虚ろな独り言とパラレルワールドの静寂
四作目【完結済】
パラレルワールドの静寂 1
つまり、一目惚れだった。彼女の後ろで束ねてある黒髪を僕は目に投影する。晴天の光を浴びる地に積もった雪みたいに白いその肌を視線でなぞる。そして、日差しの光とたわむれる曲線が描くその体格の輪郭に、視界を固定される。僕は図らず歩みを中断させ、その女性に見蕩れる。虚飾だった僕の世界に、色彩がよみがえる。つまり、一目惚れだった。
大学に入学した初日。僕は西畑さんに一目惚れをした。あまり期待していなかった大学生活は、その瞬間から僕にとって価値のあるものとなった。女性を顔だけで評価するのはいささか抵抗は確かにあった。けれどそんな道徳など、すぐに消失した。それだけ、西畑さんは美しかったのだ。一目惚れという表現が正確なほどに。僕はどこであろうと、西畑さんを脳裏に描くことができた。朝のかおりを含んだ寄せ波に濡れるガラス瓶のように奥行きの深い瞳。常に後ろで束ねている清純な黒髪。細くてある程度色を脱色された桜の花びらのように白い手。演繹的に描写したそれらの部分を、コラージュのように集らせる。想像のなかの彼女はとても煌びやかさをまとっている。それは誇張した表現では無い気がした。
一目惚れした瞬間から僕は彼女を目で追っていた。奥底の深闇にへと辿っていく無垢な少年の眠気みたいに。僕は彼女と同じ講義を選ぶ。講義中、僕はノートを写す作業を怠って西畑さんの背中を見ている。白いブラウス、黒髪の長いポニーテールが肩の動作に従って揺れる。とても静かな揺れだった。弱風に撫でられる花のように静かだった。西畑さんは、美しい静寂の中の街にたたずむ住人のようだった。僕は空白のままのノートには視線すらもやらず、その花に見蕩れた。
西畑さんは決まって食堂で昼飯をとる。なので僕も食堂へ向かう。西畑さんは毎日殆ど日替わりの定食セットを選択するのだけれど、たまに(主に水曜日に)オムライスを頼む。理由はわからない。こだわりなのだろうか。そしてたまに僕もオムライスを注文する。けれど特別美味しいわけでもなかった。
ステンレス製のスプーンで、その一部を刳り抜く。口へと運ぶときも、僕は西畑さんを見つめている。相手は気づいているのだろうか? 気づいていないことを僕は願う。ストーキングしている自覚は僕には無いのだ。けれど、傍から見れば立派なストーカーだろう。その事実から僕は目をそらすことができない。
西畑さんもオムライスを口に運んでいる。その仕草はとても瑞々しく、僕はつい口を開けてしまっている。前髪が揺れる。右側にわけられた前髪が、彼女の右目を隠す。邪魔らしく、それを右耳に寄せる。その動作に僕は思わず息を呑む。頬に熱が佩びるのがわかった。
仲良くなれたらな、と僕は妄想をふくらませる。彼女は一人だ。僕の何列か前のテーブルで、一人でオムライスを咀嚼している。今はチャンスなんじゃないか? 僕は自身に問う。いけばいいじゃないか。けれど、僕は西畑さんに声をかけることはできなかった。僕は――女性にトラウマを抱いているのだ。
西畑さんと平行して、僕の脳裏にはひかりの存在も常にあった。ひかりは高校からの友人で、僕の数少ない異性の知り合いだった。高校のときはよくひかりといたものだ。僕はそれに幸福を覚えていたし、彼女もよく笑っていた記憶がある。いささか不鮮明だけれど。しかし、「あの事件」は発生してしまった。僕の浅はかさが原因だった。僕は自分を責める。「あの事件」以来、ひかりは僕と目を合わすことすらも拒んだ。けれど、同じ大学に受かってしまったのだ。そして僕は西畑さんに一目惚れした。自身のおこがましさに苦笑してしまう。自身で思うほど、反省の意識が感じられなかった。
今日も僕は西畑さんを目で追うだけだ。そしてこれからもそれ以上の進展は無いのだろうと思う。僕は永遠に、片思いなのだ。それでいい。叶うことの無い恋は、永遠に冷めることは無いのだ。それでいい。
「よ」と声がする。僕はその方へ視線を移す。そこには高木の姿があった。「お前やるならもっとバレないストーキングしろよ」
