波濤恋情 第四章

波濤恋情 第四章

第一話 敗戦

 1、



 敗戦である。

 その事実を受け止めようとも、違うと否定したくなる思いに駆られ、込み上げてくる悔しさに涙が止まらなく、まだ何かできたのではないか、本当はもっとやれたのではないかと地団駄を踏むが、どれほど怒りに燃え、歯軋りをしたところで、何も変わることなどない。

 負けた。

 手も足も出ないという状況の中で、勝てる見込みなどないとわかっていつつも、負けたくないという思いと、ここまで国民総動員で挑んでいる戦いに負けるはずがないと思っていた。

 負けてしまった。

 厳しい戦線の中、命を燃やしていった多くの戦士の無念を晴らすことができるのは勝利しかなかった。
 内地の家族が住む場所が攻撃されているとわかっていながらも何もできなく、ただその知らせに胃をきりきりさせながら無事を祈ることしかできず、それでも耐えてほしいと願った。何か突破口を開くことができないのか考え尽くした。

 敗れたのだ。

 敗れてしまったのだ……!

「真野君」
 数千の墓標が並ぶ場所で、酒を飲みながら墓石に向かって愚痴をこぼしていたところ、そう声をかけられた。真野善三はふらりと立ち上がる。
「ああ、いいよ、そのままで。少し私も隣にいいか?」
 直属の上司の武井中将、ラボール基地の実質上の責任者、そして敗軍の将という立場にある。
「はい。もちろんです。しかし申し訳ありません。酒があまり残っていません」
「いいよ。飲んだところでどうせ酔えない」
 ともに腰を下ろし、武井は酒杯を受取り、善三が残った酒を注ぎ込む。
「司令。ご心痛お察しいたします」
「この身ひとつどうなろうと関係ない。死刑に処せられてもやむを得ないところだろうが、それが国の為になるとは到底思えんところが虚しい」
「死刑……」
「宮様がそうならないよう祈るばかりだが」
「宮様のお立場も難しいのですか」
「名目上はここの最高責任者だからね。どういう罪状をつけられるか心配だ」
「左様ですか……」
「とにかく宮様は単なる名誉職であり、実質は自分が采配したのだと訴える、そして、君たち将兵が一刻も早く本土に戻れるよう頼み込む。その為の牢獄なら私にとっては極楽だ」
「そんな……!」
「真野君」
 悲愴な表情をする善三に慈しみの笑顔を向ける。
「蒔田大将だったら、さぞかし嬉しそうな顔をして奴らに両手を差し出し、手錠を受けただろう」
 蒔田の墓石に風が当たる。
「司令」
「だから、少しはそれに近づくことができるのかと、私がその後を継いだ意味もあったのかもしれないと誉れに思うのだよ」
 善三が居たたまれないという表情をする。
「真野君。私はこの地で果てるのかもしれないけれど、君らは今後努力していかなければならない。そちらの方がよほど苦難の道だ」
「……苦難の道ですか」
「生きる運命にあるものには、それだけの役割がある」
「………………」
 命を落としていった者たちの顔が浮かぶ。
「死した戦友の為にもやらなければならないということでしょうか」
 善三が沈むようにそう言うと武井は苦笑する。
「本土攻撃を受けた内地を見ることにも忸怩たる思いがあろう。守れなかったことについて罵声を浴びるかもしれん」
 守れなかった。
 そのことが最もつらいことである。
「見たくないものを見なければならず、聞きたくないことを聞かなければならず、言いたくないことを言わなければならない」
 武井がふっと息を吐く。
「おそらくそういうことになるだろう」   
 善三が今後の暗雲立ち込める状況に心を重くする。
「覚悟しています」
「戦勝国の連中がこれからどのように縦横無尽、傍若無人に振る舞うのか、どれほどの難題を突きつけるつもりなのか、とにかく困難を極めることだろう」
「……そんな中で私に何ができるのか、不安でいっぱいです」
「何ができるのか……。それが先にわかっていれば人生はもっと楽に過ごせるのだろう」
「……はい」
「人は事情と環境の中で自分の取るべき行動を迷いながらも選んでいく、それが人生というものだ」
 普段は寡黙な武井が饒舌だった。
「ふ。蒔田大将の受け売りだが」
 自分も似たようなことを言われた覚えがあると善三は思った。
「君が秘書官でよかった。優秀な君についてもらえてとても心強かったよ」
 善三が思わず立ち上がり、敬礼をする。
「そ、そんな! 恐れ多いことです!」
「蒔田大将が君に肩入れしていた理由がわかったよ」
 墓石を見ながらくすくすと笑う。
「肩入れ?」
「いや、失言だ。とにかくありがとう、感謝している」
「感謝だなんてもったいない……、私こそ司令にお仕えできてとても有難く思っております。深く感謝しております」
 善三が涙ぐむ。
「活躍を期待している」
「はい。ご期待に添えるよう力を尽くします」
「まずはこのラボールの将兵九万の内地への帰還段取りが急務だ」
「左様でございますね」
 
 だが、そんな武井と善三のやり取りは無意味なものとなった。
 オーストラリア進駐軍の兵士が善三の宿舎に踏み込んできて、キャプテン マノ! と叫んだ。
「YES」
 善三は横柄な兵士の態度に臆することなく進み出る。
 武井とその側近は俘虜といえども特別待遇で対進駐軍の窓口となり、様々な作業を行っていた。側近全員英語が達者であるということも理由だった。
『武器弾薬及び装備品一切の引き渡しの為、指定した箇所に集積のこと』
 そうして集められたものを海に捨てるという作業が進められており、命より大事な兵器を海に捨てるという作業は兵士の心を深く傷つけるもので、その屈辱的な作業は戦勝国と敗戦国との違いを見せつけるためにも行われていた。
 その実施部隊を選ぶ段取りが目下のところ善三の仕事であり、その伝令かと思った。
「You are under arrest」
 善三が衝撃を受ける。
 ――お前を逮捕する――
「え……、What?」
 あまりに突然のことで善三はそう言った。
 豪兵は唾を吐き、茫然とする善三の手を後ろに回し、手錠をかけ、そのまま連れて行った。



 2、



 赤坂の閑静な住宅街にその屋敷はある。
 住宅街といっても、廃藩置県とともに国に献上した敷地が変わったもので、維新前は屋敷を中心とした街であった。
 世の移り変わりとともに手にしていたものは指の間から滑り落ちていくように消え、一度手放したものは二度とその手に戻ることはない。
 ――諸行無常。
 それが世の中の理ということに誰もが異存を唱えられず、虚しさを呑み込みながらも受け入れていく。
 形成された街はそんな時代の移り変わりによって失われたものの残滓のひとつであった。

