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さらば我が家、ようこそゴリラ女
「うっわ……これは、大変だ」
城島冥星は妹である城島海星と共に屋敷の外で立ち尽くす。
時刻は深夜の二時を過ぎている。丑三つ時もこの惨劇を見てしまえば魑魅魍魎といえども恐れをなして逃げ出してしまうだろう。
「にーちゃん」
「こら、だめ、みちゃだめ」
「燃えてる」
「うん」
「家が燃えている」
「そう」
そういいながらも冥星は天高く舞い上がる火の粉を振り払うことなく、一点を見下ろした。逃げ出した丘からは業火に焼き尽くされる我が家の光景が鮮明に映し出されている。
これが、最後。そしてこれが始まり。冥星の中で一つの覚悟が芽生えた。それと同時に、今、生きていくために必要なあらゆるデータが不足していることに眠気を覚えてしまう。
「にーちゃん、寝ちゃだめ!」
「でも、これはしんどいよ」
妹の目を隠しながら寝転がる兄を叱咤し、妹海星は屋敷の人々を助けるために動き出す。しかし兄の手から逃れることはできずに再びその体は地べたへと着陸した。
「にーちゃん! お母さんが! お父さんが!」
「もうだめ、無理、間に合わない」
「ばーやが! じーやが! エリザベスが!」
「無理、あきらめて」
泣きわめく妹を宥めながら、冥星は眠気をかみ殺し、思考を開始する。自分の悪いところは現状からすぐに逃げ出そうとすること。そしていいところは、冷静に物事を判断できる審美眼があることだ。
面接だってこれでやり通す。絶対に受かる自信がある。そしてそのあとにすぐ退社するところまで見えてしまったら、どうしようもなくやるせない。
とはいえ、若干一一歳の自分にこれからできることといえば、ひとまず大人の手を借りることだ。この過酷な現代社会を子供二人で生きていくなど不可能に近い。限りなくゼロだ。限りなくゼロといったのは、生存する確率もあるのだ。少なくとも人間をやめてしまえば、生きることはできる。
だがそれは――。
「やっぱり、いやだよねぇ……」
目の前で人間をやめてしまった愚かなりし姉の姿を見てしまえば、ああはなるまいと決死の覚悟で妹の手を握る己がいた。
なに、生きているだけで幸せさ。そんな絵空事を思わなければやっていけない。それを口にすることがないのは、決してそんなことはないと思っている証拠だ。
ひとまずは、泣きじゃくる妹がすべての涙を流し終える前に慰めることが先決か。それとも救援を要請することが先決か。いや、眠ることが先決か……。
「城島家の子供か?」
またまた現実が逃げ出そうとした自分に降りかかった災難。
だが、それは祝福の鐘を鳴らす救世主との出会いであった。
絶望の中に見出した、救いの光。その女は軍服に身を包み血と硝煙の匂いがした。
本能の赴くままに、冥星は妹を庇い前に出た。そうしなくてはならない理由があったからだ。
「なるほど、子供とはいえ城島家の血を引いている、か」
「ちょっと、お姉さんどうして僕たちの家に火をつけたのか教えてよ」
証拠など何もない。ただ本能的に冥星は目の前の強敵に対して牙を向けた。大人と子供、力の差は歴然。例え女であってもその体格差は倍以上だ。しかもこの女、かなりデカい。
直感的に冥星は自らの天敵と出会ったことを悟る。こやつは決して救世主などではない。悪魔の類だ。どうやら己は完全に星から見放されているようだ。ああ、こんなことならあの時昼寝をしておくべきだったか。しかし妹にせがまれ、屋敷を抜け出したからこそ、自分の命は救われたのだ。この抗いがたい倦怠感に襲われつつ、冥星は自らの運命を嘆く。
「……こい、これから私がお前たちの親だ。お母さんと呼べ」
「……は?」
女は顔色一つ変えないまま、冥星の前に歩み寄った。不思議と恐怖はなかった。あるのはただ、理不尽なまでに翻弄される我が人生の嘆きのみ。
「オカー、サン?」
「そうだ、海星。さぁ、その汚らしい鼻水を、兄の服で拭うのだ」
「うん、ごしごし」
「ごしごしって、ちょっと海星、うわぁすっごい……」
さっそくまともな衣服をなくしてしまった冥星を横目に、巨大な女は海星の手をしっかりと握る。女の手は、指先が長く、ほっそりとしていたが、凄惨たる傷跡の数々が歴戦の戦士を想像させる。
「さぁ冥星、お前はどうする? ここで朽ち果てるか、それとも私をお母さんと呼ぶか、選ぶがいい」
「マイ、マム。残念ながら、僕たちは母親という物を知らなくてね。どういった存在なんだい?」
「お母さんと呼べ。そうだな、一言でいうなら、愛の化身だ。お前たちに愛を教えるのが、私の成すべきことだ」
「マイ、マザー。愛とはまた、抽象的だね」
「そうか? ならば初めにお前に教えてやろう、これが私の愛だ――お母さんと呼べと言っているだろうが!!!」
ああ、愛とは何たる甘美な響きであろうか。その言葉とは裏腹に自らに降りかかる悲劇的な展開を冥星は把握できずにいた。
家が燃えた。燃やした奴の仲間に拾われ、お母さんと呼べと強制され、愛を教えてやると拳骨を脳天に直撃。
神様、これは試練でしょうか? 今までダラダラと過ごしてきたツケなのでしょうか? ですが、私はまだ一一歳の洟垂れ小僧であり、普通なら、仲間とカードゲームをしたり、万引きをしたり、非行に走り、少年院にぶち込まれてもいい年頃なのです。
神様、これはあんまりではないですか? 豚箱にぶち込まれてもいいのです、悪の秘密結社に拉致られて身代金を渡せと脅されてもいい。金ならいくらでもあります。あ、全部燃えてしまったか。
ですが、神様、私は二度と、あの拳骨を食らいたくありません。愛なんて、くそくらえ!
城島 冥星は人生を謳歌する
城島冥星は、人生を謳歌している。自分には財力があり、権力があり、また生まれ持ったカリスマ性があることを自負している。だからこそ、努力という文字は己にとって無関係であると知っている。
人間という生き物は単純だ。己のように何もしなくとも全てを手に入れられる者。汗水垂らしながら働き、それでも欲しいものに手が届かない凡夫。
後者でなくてよかった。常々そう思う。なぜなら僕の夢はカリスマニートだからだ。カリスマニートとはどういった者であるかをここで説明するには残念ながら作文用紙が足らないため、省略させてもらうが、つまりは飯を食って寝るだけの生活を永遠に繰り返す素晴らしき日々のことである。何の生産性もなく、作ってもらったご飯をおかわりしても怒られることなく、昼まで寝ていても拳骨を振り下ろすゴリラのいない生活。妹から、ゴミを見るような目で見られることのない生活、は別に気にしていないからいい。
つまり、僕は何もしたくない。故に、将来の夢はカリスマニートなのである。これは確定された未来なのであり、誰にも我が覇道は邪魔できないのである。これを読んだ先生やゴリラは間違いなく僕を叱るだろう。だが決した僕は屈しない。なぜなら、ニートとは社会のゴミだからだ。ゴミが何をしようが勝手だ。僕はゴミであることを受け入れているのだからそれでいいのだ。僕が何もしなくても世界は回っている。それでいいのだ。これでいいのだ。
敢えてもう一度言わせてもらう。僕の夢はカリスマニート。ただのニートではない。すべてのニートの上に立つ、王の中の王なのである。刮目せよ、愚民ども。
五年三組 城島 冥星
「ぎゃはははははははははは!! いーひっひっひっひ!!」
気品も教養もない下衆な笑い声が放課後の校舎に響き渡る。場所は体育館脇の男子トイレ。掃除したくない場所ランキングナンバーワンに常にランクインしている。ここを訪れる者は限られている。
一つめはいじめだ。誰に近寄りたくないということは誰も来ないということ。陰湿な輩が集うにはうってつけの場所なのだ。
二つめは掃除当番に抜擢された哀れな男たち。たかがデッキブラシ程度で落ちるはずのない汚れをひたすら磨かなくてはならない苦痛。この学校の先生たちは我々を囚人か何かと勘違いしているのではあるまいかと、冥星は常々疑問に思っている。
三つめは、誇り高き罰則という名のトイレ掃除だ。これは非常に名誉なことなのだ。世間に対し反旗を翻した英雄が受ける罰。もちろん冥星が受けているのはその誇り高きトイレ掃除だ。今日も落ちるはずのない染みをひたすら磨く。なぜなら自分の行為に決して後悔などないのだから。
「お前もこりねぇやつだな冥星! 先生怒らせて楽しいか!?」
「楽しいわけがない。ただ、俺の高尚な理想論を理解できないことが、悲しい」
「ぎゃははははははは! 相変わらずバカだなお前は!」
「……そういう隼人はなんて書いたんだ?」
「俺? 聞きたいのか? どーしよっかな~!」
「めんどくさっ! いいよやっぱ聞かない」
「大統領だ! すげーだろ!? プレジデント! プレジデント篠崎はやーと!」
「出たよ、単細胞。でも、それなら別に怒られることじゃないよね?」
「んにゃ、大統領が何していんのかわかんねーから、とりあえず世界征服しますって書いた」
「……だろうね」
なぜこんな男と共にトイレ掃除をしなくてはならないのか。なぜこんな男と同じ息を吸わなくてはならないのか。世の中は間違ってばかりだ。そんな些末なことを考えていたらきりがいないことはわかっている。だからこうして冥星は悪友、篠崎隼人と共に悪臭漂う便所掃除に勤しむ。もちろん、自分はバカなどでは決してない。バカは目の前の下品な男だけで十分なのだから。
「でも、お前、よくあんなくだらねーことつらつら難しい言葉で書けるよな! そこだけは尊敬するぜ!」
「……なんだと? 隼人、もう一度言ってみろ」
さすがの冥星もその言葉にはカチンときた。何がくだらないだと? 自分の夢をくだらないと一周するバカに冥星は怒りを覚えた。自然と体は相手へ接近する。デッキブラシを前方に固定し、態勢を整えた。
「てめーの夢が、くだらねぇっつたんだよ」
隼人は冥星を嘲笑いながらデッキブラシを片手に担ぐ。怒り狂った獣を仕留める狩人のような目つきで敵を睨み付けた。
既に雌雄は決している。己と悪友の道は違えた。ならばやることはただ一つ。
「はぁぁぁやぁぁぁぁとぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「めぇぇぇぇいぃぃぃぃぃせぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
鳴り響くデッキブラシの打ち合う音。戦士たちは己の任務を忘れ、ただ本能の赴くままに敵へとぶつかる。実はちょっとめんどくさくなっていたが、始まってしまった戦いを中断することは決してできない。いや、別にできるが、男としてそれはどうかと思うわけで。
「いいかげんみとめちまえよ! お前はバカだって!」
「絶対に! お前にだけは言われたくないわ!」
「んだとぉぉぉぉぉぉ!?」
「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
なんだかんだで楽しい。間違いなく隼人のほうが数倍バカであることは事実なのだが、このやりとりを心地よいと思っている自分も確かにいるわけで。
こんな生活も、悪くない。そう思い始めている自分が、いた。
※※※※※※
「言いたいことは、それだけか?」
「なに? 何か文句でもあるの? 悪いけど食事中だから。食事中は私語を慎めという城島家の掟に従い、俺はこれから何もしゃべらないぞ」
「秋坂流、奥義、熊殺し」
「ぐぎぎぎぎぎぎぎ……ただの絞め技じゃないか……」
テーブルを強く叩きタップタップ。冥星たちの夕食は今日も賑やかである。話題はもちろん、悪名高き学校の問題視である城島冥星と篠崎隼人のボケナスコンビだ。一日一回は教室の外に立たされ、一日一回はグラウンドを走らされ、一日一回はトイレ掃除をさせられるという、まるで学校へ罰を受けに行っているかのような生活を送っている冥星に、秋坂明子は怒りを通り越して呆れてしまっていた。
「冥星、私が編入前になんて言ったか覚えているか?」
「もちろんだ」
「言ってみろ」
「元気で頑張れ――以上」
「以上、じゃない! 冒頭だけだろうが! いいか? 決して問題を起こすことなく、元気で明るく品行方正な学生となり、勉学に励むよう努力しろ、だ」
「努力とか、愚民がやることだ。俺には関係な、が!!」
「クソガキの分際で生意気言ってんじゃない! もう、お母さん悲しくて悲しくて」
「……誰が俺の母ちゃんだよ」
「あ!?」
「アイスルカアサマゴメナサイ!」
理不尽な暴力に対しては断固抗議したいが、目の前の女は実質自分の後継人であり、飯を食わせて寝床を用意してくれている人だ。そんなゴリラに対して多少の恩義を感じないでもない冥星は唯々諾々とその言葉に従うしかない。
「お前、今私をゴリラだと思っただろ?」
「そんなわけ、ないでしょぉぉぉ」
「だったらその胸を叩くようなしぐさをやめろ腹立つ!」
拳骨の雨あられを甘んじて受け入れる冥星。これもすべては飯と寝床のため。こんな暴力女と共に共同生活をしなくてはならない自分の身を呪う。
だいたい初めからこの明子という女からは気品を感じなかった。城島家というスーパーボンボンのお坊ちゃまである自分にとっては愚民にも等しい女だが、どうやら先祖がえりでもしたのか、時々本当に野生動物のようなしぐさをするので始末困る。特に寝ている時なぞ、全裸になりいびきをかき、抱き着いてくるのだ。さすがに死にたくなったので別々の部屋で寝ることを提案したが。
「頼むから、普通に過ごしてくれ……これ以上は私の頭を悩ませるな」
「俺は普通だ。ただ、学校が俺の夢を否定したから断固抗議したまでだ。ありえない。教育機関というのは子供の夢を壊すのか?」
「カリスマニートなんて職業はこの世に、ない!」
ゴリラの顔がゼロ距離で冥星を睨む。さきほどからゴリラゴリラと言っているが、この女、デカいこと以外は至って普通の女である。具体的に言えば胸のデカい、美人だ。冥星にとっては女という存在は、ただ飯を作ってくれること以外に生産性を見いだせないため、どんなに接近されようがどうということはない。普通の男なら彼女との共同生活を喜んで受け入れてくれるだろう。
「ごちそうさま」
「海星、もういいのか」
「いい、病気が移るから部屋にいる。何かあったら呼んで」
「あ、おい……」
実はもう一人この夕食には席を共にしている者がいたのだが、黙々と食事をとっていたため敢えて紹介を控えていた。
冥星の妹である、海星だ。兄と同じく白い髪。それを肩まで伸ばした学校でもかわいい子ランキング一位を争うほどの人気がある。もっとも、兄の方は彼氏にしたくない男ランキング一位を争っているから泣ける。
「……なんだよ、飯はあげないぞ」
「死ね、くそ兄貴」
バタンと勢いよく絞められた襖を一瞥したあと、冥星は己の食事に戻った。妹の罵倒などなんら気にすることはない。そんなことでは腹は膨れないし、どうでもいいからだ。
「……お前たち、昔からあんな感じなのか?」
「なんだよ、母さんのくせにそんなこともわからないのか」
「……このっ、私はなっ!」
「いいんだよ。めんどくさいからこのままで。別に今更仲良くなろうとかキモいでしょ。それに、兄妹ってこんなもんだよ」
「……お前はそれでいいのか?」
「いいよ、別に。俺は、何も感じないし、何も気にしない」
黙々と丼に盛った米を胃に叩き込む。その食欲には、明子も感服するほどだ。冥星という少年はとにかく食う、寝る、食う。それでいて、食った分は動こうとせず、寝た分はまた寝るまでごろごろしている。一言でいえば怠け者。二言で言えば、社会が生み出した屑である。
面倒なことに、少年は自らが社会のゴミだと気が付いていることだ。それでいて、屑の王、「カリスマニート」とやらを目指しているから本当に、殺したくなってくる明子だった。
「見ろ、海星の通信簿だ」
「おお、オールファイブ」
「そしてこれが貴様の通信簿だ」
「ナンバーワンにならなくていい。もっともっと特別なオンリーワン」
「死ね!」
「暴力反対!」
たかが通信簿如きがなんだというのか。所詮、大人が判定した独断と偏見による評価ではないか。ああ、だが悲しいかな。それこそが現代における子供たちの価値観なのである。個人としての評価など一ミリたりとも役に立たない。親はかみっぺらを見ながら自らの子供の成長を見届けるしかないのだ。やがて、子供は個々としての特性をなくしていき、会社は学歴で評価し、ニートは社会のクズだと決めつける! 最低の世の中だ!
冥星は丼に突っ込んだ顔を根性で起き上がらせ、天敵、秋坂明子の顔を睨み付けた。
文句の一つでも言ってやろう。実際この女は暴力だけで口なら自分の方がいくらでも回る。たまには本気で泣かせてやることでどっちが上なのかわからせてやることも必要なのではないか。
そう思い、冥星は口を開こうとした。
「うっ……うっ……うっ……」
「もう、泣いている、だと!?」
明子は口を押えながらよよよと体を崩し、ボロボロと大粒の涙を流していた。さすがに冥星もその姿には狼狽し、どんぶり飯を放置し、ようとして全部口の中に詰め込み、咀嚼しながら明子の元へ寄っていく。
「くちゃくちゃ、明子、くちゃ、どうした、くちゃ」
「食いながらしゃべるな」
「明子、どうした?」
「なぁ、冥星、私は、お前たちのお母さんにはなれないのか?」
「初めに言っただろ。俺たちは母親っていう物を知らないって」
「冥星は言うことを聞かない。海星は心を開かない。私はどうしたらいいんだ……」
「とりあえず……一杯いっとく?」
「死ね。まじめに聞いているんだぞ」
こっちだって真面目に話そうとしている。そう言いかけた冥星だが、明子が本気で泣いているところを初めて見たため、己を見つめ返すことにした。
拾われて約二年。とりあえず生活を共にすることに違和感がなくなってきたわけだが。
果たして目の前の女を、自分は母親と認識したことがあっただろうか。
否だ、飯を作るだけの女。寝床を整えてくれるだけの女。あとはただのゴリラとしか認識していない。
これでは明子が悲しむのも自明の理。冥星は深く反省した。
「明子、ごめん、俺……」
「冥星! わかってくれたのか!?」
「これからは、明子のこと、役に立つ女として見ることにするよ」
「……秋坂流、奥義、虎殺し」
「ただのジャーマンスープレックスだろぉぉぉがぁぁぁぁぁ!!」
頭部を激しく損傷した冥星は改めて思う。
デカい女と暮らすのは大変だと。
こんなランキングあったら不登校になってるよね
「なんだよ、この彼氏にしたくない男ランキングって」
「文字通りだろ。彼氏にしたくない男ランキング一位、城島、冥星」
「そして二位、篠崎 隼人」
「理不尽だな」
「実に」
男二人はそろって教室の掲示板に張られたカラフルな色鉛筆で書かれた画用紙を睨む。何の権利があって毎月こんなものに名前を書かれなくてはならないのか。いや、その前に自分が彼氏にしたくないランキングの首位飾っていることに納得がいかない。断固抗議したい。
「つまり、あれか。冥星は不細工ってことか」
「黙れ、ブサイク隼人」
「……やるか?」
「……こいよ」
ちょっと汗をかいた後再び男たちは画用紙を睨む。見れば見るほどムカッとする色鉛筆だ。この、花丸で書かれているところが、またなんとも憎い。色使いが巧みで殴りたくなってくる。女子っていうのはこういうところに細かい。ファックである。
「俺は決して不細工ではない。なぜなら、それは許されないからだ」
「なぜ?」
「許されないんだ。主人公が、不細工など」
「誰が主人公だよ……」
間違いなく、こいつらがランキングに選ばれるのは、言動がキモイからだ。そもそも冥星はモテたいなどと一度も思ったことがない。授業中に爆睡するし、給食はバカ食いするし、何より、女の子に優しくない。必要とあれば暴力で訴えるのもやぶさけではないと思っている。男女差別をなくしていくのが、目標なのだ。レディーファーストとかくそくらえ。
「でもな、隼人は、不細工だろ? な?」
「えっ……私?」
「おい、通りすがりの女子に変なこと聞くな!」
「独特な造りだよね。美術の本に出てきそう」
「死ね、失せろ、くそ女」
腹を抱えて笑ってしまう。そういう言動がランキングにランクインしてしまう原因ではないか、とは口が裂けても言えない。自分が同じことを言われたらきっと今頃あの子は鼻に割り箸を突っ込ませて泣かせている。
「ところで、隣の彼氏にしたいランキングってのは何のかね、明智君」
「うむ、実に興味深いね。一位は、え~と有原 達也か。どうでもいいけど、小説を読んだことすらないのにその名前を使うな、バカなんだから」
「達也か……あいつなら、まぁ、納得かな」
「おいおい、それはどういうことかね、ワトソン君」
思わず冥星も小説の人物をネタにしてしまった。あの隼人が他者に対して一歩引くなど、今まであっただろうか。つまり、隼人はその達也とやらなら負けても仕方がないと思っているのだろうか? 大統領になりたいとか言ってた癖に!!
「だってよ、あいつ、すっげぇいいやつだぜ? この前消しゴムで練消し作ってたらなくなっちまって困ってたら貸してくれたんだぜ? めっちゃいいやつ!」
頭が痛くなってきた。隼人が幼稚な遊びに勤しんでいることも、単細胞過ぎることも。良くも悪くも、隼人は素直な奴だ。
「それに、スポーツでも特にバスケはあいつ、リトルリーグじゃ代表に選ばれてるし。勉強は、まぁ一位はお前の妹だけど、二位だし」
「だからどうした? つまりそれでお前はあいつに負けたとでも言うつもりか?(ドヤ顔)」
「……いや、なんでお前がドヤ顔なのかわからん」
「爆ぜろリア充! 弾けろ爆発しろぉ!」
「やめて。負け犬みたいだからやめて」
とりあえず奇声をあげて叫んでみた冥星だが、すっきりしただけで根本的な解決には至ってない。深呼吸し、IQ200(になる予定)の頭脳をフル回転させた。やがて冥星はにやりと悪人じみた笑みを隼人へと向ける。若干距離を置き、隼人は冥星の答えを待った。
「いいことを、思いついた」
「いや、いいことじゃねーだろ絶対」
「黙れ。こいつを、仲間に引き込むぞ」
「おお! 達也をか! たのしそーじゃねぇか!」
「そうだろうそうだろう」
「で、どうやって仲間に誘い込むんだ?」
「そんなのは至極簡単。古来より、小学生が友達になるための方法など、一つだ」
隼人は冥星の答えを聞き、なるほど、と思いつつ、やっぱりこいつ、バカだなぁ、と親友のドヤ顔を温かく見守った。ちなみに有坂 達也は隼人の知人であり、隼人自身は特に何もする必要がないことは、もちろん冥星には黙っておいた。
「たぁぁぁぁのぉぉぉもぅぅぅ!!」
場所は学校の体育館。放課後のクラブ活動が活発なこの学校では夕方も子供たちの姿がちらほらと目に映る。普段、チャイムと共に全力で家に帰るはずの冥星が、この時間帯に学校に残っているのは奇跡に近い。いや、既にめんどくさいし、お腹も空いたし、帰りたいのだが、またまた宣言した手前、そんなことをしては男が廃る、らしい。
「じゃあ……さっさと仲間にして、帰るか」
「お前、めんどくさくなったんだろ。相変わらず適当だなぁ」
どうとでもいえ、という風に隼人を無視し、勢いよく体育準備室のドアを開けた。腹が減ると途端に機嫌が悪くなる冥星を止められるものは、明子ぐらいなのだ。
「なに、お前ら?」
当然のようにバスケットシューズを履いた少年たちは入ってきた異端者を訝しげに見下ろした。
なんだろうか、この醸し出されるイケメン臭は? バスケットボールをしているだけでここまで差をつけられるというのか? まさか、バスケをするとイケメンになるというのか!?(注:そんなことはあり得ません)
冥星は出鼻を挫かれたように恐縮してしまった。自分は異世界に迷い込んでしまったような錯覚を覚えた。ここは違う、ここは俺の場所じゃない。具体的に言えば、今すぐに逃げ出したい!
「隼人じゃん、どした?」
「よお、達也。お前にケンカ売りたいってやつがいてさ」
「おぃぃぃぃぃぃぃぃぃ隼人!! 裏切ったな!!」
突然目の前に現れたブ男(冥星目線)に対抗心むき出しの冥星を余所に、隼人はその少年と親しく話していた。すべては親友に嵌められた罠だということに気が付き、目の前が真っ白になる。所詮、人間は一人の生き物だ。ああそうだ、群れるのは嫌いさ。俺は野生の一匹狼だ。冥星は遠い目をして外の山々を見つめた。野生に、帰ろう……。
「お前、冥星だろ? 外部生の?」
「誰だお前は? 人のことを聞く前に、まず自分の名を名乗れ」
「……ちょっと、冥星さん? あんた何しにきたか、わかってる?」
いきなりケンカ腰で啖呵を切る冥星を涼しげな表情で興味深く見つめる達也。なるほど、このクールなリアルフェイスを叩き壊すのが、俺の宿命か、と冥星は己の成すべきことを嘆いた。それは、女子の幻想を砕くということ。達也という男に敗北の二文字を与え、己はその座を奪い取る。完璧な策略だと冥星は自分の智謀に酔いしれた。
「ごめんな、達也。こいつ、バカなんだ」
「あはは、いいよ別に。それより、さ。ケンカ、しにきたんだろ? 遊ぼうぜ、冥星、隼人。ちょうど暇してたんだ」
「呼び捨てすんなリア充!!」
「すげぇ……冥星……自分のフィールドへ知らずに誘導しちまった! さすが愛すべきバカ!」
かくして、男たちはここ集う。のちに、ズッコケ三人組(仮)と呼ばれる男たちの友情はその後、何十年にも渡り続くのだった……最悪なことに。
※※※※※※
いったい、誰が宣伝したのか。体育は熱狂に包まれていた。ありえない、さっきまでガラガラだったはずのこの空間。周りは一気にピンク色の空気を放っていた。残念ながら、その標的は冥星や隼人では『もちろん』なく――――。
「「「達也くーーーーーーん! 頑張ってぇ! そのキモ男たちをやっちゃってぇ!」」」
横断幕まで用意した応援団が勢ぞろいし、達也の英姿を拝まんとしている。当然、冥星と隼人は緊張し、冷や汗で背中はびっしょりだ。どうして、なぜ、そんな語彙しか思い浮かばない己の頭に冥星は動揺していた。
「冥星、これはもう、やるしか、ねぇよ」
「そんなことはわかっている! だが、なぜだなぜ、よりにもよってバスケ!?」
「そりゃ、お前……バスケ部だからに決まってんだろ」
己のフィールドに誘い込んだと思っていた冥星だが、どうやら誘い込まれていたのは自分の方だったようだ。達也はボールを指で回しながらこちらを涼しげに見つめていた。
汚したい、その笑顔。そんなキャッチフレーズが冥星の頭を掠めるが、しかし汚されるのは間違いなく自分の名誉であり、この死地を回避する手段は、ない。
「冥星、そろそろ始めようぜ。1on1 わかるよな?」
「タイマンですねわかります」
「ちげぇよ、冥星……ボールをゴールにいれたり、奪い取られたりしたらディフェンスに変わって、相手がボールをゴールに入れたり、奪われたりしたら今度はお前がオフェンスに変わる。で、一〇点取った方、つまり五ゴール決めた方の勝ちだ」
「なるほど、つまりスラムダンクを決めればいいんだな」
「だめだこいつ……緊張して足が竦んでやがる」
親友の狼狽ぶりには流石に同情の余地がある。まさかここまで大事になるなんて思ってもみなかったのだろう。勢いとは恐ろしいものだ。これから冥星はという男は彼氏にしたくないランキングの首位を卒業するまで、毎月、永遠に、飾られるのだと思うと……笑って、泣いてしまう。
「げっ……まずったな……」
「おい、これ以上に何がまずいんだよ」
「入口、見てみろよ……」
「あん? ああ……で?」
「いや、別に……」
「あそ……」
男たちの気持ち悪いやりとりの原因は、入口にいる少女たちの姿だ。冥星は別段気にしている風ではないが、隼人にとって、できればこの悪だくみをしている場面では会いたくなかった人物が混じっているのだ。
「くっそ……腹減って、めぇ回ってきた……」
突然のエネルギー不足という最悪な状況下に置かれた冥星。友人はさっきからもじもじしていて使えない。いや、最初から隼人など戦力に数えた覚えなどないが。
この、冥星。バスケットボールなど初めてでござる! とでも言いたげな杜撰なフォームで体育館の真ん中へ立つ。
「冥星、あれは妹さんかな? 君と同じ真っ白な髪の?」
「カバディ、カバディ え?」
「海星だっけ、君たちは双子なの?」
「カバディ、カバディ へ?」
「……一応言っておくけど、バスケはカバディって叫ばなくてもいいからね」
「そ れ を は や く い え !!」
達也は怒る冥星をおかしそうに笑いながらも、真剣な眼差しで血走った目をしている冥星を見つめる。その表情に一切の余裕はない。勝負という言葉には全力を持って臨むのが有坂 達也という少年なのだ。例え、冥星が図無の素人だとしても関係ない。ケンカを売られたら買うのが男の常識。達也は意外と暑苦しい性格なのだ。
「ところで、この勝負は一体なにが目的なの?」
「? え~っと……勝ったら俺の仲間になれ――以上」
「……そんなことのためにここまでしたの? ほんと、冥星って面白いね」
「いや、こんな大事になるとは……もちろんすべて計算済みだ!」
「じゃあさ、俺が勝ったら何かあるの?」
「へ?」
「だってフェアじゃないでしょ? 俺も、何か望んでいいの?」
「……俺の体は、だめだぞ?」
「いらないよ……なんでクネクネするの」
とりあえずボケなくてはやってられない冥星はなんとか自分のペースに持ち込もうと話術を駆使する。それが通用したのもつかの間だった。達也は冥星が驚くような望みを言葉にした。
それは、決して冥星には理解できない思考。しかし、全人類が、望んでやまない囁きであり、全ての人類が享受すべき権利がある素晴らしき言葉。
「一応、許可はとっておこうと思って」
「……関係ない。好きにしろ。つか、そんなことでいいのか?」
「うん……どうせバスケもこれで終わりだし、いいんだ」
最後の言葉は、冥星の耳に届くことはなかった。ただ。有坂 達也という男はこの勝負に全力を持って臨むことは確かだ。その相応の対価を払ったつもりだ……多分。
男と女。少年と少女。
冥星は知らない。この世に、食欲や睡眠欲に勝るほどの狂おしい感情があることを。
冥星は理解している。それは時に悲しみと絶望を振りまく感情であることを。
だから冥星は知ろうとしない。愛という不確定な要素を。
「いくよ、冥星」
「こい、達也……お手柔らかに」
とりあえずさりげなく手加減してね、という可愛らしいお願いが届くはずもなく、熱狂に見舞われた体育館で、男たちの熱い戦いが火ぶたを切った。
こうして城島冥星は、彼氏にしたくない男ランキング一位から二位へランクインするのだった。なぜなら、あの有坂 達也に無謀にも勝負を挑んだ勇者として女子たちの情けを勝ったことが一つの要因で、もう一つは、篠崎隼人という少年が冥星の応援もせず逃亡したという噂が広まり(発信元は白い髪の男)一気に票を稼いだことだ。
そして、三位には――。
「どうよ達也、今の感想は」
「あはは……この画用紙、破りたいね」
「「だよねー」」
三バカトリオとして結成された男たちは掲示板に書かれた不名誉極まりないランキングを破り捨てた。麗しき友情と、揺れ動く複雑な少年少女たちの物語は、始まったばかりだ。
男はつらいよ
「冥星、言いたいことはそれだけか?」
「…………がつがつがつがつがつがつがつがつ」
「今日、海星が告白されたらしい。その許可を、お前がやったらしいな」
「恋は自由にするべきだ。愛は誰しもが享受されるべきだ。そういったのは母さんだ」
「……海星は、逃げたらしいな」
「恥ずかしがり屋のヘタレか、あいつは」
パァンと丼ごと冥星が吹き飛ぶ。張り手一つでこの威力か。飛んでいく自分の体をぼんやりと思い浮かべながら、今日は本気だなと冥星は強かに予想した。
明子の目は怒りに満ちていた。それは、出会ったとき、冥星たちに向けていたあの目と同じくらい殺気を帯びていた。気にすることはない。生きるために、自分が必要なことはただ、食すことだ。それがわかっていれば大丈夫。例え、妹が部屋から出てこなくても、明子が怖くても、自分の頬っぺたが赤くはれ上がってお嫁にいけないくらいになったしても何ら気にすることはない。
全ては、一つの成すべきことの為に。
「お前……海星が今どんな状況か知っているはずだな?」
「対人恐怖症、男は特に、顔を合わせただけで意識を失う」
妹、海星は特別教室でカウンセリングを受けつつ学校に通っている状態だ。いわば、保健室登校というものか。なぜ、そんな状態になってしまったかといえば、一言で言えば精神的なショック。自分の家が燃やされ、愛する家族は焼け死に、残されたのは鬼畜兄貴のみときたら、殻に閉じこもりたくもなる……と明子や医者が言っていた。不愉快極まりないが。
「なぜ、こんなことをした?」
「いや~勝てると思ったんだけどなぁ……」
「なぜ、こんな真似をしたのかと聞いている」
殺人。殺戮者である。秋坂明子は一体その生涯にどれだけの人間を殺してきたのだろうか。冥星は明子という女に少なからず恩を感じている。それと同時に得体の知れない何かが常にこの女には纏っていることも、知っている。
謎だ、この世界は謎で満ちている。なぜ、自分は怒られていて、弁解を命じられているのか。なぜ、妹はここまで脆弱であり、自分が守護者にならなくてはならないのか。家族とは何のなのか。愛とは、すなわち?