「うるさいな」と僕は言う。それからオムライスを口に運んだ。それを咀嚼しながら言葉を加える。「西畑さんも気づいてないみたいだし、いいだろ」
「でも傍から見ればばればれだっつーの」と高木は呆れた口調で言う。それからやれやれ、と首を横にふった。
高木は僕と向かい合うようにして、椅子に腰を下ろした。「おい、西畑さんが見えなくなるだろう」と僕は悪態をつく。わりいわりい、と顎を上下に動かしながら高木がその隣に移る。僕と高木は斜めの角度で向き合う。再び彼女の背中が僕の視野に入る。彼女の後ろ姿は、ひとつの芸術作品のように美しく佇んでいる。煌びやかな光線が、輪郭を描いている。「そこまで目を輝かせて見なくてもいいだろ。さすがに引くぞ」と高木がお盆を自分の前に滑らせながら言う。
「自分でもたまにそう思うよ」
「確信犯かよー。あーこわー」と気力のない声で高木が言う。「あーこわー」
「うるさいな。ひとが落胆している時に限って、お前は現れるな」と僕は箸を高木に向ける。「そしてさらに煽ってくる」箸を高木のほうへと差す。
「まるで特撮ヒーローみたいだな。俺」高木は箸を持つ。そしてお盆にのった丼に突きさす。親子丼だった。「あーこわー」
「そんな特撮ヒーローがいるのなら、三話ほどで打ち切りだな」と僕は嫌味ったらしく言う。「あとそれ。しつこい」箸を高木のほうへ差す。そして虚空を突く。
「それでも三話続くんだな」高木はそう言って笑みを浮かばせる。そして親子丼を口に運んだ。熱いらしく、なぜか口をほくほくさせながら天井のほうを見上げる。僕は黙ってオムライスを食べた。ふと西畑さんの方へ視線をやると、彼女は食べ終わった皿を置いたお盆を持って既に立ち去ろうとしていた。ああ、またできなかった、と僕は西畑さんから目を逸らす。
「……やっぱ。ひかりとの事もあって話しかけることに躊躇してしまうんだ」
「まあ、そうだな。あれは酷かったからな」と高木が遠慮無しに鋭く僕に言う。
「七味唐辛子をスプレー状にして、傷口に塗られたような気分だ。今の発言のせいで」
「ぐさっときたか?」と高木が笑みを浮かべながら、訊ねる。
僕は頷く。
「まるで特撮ヒーローだな。俺」
午後の講義が終了し、僕は一人で重い歩みを進めていた。空はとうに薄暗くなっており、静謐な闇を抱えてる。まだいささか夕日の余韻を残していた。訪れる夜をほのめかし、僕の頭上を憔悴な色合いに深めている。道路を駆ける自動車はライトを点ける。薄暗い翳りを覚えたアスファルトの上を、その光は走る。それらが規則正しく間隔をつくる。夜を示唆する街に一直線にライトが並ぶ。まるで夜を祝うイルミネーションのようだった。信号機の三色の光が妙に罪深く思えた。世界は様々な色に、侵食されていく。夜を祝う街。僕はそこに地をつけて歩いている。暗澹な夜の最後尾を摑むように。その事実を僕は幾度も確認する。
彩っている光が歪みを佩びはじめたのは、それからすぐだった。いや、最初から世界は霞んでいたのかもしれない。そのぼやけは強みを増していく。それは僕の平衡感覚を廃らせた。光の粒子が舞う。眩暈だった。朦朧とする意識の中で、闇が追い詰めてくる。巨大な深淵が、僕の前にあった。地を歩いている、という感覚を僕はすでに消滅していた。そして光が遮断された――。
――目が覚めると同時に抱いたのは妙な違和感だった。妙な違和感が、僕の身の奥底で淀んでいた。その正体を僕はぼやけた思考の状態のままで模索する。僕は息をしている。息をしている。息をしている。呼吸をしていた。空気を肺に運搬している。空気は僕の肺の中を満たしている。
妙な違和感の犯人は、この空気だと思った。さらに意識的に、その空気を肺に送り込む。妙な不自然さが、僕のぼやけた脳を覚醒へと案内させた。気がつくと街は深い夜に染まっていた。すでに完成している。僕は何をしていた? 僕はあたりを見渡す。夜の街。夜を祝う街。雪の余韻など無い。季節は春の期間を駆けている。違和感が肺を満たす。僕は何をしていた? 僕は思案する。思考をめぐらす。疑問はまるで海辺にこびりつく藻のように、執着している。僕は何をしていた?
