お花見戯曲

10000字程度の短編です(^^)


 いつからだろう――桜が嫌いになったのは。
 小さな頃は、桜並木が創り出すトンネルをはしゃいで駆け回った。今でも、その美しさにはっとすることはある。丁字路を曲がった先に荘厳なその立ち姿が見えたりすると、思わず仰ぎ見てしまう。肩なんかに花弁が乗ると、手に取ってじっと見つめたくもなる。
 でも、嫌い。「桜=美しい」という公式が気に食わない。公式を丸呑みするだけで、それ以上の思考は放棄してしまう人間の性がどう見ても格好悪いと思う。
 巡り巡って、桜が嫌い。なのに――
『3日後にみんなでお花見に行きませんか?』
 ご丁寧にハートマークまで付けて、HR委員の須藤秋華(しゅうか)はメールを送りつけてきた。クラスのメーリングリストには、否応なしに登録しておかなければならない。大抵は秋華か、もうひとりの委員である近藤貴史(たかふみ)から送られてくる。鬱陶しいが、登録を拒否することで生じる諸々の方が、おそらく鬱陶しい。
 ベッドに仰向けになってタブレット端末の画面を睨みつける。持たぬという選択肢は選べないけれど、こいつに繋がっている余計な糸たちを裁ち鋏でぷつんと切れたらと思うことは少なくない。便益が生む解放の背には、同じ利便性から生まれるしがらみが付いて回るらしい。
「ふぅ」
 ため息と言うには底の浅い、小さな吐息を漏らし、タブレットを握った右手をばさりとそのまま横に放った。午後にあった陸上部の練習のおかげで、既に体は睡眠を欲している。しかしまだ瞼は軽く、掛布団を被る気にはならない。
「舞ちゃん。あまり遅くまで起きてないで、早く寝なさいよ」
 舞子の部屋の扉をノックしてから、母の由香里は言った。
「うん、わかってる」
「お母さんもう寝るから。おやすみなさい」
「おやすみ」
 由香里は専業主婦で、朝晩は特に、健康的な生活リズムを崩すことなく過ごしていた。十一時頃には床に就き、七時より遥か前に起きて夫と子供たちのために朝ごはんを拵える。
 長女の舞子には、割と口うるさい。妹には、もっと口うるさい。次女である瞳子は生まれてこの方、常に緩やかな反抗期を続けているような子だ。基本的に両親や先生の言うことを聴くのが嫌いなのだろう。姉の言うことは、それ以上に聴かない。
 瞼を閉じてみて左腕をその上に乗せると、右手に握ったままだったタブレットが震えた。メールが届く度に――しかもほとんどはしょうもない内容だ――軽快な音色を撒いてくるのはうざったいので、家にいる時も、常にマナーモードにしている。メールは久山智恵からだった。
『お花見来れる?』
 長ったらしい文面であったが、要件をまとめるとこれだけで足りる。軟式テニス部に所属している智恵は、運動も勉強もそこそこ――と言うか、普通だ。背も中ほどだが、運動部にしてはやや肉付きが良い。愛嬌はあるかもしれないが、何と言うか、平面的で凹凸の少ない顔だ。
 一年の時から同じクラスであったため、今のクラスでも共に過ごすことが多い。三年生に上がる際はクラス替えがないため、これからの一年も似た様なものだろう。
『どっちでもいいや』
 そう答えるために、十倍近い文字を打つ。何だかくたびれて、あっという間に睡魔が瞼を重くした。
 本音を言えば、行きたくない。その日はせっかく部活が休みなのだ。昼前くらいにベッドを這い出て、午後はだらりと過ごしたい。春休みなのだから、一日くらいそんな日があったって構わないだろう。
 そう伝えたとしても、智恵は舞子を引っ張り出すに違いない。
『うちらもう受験生なんだよ!? こういう時に思い出作らないでどうすんのさ!』
 疲弊という名の思い出を作っても仕方がないだろう――そんな不毛な問答をする羽目になる。だから答えは常に曖昧。行きたいという意志はない、それを示す、これが限度だ。
 案の定、参加となった。ありがたいことに、智恵は舞子の参加もついでに連絡してくれるらしい。「部活で疲れたからもう寝る」と、これまた五倍の分量で送信してからタブレットの電源を落とした。椅子のクッションの上に放り、部屋の灯りを消してベッドに潜る。