「いつまでだ」
「なに?」
「いつまで、俺がこいつの面倒みなくてはいけない」
「お前は、海星の兄だ。それが兄の義務ではないのか!」
「否である。兄とは妹のおもちゃではない。俺はめんどくさいことが大嫌いだ。加えておもしろいことが大好きなのである。妹は俺の生活範疇の中で一番目障りな対象だ。なぜ、生きている? そう思うことすらある。そんな妹にも利用価値があった」
突然首を絞めつけられた。明子が己の首をへし折らんばかりに絞めつけているのだ。脅しであることを読めてしまえば、なんら気にすることはない。ただ、気道を確保できないため、なかなか喋らせてくれない。困った暴力女である。
「これ以上私を怒らせるなよ、冥星」
「DVは、犯罪だ」
必死で紡いだ言葉は、少年少女を虐待から守る魔法の言葉。子供たちは社会の宝であり、命は尊いものだ。大人はそれを壊すことは決して許されない。厳格な社会に守られた神にも等しい子供という命は、冥星のような屑を守ることもできるのだ。
「冥星、あんたは、やっぱりあいつの弟なんだね」
「おいおい……それは言わない約束でしょお母さん」
下手なジョークにわずかな平穏が戻った。しかし、冥星の心は決して穏やかではない。あんな女と比べられるなど、吐き気を催して、ご飯が三杯しかお代わりできなくなってしまったではないか。
「私は……どうしたら……」
それは、祈りだ。
死者に対する祈りが明子の口から漏れ出してくる。
愚かしく、悲しい言葉の綴りを聞いていると、イライラしてくる。
冥星は黙って食事を再開する。何も響かず、何も感じず、黙々と。
生きるのだ。それこそが、己の成すべきことを成すための唯一の方法である。
冥星は努力をしない。する必要がないからだ。それは呪いであり、約束だ。
絶対に頑張らないという、約束――――。
「ってことで勘弁してくれ」
「冥星……そういうことは早く言ってよ。なんだか、悪いことしちゃったね」
「いや、いいんだ。これはこれで」
「結局、達也の願いは叶わず、か」
三人はあの日からいつも一緒である。なんとなく惹かれあうものがあるのか、それとも冥星という少年のカリスマ性によるものか。いずれにせよ、少年たちは小さな王国を築いた。一人の王様……として認識しているかはともかく。実質的なリーダーは冥星という風になっている。なぜなら、面倒事は冥星に『押し付けて』しまえば大抵なんとかなるからだ。主に、冥星の罰という労働力を犠牲にして。
「あんなやつのどこがいいんだか……」
「冥星はさ、お兄さんだからわからないんだよ。なぁ隼人」
「あ? ああ……まぁ男子に人気があるのは確かだな」
「まじかよ……世の中、間違っているぜ」
なぜ、兄である自分と妹に天地の差があるのか。永遠の謎ではあるが、決してあんな妹のような性格になることだけは御免こうむる。
弱すぎて……生きていけない。それは、屑よりもひどい生き物だ。
「まぁでも、隼人は、ほら」
「お、おい!指差すなよ、ばれんだろ!?」
「いいじゃん。許嫁なんでしょ?」
「よくねぇよ! くっそなんでバラすんだよ! よりにもよって冥星に!」
「……ほ~へ~……あの、篠崎隼人君に、許嫁、とな? どれどれ……ってマジで?」
冥星が驚愕したのには訳がある。達也が指差した方をまっすぐに見定めると、そこには黒髪の少女が仲間と共に歩いてくるではないか。
人形のような白い肌、凛とした気の強そうな瞳。典型的な日本女性とでもいえばいいのか。大和撫子という言葉は、彼女のためにあるのだろう。
「横の、不細工じゃなくて?」
「冥星、そういうこと口にしちゃダメだよ、本当さ、な隼人」
「ん……まぁな」
そんなことが認められていいのだろうか? 世界が許しても俺が許さん。即座に冥星は手に持っていた給食のパンを食らいつくし、少女の前に立ちふさがるように仁王立ちした。
「ああ~……だから嫌だったんだよ……やらかすぞ~あいつ絶対やらかすぞ~」
「あはは、我らが王様は今日も絶好調だね」
いきなり現れた白髪の少年に、少女たちは嫌悪感を隠せない。曲者以外の何物でもない男は、真ん中の少女を睨むように見つめた。
「……何?」
「なるほど、なにかに似ていると思ったら、家にあった雛人形だ」
「それは、褒めてるの?」
「いや、がっつり貶してる」
そう言い終わる前に、冥星は横から何かの衝撃で壁際へ叩きつけられた。めり込んだ壁を見るとあり得ない怪力の持ち主であることは確かである。それについてはさほど驚くことでもないが、どうやらこの学校にもゴリラがいることがわかった。
「さいってい……っぺ」
「ま、まて、こら……」
黒髪の少女は、対象から興味を失ったかのように冥星の呼び止めにも反応を見せず、去っていく。まるで機械だ。精密にできた、機械人形。
そして、冥星にダメージを与えたであろう真っ赤な髪をした凶暴な女。冷たい目線と共に、冥星に、『唾を吐きかけた』あの憎たらしき女はいつまでも冥星を睨みつけている。それを見届けると、冥星はゆっくりと意識を闇に沈めていくのだった。
「冥星よ。お前は誰にケンカを売ったのかわかっているのか?」
「……しらねぇよ。くそ、まだガンガンする」
「大蔵 姫。まさか、この名前を聞いてもわからないの?」
「……しらね、いや、まて、確かこの前行ったラーメン屋にそんな名前があったような……ま、まさか、かなり有名なラーメン屋の娘なのか!? だとしたら俺はなんて失礼を!」
「ちげーよ! 大蔵家っていえば、この辺一帯を占める大元締めのようなもんだよ! お前なんつーことを……」
「ラーメン屋に名前があったのは、多分スポンサーか何かだね。冥星、今からでもいい、謝った方がいいよ」
ラーメン屋の娘ではないところから既に興味を失っていた冥星。隼人は頭を抱えて落ち込んでいる。バカがいくら頭を悩ませても意味はないのだが、それを言う雰囲気ではないことは、さすがの冥星でもわかる。
そして、冥星の頭にはもう、なんの躊躇もなく、あの女に対する復讐心でいっぱいだった。
「冥星! 頼むからもうやめてくれ! な!? これ以上やると、俺、家からなんて言われるか……」
「俺からも頼むよ、冥星。ただでさえ、あの姫を怒らせちゃったんだ……大問題だよ」
「怒って……たのか?」
「横の子が怒ってたでしょ? それが姫の怒りになるの」
「なんだよそれ……」
なんだか納得のいかないことだらけだが、悪友二人からストップをかけられてしまえば、いくら冥星といえどもおとなしくなる。何せ、多勢に無勢。そしてあの――。
「ゴリラ、女……」
「ああ、凛音だろ。六道 凛音。姫の小間使いだな」
「小間使いって……まるで偉い人みたいじゃないか!!」
「「だからそういってるだろ」」
あのゴリラは小間使いだったのか。顔はあまり覚えていないが、如何にも自分の嫌いそうな性格だと確信した。だいたい、小間使い如きに舐められてしまっては城島家(滅亡した)の嫡男としての名が廃る。
どうにかして、あの女に男の恐ろしさを教えてやらねばならん。悪友二人の引き止めも既に忘れ、冥星はまたしても最低な策謀に頭を働かせるのだった……。
※※※※※※
打つべし! 打つべし! 打つべし! 確かこんな声だったか。屋敷にいた頃、既に他界した母親に変わり入ってきた女が、こんな言葉を冥星と冥星の姉に向かって繰り返し叫んでいた。
姉は既に鬱気味だったので仕方なく自分が変わりに聞いていたのだが、慣れてくると、なるほど、子守唄に聞こえないでもない。狂気的な叫び声も、甘く甘美な囁きに聞こえてくるのだ。だからなんだというわけだが、結局のところ人間は仲良くなれない者とは相容れることは不可能だ。それを我慢してまで戦っているのが、今日に我々を支える企業戦士たちである。冥星は彼らを尊敬していると共に、一種の侮蔑を感じている
故に、彼はカリスマニートとして世間に君臨することを誓っている。社会に馴染むことのできない哀れな者たちの救済のために。
「よし、これで完璧。俺、最強。マジで最強」
悪友二人の手前、大きく出ることを控えた冥星が思いついたのは、いやがらせだ。
今日は待ちに待った給食当番だ。つまり、自分の飯を大量に持っても何の文句も言われないスペシャルデー(そんなわけない)なわけだ。
そして……他人の飯を、どれだけ減らしても気づかれない悪魔の日! その分を己の器に加算し、証拠隠滅を図ろうという冥星にしか思いつかない屑の発想に、誰しもが感服することだろう。
さっそく割烹着に身を包んだ冥星は、悪友二人の呆れた表情を横目に、やってくる空腹の民たちの器に容赦なく微量の食料を与える。こいつが君主なら間違いなく国は亡びるだろうと誰しもが予期せざるを得ない悪者っぷりだ。
「……! おい、冥星、来たぞ!」
「……冥星、頑張れ!」
標的の登場に、冥星の心は歓喜した。震えるお玉にはカレーのルー。冥星は今日の献立の主役であるカレー担当である。
さぁ、こい。お前の器に大量のご飯と少量のルーで、味気のない食卓を披露してやるぞ。やることなすことがすべて小者であることに、彼は気が付いているだろうか。
そして、この作戦には致命的な欠陥があることに、彼は気が付いているだろうか!?
「あ、私ダイエット中だから、少なめで」
「あ、はい」
オーダー!!
黙って器に盛られるはずの給食に、いちいちオーダーをする輩がいるのだ! ここはレストランじゃねぇ! 黙って盛られていろと叫びたい心を必死で押えながら冥星は標的である六道 凛音をまんまと見逃してしまった……。
「お、おい、冥星がすげぇ顔しているぞ」
「そんなに悔しかったのかな……でも女の子って給食少な目の方が喜ばれるんじゃない?」
外野がうるさい。俺の作戦は完璧なのだと疑わない冥星は、実はどうでもよかった大蔵 姫を、腹いせに毒牙にかけようとしていた。
「冥星って、ほんと、女の子に興味ないんだね。普通、姫ちゃんみたいな子にこんなことする奴いないよ」
「あいつは飯が食えて寝ることができれば満足なのさ。姫、ごめんな」
達也の感心した声とは裏腹に、隼人の心は罪悪感でいっぱいだ。お腹を空かせて姫を想像すると、胸が苦しくなる。俺のを分けてやろうか、と既に冥星を裏切る算段までしているのだから困ったものだ。
「大盛り」
「…………なに?」
「大盛り、特盛で」
「ほ、他の人の分もあるから、それはちょっと」
「特盛」
「あ、はい……」
大蔵 姫は、冥星以上に食い意地を張った少女だという情報を、誰もが持ち合わせていなかったことが、この作戦の一番の敗因だった……。
給食の恨みと疲れる話
「俺を本気にさせたな……あの女ども」
「冥星、もうやめようぜ? なっ? チロルチョコ、おごってやるからよ」
「はいはい、落ちついて、飴、舐める?」
屈辱以外の何物でもない。結局、あれから決定的な打撃を小娘共に与えることができず、冥星たちは放課後を迎えてしまった。しかも、冥星は自分の器に盛ったカレーの量が驚愕過ぎて、クラスメイトから非難される羽目になったのだ。それもこれも、全てあの小娘たちのせいだ、と言い知れぬ怒りを募らせていく。食い物の恨みは恐ろしい。ホームルームで教壇の上に立たされた挙句、先生どもに説教されてしまった。失笑と侮蔑の嵐には、冥星も涙目だ。
必死でなだめる友の言うことはもはや耳に入っておらず(とりあえず貰える物はもらう)行く先は、あの雛人形とゴリラのところだ。名前すら覚えていない冥星は失礼な生き物以外の何物でもないが、そんなことは彼にとってはどうでもいい話なのである。
「というか冥星は何に対して怒っているんだい? 凛音にやられたことについて?」
「は? なんのことだ? 俺はカレーに対して怒っているんだ! 黙っていろ!」
達也は冥星の反応にしばし呆然とした。この少年はいったいなぜ、怒っているのかという質問に対してカレーに対して怒っているのだそうだ。では、なぜ彼は彼女たちの給食に細工を施そうとしたのか? それについて問いただしたい達也であったが、隼人に止められた。
「冥星は、食事と睡眠を邪魔した人間には容赦しないけど、それ以外のことに対してはだいたい三〇分くらいで飽きるか忘れちまうんだ」
「結局、自分で怒りを煽っているだけなんだね……」
地団駄を踏み、壁に頭をぶつけている冥星を必死で止める隼人たち。気味悪げに通り過ぎていく生徒たちの中に、なんと冥星が願ってやまない少女たち(復讐的な意味で)と……顔も合わせたくない少女……妹、海星と出くわしてしまった。
海星は兄たち三人をじっと見つめていたかと思えば、一番右の達也に目が移った瞬間に顔をトマトのように赤く染め上げ通り過ぎていく。
「……海星……ちゃん!」
「……な、なに……」
「あの、昨日はごめん、俺、その、何も知らなくて」
「こ、こないで……」
「あ……」
海星は達也を拒絶した。咄嗟に出てしまった言葉に海星は後悔を滲ませた苦い表情を作る。白髪の美少女は目の前に現れた自分とは異なる存在に戸惑いを隠せない。
「ち、違うの……」
「いや、いいんだ。僕はただ、海星ちゃんを困らせたことを、謝りたかっただけだから」
「こ、困ってなんか……」
達也は少なくとも、海星が自分を嫌っている訳ではないことに安心した。必死に伝えようとしていることも何となくわかるので、それが余計にうれしく感じる。
校内でも指折りの可愛さを誇る海星と、『元』彼氏にしたいランキング一位の達也。微妙な距離感を持つ二人の会話は、初々しくて、まだ自らの感情を持て余しているようだった。目の前で恥ずかしい会話を繰り広げる二人をこのままにしておくわけにはいかぬと、バカ代表の隼人はリーダーに救援を仰ぐ。この場を無差別に破壊できるのは空気を読まぬ、というか空気そのものが存在しない冥星だけなのだ。
「おい、冥星……お前の妹が大変なことになっているぞ」
「あいやまたれぇぇぇぇぇい!!」
「きいてねぇし……ってお前懲りもせずにまた……」
ところが、冥星の目的は残念ながら二人の少女を泣かせることだ。自分が陥った屈辱と同じくらいにダメージを彼女たちに与えることが、自分の宿命といっても過言ではない。ちなみになぜ腹が立っているのかを、冥星は説明することができない。忘れているからだ。ただ腹が減って苛立っているだけ、ともいう。
「また……あなたなの」
「姫、下がりな。私が潰すから」
ゴリラ女こと六道凛音は主人である大蔵姫に襲い掛かる白い怪物に牙を向ける。なぜ、とかどうして、とかそんなことは関係ない。目障りなら潰す、姫が不快に思うなら潰す。その姿はまるで物語の騎士のように正義に満ち満ちた姿だ。
「おまえ、城島冥星だろ? 外部生の分際でずいぶん偉そうだな」
「ぬんだと? お前こそダイエットとか意味不明なことするな! 食べ物に感謝しろ! 俺に謝れ! なんかくれ!」
「意味わかんねぇよ……なんだこいつ」
「死ね、くそ兄貴」
凛音は気味の悪いものでも見たように後ずさり、兄の相変わらずイカれた言動に嫌悪感を隠せない海星ははっきりと言葉で示す。兄への暴言だけははっきりと口にする海星に目を丸くすると同時に微笑ましく思う達也。
「お腹、空いてるの?」
「見てわかんないのか? だったらお前の目は節穴だ!」
「なんで偉そうなんだよ! 姫、黴菌がうつるから近づくな! えんがちょー!」
意味のわからない言動で姫に迫る冥星を押し返す凛音。それでも無駄に力強く襲い掛かる変人に凛音は一種の恐怖を感じる。
そんな二人のやりとりに大蔵姫は、割って入る。
その手にはどういう理屈でなぜ入手したのかそしてこの場になぜ持ち合わせているのか不明な饅頭が二つ、姿を現したのだ。
「…………食べる?」
「……そんなもので、カレーの恨みが晴れると思ったら大間違いだもぐもぐ」
「……あ、二つ食べた……私のだったのに」
「世の中は実に理不尽にできているんだ。勉強になったな、ぎゃん!」
「死ね! お前マジ屑! 姫に謝れ!」
「くそ……またか……」
凛音の回し蹴りをもろに食らい、再び冥星は地面にひれ伏す。だが後悔はない。饅頭のためなら、このくらいの痛み、甘んじて受けよう。例えまた視界が闇に落ちてしまおうと、その前に味わった幸福な食感が自分にとって最も優先すべき欲望なのだ。
「許さない……食べ物の恨みは恐ろしい。あなた、お名前は?」
まるで自分の生き写しみたいなことを言う少女だ。その瞳は純粋に冥星を見下ろしている。
不思議な少女だ。怒っているのか、悲しんでいるのか、それを表情に表すことをしない。教育されているのだろう。冥星は自分の家で味わった苦い経験を思い出した。
凛とした振る舞いと大きな黒い瞳。純粋無垢で真っ白なキャンバス。
「田中、太郎、だ」
「太郎……その名前、忘れない」
世の中にどれだけ太郎という名前を持つ人間がいるのか。加えて田中という平凡な苗字で納得してしまった彼女を見て、冥星は確信した。
「隼人、こいつ、バカだぞ」
「……純粋なんだよ」
そんな言葉で片付けていいのか隼人。それでいいのか隼人。照れくさそうにはにかむ気持ち悪い隼人を見ながら、冥星は己の意識が沈んでいく感覚に溺れていく。
恋は人を堕落し、麻痺させる。達也然り、隼人然り。……妹然り。
人はなぜ、そんな愚かなで意味のない快楽を求めるのか。
答えは簡単だ。それは、人間が、生きとし生きる者すべてにとって尊いモノだからだ。
チョコレートよりも甘いのか。食事よりも大事なことなのか。睡眠を削ってまで会いたくなるような行為なのか。
冥星はまだ理解できない。
周りは大人になっていき、置いて行かれるような疎外感を感じることすらある。
それでも構わないと思った。
冥星は一つの成すべきこと成すために、今を生きるのだから。
※※※※
「冥星、来い。訓練だ」
「饅頭が食べたい饅頭が食べたい饅頭が食べたい饅頭が食べたい」
「布団を噛むな! いい加減起きろ! 休日だからといってダラダラ過ごすなど、秋坂家は許した覚えはない」
「なぜだ。なぜ俺はこうまで女に虐げられなければいけないんだ……」
敗戦したまま泣き寝入り。そして翌日は秋坂明子によって快眠を妨げられた冥星。
なんというか、自分はゴリラ的な何かに呪われているのではないだろうかと疑問を抱かざるを得ない。布団を取り上げられ、枕を奪われ、まるで己の一部をごっそりとなくしてしまったような喪失感で目覚めた朝。
とりあえず、今日も平和だ。
「見ろ、冥星。海星の体さばきを。この二年間であいつは成長した。もう立派な兵士だ」
「自分の娘を兵士にする母親なんて嫌い!」
「だーまーれーこの怠け者が! 私はお前をニートだけはしないと決めているんだ、けっしてな」
「この物語のラスボスは、秋坂明子で決まりだな……」
くだらない会話を適当に流しつつ、冥星は既に健全な汗を流している妹の様子を観察した。
スラリとした肢体は、徒手空拳の反復練習を機械的に繰り返している。表情は乏しく、息使いだけが海星を人間だと証明する手がかりのようだ。
そんな海星を、明子は誇らしく思うと同時に後悔の念を抱く明子。
海星は強くなった。だけどそれは表の面だけの話だ。つまり殻を破れば中身は未完成なのだ。それではだめなのだと、明子はため息をつく。
それでは、生きてはいけない。
「……心配するな」
「冥星、私を気遣ってくれるのか」
眠気の収まり、頬杖をつく冥星の隣で泣きそうな横顔を見せる母親代わりの女に慰めの言葉を告げる。
何も心配することはない。なぜならば、そんなものは必要ないからだ。この先も、ずっと。
「ところで冥星……お前はどこに行くつもりだ?」
「見てわからないのか? 朝飯を探しに行くんだ」
「残念ながらそんなものはない。訓練をサボるようなただ飯ぐらいのガキに与える兵糧など皆無だ」
「……ゴリラァ……どこまで俺を苦しめれば気が済むんだ!!」
「黙れ。海星! 相手をしてやれ! 容赦するな、レディをゴリラ扱いする輩など滅んでしまえ!」
首根っこを摑まれ冥星は庭に放り出された。そういう行為がゴリラと言われざるを得ないことを千の文字で伝えたいのだが、いかんせん時間が足りないため今はよしておこうと思う。
今日は厄日だ。というか連日厄日が続くのはどうしてだろうか。目の前には兄を兄とも思わない妹が、睨み付けるようにこちらを見ている。既に少女は態勢を整えており、どこからでもかかってこいとでも言いたげだ。
「……やだやだ……高貴な俺は、こんな野蛮な遊びには付き合わなくてよ」
「……逃げるんだ。さすが兄貴、カス、屑、人類が生んだゴミ」
ごめんあそばせ、と吐き捨ててさっさと庭を去ろうとする冥星を、明子は止めようとはしなかった。本人にやる気がなければ訓練はお互いの身にならないことをわかっているからだ。冥星がやる気を出したことなど皆無に等しいが、それでも明子はいつかこの兄妹が仲良くなれる日を願っている。今日はちょっと、急ぎすぎただけなのだと。
「――――お姉ちゃんみたいに死ねばいいのに」
冥星は聞こえないふりをして、明子は海星を咎めようとした。
冥星は振り返らない。振り返ればきっと海星を憎んでしまう。それは負けだ。アウトだ。自分にそんな感情は不要であり、妹程度にそんな労力を割く必要などない。
それでも言っていいことと悪いことがある。それくらいの倫理観を持ち合わせていないというのは明子の教育が悪いのであって、自分のやることは決して正当な行為なのであってつまり冥星は振り返ってしまったのだ。
「! 冥星! やめろ! 冥星! おい!」
「くふふ…………なに? そんなにお姉ちゃんのことが好きだったの? そうだよね? だってさぁくふふ……」
「フー……フー……ヒッヒッフー……」
なぜ妹が生きているのか? それがこの世の謎だ。悪意を持って願いたい。冥星はあの時、なぜこんな雌犬の娘の手を握ってしまったのか。どうしてあの時屋敷の外に出てしまったのか。考えれば考えるほど、泥沼に浸かってしまうような感覚に陥る。
くだらないことだ。興味がない。しかし、その言動を許すことはできない。それは死者に対する愚弄であり、何よりも、傷が疼くのだ。
疼くのだ……。
「生きている……」
「……本気で、言ってるの? どうしてあんな奴のこと……」
「あいつのご飯が、食べたいからだ」
「…………バカだよ、にーちゃ……兄貴は」
「お前にはわからんのだ。家族が死んだ程度のことで殻に閉じこもってしまうような、脆弱なやつにはな」
冥星は冷静さを取り戻していた。振り返ってしまったことに対しては己を律することができなかったので弁解する余地はない。明子が叫ばなければ自分は何をするかわからなかった。自分は頑張らないと決めた。そうじゃないか。そう言い聞かせる。
「――飯、食ってくる」
今日も、冥星は平和に過ごす。頑張ったって意味はない。努力したって疲れるだけだ。もう、それをする意味は見つからない。だってもう見つける力も気力もないから。
何よりも、その意味を、忘れてしまったのだから。
世界の掟――やっぱり農家はすごい
「ここなら、うまい飯を食べさせてくれるな」
冥星の目標は家を出た時から既に決まっていた。この辺一帯を物色して一番大きな家に殴り込みをかけようという作戦だ。
大人であれば犯罪に等しい行為だが、子供がやればОK。子供がやれば犯罪ではない。
「ということでこんなところまで、はるばる来たわけだが」
ひどい坂道を駆け上り、その上にそびえたつ日本風の屋敷。前々から気になってはいたが、いざ目の前に来てみるとなるほど、地域一番の権力を誇っているだけのことはある。
この屋敷を見てもさほど驚かないのは、自分の住んでいた元の住処がこの屋敷以上に巨大だったからだ。
もちろんそれに伴う、陰湿さも巨大だったわけなのだが、
それはそれとて、颯爽冥星は屋敷の門までたどり着いた。ここに来るまでひどく時間がかかってしまったし、その分エネルギーを消費してしまったし、それに見合う食事が取れるのか不安ばかりだが、とにかく冥星はご飯を頂戴することに命をかけていることは皆にも伝わっただろうか。
「ご苦労」
「お疲れ様です、冥星様!」
入口には黒服を着た筋骨隆々の男二人が石像のように立っている。その男たちにねぎりの言葉を放つと冥星は優雅に門を潜り抜けた。そして待っていた女中に食事の仕度をさせ、永遠に屋敷で暮らすことになったのでした。終わり。
などという話はもちろん冥星の妄想なのであり、現実はいつも過酷なものだ。
「なんだ、この坊主は?」
「おい、離せ! 俺は食事をしに来たんだ!」
男たちに拘束され、冥星はその場で待機を命じられた。理由は勝手に門を潜ろうとしたからだ。子供とはいえ、不審者に変わりはない。羽交い絞めにされた挙句、金属探知機でくまなく凶器をもっていないか探られた。
「何してるの?」
「こ、これはお嬢様、実は不審な人物を摑まえまして」
「不審……? まさか姫を付け狙っている輩じゃねぇのか?」
まさに天の采配というべきか。このまま豚箱行きだった冥星の目には、クラスメイトである少女が姿を現した。もちろんその子会うのが冥星の目的を達成するために必要な要素であった。それは冥星もわかっていたのでこんなにも早く再会をはたせたことを喜ばしく思う。
「てめぇ……やっぱり変態だったのか」
「お前に用はない。大蔵姫を出せ」
「んだこら! もう一回絞めんぞてめぇ!」
ゴリラ的な何かとはもう今日は口を聞きたくもないのでそうそうに退場してもらいたい。
だが、やはり現実は過酷だ。冥星はあっという間に胸倉を掴まれ赤い女のそばに引きずり出されてしまう。
とりあえず、お嬢様の知り合いということで、黒服の連中から解放されたというのにもっとひどい目に合わされていることに冥星は絶望すら感じる。
「お前……いいかげんにしろよ。姫には隼人がいるんだ。お前の出る幕なんかねぇんだよ」
「何を言っている。いいから飯を寄越せ。さもなくば大蔵姫を出せ」
「相変わらず意味わかんねぇやつだな……けど、姫には近づかせねぇからな」
「飯を寄越せ」
「飯もやらねぇよ!!」
イライラした声が屋敷の前に響き渡る。教養の欠片もない言葉使いのくせにお嬢様と呼ばれていることがなんともアンバランスな女、六道凛音は健康的な素足を惜しげもなく現した短いスカートをなびかせながら冥星のことを害虫でも見るような目で見下ろした。
しばしお互いを睨み合いながら対峙していたが、突然大きな腹の音がまたもや屋敷に響き渡り、騒然とした。辺りには既に二人しかおらず、もちろん腹が鳴ったのは、どちらか二人。
「まったく、女として恥ずかしいやつだな六道凛音」
「て、てめぇだろうが今の音は!?」
「根拠はあるのか? お前は朝ごはんを食べたのか?」
「う……今、ダイエット中だから」
「犯人はお前だ!!」
「う、うるせぇ! お前だってお腹空いているくせに!」
「腹が減った飯をくれ!」
「開き直ってんじゃねぇよ! と、とにかく今のは私じゃない! お前だ!」
「そういうことにしておいてやらんでもない。だが飯をくれ!」
「な、なんだよ、なんなんだよお前……気持ち悪っ!」
ゴキブリのようにかさかさと這いより、凛音に飯を要求するホームレスとも思しき少年。そう、冥星の行為は間違いなくたちの悪いホームレスと酷似している。これで劣悪な匂いがしたら即刻帰ってもらうことができるのだが、残念ながら彼はただのクラスメイト。しかも外部生という異端の存在だ。
外部生、か。凛音はその言葉の意味をかみしめる。
『あの学校に』転校してきた『外部生』とはつまり――――。
「……朝飯、一緒に食うか?」
「パンか? 白米か? 今日は白米な気分だがパンでも妥協するぞ」
「だからなんで偉そうなんだよ……ご飯だよ、米!」
「米はやっぱり魚○産のコシヒカリだ。それ以外は考えられん」
「それは私も思うけど……ムカつくなぁお前」
後ろをちょこちょことついてくる冥星を鬱陶しげに払う凛音。呆れながらも、よくもまぁ初対面から約二日でここまで自分のような……自分で言うのも気が引けるが、ガサツな女に話しかけられたものだと感心してしまった。
入っていきなり食堂に通された冥星は願ってもない展開だったが、主人にあいさつしろとかその他もろもろの手続きが必要なのではないかと思っていた手前拍子抜けしてしまった。
そして、目の前には豪華な食事……ではなく白米に卵が乗っけられた……TKG!