ここはどこなんだ? 僕は街を見渡す。何度も見渡す。おかしい。何かがおかしい。違和感を孕んだ空気は、場に漂い続けていた。
虚ろな独り言 1
幼少期から高木は、脳裏で巡らせている思案を、迂闊に口から漏らしてしまう悪癖があった。その癖を零してしまう時は多々あった。その悪癖のせいで、初対面の人間はまず高木に奇妙さを抱いた。高木はその不気味なものを目にしたような視線を、これまでに幾度も味わっている。もちろん、悪くない気分などなるわけが無い。高木はこれまでに何度か、この悪癖を克服しようと試みたことはあった。しかしそれは困難な事実だった。意図的に夢を見るみたいに。
今日も西畑さんに声をかけれなかった、と嘆く友人の堀澤の隣に高木は腰を下ろす。すわる直前で一度腰を停止する。腰を預けるベンチの箇所に汚れなどが無いか、確認のために一瞥する。そして腰を下ろした。ベンチの表面はまだいささか冷えを残している。冬の余韻は、思わぬところで残っていた。その冷えた感触がカーゴパンツごしに訪れる。隣にたたずんでいる友人に目をやる。堀澤はアスファルトのように無機質な瞳で、空を見上げていた。高木もその視線を辿って空を目にする。雲が消滅し、わびしさが強く印象つける色合いだった。虚無な状態が重い沈黙のように長々と続く。堀澤はベンチに腰を沈めている。二本の足をほつれた糸みたいに気だるく伸ばしていた。ここのところ毎日目にする光景な気がする。
「……滑稽ですよ」と堀澤は自嘲気味な声調で呟く。まるで乾いた砂に覆われた岩石のような声だった。
まあまあ、と高木は笑う。「明日もあるじゃねえか」
「今どきTVドラマでも聴かない台詞をどうも」
「んだよ。慰めてるのに」高木は唇を尖らす。
「高木にとっちゃ他人事だからね」
「俺にとっちゃ他人事だからな」堀澤は唇を尖らした。
無気力な空は、なにも伴うものを要していなかった。空の瞳にうつるその景色に、わびしい色合いだけを淡く浮かばせてそれで完結した。堀澤はその空を延々と見上げている。その飾り気をもほのめかさない安い空を、虚ろに見据えている。その行為に耽っていた。高木はその堀澤をときどき目をやっては、自販機で購入したマックスコーヒーの缶を二、三度振った。それから蓋を開けて、一口すすった。「この激甘なのがいいんだよなあ」
「そうかい。僕にはわからないな」と堀澤は空を見つめたまま言った。生気の察せない堀澤の瞳が、いささか動きをみせた気がした。
「確かに甘すぎなところはある。正直俺も二、三口呑むとそれで満足だ」もういらね、とまだ八割方なかに残っているコーヒーの缶を堀澤に手渡す。
「なら三口で全部飲めばいいじゃないか」と堀澤は悪態をはきながら渋々それを受け取った。「どうせなら僕でも吞むものがよかった」
そう言って堀澤は缶の口に唇を触れて、熱に注意しながらちびちびと啜った。それを喉に押しこみながらまた表情が死んでる空に視線を戻した。それは義務的な仕草のように思えた。堀澤はひとしきりコーヒーを吞んだあと、一度息を吐いた。「――よし」
「ん?」
堀澤はコーヒーの缶を口元から離脱させる。空になった缶を一瞥する。そして唐突に堀澤は言った。「明日だ。明日、必ず話そう。西畑さんに声をかけるんだ」
「何だ急に」と高木は思わず驚いた。訊ねる。
「僕は明日、西畑さんに声をかける。今決めた。明日だ。うん。明日」と堀澤は暗示でもかけるように自分に言い聞かせていた。
高木はその一瞬にして変貌した堀澤の態度に、呆然としていた。「なんだ急に」としか言えない。堀澤はうんうん、とうなずいていた。気味が悪い。「気持ちわりぃ」脳裏に浮かんだ言葉が、そのまま口元に流れた。
「高木も明日、応援してくれよ」と堀澤は言った。「僕は今決意したんだ」
「……わかったよ」と高木は呆れた口調で言った。それからやれやれ、と頭部を何度か掻いた。
翌日。大学に堀澤の姿は見当たらなかった。これまでに堀澤が大学を休むことなど、一度も無かった。それは中学のころも、高校のころもだった。いつも学校に向かえば、そこには堀澤がいた。高木はそれを当然のように思っていたし、堀澤本人もそれを義務的なもののように務めていたと思う。しかし、堀澤はこの日に限っていなかった。その大学からは、堀澤がいた事実そのものの根拠が消失してしまったようにすら思えた。一切の痕跡すらも残さずに。何かあったのかもしれない、と高木はつい邪推をしてしまう。一度休んだだけなのに、思惟しすぎだと自分でも思う。
海面に垂れた雨粒のように痕跡も残さず消えた堀澤に、高木はどこか妙な胸騒ぎを覚える。猜疑心が高木の心中にさまざまな邪推を与える。執拗にその懐に忍ぼうと試みてくる邪気。高木はそれを煩わしく抱いたまま、その日は全講義を終えた。講義の途中で、何度か西畑さんの姿を目にした。西畑さんは堀澤の欠席を、知るはずもないけれど。