 木内宗一は、その屋敷に呼ばれていた。
 主を失ったその館は全体的に沈んでおり、覇気どころか生気すらなく、そこで働く人々の心の暗さを表していた。
 色彩豊かな花が植えられており、丁寧に手入れが施されている雑草のひとつも生えていない広大な庭園を有する敷地の中には、築年数が定かでない古色豊かで歴史を物語る日本家屋の他、英国人設計士が手がけた洋館がある。
 宗一は英国の家具が置かれている応接間に通され、館を包む空気に気を重くしていた。
 イギリスは戦勝国側であり、憎き敵であったため、戦争中はドイツ人が造ったと嘘をつくなど自衛しなければ過ごせず、亡くなった主はそれほどにこの館を愛していた。
 煉瓦と石を組み合わせて造られた外壁は堅固でありながら優雅である。
 敷き詰められている大理石と薄紅色の壁の色が絶妙な色合いで優美であった。
「果たしてこの問題に口を挟む権利が私にあるのでしょうか」
 館を取り仕切る年若い当主代理の平井要介に向かって事前に自宅に届けられた資料を机上に置きながら言った。
 平井はしばらく押し黙る。
 訪れた静寂さに畳一畳分の大きさの柱時計の規則正しく刻む音が響き、それが緊張感を増す役割を担っていた。
 そして、じっと宗一を見た。
「生前、大殿は善三様のことで困ったことがあったら木内様を頼るようにと申しておりました」
「いや、だが、しかし……」
「それはすなわちご遺言にございます」 
 平井の慇懃な態度に気迫を感じ、宗一は思わず背筋を伸ばす。
 あまりの重苦しさに閉口し、観念したように大きく息を吐いた。
「そうですか。ではもう少し詳しくお聞かせ願えますか」
「はい。大殿の次弟の昌義様が、若殿の長男、秀和様が真野家当主であると主張し、後見するとおっしゃっています」
「秀和殿はまだ八才でしたかな」
「はい。ですので、当主としては些か心許なく、現在、成人男子は善三様のみで、ご存命であるならばお帰りをお待ちすると訴えているのですが」
「公爵、真野先生のご遺言書には何と?」
「……嫡男秀一に当主にまつわる一切を譲るものとする……と」
「それだけですか」
「はい。五代以上長子相続が続き、この度も問題がなかったはずで」
 宗一が天井を見上げる。
「ご一緒に亡くなるとは想定されていなかったのでしょうな」
「……はい。そのための広島と東京でしたので……」
「家督相続というのでしたら、秀和殿でしょうな。しかしこのご時勢、善三君が受け継がれる方が安心でしょう」
「それが、私ども譜代の者の総意でございます」
 平井家は開祖以来筆頭家老を務めてきており、いかに当主の弟でも、家令であり当主代理を務める平井の助言は無視できない。
 支えられてこその当主なのである。
「お願いします。是非ともお力をお貸し願いたく」
 宗一が再びふうと溜息を吐く。
「代々真野家を支えてきた方々にそっぽ向かれてはどうにもならないはずで、私が力添えしなくとも乗り切れることなのでは?」
「ご分家様は、敵対するのではなく、あくまでも長子後見をするとのことで、言い分としては非の打ち所がなく、しかしその後に掌中に収めようとすることが見え隠れし」
「まあ、優秀な弁護士がそばについているでしょうから。大義名分は訴えてくるでしょう。秀和殿は今どこに?」
「姉の絢子様ともども御分家様のお宅に……」
「抱え込まれてしまいましたか」
「まだまだ母親が恋しい年頃なので、そのあたりに取り入ったのだと」
「なるほど。ここに乗り込んで来るためには必死ということですか。なんとも哀しいことで。真野先生もこんなことになるとは思ってもみなかったでしょう」
 絵に描いたようなお家騒動だと宗一は心の中で呟く。
「ええ……、誠に残念な限りです」
「平井さんが先生を看取ったのでしたね」
「………………………」
 わずかに肩が揺れる。
「ご立派な最期でございました」
 平井の声色が変わってしまったことに気づかぬように顔を逸らし、宗一は遠くを見る。
「まだまだ先生に教えていただきたいことが多々ありました。素晴らしい、実に希有なお方でした。あのようなお方にはもう巡り会えないことでしょう」
 昌和の穏和な顔を思い浮かべる。
 そして善三によく似ている母の絹代とともにいる二人の姿を。
「奥方様は、広島に行かれてきっとご本望だったのでしょう。予感されていたところがおありだったのでしょうから」
 平井が唇を噛む。
 皆で必死に広島行きを止めた時のことが甦ってきていた。
「お願いします! どうかご助力賜りたく!」
 平井の心情がびりびりと伝わってくる。
 昌和と絹代の子供に後を継いでほしいのだと。
 分家に入り込まれて、その二人の面影を屋敷から消されたくないのだと。
「お気持ちお察しいたします」
「ならば!」
「分家の方々のご後見人としての資格を剥奪するなど簡単なことです。社会的なお立場を少々不安定にさせれば済むことですから。こちらに乗り込んできた後にでもそれは容易にできます。もっと分かりやすいやり方として、相続人を善三君ひとりにすることさえも」
「……………………」
「ふ。私に頼むということはそういうことになるのですよ。いかがです。具体的なことを聞かされればさすがに躊躇されるでしょう」
 宗一は苦笑する。
「しかし、果たしてそれが本当に善三君の望むところなのか、少々考えさせていただけますか」
 平井は神妙な顔つきとなる。 
「はい。承知いたしました」
「国会議員をやめたらいろいろ考える時間もできましたし」
 にこっと笑う。
「またやくざに戻っただけですが」
「先生が辞職を強要されるとは」
「まあ、時勢です。進駐軍には誰も逆らえませんから。それに何もできぬ国会にはほとほと嫌気が差しました。性に合ってません、ははは」
「木内先生のご威光を知らぬ者はいないと存じます」
「それはまたずいぶんと買いかぶりすぎです。軍には全く手も足も出ませんでした」
 宗一が大きな両開きの窓の外を見る。
「軍相手ということではなく、時代だったということかもしれませんがね」
 小鳥が窓枠に止まり、その可愛らしい姿に顔を綻ばせる。
「今はとにかく、善三君の一日も早い帰りを待つのみです」
 宗一はそう言いながら立ち上がった。
 玄関先まで出ると車が寄せられ、秘書の恩田がドアを開けて待つ。
 車の中に入ると緊張感が切れたようになり、シートに身体を沈めた。
「お疲れさまでした」
「ああ」
 疲れた。
 その通りだと思った。
 自分が代々地主の造り酒屋に生まれたとはいえ、華族というのは別格でましてやその中のもっとも位の高い公爵家という家柄では比較にならなく、やはり訪ねれば疲れるというのは正直なところだった。
 行けば否が応でも歴史を感じ、その重みに耐えられなくなる。
 管理している土地や証券がどの程度なのか知らずとも各財閥家との繋がりは濃密で財力が桁違いであるとわかり、必死に金の中を右往左往してきた自分の卑しさが浮き彫りになるようで、劣等感を持つ必要もないのにいかに自分が持たざる者なのかと自覚させられる。
 そんな真野家の相続問題に巻き込まれるとは想像もしていなかった。
「いつ来てもこちらのお屋敷には圧倒させられてしまいます」
「まったくだ」
「他の華族のお屋敷もご立派ですが」
「そうそう懇意にはできぬからな」
 真野家と親しくしていることに他の華族の家もすり寄ってきていたが、通り一遍の付き合いしかしていなかった。
 これ以上劣等感を煽られたくないという小心な思いからで、そんな風に思うことすら苛立つのだった。
「わしは華族の中に入ろうとは思わん」
「左様でしたか。てっきりご縁談のご相談かと思いました」
「なに?」
「絢子様の婿にと」
「何を戯けたことを」
「しかし、公爵も議員もお亡くなりになり、しっかりとした後ろ盾を確保されたいところでしょう。真野家に繋がる縁者には死活問題ですから」
 宗一が憂鬱そうに長く息を吐く。
「うちの所帯だけで手一杯だ」
「はい。関西支部長が首を長くしてお待ちです」
「関西が叩かれているか」
「ええ。諍いが絶えないらしく、荒らされてますね」
 恩田が事細かくその内容について報告するのを憂鬱そうに聞く。
 戦争が終わって人々は今まで我慢していた鬱憤を晴らすがごとく貪欲に物を求め、物品を所持するものにとって荒稼ぎする好機が到来していた。
 借金をさせ、物を買わせる。
 その末端の、闇市場をめぐる縄張り争いが激化していた。
「えげつさは戦争前と比較にならんな」
「今は国民のほとんどが貧乏人ですから」
 どの産業も壊滅的で、占領軍の補助がなければ生産できなく、先勝国側の思惑次第で生き残ることができるかどうか先行き不透明な中、事業家たちは戦々恐々としていた。
 軍組織は解散し、それぞれ兵隊から故郷に戻ればすぐ仕事が必要となるが、今まで不足していた若い労働者が戻ってきたにも関わらず、働き口が豊富にあるかと問われれば否と答えるほかない状態で、仕事がある者とない者の差がついた。
 仕事を求めて宗一の門をたたく人数は膨れ上がり、人が増えれば増えるほど問題事は起きるという中、宗一はそんなならず者たちの取り締まりに追われていた。
 新橋の家の玄関前には、弟子や書生とはいえぬ子分というべき者たちがずらりと並び、その先に関西支部長が立っていた。
 車が止まり、ドアを開けられても宗一はなかなか降りない。
 皆が一斉に腰を曲げて待っている中、痺れを切らすまで待たせる。
 そして、ゆっくりと草履を片方だけ下ろす。
「お帰りなさいませ!」
 ドスのきいた声が響きわたる。
 苛立たせるほどに緩慢な動きで車から降り、睨むようにしながらまっすぐ視線を動かさず、相手が威圧感を覚えるように気迫を込める。
 関西支部長は震え上がっていた。
 その場で土下座をする。
 宗一はその前に表情を変えずに仁王立ちになる。
「お、お待ち申しておりました」
「わしは待てと言っておらんが?」 
「はっ! 申し訳ございません! 自分の勝手にて!」
 宗一は辟易した顔をしながら、両手を揃えて頭を地面に擦り付ける相手を見下ろす。
 先生と呼ばれていたのがいつの間にか親分様に変わり、活動を停止させられてからは、政治団体だったはずの組織は別のものに取って代わっていった。
 親分と子分。
 自分が望んでいないところで奇妙なルールができあがっていく。
 背中に彫り物を持つ者が多くなり、その子分筋がそれを真似していくからだ。
 はあ、と大きく息を吐く。

 ――誠のやくざ者になってしまった。

 その溜息に皆がびくりとする空気を感じ、心の中で更に溜息を吐いたのち、足を上げ、支部長の指すれすれのところを踏みつけ、
「この大馬鹿者めが!」
と怒鳴りつける。
 地面がそれに呼応し、振動が起きたようにその場にいた者は感じた。
「てめえのような腑抜けに任せたのが間違いだった!」
 その怒号に支部長は顔を真っ赤にする。
「責任はすべて自分にありやす」
 短刀を胸元から出す。
「このたわけが!」
 宗一はその短刀を蹴り上げる。
「死ぬ気ならば死んだ気になって片を付けやがれ! 奪われたもんは奪い返せ!」
「は!」
「横浜の連中を連れて行け」
「はっ! 有り難うございます!」
「いいか! 神戸は絶対落とされるな! わかったか!」
 倉庫を死守できなければ商売にならない。
 物品流通を押さえた宗一の組織は常に襲撃され、戦時中は宗一に尻尾振っていた財閥が掌を返してきていた。市場の独占のためならば手段など選ばず、利益を奪い合う醜さが増していった。
 真野家のように守られることが当たり前のようにはいられない。
 腹のさぐり合いをし、折り合いをつけていかなければ争いは続いていく。常に駆け引きの場にいたのであった。

 宗一は自室に入り、座敷に座り込む。
 焦った表情であるとわかっていた。
 周りの誰にも見せることのできぬ顔である。
 陸軍という後ろ盾がなくなり、孤立無援の状態で、誰にも頼れず何万人という集団を引っ張っていかなければならず、一銭の金も一時も無駄にできない。
 落とし穴をよけながら歩いている状態である。
 戦時中に暴虐の片棒を担ぎながら蓄えた「手数料」は貴重な資金源であり、そのまま外貨として通用するもので、軍需産業での損失を埋めたい財閥と、外貨が喉から手が出るほど欲しい国が、結託してそれを狙っているのだとわかっていた。
 自分は、潰されるべき者であると。
 社会的に抹殺されるべき者であると。
 ――負けるものか。
 公職から追いやられたのは進駐軍の意向などではない、国だった。財産を凍結させようと圧力をかけられた。
 ――負けてなるものか。
 法律がめまぐるしく変わっていく中、先に先にと行動してきた。
 ――負けるわけにはいかんのだ。
 真野家に力添えするどころではない。
 自分が助けて欲しい。
 そう言うことができたらどれほど楽になるのだろうと苦笑する。
 顔を両手で覆う。
 そんな自分を支えるのはただひとつのものである。

 ……善三よ。
 お前はいつ戻る。
 引き揚げ船が各方面から着いているぞ。
 南方からの船も到着している。
 お前はいつ戻るのだ。
 だが、……戻れば……。
 お前にとってはここも地獄に違いない。
 みんな、みんな死んでしまったぞ。
 お前の親父さんもお袋さんも、兄さんも。
 広島でな。
 運悪く皆が集合していたときにピカドンが落ちたんだ。
 生き残ったのはお前と甥と姪だけだ。
 そのせいで浅ましいお家騒動が待っておる。
 真野家の財産が狙われておるぞ。
 お前が望むのならそんな争いなど蹴散らしてお前を当主にしてやる。
 ――だが。
 そうなっては身一つでわしのところには来れんな。当主になればお前は真野家を継ぐ者としてその血統を守る使命を背負うのだ。
 そして、お前に相応しい者になろうと努力してきたが、今のわしは単なるやくざ者に身を落としてしまった。身分の差はますます大きくなるばかりだ。
 善三よ。
 お前がいなければわしはもう気力が持たん。
 空襲を生き延びたのはひとえにお前に会いたいがためだった。
 善三。
 お前と二人で静かに暮らしていきたい。
 叶うなら、お前と田舎で誰にも邪魔されず過ごしたい。
 だがな、わしもな、前以上に重いものを背負ってしまった。
 やくざ稼業とはいえ、わしの守るべきものなんだ。
 それを捨てることはできん。
 それから逃げることはできんのだ。
 お前のためだけに生きたいと望むのに、そうできんのだ。
 お前も……。
 おそらくお前もそう結論を出すのだろう。
 お前も逃げられんだろう。
 ……つまりは見果てぬ夢か。
 それでもいい。
 なんでもいい。
 どんな状況でもいい。
 とにかくお前に会いたい。
 お前に会いたいんだ。
 善三―――。


 3、



 
 理不尽という言葉をこれほど痛感することはなかった……。
 拷問に耐えながらそう考えることができる自分はまだ大丈夫だと善三は思った。
 縛り上げられ、全身を叩かれ、意識が遠のくと水をかけられ、火に炙られているような壮絶な熱さと痛みの中に引き戻される。
 それは永遠に続く地獄のようである。
 一瞬の痛みならば耐えられる。
 その苦痛が持続していくとなると精神的に打撃を受ける。だから、
 ――罪を認めれば楽になる。
 そんな誘惑に屈してしまう。
 それと戦えるほど人は強くない。
 強くないのだ。
 心を直撃されれば負けてしまう。
 ――お前は罪人だ。
 断じて違う。
 そう否定する自分はまだ心が持っていると思っていた。

 罪状は実に稚拙なものだった。
 マラリアにかかった軍属の支那人やニューギニア人を隔離し、治療もせずに放置し、見殺しにしたとのことだった。
 その命令をしたのが真野大尉であると支那人たちが訴えたのだ。
 善三が仕事として行っていたことは、重篤患者の移送先の指示で、放置したなどは濡れ衣であり、他の患者への感染を防ぐ為の措置であった。それを極悪非道な行いとして、針小棒大に訴えられたのだ。
 進駐軍としては、日本兵の戦地での悪行を記録を残したいがために、罪人探しをしており、告発を求め、戦勝国側に取り入ろうと今まで世話になっていた現地人たちは掌を返し、さもあったかのように事件を捏造し、それらの犯人へとまつりあげていった。善三は巻き込まれたひとりで、無実を訴える限り、無理矢理自白を迫られるという事態に陥っていたのだった。
 拷問に耐えられなく、罪を認めてしまったため、死刑を宣告された者もいる。
 原告がいなく反対尋問もできない裁判とはいえぬもので、勝手に罪状と刑が決められていき、その執行も行われていた。
 凄惨極まる戦線を生き残り、故郷に帰れる日を目前にしながら、厳しく自分を律してきた帝国軍戦士としての誇りを傷つけられ、罪人として処刑されるという屈辱に耐えきれず、発狂する者もいた。
 引き揚げはすでに始まっており、内地に向かって順番を待つばかりの状態で、牢に繋がれた者たちは、その船の汽笛を胸をかきむしりながら聞いていた。
 ――自分もきっと帰る。
 その思いが善三を支えるものだった。
 罪を認めてしまったらそれが絶たれるのである。

