鴎のいる風景

友人との競作用に書いた掌編です。

鴎のいる風景

 自身に限ったことを言えば、私はその風景から目の粗い鑢、或いは、花を生ける剣山なんかに、軽く触れたときの様な心象を抱いた。その心象は軽い表層の引っ掛かりを伴って、目に見えない深層へざらついた傷痕を残して行く。無論、その心理的な運動は平常より意識されない程度の緩かな変化を伴いつつ、しかし、不図長い期間を置いて自身を客観視したときに私に重々しい溜め息を吐かせるのに充分な影響を与える。
 何がそんな抽象的な心情に錆びを与えるのか? と、問われれば、私は迷わずに、海の所為だ。と、答えるだろう。恐らく、実際的な範囲内に於いてその答えはかなり的を射ている。しかし、ミクロに見たときの個々の事象が必ずしも海に関連しない事をまた、私は知っている。海が錆を与えるときにそれは必ずしも金属に限ったことではない。寧ろ今述べたみた様な心情にこそ、どうにもならない錆を与えるものだ。その錆はしばしば私たちを必要以上の感傷へと引きずり込んでしまう。ひとたびその感傷に飲み込まれてしまうと皆一様に無気力と、時々湧き起ってくる怒りとも悲しみとも付かぬ激しい心情の揺らぎにただ身を任せる、受動的な存在に成り果ててしまう。これはいけない。極めていけない。あまりの非生産性の存在は自身から自身の有用性をも隠してしまうものだ。これは小さな漁村に住む老夫婦の心情に他ならない。
 この心理的錆とでもいうような作用は、一種麻薬的魅力を有している。私の場合小さな島の観光用の売店、その二階に位置する小さな喫茶コーナーでその表面の破れて黄色いスポンジの覗く小さな丸椅子の上にすっかりと錆ついてしまった。その場所は一日にほんの一、二回の観光バスのやってくる時間とそれ以外の時間といういたってシンプルな時間的分類の上に成り立っていた。これらの時間の間には圧倒的な差異が存在し、私の心を強く強く揺さぶった。たいていの場合、観光バスのいる時間帯に体の震えるような寂しさ、孤独感を感じ、バスが去った直後から三十分ほどの間は静かな、深い深い感傷に浸り、少しずつそれがほどけてくると無感情、そして軽い眠気が私を襲った。誰もがそうであるように、私は数日間この感情変化を繰り返すと不思議なことにこれらのサイクルからの離脱がひどく億劫に、いや不安で不安でたまらなくなった。気づけば私はもう丸椅子の上にすっかり錆ついてしまっていたのだ。

 外をかもめがゆるゆると飛び交う
 日はわずかばかり西に傾く
 私の心はいつしか
 舳先に止まる一羽のかもめの中へ

 突如、喫茶コーナーへと階段を登ってくる足音が響く。私は錆ついた体をうんと伸ばし、肩を回し、最初に見たのはいつも観光バスの止まるあたりだった。ただバスはいなかった。ブリキの樵夫は油を差さなくては動かない。私の心にもそういった潤滑油的役割を持つ存在が必要だった。上半身をひねって後ろをゆっくりと振り向くとそこには一羽の鴎の姿があった。鴎! 錆の主要因の内に海以外の占める要素はおそらくこの鴎だった。それは心象的に鴎に他ならなかった。しかして、それは実際的には鴎ではなかった。ここまで内面的事象が外面的要素に勝る存在が他にあろうか! その内在する侘しさに私は激しく共感しその場に立ち上がった。鴎は私には目もくれずに窓際の丸椅子にゆっくりとした動作で腰かけた。ふっと心の軽くなってしまった私はその鴎に気づかれない程度の軽い会釈をして錆きってしまった喫茶コーナーを後にした。

 外では鴎が鳴いている。それはくぐもったりせず直接的に私に届く。しかし、突き刺さったりはしない。

鴎のいる風景

鴎のいる風景

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-19

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