願い、叶い。

「姉さんだった」
 携帯電話を置き、デスクのイスに深く身をうずめ、そんなつもりなどなかったのに、私は思わず呻いていた。
 定時を過ぎて数時間、帰ろうとしていた面々が振り返る。誰もが一様に、目を丸くして──できることならこのまま触れずにやり過ごしてしまいたい、という顔。
 私は咳払いをした。やはり、口走るべきではなかった。
「いまの電話、ですか? 部長、お姉さんいたんですね」
 奇妙な空気のなかで、今年の四月に入ったばかりの、月島が言った。気を遣ったのか、単に興味があったのか、ごく普通の声音で。若いのにいつも地味な服で出社してくるのが好印象の、化粧っけのない女子社員だ。
 私は、少し気をよくした。話しかけてきたのが彼女でなかったらどうだったかはわからないが、ともかく、上機嫌になり、その勢いで口を開く。
「非通知だったから誰かと思ったら、姉さんだったよ。信じられるか? 姉さんは、数年前に死んでるんだ」
 月島は驚いた顔をして、それから眉をひそめる。苦笑いを浮かべている他の社員と視線を絡ませ、訝しげに首を振った。
「それって、何かのなぞなぞですか?」
 そう返されてしまえば、馬鹿なことを言ったものだと認めざるを得なかった。私は肩をすくめ、まあね、と答える。
 自分でも、よくわからない。私と姉を知る、誰かのいたずらだろうか。私が姉の声を聞き間違えるはずがない──そんなことを豪語できるはずもないのだ。
 そうだ、きっと、いたずらだ。
 姉だと名乗ったわけでもない。
 ただ、私の名を呼んだ。ちゃんと目を開きなさい──そんな、忠告なのか何なのかわからない一言だけで、すぐに切れてしまった。
 最近、曖昧な出来事が、多い。
 その一つ一つを覚えているわけではないが、何かがおかしいと思うこと自体があやふやで、そのうちに考えることをやめてしまう。
 つまり、気のせいだったという可能性もある。
 そもそも電話など、鳴っていないのかもしれない。
「それってあれでしょう、部長。お姉さんが、何かどうしても伝えたいことがある、とか」
 吉崎が会話に加わってきた。挫折を知らなさそうな、茶色い頭の三十男。いつから営業は、着崩したスーツでも通用するようになったのだろうか。
 気持ちが波立つ。いったい、姉が私に何を言いたいというのか。目を開け? 目ならいつだって開いている。いまだって、こうして。
「逆じゃないですか? お姉さんが言ったのは、お姉さんの言葉じゃなくて、部長の言葉なんですよ。深層心理の……願望、みたいな。本当は、部長自身が言ってるんです。それとも……そうですね、たとえばですけど、お姉さんが大好きで、死を認められないから、まだいる気がしちゃう、とか……」
「──おい」
 無邪気な様子でそう口にした月島を、吉崎が鋭く叱咤した。確かに、どうかという内容ではあったが、そこまで強く言うことではないだろう。私が気にしていないのだから、そんな言い方はない。
 しかし吉崎は、私の怒りには気付かなかった。月島に目配せをしている。
 あ、と月島が口を押さえた。
「ご、ごめんなさい、あたし」
 何をそんなに悪びれるのか。私は笑うしかない。
「いや、おかしなことを言って悪かった。誰かのいたずらだろう」
 月島は作り笑いを浮かべて、それから逡巡するように周囲を見た。吉崎の顔色をうかがうような仕草をしてから、あのう、と切り出す。
「今日、月曜ですよね。買いに行かれるんですか、ウィークティー」
 私はカレンダーを見た。そうだ、今日は月曜日だ。忘れるわけにはいかなかった。
「ああ、もちろん」
 そういって、席を立つ。荒れたデスクはそのままに、タイムカードを機械に押し込んだ。すっかり使い古された小さなそれは、もう疲れたと言うかのように、鈍い音をたてて時刻を印字する。疲れているのはこっちだ──私は機械を軽く叩いた。
「それじゃ」
 着もしない上着をつかんで、事務所を出る。
「──部長は、何を言ってんだ、今更」
「本当にごめんなさい、あたし……」
 聞こえないと思っているのだろう、背後から小さく届く、二人のやりとり。
 本当に、馬鹿なことを言ったものだ。
 私は、足を早めた。