 その日の「取り調べ」を終えて拘置所に戻ると、同じようにまだ拷問に耐えている仲間が全身の痛みに耐えているような表情をしながら横たわっていた。
「善三様。大丈夫ですか」
 善三は胸が痛くて声が出せずに小さく頷く。
「早くこちらに」
 平井晴雄が身体を起こして善三を横たわらせる。
「……君こそ……つ……」
「無理なさらずに」
 晴雄は、作業をさぼっていた軍属の現地人に尻叩きをしたことについて、虐待を受けたと訴えられていた。
 内容がどうであろうが、訴えられたという事実さえあればよく、あとは自白させ、犯人に仕立て上げれば進駐軍としては報告すべき内容を整えられて役目を果たしたことになる。
 無駄な抵抗をするのは許せないのだった。
 残すところ善三と晴雄のみだった。

 晴雄は、真野家の家令の平井と親戚筋で、広島で平井分家として真野家を支える平井家の一族の者で、ラボールの基地に配属されたときから晴雄は善三の存在に気づいていたが、部署も違うことから名乗りはしなかった。
 そして、皮肉にも牢屋で自己紹介をする機会を得たのだった。
「き、……君は、ノーと言い続けることができたのですか」 
「はい。善三様。通訳をあいまいにして「はい」と言わせて罪を確定させようとするやり方には慣れました。ノーとさえいえばいいのだとの善三様のご教示に救われております」
 その場合、拷問されるという事態が待ち受けていたわけだが、まだ少年のあどけなさの残る顔立ちに唇を腫らしながらそう言い、にっこりと笑う。
 善三が苦々しい表情をする。
「実に汚いやり方です」
 胸を押さえながら息を吐きながら言うと、晴雄が手をついて頭を下げる。
「どうか、お休みください」
「ええ、そうしましょう」 
 こういう仲間がいることも精神的に支えられていると思っていた。
 そして、何より大きな心の支えは、やはり愛しい人の存在だった。
 寝心地が最悪なベッドでも身体は全てを封じ込めるかのように急速に眠りに入っていく。

 ……先生。
 先生。
 木内先生。
 毎夜こうして眠りにつけば先生とつながることができる。
 夢で逢える。
 先生。
 今日はどんな一日でしたか。
 毎日お忙しいこととお察し申し上げます。
 お疲れではありませんか。
 おつらいことはありませんでしたか。
 先生は、どんなにつらいことがあっても我慢されてしまい、決して弱音を吐きませんけれど、いいのです。少しはこぼしてくださっても。
 最初の頃は先生のお心がよくわかりませんでしたが、こうして何年も離れて過ごしてからは、先生がおっしゃっていた言葉とその後の行動から、どういう心境だったのか理解するようになりました。
 単に私が子供で未熟者だったということなのですが。
 先生はとても強いお方です。
 そして、弱いお方と存じます。
 先生が強さを発揮する時――。
 人々は先生が放つ輝きに魅せられ、吸い寄せられるように周りに集まってきます。
 その強さに縋ろうとするように。
 私もそんなひとりでした。
 けれども。
 先生は心に深い傷を負っていらっしゃる。
 だから、それを見せまいと心を閉じてしまわれるところがおありになる。
 私はそれがわかるようになったのです。
 どうかお心に仕舞い込んでいることを話されてください。
 先生には私がいます。私はずっとそばにいるのです。先生をお慕いする気持ちが変わることはないのです。
 お願いです。
 そんな風につらそうなお顔をされないでください。
 もしかしたら、父母、兄様たちのことについて私が衝撃を受けると心配されているのですか。
 それならば、皆が私のところにお別れに来てくれたので知っています。
 皆が犠牲になった分、私が生きていかなければならないのだと知っているのです。
 人の生き死にについて、多くの死を見てきたせいか、非情にも悲しいという感情はあまり湧かず、生きる運命にある者は生き、死ぬ者はそれが天命であったと受け止めています。
 少し心が麻痺しているのかもしれません。
 遺影を見たときそう冷静でいられるかどうかはわかりませんけれども。
 とにかく、先生が心配されなくともおそらく私は乗り越えていけると思っています。
 それより、私たちがどう生きるかのほうが大事です。
 しかしながら、一日も早く帰りたいと切望しているのに、私は牢に繋がれています。
 ですから、どうか待っていてください。
 私はここを出てかならず先生の元に帰ります。
 きっと帰るのです。


 4、


 
 焼け野原となった帝都であったが、戦災を免れた場所は多く、神楽坂界隈にも残ったところがある。
 神楽坂はもともと料亭が集まる風情ある街で、関東大震災で被災した花街の店が移転してきたことから賑わいを増し、戦争中は将校がよく利用するなど、空襲前までは質素倹約を求められながらも華やかな街であった。
 空襲は容赦なく風情など吹き飛ばしたが、それでも、GHQの車が埃を巻き上げながら我が物顔をして走っていく大通りから路地を入れば、継承していくべき街並みがある。
 パーマネントをかけた髪は頭の大きさを二倍にも膨らませて見せ、毒々しいほどに赤い口紅、青いアイシャドーが異様なほど目を大きく見せる、そんな濃い化粧に裾の広がったスカート、誰もが振り返るほど目立つ派手な姿の女性の細い腰に手を回した米兵が鼻の下を伸ばしながら歩いているのを横目で見ながら、あれが大和撫子のなれの果てか、などとはおこがましくて言えぬと溜息を吐き、宗一は細い路地を進んでいく。
 米兵に媚びを売る女性のその驚くべき容姿はまるで心のうちを訴えているようにも思えた。
 ――あなたたち男は負けたのでしょう?
 ――だから私たち女はこうしてこんな男たちの相手をしなければならないのよ。
 思わず拳を握る。
 日本の女は、日本の男が守るべきものである。
 その女たちが、米兵に体を預けている姿を見て、心が波立たないはずがない。
 英語が話せるということは、女学校で教育を受けたということであり、家柄も悪くなく、聡明な女性の証である。そんな女性が娼婦に身を落とさなければ生きていけない、その現状から目を背けることは許さない、そう訴えているようにも思えた。
 ならばあの姿は、戦装束ということだな……。
 この先、我が国はどうなってしまうのだろう、と暗い気持ちが心を覆っていく。
 倫理が瓦解し、価値観を投げだし、目先のことだけに囚われてしまった先に何があるのか、日本人としての矜持さえも手放してしまうのではないか、そんな風に考えて寂しくなる心を奮い立たせる。
 大事な会合が待っているのだった。
 指定された場所は、焼け残った料亭を買い上げ、父の愛人の春賀に持たせていた店だった。
 つまり、そこを嗅ぎつけられたということは弱味を握られたということである。

「お待ちしておりました」
 会合相手の秘書たちが頭を下げる。
 自分の店でよそ者がお待ちしておりましたとは片腹痛いと思い、苛立ってつい睨んでしまう。
 相手が表情に出さずとも震え上がるのがわかった。
 ……まるで鬼でも見たかのようだな。
 今、自分の周りの者はこういう顔をする者ばかりだと自分はいったいどんな者になってしまったのかと、心が重くなる。
 愚痴をこぼすには最適の相手である腹心の部下の秘書の恩田はすでに足を止められていた。