高木は自分のマンションに(大学に入学して、一人暮らしを始めた。もともと片付けなどの行事は苦手で、部屋はまだダンボールの箱に支配されている)帰る途中、電車の車内で堀澤にメールを送信した。なんとか発見できた空席に腰を沈める。窓からの景色を見る。空を射るようにそびえた楼の建物たち。それらは淡々と無愛想な空気を散らして窓の枠から除外されていく。目にした建物はその瞬間から、残像の概念と変貌するのだ。高木の視界の中で。
線路を駆けて削る鈍い轟音。それは延々と車内にたたずむ乗客の耳元を歩いている。それらがその場に存在する限り、この車内に静謐さを求む余地は無い。車内には部活を終えた学生が大半を占めていた。それらの殆どは自身の携帯電話と見つめあっている。たまに三、四人のグループで雑談をしているものもいた。
本来ならば、いま高木の傍には堀澤がいるはずだった。特に会話はなくても、その場に存在するだけでそれは良い記憶の類に値されることだと思う。陰鬱な車両の揺れに襲われながら、いつも車窓から落ちてくる夕日に肌を染めている。眠気に誘われ、欠伸をする高木。夕日の燈を利用して、読書をする堀澤。その二人の寡黙な光景だけでも、幾らでも物語るものは存在した。まあ、明日があるしな。高木は「大丈夫か?」と一言だけ打って送信したメールに「ああ、大丈夫。軽く頭痛がしただけだよ。明日こそは頑張ろう」という返信が返ってくるのを、車両に従って揺れながら虚ろに待ちつづた。脳裏にこびりつく怪訝を、取り払いたいから。
メールの返信は翌日になっても訪れなかった。さらにそれは二日、三日と続いた。抽象的な状態を保っていた猜疑心はじょじょに明晰さを描いていった。妙な忌々しさが高木の脳裏を襲う。嫌な予感が過ぎったのだ。いや、まさか。高木は否定の意思を挿む。しかし、メールの返信が無いという事実が、その忌まわしさを強く物語っていた。まさか……。
いや、まさか。高木はそこでも悪い癖を漏らしてしまっていた。虚ろな独り言。「いや、まさか」
パラレルワールドの静寂 2
それからも僕の身から、違和感が解けることは無かった。奇妙な感覚に酔いながら、僕は自身のマンションに足を運んだ。僕はすっかり消灯してしまった空を見上げる。空は深淵にもぐったように徹底した闇を広げている。違和感は相変わらず僕の心内にたたずんでいた。けれどその世界は夜を祝う街に変わりはなかった。駅からマンションまでの道も、とくに変哲はない。僕の知っている、覚えたての道だった。
マンションはすでにあちらこちらで光が点っていた。僕はエレベーターに乗り込む。緩慢な速度で僕を閉じ込めた箱は上昇していく。数字と矢印が集ったパネルが光を佩びる。そのパネルの頭上には、2Fと表示された別のパネルがある。パネルの文字が3Fに変化する。扉が開き、部屋を並べた廊下が姿をすこしずつ現した。僕は自身の部屋の鍵を取り出し、廊下をすすむ。鍵を差し、僕は暗闇を溜めている室内にへと足を及ばした。部屋の電気を起動させる。室内を支配していた闇が晴れた。
そこでも僕はいささか奇妙な感覚に陥った。部屋の中のなにかが、今朝の状態と異なっている気がした。それを具体的にはわからない。しかし、まるで僕の部屋の模様を違う部屋にそっくりそのまま写したみたいに、それは僕が以前まで覚えていた親しみとは違っていた。とりあえず靴を脱ぎ捨てる。僕はその正体を探った。模索を開始する。窓に向かい合って置かれたディスク。まるいガラスのテーブル。シングルサイズのベッド。とくに異常なものは窺えない。しかしその部屋は僕の部屋ではない。そんな気がする。赤の他人の部屋に、無断でしのんだような感覚だった。僕はベッドに腰をおろす。そこから部屋をもう一度見渡した。やはり変化を発見することはできなかった。しかし、部屋は妙に僕によそよそしい。
結局なにもわからないまま、僕はひとしきりシャワーを浴びた。身をまとう違和感は、そのシャワーでは流れ落とすことはできなかった。匿名的なその感受は、僕の体の芯から強く密着しているのだ。重ねた食器みたいに。それから僕は二杯ほど水を飲んだ。トイレを済まし、歯を磨いた。そして僕はベットに潜る。電気を消す。僕の世界は再び、闇とたわむれることとなる。眠気はすぐに訪れた。寡黙な深淵の奥底が、僕をその眠気がもたらす世界へといざなった。僕はそれに拒否を覚えることなく後を追う。夜の足跡を辿っていく。そして意識を廃らせた。その瞬間のぎりぎりまで、違和感は僕の身からはがれることは無かった――。
目を覚ます。まず淡く霞んだ部屋の天井があった。それはやがて明瞭な光景にへと認定されていく。カーテンの隙間から侵入した日差し。その光は垂直に伸びている。カーペットになにかの印みたいに線を引いて、さらに僕の上半身と下半身をつなげる骨盤あたりを走っていた。意識を徐々に取り戻していく。それは迂闊に破けた袋の穴から水が零れるみたいに、すこしずつの分量でだった。その水を僕は脳裏に流していく。