 妹は友達と電話をしているらしい。うるさいと怒鳴りに行っても、結局はくたびれる喧嘩をするだけだろうし、静かな夜は明日には破られるだろうから、我慢して布団を頭の先まで被った。


「クラスのみんなでお花見? いいじゃない」
 部活が休みにも関わらず、きちんと朝に起きてきて寝癖も直し始めた舞子を見て首を傾げる母には、説明せざるを得なかった。本当は、黙って家を出て行きたかった。
「別に、良くはないよ」
 母が用意してくれた朝食をだらだらと食しながら、昨日の練習で疲れた太腿の辺りを揉んだ。
「仲良しでいいわねぇ。きっと綺麗よ」
「誰も桜なんか見ないから」
 集合は十二時だった。しかし、智恵のせいで舞子まで買い出しに付き合わされることとなったため、他のクラスメイトたちより早くに、須藤秋華のもとに集まらなければならない。もうひとりの頭、近藤貴史は、朝から男数人と共に場所取りをしているらしい。
「そんなことないわよ。初めはそう思ってても、みんな目を奪われちゃうんだから」
 花より団子とはよく言うが、現代において、この言葉はもう一段――いや、三段ほど、ステップアップさせるべきだと舞子は思っている。
 花より団子より酒よりダチより自分。
 桜の美しさより、美味しい団子より、花見を口実に飲む酒より、友達との楽しい団欒より、花見に参加している自身の存在――それが大切なんでしょう? 花見に誘われた、花見を企画してたくさんの人を集めた、そこに満足感を見出したいのだ、人は。
「舞ちゃんだってそうよ、きっと」
 母は本当に想っているのだろうか。人、人、人に囲まれて、昼間から缶ビールを片手にはしゃいでいる大人の背景として見える桜を、美しいなどと感じられると。
「うん。そうだと、いいね」
 コントロールの効きにくい妹より、母は姉と話したがるし、おそらく好いている。そして微塵も疑わない。舞子はいつまでも、かわいい、かわいい舞ちゃんのままであると。
「いいわねぇ、お花見。クラスのみんなってことは、男の子たちも一緒なのよね?」
「……うん、そうだけど」
 ああ、面倒臭い。不快が顔に出ないよう、表情を固めていると、母は妙な笑みで舞子を見つめた。
「なんかあるといいねー」
 時折、母が誰と話しているのかわからなくなる。確かに瞳の焦点は舞子に合っているし、言葉もこちらに向けられているはずなのだが、舞子の身に、それが入ってこないのだ。
 それは何も、母との会話に留まらない。クラスメイトでも、妹でも、学校の先生でも、同じだった。みんな舞子に向かって、舞子の思う舞子ではない別の誰かと話している。
「何かあったらね」
 そんな時、舞子の取る選択肢は大きく分けてふたつある。別の誰かに舞子を寄せるか、そうしないかの二択。多くの場合は前者を取る。簡単な問答の場合だったりする時は、稀に後者を選ぶが、どちらにしろ、あまり気持ちの良いものではない。
 支度を整え、いざ家を出ようというところで妹が起きてきた。瞳子はこの春から、晴れて女子高生となるのだが、その準備などは母親に任せ切りで、当人は中学時代の友達と共に遊び呆けて日々を消化していた。
「お姉ちゃん、どこ行くの」
 瞳子の舞子に対する興味は薄い。舞子が県内でそこそこの進学校に入学した頃を境に、その姿勢は決定的なものとなった。それ以後は、それまでに感じることのあった妬み、あるいは羨望のような視線を、瞳子から感じることはない。
「お花見」
「は? ウケるんだけど」
 瞳子は鼻で笑って、パジャマ姿のままダイニングへと歩いていった。彼女にとって、姉が花見に出掛けたという出来事は、自らのサークル内で起こった事ではなく、その外の事件として処理される。言うなれば、ワイドショーに映る何百、何千という花見客と同じなのだ。
「いってきます」
 小さな声で言って家を出る。「いってらっしゃぁい」という母の間延びした声を、扉を閉める音で遮った。


 買い出しにこれだけの人数が必要なのだろうか。時間ちょうどに集合場所となっているスーパーマーケットの前に辿り着いて、舞子はまずそう疑問を抱き、すぐさま打ち消した。
 そもそも花見という行事に意義などない。必要も無いのだ。
「あっ、舞だ。やっと来た」