「なぜだっ!」
「はぁ? なにがだよ? 立派な飯じゃねぇか」
「貴様……謀ったな六道凛音!」
「ダイエット中っつったろ? 文句言うならやんねぇぞって、もう食ってるし」
「こんな、もぐ、飯、くらい、もぐ、で、俺の、もぐ、怒り、もぐ、が」
「食いながらしゃべんな……きたねぇな」
やけくそになりながら丼一杯の飯を掻き込む冥星。その食い気の良さに感服しながら凛音も静かに卵をかき混ぜる。その上に醤油をかければ立派は卵かけご飯、略してTKGの完成だ。
知らず知らずに、どんな奴かも知らない男と飯を共にしていることを不思議に思う凛音だったがもうどうでもよくなっていた。とはいえ、警戒を怠っているわけではない。こいつが、本家である大蔵家に忍び込む不逞の輩ではないかという疑念を払拭しているわけではないのだ。
「お前、ほんとに飯食いに来ただけなのか?」
「そうだと最初から言っているだろう。いい加減しつこいな」
「むかっ……自分の家で食えばいいだろうが。なんでわざわざこっちまで来て飯食ってんだよ」
「訓練をサボったら飯を抜かれた。故にどこかで兵糧を奪取しなければいけかなかった。戦の基本だな」
「ぜんっぜん基本じゃねぇよ! ただのサボりじゃねぇか! やっぱお前、どうしようもない奴だな」
「くだらない武術を習うほど無駄な時間はない。俺の時間は俺が使うためにある。争いなど、愚かな人間のすることだ」
「……武術は、無駄じゃねぇよ」
どん、という音が広いテーブルに鳴り響く。そういえば、と冥星は改めてこの屋敷をぐるりと見渡す。
休日だというのに、ここには凛音一人しかいない。冥星が通されたのは大蔵の所有する敷地の一郭だ。門の正面を真っ直ぐ行けば大蔵家、中央から右に行けば六道家、左に行けば篠崎家、といった構造になっている。
ならばと隼人顔を拝みに行きたかったがどうやら今日は大蔵家に招かれているらしく留守らしい。
ゴーンと大きなのっぽの古時計が鳴り響き再び時間を刻む。その音と箸の音だけが凛音のすべてだ。
「武術は、人を守るために必要な力だ。だからくだらない、なんてことはない」
「……訂正する。俺にとって必要ないっていう話だ。そんなに怒るな、かわいい顔が台無しだぞ」
「!? バカにしてんのかてめぇ! わ、私が、か、可愛いなんてバカじゃねぇの!?」
「冗談だ」
「殺す表に出ろ」
「箸を人に向けるな刺すなちょっとだけいい顔をしていると思ったこれはほんとのことだ!」
結局最後は暴力に訴える凛音に辟易しながら、残りの飯を掻き込む冥星。余計なことを言うつもりはなかったが、ついついおちょくるような真似をしてしまった。
そんな、泣きそうな顔で怒られたら、そうしたくもなる。
「よし決めた……やっぱりお前とは正々堂々戦わないと気がすまねぇ。表に出ろ」
「言われなくても表に出る――――帰るために」
「逃げんなよ……たっぷり可愛がってやるからよ……」
「断る、帰る、帰る、帰るったら帰るのぉ!!」
わめく冥星の首根っこを掴み、凛音は笑いながら表に連れ出す。その悪魔のような笑みに、冥星は戦慄を覚えるのだった……。
「立て、立つんだ冥星! お前の力はそんなものか!? もっと燃えろよ熱くなれよ! 頑張れ! できるって! 気持ちの問題だって!」
どこかで○造が叫んでいるような気がした。なぜ凛音と一緒にいると自分はいつも地面にへばりついているのだろうか。答えは簡単だ。こいつがやっぱりゴリラ女みたいだからだ。
ゴリラ女は満面の笑顔で冥星をからかっている。
なんだ、そんな顔もできるのか、と冥星は荒い息をたてながら見つめていた。いつも不機嫌そうな顔しかしないのだと思っていたが思い違いだったらしい。
「なんだよ冥星……よわっちいな。そんなんじゃ、てめぇの大切なもん、守れねぇぞ」
そんなものはおそらく毎日の食事と睡眠くらいだろう。それくらいなら今の自分でも十分守れる自信がある。ただ、奪い輩が多すぎるだけだ。そう言いたい冥星だったが、あいにくもう言葉にするのも億劫なくらい疲弊していた。
「凛音は……なぜ強くなろうとする?」
突然冥星は我ながら愚にも等しい質問を相手にしてしまった。既に言葉にしてしまったものを訂正することもできず、赤い髪の騎士に問いかける。
「大切な人、守りたいからに決まってんだろ」
差し伸べてくれた手を冥星は素直に握った。
六道凛音は強かった。自分の何倍も、数倍も。それは力だけではなくその心の強さも合わせてだ。
何よりも、冥星は少女に勝てない理由を見つけてしまった。それはどうしようもないくらい途方に暮れる答えで。
例えるなら未来を見据える子供を、老いた目で眺める老人のような気持ちだ。
そんな力はもう自分にない。あるのはただ怠惰に過ごす日々と、食事のみ。
冥星は、生きていくことしかできないのだ。そうするしかないとあの日誓った。
そんな冥星には、凛音という少女が眩しく見える。
もちろんそんなことは悔しいので言わないが。
「――化け物が、何をうろちょろしている」
気が付けば、冥星たちのことをじっと見つめる者がいた。
体格のいい老人だ。鋭い鷹のような瞳が印象的で、威厳のある風格をしている。
杖を手に持っているが、体の筋はしっかりしていて特に必要とは感じられない。
だが。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
「おい、どうしたいきなり? そんなにかしこまらなくてもいいぞ、気にするな」
「お前じゃねぇよ……ほら、頭下げな」
冥星は凛音の腕力によりあっという間に頭を地面に叩きつけられ、抉られ、めり込まれた。どうやら自分に対してかしこまったわけではないらしいとようやく気付いた冥星は、では自分以外のいったい誰が凛音をメイドのようにご主人様と呼ばせているのだろうか、と疑問に思う。はっきりいってこんなメイドはいらない。
「凛音よ……面白い物を連れているな。それはなんだ」
「ク、クラスメイト、です」
「クラスメイト? なるほど……化け物同士惹かれあったか」
「そんなに褒めるな。ところで、化けじいさんや、ご飯はまだかいな?」
「!? お、お前、あ、謝んな、ほら、はやく」
冥星のふざけた態度に老人はギロリとした目玉を動かす。その相貌といい、まるで妖怪のようだ。冥星は昔本で見た『小豆洗い』という妖怪がまさか現実にいるとは思いもしなかっただろう。非科学的なことには興味がなかったが、こうして自分の目で見たものに関しては俄然興味が湧く。
「よし、摑まえて博物館に飾ろうそうしよう」
「いいかげんにしろ! この方を誰だと思ってんだ」
「妖怪、小豆洗い」
「ぶっ……ち、違う! 大蔵――大蔵 臥(が)薪(しん)様だよ! 見てわかんないのか!?」
「知らんわ。偉い人なのか? 残念ながら俺は水戸黄門くらいしか知らないんだ。この紋所が目に入らぬか! じじい!」
冥星はまたもや暴走し始めてしまった。こうなってしまうともう後がつけられなくなる。必死に笑いを堪えつつ、青い顔のまま佇む凛音を余所に、冥星と大蔵 臥薪は睨むように見つめ合う。じじいと見つめ合う趣味など毛頭ないが、確かにこの老人が只者ではないことは見てわかる。
「小僧、わしが怖くないのか?」
「いまどき、子供に手を挙げる大人なんていないだろ。子供に関する法律が厳しくなったからな」
「賢いな、小僧。その通りだ。我々大人はお前たち子供に危害を加えることはできない。それは犯罪だからだ。強者が弱者を虐げることは、人の倫理に反する行いなのだ」
ところが、と臥薪は冥星たちの――ひざまずく子供たちの方へゆっくりと近づいてきた。
凛音によって強制的に頭を押さえられている冥星は、何をしようとしているのか把握できない。それは凛音も同じなはずだ。しかし、わずかに震えている手の感触に気が付いた瞬間、その手はあっという間に冥星の体から離れ老人の元へと引きずられていた。
「お、お許し、お許しください」
凛音は、消えそうな声で懇願する。冥星に怒鳴っていた彼女はもうどこにもいない。肉食動物に捕食された草食動物。蛇に睨まれた蛙。
この、法律に守られた国家で、老人は少女の体を自由に痛めつけることができた。何度も、何度も、執拗に、刻みつけるように、弱弱しい力だが、確実に、その凶器で。凛音は叫び声を何度もあげる。痛々しく、悲しげに。だが、少女は決して助けを求めない。それは、強がりではない。助けなど、来るはずがないと知っているからだ。
「小僧、お前の常識を、今わしは覆した。子供は確かに法律に守られている。こんなことが明るみに出れば、わしでさえ処刑される時代よ」
「じーさん、頭大丈夫か?」
「もちろんだとも。この大蔵臥薪、老いても耄碌はしない。なぜなら――わしには楽しみがあるからだ。こうやってお前たち屑どもを囲い、育て、弄ぶことが、何よりも若返る秘訣なのだよ」
「ちょっと! おまわりさん! 変態! 変態がいますよー!」
近くを通った警察官は冥星の声に振り向く。しかし目の前の老人を見た瞬間、一目散に自転車を反転させてしまった。この時、冥星は絶対に税金を払わないことと、警察官にだけはならないと決めた。
「では、小僧。ここで問題だ。国家とこの臥薪――どちらが偉いのだ?」
「クレイジーなじいさんだ。家のパピーほどじゃないけどな」
ルー何柴を真似たとて、この現状を打開できる術はない。目の前には子供を杖で滅多打ちにし、髪を引っ張り上げ、その痛々しい姿を愉悦感たっぷりに見下ろす老人。
それを見つめる自分自身。どちらが異常なのか。どちらも異常なのだろう。
冥星は凛音と接触したのは、昨日が初めてだ。成り行きでご飯をおごってもらい、まぁその対価として暇つぶしにつき合わされてしまったわけで。
なにもかもがいきなりすぎて、冥星には状況が把握しきれていないのだ。把握したとて、自分が傍観者であることに変わりはないのだが。
「不思議な小僧だ。この娘がどうなってもいいのか」
「う~ん……TKGぐらいじゃなぁ……」
「なるほどな……化け物には道徳心がなかったか。これは失態、儂としたことが」
「いやいや、じいさんにだけは言われたくないわ……」
大蔵臥薪は目の前の小僧を愉快気にその鷹のような目で睨み付けた。自分という圧倒的な存在を前にして動揺を見せないことに感心しているのだ。
大蔵家は日本有数の大財閥だ。戦後の財閥解体を潜り抜け、成長し続けた財政界のトップ。金と権力を裏で牛耳り、その力は国の細部まで行き届いている。今日、我々を導いてくれる優秀な政治家たちは、この大蔵家の傀儡として動いている、などという噂もあるくらいだ。
金の大蔵、学の篠崎、力の六道――大蔵を中心とした一つヒエラルキーの形成。
この土地では、誰も逆らうことのできない人物に冥星は対峙しているのだ。
「ふん……凛音よ、素敵な友達ができてよかったな」
凛音は臥薪の言葉に反応をみせない。いや、見せることができない。短時間とはいえ、大人の力で数回に至る暴行を受けたのだ。加えて女子のそれも子供の体では到底耐えうることのできない苦痛だったのだろう。既に気絶寸前まで体が悲鳴を上げている。
「さて、次は坊主の番だが……む?」
「ご主人様……ど、どうかお慈悲を、わ、私が屋敷に入れた、です……だから、こいつは、何も悪くないんです……が、臥薪様、どうか……」
「そうか、この小僧は何も悪くない。つまり全て自分に責任があると、そういいたいのだな?」
「は、はいそう、です。ですから……」
「――――ならば、もっとお仕置きが必要だな」
「え……?」
残忍に笑う臥薪を、凛音は絶望的な表情で見上げた。悪魔、などという陳腐なイメージでは描けない。およそ人間の良心というものが欠落した、ある意味で完成された人間だと冥星は感じた。こういう人種を、冥星は己の短い人生中で一人知っている。もっとも、方向性が違うのだが。
目の前の老人は最低な人間で、冥星の知る人物は自分よりもゴミ屑だった。それだけのことだ。
「ロリコン爺、残念だがお前の悪行はここまでだな」
「――――ほう……紛いなりにも人として感ずる部分があったのか?」
冥星は凛音の前に立ちふさがった。己の小さな体では目の前の屑を打ち取ることは不可能。己の非力な力では傷ついた少女一人、守ることなどできない。
もっとも、そんな面倒なことは絶対にしない男なのだが。冥星にはこの場を凌ぐための秘策があった。ここは大蔵の大庭。つまりこの場を通る人が必ずいる。さきほどの凛音の話では隼人とあの――――雛人形がいることは認識済みだ。ほんとは雛人形に会ってご飯を奢ってもらう手はずだったのだが、どうしてこんなことになったのか。早々に現れた面倒事に早くも逃げ出したくなった。
「この、き――秋坂冥星、人が殴られようが蹴られようが殺されようが知ったことではない。だが、食事を与えてもらった者を反故にすることは絶対にしないのだ。覚えておけ、ボケ爺」
「くっかっかっかっか…………やはり、やはり人生は面白のぉ……こんなにも嬲り殺したくなる童がたんとおるでな!」
凄まじい形相をした臥薪が冥星を飲み込まんばかりに襲い掛かる。いや、速度でいえば鈍重にも等しいが要はその気迫だ。よくもここまで快楽というものに忠実になれるものだ。歪みに歪みきった金持ちというのは手が付けられないほど厄介なのである。
「――――やめなさい!!」
冥星の灰色の脳細胞で計算した結果、もうすぐお昼時ということもありまもなくここに人が通るであろうと予測したのだ。それも、このボケ老人を制御できるほどの力を持つ人間が通ることを。
「おじい様、これはどういうことですか? 凛音は、私に授けたはずですが?」
「ふむ、人の物をすぐ欲しがるのが儂の悪い癖でな。かわいい孫娘の為にと思って手放しては見たが……惜しいことをした」
「凛音は私の奴隷です。これ以上おじい様が私の所有物を汚すおつもりなら」
「――――つもりなら、なんだと?」
「…………っ」
「ククククククク……姫よ、己の立場を弁えよ。お前に儂を屈服させることはできない。なぜなら、お前はまだ弱く脆いただの子供だからだ。大蔵の名をもらっただけの、な。ふむ、しかし儂に牙を向けるその姿勢、悪くはない。今日は孫娘に免じて許してやろう、凛音よ。だが――――」
悪魔は不気味に笑った。神はなぜ、このような人間とも思えぬ所業を繰り返す者に富と権力を与え、彼らのような子供たちに凍てつくような現実を与え続けるのだろうか。
一つ目は、彼らが人類とは全く異なる因子を持っていること。
二つ目は、彼らには特別な人権が与えられていること。
三つ目は、彼らが家畜であること。
「今度は容赦せんぞ。薄汚いミュータント共よ。いや、家畜共……貴様らに与えられた人権は貴様らを保護するためにあるのではない。我々人類が貴様らを支配するために作られた法なのだ。貴様らが、一体誰のおかげで生きていられるのか、ゆめゆめ忘れるな」
冥星、姫、凛音は、ここに集う。己を縛り付ける世界という存在に対して常に違和感がある。だが、それを表に出すことはできない。そのように教育されているからだ。
まるで家畜だ、と凛音は己を哀れむ。理不尽に暴力を振るわれ、それでも主のための働く家畜。その先に一体何があるというのだろう。
まるで人形だ、と姫は自らの無力さに苛立つ。それは世界に対して、あるいは大蔵という家に対して、目の前に突き付けられた理不尽に対して……。
「――――おいおい、勘違いするなよ爺様」
この場にいて、誰よりも傍観者でありながら冥星は己の意思を貫く。
まるで彼の世界に一切の壁などないかのように、彼は真っ直ぐ臥薪を睨む。
「俺が生きていられるのは農家の皆さんのおかげだ。そして食事を作ってくれている給食のおばさんや認めたくないが明子のおかげだ。しかしだロリコン爺? お前は一体俺に何をしてくれたんだ? さっきから見ていれば自分の変態的な趣味を暴露しているただのボケ老人にしか見えないぞ? いいか? この世界ではな、爺のような働きもせずゲームばっかりしているような屑を――――ニートというんだ」
城島冥星、若干一一歳にして大蔵家に啖呵を切った瞬間だった。
後にも先にも、彼のようなとんでもないバカは現れなかった。
同時に、彼は光だった。いつか、この世界を変えてくれるのではないかという幻想を抱かかせるかのように、彼はキラキラと輝いていた。
無論、そんな気持ちはこれっぽっちも少年の心には存在しないのだけれど。
ミュータントの説明はもっと先になるので
「凛音、どういうことか説明、できる?」
「姫…………私がこいつを中に入れたんだ、お腹空いたっていうからご飯食べさせた」
「……どうして、私の許可を取らなかったの?」
「だって、姫はいそがしいだろ? 今日も篠崎との縁談? とかいうので」
「……あんなの、ただ座っていればいいだけよ。あなたといる方がよっぽど有意義」
傷ついた凛音を介抱しながら大蔵姫はその体を抱きしめた。凛音は少しくすぐったそうにしながらそれを受け入れている。先ほど恐怖に歪んでいた彼女からは想像できないほど穏やかな表情をする。まるで救世主のように姫を見つめていた。
「それで、あなたは一体何の用でこの大蔵の土地に足を踏み入れたの?」
「さっきから言っているだろう。ご飯を集りに来たと」
「集りって……鳥じゃないんだから。あなたのせいで凛音がひどい目にあったの。反省して」
「知らん。だいたいあの爺は何様のつまりだ? ロリコンにもほどがあるだろ」
「……まぁその点については大いに同意するけれど……あなたには関係のないことよ」
姫は冥星に見向きもせず、凛音の体を持ち上げようとした、がフラフラと覚束ない足取りで油断すればどこかにぶつかってしまいそうな状態だ。下手をすれば凛音が更に傷を増やすことにもなりかねない。
「どけ」
「あ、ちょっと……」
「なぁ!? ど、どこ触ってんだ、てめ……」
凛音を己の腕から強引に奪い、スタスタと歩き出した冥星に軽く怒りを覚えた姫。いきなり男の腕に抱えられた自分に戸惑う凛音。
「お、おろせよ、は、はなせって、やめろよ、こんな体、他のやつにみられたくねぇんだよ……」
「もう見ている。ぼろぼろで汚らしい肌だ。そこの雛人形とは比べるべくもないな」
ひどい言い草だ、と姫は思う。普通この状況で相手を追い詰める必要があるのだろうか。明らかにこの男にはデリカシーというものが欠けている気がする。女に対する扱いというものがまるで感じられない。さすがは彼氏にしたくない男ランキング二位の男、だったか。確か隼人がそんなことを言っていたな、とふと思い出した姫。どうでもいいことだ。
「んだよ……お前もいいとこのボンボンなんだろ? 私は奴隷だぞ? いいのか? 汚いぞ?」
「なんだ汚いのか? 風呂に入れ」
「毎日入っているよ! そういう意味じゃねぇ!」
「だったら、何か問題があるのか?」
「……いや、お前がいいならいいよ」
「なら黙ってろ。重いんだから」
「~~~! さいっていだなお前!」
女という生き物は体重の話になるとどうしてうるさいのか。この年は女にとって成長期だと保健の時間に習ったはずだ。身長も体重も一時的に男を上回るほどの成長を見せる者もいる。現に凛音や姫は冥星の身長よりも少し高いくらいだ。身長が高ければ体重も比例して高くなるのは自明の理。何を慌てることがあるのか。
「田中太郎」
「…………」
「田中太郎、返事をしなさい」
「おい、田中太郎、呼んでるぞ!!」
冥星は大声を張り上げて、いるはずのない人物の名前を連呼した。自分を見つめながら平々凡々極まりない名前を呼び続ける姫は滑稽だったが、残念ながら自分には冥星という親がつけてくれた、かもわからない素晴らしい名前があるのだ。当然無視することにした。
「あなたのことよ、田中太郎。自分の名前を忘れるほど愚かな生き物なの?」
「愚かなのは貴様だ。なんだそれは? コロコロコミックで連載されていた宇宙人か? 俺には冥星という神聖で超かっこいい名前があるんだ。覚えておけ愚民」
「それで、太郎は隼人たちの友達なの?」
「無視するな雛人形の分際で。あいつらは手下だ。俺がいずれ作るカリスマニート社会建国のために必要な人材なんだ」
「くすっ……バカみたい。そんなのできっこないわ」
「不可能を可能にするからこそ面白いのだ。俺はめんどくさいことは大嫌いだが、めんどくさいことをしないためにする努力は全力で頑張る男だからな」
「ただのわがままな子供じゃない」
「子供だ。だからあのロリコンにも敵わない。生活も一人では無理だ。毎日、誰かに感謝して生きなくてはならない」
凛音をおぶったまま冥星は進んでいく。やがて彼女の部屋らしき場所に案内され、粗末なベッドの上に寝かせた。周りには生活品らしき物は一切なく、学校のランドセルと教科書、情け程度に机があるくらいだ。まるでそれ以外の物に興味を持つな、とでも言いたげだなと冥星は関心した。
「なるほど、いい環境だ。奴隷を飼っておくには適した場所だな。合格点を与えてやりたい」
「……私には意見できる権利はないの。この子を授けてもらうことしか、できなかった」
「一体何の言い訳をしているのかわからんが……奴隷を飼うためには適した場所だと、俺は褒めたのだがな」
「本気で言っているの!? 私たちは同じ人間よ!? ミュータントだからって、凛音だけこんなところで生活しなくちゃいけないなんて、おかしいと思わないの!?」
「思わない。そいつは奴隷で、お前は飼い主だ。ミュータントだからとか、人間だからとかそんなことは関係ない。上と下があり、強い者と弱い者がいる。強い者の上にはまた強い者がいて、弱い者の下にも弱い者がいる。お前がそいつの上にいて、ロリコン爺の下にいるようにな」
「…………子供のくせに、随分落ち着いているのね、冥星君」
姫は仇を見るような目で冥星を睨みつけた。世界がこうあるべきだ、と信じて疑わない者の目だ。冥星は姫と目を合わせることなく淡々とつぶやく。言葉に意味などない。あるのは理想ではなく現実の世界。どこまでいっても現実の世界は変わらない。理想を抱く暇もなく、現実はいつも自分たちを追い込み、追い詰める。一切の容赦はなく、慈悲もなく。
――――愛すらも。
「お前はさっき、そいつのことを奴隷と言ったな? この世界でそんな制度はとっくの昔に消え失せたことは、もう教科書で習ったはずだ。にも関わらず、お前はそいつを奴隷と言った。なぜだ?」
「……それは」
「オークションか?」
「!? どうして、それを……」
「聞いたことあるからな。なぁ、お前、オークションにかけられたんだろ? で大蔵家に引き取られた、と」
凛音はベッドの上で肯定も否定もしなかった。ただ、シーツを握りしめる力が僅かに強まるのを冥星は見逃さなかった。
ここで冥星は少し後悔した。別に凛音のことなど興味はないしどうでもいい。しかし結果的に冥星は凛音の出生から今に至るまでの経緯を把握してしまったわけだ。
よくある話なのだ。人身売買など。特に、今の世の中では。
「おい、オークションはいつ開催されるんだ?」
「あなた……子供の分際でオークションに参加する気? 無理よ、それにあんなところ行くべきじゃない」
「つまり、お前は行ったことがあるわけだ。不公平だ、教えろ。さもないとこいつの出生を学校でばらすぞ」
「……まさか、おじい様よりも外道がいるなんてね」
「姫、私はいいよ。こんなやつに話す必要なんてない」
「……いいの、別に減るもんでもないし……一週間後のこの日深夜一二時に大蔵本家の広間よ」
「よし、こんな辺鄙なところまで来たかいがあったというものだ……」
冥星は今日初めて溌剌とした表情になりウキウキと心を躍らせた。頭の中は当然、己の味覚を刺激する数々の食材。それもオークションならではの高級食材(あるはず)だ。
とりあえずどうやって金を調達するかが最善の問題だ。城島家の相続権は冥星にあるが、残念ながら口座は凍結され、キャッシュカードは明子に没収されている。口惜しいこと極まりないが、所詮子供なのだ。どうすることもできない。
脅して金を巻き上げるか。先ほどの様子だと、どうやら凛音が奴隷だと知られてはよろしくないようだ。ここでそんなことを思いつくからこそ、冥星は屑と呼ばれているのだろう。それを実行するからこそ、真の屑なのだ。哀れな子羊共に絶望を味あわせてやろうと冥星の顔が吊り上った――――。
「はい、あなたの分」
「……なんだと?」
饅頭だ。なんの変哲もない饅頭が冥星の前に差し出される。茶菓子に最適な程よいこしあんが口の中で広がりまさにお茶が欲しくなる甘さだ。そんなことを思っていると、これまたあつあつのお茶が差し出される。連続のお・も・て・な・しコンボにさすがの冥星もたじたじだ。あやうく自分はなんて意地汚い愚かな生き物なのだろうと自害してしまうところだった。
「お・も・て・な・し(滝○クリステル風)」
「…………え? ごめんなさい、なに?」
「……なんでもない。それよりも俺を懐柔してどうする気だ? いっておくが、饅頭一個でどうにかなるほど俺は安くないぞもぐもぐ……」
「もう食べてるくせに……別に懐柔するつもりなんてないし、そんな価値もないでしょ。おいしいお菓子は皆で食べた方がよりおいしくなるの」
「その理論については大いに賛成する。食事は大勢の方がうまい。雛人形、なかなかいいことを言う」
「……あのね、私には姫っていう名前があるの。それにあなたみたいな意地汚い男に褒められても嬉しくない。食べたらさっさと出て行きなさい」
「言われんでも出ていく……ああそうだ、今回のオークションの目玉商品はなんだ? 食材だろ? そうだろう? そうといえ!」
姫は再びオークションの話題となったことに対して険悪さを隠しきれないようだったが、やがて吐き捨てるようにつぶやいた。
「――――金色のアンティークドール……残念ながら食べられないわよ」
※※※※
「え? お前マジかよ……さすがにそれは」
「うん、危険だよね。いや、犯罪だよ冥星」
「それがどうした? 犯罪だろうがなんだろうが、俺は高級食材を手に入れに行く」
「大蔵家に侵入って……俺、篠崎家だから報告しなくちゃいけないんだけど」
「なんだ隼人? 貴様また裏切る気か? よしいいだろう。そのかわりお前の醜態をあの女に逐次報告することになるぞ。隼人は変態、ロリコン、巨乳好き」
「変態じゃねーし、ロリコンでもねーよ!」
「巨乳は好きなんだよね」
「……男なら、あの山を越えてみたいと思うだろ普通」
「ちなみに、今の言葉はしっかり録音しておいたからな」
「お前鬼畜すぎるだろ……」
冥星は仕込んでおいたボイスレコーダーを大音量で流した。すると篠崎隼人の女子が一〇〇%引くであろう言葉がスピーカーで流れた。近くの女子がひそひそと話しながら廊下を去っていく。哀れ、隼人。
「……わかった。わかったよ! 黙っておいてやる! ただし! なにすんのかわかんねーけど協力もできねーからな」
「冥星、ごめんね。俺も、さすがに悪事に加担するのは……」
「安心しろ。お前たちに期待はしていない。もとより俺一人で行くと決めていたからな」
冥星は姫からもらったオークションのチラシを開いた。そこには金色の髪で、まるで外国の人形のように佇む一人の少女が映っている。今週の目玉商品、ミュータントの美少女。
虚ろな瞳は、なにか薬物を定期的に摂取され、心身ともに抜け殻となっているかのような印象を受ける。上半身裸の写真と、ドレスを着た写真、アップの写真が一枚ずつ映されている。児童ポルノなどくそくらえとでも言いたげだ。大人の性癖に関しては心底落胆を隠せない。
――――いったい、こんな物の何に惹かれるのだろうか。
「うぁあああ! は、はだか!?」
「冥星、こういうのが好きなのかい?」
「違うわ馬鹿者。俺はこいつの股の下に映っているこの黄金のリンゴとやらが食べたいんだ」
「は、はだか、ま、まるみえーーーー!」
「なんか……この女の子、怖いくらい綺麗だけど……人形みたいだね。生きてる感じがしない」
うるさい隼人を黙らせながら達也は悲しそうにつぶやいた。
達也たちにはこのチラシがなんなのか、冥星が何をしようとしているのかは知らせていない。理解できるほど心が大きいとは思えないからだ。むしろ知ったところで精神的な負担が大きすぎて不安定な状態に陥ってしまうかもしれない。
「あ、このリンゴ……十万円からって書いてあるけど、冥星そんな大金あるの?」
「ない、そこでお前たちに集めさせようとしている」
「達也、そろそろ帰ろうぜ」
「うん、隼人はまた姫ちゃんとの縁談話?」
「……あ~、まぁ、な」
「俺も海星ちゃん誘ってどこか遊びにいこうかな」
冥星の優秀な手下は女に現を抜かしすっかり腑抜けになってしまった。小学五年生の分際で色ボケとは言語道断だ。お互いに触れ合うだけで精一杯、触れ合ったら壊れてしまいそう! 夢いっぱい甘酸っぱい!