 座敷に行くと、その会合の親玉が隣に春賀を侍らせ、酒杯を傾けていた。
「おお! お待ちしておりましたぞ!」
 耳障りな濁声で言われると憂鬱な表情を隠そうともせず、宗一は腰を下ろす。
 相手はかつては自分が金を握らせた者たちだった。
「女将。もういい。下がっていなさい」
 春賀が微笑み、両手をつく。
「いいではないか。久しぶりに女将の酌を楽しんでいたところだ。ささ、まずは一献」
「いいえ! 結構です!」
 鋭い言葉を投げると、その声に驚いたかのように杯を落とした。
 春賀はその杯を拾い、そっと席を離れて、襖を閉じた。
「そんな喧嘩腰にならなくともいいではないか。せっかく貴殿にとって良い話をもってきたのに」
 禿げ上がった頭に大柄の体に似合わぬ猫なで声を出す。
 それが交渉する際の手で、相手を懐柔する術を知り尽くしている手練手管の、受け入れるような態度をとってはいけない怖い相手である。忽ち引きずり込まれる。
 宗一は唇を噛む。
「良い話? 良い話ほど怖いものはないですね。今度は何ですか。小生は戦犯で刑務所送りですか。そんなことをしたらうちの者らが黙っちゃいませんよ」
「おお、怖い怖い。さすがは木内の大親分だ」
 三人のうちのひとりが嫌みたっぷりに自らの腕をさすりながら言う。
 宗一は冷笑を浮かべる。
 相手を苛立たせて自分のペースに持って行くやり方に乗せられはしないと。
 ……この小心者めが……。
「ふ。さすがに大臣には敵いませんが」
 笑いながらも睨みつけて言うと、大臣と呼ばれた者は肩を竦め、舌を出した。内務大臣である。
「木内さん。我々は喧嘩するために来た訳じゃないんだ」
「ならばなんですか。総理」
「君が公職復帰できるよう最善を尽くす」
 宗一は口を歪めて笑い出す。 
「ふふふ。それが良い話ですか。それはありがたく頂戴したほうがいいでしょうか。ですが、小生、もう出馬するつもりはありません。ですからそのお話と交換できるものは何もありません」
 切り捨てるように言った。
「君の団体の思想は危険だと元帥にうるさく言われて仕方なくしたことだ。君自身に問題があるわけではない」
「その責任者である小生に問題がないはずはないでしょう」
「我が党に入っていただけないか。元帥も認めている」
 宗一は苦笑する。
「なるほど。入党してまた悪事に手を染めろと?」
「相変わらずだな」
「総理。無礼なことは承知の上です。しかし、小生も腹に据えかねていることが多々ありますので。小生の口を塞ぐより抱え込もうという腹づもりですか」
 首相が苦虫を潰したような顔をした。
 宗一は余計なことを知りすぎている危険人物としてマークされている。
 大人しくしているとは到底思えず、動きを封じ込めることに苦心していた。
 宗一はそんなことは百も承知だった。
「君がGHQに取り入って商売しているとわかっている。独自の繋がりがあるということも」
「そんな事実関係はありません」
「そうでなければGHQが何も指摘せずにできるはずがない!」
「憶測でものを言わないでください。だから裏から手を回して邪魔をするのですか! 商売しなければうちの社員はどうやって生活していくんです! 国が何か仕事をくれるのですか? うちは財閥とは違うのです!」
 いきり立つ宗一に相反するかのように首相は冷静な表情となる。
「財閥はなくなる」
「え」
「GHQ、ふ、元帥閣下のご指導の元、そう決まった」
「なくなるって?」
「財閥を解体する。三井と三菱も皆、解散させる。各家の財産は事実上没収となる」
「どうして……」
「国庫金確保のためだ。そのための大鉈を振るということだ。真の目的は日本の経済力の大元を断ち切り、大規模産業の、まあ、平たく言えば軍需産業の屋台骨を崩すというアチラさんの思惑だがな。飛行機の一機も作れなくなる」
「GHQの思惑などどうでもいいです。没収?」
「生活できるくらい金は残るだろう」
「そこで働いている者たちはどうなるんです?」
「当然、失業だ。一刻も早くそれを断行しろとの一点張りだ」
「…………………」
「それだけではない。華族の資産も没収する」
「え」
「華族のみならず資産の額によって財産税をかける。没収は言葉が過ぎたな。あくまでも納税だ」
 同じことである。
 その首相の言葉で会合メンバーのひとり、穏やかな性格で知られている大蔵大臣が瞳に力を宿す。
「10万円(平成での価値換算5000万円相当)を超える資産を持っている者全てに課せられます。11万円までは5歩、20万円超は5割5歩、100万円超は7割、1500万円超の資産には9割。それが最高税率です。こちらをご覧ください」
 一覧表を見せられる。
 資産額に応じて税額が大きくなっていく。
「木内さんももちろん対象者だ。資産額に応じて課税する」
「……そんな、どうやって払う。資産相当分の現金などあるものか……」
 宗一はぼそりと呟いた。
「そんなことは勝手にやってくれ。財閥連中にこれを話して解体の承諾を得た。解体して財産税を逃れるのに必死に知恵を絞っているはずだ。経営者は皆戦犯で収監されているが、どの家も番頭がうまくやる。だがな」
 宗一は固唾を飲む。
「華族の人たちにとっては寝耳に水の話となる」
「それは……」
「そして」
 首相が目を固く閉じる。
「天皇家も同様となる」
「え……」
「等しく税金を納めていただく」
 宗一はガラガラと日本が長い歴史の中で培ってきた文化が音を立てて崩れていくのを感じた。
 帝が納税するなど信じられないことだった。
「君が懇意にしている真野公爵の家も」
「…………………」
「あそこの屋敷がGHQに接収されなかったのは当主が広島で被曝死したことへの恩情措置だ。前田侯なんてひどいもんだ。GHQに屋敷全部を奪われて住むところがなくてずっと借家住まいだ」
「狙い撃ちですか」
「まあ、そういうことだろう。軍の重職にいたからな」
「そんなことをしたらどの家も路頭に迷う事態になる」
「だいたいの国民は10万円以上の資産など持っていない。要は特権階級の排除だ。生きていくためにはほかの国民と同様に働いてもらうほかない」
「そんな話、聞いたことがない」
「ああ。世界初らしい」
「私有財産を認めないということになる」
「立派な共産党国家の仲間入りということか、ははは」
「……物納させるわけですか」
 首相がにやりと笑う。
「察しがよろしいですな」
「物納では現金として使えないでしょう。だから、小生に、……わしにそれを買えと?」
 青ざめる宗一の表情を見て、くくくと笑う。
「無論、税金として払うという選択もある。もしくは延納金を収めてその場をしのぐということも。まあ、好きな方法を選んでいただいていい。とにかくどういった形でも金は収めてもらう。その中で最もどれが得であるかと考えるといい」
「な……」
「それを事前に知ることができたのはかなり有益なことだったのではないか。資産隠しはお手のものだろうしなあ、ははは」
 宗一はがんじがらめにされたように思えた。
 この話を聞いたら最期、逃げることはできないと。
「………これが……国と言えるのか」
 宗一は悔しさにめまいを覚えた。
「金は勝手に土の中に埋まっていたわけではない。どれほど苦労して手にしたのか。金があるところからむしり取る、それが国と言えるのか」
 だが、自分は何とかなるとしても、善三に降りかかる災難がどんなものなのか想像つかなかった。
 相続など放棄してしまったほうがいいと言いたいが、逆に借金まみれになったら潮が引くように皆は離れていき、結局は善三ひとりで処理するようになるそんな未来が見えた。
 そして真野昌和の顔が浮かんできた。
 先祖代々の大名屋敷の中、主君のみ手にできるという名刀を背に当主の座に座るその姿が。
 重い家名に負けじとその役割を全うしようとしたその生き様が。
「これが政治と言えるのか」
 凛としたその姿が。
「華族は日本の文化を背負っている。その人たちの身包み剥がすようなことをして許されるものなのか。家宝、土地、建物、それらを物納させては文化の喪失につながる! 彼らが必死に守ってきたからこそ継承されてきたものだ!」
 怒声になった宗一の言葉に首相は目をかっと見開く。
「ならば聞く! ほかにもっと良い策があるのか? GHQを納得させ、我が国の経済を再生させられる方法があるか! どうだ! 木内君!」
 顔を真っ赤にして声を張り上げた。
「これが戦争に負けるということなんだ!」
 白目も真っ赤に充血している。
「我が国には全く金がないんだ! 借金しかない破綻した経済の中、これ以上国民を死なせずに済むには、なりふり構わず有り金をかき集めて生活基盤を作り上げるしかないんだ!」
 拳を握り、振り上げる。
「これが今の時代の政治家に課せられたことなんだ! どんな怨嗟の声も受け止める!」
 内閣総理大臣の覚悟である。
「…………」
 宗一は、毅然とした態度の首相に全ては決定事項であると深い溜息を吐く。
 どこまで国民に負担を強いるのだ……。
「見返りもなく」
 悲しみが襲ってくる。
「積み重ねてきたもの、守ってきたものを国に寄贈するのか。日本に生まれたという宿命の元に」
 何のために苦労してきたのか。
 国が戦争に負けたことを国民が償っていかなければならないのか。
 日本人として生まれたからにはそれを受け入れていくべきなのか。
 宗一は言いようもない悲しみに言葉が続かなかった。
「それが日本の子供たちの未来への礎となる。私はそう信じている。子供たちに飯をたくさん食べさせてやりたいんだ。みんなやせ細って、親もいなくて、このままでは日本の将来を担う子供たちを育てられない。子供を増やさなければならない。子供たちこそが日本の唯一の希望なんだ」
 宗一は不覚にも涙ぐむ。
 この交渉術に屈しない者はいないとわかっていながら、自分の無力さを思い知った。

 ――子供が唯一の希望。

 この言葉に勝る今の日本に必要なものはないだろうと思った。
 その子供たちのために自分の財産を国に渡す……か。
「……勝ちたかったですね」
 首相の瞳も揺れる。
「……ああ。だが、……負けたんだ」



 5、




 慣れというのは恐ろしいものだ。
 叩かれる棒を霞む視界の中で見ながら、善三はそう思った。
 体を叩かれることに慣れてきていたのである。
 士官学校の頃からビンタや鉄棒での尻叩きは年中のことで、体罰というものに苦しみを感じることはないほど身体を鍛え上げていたが、それでも拷問の苦しさには心が挫けそうになった。
 それが慣れてきたのである。
 まるで家畜が飼い慣らされるかのように。
 口の中に溜まった血を吐き出す。
 ――自分は人間だ――
 だから意志を持ってこの仕打ちに耐える、耐えてみせる……!

「You can cease now.(もう、いい)」
 大柄のいかにも鍛え上げたといわんばかりの躰の太い腕を横に振り、善三に対する行為をやめさせる。
 三人の兵士が動きを止め、善三から離れると善三はその場に倒れ込んだ。
「That won't make him talk.(どうやらこのやり方では真実を語らぬようだ)」
 にやりと笑い、善三のそばに寄り、ぐったりと横たわるところまで歩いてくる。
「I didn't think you would be that stubborn. This is useless. The KAMIKAZE will not rise.(ここまで強情をはるとは大したものだ。だが、無駄な我慢だ。待ってても神風は吹かんぞ)」
 靴のつま先で善三の頬を上げる。
 そのまま踏みつけられることを覚悟して善三は舌を噛まぬよう歯を食いしばった。

 ――勝者と敗者。

 このことはもはや何があってもひっくり返ることはない。
 勝者の行いは全て正当化され、それが歴史の出来事ととして伝えられていく。
 逆に、敗者の行いは、全てが否定され、いかにその存在自体が罪深いものであったか、教育されていってしまう。
 平清盛がその良い例である。

 平家を滅亡させ、源氏が武家社会を築いたことは歴史に選ばれた尊き行い、偉業とされた。
 どれほど卑怯な戦法で勝ったかなどは語られず、ただただ滅ぼされて当然の悪行をしたのだと世に知らしめ、平家一門を徹底的に追討し、破滅させた。
 そうして一門は差別され続け、隠れるように過ごしていくことを余儀なくされ、子々孫々に至るまで因縁がついてまわった。
 しかし、幾年重ねても継承されつづける厳島神社のその姿は、歴史の別の側面を見せている。

 完膚無きまでの粛清は、それを行うだけの必要性がある。
 平家が政治を行っていたために生活が成り立った者たちは大勢いたはずで、悪行ばかりではなく平家が行った政治の良い部分を人々が再び求めぬためにも粛清が必要だったのである。
 全てこの世の中での行いには功罪がある。一方だけが悪く、一方だけが正しいとは言えない。
 
 明治維新で官軍となった薩長政権ともいえる明治政府も同じことである。
 開国しなければ日本は立ち後れ、外国の侵略を受け入れていたことだろうと歴史家は語る。だから徳川幕府が倒されることは必然だったのだと。
 そして、英雄を創り出し、維新そのものは歴史の中で良き行いだったとしてきた。
 維新政府が富国強兵を図り、国民全員が戦争に出向く体制を作るための方便としては、武家政権を否定する必要があった。
 幕藩体制を崩さなければ、真の中央集権を握れなかったからだ。
 つまるところ、どのように大義名分を訴えても所詮は軍事力を手にした者が勝者なのである。
 そうして天下を取り、西洋諸国と渡り合えるだけの力を得たが、どの国も自分の利益を優先し、後から出てきたものなど受け入れるはずがなく、日本が国力をあげればあげるほど、敵は多くなっていった。

 その果てに、敗れた……か。
 善三はふっと笑う。
 そして、これが負けるということだ。
 さぞかし我が日本軍は戦地で惨いことをしたと後世に伝えられていくのであろうと失意の底に落ちていく。
 どれほどの思いで本土のことを心配しているか、どれほどの思いで家族や愛しき人のことを思っているか。
 飢えをしのぎ、死力を尽くして戦ったのは自分のためではない。
 死んでいった戦友はただ死んだのではない。
 国を守るためだった。
 勝って、勝って祖国の土を踏むためだった。
 断じて負けたくなかった。
 負けたくなかったのである。
 祖国の為に命を懸けて戦った。
 皆、国を愛しているがゆえであった。
 その思いまでもが否定されていくのか……!