   *


 大学を出て、会社に勤め始めて、いつの間にか三十年。それだけの年月には、語り尽くせないほどのたくさんのドラマがあった──ような気もするが、こうして電車に揺られていると、ほとんど何も思い出さない。大学時代につき合い始めた彼女と、就職と同時に恋愛結婚、一人娘はとっくに嫁に行ってしまった。
 どこにでもある平凡な家庭の、平凡な男だ。
 小さな不満は数えればきりがないが、大きな不満は一つもない。
 幸せというものが、どういうものなのかはわからない。だがもしかしたら、これがそうなのだろうかと、やっと最近になって、思うようになった。
 電車を降り、改札を通る。妻に渡されたエコバッグには、約束のウィークティー。
 ぼんやりと薄暗い、昼と夜の合間。駅から五分を決まった歩幅で歩いて、未だローンを払い終えないマイホームの扉を開けた。
「ただいま」
 独り言のようにつぶやいて、革靴を脱ぐ。右手のドアの向こうから、テレビの音が流れていた。妻の笑い声が続く。
「ただいま」
 居間へ入り、もう一度告げた。ローテーブルに肘をついて、テレビに向かっていた妻が、ちらりと振り返る。
「あら、お帰りなさい」
 それだけいって、視線を戻した。また、笑う。
 あまり片づいているとはいえないテーブルの上に、スーパーの安売りの干菓子。食料めいたものは、それだけだ。私は時計を見た。七時半。
「夕食は?」
「え、あらあら、そんな時間? そうよね、あなたが帰ってくるぐらいだもの。夕食、すぐ用意するわね」
 よいしょ、と言って腰を上げる。結婚した頃には細かったが、いまではその尻の重そうなこと。私の贅肉を吸い取っているかのようだ──とはいえ、私もここのところ、腹が気になっているが。
 私は、壁際に飾りのように居座っているソファに、上着と荷物を置いた。ネクタイも重ねる。
「いや、たまには私が作ろう。親子丼、なんてどうだ。鶏肉があったろう」
「いいわねえ」
 妻が、皺を深くして笑った。化粧をしていない顔は、地味と言うよりも無垢だ。私は眉を下げる。
 妻を愛しているかといわれれば、どう答えればいいのかわからない。感謝、はしているような気がする。間違いなく、恋ではない。では──愛とは、なんだろう。
 最近、そんなことばかりを考える。
 一緒にいるのがあたりまえの、夫婦というこの関係は、いったいなんなのだろう。
 寄り添い、助け合い──共に食事をし、笑い合い。
 空気のようであり、きっと、なくてはならない、もの。