体を起こすと、必然的な兆しのように違和感が脳に襲来した。僕はまたか、と頭部を掻いた。やはり違和感は欠けずにじっと張りついていたのだ。意識を忘却していた間でも。僕はとりあえずベッドから身を離脱させた。カーテンを開け、朝の日差しを歓迎する。それからTVをつける。トイレで尿をする。強く渇きを覚えていたので、一度うがいをした。二杯目は喉に流し込んだ。
こびりつく違和感に身悶えしながら、僕はTVに目をやった。朝のニュース。僕はそこに意識を向ける。小学生の少女が、誘拐されたらしかった。感想はとくに浮かばなかった。最近はよくこういった事件を目にする。僕は湯を沸かした。とりあえず、コーヒーを吞もう。違和感への言及は、それからだ。
大学へと僕はむかう。電車に揺られながら僕は文庫本の続きを読む。車内は朝の気だるそうな表情をした人たちを運んでいた。その中でただ一人。僕は通常とは特異な緊張をしていた。昨日、高木とした会話を思い出す。昨日決意したことがあった。今日こそ、僕は西畑さんに声をかけるのだ。一言だけでいい。どうやって? 誰かが僕の脳裏で、そう呟く。その声は僕じゃない。ひかりだった。ひかりが僕に、唆していた。その邪気を僕は脳裏から外そうと努める。じっと目を瞑る。電車に揺られる。僕の中の架空のひかり。ひかりははっきりした声調で、僕の耳元で囁き続けていた。そこにためらいの余地は無かった。
外は線路をはしる軋み音が響いている。なのに、車両の中は沈黙に守られていた。それは僕にとって好都合のことだった。その沈黙は僕に落ち着きを賦与してくれる。そんな気がした。僕は幾度と西畑さんに声をかけるシチューションを脳裏に想像した。気がつけば、文庫本の内容になど意識は歩みを中断していた。朝の電車に揺られながら、僕は西畑さんのことを想像し続けた。車両の窓から入り込む朝の日差し。それを僕は手に掬う。柔らかい朝の匂いがした。
大学に到着すると、僕はまず西畑さんを探した。しかし、西畑さんはまだ大学には来ていないようだった。やれやれ。それなら仕方ない、と僕は脳裏で呟く。若干の安堵を覚えていたのも事実だった。もうすこしで授業が開始する。僕はその講義が行われる教室にいち早く行った。適当な席に腰をおろす。教室には誰もいなかった。僕はメッセンジャーバックから文庫本を取り出す。栞を抜き取り、続きを読んだ。
「よ」と声がした。「まだ講義には早いんじゃねえか?」
それが高木だと、僕はすぐに確信する。「別に予定もないしね。高木もおんなじ講義?」
「まあな」と高木は言う。僕の隣に腰をおろす。「だりー」と気力の無さそうな声を漏らしていた。高木は朝が苦手なのだ。
一、二ページ読んだだけで、僕は文庫本を閉じた。メッセンジャーバックに戻す。「なあ、高木」
「なんだ?」
「昨日、僕が言った約束、覚えているよな?」約束、という言い方は間違っているかもしれない。訂正はしなかった。億劫だから。
「は? 約束?」と高木は首を傾けた。
「いや、だから。今日こそ僕は西畑さんに声をかける――ってこと」
新たに数名の男女が、教室に入ってくる。腕時計に目をやる。そろそろ講義が始まる時間だった。高木に目をやる。返事が無いな。
僕と高木の間に、沈黙が降りる。高木は薄生地のパーカーにチノパンツという服装だった。
「……西畑?」
「え、なに? 西畑さんだよ」
高木は僕を怪訝そうに見つめたまま、首をかしげた。わざとか、と僕は推測する。「西畑、て誰だ? そんな奴、いたか?」
「は?」と僕は呆れる。高木の意図がわからなかった。「なにって、西畑さんだよ。僕が一目惚れした、あの」
「一目惚れ? 西畑さん?」高木は気味悪そうにそれらの単語を反芻する。「なあ堀澤。お前、なにいってんの?」
「は」と僕はもう一度声を漏らす。それから僕は訊ねた。「高木、大丈夫か?」
「それはお前じゃないか?」と高木は言う。高木はまるで西畑さんの名前をはじめて耳にしたかのような表情を続行している。それに僕は妙な苛立ちを覚えた。それは違和感をも伴っていた。僕にはさっぱりわからない。
「なあ」高木はさらに続けて、僕に訊ねる。「西畑って、一体誰だ?」
おかしい。僕はベンチに腰をおろし、缶コーヒーを啜る。コーヒーを吞みながら、僕は今朝の高木の様子について思考を巡らせた。今朝の彼はどこか様子が変だった。演技なのだろうか? そうであってほしいと思う。あれだけ毎日話題にだしていた西畑さんの存在を、彼は一晩にしてすべて忘れたのだ。まるで西畑さんが関係する記憶の部分だけ、ナイフで切り取ったみたいに。それは考えられない。ならば、あの態度はなにを示唆しているのだ?