「笑う余裕があるのか」
 唾を吐き捨て、それが善三の頬に落ちる。
 ……下郎が……。
「ならば、俺がじっくり尋問してやろう」 
 ……なにが勝者だ。
「俺の部屋に連れて行け」
 ……屈するものか。
 両脇を掴まれて無理矢理歩かされ、司令官室に入れられるとシャワー室に放り込まれた。
 ……水責めか……。
 溺れずに生き残れるか一瞬不安になるが、自分は生き残るのだと心を強くする。

 ……そうですよね、父上。

 心が弱くなったときは父の姿を思い浮かべ、心の中で問いかけていた。
 すると、応えてくれる。
 彼岸の人になったことを確信するようで寂しく思いつつも心強く思うのだった。

 ……私は生きるべきなのですよね。

 ――ああ、そうだ。お前は生きる運命にある。

 ……父上。でもとても苦しいです。

 ――生きるということは、実に苦しいものだ。

 ……父上はいつも穏やかで苦しみなど超越しているようにお見受けしておりました。

 ――ふ。そのような余裕などなかったよ。自分の無力さを常に恥じていた。何も変えられず、何ひとつ動かせず、何もできぬ自分を恥じていたのですよ。今もお前に何もしてやれない。

 ……そんな。父上が何もできないということはありません。私は、父上をずっと尊敬申し上げ、目標にしておりました。

 ――何も教えてやれなかったように思う。

 ……いいえ。たくさんのことを教えていただきました。言葉だけではなく、ただ父上がそこにいてくださっただけで、お姿を拝見しただけで、学ぶべきことが多々ありました。それだけでも十分すぎるほどです。

 ――左様か。お前がどのような目で私を見ていたのかじっくり膝を交えて訊いてみたかった。

 ……はい。私も早く大人になりたいと思っておりました。

 全裸にされ、シャワーの多量の水を口に入れられる。

 ――大人のお前と酒を酌み交わしたかった。

 ごぼごぼと吐き出しながらも息が付けず、顔を必死に動かす。

「罪を認めろ! お前がやったのだな!」
 通訳の兵士が声を張り上げた。

 ……実は私はなかなかの酒豪なのですよ。父上を負かすかもしれません。

 ――私も負けぬぞ。真野の男たちは皆酒に強いのだ。

 胃液を吐き、身体から力が奪われていく。

 ……父上……。

 ――善三。

 ……私は真野の家の者として恥じぬ生き方を……。

 ――私はお前を誇りに思う。

 ……ありがとうございます。父上。

 全く動けなくなり、身体が浮き、運ばれていく。自分が息をしているのかどうなのかもわからなかった。
 脚を高く上げられる。

 ……まさか……。

 腹部に液体を垂らされたことを俄に感じる。
 そう思った瞬間、身体が張り裂けられたような痛みが襲った。

「―――――――――!」

 いやだ。
 これだけはいやだ!

 口の中に煙を吹き込まれ、押さえられると思わず吸ってしまう。

 阿片……!

「I will make you experience Heaven.(天国に連れていってやる。そのほうが俺も楽しめる)」
「の……NO……」
 
 いやだ。
 これだけはいやだ!
 これは自分のものではない。
 大事な大事な。
 自分の清き真心を湛える守るべき、
 愛しき人に捧げるべきものである――!

「NO―――――!」
「You will like it in the end.(今にYESと言う)」

 た……たすけて……。
 助けて、助けてください。
 お願いです。

 先生……!

 木内先生……!




  

 6、



 先生……!
 助けてください……!

 宗一は布団から飛び起きる。
 起きあがった後、しばらく放心状態となった。
 善三の声が残響として頭の中にあり、身体がぶるぶると震える。
 師走の冷え込みは容赦なく背中にかいた汗を冷やしていった。
 夢にしてはあまりに生々しく、悲痛な救いを求める叫びが木霊し続け、ぞっとする。
 もしかしたら今現在、危険な目に遭っているのではないかと不安が押し寄せ、締め付けられる胸を押さえる。
 そんなことはないはずだった。引き揚げの最中でもう危険はないはずである。
 戦争は終わったのだ。
 だから、生き残った者はどんなに困難が待ち受けようとも必死に生きていかねばならず、善三とともであればどんな荒波でも乗り越えられると思っていた。

 ……まさか航海に問題があるのか。
 それとも、もしや……病気か……。

 待てば帰ってくるものだと思っていた。
 時間の問題だと思っていた。
 もうすぐで逢えると思っていた。

 ――助けてください!

 歯をがちがちと鳴らせる。
「……な、なんだ、善三。いったいどうしたんだ」
 凍り付く寒さゆえなのか、恐怖にて震えているのかわからないが、とにかくおさまらなかった。

 ――待つ身のつらさ。  
 
 夫の帰還を待ちわびる妻たちの気持ちがよくわかると思った。
 引き揚げ者名簿を毎日穴が空くほど見ては、見逃しているのではないかと必死に名前を追う日々で、帰ってきたらすぐわかるはずなのに、何か手違いがあったのではないかと見ずにはいられなかった。
 すぐそばまで来ていると思っていた。
 もう逢えると思っていた。
 明日こそ、明日こそ、一日一日が長く、きっと明日には……、そればかりが頭を覆い尽くし、気が狂いそうなほどである。
 胸が張り裂けそうで、息苦しい。
 潰れそうである。
 
 ……痛い……。

「違うのか、善三。お前はまだ戻らんのか。何があったのだ」
 涙がぼろりとこぼれ落ちる。
「わしを呼んでいるのか。助けてほしいのか」

 ……苦しい……。

「痛いのか、苦しいのか」
 焦りが募っていき、たまらず頭をかきむしる。
「わしは何もできない!」
 落ちた涙が布団に滲みていく。
「助けたい。助けに行きたい。お前の元へ行きたいぞ。翼があれば飛んでいけるのに」 
 今すぐ会いたい。
 この今、この今にお前の元に行きたい。
 お前に会いたい。
 お前を助けたい!
 お前を救いたい――!
 
 どれほど絶望の淵に落ちようとも、白々と明けていく空は、一日の始まりを告げており、息を長く吐く。
 分刻みに組まれた予定をこなしながらも、いつも心は取り残されたような状態だった。
 金を左右に動かし、それによって動く人間の行動を読み、遅滞なく判断をつけていかなければならず、それをすることが世の中の為になっているという実感は得られず、ただ追われているのみだった。
 隠した資産はしばらく凍結させねばならなく、それを使って事業は興せない。
 組織も分割させ、それぞれに独立するよう促した。それにより、守ろうとしていたものはあっという間に形を失い、それでも人脈を維持する活動は多忙を極めていた。十分商売として成り立つものである。
 結局は、誰かが誰かを動かし、それが社会を動かすことになる。そして、誰を動かすことができるかで、社会の中での自身の立ち位置が決まっていく。
 マ元帥が日本においてどれほどの権限を与えられているかなどどうでもいいことだった。
 それより米国経済を握る人物との接点の方がよほど重要であり、GHQが自分の商売に関与しなかったのは「呼び水」であるとわかっていた。
 ――日本など捨ててしまえ。
 議員の立場を剥奪され、自分の屋台骨であった政治団体を解散させられ、その上に、財産税で金銀を取り上げられる。GHQを笠に着て、やりたい放題である。
 国は、呼び水を切り札にすることを牽制しながらも、全てを奪おうとしていた。
 生かさず殺さず。
 それでも自分は日本人であり、国を裏切ることはできない。
 そして、春賀と志乃を危険な目に遭わせることはできないのだった。
「なあ……。善三。こんなヤクザ国家があるもんか」
 金か……。
 ふっと笑う。
 昔は、金がないがために思うようにいかなく、それなら稼げばいいと思い、一年中休むことなく夜も昼もなく夜討ち朝駆けでがむしゃらに働いてきた。
 若い頃の無邪気な自分を思いだし、あれは本当に自分だったのかと笑い出したくなる。
 あの時も……。
 亡くなった妻のしずの顔を思い浮かべる。 
 あの時も会いたかった。
 会いたくて、会いたくて、ただひらすらに会いたくて、必死に金をためていた。
 金さえあればいいと思っていた。
 ――待ってる、わたし待ってるよ、宗ちゃん。
 若き日のことが昨日のことのように甦ってくる。しずに会いたくてたまらなかった日々。
 善三の顔にしずの顔が重なる。
 どうしても同じ者のように思えてしまう不思議を素直に受け入れていた。
「なあ……、しず」  
 人を動かせるだけの金を手にしても、自分の望むものは手に入らないのだわかった。
「わしはどうしようもない馬鹿者だ。同じことを繰り返している」
 金ではなかった。
 必要なものは、その時の運だという答えを長い年月かけて知ることとなった。
「なあ、わしは何のために頑張ってきたんだ?」
 手に入れたと思っても失うばかりである。
「何のために走り続けてきた?」
 いったい何のために……。
 
 ――先生。

 善三の声が聞こえる。
 
 ――私は先生の元に帰ります。きっと帰ります。だから待っていてください。そして、その答えはその時に一緒に探しましょう。

 涙が頬を伝う。

 ……お前は、自分が苦しんでいるのにわしを勇気づけようとするのか。
 己の情けなさ不甲斐なさに嫌気が差してくる。

 ――いいのです。もっとこぼしてくださって。そのために私がおそばにいるのですから。
 
 とことん甘えたくなる。

 ――善三……!



 7、



 どさりと牢獄の部屋に放り投げられるようにされた善三は指一本さえ動かせぬというほどに身体から力を抜き、それでも瞳からは涙がこぼれ落ちていた。
 晴雄がその様子を見て、凝り固まった表情をする。
 どんな仕打ちにも善三の泣いた姿を見たことがなかっただけに、泣き濡れているあたり相当な仕打ちを受けたのだとわかり、胸が痛くなった。
「ぜ、善三様……」
 善三はその晴雄の声に安心したように反応するが、顔を向けることはできなかった。
 ただ涙がこぼれ落ちていった。
 思わず手ぬぐいで涙をふき取る。
 声もなく泣いていて、涙とともにこのまま善三が消えていってしまうのではないかと焦る。
「もう大丈夫ですよ」
 心が壊れてしまうのではないかと。
 背中を撫でると善三は眠りに入っていった。
 ほっとしながら、天井を見上げる。
 天井近くに位置する小さな窓から月光が差し込んでおり、風が通り抜けていく。
 南国の日中の暑さには閉口するが夜風は心地よいもので、非番の時はよく川岸に散歩に行ったものだ、と数ヶ月前のことを随分と昔のことのように思い、苦笑する。
 舞香花(もうかばな)という夜に咲いて朝には萎む甘い香りを漂わせる白い花を見るのが好きで、その観賞を楽しみにしていた。
 今晩も咲いているだろうか、と川の方角に顔を向け、幻想的な風景を思い浮かべる。
「善三様もお好きですよね」
 善三はすうすうと寝息を立てていて、穏やかな眠りの中にいるようだった。
 しばらく背中をさすっていたが、自分も眠りに誘われ、うとうととし、ごろりと横になる。
「よくお休みくださいね」
 瞼を閉じようとしたところ、風にのって舞香花の花びらが窓から舞い降りてくる。
 月の明かりに照らされて輝いてみえた。
「ああ……」
 薫りまで運んできて、芳香が放たれる。
 それがひらひらと善三の後頭部に降りた。
 思わず目を見開く。
 その花びらが人の形に変わっていくのだった。
 白い顔が浮かび上がってくる。
「あ、あなたは!」
 そう声を出した瞬間、優しい微笑みを浮かべ、すうっと消えていった。
「……幻?」
 気のせいかと頭をぶんぶんと振る。
 そして、睡魔には勝てずにそのまま眠りに入っていった。
 
「平井君」
 楽しそうな明るい声である。
 ああ、善三様、お元気になられた、良かった、と思いつつもそこがどこだかわからなかった。
「ほら、座らないと。始まってしまいますよ」
 その場所はすぐわかった。ラボールの講堂だった。
「何が始まるのですか」
 きょろきょろと辺りをみながらそう言うと、講堂に入りきれない人たちが外で立っているのが見えた。
「蒔田司令が特別に演奏してくださるそうです」
「え? 総司令が?」
 亡くなったではないか……という言葉を呑み込む。
「私は全く知りませんでした。きっと皆が寝ている時に練習されていたのですね」
「なにを演奏してくださるのですか」
「ヴァイオリンを。私はずっと秘書官をしていたのに気がつきませんでした。あれほど多忙に過ごされていて働きづくめだったのに、いつ練習する暇があったのかと」
 はしゃぐような話し方が可愛らしく、くすりと笑う。
「左様でしたか」
「ああ。どんな曲を演奏されるのでしょう」
 頬が上気して赤くなっているのを見て、こんなに可愛らしいお人だったかな、と善三への見方が変わってくる。
 そして、壇上にあがった人物は間違いなく第八方面軍総司令長官、蒔田大将その人だった。