 智恵と、軟式テニス部の子がもうひとり。それから須藤秋華と、彼女と共にクラスの中心的人物である女子がふたり。加えて、男子が三人も来ており、その内ふたりはサッカー部で、もうひとりは舞子と同じ陸上部員だ。
「買う物とかは、だいたい決まってんの?」
 陸上部の京野が秋華に訊ねる。撫で肩の彼はクラスではいわばオールマイティ的存在。群れに属さず、ある意味ではどこにでも属せる。
「一応ね。でも、適当に好きなもん買ってっていいよ。今日はスポンサーがいるから」
 特別賢いわけでもないが、秋華が放つ雰囲気は紛うことなく優等生である。しかしながら、いわゆるがり勉とは一線を画し、はきはきと話す態度や自信に満ちた強い瞳、全身から溢れる正義感、それらが彼女を優等生足らしめていた。そしてまた、大きくて輪郭のはっきりした黒い瞳と、そこにまた強さが顕れているかのように真っ直ぐ通った鼻筋と、手入れを怠ることなどあり得ないのであろう黒髪とが、同年代の男子には好評であった。
「スポンサーって?」
 京野が問い返す。
「黒岩センセイ。学校から抜け出してくるとか言って、アホだよねぇ、あの人も」
「資金源にするために呼んだわけ?」
「違う、違う。そんな極悪非道な女じゃないよ、あたし。フツーに先生も呼んでみたの」
 したたかな女だ。先生に媚を売りつつ資金を調達し、さらには学級委員らしさのアピールにも繋げている。抜け目がない。
 舞子は、買い物カゴに飲み物やらお菓子やらを詰めていくクラスメイトたちの背中に、ただ黙々と付いて行った。
「舞ちゃんは飲み物何がいい?」
 ふと秋華に問われる。身構えていなかったので、思わず言いよどんだ。
「舞ちゃんって、炭酸とか飲まなそう。アイスコーヒーとか飲んでそう」
 秋華にくっついていた藤本春海が言う。かわいいし、成績も悪くないらしいけれど、この子はバカだと舞子は思っている。
「みんなと一緒でいいよ」
 春海の声は、舞子を捉えていなかった。多分彼女は、『舞ちゃん』を相手に喋ったのではなく、この場にいる舞子を含めた七人――とりわけ秋華と男子三人からのリアクションが欲しくて、言葉を投下しただけだ。そんな身の無い言葉にいちいち返答しなくてはならないそのことが、いつにも増して不快に思えたのは何故だろう。
 花見は、スーパーから歩いて十五分ほどのところにある公園で催された。学校からの距離で言えば、最寄り駅から二駅、そこからバスで十分ほど。
 広い公園である。敷地内には市民が利用できる体育館や屋内プールがどんと建ち、野球場もあるようだ。奥の方にはバスケットやテニスが出来るコートもある。
 名所というわけではないが、この辺りの住民たちにとっては充分な花見スポットで、この季節は家族連れなんかで賑わうらしい。舞子たちと同じような年頃の集団も見受けられたし、そこここで宴会の騒音が湧いていた。
 それを桜が彩っていた。華やかで、でも――何となく窮屈そうに見えるのは、桜の木々たちを囲む人々が、彼らを見てはいないからだろうか。
「買い出しお疲れ」
 須藤秋華一行が公園に着くと、クラスの面々が十数人ほど集まっていた。男女比で言えば、やや男子が多い。つまり舞子たちと合わせたら、比率は同じくらいになる。各自が用意してきたのであろう、統一感のまるでない柄をした何枚ものビニールシートの上で、楽しげに輪を為していた。
「先生、今日はわざわざありがとうございます」
 秋華は丁寧な礼から入り、得意のおしとやかな笑顔を向けた。四十半ばにして頭頂部が寂しげになっている黒岩教諭は、買い出しに出ていた生徒たちを見渡すと、誇らしげに鼻を膨らませた。
「いやいや、こっちこそ、誘ってくれてありがとう」
 学校では数学を教えている黒岩だが、彼はむしろ文系の生徒に人気がある。授業では基礎的な演習を繰り返すタイプで、確かに理解はしやすい。イマドキの受験生は多くが予備校通いだし、難度の高い学習はそちらでやっているから、授業では基礎を固めたいんだという話をしていた。確かにその通りだと思えるから、数学教師としての黒岩を嫌いではない。
「絹山さんも行ってくれたのか。へぇ」