「く、くだらん」
食欲、睡眠欲……性欲。生きるために必要な人間の欲求。
すばらしい生き物だと思う。食への欲求は常に冥星を未知なる世界へ導き、睡眠は冥星の怠惰を支配する。食っちゃ寝こそ至高の生き方。カリスマニートの夢。冥星の野望なり。
性欲に関しても、おのずと理解するだろう。オスとメスが交わる。それだけだ。多くの若い者たちが盛大に励むのだから、それはそれは気持ちのいいものなのだろう。いずれはわかることだ。
しかし、と冥星はここで思いとどまる。この性欲を満たす過程で、どうやら私たちは愛を育まなくてはならない。なぜなら、愛のない性交は金がかかるらしいし、無理やりするのはレ○プといって犯罪なのだ。
つまり、愛をささやきながらでなくては性交は成立しない。
「なぜ、ここまでめんどくさいのだ……」
人間が与えた欲求の一つは、おどろくほど困難な道のりだ。いや、困難だと思ってしまうのは、冥星がそういう生き物だからだ。
隼人は、達也は、喜ぶ。性欲、とは程遠いがいずれそこに到達するまでの長い道のりを、彼らは辿り着くのだろう。
冥星は――――、彼は、彼には無理だろう。
冥星は、チラシに映った裸の少女をじっと眺めた。
白い肌、わずかに膨らんだ乳房、端正な顔立ち、プラチナブロンドの長い髪……素直に綺麗だと思う。こんなに美しい少女を見たのは初めてだ。
ただ、なぜ黄金のリンゴより勝るのかがわからないのだ。
少女はおそらく薬を打たれたまま、家畜以下の扱いを受けるのだろう。そんな人生のまま一生を終える。
額は一億。到底払える額ではない。おそらくオークションの主催者、大蔵臥薪が見世物として披露し、あわよくば大金を巻き上げようという算段なのだろう。
哀れな目をしている。絶望を越え、悲しみを越え、そのなれの果てが、この目か。
冥星は強者だ。己がこれからどんな道を歩んだとしてもその先には勝利があると決まっている。だから、地面に転がっている石ころの気持ちなどわかるはずがない。
強者が、弱者を助けることなど絶対にない。正義の味方はいない。世界は過酷。
そして少女エリザ・サーベラスは奴隷となる。
この世で最も恐るべき力を持ち、世界を破滅に導くことができるが……メンドクサイのでしない男の元へと。
これは、愛の物語。
一人の男が奴隷をいじめながら無理難題を押し付け罵る――ほんのちょっとだけ優しいところもあるがやっぱり鬼畜なくそ野郎と。
助けられ、尽くして尽くして尽くして泣きながら尽くしてもその愛を踏みにじられ、貶され叩きのめされる哀れな美少女エリザ――でも冥星を誰よりも理解し、愛している少女の、
「愛の物語です」
「いや、これは俺がお前をゴミのように扱い食べ物を解説する話だから」
「私と冥星様の愛の物語です!」
「うるさいバカ奴隷! さっさと飯の仕度をしろ!」
「……ううう、冥星さま、ひどいです……」
「だいたいお前の出番はまだずっと先だ。無能なんだからせめて立場ぐらい弁えろ屑、屑奴隷、金髪ビッチ」
「び、ビッチじゃありません! み、みなさんビッチじゃありませんから、い、いつか冥星さまが、もらってくれるまで私、エリザ・サーベラスはアイアンメイデンを貫きます!」
「うるせぇ!」
「ああ、髪を、髪をひっぱらないでください」
――――きっと、愛の物語なのです!(エリザ談)
運命の出会い、なわけない
「すべての準備は整った……あとはお宝を頂戴するのみ……この冥星の華麗なる活躍に酔い痴れるがいい、愚民ども、おぅ!?」
「なにやってんだ、あんた……ってへぇ……珍しく小太刀なんか持って稽古でもすんのかい?」
冥星が自宅の玄関で出陣の宴を一人で開いていると、なにかあれば自分の頭をボカボカと叩く野蛮人、明子がやってきた。冥星のただならぬ気配に何かを察したのか、次第にその顔つきは険しいものになっていく。
「あんた……いったはずだよね? その構え、もうやめなって」
「久々の人殺しだ。少し勘を取り戻しておかないとな」
「……聞き捨てならないねぇ、そりゃ、なんの冗談だい?」
「冗談ではない。俺は今から人助けに行く、そこで人を殺さなくてはいけない。そしてお宝をゲットするんだ」
「……あんたのバカ発言には慣れている。でも、殺しは別だ。いいかい? 殺しはしてはいけない。これは私との約束だったはずだ。破れば」
「冗談だ。ただ、どうしても相手を半殺しにしなくてはいけない」
「……今日は、珍しくいい目をしているじゃない。あの日、私を殺そうとした時とおんなじだ。あんたがその眼をするときは、ふふふ……女だね」
「だから人助けをしに行くと言っているだろう。ただしついでだ。このチラシの……わかりにくいがこの女の股の下にある黄金の林檎が食べたい。だが金がない、奪うしかない」
「アホか! っといいたいところだが、オークションか……ミュータントの横流し、奴隷化っていうのはこんな村まで広がってんだねぇ」
「こいつもついでに俺がもらう。で、さっさとうっぱらう。その金で焼き肉パーティーだ!!」
「……そんなこといって、ほんとは救いたいんだろ?」
「……救う? 何を言っている明子、俺は救世主ではない。こいつに今まで以上の地獄を味あわせるのだ」
「……まぁ好きにしな。面倒くらい私が見てやるよ。なんにしろ、あんたがそこまでやる気になるくらいなんだ。きっとその価値があるんだろう。ただし、人殺しはだめだ。わかっているね? それと、ミュウを使えばあんたの首が吹き飛ぶ」
「……やれやれ国家第一級指定のミュータントっていうのは苦労が大きい」
冥星は自分の首に巻いてあるチェーンを引っ張る。すると警報が鳴り、力を入れて引っ張ればお前の首が吹き飛ぶぞと警告される。おそろしくも趣味の悪いアクセサリーだ。
ミュータントには全て装着されている物だ。保護者に無許可でミュウ……つまり超能力を使えば無条件で首と胴体が引き離される。死ぬのだ。
「正直、今でも驚いている。あんたが素直に私に従って、その首輪をつけたことに」
「そうするしか、生きる道がなかったからな」
「私を殺して、逃げる道もあった」
「逃げるのはだめだ。姉が逃げて俺が逃げれば責任を負う者がいなくなる」
「……海星は? 妹思いの兄はそんなことをかわいい妹に押し付けられない?」
「あいつはどう見てもブスだ。どこが可愛いのかわからん。それにミュウも俺と比べ物にならない。城島の恥だ。よって責任をとる価値すらない」
「あんたの中の美人像っていうのを一回見てみたいね……」
「明子はゴリラだが、美人だと思うぞ」
明子は目を丸くして照れくさそうに笑った。冥星は時々こうやって無自覚に人を評価する。ちなみに冥星の中で美人というのはご飯をおいしく作れる人なので、食堂のおばちゃんなんかはドストライクなのだった。
ではな、と冥星は夜の闇に紛れ込み颯爽と姿を消した。その身のこなしは、軍人である明子を圧倒するほどの速さだった。
「あんたが、闇の帝王にならなくてほんとよかったよ……ね、天星?」
燃え盛る炎の中、一人の親友を今でも探し続けている明子。
あの日、あの時、あの場所でつけられなかった決着は、明子の右目を代償にして今でも燻っている。
生きている。奴は必ず。
今は、何年の何月何日だろうか?
意識を取り戻せば、何かおかしな色をした液体が僅かな痛みと共に体の中を虫のように這いずり回る。そうすると、エリザ・サーベラスはまた自分の体が深い沼に沈み込んだように動かなくなる。
抵抗はおよそ一年続けたはずだ。こう見えても自分はかなり粘り強い性格でどんな苦境にも耐えられる訓練をしていた。
していた、というのはもうその必要がなくなったということだ。サーベラス家はもうこの世のどこにもない。血縁は皆殺し。残ったのは自分という一人娘だけだった。
二年前……だったろうか。ミュータントに対する法律がいきなり厳しくなったのは。きっかけは、となる暴動だ。ミュータントたちが集団であちこちの都市を制圧しながら政府に立ち向かった戦い。
『革命』と親は言っていた。そう、革命だ。未知なる存在であるミュータントたちを経済的に、政治的に追い詰めるこの世界に対する革命。それは全国規模にまで及ぶ運動となった。
首謀者は国によって違う。例えば、合衆国では『ジュリアナ・ローズ』と呼ばれる一人の少女が表に立って戦った。一人で数千人を一瞬にしてねじ伏せることのできる魔女。合衆国は彼女を止めることができず、一部革命は成功したという噂が流れた。それもつかの間出来事で、信頼していた者たちの数々の裏切りにより彼女は闇の内に消えていった。少女を利用して利益を得たかつての同胞は今や合衆国のトップに君臨している。
そんな話は多々ある。例えば、エリザが貨物船に乗ってやってきたであろう、この日本という国でも革命は起きていた。だが、協力関係にあった家々が次々に断絶し、結局残された中心人物は家族に殺された。なぜ殺されたのか、そもそも中心人物が誰だったのかはわからないままだ。
エリザは。
彼女の場合、静かに暮らしていただけだった。確かに親は革命とやらに加担して物資の運搬などを秘密裏に行っていたらしい。ミュータントとして生まれた自分が、少しでも生きやすい世界に変えたいという小さな願望を抱いて、革命に命を燃やした。
「ぁ……めぇ……な、さ……ぃ」
「おい、また泣いてるぞ……さっき薬を打ったばかりなのに」
「哀れだねぇ……ミュータントとして生まれてこなけりゃ普通に暮らして普通の人生が送れたのに」
周りの人の言うとおりだ。自分がミュータントという化け物に生まれてこなければ、きっと両親は生きていた。自分は小さな家で貧しいけれど幸せに暮らせていたのかもしれない。
エリザはこの二年、ただ両親に対する贖罪に費やした時間しか覚えていない。意識がある一五分間がその時間。あとはただお人形のようにあちこちを触られ、着替えを着せられ、また脱がされる。
「臥薪さんも、人が悪いねぇ……一億なんて出せるわけねぇだろうが」
「どうせ、見せたいだけだろ。自分にはこれほどの物を手に入れるだけの資産があるって」
「か~~……腹立つねぇ……いっそのこと、傷物にしてやろうか?」
「馬鹿者、そんなことよりもいい方法があるぞ」
「なんだよ、言ってみろよ」
「簡単だ。奪うのだ。盗賊のように、泥棒のように」
「おいおい相棒! そりゃ無理ってもんだ。こんな物抱えてどうやって逃げ回るってんだ! すぐに捕まっちまうよ!」
「どうせ盗品だろう? 盗んだところで足などつくまい。いっそ盛大に見せてやればいい、これは俺の物だと」
「…………お、俺はいいよ。見てるだけで満足だから。が、頑張んなよ、相棒」
「そうか? なら遠慮なくいくぞ。ちなみにお前の相棒はさっきから床で爆睡しているぞ」
「……え?」
※※※※
「みーつめるキャ○アイ! っと。いっちゃあがり」
エリザの目の前には白髪の少年が刃物を手に持ち笑っていた。見張りをしていた男たちを瞬時に眠らせ、自分を抱きかかえたままさっさとその場を去っていく。何が起こっているのかわからない。ただ、わかるのは連れ去られているということ。どこへ?
「は……な、ち……て……」
「断る! それよりも、黄金の林檎なんてどこにもなかったぞ! 糞が! やっぱりお前を売った金で焼き肉パーティっていう設定なのか!」
どうやらこの少年も自分を売るためにさらったらしい。自分にいったいどんな価値があるのかわからないが、金に換えられるほどの値打ちがまだ残っているのは嬉しかった。
嘘だ。悲しい。死にたくなるほど。
「い……やぁ…………い……やぁ」
「うぉ!? 鼻水つけられた! 海星みたいなことするやつだな! ったくこれだから女ってやつは……」
エリザは全力で抵抗した。ここが最後の力を使う時だと判断した。この機を逃せば自分は一生愛玩動物のように扱われ、骨の髄まで家畜としての教育を施されるのだろう。
かみついた、爪を立てた、男なら……金的を狙った。まるで猛獣のようにエリザは男に立ち向かう。
「ぐ……お前、俺の優秀な遺伝子が一〇〇万は死んだぞ、今」
アホなことを言い倒れる男に見向きもせずただひたすらにエリザは走る。何かを叫んでいるようだったが無視した。逃げる、ただそれだけが己の使命。駆け抜け、駆け抜け、駆け抜けた先にようやく出口を見つけた。広い門だ。ここを潜り抜ければきっと自由になれる。
「――――ネズミが忍び込んだようだな」
エリザは悲鳴を上げたかった。しかし声が上手く出ない。長年しゃべらずにいたせいか、喉がつぶれてしまったのかもしれない。ただ、強い力で地面に押さえつけられているはわかる。捕まったのだ。つまり、自分にはもう永遠に出口は訪れない。永遠に……。
「金髪、あきらめるな。お前は今日から俺の奴隷だぞ。根性を見せろ」
俊足――――と呼びにふさわしい勢いで何者かが一人の男に飛び掛かる。猫のように素早い勢いで刃物を一振り――一瞬のうちに男の腕が一本棒切れのように吹き飛んだ。悲鳴と共に血しぶきが辺りを舞う。
「――――言い忘れていたが、俺は五番目に人殺しが好きなんだ。なぁ、大蔵臥薪……」
少年は笑っていた。血の雨で濡れた己の髪をかきあげ、銀髪の悪魔は老人に微笑みかける。どちらが本物の悪鬼か、勝負をしよう。そう言っているようだ。
「こんなことをして、ただで済むと思っているのか!」
「こちらのセリフだぞ、大蔵臥薪。人身売買など、己の器が知れたな。しかも黄金の林檎などどこにもないではないかこの嘘つきめ!」
「小僧の分際で、儂に刃を向けたな……おのれ、おのれ!」
「なんだその刀は? 剣先が震えているぞ? どうした! 裏切り者の大蔵臥薪!! その刃で我が同胞たちを打ち取ったのだろう!? それとも己はただ見ていただけか……あの炎の中、あの時の俺のように!」
少年の目はギラギラと輝いていた。その瞳の奥にはしまいこんだはずの憎悪があふれ出ている。今、目の前の老人を殺せと誰かがつぶやく。
「……お、お前は……まさか」
「……俺はめんどくさいのが嫌いだ。貴様がこれ以上俺の目の前でうるさいハエのように飛び回るなら容赦はしない。静かにしているというのなら俺が盛大にお前の財産を貪ってやろう」
「ふ、ふざけおって」
「えらべぇ!! 大蔵臥薪!! 貴様に選択権はないぞ!!」
ここにきて、大蔵臥薪は一体何に対して怯えているのだろうか? 目の前には小僧一人。奴隷一人。自分にとっていとも簡単に捻りつぶすことのできるガキ共だけではないか。
たかが腕一本取られたくらいで、なんともない。自分が培った戦争の経験が今こそ試される時ではないか……さぁ抜刀しろ臥薪、小僧を黙らせろ臥薪。
「う……うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
無理だ。無理に決まっている。相手はただの子供ではない。ミュータントだ。いや、ミュータントなど自分の敵ではない。では、なぜ?
なぜ逃げている? なぜ立ち止まらない。こんなことが知られたら、自分は一生外を出歩くことなど不可能だ。
決まっている…………。
あいつは、あの『城島』の生き残りだからだ……!
※※※※※※
「よーし、いい感じにかっこいいな俺」
エリザは少年を一目見てわかった。バカであると。
今、少年は小太刀を放り投げ、おかしなポーズをとりながらぶつぶつと自分を賛美している。その様子は不気味でありながらどこか憎めないような感想を抱かせるから不思議だ。
「おい、奴隷、お前黄金の林檎知っているか?」
「…………?」
「なんだ日本語しゃべれないのか? 屑だな。あーあー」
少年はそのガサツな見た目とは違い悠長なフランス語でエリザに聞いた。
黄金の林檎はどこありますか、金髪の淫乱女?