「あなた、本当に親子丼が上手よね」
 できあがった料理を前に、妻は上機嫌でそう言った。手を合わせ、いただきます、とつぶやく。
 まあね、と私は笑う。もしかしたら皮肉だったのかもしれないが、だとしてもかまわなかった。私が作れる料理といえば、親子丼、牛丼、それからかろうじて中華丼だ。
 妻が、つやつやと輝く卵と、その下に埋もれた肉と、それからご飯とを、いっしょにすくい上げた。大きな口を開け、豪快に食べる。
「うん、おいしいわ」
 その一言に、私はたまらなく満たされる。そうだ、定年を迎えたら、丼ものの料理屋を開くというのはどうだろう──そんな冗談みたいなことまで考える。
「そういえば」
 自分も箸を運びながら、私はふと思い出して、言った。
「今日、姉さんから電話があったんだ。笑ってしまうだろう。今更、何か、言いたいことでもあったんだろうか」
「へえ?」
 妻が目を丸くして、それからすぐに細める。
「あなたったら、そんなこと、本気で言ってるわけじゃないでしょう?」
 その言葉には、たしなめるような空気すら含まれていた。怒りにも見える。私は苦く笑った。
「ああ、もちろんだ」
 会社の連中と、ほとんど変わらない反応だ。馬鹿なことを言ったものだ。
 それきり、妻は黙った。口を閉ざして、いやに規則正しく、箸を口に運んでいる。こんな食べ方をするやつだっただろうか。もしかして本当に、何か、怒っているのだろうか。
 急に、結婚してからいままでのことが、思い出された。
 目を開きなさい──『姉』から言われた言葉が、影響しているのかもしれなかった。
 わざわざいま出す話題ではないということぐらい、わかる。けれど、思うより早く、口が開いていた。
「若いころ、私が……浮気を、していたときに、な」
 妻は驚いたようだった。自分でも驚いているのだから、なおさらだろう。柔らかく笑って、なあに、と促してくる。まるで小さな子にするように。
 私は咳払いをした。
「それが発覚したとき……君は一日ひどく泣いて、それ以降、そのことには触れなくなったな。いまだから言うが、どうしようもない若造だった私は、あれからも数度、繰り返した。気付いていなかったわけでは、ないだろう」
 どうしてこんなことを言っているのだろう、とぼんやりと思った。しかし、それは気付いてはいけないことのような気がした。
 息を吐き出すようにして、妻が笑う。無理をした笑顔ではなく、はかないほどに、優しく。
「あのとき、あなた、私になんて言ったか、覚えてる? 浮気してるでしょう、って問いつめた、私に」
 責めるニュアンスなど皆無なのに、私はひどく居心地が悪くなった。ごまかしてもしようがないので、正直に答える。
「いや、覚えてないな」
 妻は、楽しそうに唇の端を上げた。深呼吸でもするかのように、空気を吸い込む。
「君は僕を疑っているんだろう? その時点で、僕がイエスと答えても、ノーと答えても、真実がどうであっても、君は僕が浮気をしていると思うんだろう? 僕が本当に浮気をしていなくて、ノーと答えたら、良かったしていないのね、と思うのかい? そんなわけがない──嘘をついているのね、そう思うに決まっている。君が疑っている時点で、結果は同じだ。だからこそ、こう答えよう。僕は、浮気を、していない」
 ──私は絶句した。
 まさか、あのころの私の真似だとでもいうのだろうか。声色を変え、身振り手振りを加えて、高慢な態度で、彼女はそう言い切った。
 額をテーブルにこすりつけたくなった。
 謝罪ではない。羞恥のためだ。
「それは……ひどいな」
 何がひどいのか、一点に絞るのは難しいが、確かに浮気をしている身で、その開き直り方はない。
 それとも、隠そうと、必死だったのだろうか。
「ものすごく頭にきたけど──でも真理だと思ったわ。だから、やめたのよ。疑うことも、期待することも。それだけで、ずいぶん楽になった」
 妻は笑っていた。
 漠然と、かなわないと、思った。
 当時、私は浮かれていた。黙っていても女は寄ってきたし、金回りもよく、浮気など遊びの一つだと思っていた。
 思えば、それを後悔したことは、ないのではないだろうか。
 いま浮気をしていない理由を問われれば、機会がないから、としか説明できない。
 漫然と歩き続けて、ここまで来てしまった。
 妻を傷つけているという自覚すら、おそらくは、なかった。
 それでも、こうして、妻は私と向かい合って、親子丼を食べている。
 胸の内に、何か得体の知れないものが、広がっていった。
 罪悪感なのだろうか。
 愛、なのかもしれない。