 受験が近付けば、個人面談やら三者面談やらで、担任と相対して話す機会が増える。黒岩は真面目に指導を行うタイプらしく、「生徒の自主性に任せる」と逃げるようなことはしない教師だ。
「付いて行っただけですけど」
「絹山さんがこういうことに積極的になってくれると、何だか嬉しいな」
 言葉がまた、舞子を通り抜けていく。的を外した言葉はうやむやに霧散し、それを捕らえなければならないのは、いつも決まって別の『絹山舞子』だ。
「高校生活最後の春ですし」
「うん、そうだな」
 黒岩は上機嫌だ。さすがに酒など飲んでいないはずなのに、頬はわずかながら紅潮している。自身の担任しているクラスが自主的に花見を計画し、多くの生徒が出席をし、さらには自分を招いてくれた。それが嬉しいのだろう。酔いたくもなるほどに。
「それじゃ、始めまーす。紙コップ無い人はいない?」
 HR委員の近藤貴史はバレー部だが、そこまで高身長ではない。ポジションはセッターらしい。それによって培われたのか、あるいは元来、そういった素質があったからセッターを務めているのかは不明だが、視野は広いし、決断力やリーダーシップもある。雰囲気だけの秋華と違い、近藤は中身も伴った秀才といった感じがする。
「急な話だったけど、ちょうど桜も見頃だし、結構な人数が集まれました」
 全員が飲み物を手にしたことを確認してから、近藤は挨拶を始めた。
「堅えよ」
 そばにいた男子たちが冷やかす。笑いが伝播し、場に一体感が生まれる。みんながそう演じている。風に乗って降ってきた一枚の桜の花弁が、「そう思うだろう?」と舞子に語り掛けた。
「それじゃ、カンパーイ!」
 ちびちびと甘ったるいジュースを口に運びながら、智恵の話に相槌を打つ。
「――でも先生ってさぁ、舞には優しいよねぇ」
 不運にも、舞子たちのそばには黒岩も座っていた。舞子は、比較的大きな自身の体を折り畳むようにして小さくした。
「そうかな。そんなことはないつもりだけど」
「絶対そうだって。セクハラっぽい感じはしないけど、なんか、期待してるって感じ」
 ずけずけとした遠慮の無い物言いは智恵の十八番だ。そうやって人の懐に近いところまで踏み込む。踏み込んだ気になる。
「んー――でも絹山さんは、まだまだ本気を隠していると言うか、そんな感じがするんだよ。何かきっかけを掴んで、勉強にしろ何にしろ、そいつに熱意を向けられれば、面白いと思うんだけどな」
「先生、あたしは、あたしはどう?」
「久山さんは、そのままでいいんじゃないか」
「何それ。もうこれ以上の将来性は無いってこと?」
 周囲の笑いに合わせて、舞子も笑う。
「――でも、即席の催しにしてはたくさん集まってるし、うちのクラスはやっぱりみんな仲良いんだなぁ」
 つと顔を上げて、黒岩はみんなを見渡した。誇らしい気持ちはわかる。だが、今日ここに居ない者の数を数えはしないのかと、問いたい。
 黒岩だけではない。教師の多くが、おそらくそうであろう。彼らは希望ばかりを探したがる。きっとそれだけ、現実の職務に苦労が多いのだろうが、それについては舞子には何の関係もない。
「秋ちゃんと近藤クンが、そういうこと色々やってくれるんですよ」
 この場にいる者のうち、HR委員のふたりと共に発案から実行までに携わった者は、おそらく半数程度。彼らの都合で、日取りなんかは決められたはずだ。黒岩の目にどう映っているかはさておき、この十数人のうち何人かは確かに仲良しなのだろう。しかし一方で、積極的参加を拒めなかっただけの者もいるに違いない。
 残りの半分は、断ることによるデメリットを避けるべく参加した――つまり仕方なくこの茶番に付き合っている、消極的参加希望者である。もしかしたら、彼ら同士の間にある種の一体感はあるだろう。面倒くさいね。でもせっかくだから出来る限り楽しもうよ。これを仲良しと言うのなら、彼らは仲良しだ。
 花見に来ていない者のうち、残念ながら参加出来なかったのではなく、純粋に参加したくなかったという者もいるはずだ。絶対に。この現状を見て「このクラスは仲良しだ」と言い張るのなら、彼らは居ないこととされているも同然である。