 ……なんとお懐かしい……。
 そして相変わらず秀麗なお姿でいらっしゃる。

 手を胸のところで組み、わくわくと待っている善三の様子に感化され、胸が高鳴る。
 蒔田は、一礼し、音を合わせて、少し間を置いた後、弦の上に弓を走らせた。
 その瞬間にまるで風が立ったような空気の流れを感じる。
 短調で始まる主題は、物悲しいながらも魅力あふれる旋律であった。

 ――24の奇想曲。

 ヴァイオリンの超絶技巧で知られるニコロ・パガニーニの作曲によるもので、その主題を多くの作曲家、シューマン、ブラームス、リストなどが用いて、パガニーニの主題による変奏曲、パガニーニの主題による狂詩曲などとして発表している。奇才と呼ばれたパガニーニの影響の大きさを示すものである。
 演奏しているのはその24曲中の最終曲だった。
 主題が終わると変奏が始まり、いかにもパガニーニらしい超絶技巧となるが、技術をひけらかすだけのものではなく、深い音楽性には心を揺さぶられ、主題の存在感は大きく、いつまでも脳裏に焼き付く。

 善三が両手を強く握りしめ、目を瞑って聴き入っている。その手が震えていた。
 なんて悲しくて強い曲……。
 晴雄はそう思った。

 ――負けるものか。  

 そんな心意気が伝わってくるような曲だと。
 この旋律に託した思いはどんなものだろうと想像する。
 また、ヴァイオリンがこれほどまでに美しい音色を奏でるものだとは知らなかった。
 圧巻の演奏に固唾を飲む。
 軍人などならずに音楽家になるべきだったのでは、そう言いたくなるほどの名演奏で、きっと皆に一度聴いて欲しかったのだろうと思った。
 ふと横を見ると善三が涙をこぼしていて、善三の清き心が伝わってくる。

 ……ああ、善三様は、本当はこういうお方だったのですね。とてもお強くて凛々しいお方だと思っていましたが、実はこれほどに感受性の強いお方だったんですね。
 まるでこの曲のようです。
 演奏の技術を見せつけるような難易度の高さで強さを表しながらも繊細さに溢れ、そして、主題に支えられた確かさに安心感がある。
 すばらしい曲ですね、善三様。

 善三がぽろぽろと瞳から大粒の涙をこぼし、演奏する蒔田を見つめる。
 蒔田はそんな善三に向けて全身全霊をかけて演奏しているようだった。
 
 ……真野君。
 君はとてもしなやかな人だ。
 この曲にように。
 逆境の中にあっても自分を見失わないということが真の強さであると私は思う。
 だから、君は大丈夫だ。
 自分を信じればいい。

 最後の一音を弾き、弓を高くあげて演奏が終了すると、割れんばかりの拍手喝采となり、ブラボーの声が飛ぶ。
 その鳴り止まぬ拍手の音が、夜明けを告げる鳥の鳴き声に変わっていった。
 二人はほぼ同時に眠りから醒め、カプリース(奇想曲)の旋律が繰り返し頭の中で響く中、ゆっくりと瞼を開けた。

「ああ……」
 善三は満ち足りた思いに包まれ、しばらくぼんやりとする。
「……何とすばらしい夢であったのでしょう」
 溜息混じりにそう言った。
 晴雄は感動のあまりなかなか言葉を発することができない。
「ぜ、善三様。おそらく同じ夢を見ていたと思います。総司令の演奏会ではありませんでしたか」
「えっ!」
 善三は驚いたまま表情を固めたが、鳴り続ける旋律の中、得心が行ったかのようにふっと笑った。 
「そうですか。道理で。ふふふ。君が隣にいましたね」
「それとは別に昨夜善三様がお休みになった時、花びらが外から入ってきて、それが総司令の姿に変わったのです」
「ええ?」
「善三様。きっと奇跡を起こしてくださったのですね」 
「奇跡……」
「善三様をお守りくださっているのですね」
「そ、そんな恐れ多いこと……」
「お見事な演奏でしたね。実際にヴァイオリンをお弾きになったのでしょうか」
 その晴雄の問いに善三はしばらく考え込む。
 朝の光が善三の顔を照らし、光り輝くように見える。
 それが昨夜の花びらを彷彿させ、不思議な繋がりを感じた。
「おそらく士官学校に入る前までは片時も離さずにいたのでしょう。子供の頃からずっと。きっと本当にあのように演奏できるのでしょう」
「士官学校では練習できませんか」
「ふふふ。ラッパくらいは吹けるかもしれませんが。目指していたのは音楽隊ではありませんからね」
「ならば、弾きたくてたまらなかったのではないでしょうか」
「ええ。今、その覚悟を決めた時の司令のお心を察していました」
「ヴァイオリンを銃に変えたということですか」
「そういうことでしょう。そういうお方です」
 善三が溜息を吐く。
「しかし、まるでパガニーニの再来のごとくでした」
 うれしそうな表情でそう言った。
「あの、……パガニーニというのは、すみません、学がなくて」
「あの曲を作った人です。元々はヴァイオリン弾きだったのですが、素晴らしいというより凄まじいという演奏で、その神懸かった演奏に聴いた人は魂を抜かれたようになったそうです。どれもほぼ即興で作った曲だったようで、その楽譜を見ただけで私など震え上がります」
「善三様もヴァイオリンを?」
「私はピアノでしたが、大した腕前ではなく、家を出たときから弾いていません。ふふふ。逃げました。母は琴の名手でしたが」
「左様でしたか。皆様、ご習得されることが多かったのでしょうね」
「子供の頃は毎日一日中稽古稽古です。武芸、音楽、舞踏、外国語……」
「誠二様もそうだったのでしょうね」
「え? 誠二兄様?」
 いきなり次兄の名前を出されて善三は面食らう。
 晴雄は顔を真っ赤にした。
「あの。自分はご一家のことというと誠二様のことになってしまい……」
 善三は不思議そうな顔をする。
「どうして?」
「あ、あの、もしかしたら失礼なことかも知れませんが、誠二様は広島にずっとおいででしたので。あの、自分は誠二様のお世話をする役目を仰せつかっていて」
「そうでしたか」
「晴れて帰国できたらまた是非お仕えしたく」
「……………………」
 善三は表情を落とす。
 誠二がすでに亡くなっているとわかっているが、しかし確たるものはなく、それを口にすることはできない。
「広島での兄様はどんな様子でしたか」
「はい! 海軍将校になられた誠二様のおそばにあがって、可愛がっていただき、とてもお優しくて、いろいろなお話をしてくださいました」
「そう。それは是非訊きたいね。私は年に数回しか兄様に会えなかったから」
「あ、そ、そうでしたか。自分は毎日お屋敷に通っていましたので」
「屋敷? 広島に? 屋敷なんてあったかな」
「え。は…い。あの……」
「私が父に随行した時は、いつも菩提寺に宿泊して、家があったなら……」
 そう言いつつも、はっとする。
「あ……、ああ、そういうことでしたか……」
 晴雄が居たたまれない表情をした。
 善三がふっと笑う。
「頼子様のお屋形でしたか」
 誠二の生母である。
「申し訳ございません!」
「謝ることはありません。そうですか。兄様はそこに住んでいたのですか。私は子供だったのでなにも教えてもらえませんでした」 
「あの、あの……」
「いいですよ。君がそんな恐縮することではない。きっと父も母も頼子様もいろいろあってのことだろうし、兄様が母を慕う気持ちもわかります」
「あ、それは違うようです」
「え?」
「誠二様にとっての母君はあくまでも東京の奥方様のようで、頼子御方様とは親子というより主従のご関係のようでした」
「そうなの?」
「いつもお話しされていました。絹の母君と呼んでいらして」
「え? 絹の母君?」
「ええ。とてもロマンチストだと思いました」
 それは善三にとってまったく浮かんでこない兄像である。
「絹の母君……」
「誠二様がお話されていた東京の奥方様に一度お目にかかってみたいと思っておりました」
「母に……」
「帰国したら是非ご挨拶に伺いたく存じます」
 その言葉がぐさりと胸に突き刺さる。
「み、皆、無事だといいですね」
 急に寂寥感が襲ってくる。
「き、君の家族は? 東京の平井さんの甥御になるんでしょう?」
「はい! 父と伯父が兄弟です。父は海軍で」
 表情を落とす。
「大和配属でした。」
 それを訊き、善三は一瞬言葉を飲んだあと敬礼した。
「ありがとうございます。父に成り代わり御礼申し上げます」
 晴雄は丁寧に頭を下げる。
「ご兄弟は?」
「姉が。姉がひとりおります」
 善三は躊躇したが、訊き進める。
 聞いて欲しいのだろうと察したからだ。
「名前は静子といいます」
「静子……」
 善三はなぜかその名前を聞いて、とても懐かしいと思った。
「とてもいい姉で。よく面倒をみてもらって。幼い頃はいつも姉を追いかけていました」
「私も末っ子だったからそれはよくわかりますよ。兄弟はありがたいですね。姉様ですか、いいですね。私も欲しかったな」
「自分も誠二様のような兄上がいたらと思っておりました」
「ふふふ。無い物ねだりですね」
 二人はくすくすと笑った。
 こうして話をしていると、みんな、内地で無事にいるような気がする。
 新型爆弾などの攻撃を受けておらず、日常生活を送っている、そんな気がする。
「会いたいです」
 晴雄が涙ぐむ。
「母と姉に会いたいです。だから絶対に帰りたいんです」
「ええ」
「きっと生きていると信じています」
「ええ。きっと生きています」
 皆、生きている。
 父上、母上、秀一兄様、誠二兄様。
「会いたいですね」
 皆、生きていて、会える。
 そう信じたい。
「ぜ、善三様……。本当に広島は破壊されてしまったんでしょうか。もしそうでも、きっと無事に生き延びていますよね」
 晴雄の瞳から涙が流れ出す。
 それにつられるように善三の涙腺も緩む。
「ええ。きっと」
 会いたい。
 死んでなんていない。
 無事にいる。
 善三は唇を噛む。
 嘘だ。
 無理だ。 
 身内の死を乗り越えるなど無理だと思った。
 乗り越えられるなどと思ったことを訂正したくなった。
 そんな簡単に心と折り合いがつけられるはずがなかった。
 皆が夢で語ってくれることを心の支えにできても、やはりこうして会いたくなる。
 話に出されれば心の留め金を外されたようになり、たまらなく会いたくなる。
 会いたくなる。

 ――善三。

 ……父上。

 ――善ちゃん。

 …………母上!