「…………イ、インラン、チガウ! Pomme…オナカ、スイテ、タベタ」
「なに?……ほんとに屑なのかお前は!! 吐け! 今すぐ吐け! さもなければ吐けーーーー!!」
「ア、イ、イ、イタイ! イタイ、イヤ! シナイデ!」
勢いで取り乱してしまった冥星は怯えるエリザをしばらく見つめたあと、ゆっくりと近づき優しくその髪を……引っ張った。
「vous! ナニスル! イ、イタイ!」
「冥星さまだ」
「メイセイ?」
「さまをつけろ! Aristocratie! 冥星、さま!」
「メイセイサマー?」
「お前、俺の、奴隷、よろしいか?」
「い、イヤ……ワタシ、モトメル、ジユウノミ」
「無理、林檎、吐くまで、俺の、奴隷」
「イヤ……」
「だったら売り飛ばす、お前、いらない用済み、わかる?」
少年はエリザにとって王子様ではなかった。ただ、ほんの少し自分の買われる経緯が違うだけだった。意地悪で、鬼畜で、卑怯な、自分よりも一つ年下の男に買われただけ。
その時は、ただそれだけだったのです。
どうしようもない主人公だな
「っていうことで、俺が大活躍だった。悪は滅びるものだ」
誰も口を開くことができなかった。なぜなら、開口一番にそんなことを口にして爆睡してしまったからだ。一応説明しようという気があったらしいが、どうやら途中でめんどくさくなり、必要最低限の言葉で可能な限り短時間で理解を得ようとしたらしい。残念ながら皆が求めているのは冥星の活躍ではない。
なぜ、冥星の隣に椅子に座らず体育座りをした外国人がいるのか……ただそれのみだった。
まるで陶器のように白くなめらかな肌。マリンブルーの大きな瞳とプラチナブロンドの長い髪。まさに絵本の中のお姫様がそのまま出てきてしまったような美しさを纏った少女がそこにはいた。
残念ながら、少女の青い瞳は虚空を見ている。生気が抜け落ちたようにだらりとした肩、顔までかかる長い髪は手入れが雑でその美貌は薄れてしまっている。
「ど、どうなってんだ……いったい、どうなってんだ、冥星……」
隼人は一体どう使えば五年間でそんなにボロボロになるのかわからないランドセルを机に置いたまま突然の出来事に立ち竦んだままだ。
達也は昨日チラシで見た女の子にまさか今日出会えるとは思わず驚嘆した。いつもサプライズをくれる冥星に賞賛を与えるとともに、やはり少女は人形のように微動だにしないことを哀れに思った。
「アンティークドール……昨日、盗まれたっていってたのに……」
「犯人はあいつってこと?」
「だったら、おじい様の片腕を切ったのは……」
「……姫、私が殺ってもいいんだぜ?」
姫と凛音は以前から彼女のことを知っていた。祖父が二週間前ほど取り寄せた新しいおもちゃを、いち早く家族に披露したからだ。あの時と同じ、生気の籠っていない瞳を見ると境遇自体はあまり変わっていない――下手をすればそれ以上にひどいことなる、可能背もある。
「――いいえ、凛音。見なかったことにしましょう。おじい様から特にお達しがあったわけではないもの」
「……姫がいいなら私はいいけど」
しかし、彼女がこれからどうなるか、それ次第であの少年を見定める必要が出てくる。彼女にかかった暗闇はとてつもなく深い。その傷を癒すには何年も、下手をすれば一生かかっても拭いきれないかもしれない。
少年にその覚悟があるのか。姫は複雑な思いで彼を見つめていた。
「あ」
あ、と冥星はいきなり机から跳ね起きた。机はその衝撃でガタンと揺れ、中身がぼろぼろと床に転げ落ち……ることはなかった。なにせ毎日中身を空っぽにしたまま学校に通っているバカがそんな失態をするはずがない。前の席へ勢いよく倒れた机は無残にもそれらを巻き込みガラガラと鈍い音を立て崩れ落ちた。物には魂が宿る言うが、人物が人物なだけに迷惑この上ない。運のいいことに、冥星の前の席は空席なのだが。
「忘れ物したが……まぁ、いっか」
昨日の晩、騒ぎを起こした冥星だったがその勝利に酔いしれるあまり持ってきた小太刀をそのまま大蔵屋敷に置いてきてしまった。一応、形見としてもらった名のある品なのだが、林檎がなかったことにひどいショックを受け、そんなことを言っている暇はなかった。
「お前のせいだ、このブス!」
「…………」
「おい、返事をしろ、奴隷」
「…………ぃ」
「くそ……とんだ厄介者を拾ってしまったぞ……ブスだし、根暗だし……海星が二人いるみたいだ……」
冥星は頭を抱えて悩んだ。前者に関しては冥星の美人像が他者と異なるためであるが、後者に関しては確かにその通りだ。誰がどう見ても根暗、というか生きているかすら不安になるほど生気を感じられない。
「エリザ・サーベラスさんだ。フランスからの転入生で、秋坂冥星、海星兄妹の家にホームステイすることになっている……のだったな、冥星」
「? そいつは俺が拾ったんだ。林檎を吐き出すまで苛めまくって遊ぶためにな。奴隷だ奴隷」
「よし。じゃあエリザ、空いてる席へ……あの白いバカの前になるな。それと、冥星、後で職員室まで来い。当然反省文だ」
「反省することなど何もない。俺はそいつ救ってやったんだぞ」
クラスに笑いが走る中、エリザは一言も喋らなかった。視線が怖いのだ。自分を見つめる目が、例え、悪意を持っていなかったとして今、この世界にいるすべての人間がエリザの敵なのだという錯覚に陥る。
それは長年の監禁生活で歪んでしまったエリザの精神が大きな原因だ。
それに、彼女は救われたなどとは思っていない。新しい環境になっただけ。いつもの通り黙ったまま注射を打たれて昼夜問わず体を撫でられたあの日々と対して変わらない。
エリザは身も心も壊れてしまった。
「わかっているのか、ブス? おい、ブース!」
「…………ぁい」
声が掠れる。エリザをもらった少年は平気で罵声を浴びせる。自分と同じ外国人のような白髪だが、東洋人特有の漆黒の瞳。背丈は自分よりも少し低く、体はほっそりとしたどこか気品を感じさせる姿。姿だけ。その他はエリザにとって苦手な人種そのものだ。
声が大きい。キツイ性格。胃がギュッとなるほどの悪口。乱暴者。
まるで悪人を絵にかいたような人物。
自分はついでに助けたのだと言っていた。林檎を吐き出すまで生かしているだけだと。
林檎を吐き出す? そんなことは不可能だ。食べてしまった物はもう、どうにもならない。
ならずっと私は彼の奴隷なの? ゾッとした。涙が溢れて止まらない。エリザは大衆の前で訳も分からず涙を流した。
「冥星、職員室、な」
「…………ブス」
エリザの世界はモノクロのままだった。
「ああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「冥星! デッキブラシ投げんなよ! きたねぇだろ!」
「珍しく取り乱しているね。どうしたのかな?」
冥星は納得がいかない。エリザを奴隷と罵った罰として(ついでに泣かせたことも)体育館便所の掃除に駆り出された。自分はエリザを救った英雄として称えられてもいいはずなのに、どうしてなのか。永遠にこびりついた汚れに八つ当たりをして考えるが一向にまとまらない。
そんな冥星を呆れながら男二人は見つめていた。
「ブスのくせに、奴隷のくせに……、あそうだあとで首輪を買ってきてはめよう。ワンと言わせてやる。いや、そのまえに料理だ。料理のできない奴隷など屑にも等しいからな」
「……ったく冥星のやつほんとはエリザが可愛いから意地悪してるんだぜ? しょうがねぇやつだな!」
「そう、なのかな? そうだったら別にいいんだけどね」
「いや、絶対そうだろ? エリザめちゃくちゃ可愛いじゃねぇか」
「うん、クラスで一気に一番になっちゃったね」
エリザは編入して早々、クラスの男子から求愛の眼差しで、女子からは嫉妬と羨望の眼差しで見られるようになった。しかし彼女には常に冥星の奴隷と言う衝撃的な二つ名が課せられている。いい意味でも悪い意味でも他者を寄せ付けない。
「……このままだと、冥星はエリザを捨てるんじゃないかな」
「へ? なんで? あんなに可愛いなのに?」
「……姫ちゃんに怒られても知らないよ? なんとなく、そう思っただけ。冥星が嫌いそうなタイプだから、さ」
「……ああ、あいつ容赦ねぇもんな。吉野のこと、覚えているか?」
「……うん。でもあんなことがあったから、隼人は冥星と友達になれたんだろ?」
「バカ、ちげぇよ。仕方なく付き合ってんだよ。冥星は俺がいねぇと一人ぼっちだからな」
「隼人も素直じゃないなぁ」
「だぁ~! 俺のことはいい! とにかく、冥星はもうちょっと女の子に優しくなるべきだと思うんだ、うん」
「……そうだね」
優しすぎる、と達也はつぶやいた。達也は冥星と友達になってから日が浅い。だが、彼がどういった人物なのかは彼が編入してから幾度となく噂で聞いたことがある。
そのどれもが根も葉もない噂なのだと付き合い始めてから気づいた。
学級崩壊寸前だった五年三組を別の形で崩壊させた男。
どんな男なのかと見ていたが、至って普通の、ちょっと頭のおかしい少年だった。
でも、達也は冥星が好きだ。
なんとなく、だが、冥星といると落ち着くのだ。まるで父親に守られているような安心感を得ることもある。おそらく隼人も同じことを思っているに違いない。でないと自分が変態的な人格の持ち主だと疑われかねない。
「やっぱりさっさとうっぱらうしかないか」
「――――それはちょっと早いんじゃないかい?」
「なんだ達也? お前もあのブスを庇うのか?」
「いや……冥星、エリザはきっと怯えているだけだよ」
「そうだな、俺を見るとガタガタ震えて立ち上がれないからな」
「だったら」
「だからこそだ、達也」
「え?」
やはり、と達也はある予感が的中していることに心の中で舌打ちをした。
冥星は、賢い。特に人の心を根本的に理解している。どれほどの経験をすればここまで他人を見抜く力が得られるのか本人に問いただしたいが、今はそれどころではない。
このままだと、エリザは確実に捨てられる。
冥星ならやる、と達也は確信した。
「ブスは、ブスのくせに性格までブスだ。世の中のブス共はあいつをブスっとしていて気に入らないだろう。俺もブスは嫌いだからあいつが気に入らない」
「嫌いだから、売り払うの?」
「逆だ。あのブスは俺にかつてないほどの嫌悪感を与えてくれた。手元に置いておけば毎日いじめてやることができる。いいストレスの発散だ。実用性がある」
「……意味がわからないよ、冥星」
「俺の予想だがな。あのブスは間違いなくこのあと、俺のことが好きになる」
「…………はぁ??」
真面目な顔でデッキブラシを掲げながら冥星は言った。エリザはこのまま冥星の言うことを聞いていればいつか冥星のことが好きになってしまうらしい。なぜ? 今までの会話でなぜそうなってしまったのか達也は考える。わからない。
冥星という男をまたもや見失ってしまった。
「……いい、ことなんじゃない、かな? それは?」
「何がいいものか、達也、バカかお前は。それじゃあ何の意味もない。嫌がっているからこそいじめがいがあるんだぞ。嬉しそうにしていたら何の意味もないじゃないか」
「つまり、真面目に話す気はないってこと、冥星?」
やっと達也は自分がからかわれていることに気が付いた。それと同時に怒りが込み上げてくる。なんて無責任な男なのか。拾ってきただの、捨てるだの。まるで人を物みたいに扱うのだ。何様のつもりだ。
「冥星、君は確かに賢い奴なのかもしれない。自分の思い通りに物事を動かす力が君にはあるのも確かだ。でもね、あまり舐めない方がいい、君はあまりにも見下している。世の中を、俺たちを」
「何を怒っているのか知らないが、俺は真面目に話したつもりだ。理解できないのは仕方がない。お前と俺では考えた方も物の見方も違う。だが、あのブスは俺が拾ったものだ。お前にとやかく言われる筋合いはない」
「そう、かい。ごめん、冥星、俺には理解できないよ。でも信じているよ、冥星がそんなやつじゃないって。信じさせてほしい」
達也はそう言うと自分のランドセルを拾ってそのまま帰ってしまった。その背中をじっと見つめたまま冥星は一言だけ、
「手伝えよ」
と声をかけたが残念ながらシカトされてしまった。言いたいことを言うだけ言って帰ってしまった。なんて薄情な奴なのか。友情など所詮は儚いものだ。
「さっさと終わらせて帰ろうぜ」
こんな時、隼人はいつもどおりだった。のんきにデッキブラシを振り回し、綺麗にしているはずなのになぜか汚くなってしまう困ったちゃんの隼人は冥星がやりかけた仕事を黙々と手伝う。
「難しく考えすぎなんだよなぁあいつは」
「そうだな」
「でもエリザが冥星を好きになるってのは、ぶふっ! ないない」
「なお、雛人形に先ほどの会話を」
「とにかく! 大人になれってことだな、冥星!」
都合のいいことしか耳に入れない男はバシバシと冥星の二の腕を叩きながら笑った。
もちろんこのあとボイスレコーダーを姫に渡して帰ったが、それよりも気になることがあった。
非常に、不本意だが、冥星は真っ直ぐにとある場所へと足を運ぶのだった。
「このままだと、エリザさんは確実の兄貴に捨てられます」
「…………イイ、ワタシ、ステラレタ、ドウゼン」
「生きるのが、苦しいですか?」
エリザは保健室で嗚咽を漏らしていた。背中を支えているのは海星だ。昨日いきなり兄が拾ってきた大きすぎる収穫物を見たときは驚いた。
帰ってくるなりエリザを放り投げ眠ってしまったくそ兄貴は後のことは任せるといわんばかりに明子と海星を振り回してくれた。
その一方で、兄が何を考えているのか悔しいが手に取るようにわかった。
だから、思い通りになどさせるわけにはいかない。
無責任なことはさせない。拾ってきたペットは最後まで面倒見る。当然のことだ。
「エリザさん。どんな理由があれ、生きることをあきらめてはいけません。私と兄も家族を失いました。だけどなんとか生きています。生きていれば必ずいいことがあります。せっかくのチャンスじゃないですか。ここであきらめてしまってはそれこそ両親が悲しみます」
「デモ、メイセイサマーコワイ、デス」
「あんな屑、怖がることありません。大丈夫です、まずは私の言うとおりに日本語を覚えてください。毎日一時間放課後に保健室で勉強しましょう」
エリザは初めて少し笑った。悔しいが超絶的に可愛い。自分には決して真似できない純真無垢な笑顔だ。
皮肉なことを考えている自分が下等生物のように見えて、海星は僅かに鼻白む。
どうせ、兄はこの人を捨てる。なら、兄が後悔するように仕向けるのだ。
兄は永遠に孤独の中に彷徨う亡者なのだから。
「いいですか。まずはですね――――」
「…………ハイ」
海星の思惑とは裏腹に日本語のレッスンが始まる。不思議とエリザはその講義を真面目に受けている。
結局、生きる希望を見失っていないのだ。口ではなんだかんだと言いながらこの女も生きたいのだ。
そうだろう。兄が死にたがりの者を拾うほど優しくはないのだから。
「ブーーーーーーーーーース! さっさと帰るぞ! 今度から俺が笛を鳴らしたら五秒で駆けつけろよ。いいな? わかったら返事をしろ!」
「は……はい」
「ん? なんか……まぁいいやおらぁいくぞぼけぇ」
「め、冥星さま!」
「はぁ?」
エリザは全ての勇気を振り絞って少年の前に立ちふさがった。
己の前に立つブスに対して容赦しない冥星はエリザを睨み付ける。途端に萎縮したエリザだが、不思議なことにスラスラと覚えたての日本語を冥星に伝えることができた。
「わ、私は悪口を言われることが嫌です。ブ、ブスっていわないでください」
「いやだ。ブーーーーーーーース!!」
「ううう…………い、言わないで、ください!」
「なっ! ちっ……」
海星を一睨みしたが当人は我関せずといったふうにさっさと保健室を出て行ってしまった。その顔はざまぁみろと言いたげだったことを冥星は絶対に忘れない。
ぶっ殺してやる、がその前に立ちふさがる障害を破壊せねばならない。
「わ、私にはエリザという名前が、あります。わ、私はミュータントです。こ、孤児なので奴隷です」
そこからの吐露は必要のないことばかりだった。しかし、エリザはやめない。理由は一つ、意味がわかっていないからだ。
「わ、私は男の人にたくさん触られました。でも処女です。め、冥星さま、どうか私を捨てないでください。私はあなたのためならこの身を――あぅ!」
認めたくないが、認めよう。冥星はこの女が苦手だ。バカも極めれば匹敵するほどの力を持つということだ。
握りしめた拳はあの日、誓った一つの成すべきこと成すために。
振り下ろした拳は、黙れと言わんばかりの勢いで女を殴りつけた。
「ご、ごめんなさい……ご、ごめんなさい……め、冥星さま」
「……立て、自分の足で立ち、俺を見ろ」
エリザは涙をいっぱいに溜めながら立ち上がり冥星を見た。するとどうだろう、さきほどまで恐れていた冥星という少年が、今ではただの年下の男の子だ。
「いくぞブス……今日はカレーの日だから早く帰るんだ」
「ぶ、ブスって言わないでください……」
「…………エリザ」
「…………はい! 冥星さま!」
「…………おらぁ!」
「あぅ! ど、どうして蹴るんですかぁ冥星さまぁ……」
「ブスなんだから笑うなよ、ったく」
「ひ、ひどいです……わ、私ってそんなにブスですかぁ?」
「俺が会った女の中でダントツだな」
「…………しくしくしくしくしく」
冥星は手が震えた。己のしたことは大罪だ。いつの日か必ず後悔する日がくることを知っている。
だが、それでも。
「泣くな、ブスなんだから」
「……あ」
握りしめた手だけは決して離さない。
それでも夜を越え、朝が来る。誰しもが生きるために。
「エ~~リザァァ!! カレーを早く持って来い!」
「は、はい!」
「ってなんじゃこりゃぁ! ご飯が見えないぞ!」
「え? だ、だって、たくさん食べると思って……」
「黙れ! ご飯とルーは一対一の割合がベストなんだ。そんなもの、おかわりすればいいだけのこと」
「す、すいません、やり直します!」
「いや、いい。寛大な俺は腹が減っているのでこれで許す。以後気を付けたまえよ」
いつになく、秋坂家の食卓はにぎやかだ。キッチンには母親代わりの明子が料理を作り、盛り付けや食器を並べている海星。そして今日から夕食を共にするエリザ。緊張気味に海星の手伝いをしている姿はなんとなく憑き物が落ちたようなすっきりした様子だった。
「クソガキ」
「あ? 誰がクソガキだゴリラ」
「誰がゴリラだクソガキ。で、なにがあったの?」
「なにがだよ」
「とぼけんじゃないよ。エリザだよ。今朝とは見違えるようじゃないか」
「そうか? 相変わらずブスのままだぞ」
「ぶ、ブスって言わないでください……ひどいです……」
「うるさい泣くな」
「……あんた、そのうち後ろから刺されるよ? ほんっとうにエリザがブスに見えるのかい?」
「ぶ、ブスって言わないでください~……」
「ブスだな」
「……頭の中か? それとも単純に目がイカれてんのかね……」
さきほどからエリザがブスかそうでないかの議論を続ける二人。ちなみに当人は置き去りでもう涙目だ。冥星が昨日から合計して三十回以上繰り返しているのですっかり自分の容姿自身がなくなってしまった可愛そうなエリザ。
「兄貴の目は腐ってるから、気にしないでエリザさん」
「か、海星さま、あの、私のことはエリザとお呼びください」
「おい、そいつに様なんて必要ない。俺のような由緒正しい正真正銘の御曹司と違って、そいつは生まれも血筋も褒められたものではないからな」
海星の目が途端に憎しみに満ちた色に染まる。兄が放った侮辱の言葉が許せなかったのだろう。言い返したいが、ここで争っても夕飯が遅くなるだけだ。そう判断した海星は冷静さを取り戻し横で困りがちに微笑んでいるエリザに視点を移した。
「エリザさん、私に様は必要ないです。兄貴がどういったかは知りませんが、私はエリザさんを友達……ううん、今日からは家族になるのかな。なんだか実感は湧かないけど、とりあえずそうなるから……気軽にいこうよ」
「そ、それじゃあ、か、海星ってよ、呼んでもいいですか?」
「いや、呼び捨てはまだレベルが高いかな」
「!? ううう……じゃ、じゃあ、海星ちゃん……さんでどうでしょう?」
「冗談だよ。エリザ、これからよろしくね」
「はい! 海星!」
少女たち二人は出会って間もないにも関わらず距離を近づけつつあった。白髪の海星と金髪のエリザが並んでいるとまるで絵本のお姫様が笑い合っているようで、現実味がない。
エリザは学校一の美少女にランクインした。海星は二位に下がったが、本人たちはそんなことなどどうでもいいし、興味もない。エリザはからかわれているだけじゃないかと疑っているぐらいだ。
そんなことよりも、海星たちは目の前の繋がりが何より嬉しかった。海星は保健室登校で友達など一人もいない。別に人嫌いというわけではない。むしろ社交的だし友達も欲しかったのだ。残念ながら保健室に通っているため周りからは奇異の目で見られることが多かったため敢えて自分から話しかけることはしなかった。相手も戸惑うだけだと判断したからだ。
「私は保健室にいるからクラスには顔を出さないけど何かあったら相談しに来てね。もちろん家にいる時は何でも相談して」
「か、海星…………わ、私こんな優しくされたの、は、初めて……う、うれしい、です」
「おおげさだって……ほら、また訛ってるよ」
エリザは瞳を潤ませて喜んだ。ミュータントとして生まれたエリザは、おそらく祖国では満足な暮らしなどしていなかったのだろう。比較的ミュータントに対して寛容な日本でさえも差別的な制度、法律が多く存在する。
もちろんそうしなければならない理由がある。ミュータントは優れた知能と身体能力を有している。それだけでも人間社会に脅威をもたらす存在だ。より優れた者が勝者となるこの世界では人類はミュータントに従わざるを得なくなる。
加えて、ミュータントはある特殊な能力を有している。
「おい……俺のスプーンが捻じ曲がったぞ」
「…………もしかして、エリザ?」
「このボケナス! 自分のmyuも制御できないのか!」
「あぅ……ご、ごめんなさい!」
冥星は不満げに鼻をならし代わりの物をよこせと命令した。エリザは顔を真っ赤に染め、隠れるように台所へ向かう。当然だ、my uを暴走させるミュータントなど赤子がお漏らしをするような現象に等しい。つまり、エリザは嬉しさのあまり失禁してしまったようなものだ。ならば深く追求しないでやるのが優しさというものだ。
――――myu が使える?
「エリザ、日本では無断でmyuを使った場合刑罰が科せられる……」
「おい」
「ひっ…………」
明子の目は、エリザを怯ませるには十分な威力を持っていた。そうしなければいけない理由があるからだ。
ミュータントに寛容な国は、彼らを利用することを覚えた。自由という果実を与え、尊厳という果実を取り上げた。
飼い慣らされている、と言った方がいいだろう。明子は、人間としてミュータントに舐められてはいけない。下だと思われた瞬間、牙を向けることもある。例え、目の前の少女が非力で弱弱しい姿だったとしても、my uという超能力を持っている。それだけで殺人者となりえるのだから。
「おい!!」
「なんだ、冥星……エリザはmyuを使った。エリザの保護者はいないが、必然的に私になるだろう。私はこの子の行為を見逃すことはできない」
「そんなことはどうでもいい。さっさとスプーンを取り替えろ、エリザ」
「え? え?」
冥星は、明子とエリザの前に割って入るように台所へ乱入した。ここまでくれば自分で取りに行けよ、という誰しもが思う疑問を、冥星は感じない。奴隷を手に入れた冥星は無敵だ。もうすべての面倒事をエリザに押し付けることができる、ということに気が付いたのだ。
自分の手となり足とのなる存在を見つけた冥星は、エリザは他の事に時間を摂られるなど、我慢できない。
「お前は俺の言うことだけ聞いていればいい。他のことは気にするな」
「……あの、でも……私、Myu 使いました。Myu を使うことは悪いこと……なのです。だから、私はバ、罰を受けます」
「バカかお前はブス」
「ぐすっ…………わ、私は、きっと、バカですます……」
「おらぁ!」
「きゃう! な、な、な!?」
エリザのおどおどした表情が気に入らなかったのか、冥星はエリザの髪をひっぱりながら乱暴に振り回した。思い切り引っ張られたエリザはなぜこんな暴力振るわれているのか理解できない。涙目になりながら必死に冥星の横暴に耐える。
「め、冥星さま! ご、ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさい!」
「黙れ。許さん、さぁ存分に怒るがいい」
「ぐすっ……い、痛い、おお願いです、お許しください……お許しください」
冥星はエリザを怒らせたい。怒らせて、もう一度myuを使わせてやりたい。そうすれば吹っ切れてどうでもよくなるだろうと判断したのだ。
明子のやり方はわかっていた。最初に脅しをかけ、そのあとに優しい言葉をかける。そうすると人は従わざるを得なくなる。心理学を利用した極めて単純な洗脳のやり方だ。
「……お前、なんで笑っているんだ? 怒れよ、ほら」
「え、えへへ…………ま、前の人はこうすると許してくれました……」
「バカかお前は」
「……ごめ……申し訳ありません、冥星さま……」
「黙れ、なぜ謝る? お前は謝罪に理由がわかっているのか?」
「…………も、もうしわけ」
「殺されたいのか、お前は?」
「冥星、もうやめろ。お前らしくないぞ?」
今度は明子が二人の間に入ってきた。冥星がエリザに殺気を放ったからだ。その証拠にエリザは頭を抱えてしまい、冥星を見ることすらできなくなってしまった。
冥星は、自分が強者だとわかっている。多少歪んだ性格に育ったことは保護者として遺憾ともし難い事実だが、決して冷静さを失うようなことはなかった。
それが、まるで『小学五年生』にふさわしい怒りを見せていることに明子は驚いた。
この世の何物にも興味を示さなかった、あの冥星が。
「自分の目で、見定め、考え、行動する。俺の奴隷なら、やってみせろ。これは命令だ、わかったな」
「…………は、はい…………」
わかってなどいないだろう。わかったふりをしてその場を凌いでいるだけだ。冥星はそれがわかっているが、あえて追求はしなかった。腹が減っていたからだ。
ひとまずは、腹を満たすことだ。それからでもエリザの処置は可能なのだから。
この少女を支配し、尊厳を――――。
尊厳を、甦らせるのは。
※※※※※
「おい、なんでお前がここにいる?」
「ご、ごめんなさい、あの、この、部屋を使っていいと、わ、私の部屋だって……」
「どう考えても、俺の部屋だ。しかも表札には冥星様の部屋、ノックを忘れるとブスと呼ばれますと書いてあったはずだ」
「し、しまし! た! で、でも反応が、な、なかったの、で」
「入ったと?」
「…………はぃ…………」
「ブーーーース!」
「ど、どうしてですかー!?」
今日は顔すら見たくない女が、まさか自分の自室まで押し掛けてくるなんてそれなんてエロゲ? 風呂に上がりの芳醇な香りを漂わせながらおずおずと冥星の様子をうかがうエリザ。手をもじもじ、足をもじもじさせながら恐々と上を向こうとする姿は、まさに悩殺的な威力を発揮している。自覚のない男殺しはもはや極刑物だ。
唯一、そんなエリザになびかない者がいたとしたら。
「廊下で寝ろ」
「…………はぃ」
男としての本能を忘れてしまったか、あるいは女自体に興味を示さないか、心をどこかに置き忘れてしまった哀れな動物のいずれかだ。
ちなみになぜ冥星の部屋にエリザがいるのかは、明子の采配によるものだ。
いわく――。
「もう、部屋がない。私は寝相が悪い、海星にはこれ以上負担をかけることはできない。残るは冥星だ。冥星は男だ。この国には男女七歳にして同じ部屋で寝るとやんごとない状況になってしまう確率が多いのでダメ、絶対――ということわざがある――だが冥星に限ってはそんなことはありえない。よってエリザは冥星の部屋でOKというわけだ」
さすがは明子。冥星の事をよくわかったうえでの部屋割りというわけだ。
どう考えても明子や海星が我慢すればいいだけの話だ。なぜ自分が、こんなメンドクサイ女と一緒に眠らなくてはならないのか。ただでさえ、一緒にいるとイライラしてしょうがないというのに……。
「え、えへへ……で、ではおやすみなさい、冥星さま」
「まて」
「へ?」
「俺は一人になると眠れない」
「は、はぁ……」
「この部屋は広い、特別にお前の寝床を用意してやる」
そういうが早いか、冥星はエリザが侵入していい範囲をガムテープで遮り、満足そうにうなずいた。
「あ、あの……布団の中だけしか動けないんですけど……」
「文句があるのか? 奴隷の分際で」
「……いえ、ありがとうございます」
奴隷、という言葉にエリザの瞳は暗い影を落とした。解放されたわけではない。新しい者に拘束されただけだ。前向きに頑張ると決めたはずなのに、どうしてかまた涙が溢れそうになる。
少なくとも、ここには注射はない。自分の意思を無理やり捻じ曲げようとする者はいない。なぜか、学校にも行ける。言葉の壁は、なんとかなる。
ただ――――
「明日は俺を起こすなよ。起こしたらお仕置きだ。お前がもっとも苦痛を感じるようなお仕置きを考えておいてやる。くっくっく…………あと、人の寝顔を覗くなよ。覗いたらお仕置きだからな」
「…………はい、ご主人様」
「…………ふん」
エリザは囚われたままだった。
月は出ない。今夜は不気味なほど暗い夜だ。その方が好ましい。月明りで顔を見ることがなくなるから。
エリザは台所から持ってきた包丁を布団の下から取り出した。驚くほど簡単に、自分は世界を変えることができるのだと確信した。
所詮、自分の立場は自分で変えるしかない。この場所を去ったとして居場所などどこにもない。いや、あるにはあるが、そこはもう……。
だが、少なくとも、この少年に拘束されることはなくなる。
別に奴隷が嫌なわけではない。誰かの命令に従うのも嫌いじゃない。その方が楽な時もある。
「でも、私は…………帰りたい」
帰りたい、ただそれだけなのだ。祖国に、ここから遠く離れたあの深い森に囲まれた我が家に。畑があり、湖があり、母と父がいる、あの場所へ。
既に両親はいないけれど、それでもあの場所は、エリザにとって目指さなくてはならない大地だ。
足を前に進めなくては、きっと自分はもう、立ち上がれない。
これが最初で最後のチャンス――何度そう思ったことか。そしてそのどれもが失敗に終わった。あっけなく。
だけど、エリザはこうして生きている。不思議だと思った。死にたい、殺して、そう願ったことは何度もあるが、そのたびに自分は生きることを選んでいる。みじめでみずぼらしい姿だと思った。
「ごめんなさい、あなたに罪はない、でも」
少年は安らかな寝息をたてていた。きっとどんな不幸も知らずに生きてきたのだろう。溌剌とした表情でわんぱくに飛び回る姿がエリザをそう思わせた。なんて我儘で無知で愚かな少年だろうと。
殺すことは、初めてだ。元来、ミュータントは人殺しを好むという習性をもっているらしいが、そんなことはない。エリザは包丁を手にしただけで眩暈がしそうなほど吐き気がした。
それも、同胞を手にかけるなど、自分は許されるわけがない。
――――誰に? 誰に許しをこうというの?