やはり演技だろう。それしか思い当たる可能性は無かった。コーヒーをすこし口に含む。すでにコーヒーはぬるくなっていた。次に僕は身をまとう妙な違和感について追及してみる。やはりこれは便宜的な案も、暫定的な答えも浮かばなかった。見当もつかない。僕はもう一度コーヒーを吞んだ。やれやれ、と思う。
「あ、いたいた」と女性の声がした。
その女性を僕は一瞥する。それと同時に強い動揺が僕を襲う。なんで、と僕は口元から漏れる。胃が締めつけられる。僕は立ち上がり、その場から離れようと歩をはじめる。「ちょっと待ってよ」と声がした。僕は振り向く。
それは仲違いしているはずの、ひかりだった。ひかりは僕に微笑を浮かべている。それはレースカーテンをかろうじてすり抜けた日差しの光のような、とても柔らかく優しい笑みだった。手を振っている。僕に? 僕はまばたきの行為を忘れている。目玉が渇きを覚えていた。
ひかりは僕のほうへと近づいてくる。僕との距離が、徐々に狭められていく。やがてひかりは僕の真正面にへと来る。僕は焦りを隠せないでいる。なんだ? 何が起きている?
「今逃げようとしたでしょ?」とひかりは笑みを含んだ口調で僕に訊ねた。
「そ、そんなことないよ」と僕は言う。動揺している。「な、なんで?」
ひかりは僕の様子に、怪訝そうな眼差しを向ける。おかしい。今朝の高木といい、ひかりといい。この違和感といい。今僕がいるこの世界といい――。僕はひかりに目を合わすことができない。当然だろう。「あの事件」が発生して以来、ひかりの顔など目にしていなかったのだから。
けれどそこには、僕のガールフレンドとなっているひかりがいた。ここは僕の知っている世界ではない。ようやく僕はそのことに気づく。
虚ろな独り言 2
高木は本来降りなければならない駅を通りすごし、その一つ先の駅で降りた。理由は堀澤の様子を伺いに行くためだった。高木は駅から降りて、堀澤の住むマンションへと足を運んだ。これまでにも何度か訪れたことはあった。なので道のりなどに困ることは無い。高木はもう一度メールの返信が届いていないか確かめる。堀澤からのメールは無かった。どんな事情があるのかはしらない。けれどメールくらいは寄こせるだろう、と思う。不吉な予感が高木の脳裏に紡がれる。やがて堀澤のマンションへと到着する。高木はエレベーターにのる。堀澤の部屋の前にたつ。無機質な黒いドア。それは感情を携えていない。高木はチャイムを強く押した。
虚無感を連れた沈黙が、高木を頭上から覆った。静謐な空気がドアに強くこびりついていた。無愛想な印象を抱かせる。中に堀澤はいないらしい。高木はもう一度チャイムを押す。音が響く。誰もいない部屋に鳴り響く留守電話のように、それは虚ろに響いていた。高木はその余韻が遠ざかるのを見届ける。そしてマンションの玄関にへとエレベーターで降りた。しばらく待ってみよう。
自販機でレモンサイダージュースを購入する。それの蓋も開けず、高木はただ掘澤の登場を待った。階段の段差に腰をおろす。開放されっぱなしのガラス扉。石のタイルの壁。同じ素材の地面。マンションの住人たちの郵便受けが三列ほど密着して並んでいる。その列が途切れると、無機質なエレベーターの扉がある。エレベーターは二つある。渦状に巻かれた階段もあった。その階段も石のタイルの素材だった。高木の住むマンションと比較してみると、どちらも似たような物件だった。堀澤のマンションのほうがいささか家賃が高い。
それらの外壁をひとしきり観察した後。高木はもう一度メールを確認した。確認する意味などまるで無かった。高木は自分が送信したメールが掘澤に届いておらず、まだ電波の蔦が巡っている世界の中を彷徨っている姿を想像した。その可能性はあるかもしれない。いや、無かった。
「どこにいっちまったんだよ。堀澤」
レモンソーダの缶のデザインを眺めながら、高木は呟く。こんな事態はいままで一度も無かった。いつも掘澤は当然のように高木の傍にいたのだ。空が夜を招待する。それに伴って空気は仄かな冷えを佩びる。雲が縦長に伸びていくように流れていく。冷えた風と同じ歩幅で歩きはじめていた。この空は今の俺なのかもしれない。そんなことを高木は思う。この空は俺の心境を暗喩している。暗喩の空。それはそれぞれの人間の心理。雲が泳ぎ回る空は、人間の心理の隠喩なのだ。
サイダーを一口吞む。炭酸が喉を刺激する感触がある。それは執拗に高木の喉に淀んでいる。引いていく波に抗う貝殻のように。空は寡黙な夜を引き連れようとしていた。虎視眈々と菫色に染まっていく。幼い少年のように無邪気な雲は、濃い色彩を覚えていく。陽が月に支配されるまでの暫定的な時間帯。それは高木の肌にも影響を与えた。夜の翳りが高木の視界に映る世界を及ぼしていく。それらの変貌を高木は見届けようとする。夜の開催を予告する予兆が、高木にも訪れた。