 ――そういうことに、目を瞑る。それがフィクションを演じる上での約束事。楽しげなこの空間に、必要のないものは無いものとして扱えば良い。扱わなければならない。『絹山舞子』は、そうやって存在する。
「担任のクラスにあのふたりが居て良かったよ。本当に助かってる」
「あー、またヒイキだ」
 智恵は決して、黒岩の気を引きたいとか、自分のことも褒めてほしいと考えているわけではない。それが今日、彼女に与えられた役だから、というだけのことだ。
 誰も花なんか見やしない。人も見やしない。この場の雰囲気を創り出すことにのみ執着し、自らが果たすべき役割を全うする。
 桜はそんな戯曲を見て、悲しむだろうか。嘆くだろうか。憤るだろうか。嗤うだろうか。
「舞」
 みんなの会話を耳に入れ、最低限の情報処理で相槌を打つ。その作業に没頭していると、智恵が急に、顔をこちらに向けた。
「トイレいこ」
「あ、うん」
 貼り付けた笑みがそのまま顔に凝り固まってしまうかと思っていた矢先である。ふたつ返事で立ち上がった。逃げるようにしてその場を去る。
「あ、ケータイ置いてきちゃった」
 智恵は「先に行ってて」と告げ、早足に来た道を戻って行った。トイレに行くだけなら構わないのに――そう思った時、彼女は振り返り、意味ありげな視線を寄こした。
「何?」と問う前に、入れ違いに別の人物が近付いてきた。野球部の、野沢浪貴(なみき)だ。彼はクラスメイトから『野沢菜』と呼ばれている。舞子もそう呼んでいた。
「ごめん、えっと……ちょっと歩かない?」
 まだ春先なのに、野沢菜の肌は少し浅黒く、それが逞しい体付きをより際立たせていた。髪の長さが中途半端な坊主頭だが、きりりとした目元は力強く、でも口元の辺りはいつも優しい。
「え?」
「あ、えっと……別に、こんな風にして呼び出すつもりはなかったんだけど、久山が何か、張りきっちゃって」
 野沢菜は頬の辺りを指で掻いて、しかし視線は逸らさない。
「あっちの方にも、桜がきれいなとこあるんだって。行ってみない?」
 舞子が真っ先に感じたもの、それは得心であった。
 ああ、なるほど。だから陸上部が休みの日なのか。だから智恵はすぐに連絡を寄こして出席を促したのか。だから買い出しにまで引っ張り出されたのか。
「あっち、行こう?」
 答えに窮し、曖昧に頷く。野沢菜は素直にそれを肯定と受け取り、もう一度「行こう」と言って歩き出した。ふたりで並ぶと頭ひとつ分、野沢菜の方が大きい。
 そわそわした野沢菜を見るのは新鮮だった。授業中、先生に指されてもいつも落ち着いているし、部活に励む彼は精悍にさえ見える。そんな野沢菜が、桜並木に目を遣るふりをしながら、横目にちらちらと舞子の様子を窺っていた。口を横に結んだままでいると、先に野沢菜が痺れを切らした。
「受験、だな。これから」
「うん……そだね」
「もう進路とか決めてんの?」
「……ぼちぼち」
「そっか……そうだよな」
「……どして?」
「なんか絹山って、余裕があるって言うか……やらなきゃいけないことはきちんと片付けていって、俺らみたいなフツーのやつらとは違って、一杯いっぱいになることがなくて、その分、余裕がある感じする」
 野沢菜は舞子の目を見てそう言った。舞子はそれを躱すようにして、足下に散った桜の花弁たちを見遣った。
「花見とか、嫌い?」
「え?」
「一匹狼ってほどじゃないかもしれないけど、絹山って、こういうの苦手そうだなと思って」
「……野沢菜は?」
「おれ? んー、好きではないけど、嫌いでもない、かな。こういうの苦手なやつは、野球部とかにはいないと思う。個人競技やってるのとは違うよ、多分」
 陸上をやっているというだけで、主体性が強く協調性が乏しいと思われがちだ。そういった定規を当てられることが、癇に障ることもある。
「そういうとこ、絹山って他のやつと違うじゃん。そういうの、なんか、いいよ」
 お世辞だとしても下手過ぎる。彼は舞子を持ち上げてくれているつもりなのだろうか。
「そんな風に見えてるんだ、わたし」
「うん……だからかな。なんか、気になっちゃうんだよね、絹山のこと」
 桜の立ち並ぶ道を歩いて、公園の端まで辿り着いてしまった。そこで彼は、息を大きく吸って、吐いた。
「好きなんだよね、絹山のこと」