神はミュータントを許さない。両親は殺された。人間はミュータントを差別する。
弱い者は、強い者に従う。エリザは、今自由を手に入れる。
悪いことではない。決して。少年の未来を奪うことで、私は自由になる。みんな同じことだ。立場が逆転するだけ。
悪いことでは、ない。
「わ、私……なんてことを…………」
崩れ落ちるようにエリザは床に手をついた。自分の愚かさにようやく気が付いたように泣きじゃくる。神さまごめんなさい、お母さんごめんなさい、お父さんごめんなさい。魔が差したという言い訳は効かない。あの時、確かにエリザは凶器を手にし、罪のない少年を殺めようとしたのだから。
心は安らかだ。受け入れなくてはならない。自分は死ぬこともできず、運命に翻弄されるだけなのだと。そうすると、気が楽になった。エリザは涙を拭き、少し笑みを浮かべた。
自分でも驚くほど、その顔は不格好だった。
「――――――ふん」
それでも冥星は、救わない。自分は救世主などではないからだ。
所詮、運命に翻弄されるだけの一人の子供であることを認めている。
己という器に魂が宿ったに過ぎない、どこにでもいる普通の無力な子供であることを。
だからしばし待て、と誰ともなくつぶやく。
自分が無力な子供ではないことを、世界に、愚かな人類に知らしめることができたあかつきには。
この冥星が、カリスマニート帝国にお前を迎え入れてやることを。
正義も悪もない。あるのは強さと弱さ
日に日にエリザは表情を少しずつ取り戻していった。あの陰鬱として瞳は今ではさまざまな色に変わっていく。悲しみの苦しみ、落ち込み……決していい感情ではないが、それでも人形のようだったあの少女はもう影も形もなかった。
「冥星君」
「ここからあの禿まで距離は約1ヤードだ。この強化されしスリングショットにペイント弾(クルミの殻に絵具をねじ込んだ)を叩きつけられると思うか?」
「……可能だと思うけれど、教頭先生に何か恨みでもあるの?」
「ない。まっさらなキャンパス並みに皆無だ」
「なら、やめておいた方がいいわ。あなたにとってなんの利益にもならないから」
「心配するな。俺がやるんじゃない。こいつがやるんだ」
「む、無理ですよー! お、怒られちゃいます!!」
「黙れ、俺に怒られるか禿に怒られるかの違いだ。当然わかっているだろうな?」
エリザは涙目になりながら強引に渡されたスリングショット――――パチンコをおずおずと受け取った。ゴムはどれだけ伸ばしてもちぎれることのない素材を選び、取っ手には引きすぎて壊れないようにガムテープで雁字搦めに巻きつけられている。不格好である。そしてそれを持つ美しき金髪の少女がとてつもなく似合わないことに大蔵姫は自然と笑みを浮かべた。
「エリザさん、そんなこと、する必要なんてないわ」
「ううう……委員長さん」
「あ、こら、勝手にやめるな」
「冥星君」
「……エリザ、なんだその玩具は? そんなもので誰かが怪我をしたらどうする? この、鬼畜が!」
「ええ!? ひ、ひどいです冥星さま!」
「うるせぇ!」
「きゃう! あ、あいたたたた……け、蹴らないでください~!」
「あっちにいってろ、邪魔だ」
理不尽な暴力を振るわれたエリザは涙を流しながら冥星の傍をとぼとぼと離れていった。その痛々しい姿を見ていると本当にこの男に任せてよかったのか疑問に思う。
だが、姫は自分であの少女を救うことなど到底できないことを知っていた。
だからこそ、冥星という少年を図りかねている。
いったい、あの凶悪な身内をどうやって退けたのか。
「……なんのようだ」
「エリザさん、元気そうね」
「はっ……お前にはそう見るのか? 俺には、奴隷が家畜になり始めているように感じるな」
「守りたいものが増えるのは面倒?」
「……………………」
「ごめんなさい。からかうつもりはなかったの。ただ――――あの時、あなたは私を守ってくれなかった。だから、もし」
「もし、あいつを見捨てることがあれば、なんだというんだ」
視線が絡み合い、そして解け合った。もう、二度と絡み合うことのない永遠の回廊を少年少女は歩き出す。先に歩き出したのは姫だった。ゆったりとした、足音を感じさせないような静かな歩みで、冥星とすれ違う。
「――――私が殺してあげる。可愛そうだから」
強烈な悪意を耳にした。その瞬間、女とは違う者の殺気を感じた。うっかりすれば首から下までを圧潰させるかのようなプレッシャーを浴びるように受ける。放ったんはおそらくあの奴隷。六道凛音だ。やがて姫が遠ざかるにつれて薄れていくのを呆然と見つめていた。
「やれやれ、あれは相当病んでるな。隼人も、さぞ大変だろう」
帰ってエリザをいじめようと、先ほどの出来事も忘れ冥星は口笛を吹きながら今日の晩御飯を想像し心を躍らせるのだった。
「エリザ、どうですか、我が家は?」
「は、はい。その、慣れてきました……」
「それは生活に? それともあの屑に?」
「あぅ……その、どっちも、です」
「前者はいい傾向ね。だけど後者は最悪な方向に捻じ曲がっているわよ」
「え、えへへ……」
卑屈な笑みを浮かべながらエリザは食後の会話に花を咲かせていた。今、幸いなことに冥星は入浴中だ。この数分だけが、エリザにとって心安らぐ休息の時間となっている。朝から寝るまで、冥星はエリザを悪い意味で拘束しているからだ。
「よい……しょ」
「うわ……エリザ、それもしかして全部ラブレター?」
「はわ……そ、そうなんでしょうか? ま、まだ中身は見てないんです……」
「……ちょっと中身、見てもいい?」
構いませんよ、とエリザは軽く返事をした。この山のような手紙を一人で捌くのは骨の折れる作業だ。海星が手伝いを申し出ているのに断る理由はない。
手紙のどれもが痒くなるような愛の言葉だった。ふざけているやつもいるが、大半は真剣にペンを握っていたに違いない。中には数十枚に渡って、エリザの事をどう思っているか、を認めている者もいる。
「私ももらったことあるけど、エリザほどじゃないわね」
「あ、あはは……恥ずかしいです……」
「それで? どうするの?」
「え…………」
「誰か、お目当ての男はその中にいる?」
「え、えと、私、多分まだクラスの人全部覚えられなくて」
彼らは早まった。たった数週間クラスを共にした程度で顔を覚えていられるほどエリザは天才的な記憶力を持ってはいない。まして、奴隷という身に堕ちた自分がこれからどうして生きていけばいいのかという不安が真っ先に降りかかっていたのだ。
今だって、その不安がないわけではない。このままでいいのかすらもわからないままだ。
それに、エリザは恋などしたことはない。男の人と言えば父親か、自分を人形として売買した商人ぐらいだ。年頃の男の子と出会ったことなど冥星が初めてだった。
彼はまるで風だ。エリザはそう思った。恐れを感じず、ただ突き抜け、突破していく。
自分ではとても追いつくことのできない、風。
「あっ」
「だから、私には恋なんて――」
「結婚してください」
「できないと思いま――――ひゃう!? 冥星さま!?」
「なんだこれは? ゴミの山だな」
風呂上がりの濡れた髪のまま、冥星はうっとおしそうに手紙の山をかき分けた。途中で手紙を読み上げるたびにエリザは顔を赤くにしながらあわあわと叫びだす姿は滑稽だった。
「なーにが結婚してくださいだ。ガキのくせに」
「も、もうやめてください――――!」
「…………最悪」
少女たちの非難の声をものともせず、冥星は次々に手紙を読み上げていった。もう、エリザのライフゲージはゼロに近い。涙目になりながら冥星に訴える姿に満足したのか、悪魔は最後の分を読み上げようとした。
「――――――?」
「あ、あの…………」
「これは……流石の俺にも、刺激が強すぎてちょっと音声に出せません……」
「なんで敬語なのよ……」
顔をちょっと赤らめながら敬語を使う冥星はとても気持ち悪い。エリザは遂に泣き出してしまい、大惨事だ。満面の笑みで冥星はその手紙を大切に保管して額縁に飾ると宣言した。
本当にどこまで人を貶めれば気が済むのか、という海星の訴えは聞こえない。
「う……ぐすっ……か、返してください…………」
「いやだ」
「か、返して……」
「! このっ……!」
予想外に、エリザは冥星から手紙を奪うように襲い掛かってきた。なんてことはない女の力だ。だが、想定外の出来事に思考を停止した冥星は、こうするしかなかった。
「……ひ、ひどい…………」
手紙はばらばらに破け、宙へと舞う。その紙切れすら、冥星は一枚たりともエリザに渡すまいと拾い集め、ポケットへしまった。
うつむいたまま、エリザの涙は床を濡らす。海星は黙ったまま非難の目を兄に向けた。
「どうして」
「なんだ?」
「どうして、こんなことをするんですか」
「聞くと後悔するぞ」
「言ってください!」
「おもしろいからだ」
エリザは冥星に立ち向かうように燃え上がる赤い瞳を真っ直ぐ向けた。プラチナブロンドの美しい髪が風もなくたなびく。
まるで女神が降臨したかのように、その風景は幻想を纏っていた。少なくとも、海星にはそう見えた。
あの兄に、刃向かう者がいたなんて……それも、自分と変わらない少女が……。
「あ、あなたは最低です……! 人の心を踏みにじり、蔑む……ま、まるで悪魔のよう……」
「ほう? ではお前の行為はなんだ? 人がしたためた手紙を、こうやって見せつけるのが正しい行いなのか?」
「あ、あなたが勝手に見たんじゃないですか!」
「海星はどうだ?」
「か、海星は、手伝ってくれて」
「人のせいにするのか?」
「……うっさな兄……」
「失せろ、愚昧」
「…………う」
「聞こえなかったのか? 失せろと言っているのだ」
海星は、いつも悔しい。なぜ、自分は兄を前にするとこうまで体が動かなくなってしまうのか。憎くて、殺したい相手のなのに――――今日まで、共同生活を許してしまった自分はなんなのだろう。
まるで蛇に睨めまれたように海星は動けない。嫌な汗が体を伝い、本能的に体は後退する。
「…………わかったわよ、でも私が手伝ったのは本当よ」
「――――そうか」
なにがそうか、だ大人ぶって偉そうにして。毒づいてやりたい気持ちを抑え、海星は自室に引き込もる。今日もダメだったという後悔を抱きながら。
エリザは――――ひかない。
必死に冥星を見つめる。どれだけ目の前の男が圧倒的な存在だとしても、絶対に許されることではない。人の手紙を、バラバラに破くなど。
「あ、謝ってください!」
「ごめんなさい」
「え? ……わ、私にではありません! 書いた人に、です!」
「絶対に嫌だね」
「あ、謝らせます」
「ほう……どうやって……」
「こ、こうやって、です!」
冥星は手が喉を締め付ける。自分で自分の喉を絞めるというのは自殺以外の何物でもない。ぎりぎりと潰すように喉が圧迫され、紫色に変わっていく。
「あ、謝ると言ってください」
「謝る」
「ほ、本当ですか」
「んなわけねーだろ」
「ど、どうして……どうして、あなたは……」
殺せるわけがない、と冥星は鼻をくくっていた。そして当然自分を殺すことなどエリザにはできない。
甘く、どこまでも甘く、自らを滅ぼしてしまうほど甘いエリザに、他者を傷つけることなど出来るはずがない。
こんな、どうしようもない奴隷をなぜ自分は。
「あなたは、きっと心が死んでいるのです」
「先日まで心を停止させていた奴が、よく言う」
「……きっと、後悔します。あなたは、自分がしたことに」
「わははははははははは…………エリザ、一つ言っておこう」
ひとしきり笑い転げた後に、悔し涙を流す奴隷を掴みあげるように冥星は同じ位置に立たせた。
「――――後悔とは、屑のすることだ」
エリザは燃えるような瞳を崩さなかった。案外強い女なのだと分かった。それだけでも今日はいい収穫だった。
ほんとに、いい収穫だったと、冥星はポケットの紙くずを大事そうに触った。
愛と憎しみは同時に両立する。
つまり愛を感じることがあれば、同時に憎しみもそこには存在するのだ。
誰もが、愛だけをもらうことは不可能だ。
だから、憎しみは増幅する。小さな子供だったとしても。
「よぉ……これ、お前らが書いたんだろ?」
「ひっ……め、冥星……な、なんのよう? 私たち、忙しいんだけど」
「隠すなって、吉野を叩きのめしたとき、お前ら怒ってたもんなぁあんな雑魚に尻尾振ってんだもんなぁ……うはははははは」
「てめぇ……冥星……! 殺してやる!」
少女たちは憎しみの目で冥星を睨んでいた。心地のいい殺気が四方を包み込む。なんとも子供にふさわしい悪意だ。それでもここまで火種を大きくしたのは、自分の責任に他ならない。
冥星は失態を犯した。
自分の悪意を、エリザに転嫁させてしまった。
『冥星に尻尾を振る、雌犬は死ね』
手紙にはこう書かれていた。確かに恥ずかしくてエリザには見せることができない内容だ。刺激も強すぎる。
「いいのか? 本当に? その選択は間違っていないのか?」
「な、なに言ってんだよ、お前……」
「俺は女だからって容赦しないぜ? むしろ女の方が殺りやすくていい。ひ弱だし、すぐに根を上げる。なぁ?」
少女たちは、ある少年が好きだった。その少年は、冥星が転入してくるまで王子様だった。その人の周りにいれば間違いなく少女たちは地位を獲得できていた。
「吉野は今頃、リハビリしてるかなぁ……辛いだろうなぁ……四体全部捻じ曲がったからなぁ」
「めいせぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
「はっ…………ボケが」
その日、とある公園からは少女たちの悲鳴が永遠に聞こえたらしい。
その後、隣のクラスでは相次いで転校していく者が増えていき、数日噂になったとか。
間違っていない選択肢などない、あり得ない。
拘束具が自分の体を縛り上げ、まるで別の生き物になったかのように重くのしかかる。
自分の体がとてつもなく身軽で動きやすかったのかを思い知るいい機会になったはずだ。
少なくとも、冥星にとってこの出来事は、ただそれだけを確認する目的しかない。
「秋坂冥星……お前は一体学校の生徒に何をしたんだ?」
「……何もしていない。いちいち明りを点滅させるな、うっとうしい」
「お前が昨日、放課後に町はずれの公園に向かったことは証言で分かっている。もちろん、お前が生徒たちに暴力を振るったこともだ」
「襲い掛かってきたから、反撃しただけだ」
「ふざけるな! 女生徒の目にボールペンを突き立てるのがお前の正当防衛なのか!」
「たまたま当たっただけだ。悪いことをした、反省している」
「……こんなことをしても、自分の立場が悪くなるだけだぞ、冥星……」
「立場……? こんな拘束具で俺の自由を奪うことしかできない――無能な先生諸君が、一体俺に、どんな立場を与えたと言うんだ?」
談話していた男教師がみるみるうちに顔を真っ赤にし、冥星の顔を殴りつけた。火花が散るような打撃を後頭部に受け、ぐらぐらする視界で必死に相手を見つめる、そして嘲笑う。不利な状況下で、相手に対して弱さを見せることは屈服したも同然。今、どんなに無力だったとしても心まで折れてはいけない。冥星が教わった帝王学の一説だ。もっとも、この言葉を教えた男は簡単に死んでしまったことを付け加えておく。
「冥星君、この学校は一体どんな場所だ? 答えてみなさい」
別の教師の声が聞こえる。目隠し、手錠、足枷、肩から腰にかけて繋がれた黒いベルト。首にmyuを感知する殺人チョーカー。そのすべてを意識から遠ざけ、冥星は声を拾う。
「ミュータントを管理し、監視する人類のためのミュータント育成機関」
「その通りだ。圧倒的な力を持つ君たちを――人類は恐れている。もちろん先生である私たちもだ。その証拠が、君を縛り上げている拘束具だな」
「俺が怖いか?」
「怖いとも……私たちは殺されたくはないのさ。臆病だからね」
「…………誰だってそうだろう」
「人間である私たちは特に、臆病なのだよ。自分の命が何よりも尊い――故に異端を排除したがる」
ミュータントが異端だと?
それは人類側から見れば人間の皮を被った怪物に見えるのだろう。人がミュータントを見る時の反応はいつも二通りだ。
驚きか、恐怖か、そのどちらか。そして遠ざけ、拒絶する。
「冥星君……君が編入してきたとき、私は戦慄を覚えたよ。この年で思わず腰が抜けそうになった、恥ずかしいことにね――とんでもない子を拾ってしまった、まるで嵐がきたと思ってしまった。教育者として失格だ」
「俺はただの小学五年生だ。六年生にケンカを売られてびくびくしている小僧だぞ」
「いいや違う。事実、君は二年前クラス崩壊寸前だったあのクラスを、まぁなんというか……崩壊させてしまった……」
「あれは吉野が悪い。俺は悪くない、以上。腹が減ったさっさと帰らせてくれ」
再び冥星に拳を振り上げた男性教師を老齢の男が手で止める。先ほどから冥星に対して真髄に話していた男だ。
しばらくすると冥星は拘束具から解放された。視界には長机が冥星を囲うように並べられ、全ての――いや一人を除きすべての教師たちが冥星に厳しい目を向けていた。
「確か……校長?」
「一応ね。覚えていてくれて光栄だよ、冥星君」
「ステーキを食わせてくれたからな」
唯一、冥星を暖かな目で見ていたのは学校の長だった。白髪混じりの髪をオールバックにきっちりと固め、スーツには皺一つ見当たらない。疲れたような優しげな眼光が妙に印象的だ。
「おお! あの時のことをまだ覚えているのかい?」
「あのステーキは俺が食べた中で最高の食材だからな。今でも忘れられない……あの口の中を広がる肉汁……」
「いや、そのことじゃなくて――――まぁいいか。君は食べ物に夢中だったからね」
「人とミュータントが幸せに暮らせる世界」
「…………やはり君は……いや、あの時の答えを、聞かせてくれるかね」
「できるさ。今がそうだ。ミュータントを支配し、人類が繁栄する世界。食べ物も寝る場所もある。何が悪い?」
「支配がある。ミュータントは自由を求めることができない。おかしいとは思わないのかい?」
「思わない。強い者が勝つ。弱い者が負ける。食べ物が豊富な方が生き、枯渇すれば死ぬ。それだけのことだろう」
「変わらないのだね。君は……本当に眩しいくらいに」
一旦言葉を切り、校長は目を閉じた。まるで旧友のように繰り広げられる言葉のやりとりに他の教師たちは驚きを隠せない。
学校一の問題児であるあの秋坂冥星が……なぜこの学校のトップと関わりがあるのか?
ざわつく部屋に、今度は荘厳な声で校長は冥星に決定を下した。
「秋坂冥星、君のやったことは決して許されることではない。どんな者であれ残虐な行為する者を私は決して許さない」
「別に許してほしいなんて思ってない。帰らせろ、それだけだ」
「貴様ぁ冥星! いい加減に――――」
「やめたまえ。一度目は体罰として認めたが、次に彼を攻撃した場合、君にはそれ相応の処置が待っているぞ」
バツが悪そうにすごすごと下がっていくジャージ姿の男教師――――おそらく体育教師だと思われるが残念ながら冥星は腹が減っているので思考が停止している。もはや誰が何を言っているのかもわからない。
「だが、君はエリザ・サーベラスを彼女たちから助けた、違うかね?」
「その通りだ」
「では君は彼女たちをただ無意味に害したわけではないと?」
「その通りだ」
「君の持ち物にあったこの手紙は彼女たちが書いたものなのだね?」
「その通りだ」
「傷の治らないエリザさんに言い知れぬ悪意が降りかかれば大きな負担になる。それを防ぎたかった、そうなのだね?」
「その通りだ」
「さて、先生方――私は冥星君の行動を決して許さない。それを前提で話を進めるが、もう一度聞きたい。彼は本当に収容所へ行くべきなのか?」
収容所――それは家畜以下の者たちが繋がれる牢獄。ミュータントが罪を犯した場合、司法により裁かれることはない。どんな罪であれこの収容所と呼ばれるどこにあるかもわからない監獄に一生涯叩き込まれ永久に労働を課せられる。死ぬまで、永遠に。
ミュータントたちの墓場――それが収容所なのだ。
「校長! 既に冥星君は吉野君に被害を加えています! 彼は今でも病院で意識不明の重体なのですよ!? それに加え今回の事件――彼は危険です! 収容所へ入れるべきです!」
「いや……噂だとあそこにはとんでもないミュータントが収容されていると聞く。もしそんな奴と秋坂冥星が接触でもしたら」
「くだらない! たかが噂如きで……あのジュリアナ・ローズでさえもうこの世に存在しないのだ! ミュータントなど恐れるに足らんわ!」
罪には罰を。ミュータントには死を。それが世界の掟だ。ミュータントの死は、収容所を意味する。つまり、これは裁判であり冥星は極刑か否かということだ。
どうでもいい。冥星はどんなところでも生きていける自信があった。悪辣な環境でも、毒ガスが吹き荒れる大地でも、死の雨が降る高原でも……ただ、飯がまずいということを除けば我慢の仕様がある。まずい飯を除けば。あと働きたくもない。
空腹で思考が低下している冥星だが、収容所には僅かばかり興味があった。
それでもいい。『存在』する可能性があるとすれば、間違いなく――あの場所だ。
見つけ出して、それから――。
「――最低ですあなたは」
…………面倒な物を拾ってしまった自分に、後悔した。たかが小娘一人のために大義を成すためのチャンスを捨てようというのか?
歯を食いしばる。選択権などない。そのための命、そのための生――ならば。
冥星は決断した。それは何者にも邪魔をすることのできない強い意志。揺るぎなき信念。
全ては、自分が働かなくても暮らしていける幸せな世界のために、この命燃やし続ける。
「彼を収容所に行かせるわけにはいかない」
「校長! いい加減に!」
「行かせるぐらいなら今、私がこの手で彼を殺す」
「――な」
本気なのかそうでないのか。それはどうでもいい。肝心なのは、学校の長たる者が生徒を殺すと発言したことだ。こんなことが発覚すれば学園の存続する危うくなってしまう。すべての教師が口を閉ざす。これ以上の発言は、校長という独裁者によって禁じられているようだ。
「冥星君、君を収容所に行かせるわけにはいかない」
「……どっちでもいいが、強いて言うなら楽な方がいいな」
「君は人類にとって希望であり……同時に災厄でもある――君のお姉さんがそうだったようにね」
「――――俺が、あいつの代わりだと?」
「いいや、違う。私はそうだと信じている。君は決して、怪物にはならないことを」
「そうか」
信頼されている。校長は冥星のことを誰よりも危険視していると同時に期待している。
殺戮者として処分されるか、未来を守るために人類の味方になるか……そのどちらかを選べと。
「……何を心配しているのかわからないが……俺は親のことや姉のことなどどうでもいい。革命やら暴走やら……なにかしら迷惑をかけたらしいが、俺は無関係だ」
「――もちろん、信じたい。しかし――」
「だが、俺は自分の国を作る。これは決定事項だ。俺の作る国は誰も働かなくても暮らしていける最高の帝国だからな。皆ハッピーだ」
「……そこに、人は住んでいるのかね?」
「もちろんだとも。お前らのような数ばかりが多い下等生物でも確かにうまい料理は作れるからな。大歓迎さ」
「ふ……ふふふ……あっはっはっはっは……君は、実に、子供らしいよ」
「もちろんだ。俺は小学五年生。夢見るお年頃だ」
校長は、冥星の肩をしっかりと掴み、その湿った瞳で冥星を見つめた。無礼な奴だと思いながらも、なぜか冥星はその手を引きはがすことができなかった。
羨望、困惑、慈愛、嫉妬……様々な感情の入り混じった瞳だ。ミュータントは人間ほど感情的になれない。感情よりも理性を制御する力を持ち合わせているからだ。
果たしてそれは良いことなのだろうか。
「どうか、このまま真っ直ぐに――――」
傷つけ、苦しめ、それでもなお、己に期待を託すようなお人よしに、こんな顔をされても、自分の心は何一つ動くことはなかった。
人類は確かに愚かだ。自分にも多少なりこの男のような気持ちがあれば、あるいは――。
「俺は俺のやりたいようにするだけさ」
そんなくだらないことを考えてしまうくらい冥星は腹が減っていたのだった。
※※※※※※※※
「め、冥星さま……」
「あぁ? ご飯を食べている時は声をかけるなとあれほどいっただろうブース!!」
「う……じゃ、じゃあお休みの時に少しお話をしてもいいですか?」
「やだ」
「じゃあいつ話せばいいんですか!?」
なんだか最近、奴隷がうざくなってきたなと思う今日この頃な冥星は至福のひとときである夕飯の時間を邪魔されご立腹だ。ただでさえ、ブス(冥星視点)なのに己の障害になるなら、それは災害ではないだろうか。エリザを災害指定生命体に登録するか否か悩んでいるところに再びエリザは精一杯の勇気を振り絞ったような甲高い声を上げ冥星の鼓膜をぶち破った。
「きょ、今日 お、お部屋でお待ちしてますから!!!」
「が……ぎ……耳がぁ……」
顔を真っ赤に染め上げ、長ーい金髪をバァッサァと翻し、逃げるように階段を駆け上った――かと思えばお茶碗をお盆に乗せ、キッチンで綺麗に洗った後――あ、あとで洗うので水に浸けておいてくださいね! いや、私がやっておくから存分に逃げなさいと微笑む明子にお礼を言い、ダッシュで部屋に逃げ込むエリザ。海星はぐぅかわいいと一言つぶやく。
「……はぁ、騒がしいわね……」
「あっはっはっは! エリザってば本当に可愛いねぇ! おい聞いてんのかクソガキ」
残念ながら冥星は耳がイカレてしまっているため誰の声も届かなかった。頭をバンバン叩く明子を無視し、こんな大胆な攻撃を仕掛けてきたエリザに憎悪を燃やしながら冥星は無我夢中でご飯を貪る。
「絶対許さんぞ……ぶつぶつ」
「ふ……誰がなんというと、お前はバカだよ冥星……」
「ふざけるな、俺はどう考えても天才的な頭脳を持った天才的神童だろ」
「いや、ただの屑でしょ」
「黙れ……小学校三年生までおねしょをしていた愚かなる妹」
ガキンとフォークとフォークが擦れあう音が夕食を飾る。片方は先ほどのエリザに負けず劣らず顔を真っ赤にした妹、片方は器用に空いた右手でスパゲッティを啜る兄。そして行儀の悪い二人に拳骨を下す明子。今日も秋坂家の食卓は賑やかです。
「な、なんで、し、しって……」
「なんでかって? 当たり前だろ、そんなことは」
「な、なんでよ」
「俺がお前の偉大なる兄で、どんなに汚らわしい血を引いていても、お前は俺の妹だからだ」
「…………バカじゃん」
その言葉で一瞬のうちに冷めた瞳に戻った海星はエリザに継ぎ、食卓を退場した。相変わらず小食で食べず嫌いだ。そんな妹のことが、冥星は大嫌いだ。
いつから兄妹としていがみ合っていたのか。そんなことはもう忘れてしまった。何をしてしまったのか、あるいは何をされてしまったのか。考えることすらどうでもいいほどに、冥星は妹を己の視野から外した。
ただ、間違いなく妹は自分のことが大好きだった。そう言っていたことが……確かあった。
「冥星」
「あぁ? いいかげん飯を食わせろ」
「今回の件は――許す」
「何のことだ?」
「とぼけるなよ冥星」
「…………あのじじい」
「もちろんお前がエリザを助けるために悪党を演じたこともだ」
「は……? なんだそりゃ? おい……」
「相手の子はmyuを発動したらしいな? それを止めるには瞳を狙うしかなかった」
あの時、まさか相手が逆上して能力を使うとは思っていなかった。やむを得ず相手の瞳を狙い一人の少女に致命的な障害を負わせてしまったことは確かだ。もっとも、無断で能力を使おうとした少女に非があり、冥星は正当防衛ということで許された。
いくら自分がナイスガイだったとしてもmyuを使われればひとたまりもない。あの時は、ああするしかなかった。
「気にすることはないさ」
「はぁ? 誰が気にするって」
「救いようのない子たちだった。相手を傷つけることしかできず、挙句己の力を誇示したがる……お前は確かに彼女たちの人生を奪った。でも、間違ってはいない」
間違ってはいない。気休めにしてはなかなかの言葉だ。自分に逆らいさえしなければきっと普通の生活ができた。学校に行って勉強をして給食を食べて帰る……そんな当たり前の生活ができたのだ。
「――――収容所に行って当然の子たちだよ」
それでも、間違っていないなんてことはありえない。
冥星の行動が、彼女たちを死の門へ追いやった。
また、あの時のように。
「そら、さっさとエリザのところに行ってやんなよ!」
「ちっ……酒臭いゴリラは本当に手がつけられんな……」
缶ビールを片手に冥星を蹴り上げる明子に中指を立てながら冥星はすごすごとエリザの待つ自室へ赴くのだった……。
私のご主人様
「はぁ……いい湯だったぁ」
「お、お待ちしておりました冥星さ」
「じゃ、寝るわ」
「そ、そういうかと思って布団は全て私が回収しました!」
「最近お前を本気で殴りたいと思ってしまうんだが」
「も、もう本気で蹴ってるじゃないですか……お尻が痛いです」
エリザは同室である冥星を正座で待ち伏せていた。冥星の布団を下敷きにして意地でも話を聞かせようとしたが、無慈悲な暴力にあえなく撃沈。無言で布団を奪い取った冥星はそのまま夢の中へと沈んでいく……。
「ぐすっ……どーしてあぶないことするんですかぁ……どーして傷つけるんですかぁ……どーして何も言ってくれないんですかぁ……私、あなたがわからないです……」
「………………………」
「私、バカだから言ってくれないと、わからない……あの手紙には何が書いてあったんですか? 破いたのは他の手紙ですよね? 本当は隠して持ってたんですか? ひどいですどうして言ってくれなかったんですか? 私、ひどいこと言っちゃったじゃないですか」
「だぁぁぁぁぁぁ! うるっせぇな! 人の寝床で泣くな!
「泣きます! 説明してくれるまで泣きます! あなたはひどい! 自分勝手です! これじゃぁ……私はあなたを憎めません……」
「憎ければ憎めばいい。俺はお前を奴隷のように扱う。死にたくなければさっさと逃げるんだな」
「わかりません……あなたは私をいじめます……だけど私を助けてくれました。私は、あなたを信じてもいいんですか? ううん……信じたいです!」
エリザの目は潤んでいた。その瞳からは宝石のような涙が頬を伝う。
恥ずかしいことを簡単に口にする奴だなと、冥星は呆れた。信じてもいいんですか? いいとも! と言えばそれで終わりな話だ。
冥星は、ただ自分自身に向かってくる悪意が、他の者に降りかかることが面白くなかっただけだ。自分の暇つぶしを奪われることは苦痛以外の何物でもない。
それに、エリザは冥星の作る理想の国に必要な人材だ。従順な雌奴隷が居てこそ、王の品格が保たれるというもの(偏見)だからだ。
「俺はお前を所有物としか見ていない」
「…………はい」
「だから、所有物が傷つけられれば俺は修理しなければならない。奪われたら取り返さなくてはならない」
「え……?」
「俺についていれば万事上手くいく。バカなんだから深く考えるなよ」
「私は……あなたたちの傍にいていいですか?」
「知るか。自分の生きる場所くらい自分で決めろ。ただし、ここに住んでる以上、お前は俺の奴隷だ。一生な」
鼻を鳴らし、冥星は会話を終了させた。これ以上話すことはないといわんばかりに毛布に包まりさなぎのようにして眠る。エリザはこの数日間で彼の寝顔を一切見たことがない。朝までその繭から出てくることはない。生きているか不安になるくらい微動だにしないのだ。
「ほんと……わけのわからない人です」
エリザはため息をついた。諦めと呆れが入り混じった深い吐息だ。それが終わるとエリザ急におかしくなって笑った。笑うとまた冥星が怒るから静かに笑うことにした。
凶器のように鋭くて、
空気のように捉えどころがなく、
太陽のように暖かい。
今夜は多分いい夢を見ることだろう。エリザは自分の場所に戻り布団に身を包む。最初は男と同じ部屋で寝るなど絶対にできないと思った。だが、冥星という少年に対しては他の者に感じる恐怖心がなぜか抱けない。
家族――――
エリザは明子が言った言葉を反芻する。
自分は家族に成りつつあるのだろうか。
ならば、この少年が弟……?
いや、自分は奴隷として少年に拾われたのだ。そんなことを思うのはおこがましい話だ。
明日からまた一日が始まる。
明日が待ち遠しいと感じつつあることをエリザは驚くと共に感謝しながら眠りにつくのだった。
ああ、夜は嫌いだ。
違う。冥星は夜が好きだ。森で囲まれた大きな屋敷。夜通し開かれるパーティ。甘美な音楽が響く中、テーブルには豪華な食事。
これは夢だとわかっていた。自分は既に堕ちた身であることも理解している。その屋敷が廃墟と化したことも、美しい音楽が騒音に変わったことも、豪華な食事にありつくことが難しいことも。
「踊りましょ」
手を繋がれていた。白く透き通るような肌。自分と同じ色をした髪。真紅のドレス。背丈は頭一つ分くらい女の方が高かった。
「踊りましょ、さぁ」
いや、自分は食事に集中したいからと手を振りほどく。そうすると女は口元に浮かべていた笑みをスッとなくし己を見つめる。見られているのかはわからない。なにせ、女の顔が映らないからだ。女が何者なのかはわかっている。しかし、その夢にはどうしてか女の顔が映らない。
「どうしてなの」
燃え上がる屋敷。すべてが赤く染まるその中でも真紅のドレスは焼かれもせずひらひらと舞う。火の粉のように、舞う。
足元には手があった。横には足があった。後ろには胴体があった。首が、内臓が、周りに散らばっていた。
その中に見覚えのある顔を見つけた。おそらく父親だ。顔面は破壊され原型をとどめていない。だがそれが父親だと冥星にはわかった。それは家族だからとか絆があるからとか、そういった類の感情ではない。
憎しみだ。ただ、そこには憎悪が籠っていた。それだけでわかる。
「どうしてなの、冥星」
やめろ――といつも叫ぶのだが、全く声が出せない。この女は狂っている。最初から、差後まで狂っていた。生まれた時から――。
女の手が、冥星に伸びる。首筋に白い指先が食い込み、徐々に空気が圧迫される。
女は笑っていた。地面に散らばっている人間たちように自分も殺されるのだろうか。なにせ、自分は声も出せないし女に抵抗することもできないのだから。
そうすると、ふっと指から力が抜ける。
安心したのも束の間、今度は女の体がガクッと糸が切れたように倒れてくる。なぜか冥星はそれを引きはがすことができない。脳ではそれを否定しているのだが、体が一向に動かないのだ。
女は苦しそうに口元を抑えた。よろよろと冥星の体をまさぐり、そして顔に手が触れる。
今度は諦めたような笑みを浮かべその唇に――
唇にキスをした。
当然、冥星の体が汗でびっしょりだった。こんな悪夢を見せられた日には全身を倦怠感に襲われて倒れてしまいそうだ。幾度となく見せられた悪夢ではあるが、一向に克服することができない。
精神が不安定になっているのだろうか。あの夢を見る時は決まって自分が何か悪いことをした時だ。いたずらや、暴力、卑怯なこと……まるでおしおきだと言わんばかりに女は冥星の前に現れる。冥星にとって、あの女は少しだけ特別な意味を持つ関係だった。
ほんの少し、ただ姉だったというだけの。
死んだ。
そう、あの女はもうどこにもいない。
ミュータントの本能に従い、殺戮を図った罪で……
あの女は収容所にすら入ることもできず、明子の銃弾によって殺されたのだ。
死ぬときは死ぬ。あっけなく。ミュータントでも心臓を打ち抜かれたり、頭が吹っ飛べば簡単に死ぬ。ただ、やっかいなのはやはり超能力だ。やる気になれば弾幕だって張れるし、防ぐためのシールドだって出せる。
本当に死んだのか? あいつは俺と同じ第一級指定のミュータントだぞ?