やがて高木は立ち上がる。堀澤が帰ってくる気配は毛頭となかった。高木はソーダを飲み干す。空になった缶を鉄製の屑箱に放り投げる。そして駅へと歩みを始めようとした。しかし、その踏み出した足は一歩目にして、中断される。
高木は自分の先にいる女性を知っていた。当然だった。それは堀澤と関わりの深い人間だった。高木は一度つばを呑みこむ。開いた隙間から冷えた風が侵入してくるので、着用しているナイロンパーカーのチャックを締めた。高木はもう一度視界の先にいる女性に目をやる。薄い鼠色のパーカー。青いデニムパンツ。紫色をしたプーマのロゴが入った白いスニーカー。そこにいたのは、ひかりだった。
ひかりは高木のほうへと近づいてくる。「よ、よう」と高木は手を上げる。なぜここにいいるのだろう? と高木は疑問を隠せない。ひかりは堀澤と「あの事件」をきっかけに仲違いしているはずだった。かつてあったその関係は今では修正は不可能だろう。それなのに、ひかりは堀澤のマンションに赴いていた。ラフな格好で。
「久しぶり。高木さん」とひかりが言う。
高木さん? やけによそよそしくなってしまったその呼び方に、高木は困惑する。それと同時にいささか哀しくなった。やはりあの当時の俺たちはもういないのだ。
「ど、どうしたんだよ」と高木は訊ねる。こちらまでもが、思わず緊張した。
ひかりはその質問に返答は寄こさなかった。ひかりはひとしきり辺りを見渡していた。堀澤のマンションに目をやる。頭上の空を確認するように見る。それから高木の顔を凝視した。気味の悪さを高木は感じた。ひかりはそれらを観察した後、「ここじゃないみたい」と一言呟いた。
「ここじゃない?」高木は繰り返す。意味がわからない。「何がここじゃないんだ?」
「いえ」とひかりは考え込むような声調で言う。「なんでもないの。こっちの話」
「そうなのか」
「ええ」
二人の間にあるぎこちなさを、拭うことは不可能だった。高木は沈黙を恐れて会話を続けようと努める。しかし続けるべき言葉が見つからなかった。頭部を掻く仕草が多くなっている気がした。「ごめんなさい」
「え」高木は声をこぼす。
「今急いでいるの。ごめんなさい。ここには堀澤……くんはいないようね」
「ああ。いないよ」と高木は言った。「もしかして」と言葉を続ける。もしかして、と思った。「堀澤がどこにいるのか知ってるのか?」
「いえ、知らないわ。ごめんなさい」とひかりはかぶりを振った。
「謝ることじゃない」と高木は言った。落胆はそれほど覚えなかった。
「それじゃ」
「それじゃ」
そう言ってひかりはどこかへ歩いていった。やがて消えた。ひかりの背中が消えるまで、高木はずっとその姿を見ていた。久々にひかりと話した気がした。実際、久しく喋っていなかった。ひかりは堀澤を捜しているようだった。もしかすると――。もしかすると、ひかりはまだ堀澤のことを思っているのかもしれない。そうであればいいな、と高木は祈った。やはり、あの関係は崩れるわけにはいかない気がした。まずは堀澤の行方だ。高木は堀澤の失踪を追及することを決意した。堀澤は助けを求めているのかもしれない。ただの高木の深読みのしすぎならば、その時は笑えばいいだけだ。それで済む。メールを確認する。当然、来ていない。俺は堀澤の行方を捜す。その義務が、俺にはあると断言できる。空を見上げる。空はまだ仄かに明るさを残していた。空は人間の心理の隠喩だ。
パラレルワールドの静寂 3
ひかりは数少ない僕の友人の一人だった。それも異性の友人だった。そして、僕にはじめて好意を抱いてくれた女性だった。僕とひかりは高校で出会った。その過去を思い出す。
僕はクラスで孤立していた。高木とは教室が隔離してしまい、僕は誰にも声をかけれずにいた。いつのまにか教室は静謐さを失っていた。一ヶ月もしないうちに教室は賑やかになった。それが僕には理解できなかった。その喧騒から遠く離れた場所に僕は隔てをつくる。読書量もますます増えた気がした。高木とも会話の数が減少した。充実した高校時代はもうあきらめようと僕は思っていた。
僕は暗闇に包まれてた。延々と続く長い橋は不安定に揺れて軋む。その橋を僕はたどたどしく歩き続けていた。はてしなく伸びたその橋は暗闇の中で揺れる。とても不規則に。その橋を取り囲むのは深い漆黒だった。真っ暗闇がそこには佇んでいた。その現状に足が竦み、歩みを中断してしまう。そうすると鈍い軋み音をあげてその箇所が崩れる気がした。なので僕は歩き続けるしかなかった。暗闇と自分との距離も測れないまま。闇に溺れて。橋に手すりは無かった。すこしバランスを崩せば、僕はそのまま深淵にへと落ちていくだろう。その深淵がどれほどの深さなのかも見当がつかないまま。