 ──愛? これが? そんな馬鹿な。
「それでも君は、私を、愛してくれたのか」
 思ったままに、そう口にした。
 妻は大きな口を開け、おかしそうに笑う。
「馬鹿言わないでよ。愛して? そんな言葉で、ここまでの何十年、片づけられたらたまらない。──あたしたち、家族でしょう。一緒にやっていこうって、約束したでしょう。その上での戦友、同志、ライバル、敵、障害──ひっくるめて、旦那様よ」
 障害は、ひどいのではないか。しかし、反論は浮かばない。
 いいわけめいたものを口にしようとして、約束、という言葉にひっかかる。思い出して、ソファに放ってあったエコバッグから、紫色の小さな箱を取り出した。妻の前に置く。
「あら、月曜日だもんね。ありがとう、あなた」
「どういたしまして」
 それだけで、名誉挽回したような気になった。いつのころからか、職場の近くにある紅茶専門店の商品をいたく気に入った妻のため、ティーバッグが七つしか入っていない小さな紅茶を、毎週買ってくるようになっていた。一週間で飲みきってしまうから、ウィークティー。商品名でないい。妻がそう呼んでいるのだ。
「すてき、今週はアールグレイね。ミルク、あったかしら」
 まだ食事中だというのに、いそいそと席を立つ。
 私は、満足していた。
 たぶんずっと、こうして、妻と向かい合って、話したかったのだ。
 彼女の笑顔を見たかったのだ。
 そうして、もしかしたら──許されたかったのだ。愚かで身勝手な自分を。
 姉からの電話の、おかげかもしれない。
 数日ぶりに、胸の内がすっきりとしていくのを感じていた。
 妻の後ろ姿を見る。ポットから湯を出そうとして、あら、と声をあげ、ヤカンに切り替える。
 そうだ、コーヒーを飲むのに、私が全部使ってしまったから──そういおうとして、言葉に詰まった。
 コーヒーなど、朝と夜、一杯ずつしか飲まない。なぜ、湯がなくなってしまっているのだろう。そうだ、水を入れ替えていないからだ──なぜ、入れ替えていないのだろう。
 それは、私の仕事ではないからだ。
 気がつけばいつだって、妻がやっていることだ。
 それなのに、なぜ、湯が少しも入っていないのか。
 テーブルを見る。減っていない親子丼。手をつけられた気配がない。妻が、あんなにおいしそうに、食べていたじゃないか。
「それって、真理だと思うのよ」
 背中を向けたままで、妻が言った。
 真理──先ほどの会話を思い出す。
 私は思わず立ち上がった。妻を止めようとした。どうして、そもそも何を止めようというのか、そんなことはわからない。それでも、止めなければ、と思った。
「だって、あなたにとって、あたしはいまもここに、いるんでしょう?」
 やめてくれ──私は震えた。
 やめてくれ。
 気付かせないでくれ。
 目を、開かせないでくれ。
「嘘よ、あなた」
 謎かけのように、妻の声。
 浮き立った景色の中で、声だけが響く。恐ろしいほどの耳鳴り。頭が割れそうだ。ソファもテーブルも、テレビも見えない。妻が向かっているはずのキッチンも、消えてしまう。
 数え切れないほどの何かが、転がり落ちた。
 赤、青、紫、黄色──色とりどりの、小さな箱。
 もう減ることのない、ウィークティー。
「嘘よ」
 もう一度、妻は繰り返した。
 やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ──願いが届くはずもなく、妻はひどくゆっくりと、振り返る。
 笑っていた。
 柔らかく、ほほえんでいた。
「『愛してるわ』」
 耳鳴りが、止んだ。



 私は、目を開いた。
 そこにあるすべてを、見た。
 ポットを持ち上げ、流し台に置く。水道水を注ぎ、蓋をした。丁寧に底を拭いて、電源を入れる。これで、すぐに湯はできるだろう。
 イスを引いて座り、食事を再開する。
「次は、中華丼がいいわ。久しぶりに、牛丼もいいかしら」
 妻が笑って、私も笑った。




願い、叶い。

願い、叶い。

姉からの電話。妻へのウィークティー。私は今日も、いつも通りに過ごしている。変化になど気づかない。気づかない。気づかない。

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  • 短編
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更新日
登録日
2014-04-17

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