明子が嘘を言っているのではないか? この二年間何度も考えたことだぐるぐると……永遠に答えの出ることのない袋小路にだめだ思考を停止させろ生きていたからなんだというんだ俺には何の関係もないはずだろいやなぜあいつは暴走したんだきっかけは動機は違う生きていたら――。
ありえない……俺はこの目で見たではないか。頭を打ち抜かれて倒れていく姉の姿を。
そして、姉の体には――――。
何かが冥星の体に触れた。それは生暖かい温もりを放っている。しばらくすると体は落ち着きを取り戻し今までざわついていた心は嘘のように平穏を保っていた。
「だ……大丈夫ですか?」
「…………ああ」
ここで皮肉の一つでも言えればいつもの冥星でいられるのだが、それができるほど今の彼には余裕がなかった。エリザが冥星の手に触れているのだ。ただ触れているだけだったが、冥星はその手を強く掴む。最初こそ驚いたエリザだが、冥星の好きにさせた。
「す、すごい汗です……何か、飲み物でも持ってきましょうか?」
「いい……それよりもその手を離すな。絶対だぞ」
「はい…………」
態度こそ傲慢だが、確実に弱っていた。エリザにすがっている自分が滑稽で笑い飛ばし、殴り飛ばしたくなったが残念なことに心地の良い安心感の方が幾分も強く、結局のところ何もできない。まるで麻薬だ。油断すれば中毒症になりかねないほど……。
「あまり能力を使うな……気が狂いそうにある」
「ど、どうしてわかるんですか?」
「アホかお前は。俺に精神干渉をしているだろ……下手をすれば廃人になるほどの感情を送り込んでいる。強すぎるんだお前は。俺じゃなかったら死んでいるぞ」
エリザはそう言われると幾分か能力を弱め、穏やかな波長で冥星の心を包み込んだ。へたくそだが確かに心地のよい波が行ったり来たりしている。これはエリザの感情だ。優しくも強い……心の海。
「殺しをしたことがあるか?」
「し、しません」
「殺したいと思ったことは――――ああ、殺したいっていうのは憎しみとか怒りとかそういう意味じゃなくて……本能的な部分での、わかるだろ?」
「わ、わかりません……ないと思います。どうしていきなりそんなことを聞くんですか?」
「いや……やっぱりお前は変わったやつだなと思っただけだ」
エリザの心が戸惑いの感情で満たされていく。その波が冥星にも伝わってくるが、今度は冥星が自らの波を流し込む。いつもどおりの己の感情――――どこまでも平常な機械のような淡々とした波長。揺らぐことのない強い意志。そして――。
「やっぱり、あなたは優しいですね」
「何が……」
「心の隅で、救いたいと思っているじゃないですか。私、これでも精神については敏感なんですから!」
「へぇ……お前、何級指定なんだ?」
「えっと……確か八級」
「ゴミじゃねぇか!!」
「ひ、ひどいですー! 叩かないでください!」
八級などビリから二番目ではないか。そんな奴に自分の心を見抜かれた?
いや、何が救いたいだ馬鹿馬鹿しい。冥星はエリザの手を強引に離し、その頭を叩きまくった。
「す、素直じゃないんですから、もう――あう!」
「黙れくそ奴隷。お前のせいで貴重な睡眠に時間を無駄にした。責任をとれ」
「そ、そんな……私はただ」
「いいわけはいい。明日は全裸で登校しろ、命令だ」
「い、いきなりなんですかその命令は!? 変態じゃないですか!」
「金髪ビッチ、お前にふさわしい名前じゃないか」
「さ、最低ですあなたは―――――!!」
その後、突然夜中に騒ぎ出した冥星たちを明子は、脳天に拳骨を直撃させた。あえなく昇天した二人を見つけたのは朝一番に起きた海星だったらしい。二人は寄り添うように眠っていたとか、そうでないとか。どっちでもいいか。
友情は大切だ。冥星はいつもそう思っている。大切な時に盾にできる仲間。窮地に陥ったときに身代りにできる仲間。特攻させる仲間。悪だくみを考える仲間……。
どんな時でも友情は大切なのだ。
「よし、今日はスカートめくりでもするか」
「ばっ……お前声が大きいって! なんだよいきなり……」
「いや、急にやりたくなった。よしやろうすぐにやろう」
「あはは……俺、帰るから」
「逃げるな、達也。よし、お前には海星のスカートを捲ることを許可する。やれ」
「やれ、じゃないよ! できるわけないだろ!」
「根性なしが! あれを見ろ、隼人などもうスタンバイОKって感じだぞ」
「……隼人、なんていうか見損なったというか、予想通りというか」
隼人は最初こそ抗議したが、いざやるとなれば誰よりも早く廊下で待ち伏せしている。真の変態紳士は、こういうやつを言うのだと冥星は語る。
なぜ、スカート捲りかと聞かれれば、そこにスカートがあるから。
なぜ、そんなことをするのかと聞かれれば、『その先』になにがあるのかを探求したいから。
探求……それこそが知識の全て。つまり、健全ある男子小学生はスカート捲りをすることで探求心を補っているのだ(適当)
行きかう女子たちのスカートを捲る、捲る、捲る……隼人は今、無の極致にいる。どれだけの罵声を浴びせられようが知ったことではない。さまざまな色のコントラストを感じ、己の欲求を満たす。ひっぱたかれようが袋叩きにされようが、何のことはない。そこにパンツ……もとい、スカートがあるのだから。
「何をしているの、隼人」
「くそ変態野郎。死ねよ」
この二人にさえ、出会わなければ……隼人は最強の変態紳士になれたのだ。
「答えなさい、隼人」
「…………ごめんなさい!! スカート捲って楽しんでました!」
「…………はぁ、冥星君、いるんでしょ?」
鋭い目つきが冥星の隠れている茂みに投げられた。全く最悪だ。ここで出てこなければ、大蔵姫の忠実な暗殺者である六道凛音の餌食となる。冥星とて命は惜しいのだ。
「てめぇ、冥星……女の敵だな。今ここで去勢してやるよ」
「勘違いするな。俺は別にスカートの中が覗きたいわけじゃない。お前らの怒る顔が見たいだけだ」
「下衆じゃねぇか……やっぱお前はここで殺す。即殺す」
なぜ、隼人が主犯なのに自分が怒られているのか。それは計画者だからだ。そして達也はそそくさと逃げてしまった。友情とは本当に、はかない……。
「待って凛音……冥星君、隼人に変なことさせないで。隼人の行動は篠崎の名誉にも関わるの」
「たかが小学生が……なんだ、許嫁としては隼人の行動を監視したいのか?」
「許嫁……? ああ、そうか……そんな話もあったっけ」
姫は相変わらず無表情のまま、氷のような瞳で隼人を見る。隼人は正座をしたまま複雑な表情で俯いたままだ。
「そんな話……すぐになくなったわ」
「何?」
「篠崎は……大蔵の盾。身分が違いすぎるからな」
「凛音、やめなさい」
「でも事実だろ」
「…………そうね。でも」
「つまりお前は隼人のことを振ったのか?」
「有体に言えば……そうなるのかしら?」
そうか、と冥星は隼人を見た。そんなこと、一言も口にしなかった。まぁ言う必要などないのだが。小学生で失恋を経験するなんて……隼人、哀れな奴。
「俺は、認めてない……いつか、姫にふさわしい男になる」
「…………そう。くれぐれも、この男みたいにはならないでね」
「……俺に指を向けるな」
「あら、私を見捨てたくせに今更どんな弁解が出てくるのか、楽しみだわ」
冥星は軽く舌打ちをしたくなった。別に気にすることではないがこの女の言っていることにはいくつか語弊がある。正しくは見捨てたのではなく『眼中』になかった、が正しい。
隼人は姫と冥星が親しく話していることに軽く違和感を覚えた。まるで昔なじみのように会話を交わしている。あの姫が能面を崩し、積極的に笑みを見せているのだから。それほどまでに心を許しているということなのだろうか。
なんだ、これは? 胸を締め付けられるような痛みに隼人は戸惑いを隠せない。
「はっ……思い出した。おい、スカートを捲らせろ」
「……頭が、おかしくなってしまったの?」
次の瞬間、冥星は後方に控えていた暗殺者の無慈悲な一撃を簡単に食らい、後方に吹き飛んでしまった。自分が反応できなかったこと、的確な急所を狙った死の一撃。相当な腕前だ。
あの、手合せをした時からわかっていたことだが、大蔵姫には最強の戦士がついているということか。
「てめぇ、冥星……勘違いしているのかしらねぇが……お前の目の前にいる方はこの土地の現人神だ。お前がどれだけ凄い奴だったとしても姫を傷つけるならただじゃおかねぇ」
「な、なら……お前のスカートを捲らせろ」
「なっ……! なんで私!? ふっざけんなこの、この!!」
「ぐぁぁぁ! この俺の頭を踏みつけるな愚民!!」
絞め技からの追撃。流れる水のように一つ一つの動作に狂いがない。やりたい放題にやられている冥星を他の者たちは哀れな目で見ている。
認めよう……六道凛音は、この冥星の天敵であると。
「め……めーせいさまぁ…………ひー……ひー……」
「遅い、エリザ。さっさと俺を助けろ」
「そそんなぁ……このランドセル何キロあるんですかぁ……くたくたですぅ……」
「そのランドセルには俺の教科書を全て投入した。今日からお前は俺の勉強机」
「ひ、ひどいです――――! ぐす…………」
それはそれは美しいプラチナブロンドの長髪をなびかせて、エリザ・サーベラスは老人のような足取りでやってきた。前には可愛らしいピカピカの赤色ランドセルを背負い、前にはどす黒いよれよれの(リコーダーが脇に刺さっていて、体操着袋が掛けられている)を掲げている。端正な顔立ちと大きなマリンブルーの瞳が見る者を魅了させてやまない。まるで愛されるために作られた芸術品。そんな彼女が今、顔を真っ赤染め上げ、全身に汗をほとばしらせながら近づいてきたのだ。
「汗くさ! お前、不潔だな」
「!? う……うぇ……うぇ……」
「冥星君…………?」
「冥星、てめぇ……」
「冥星……」
まるで汚物を見るような目で周りの者が冥星を睨む。あーあ、なーかせた! と言わんばかりにどうにかしろよお前、と小突きあげる隼人。どうやら、汗臭いという単語がエリザにとってかなりショッキングな言葉だったようだ。女という生き物は汗臭いのが嫌いらしい。明子はすぐファ○リーズをしたがる。主に、冥星の体に。
「しょーがない。エリザ、スカートを捲れ」
「なななななななななな……なんですかいきなり――――!?」
「今日はスカートを捲りたい気分なんだ。いいから捲れ。俺の命令だ」
「む、無理ですよぉ……許してください~!」
「雛人形とゴリラ(仮)は喜んで捲っていたぞ」
「記憶をねつ造すんな!」
「勝手に痴女にしないでちょうだい」
「ええ? そうなんですか……? うぅ……じゃ、じゃあ私も……」
話を聞け、というかじゃあってなんだ。そんな突込みが二人の口から出る余裕もなく、エリザは自らのスカートに手をかけた。あの、清楚で純真な心の持ち主の、男子の憧れる彼女にしたいランキングダントツ一位のエリザが。今痴女になりかけている。
「と思ったらお前の面白い顔などいつでも見れるからやめだ、やめ」
「え? ええ?」
「よし、帰るぞ、ああ、その前に」
突然突風が凛音と姫を襲った。もちろん犯人は冥星。してやられたという感想は抱くもののその風から逃れることはできない。みるみるうちに二人の顔が真っ赤なトマトのように染まっていく姿は本当に滑稽だ。
「あ……が、て、め、ぇ…………」
「お、落ち着きなさい、凛音。大蔵の者がこの程度で……この程度で相手を殺したと思ってしまってはだめ!!」
「よし、ずらかるぞエリザ! 面白くもない物を見てしまったが、あいつらの顔が何よりの収穫だ」
「……最低です、めーせいさま……」
エリザは主のしょうもない姿に泣きながらついていく。きっと明日袋叩きにされるのにどうしてこんなことをするのだろうか、という疑問が絶えない。とりあえず、自分のスカートは安全であることにホッと一息つくのだった。
「殺す、あいつは殺す。絶対に殺す」
「……やめなさい。凛音。不覚をとった、それだけのことよ」
「……姫はいいのかよ?」
「別に、構わないわ」
「相変わらず、冥星には甘いんだよな……」
「何か言ったかしら?」
「何でもないよ……それより、こいつどうする?」
「記憶が吹き飛ぶまで殴り続けても構わないわ」
「ほら……やっぱり。はいよ」
取り残された隼人は、眼福眼福と拝みながら密かに退散を試みていたが、そんな素人の技が凛音に通用するはずがなくすぐに首根っこを掴まれ引きずり出されてしまった。
「お……おい、凛音……ウソだろ?」
「悪いね、あんたがどれだけ偉くても、姫の命令は絶対なんだ。そいじゃ歯を食いしばんな」
「め、めいせいぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
哀れ、隼人。だが、姫のパンツが見れたこと、後悔はしていない……。
チャイルド
「――――では、君たちのいるこの学校の存在意義とは?」
「はい。ミュータントである私たちの道徳心を養い、社会に幅広く貢献するための人材育成です」
「よろしい。君たちは極めて優秀だ。この世界は、もしかしたら君たちには退屈に感じることが多いかもしれない。けれど、そこで傲慢になってはいけないよ。常に、生かされているという感謝の気持ちを忘れないようにね」
生かされている、というのは……文字通りいつでも排除できるという意味なのか? もちろん先生にそんなことを質問するわけにはいかない。冥星の言動は常に監視されている。放つ言葉の一つ一つに不審な点があるようなら、再教育という名目で放課後追加の授業を余儀なくされるのだから。
たまったものではない。なぜ自分だけ。最初は首輪だけだった。それが冥星の行動一つ一つにペナルティが課せられていき結果的に今では問題の一つでも起こしたなら、便所掃除か、授業か、あるいは……体罰か。それが日常茶飯事になっていた。
「――革命、などと決して考えてはいけない。君たちは優秀だ。しかし欠点がある。何かわかるかね、エリザ君」
「ははははははははははははははははははい! …………はい?」
質問を投げかけられたのは、冥星の隣の席――エリザだ。どうにかこうにか日本語を覚えることに成功した彼女に降りかかったのは文字の壁。ひらがな、カナカナ、漢字……海外か編入してくる外国人は常々言葉にする……日本語は難しい、と。
チラリとエリザのノートを盗み見した冥星は絶句した。おそろしく汚い字で必死に黒板に立ち向かっていた。エリザにとって、授業は毎日真剣そのものだ。
「君たちは決して人類に勝てない理由だ……ああ、そうか。エリザ君はまだ保健の授業を習ったことがなかったね――――冥星君代わりに答えてくれないか?」
その答えを口にすることは簡単だ。しかし、誰もが嫌がる。この年齢の子供たちにとってその話は興味がある以上に嫌悪感を抱くからだ。冥星とて同じ――それ以上にこんな話はしたくない。男女の話にすら興味のない男には、いささか退屈な授業だ。
「数が少ない。ミュータントの人口は全世界の一パーセントにも満たない」
「その理由とは?」
「ミュータント同士の性交渉では子供を産むことができない。今現存するミュータントの九九.九パーセントが人間の遺伝子を持つ。ミュータントは生殖能力が極めて低い」
「おお…………」
と主を奇異な目で見つめるエリザの机を蹴飛ばし冥星はけだるげに席に座った。なぜ自分がこんなことのために労力を消費しなければならないのか。
授業など、冥星にとって何の必要もない。なぜなら冥星は社会に羽ばたく未来の子供たちになど絶対にならないからだ。ニート。ニートこそ至高の職業(ニートは職業ではない)だと信じて疑わないからだ。しかし、今の冥星は先生に逆らえばそれだけでペナルティを食らってしまう。それもこれも隣のブスのせいだ。本当に苦労が絶えない。
「ミュータントの人口は年々低下傾向にある。いずれはその遺伝子すら忘れられてしまうだろう。しかし、悲観してはならない。君たちが生きていることこそ、国家にとってこれほどの宝はない。願わくば、君たちの未来が明るいものであること――――」
ミュータントがいなくなる。それこそが国が求めていることだ。ミュータント排斥運動。ミュータントの人権問題……頭を抱えたくなる問題が山積みになっている。
わかっている。この国は限界だ。それも、あと一つ何かのきっかけがあれば積み木のように崩れ落ちてしまうのだ。
大人たちはそれを必死で繋ぎ止めている。なぜか? 変化が怖いからだ。この平和な日常が突然終わってしまうことへの恐怖。または社会の秩序が変わってしまうことへの恐怖。
どちらにせよ、ミュータントは消える。それは事実だ。この学校にいる子供たちこそが、日本に集められたミュータントチャイルドたちなのだから……。
達也はバスケットボールを片手で回しながら体育館を見つめている。シューズの感触を噛みしめながら最後のゴールを決める。
最後の――――。
「未練があるのか?」
「当然。今だって信じられないよ」
達也を仲間に誘ったのには理由があった。今年付でバスケットボールクラブが廃部になると聞いていたからだ。コートにも出ずぶらぶらと準備室で屯っているしかなかった達也にはちょうどいい暇つぶしになる。結果的に暇つぶしどころではないほどはちゃめちゃな毎日だったけれど。
「俺の全てだった。将来は選手になるって決めてたんだ」
「…………そうか。残念だな。俺もヴァイオリニストになるのが夢だった」
「へぇ……そうだったの?」
「ああ。将来を有望されていた」
「確か……音楽界は、いち早く排斥運動を始めたんだよね」
「まぁな。俺がデビューする数日前に決まったんだ」
「……悔しくなかった?」
「別に。俺は天才だから何にでもなれる。小さなことにこだわったりしない」
「小さなこと……か。相変わらず、冥星は厳しいなぁ」
ガコン、とリングが揺れてボールが落ちる。この音はつまり、はずれたということだ。もっとも入ったとしても達也はこの音が好きではない。シュートはリングの紐が擦れる音だけでいい。選手たちはあの音だけを求めて互いのリングを責め立てるのだ。
「俺はさ、ミュータントとか人間とか正直どうでもいい。バスケができて、試合ができればそれで……けどそれは俺だけだったんだなって。他のみんなはそうは思ってなかったんだ」
達也たちのチームはミュータントだ。圧倒的な身体能力を有していることで数々の強豪チームを破ってきた常連校だった。
しかし、排斥運動は始まった。小学生のクラブ活動にも影響を与えているらしい。人とミュータントの溝は更に深まっているということか。
「納得したんだ。だってさ、相手からしてみれば俺たちは化け物みたいなものだろう? そんな奴らと戦うなんて……怖いじゃないか」
「まぁ人間っていうのは弱い生き物だからな。俺たちが本気を出せばけちょんけちょんだ」
「あはは……冥星はそういうこと言っちゃだめだよ。先生にも言われてるでしょ? 人間を否定する言葉を使うなって……」
「でも事実だ」
「それは…………確かにな!」
にっと笑い合いながら体育館に寝転ぶ二人。ちなみにもう昼からの授業は始まっている。達也はお腹が痛いから休むと言い、冥星は食べ過ぎでだるいから休む、と先生に言い訳したらしい。もちろん冥星は認められず抜け出してきたのだが。
「達也は優しいな」
「おいおい……どうしたんだよ、突然。褒めたって何も出ないぞ?」
「いや、褒めてない。愚かだと思っただけだ」
「愚か、か……冥星は時々難しい言葉を使うな」
「難しいか? ……そうか、俺が天才だからか。つまりな、お前がやりたいようにすればいいんだ」
「やりたいように?」
「そうだ。お前はミュータントだ。その力を存分に振るえばいい。他のやつなんて気にする必要などないだろう?」
「………ミュウのこと? 俺は……あまり好きじゃない。あれを出すと親が泣きそうになるからな……」
「俺も同感だ。ミュウなどという超能力に頼る必要などない。あれは何の役にも立たないからな。世の中は騒いでいるが、俺たちからすればいい迷惑だ……人類を滅ぼす遺伝子だと?」
「だけど、確かに俺たちは人を殺す」
「―-ああ、それが食物連鎖の頂点に立つということだからな」
「俺たちは食物連鎖の頂点にいる。人類はそれを認めない」
「認められる必要などない。ただ、力を示せばいいんだ――よ」
冥星の放ったボールがアーチを描き、ゆっくりとリングに吸い込まれていく。スポーツは好きだ。殺し合いも好きだが、スポーツの方が面白い。短い時間の中であれだけのやり取りを繰り返し、戦略を立てて、相手に挑む。スポーツの面白いところは負けたチームが再び同じチームと戦った時の勝利だ。殺し合いでは味わうことのできない興奮、歓喜。もちろん冥星は選手ではないが、秋坂家のお茶の間を騒がしていることは間違いない。ちなみに明子は野球の話になるとうるさい。いつもテレビを占拠するのだ。
「スポーツというのは戦争の代わりだ。各国のいがみ合いを発散させるためにオリンピックがある。だが、俺たちはその権利すら与えられない。なら、力を示し続けるしかない。人類が恐れる恐怖の力とやらを、な」
「俺は、俺は人を殺すのも、暴力を振るうのも嫌だ……俺はただ、バスケがしたかった……それだけなんだ……」
「――――相手の選手に怪我をさせてしまった。後遺症を残すほどの」
「! 知ってたのか……冥星」
「達也、俺たちは力を抑制しなくては生きていけない。だが、力を示さなければ生きていく資格がない――意味が分かるか?」
「人を傷つけないためと――俺たちが傷つかないように」
「わかってんじゃねぇか」
冥星は柄にもなく達也の前に拳を突き出した。達也も頭を掻きながら己の拳を冥星のそれにぶつける。
「恐れるな、達也。俺がいる、安心しろ」
「冥星……ああ、信じてるよ」
「俺の帝国ができたらバスケットチームを作ろう。もちろん監督は俺だ。その金でニート生活を満喫する、うん、さすが俺。天才だな」
「監督って時点で仕事してるけど……まぁいいや、面白いから」
二人はそのあともしばらく体育館にいた。あの時のリベンジということで再び一対一を挑んだ冥星だったが、やはり達也の方が一枚上手だった。どんな勝負事でも簡単に勝ってしまう冥星だが、その道に人生を懸けていた男の力には叶わなかった。
達也が眩しかった。自分にはない色をした情熱を、未だに持ち続けている。この世界のルールに従い、文句を言わず自分の立場を理解している。ヴァイオリニストをあきらめた自分にとっては、達也という男はいささか目を逸らしたい相手だった。それでも、冥星は達也たちのリーダーでなくてはならない。自分に科せられた使命だからだ。
冥星は救世主などではない。救世主とは人間を救うために現れるのだから。
では、ミュータントを救うのは誰?
答えはミュータントだ。神に祈ることも信じることも許されないのなら、ミュータントに願うしかない。自分たちの世界が欲しいと。
それが、数百年に渡るミュータントと人の歴史。
そしてその溝は深まるばかりだ。
人類はミュータントを駆逐しようとしている。この世界に存在してはいけないのだと断言する。
冥星の夢は、おいしい料理をたらふく食べて寝るという生活を永遠に続けることだ。しかしその夢はとてつもなく遠い道のりの果てにあるのかもしれない。なにせ、人間ですらそんな生活をしている奴なんて数える程度しかいない。それも、一部の人間はニートと呼ばれており、世間から蔑まれている。ふざけた話だ。なにがそんなに気に入らないというのだろう。いやなら、学校も仕事もやめればいい。それができないのは社会の歯車に或いはシステムに組み込まれた己のせいではないか。彼らを酷評することができるのは、彼ら自身だけだ。彼らだけではない、本来誰かを評価するという行為は神のみにしか許されない。いろんな見方があり、いろんな見解がある。それを一人の人間が一方的な評価を下すことで、周囲の人間は自分の考えを失い、今のような大衆社会が出来上がってしまった……。
「冥星、頼んだよ」
「まぁ任せておけ。あと、十年くらいすれば俺が王様な帝国を作ってやるからな」
「俺はあと十年後には海星ちゃんと恋人になってみせるよ」
「くだらんことこの上ないが……その意気だ、達也」
なぜ今日、冥星が傍にいてくれたのか。自分の心の底を見透かされていたのかもしれない。
達也は横で給食のパンをくすねてきた男を見ながらその真相を探る。いつも通り、掴みどころのない少年の姿がそこにある。なぜだろうか、この少年の傍にいるとなんでも出来そうな気がしてくるのは……。
「早く大人になりたいものだ」
「……ちょっと意外だな。冥星からそんな言葉が出てくるなんて」
「そうか? ……そうだな。その通りだ」
そんな言葉が突然出てしまった冥星は自分を恥じた。子供は自由でいい。大人になれば様々なしがらみが己を縛り付ける。おそらく、こんなところでのんびりと遊んでいる暇などなくなるかもしれない。
いや、のんびりしている暇なんて、そもそもないのかもしれない。
冥星は逃げ続けている。宿命を理解してそれを成し遂げようとする意思はある。それは崇高な行いで尊ばれる志だ。誰もが自由を求めたとき、冥星がその者たちの中心に立ち先導する。それが自分のやるべきこと。
――――革命。
世界はそれを求めている。あるいは自分がそれを求めていないとしても、自分の行動は他者をそれらへ導く。
それは、化物だ。達也のようなただ平和に暮らすことを望むミュータントでさえ、俺は渦中に巻き込もうとしているのか……?
