雪の日の天使
即興小説 お題『僕の好きな天使』より
天使を作ってあげようか、と彼女がいった。
天使って、あの、背中に羽の生えてるやつ?
そう。
別にいらないけど。っていうか、作るってどういうこと。
僕が訊くと、彼女はにっこり笑って、いきなり雪の上に寝転んだ。
両腕を横に真っ直ぐに伸ばし、それを下に動かす。それからゆっくりと立ち上がった。
ほら。
背後に出来た人型のくぼみを振り返り、彼女はいった。
なんだよ。
天使。
これが?
天使の形でしょ。羽があって。
僕は首を傾げた。天使というよりジンジャークッキーみたいだ、と思ったけど黙っていた。
彼女がまた笑う。髪の毛もコートの背中も雪だらけだった。払ってやろうと僕が手をのばすと、触るな! といって駆け出した。
触るなってどういうことだよ、とむきになって僕は追いかける。僕らの白い息が、それこそ羽のように、冷えた空気の中へ散らばった。
彼女は僕の手をすり抜け、家に入ってしまう。あとに残されたのは彼女型の天使だけ。闇に沈んでいくそれを僕はぼんやりと見ていた。
雪がたくさん降った、ある夕方の出来事。ずっと昔の話だ。
ちらつく雪を見ながら、僕は溜息をついた。
今日、クラスの連中から薫の噂を聞いた。どうやら、つきあってるやつがいるらしい。クラスの誰かが薫に告白したが、もう相手がいるといって断られたのだそうだ。
初耳だった。ほとんど毎日顔を合わせているけど、彼氏ができたという話は今まで一度だって聞いたことはなかった。
もっとも、いちいち僕に伝える理由もない。あれから幾度めかの冬で、薫は今でも僕のそばにいて、周りの連中には夫婦と揶揄されたりもしてるけれど、実際には周りが思っているような関係ではない。
僕らはただの幼馴染に過ぎなかった。だからそんな噂を聞く羽目になっているのだ。
どんなにそばにいても、昔とは違う。まるで兄妹みたいに、自然になんでも分かり合えた昔とは。
雪の中、僕は外に出た。昔、僕らが遊んだ場所へと向かう。以前は空き地だったが、今は公園に変わっている。
といっても、ベンチと花壇しかない小さな空間だ。今はそれらも雪に埋もれていた。
辺りには誰もいなかった。暗くなりかけているのをいいことに、僕は雪の上に寝転がってみた。
──天使を作ってあげようか。
彼女が作ったそれを、ちゃんと褒めてやればよかったんだろうか、と考える。
わからなかった。雪の中に腕をのばしかけ、馬鹿馬鹿しくなってやめた。薫はもう、あの日のことなど忘れているだろう。
「何してるの?」
不意に声がして、驚いて身を起こした。
クリーム色のダッフルコートを着た薫が、僕を見下ろしていた。
「別に」
僕は素っ気なくいった。薫が不審げな目をする。
「大丈夫なの?」
「何が」
「遭難したのかと思った」
「するわけないだろ、こんなとこで」
「だよね」
薫は、僕のそばに屈んで笑った。僕は彼女から目を逸らした。
「そっちこそなんだよ。帰り道と違うだろ、ここ」
「友達と一緒だったの、そこまで」
彼女がちらっと振り返った。彼氏? と僕は意地悪くいった。
怪訝そうに見開かれた薫の目に、呆れたような色が浮かんだ。
「もう聞いたの? 皆、口軽すぎ」
「全然知らなかったけど」
「当たり前」
「誰」
「いないもん、そんなの」
「は?」
「断るいいわけに決まってるじゃない」
「いいたくないんだ? 別にいいけど」
「いないっていってるでしょ」
薫は怒ったようだった。言い争いはしたくない。僕は彼女を無視して、また寝転がった。灰色の空から落ちてくる雪を眺める。身体が、どこか深いところへ沈んでいくような気がした。
「ちょっと」
薫が苛立った口調でいい、手をのばしてきた。起きなさいよ、といいながら、僕の頬をつねった。
「痛っ。やめろよ、触るな」
僕は仕方なく身を起こす。
「なに照れてんの」
「照れてないよ」
「照れてる。触るなって、そういうことだもん」
「なんだそれ。違うだろ」
「違わない」
「違うよ」
「違わないの!」
薫は大きな声を出し、立ち上がると僕に背を向けた。何だか泣きそうな顔をしていたようだ。
僕も慌てて立ち上がる。薫がこちらを向いた。馬鹿じゃない、と突然いった。
「なんだよ」
「あのときのこと、気にしてるんでしょ」
「あのとき? なんのこと」
「あのときよ。あたしが、触るなっていった」
僕は口を噤んだ。そのとおりだったからだ。
あの雪の日。僕がのばした手から彼女が逃げ出した──。
薫も覚えていたのか。
「馬鹿みたい」
薫は僕を睨んだ。
「なんでだよ。だって、そんなこといわれたらさ」
「恥ずかしかったからよ。だから、そういったのに」
「なんだって?」
「どうしてちゃんとつかまえて、雪を払ってくれなかったの」
「おまえ、なにいって──」
「なんで、こんなこといわせるの!」
薫の大きな瞳が薄闇の中で揺らめいていた。涙を堪えているのだ。僕は唖然とするばかりで、どうしたらいいのかわからなかった。
「ほんとにもう、馬鹿」
ふいに薫が僕に抱きついてきた。ほとんど体当たりみたいだった。戸惑いながらも、僕は彼女を受けとめる。柔らかな髪の毛が頬に触れ、甘く懐かしい匂いがした。
「本当にいないの? つきあってるやつ」
「いないよ」
「なら──俺とつきあって」
「いいよ」
拍子抜けするくらいあっさりと薫は頷いた。その髪にも肩にも、うっすら雪が積もっている。そっと払ってやると、薫は小さく笑った。
満足そうにぎゅっとしがみつく彼女を、僕も抱きしめる。コートの下の身体は、見た目よりずっと華奢だった。
僕らの白い息は、交じり合ってひとつになる。僕は僕の天使をつかまえた。今度はもう逃がすものか。
雪の日の天使