 どうしようもなく会いたくなる。
 会ってとりとめのない会話をし、冗談を言ったり、ともに笑い、ともに過ごす……家族の団らん……。
 胸が締め付けられ、思わず自らの腕を抱く。
 皆に会いたい。
 号泣する。
 二人とも堰を切ったように泣き出した。


「おいおい。随分泣き虫な日本男児だな」
 善三と晴雄がはっとして、その声の方に顔を向ける。
「司令!」
 武井だった。
「なんだ。めそめそと泣いて。風上にも置けんぞ。ははは」
「どうしてここに」
「実は、皆が収監されるのを指くわえてみていたわけでなく、自分に全責任があるから自分を裁けと詰め寄っていたんだが、なかなかそれが通らなくて」
「では……」
「すでに刑を言い渡された者は囚人とするとのことだが、何とか減刑は約束させた。ほとんどが冤罪だとわかっている。大方、自白を強要されたんだろう」
「…………………」
「それを埋没させないためにも私が来たのだよ」
 ゼネラルを裁く権限までは与えられていないことを逆手に取った行動だった。
「だから取り調べ中の君たちは釈放だ。よく頑張ったな」
 善三と晴雄が顔を見合わせる。
「真野大尉!」
 すでに陸軍は解散して、階級も何も失われた。しかし武井はあえてそう呼んだ。
「はい!」
 善三は思わず敬礼する。
「引き揚げ船への速やかな乗船誘導、本土との連絡、下船に関わる業務遂行を命ずる!」
「は!」
 顔を紅潮させる。
「そして」
 武井が穏和な表情をする。
「生きなさい」
「え」
「生きて、生き抜いて、自分の生き様を見つめながら、しぶとく生きていきなさい」
 豪兵が鉄格子の扉の鍵を開け、善三と晴雄の名前を呼ぶ。
 そして、交代するかのように武井が入った。
「司令」
「それが最後の命令だ」
「は、はい!」
 去りがたく立ちすくんでいると豪兵に追い立てられる。
 そして扉が硬質な音を立てながら閉められた。

 
   


 


  
 


  
 
  

第二話

 1、



 刻一刻と祖国に近づいていると思うと、誰もが興奮を抑えきれず、皆は意味もなく船内を彷徨(うろつ)いていた。
 大海原を見ているとつい列島の姿を探してしまう。
 いまか、いまかと目を凝らしていた。
 故郷に帰れる、それ以外に何も考えることができなかったのだ。

 善三は、乗船名簿を到着する港に送り、その報告先が陸軍省でないことに違和感を持ちながら、それでもやるべき仕事があれば、まだ軍が健全であるような気がし、しかし、相手が復員省であることに意気消沈していた。
 ――復員。
 もはや、自分たちは軍人ではないのだった。
 わかっていても、認めたくないという思いが強く、自分が邁進していた世界の全てが崩れ去ってしまったことに、不安が押し寄せてくる。
 ――今後、自分は何を目標に生きていけばいいのだろう。
 そんな大きな不安と焦燥感に兄秀一が言っていたことが思い出される。

「善三。今、我々はこうして東京で生まれ育ち、何不自由ない暮らしをしている。それに何の疑問も感じていない。そうだな?」
「はい。おっしゃるとおりですが……」
「一昔前まではここは江戸で、しかもこのあたりは、江戸でありながら安芸の町だった」
 治外法権の外国大使館敷地のように。
「はい、左様だったようですね」
「そんなことを考えれば、先々代は、維新というその激動の時代をどのように受け止めたのだろうと思いを馳せるよ」
「御国の決めたことならば仕方なかったのだと思っておりました。そのように考えたことはなく……」
「ふ。お前もそのうち考えるようになる。世の中の動きを掴めば掴むほどにな」
「世の中の動きを掴む、ですか。今は出来事を覚えるだけで精一杯ですが」
「そんなものはいつか慣れる」
 吐き捨てるように言った。
「立場を捨てる覚悟というものがどういうものだったのか、その苦悩とは、広島に行く度に思うよ」
「広島に」
「あまりに見事な街だからね。皆、いずれの御方も英傑、英邁な当主だったと尊敬申し上げる」
「代々のご当主様ですか」
 当主の間に飾ってある肖像画のひとつひとつを思い浮かべる。
「ああ……。ええ、皆様さぞご立派だったのでしょうね。鯉城はいつ見ても雄大で、その天守に立っているお歴々のお姿を想像してしまいます」
 秀一が微笑む。
「まったくお前らしい。無邪気というか」
「兄様が難しくお考え過ぎるのです。父上は曾おじいさまについておっしゃっていましたか」
「まだ小さかったらしくあまりお話しをされなかったそうだ」
「そう……でしたか。当時のことはもう語られることはなく、歴史の一部となってしまうのでしょうね」
「歴史というのは残酷だね。そこに生きた人たちの思いを封印してしまう」
「思いを封印ですか」
「ああ、そして、その思いが掘り起こされることは二度とないんだ」
 虚しさの伝わる口調だった。
「そうなのですね。記憶もそのうち風化していってしまうのでしょうね。以前はここが安芸の町のようだったなど誰も知らないように」
「ああ。時代の流れの中に埋もれていってしまうんだ」
 そう言いながら拳を握り、胸の位置に持ってくる。
「だがな」
「はい」
「残っていくものもある」
「はい」
「それはな」
 瞳に強い光を宿す。

「誇りだ」

 いかにも誇らしげな表情でそう言った。
「誇りはいつまでも継承され続ける」
「誇りを継承……」
「ああ。なぜならば、それを我らが受け継ぎ、引き継いでいくからだ」
 その言葉を刻み込むように拳で自らの胸を軽く叩いた。
「だから、善三」
「はい」
「この先、困難に遭遇し、道を見失うかもしれない。そんな時は、必ずそれを思い出すんだ。私はそうしている」
「はい。兄様」
「真野を受け継ぐ者としての誇りを持て。いいか。誇れる自分であるんだ」
「はい!」
 
 はい、兄様と弾んだ声を出したのは、いったい何年前のことだったろうと苦笑する。
 ――誇りを持て――
 ――お前を誇りに思う――
 父の姿勢を受け継ぐその兄の言葉が大きく自分を後押しすると感じていた。
 大きな存在だった。
 母に溺愛される中、それを中和するがごとく厳しく、兄に躾られたと言っても過言でないほどであった。
 その兄にまた手を引っ張ってもらいたい。
 ひたすらそう切望するのだった。
 生きていてほしい。
   
「見えたぞ!」

 ひとりが大声で叫び、中で将棋や囲碁等の娯楽にふけっていた者たちが飛び上がるようにその声に反応した。
 どたどたと走っていく。
 善三もつられるように走っていき、デッキに出た。
 水平線のみだった景色に、島の形が見える。
 幾度夢に見たかわからない祖国の姿だった。
 薄い稜線がどこの山のものなのかわからないながらも、列島の一部であることは確かで、とうとう帰ってきたのだという実感と、止めどもなく沸き上がる郷愁の思いが身体を突き抜け、涙が溢れてきた。
「日本だ!」
 誰かが叫んだ。
 ああ、そうだ。
 日本だ。
 我が国だ。
 我がふるさとだ……!
 とうとう帰ってきた。
 誰もが涙をこぼし、身体から力を抜く。
 言葉にならぬ声でなにやら叫ぶ者、声を忍ばせて泣く者、むせび泣く者、抱き合って泣く者、手すりにしがみついて泣く者、両手を合わせて祈る者、万歳を叫ぶ者、君が代を歌う者、それぞれがそれぞれに、思い思いの果てに涙を流していたのだった。
「善三様。私は感無量でございます」
 晴雄が目を擦りながら善三のそばに立つ。 
「ええ。私もです。いよいよですね」
 やっと帰ってきた。
 何度も諦めかけた帰還だった。
「善三様には許嫁がいらっしゃるのですよね」
「え?」
「婿入り先が決まっていると誠二様がおっしゃっていました」
「誠二兄様が」
 ほとんど話をしたことのない次兄である。
「どのような御方なのですか」
「ええ?」
 顔を赤らめる。
 すると宗一の顔が目の前に現れてきた。
 今まで押さえていただけに急激に会いたくなる。
 もうすぐで逢える。
「そうですね。例えて言うならば、太陽のような人です」
 早く会いたい。
「太陽、左様ですか。花に例えられるのかと思いましたが、太陽ですか。明るい御方なのでしょうね。ご祝言が楽しみでございますね」
「祝言?」
 思わず、宗一とともに高砂に座ることを想像してしまう。 
 可笑しくて笑いがこみ上がってくる。
「その時は、是非とも東京の平井の伯父とともに私も務めます」
「ふふふ。その時は頼むよ」
 ないだろうけど。
 くくくと笑う。
 しかし、二人きりで祝言をあげるのはどうかと思った。
 三三九度をして。
 永久の契りをする。
 そう思い始めると止まらなくなった。
 そう。そうしてもらおう。
 祝言を。
 祝言をしていただこう。
 汚されてしまった身体のことなど墓場まで持って行けばいい。
 私を捧げる。
 身も心も、
 過去も未来も、
 魂も、
 私のすべてを捧げる。
 ようやく。
 ようやく……逢える。
 先生――。


 2、


 
 帝国ホテルの大宴会場にこれ以上設置は不可能であろうとテーブルが犇めく中、主賓席では、異様な雰囲気を醸し出すほどに沈黙している政治家たちが座り、始まる宴の行く末を見届けようとしていた。
 その隣に設けられたもうひとつの主賓席には、GHQの要人や紳士然とした米国人らが座し、この宴を小馬鹿にしていることが聞こえるほどに嫌みな冷笑を浮かべて会話をしており、時折失笑の声を漏らし、政治家たちは、腸が煮えくり返るほどの思いでその屈辱的な笑い声に耐えていた。
 
「本日は皆様ご多忙の中、木内、川島両家の結婚披露宴にお運びいただきまして誠にありがとうございます。では、新郎新婦のご準備が整いましたのでお迎えしたく存じます。皆様、拍手でお迎えください」

 司会役がそう言うと、歌い手が立ち、高砂を歌い始める。
 扉が開けられ、紋付き袴と白無垢姿の新郎新婦がしずしずと介添え役を従えながら厳かな雰囲気を纏って歩いてくると、皆の叩く拍手の音が大きくなった。
「おめでとうございます」
 出席者はそう声をかけた。
 新郎にとっては最大級の皮肉である。
 唇を噛みしめた。

 これ以上の茶番はない――!

 新郎として歩いているのは、宗一だった。
 その後ろを歩く新婦は、楚々としていて、美しい花嫁姿に皆は溜息を漏らす。
 しかし、主賓席の者らの視線は冷たいものだった。
 その花嫁とは、
 愛新覚羅けんし王女。
 その名は明かされず、川島恭子とした。
 それを知っているのは主賓席に座る面々のみである。
 宗一は、一刻も早くこの晒し者にされている場所から解放されたいと願った。
 