「俺が大人になったらきっとイケメンすぎてモテモテだな」
「……自分で言う? そういうこと?」
「当たり前だ。そうなるとめんどくさいのでさっさと嫁でも娶るか」
「え? 冥星って結婚するの?」
「当たり前だ。いいか、俺の嫁になる奴はな……こう髪の毛は真っ白で赤い瞳で俺の言うことは何でもはいはい聞くメス奴隷的な感じのやつだ」
「それって……エリザで足りるんじゃない?」
「馬鹿者! あんなアホと誰が結婚などするか! 優秀な遺伝子とは、優秀な親の遺伝子から生まれるんだ。片方は天才で片方が馬鹿だときっととんでもない子供が生まれる。そんなったらもう手がつけられんではないか」
「子供って……そんなことまで考えているの?」
「何を言っている? 突き詰めれば結婚とは自分の分身を生み出すための儀式だろ?」
「とりあえず、冥星のお嫁さんになる人はかなり苦労するね……」
哀れんだ目で見つめる達也を可笑しそうに笑い飛ばす冥星。どうやらこの辺の倫理観は他人とは分かち合えないらしい。結婚するためには恋が必要だとか、互いのことを知らなければならないとか。永遠の愛を誓うとか-―――。
おぞましい。そんなものに何の意味があるんだ。永遠など有り得ないと知りつつもそれを望む愚かな人々。
それを美しいと感じる心。
くだらない……。
「冥星はまず誰かを好きにならなくちゃな」
「真っ白な髪で目が赤くて透き通るような肌の従順なメス奴隷なら好きになる」
メス奴隷というところが冥星らしいな、と親友の歪んだ性癖に若干引きながらもその恋わずらいを応援しようと達也は決めた。そうなると、冥星の奴隷であるエリザがちょっと不憫に思うわけで。
「め、めーせいさまぁ! せ、先生が怒ってますよー! トイレ掃除決定だそうです!」
エリザの声とともに冥星たちは教室へ戻る。いつか自分の夢が叶う時が来ることを信じて。達也はそのボールをゆっくりと籠の中にしまう。いつか、もう一度それを取る日が来ることを願って。
下克上
その日、クラスの男子共は緊急の会議を開いていた。ある者は悔し涙を流し、あるものは怒りの咆哮を上げ、緊迫した雰囲気が漂っている。
その中心には篠崎隼人が机にどっかりと座りながら佇んでいた。
「隼人! もう我慢できねぇ! 今こそ戦いの時だ!」
「そうだ! あいつらまた俺たちの遊び場を奪いやがった!」
「上級生だからって許せねぇ!」
「眼にもの見せてやろうぜ!」
遊び場-―――それは小学生にとって自分のテリトリーである。学校が終わればそこで母親に叱れるまで遊び呆け、休みの日は朝から晩まで遊び呆ける。それは友達の家であったり、近くの公園であったり、秘密の場所かもしれない。小学生にとって、遊ぶということは大人が仕事に行くのと同じだ。遊びこそ、子供の領分。
「みんなの気持ちはわかった。俺もそろそろ堪忍袋の尾が切れちまうところだったんだ。いい加減好き勝手させるのも限界だ。俺は決めた、やつらを叩き潰す」
鬨の声が盛大に上がる。結束した五年三組の男たちは高らかに拳を上げ、打倒六年生と意気込み己を奮い立たせる。
そんな中、冷めた目で馬鹿達を見つめている者がいる。女子たちだ。
「バッカじゃないの……男子たち」
「はぁ、ほんとガキばっかなんだから」
「でもさぁなんか面白そうじゃない? どっちが勝つと思う?」
「何言ってんの、冥星君がいるんだからうちらが負けるわけないでしょ」
「そうそう、顔よし頭よし運動も出来る超エリート男子」
「なんだけど……」
「「「あの性格がねぇ……」」」
「頭のネジ、飛んでるとしか言い様がないのよね」
「でも、あの事件の時の冥星君、かっこよかったなぁ」
「えぇ? あんたもしかして……!」
「ち、違うって! でも、他校から人気あるんだよねぇ冥星君」
「そりゃ……あの性格知らなけりゃ、王子様って感じでしょあいつ」
「「「ほんと、あの性格がねぇ……」」」
男たちの輪から離れた場所で既にエネルギーを使い果たした冥星は死んだように机に倒れ掛かっていた。燃費の悪さなら外車だって上回る。あと環境にも地球にも害を成す存在なのだ。
「あ? なんで俺が」
「隼人にバカなことさせないでって言ったでしょ? 責任とって」
「知らんわ。馬鹿者。あいつが何しようがあいつの自由だ。いちいち俺が関与することではないいてててててててててて!! 俺のほっぺを叩くな!」
「あなたが先日したこと、忘れたとは言わせないわよ……?」
「忘れた! うぉう!?」
「てめぇ……冥星、殺す殺す殺す殺す殺す殺す!!」
「なんだよう! お前ら! 俺は帝国の王になるおとこだぞぁ! くそ……腹減って力が……アン○ンマン! 助けてくれ!」
姫と凛音は先日、冥星にスカートを捲られたことを根に持っていたようだ。ここぞとばかりにヘロヘロの冥星を縛り上げ、リンチにしている。もちろん大蔵家のお嬢様が公認でやっているのだからいじめではない、制裁だ。ちなみに凛音はガチで殴り続けている。
「ぐっ……お、俺がいったところで、どうせあいつらはミュウを使うだろうが……そんな危険な喧嘩に参加できるか!」
「何言ってんのよ。あなた、エリザさんを助けるためにおじい様に喧嘩売ったり、エリザさんを助けるために他のクラスの女子たちを蹂躙したんでしょ?」
「………………」
「図星か……はっ……お前、とんでもない悪党だな」
遅かれ早かれ、こいつらにはばれるだろうと思っていた。所詮、この場所も大蔵の息がかかった施設だ。理事長は確か……そう、大蔵 華王……あのロリコン爺の娘だ。冥星のやってきたあれこれなどは全てあの邪悪な女の元に集計され今後どのように教育していくのかを下しているわけだ。
「なぜかは知らないけど、お母様はあなたを大層気に入っておられるわ。言っておくけど、他の生徒があなたみたいな不良だったら、即収容所行きよ」
「つまり俺の人望が成す……わかった、その拳を下ろせ。話だけでも聞いてやる」
「初めからそう言えばいいのよ……全く」
ぷりぷりと怒った顔をして隣の席に座る姫。
「あれから」笑顔を見せることがなくなった、と風のうわさで聞いていたが。
所詮は噂だったということだろうか。なにげなくその仕草の一つ一つをぼぅっと見つめていると、
「ちょっと……冥星君? 聞いてるの?」
「あ? ……ああ、ああ? 聞いてない」
「呆れた……もう一度言うわよ?」
「いや……それより、首筋の殺気をどうにかしろ。気になって集中できない」
「……凛音、あっちに行ってなさい」
「でも、姫」
「冥星君は大丈夫よ。安心しなさい」
「ちっ……おい冥星、姫にちょっかい出してみろ……てめぇ、今度こそ消すからな」
背後から冥星の急所を狙っていた空気は彼女が出ていくことで霧散した。随分と嫌われたものだと感心していると横から非難めいた目で姫が抗議してくる。
「全く困ったものだわ。誰に対してもあんな感じなんだから……」
「いいことだろ。うちの奴隷なんて何の役にも立たん。ただの疫病神だ」
「そんなこといって、本当は大事に思っているくせに」
「思ってない。役に立たんのなら今すぐに捨てる覚悟だ」
「じゃあ、あなたにとって大事な物ってなあに?」
「食うこと、寝ること、遊ぶことだ」
「くそ子供じゃない……ほんと、いつまでも幼稚なんだから」
「お前は、もう子供じゃないのか?」
「少なくとも、あなたよりは大人のつもりよ」
「そうか……よかった」
「え?」
「お前が大人になれてよかったと言っている」
「何を言って……」
「過去を振り切って生きているから、安心した」
冥星の目は穏やかに姫を見つめていた。どうして今頃になって……そんな思いがぐるぐると姫の頭を駆け巡る。やはりだめだこの男の前にいることは……自分の心の中の何かが弾けてしまいそうになる。衝動を理性で押さえつけ、姫はいつも通りの冷静さで例の件を相談した。
「つまり、喧嘩をしないで仲良く遊び場を使う方法を探すということだな」
「最初からそう言ってるでしょ! なんで同じ話を十回も言わせるのよ!」
「あまりにも無理難題を押し付けられたから聞き返しただけだ……化けの皮が剥がれているぞ」
「コ……コホン。とにかく、何とかして頂戴」
「具体案を出さずになんとかしろ、などと言われても何もできない。お前は理不尽な中間管理職のおっさんか」
「それを一緒に考えるのよ」
「めんどくさっ、おいエリザ聞いてたか?」
「あ、はい。六年生と仲良くなればいいんですよね?」
「さすがエリザさんね。なにかいい方法はないかしら?」
「わかりません!」
「……素敵な笑顔ね、エリザさん」
「こいつに聞いても無駄だ。バカだからな」
「うう…………授業の復習してたのに……」
ノートに書かれた自分の字を必死に追っていたエリザは、冥星の無慈悲な一言でノックアウトした。これでもだいぶ日本語も覚え、文字も嗜む程度には書けるのだが依然として成績の方は下の下だった。具体的にはビリから五番目くらいを彷徨っている。
「というか、なぜあいつらは今日に限ってあんなにやる気満々なんだ? そのやる気をもっと別のことに消化するべきだな」
「あなたにだけは言われたくないと思うわよ。もちろんちゃんと理由はあるの」
姫の話をまとめてみると、事の発端はクラスの男子たちがいつもの公園で遊んでいた時に起こったらしい。その公園はいつも色んな学年の子供たちが放課後遊び場として使っているのだがそれぞれに見えない境界線――つまりここからここまでは一年生だとか、そこからそこまでは二年生という暗黙のルールが敷かれているらしい。もちろん、いろんな学年が混ざり合いながら遊んでいる生徒もいるのだが、大半は学年別に自分たちの陣地で遊んでいる。これは、年齢差によるいじめや体格によるハンデをなくすという部分も含まれているのでその点については問題ない。ただ、学年が上がるごとに陣地が広がるという縦社会を具現化したような仕組みがあるのだ。子供を舐めてもらっては困る。
「まぁ六年生にもなると、外で思いっきり遊んだりする生徒なんてそんなにいないじゃない? だからその……陣地? が余るのよ。それをうちの五年生が黙って使っていたらしいの。そしたら六年生全員が目の敵にしちゃって……総出で五年生の遊び場を奪っていったのよ」
「……ふむ。五年生が悪いな!」
「そうなのよ。でも隼人たちはそうは思ってないの。きっかけは自分たちかもしれないけどあいつらは遊び半分で俺たちを痛めつけているんだって……」
辺りの男子たちを見てみる。皆、殺気立ったように目を血走らせ人でも殺せそうな勢いで壁を殴っている者もいる。なまじ、人を殺すほどの力を持った子供たちであるため扱いに困る。
「先生にチクッて止めてもらったらどうだ?」
「こんなことがばれてしまったら大問題よ。学校の存続が危うくなるかもしれない……ただでさえ、私たちのことを悪く言う先生だっているの」
「大蔵の威光でなんとかしろ」
「私が出てきたって何の役にも立たないわ。どうせ、お飾りですから」
「判決――――お前は役立たず……ほっぺをつねるな痛い」
「とにかく……これ以上隼人が面倒を起こしてもらっては困るの。隼人だけの問題じゃない、大蔵家に関わる人たちにも迷惑がかかる」
「それは俺に言う前に隼人に言うべきだろ?」
「言ったわ、何度も……けど私たちの、その、縁談? がなくなってから妙なのよ」
隼人は篠崎と大蔵の良縁関係のために婿に出す予定だった。しかし、大蔵と篠崎ではあらゆる面で比較できないほど大きな権力の差がある。つまり、この縁談で得するのが篠崎家だけだという判断から今回の話は無しになったらしい……。それから隼人は目に見えて何か大義を成そうと必死になっているのだとか。残念ながらバカなのでその方向性に多少の違いが出てしまっていることは言うまでもない。
「はぁぁ~……隼人君は姫ちゃんが大好きなんですね~! 羨ましいなぁ」
「羨ましい? 何が?」
冥星は横から余計なことを言ってくる口を叩いてやろうとからかい半分でエリザを促した。
「その……求められるって素敵じゃないですか?」
「俺も求めているぞ、お前に」
「え……こ、困ります。私……」
「奴隷のような労働力をな」
「う…………うわぁ~~~~~ん!! 姫ちゃ~~~ん!」
悪魔のような笑みでエリザの心を砕く。姫はそんなエリザをあやしながら鋭い目を冥星に向けた。当然、冥星はその視線を受け流すように彼方を見つめる。
「要は……隼人がこの一件から立ち退けばいいのか?」
「それに、この暴動を止めてほしいの」
「つまり……俺にあいつらをまとめあげろ、と?」
「簡単でしょ? あなた、帝国を作り上げるって言っていたじゃない。この程度の人数を相手にできなくてどうするの?」
「安い挑発だ。俺のカリスマ性を持ってすれば造作もないことだが……本来なら理事長の娘であるお前がなんとかしなくていけないことだろうが」
「言ったでしょ。私はただのお飾りだって。私には何の権力もないし、何の力もない。大蔵家の娘だというだけのお飾り人形」
自嘲気味に話す姫は、吹っ切れているような、諦観しているような複雑な思いが混じった声色でしゃべり続けた。先ほどは変わったと思ったが、どうやら嫌な方に――少なくとも冥星の気に入らない方向に変わってしまったようだ。
これでは何のために――――。あの日この少女を傷つけたのか。
※※※※※
「冥星様……どうなされたのですか?」
「あ……?」
「とても……辛い顔をされてます。気分でも悪いのですか?」
「別に」
「……あの、どうして引き受けたのですか? あのお話……」
「なんだ? お前はあいつらがどうなろうがどうでもいいっていうのか? 顔に似合わず、いい性格をしている」
「違います! 違いますけど……」
「ちっ……言いたいことがあるならはっきり言え。二度は言わんぞ」
「はい…………冥星様は、姫ちゃんに甘いのではないでしょうか!?」
「な……なんだと?」
「だ、だって……冥星様が、なんの条件もなしにこんな大変なお話を引き受けるなんて、そうとしか考えられません!」
帰り道。例の話を姫から引き受けた冥星はエリザと共に作戦会議を開いていた。といっても二人でどうにかなる問題でもなく、当事者たちと直接話をする機会がなければ進展しない。とにかく、情報を集め、どうしたら万事丸く収まるのかという一点に絞って突破口を見つけるしかない。そんな中、珍しく冥星が頭を働かせていることにエリザは驚きを禁じ得ない様子だった。
「そんなのじゃない」
「じゃ……じゃあいったい……」
「それをお前に話す必要性がない。黙れ」
「…………はい」
あっという間に威嚇され泣きそうなるエリザ。奴隷の鋭い発言に思わずたじろいでしまった冥星はそれを隠すように怒鳴りつけ黙らせた。
そんなのではない。大蔵 姫という女は決してそんなのではない。
だが、あの女が助けてくれと縋りついてくるのであれば多少力を貸すのもやぶさかではない。ただそれだけなのだ。
「それに、引き受けたのではない。協力するだけだ。責任は全部あいつが取るんだからな」
「はい」
「何を怒っている?」
「怒ってません」
「……そうか?」
「そうです」
エリザはずんずんと前を行き、冥星を追い越していく。その後ろ髪をひっぱりながら冥星は奴隷の気持ちを把握できずに帰路を終えるのだった……。
※※※※※
「ハヤトバカナマネハヤメルンダ」
「冥星か……悪いけど邪魔しないでくれ。今日こそあいつらに眼にもの見せてやるんだ。一年年上だからっていい気になりやがって……」
「オチツケヘイワテキニカイケツシヨウジャナイカ」
「それはできない。例え冥星の言うことでも無理なもんは無理だ。俺だけの問題じゃないんだからな…………っていうか何で片言?」
「……全部あの雛人形からの伝言だ。俺個人として全くどうでもいいんだがな」
「……だったら尚更引くわけにはいかねぇ。俺はこの戦いであいつに認めてもらわなくちゃならねぇんだ。アイツと……アイツの家族にな」
「……とりあえず、お前は大きな勘違いをしていることがわかった。バカタレ」
「うるせー!! もう誰にも俺は止められねーんだ! 邪魔すんなら冥星でも容赦しねーぞ!」
翌日、隼人との会話を試みた冥星だったが予想通り本人は盛大な勘違いと共に間違った道を突っ走っている状態だ。このままだと彼は悪い意味で認められてしまう。なせそんな思考に至ったのかという疑問を、隼人の脳みそから調べてみたいという好奇心に駆られたが、今はやるべきことがあるので控えておいた。
「止めはしない。俺も混ぜろ」
「……悪いけど、ミュウが使えない冥星がいても役に立たねーよ」
「後ろで控えている分には問題ないだろう?」
「……いいけど、何企んでんだ? お前、姫に言われて俺を止めに来たんじゃねーのかよ」
「そのつもりだったが、気が変わった。たまには外で遊ぶのも悪くないな」
「遊びじゃねーよ」
「遊びだろ」
「違う! 戦いだ! 戦争だ!」
「……どっちでもいいわ」
戦争、と叫ぶ隼人を呆れながら冥星は見送った。何が隼人を戦いに駆り出すのか……その理由は分からない。いつもバカ笑いを浮かべている隼人らしくないその鋭利な眼差しに何かしらの決意を感じさせた。
「えええ!? 冥星様も参加するんですか!?」
「ああ、男の戦いだからな。正々堂々と正面衝突してやる」
「……嘘ですよね? あう!」
「黙れ。嘘じゃない――お前が戦うんだエリザ」
ポカンと大きな口をだらしなく開けしばらく停止状態になったエリザ。その顔に満足したのか悪党じみた笑みを浮かべその小動物を見下ろす冥星。次の瞬間エリザはブルブルと全力で首を横に振り大きなマリンブルーの瞳に涙を浮かべた。
「ななななななんでですかー!? わ、私女の子ですよね!? あ、その前に喧嘩なんて無理ですよー!? 無理無理無理無理!」
「やれ、命令だ」
怯えるエリザは冥星の冷徹な瞳を見た瞬間、説得は難しいと判断したのかすっかり黙り込んでしまった。しかし、言い知れぬ恐怖に駆られるのか依然すすり泣くような声が繰り返される。その声を聞くと冥星はよりいっそう嗜虐的な気分になるのだった。もちろん、そんな自分の欲望が制御できないほど愚かな生き物ではない。これは既に作戦であるということを念頭に入れエリザに今後の予定を伝えるのだった。
「いいか? 俺は天才だがこの学校で一番弱い」
「そんなこと……ないと思いますけど」
エリザは先日、冥星が行った暴動についてはある程度知っている。なんでも隣のクラスの女生徒数人を病院送りしたらしい。一部では転校する者もいた。
その話を聞いた時、エリザが感じたのはただただ恐怖だった。突然この少年に拾われ、右も左もわからないままで、いや、それ自体は今も変わらないが、それに加えて得体の知れない少年の姿に怯えるしかなかった。
殺されるのではないか、と思うこともあった。もしかしたら、死よりもずっと恐ろしい目に遭うことも考えた。なにせ、自分は奴隷という扱いで、およそ生きた心地のしない日々を過ごしていた。エリザの生きてきた人生が希望を否定し続けた。
「冥星は……私も実親ではないから判断できない部分もある。あいつが何を考えて行動しているのか……それはあいつにしかわからない。だが、これだけは言える。あいつは、何の理由もないまま人様を傷つけるようなことは絶対にしない」
秋坂 明子はそう語った。冥星と海星は孤児で自分が引き取って育てているのだと。未だに心を開かない二人に明子は苦労している。エリザのように素直だったらもっと楽なんだけどね、と。その見解にはいろいろ言いたいことがあったが、明子は冥星を非難することはなかった。
「あいつは家族を大切に思っている。その家族が傷つくようなことがあればあいつはどんなことでもやって除けるのさ」
「……なんだか、羨ましいです。冥星様には、こんなに信じてもらえる家族がいるんですね」
明子はその言葉を聞いた瞬間、腹を抱えて笑った。何か自分はおかしなことを言ったのだろうかと不安になるエリザだったがそれを察した明子が手で否定を表した。そして小柄なエリザをその大きな体で抱きしめる。
「エリザ、この家に来た時から、あんたは私たちの家族だよ」
「え…………でも」
「あんたが嫌だって言ってもその楔は解けない。家族ってのはそういうものだからね。だからお願い。冥星を嫌いにならないでほしい。あれはああ見えてとても傷つきやすい子だからね」
エリザは家族、と言われたことに対して涙が出るほど嬉しかったらしい。あるいは抱きしめられた時の温もりで自分は既に涙腺を崩壊させていたのかもしれない。自分のような薄汚い奴隷風情がそのような関係を求めていいんだろうか。父に母に求められなかった愛情を求めても許されるのだろうか。そんな期待が彼女の心を強く、激しく動かした。
明子は何も言わずにその美しいプラチナブロンドの髪を繰り返し、繰り返し優しく撫でる。それは決してそうではないと知りつつもその面影を追いかけてしまうほど母親の姿に酷似しているのだった……。
チラリとその傷つきやすいという少年を見てみる。自分よりも少し背の低い体を懸命に伸ばし、ふんずりかえっている。あの夜、勇気を持って彼に話しかけてみた。やっぱり意地悪で最低な男だった。今まで見た中でも自分をここまで雑に扱う人はいなかった。
だけど、あの夜の彼は確かにエリザの手を握った。まるでエリザが離れることを恐れているような……寂しそうな瞳で……。
「非常に認めたくない事実だが、ミュウが使えないミュータントというのは狩りのできないライオンのようなものだ。もちろん俺はミュウが使える奴らと一戦交えたとしても負ける気がしない。制圧のやり方も知っている。だが危険だ。俺の命が常に危機に瀕することなる。これは世界の損害にもつながる。なぜなら、俺は世界遺産並みに価値の有る男だからだ」
本当に同一人物なのかと疑いたくなる。どうしてそうまでして自分のことを高く評価できるのだろう。ある意味、その自信がエリザには羨ましかった。自分にはない、自信に満ちた横顔……まるで全ての事が自分を中心に回っているとでも言いたげだ。
「分かりました……けど私、誰かを傷つけることはできません」
「俺にシールドを張っていればいい。お前みたいな味噌っかすでも出来る簡単なお仕事です」
味噌っかすと言われてもエリザは苦笑いを浮かべるだけだった。その反応は冥星の最も嫌いな仕草だ。卑屈な笑いを浮かべているエリザはブス度十割増しだと思う。ブスな女は生きている価値がない、生きていく資格が無い――外見も内面も。
「し、シールドぐらいなら……出来ると思います……多分」
「出来なかったらお前は屑だからな」
役に立つか立たないかは分からないがとりあえずエリザは数に入れておくことにした。不安ではあるが自分の傍にいる分には危害はないだろうと判断した。それに、この顔はどうやら男を油断させる効果があるらしい。冥星にはどうしてこんなブスに皆惹かれるのか分からないが利用できるなら最大限利用することにしようと決めた。
さて、次は……あいつを説得しなければならない。冥星は深くため息をついた。なぜ、自分がここまで頑張らなくてはいけないのか。今更ながら姫の頼みを聞いたことに後悔した。約束したことを反故する、ということに何のためらいもない。どんな存在であろうが、自分を縛り付けることなどできないと冥星は思っている。
そうだ、例えどんな奴でも……。
(めーくん……)
「俺を小間使いのように走らせ罪は重いぞ……大蔵姫!」
「……やっぱり」
「ああ!? 何か言ったか!」
「な、何でもありません……あ、あの何処に行くんですか?」
「保健室だ」
「ほ、保健室? ど、どうして」
「うるさい、お前は帰れ。今日はスーパーの特売日だからちゃんと肉買って帰れよ」
エリザの疑問には答えない。自分がここまでする理由なんて見当たらない。もし、姫の頼みであってもこれから会う者に頼みごとなど死んでもしなかっただろう。
それもこれも……冥星は後ろから泣きそうな顔で置き去りにした少女をジロリと睨む。それだけで少女は萎縮してガタガタと体を震わせた。
こんな小物になぜ俺が……その疑問の答えはとうに出ている。ただ、なぜ自分がそんな感情に支配されなくてはいけないのか理解ができなかった。
ミュータントは論理的に出来ている。これではまるで自分が人間にでもなった気分だ。
人間――その言葉に冥星は卑屈な笑みを浮かべた。今の自分はまるで人間だ。ミュウも使えず感情で動くあの愚かで弱い人類。
されども、人類は生き、ミュータントは滅亡の道を辿っている。どちらが弱者であるのか……その答えはもうとっくの昔に出ているのだ。ミュータントはあらゆる面で人類の標準を遥かに上回っているが、ただ一つの機能が彼らよりも劣っている。それだけで負けたのだ。精子の薄さ……着床の低さ……それだけの理由で。
ミュウを使えるということは唯のおまけでしかない。達也に言った言葉に偽りはない。ただ、自分がここまで無力な子供成り下がるとは思わなかった。首のリングを何度破壊してやろうと思ったことか。残念ながらそれは不可能なので諦めている。
彼らの王となるべき自分が、こんな体たらくでは己に課せられた使命を果たすことなど不可能に近い。いずれは何とかしなくてはいけない事案だ……いずれは。
今はこうして周りの者に支えてもらわなくては生きていくこともできない。小学生だからしょうがない。しょうがないったらしょうがない。歯がゆく思ったってしょうがない。しんぼう強く自分の成長を待つのだと心に言い聞かせる。
「だから海星、力を貸せ」
開け放たれた保健室の窓際に彼女はいた。銀色の髪だけが自分の血族である証明。それ以外はあの劣悪種の典型である人間そのものだ。
この、海星というクズの妹は。
「…………へぇ、よくもまぁそんなことが言えるわね」
「お前は唯一俺の目的を知っている――所謂運命共同体だ」
「反吐が出るね、この悪党が……」
「黙れ。教室に来ないのは俺への当てつけか? さすがは汚らわしい人間の血を引いた愚かな妹よ」
「……そうやって他のミュータントたちも見下しているのね。自分が特別な存在だと信じて疑わない……城島の亡霊」
「なんとでもいえ。いずれ全ての生命は、俺の下に集まる。その時、お前は今の態度を保っていられるかな?」
「……そんなにお母さんを取られたことが悔しいの?」
「何…………?」
自然と拳を握り締めていた。悔しい? 俺が? この王の資格を持つ俺が? 母親を取られた? いや仮にそうだとしよう……それが? 全てが疎ましい。こんな奴が己の身内だというのか。
ただ、愛などという不確かなものに恵まれて生まれてきたというだけで……。
「可愛そうねあなたは……いえ、あなたたち、かしら? でももう一人ぼっちだね兄貴は」
「黙れ…………」
「いつまでそうやって妄執に囚われているの? 時代は変わって……私たちも変わっていく……あなたは一体、何になるの?」
「俺は…………」
「私たちはミュータントにも……人間にもなれる。それはきっと生きていくためには仕方がないこと。でも、兄貴は違うよね。絶対に人間にはなれない。ただ、寂しいだけなんでしょ?」
海星の目は哀れな子羊を見るようだった。
寂しい。その言葉を否定するつもりはなかった。取り残された、という孤独感に蝕まれることもある。そのせいで、エリザにすがりそうになったこともある。
しかし、だ。それだけの理由で自分の帝国を作るなどという馬鹿げた妄想を常日頃から掲げるほど自分は平和ボケしているつもりはない。全くない。
「-―――人類は滅ぼす。俺にはそれが出来る」
「――っ! 絶対にやらせない。阻止してみせる」
「ほう……海星、お前にできるのか? この俺を倒すことが?」
「私じゃない」
「……何?」
「この物語の主人公は兄貴じゃない。兄貴は魔王よ。だから兄貴を倒す勇者が必ず現れる。兄貴が滅ぼすと言った、人類の中から必ず……」
主人公、魔王……まるで御伽噺のようだ。そういえばよく絵本を読み聞かせてあげたような記憶がおぼろげにある。こいつは確か、勇者がお姫様を救うという陳腐でどこにでもなる話が大好きだった。なさがら、自分がお姫様にでもなったつもりなのだろうか? だとしてもこんな混血の姫など誰も相手にしないというのに……。
「っち……こんな話をしに来たわけではないのだがな……」
ついつい熱くなってしまった頭を理性で押さえつける。なるほど、末端とはいえ城島の血を引いているということか。この二年間、多少のいざこざはあったがここまで心を揺さぶられたのは初めてだ。
わかっていたことだ。妹とは分かち合うことなど不可能なのだ。それがわかっただけでも自分は前に進める。踏み台として越えていく。それだけだ。
「いいよ、聞いてあげる」
「お前……最初からそのつもりだったな?」
「私と兄貴は敵同士でしょ? ならここはハッキリさせておかないとね。それで、私に頼みごとって何? 言っておくけど悪事には一切手を貸さないからね」
今回の出来事でわかったことが一つある。妹の手を借りるのは精神的にひどく消耗するということ。だが、案外協力的だったということ。今後も何かあれば頼むのもやぶさかではない。
「海星」
「何? まだ何かあるの?」
「俺は魔王でも構わん」
「…………そ」
そして、いずれは道を分かつことになる、ということだ。
所詮、妹に何が出来るわけでもない。何が何でもやらなくてはいけないのだ。
例え冥星本人がそれを望んでいないとしても。
その遺伝子に刻まれた宿命の血が叫ぶ。
「明子には……感謝している。旨い飯を食わせてもらっているからな」
「明子も敵になるよ。兄貴がそんな恐ろしい計画を立てているなんて知ったら……」
「明子にはとっくの昔に言っている。俺は自分の帝国を作るとな」
「明子さんすら利用するの、兄貴は!?」
「あいつは俺たちの家族を殺した仲間だ。いずれ報復は受けてもらう」
そうだ。決して忘れはしない。この世にどれだけ自分の心を惑わせる食卓が並べられたとしても忘れることなど出来はしない。忘れることは罪だからだ。この妹のように何もかも忘れ幸せに暮らすことは罪だ。それでは散っていった多くの命に対する冒涜だ。許されるわけがない。
「なら、どうして今も明子さんを生かしているの?」
「-―――今の俺ではあいつに勝てない」
「そんなの言い訳だ。なんなの? なんなのよ兄貴は!? 私は――」
「一つ言えることはな、俺は別に明子を殺すことに何の抵抗もないということだ。それを知っていてあいつは俺にこの首輪を付けたんだ。あいつ敵、それ以上でもそれ以下でもない」
「……いいよ、わかったよ。じゃあこうする。明子さんに手を掛けたその時が始まりだ。私たちと兄貴の戦いの、始まり」
「――いいだろう。やってみろ、我が妹」
自分はどんな顔しているのだろうか。海星は憎しみと悲しみの入り混じった表情で兄を睨む。自分の顔に手を当ててみた。ああそうか、俺は笑っているのかと初めて気がついた。
これでは本当に悪役になってしまった。自分のやることは決して間違っていないというのに。
思い通りにいかない世界に、冥星はそれでも輝かしい未来を求める。
必ずこの手で掴むのだと、小さな拳を握り締めた。
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