「でもわたしは、そんな人じゃないよ」
「え?」
 今度は野沢菜が、言葉に詰まる番だった。
「野沢菜の目にそう映ってたとしても、本当のわたしはそうじゃないと思う」
 口を閉ざし、野沢菜はじっとこちらを見据えた。
 不意に、先ほど智恵が向けてきた笑みが脳裏に浮かび、舞子の喉につかえていた堰を切った。
「ひとりが好きだとか、他人が嫌いだとか、そういうのじゃないの。わたしは別に、一匹狼じゃないし、個人主義でもなければ、自分ひとりで生きて行けるとかそんな大それたことは思わない。わたしはただ、ああいう感じが嫌いなの」
 くいとあごを持ち上げて、野沢菜の双眸を見つめる。たじろぎはしなかったが、彼は明らかに惑った。舞子の機嫌を損ねず、認めてもらえる最適解は何かと、頭を巡らせているに違いない。
「疲れた」
「ふぇ?」
 ぐっと唇を閉じ続けていたからか、野沢菜の「え?」という問い返しはかなり間抜けな音となった。
「もう疲れたから帰る。みんなによろしく言っといて」
「え、ちょっと――」
「十代の恋は勘違い」
「え、え?」
「うちの妹が言ってた。バカだけど、結構面白いこと言うでしょ」
 踵を返して公園を後にする。振り返りはしなかった。野沢菜に肩を掴まれることはなかった。
 少しずつ歩調を速める。無性に走りたくなった。公園沿いの、舗装されたアスファルトの歩道を走る。フォームはてんでバラバラだ。こんなんじゃ速く走れるわけがない。もっと腕は真っ直ぐ振って、重心は常に体の真下。
 ――グラウンドを走っているわけでもないのにそんなことを考えている自分がおかしくて、足を止めて小さく笑った。
 ふうっと息を吐く。春真っ只中の昼下がり、暖かい陽射しの合間を涼やかな風が通り抜けた。
 その心地良さに、思わず空を仰ぐ。頭上には、満開の桜が枝を広げていた。
「きれいねぇ」
 不意に声を掛けられ、慌てて視線を下げる。六十代くらいのおばあさんが、にこやかな笑みを舞子に向けた。
「でもだからって、上ばかり見て歩いていたら危ないわよ。わたしみたいなのにぶつかったら、ごめんなさいじゃ済まないこともあるんだから」
「あ、ごめんなさい」
「そんなこと言いながら、わたしもやっぱり、見上げちゃうんだけどね」
 周りは名もわからぬ木々たちである。その一本だけが、純白に僅かな赤を溶かしたような桜色の、鮮やかな衣を被っていた。
 美しいと評するには如何ばかりかの品性を欠く、無造作な桜。しかしそれでも、この一瞬だけ、彼は舞子のすべてを奪った。舞子は彼に囚われ、舞子は彼を捉えたのである。
「おひとり? 気を付けなさいね。ここのところ、昼間だろうと物騒なんだから」
「あ、はい。どうも」
 背の小さなおばあさんは、最後ににこっと笑いかけ、歩き去って行った。桜から元気でももらったのか、微かに背筋をしゃんと伸ばした。
 舞子はもう一度だけ桜を仰ぎ見、それから足元の花弁を一枚だけ拾う。
 潔いな。舞子はその花弁を、そっとポケットに忍ばせた。
 天に向かって両腕を突き伸ばす。胸いっぱいに、桜の香りを溜め込んだ。肩と足首を動かして軽くほぐしてから、ぐっと地面を蹴って走り出そうとしたところで、花弁を忍ばせたのとは反対側のポケットでタブレットが震えた。
『ちょっと、舞? どうしたの? 今どこ? 野沢クン、困ってるよ』
「また別の機会に声掛けてって言っておいて」
『はぁ? ちょっと、舞? どういうこと――』
「走りたいの。今は」
 智恵の声を切り離す。電源も切った。ポケットに入れていると邪魔臭いので、そいつは手に握っておく。
 頭の中で鳴り響く号砲と共に駆け出した。
 ウォーミングアップもストレッチもしていない。ウェアではなく私服だし、スパイクではなくただのスニーカーだ。
 それでもこんなに、軽さを感じて走れるのは初めてだった。
 暖かい南からの風が、舞子の背中をぐんと押した。

お花見戯曲

お花見戯曲

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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