 ――悪夢だ。

 着飾った列席者は、単純に豪華な披露宴を喜んでおり、その後の余興を楽しみにしている。
 十三絃の琴が華やかな曲を奏でる。

 ――頼む。早く終わってくれ。

 宗一は拳を握りながら、そう願った。
 列席者の顔など見るものかと、一点のみを見つめる。

 ――いつか報復してやる。

 そう心に誓うのだった。

 一ヶ月ほど前、GHQ本部に呼び出され、その茶番のからくりを聞かされることとなった。
 応接室に通されると、首相と元帥が待っており、就任したばかりの首相は顔色を失い、元帥は苛立った様子でくわえたパイプを取り、大げさに溜息を吐いていた。
「君は独り者だったね」
 首相が口火を切るように言った。
「は、はい。それがなにか」
「妻に迎えてほしい人がいる」
「え?」
 何のことかと聞こうとすると、扉が開けられてひとりの女性が入ってきた。
「ひ……姫……どうして」
「この御方がどなたか説明せずとも懇意にしていたのだろうからおわかりだね」
 首相は髭を触りながらそう言った。
 元帥は憮然とした顔を向ける。
「要件はこの人の保護だ」
 苛立った口調で言うと通訳が極めて事務的に伝えた。
 すると、首相がそれについて補足するかのように口を開いた。
「中国では行方を躍起になって探している。なにせ皇帝一家の財宝の在処を知っているひとりだからな。口を割らせて公開処刑にするつもりだ。スパイだったとする国賊の汚名を着て」
 ぞくりとした。
「気の毒だと思わんか」
「しかし、小生には全く関係のないことにて」
 それだけ言うと汗が吹き出てくる。
「君は関係ないふりをするのが巧みだ。まあ、元帥のお望みとしては、米国で預かるより我が国の方が目立たないということだ」
 元帥がくくくと笑う。
「いずれ役に立ってもらいたい。そのための隠れ蓑としても日本人の妻であることがもっとも過ごしやすいはずだ」
 宗一は言葉が出せない。
「お、お断り申し上げると言ったら……」
 その言葉を最後まで言わせないように、元帥が机に掌を叩きつける。
「ノーという返事はあり得ない! 何様のつもりだ! 身の程をわきまえろ!」
 権力というものを見せつけるような態度だった。
「木内さん。もし断るとしたら、それ相応のものを用意しなければ」
 宗一は目を瞑る。
 ――目的はそこか。
「……大統領の椅子のための方策ですか」
 元帥はきっと睨みつける。
「度胸が誰よりもあるというのは本当だな。だが、乗る船を間違えん方がいい」
「ふ。日本という沈没船に乗っておりますが」
「ノアの箱舟と勘違いするなと言っている!」
「閣下。承知しました。王女をお預かりします」
 それ以上のやりとりはする気がないとばかり、宗一は言った。
 元帥と宗一の間に火花が散るような緊張感が走る。
「ほお。なかなか聡明だ」
「人というのは誠に愚かなものですな」
 宗一が射抜くように視線を向ける。
 元帥はくっと口角をあげた。
「ふん。そう相場が決まってる」
 パイプをくわえる。
「けんし王女の腹の中には子がいるそうだ」
「え」
「だから東洋人の夫が必要なのだ」
 王女が下を向く。
「父親はおそらく皇帝だろう。血統を守る為には何でもするのが高貴な血筋に生まれたお人たちだ。自分たちが特別な人間だと思いこんでいるからな」
 高笑いする。
「せいぜい可愛がるといい。守りきれるものならばな」
 人質にでも取ったような言い方である。
 打ちひしがれたような様子の王女に宗一はどう言葉をかければいいのかわからない。
「結婚するなら、木内宗一がいいと王女がご指名したのだよ。男として誉れなことだな」
 逃げ場のない牢獄に追いやられたような気がした。
「木内さん。どうかよろしく頼む」
 宗一は、顔色を失う首相が、この話のための代替えに何を掴まされたのか知りたくもないと思った。

 ――どこまで利用されるのか。


「ご歓談中失礼いたします。ここで多くの祝電が届いておりますので、披露いたします。恐れ入りますが皆様ご起立願います」
 その司会の神妙な誘導に困惑したように、ざわざわとしながら立ち上がる。
 宗一も椅子を引かれて立ち上がる。
「結婚御芽出度ウ。門出ヲ祝シ、ゴ尊家ノ万福ヲ祈ル」
 今上帝からの祝電だった。
 会場の空気が一変し、誰もが背筋をのばしていた。立ち上がらなかった米国人たちはその光景に白々とした表情をしていた。
 ――滅んだとはいえ、王族に対する天皇の大御心。
 その真実を知る者はその披露宴会場の中に多くはないが、川島男爵の娘という立場としての新婦に、皇族関係も多い列席者から羨望と賞賛を持って拍手喝采となった。

 宗一は身体に鎖を巻き付けられるような気がしていた。

「では皆様ご着席ください。続きまして多数お寄せいただいております方々のお名前をご紹介いたします」
 司会者は次々と肩書きと名前を伝えていく。
 政財界の様々な人々の名前が読み上げられる。
「それから、真野公爵家第十四代当主真野善三様より」
「!」
 宗一は思わず立ち上がり、その勢いで椅子が後ろにひっくり返る。それがあまりに大きな音だったので、皆が注目する。

 ……帰ってきていたのか。

 微動だにしない様子で、立ちすくむ。
 打擲されたかのような痛みが襲ってきた。
 真野家には平井当主代理に招待状を送っていて、会場の中にいるはずだった。
 ゆえに電報を送ったのは善三本人だと思った。

 ……わしに……。

 祝電を……。

 全てを断ち切られたような絶望感が襲った。


 3、


 名古屋港では、大勢の出迎えの人で賑わい、待ちわびた帰還に街切れぬ様子で船が入港するのを歓喜の声とともに迎えていた。
 船からもそれぞれが家族の名前を叫んでいた。
 ――帰ってきたぞ。
 ――とうとう帰ってきた!
 どれほどこの日を待っていたことか。
 言葉に言い表すことができぬほどの思いと逸る思いが渦巻く。
 デッキから階段が下ろされると歓声が湧き、降りてくる者の顔を見ようと前のほうに詰めようとするのを警官が押さえる。
「危ないですから押さないで!」
 上陸したからといってすぐ迎えの者に会えるわけでなく、検疫の検査などでしばらく逗留となる。
 それでも帰ってきたことを一刻も早く確かめたくて押し寄せていたのだった。

 そんな熱狂している様子を善三は微笑んでみていた。
「無事に着いて良かったです」
 横に立っていた船長がそうですねと言う。
 善三は最後に下船しようと思い、船長とともに見送りに出ていた。
「班長。お世話になりました!」
 皆、善三に敬礼する。
「はい。お元気で」
 今回の引き揚げ船の中で将校クラスは少数で、善三は武井の指示もあり、率先して皆の世話係を務めた。
 皆が勝手に班長と命名していた。引き揚げ班だから班長ということだった。
「いつかこの班で集まりましょうね」
 前夜の挨拶で善三がそう言うと、皆は人数分の寄せ書きをし、それぞれの階級と所属していた部隊を書き、名残惜しい気持ちを一言ずつ書き添えていった。
 同じ苦しみを体験しているからこその連帯感、自分たちが掘り進めた難攻不落の堅固な要塞を離れる時の寂寥感は、ともに過ごした者にしかわからないもので、その仲間との別れは寂しいものだった。
「また会いましょう」
 善三がそう言うと、皆は目頭を熱くして姿勢を正して再び敬礼する。
 善三は背筋を延ばし、右手をぴたっと額で止める。
 その姿に皆はしばし動きを止めて、食い入るように見た。
 隣の船長がくすりと笑う。
 眉目秀麗とはまさしくこの青年のことだ。
 きっとどの者にとってもこの瞬間は生涯忘れない出来事になるに違いない。
 そう思った。
 拳を握る。
 皆、帝国戦士だった。
 過酷な戦いを生き延びた果ての敗戦ではあったが、少しでも命を懸けて祖国を守ろうとした誇りが個々に残るといい。
 この若者の美しさがそれをよき思い出として強く印象を残すことを。
 そう願わずにいられなかった。
「皆の多幸を祈る!」
 船長は海軍式の敬礼をし、見送った。

 
 検疫所では消毒の粉を頭からかけられ、まるで害虫駆除のような扱いに皆は憤慨しつつも、これさえ終われば家族と会えると耐えていた。
 健康診断で問題ないとされた者から解放されていき、晴雄は善三より早く終わっていたが、善三のことを待っていた。
 屈辱的な検疫を終え、善三もようやく解放されて、建物から出ようとしたところ、晴雄が待っていた。
 善三がにっこりと微笑む。
「よいのに、待っていなくても」
「いえ。私には無事に善三様を東京のお屋敷までお送りする役目がありますので」
「ふふふ。どうやら平井さんが二人になったようです」
 建物の外では、犇めいていた迎えの人が好く鳴るなり、残された人が今か今かと待っている。
「では、参りましょうか」
「はい!」
 善三は心臓の音が外に聞こえているのではないかと思うほど高鳴っていると思った。
 ……先生は来てくださっているのだろうか。
 きっと、名簿から家に連絡が行っていて、先生に連絡が入るように手はずをしてくださっているはず。
 先生に連絡がいくはず。
 だから、先生はご存じのはず。
 そして、きっとお迎えに来てくださっている……。
 もしかしたら、皆で出迎えてくれるのでは。
 父上、母上、兄様がた、兄様の家族、皆が私の帰りを間ってくださっていて、そこに恥ずかしそうにしている先生がいてくださる。
 そんなことを想像してしまう。
 しかし、現実は容赦のないものだった。
「善三様!」
 迎えていたのは、平井の息子と下男の与助だった。
 そしてその横には知らない女性がいた。
「お、おかあさま!」
 晴雄がその姿を見て叫んだ。
「ああ! よくご無事で!」
 晴雄が駆け寄っていくと晴雄の母も両手を伸ばす。
「お前もよく無事で帰ってきましたね」
 すすり泣きながらそう言う。
 そして、すっと前に出た。
「広島の平井正晴の妻でございます。善三様におかれましてはご無事のご帰還おめでとう存じます。お待ち申し上げておりました」
「晴雄君には大変お世話になりました」
「もったいないお言葉、かたじけのう存じます」
「あの……、平井さんは? うちの」
 すると、平井要介が姿勢を正してお辞儀をする。
「善三様。お帰りを一日千秋の思いをお待ちしておりました。父、平井に変わりましてお祝い申し上げます」
「うん。迎えに来てくれてありがとう。平井さんは?」
「隠居し、私がその後を継ぎました」
「そうだったの。平井さんはお元気?」
「…………………」
 要介は、現況をどう伝えれば善三が傷つかないのか、考えても答えが見つからなかった。
「善三様。まずはお疲れを癒されて、今晩は宿を近くに取りましたのでそこでお休みください。愛知県知事がご挨拶したいと申し出ておりましたが、断りました」
「う、うん」
 問いかけに答えないということで、亡くなったのだと察した。
 ……父上は?
「みんな……私の帰りを待ってくれていたのかな」
 ……母上は?
「当然、首を長くしてお待ちでした。皆さん今か今かと東京でお待ちです」
 ……先生は?
「……そう」
 皆さん、というのが家族ではないということを暗に伝えていた。
 父や母について皆さんと言えるはずがないのだ。
 つまり、出迎えてほしかった人がひとりもいないという状況に次第に心細くなってくる。
 ならば、先生は?
 息が苦しくなる。
「善三様。宿でゆっくりお伝えさせてください。私も立ち話では自信がありません」
 家にいたころ、要介に世話になったことがなかっただけに言われていることが遠く感じる。
「じいや」
 与助が弾かれたように顔をあげる。
 与助が来てくれたことで少しは救われる。
 今回上陸した者で迎えがいない者も大勢いた。
 自分は恵まれている。
 善三は自分を律しようと思った。
「はい。坊ちゃま」
「この歳になって坊ちゃまはないだろう。酒の用意頼んだよ」
 赤子の時から世話をしてもらっている甘えられる存在である。せめてもの救いだった。
「いつまで経っても私には坊ちゃまです。はい。酒蔵からいい酒を手に入れてあります」
「さすがじいやだね」
 車が手配されており、それに乗り込む。
「平井君。この二人がいるから私は大丈夫です。お母上と水入らずでお過ごしなさい」
「善三様」
「ご苦労様でした。君のおかげで心強くいることができました」
「恐れ入ります」
 いけない。
 ……羨ましいなどと思ってはいけない。
 だが、寂寥感に押しつぶされそうになる。
「では、落ち着いたら東京にいらっしゃい」
「はい! 本当にお世話になりました!」
 晴雄が母とふたりで見送る中、車は発車した。
 そして車内で善三は一言も口をきかなかった。

 

波濤恋情 第四章

続く

波濤恋情 第四章

連載中です。 敗戦を乗り越え、戦後復興をしていく日本で悩みながらも生きていく真野善三、そんな善三に寄り添い、伴走するようなつもりで執筆していきます。 誤字脱字は都度修正していきますが、見つけられた際にはどうかご容赦下さい。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一話 敗戦
  2. 第二話