかったが、根気強い同年代の友人との会話は実は貴重で得難いリハビリテーションのトレーニング過程の場そのものでもあったのである。

その事に気付いたのは彼女が居なくなってからだった。

「この世界は薄い板で出来ているの、冬に池に張る氷みたいに透明な。でもそれはとてつもなく強い結界みたいなものなんだと思う。上の世界は下の世界とは決して交わることはない、鏡うつしの世界だけど行き来は一度だけ…一方通行の通路しかないのよ…例外もあるけどね」

下の世界と言うのは、彼女の説明に依ると死んだ人の世界の事で、勇魚の「生まれる前に死んだ幻想の兄」もあるいはそこから来るのかもしれないと、彼女は真摯な口調でそう言った。

敬虔なカソリックの家系に育ちながらも彼女の宗教観はユニークで、いわゆるキリスト教的な世界観とはかけ離れて、むしろ異教徒的ですらあった。

夢と現の淡い境目にだけ交わり邂逅する、記憶の残響と幻で出来た影の住む領域。
リアルな現実の中で潰えた可能性と夢見られた夢の欠片そのものが降り積もる場所、それがこの現実の裏側にぴたりと影のように寄り添い形作られている。
そんな世界が存在するのだと彼女は本気で信じていたのである。

「うつしよは夢、夜の夢こそまこと」

「なんやの、それ?どういう意味…」

「ふふ…イオちゃんにもわかると思うんだけどな」

曖昧にはぐらかしたまま、少女は今朝咲いたばかりの白いマグノリアの花のようにふんわりとした感じの良い笑みを勇魚に向けた。

「私の好きな言葉……そうね、聖書の福音みたいなものかなぁ」

意味を量りかねて首を傾げてしまった勇魚の様子にくすくすと可愛らしく笑いながら何故かふいに目をそらしてしまった、花のような綺麗な横顔に浮かんだ寂しげな笑みを、その真意を酌むことはまだそこまで精度の上がらなかった読唇スキル以上に、勇魚には読み取り難いものだった。

それから数ケ月後に彼女…まだ15歳になったばかりだった彼女は大量の睡眠薬を飲み目覚めないまま帰らぬ人となった。

夜の夢に堕ちるとき…人は無意識にその薄板の境界をこえるのだとか。

「だから、私は夢を視るのが好き。だってね、夢の中でなら…いつでも…さんに逢えるんだもの」

「自殺」の数日前のネット通話の画面越しに明るく笑う友の笑顔はいつもと変わらず屈託なく明るく朗らかで…

ねぇアリサちゃん…貴女は今もまだ、この「薄板世界」のどこかにいるの?いつもふざけてばかりいたから、ちゃんと感謝の言葉を伝えることも出来なかった。今からではもう遅すぎるのはわかっているけれど。

眠りから覚めない友人の枕元で夜通し繰り返した想いのたけを、向かい合って伝えることが叶うものならば。

この世界に目覚めないまま旅立った親友に会えるかもしれない。アレセイアを手にして不思議な任務の説明を受け、はじめて自分自身で夢を夢と認識する明晰夢の中に降り立った時。先ず沸き上がったのはそんな馬鹿げた願望のような想いだった。


「夜の夢の中にこそ真実がある、か」

息を吐く、その動作に合わせて紡がれる完璧な発音。耳にするものの居ない閉ざされた硝子の温室の内側で、勇魚はその行為を不毛だと思うことすらないほどの物思いに沈み、無意識のうちに呟いていた。

プロローグ:松浦勇魚

プロローグ:松浦勇魚

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-19

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