そんな日々を僕は繰り返す。充実した高校生活はもう無理だろう。僕はこの三年間、延々と橋を渡っていなければならないのだ。暗闇に取り囲まれて。僕は暗黒と同じ歩幅で、その橋の最後尾を目指した。そこには何もないことは知っている。あるのは激しい空虚感と、殺伐とした静寂だけなのだ。闇をあやかる沈黙だけが、そこにはある。それでも僕は歩き続けなければならなかった。抜け出したい。心からそう祈った。僕はこの日々から――この暗澹な漆黒から――抜け出したかった。闇はそんな僕の祈りを認めるはずがないだろう。僕は奴隷だ。この世界の奴隷なのだ。囚われている。僕を囲う闇たちが、そう僕をたたえていた。
そんな僕に声をかけてくれたのが、ひかりだった。朝焼けの光を映し、震える水面のように優しい笑顔だった。僕はひかりの顔を見上げる。彼女の優しいあの表情を僕は忘れることはできないだろう。それから僕とひかりは友人となった。ひかりは常に心優しさを携えていた。僕はそんなひかりに惹かれていたのだと思う。今思えば、恋愛的な感情も抱いていたのかもしれない。だがその隔てりを跨ぐことはできなかった。僕にかかずらっていた滅法な闇は、まだ余韻を残している。
彼女が自分に異性としての魅力を感じてくれている。そのことに気がついたのは、高校三年の中旬頃だった。彼女の態度がどこかこわばっていた。緊張している。なんとなく僕も気づいていた。しかし、それに踏み入ることはできなかった。そこで僕とひかりの関係が輪郭を崩していくことに恐れていたからだ。僕はそこには追及しないことにしていた。できるだけ。だが、その意識がさらに僕たち二人にぎこちなさを強いれさせた。お互い。じれったさを覚えていたと思う。
ひかりに思いを伝えられた。僕はわかっていたとはいえどもちろん反応に困った。たとえ僕にもその感情が(僅かでも)ひかりにあったとしても、やはり僕たち二人は「友人」という関係で留めておかなければならない気がした。
ごめん、と僕は言った。
ひかりは俯く。「そうよね」と一言だけ言った。僕は頷いた。そうよね? そうだ。空は何かの余白みたいに不気味な色合いを佩びていた。「あの事件」が起きてしまったのは、その次の日だった。僕はできるだけその過去を、思い出したくない。
「なにか様子が変よ?」とひかりは僕に訊ねた。僕の顔色を窺っている。「すこし休んだほうがいいんじゃないかしら?」
僕はかぶりを振った。「いや、なんともないよ」なんともないわけがなかった。ひかりは僕の恋人になっている。その現状に、僕は首をかしげることしかできない。ここは僕の知っている世界ではなかった。「君の……講義は終わったのかい?」
ええ、と彼女は肯く。それからもう一度僕の顔を拝見した。ひかりが何やら素振りをはじめる。僕は身をいささかこわばらせる。ひかりの細い手。僕の前髪を潜って、額に触れる。僕はさらに身がこわばる。頬に熱が佩びる。「熱はないみたい」とひかりが言った。ひかりの手の感触が、額から消える。ひかりの茶色い髪が揺れた。
「だから何もないって言ってるだろう」と僕はひかりの前に手をだす。すこし距離を空けた。
ひかりは「どうしたの?」という顔をしながら目をぱちぱちと瞬きしていた。「なんか、様子が変」
「い、いつもさ」と僕はこめかみを掻く。現状を明確に把握したかった。考えを整理する時間を求めた。
「さっき高木が私に言ってきたの。「今日の堀澤は様子が変だ」って。だから私、気になっちゃって」そう言ってひかりは笑みを漏らす。それは深緑に差し込む光のように美しかった。
「高木の様子が変になったのかもしれない」
「あの人は元からよ」
「僕もさ」
「じゃあ、その彼女の私も変なのね」
それから僕と彼女は駅で別れた。久々にひかりと会った気がした。彼女はいつのまにか僕の恋人になっている。不思議だとは思う。だが、悪い気がしなかったのも事実だった。マンションへと歩みを続ける。僕は今朝まで体の奥底に鎮座していた「違和感」を、とうに忘れていることに気がつく。
マンションへと向かう最中。僕は今朝まで身を苛んでいた違和感のことについて追及してみた。今なら摑めるかもしれない気がした。しかし、それは摑めなかった。煙みたいに。やはりそれは結論を導くことが困難なものだった。僕はあきらめる。
僕の前から何者かが近づいてくる。女性だった。夜の空を吸収したみたいに長く美しい黒髪。デニムジャケット。白いスカート。踵の低いヒール靴。その女性は左手に傘を持っていた。雨は降っていない。降りだす気配も無い。その傘は飾りにすぎなかった。黒色の高級そうな傘だった。模様は無い。その女性は美しかった。肌は晴天の光が降りしきる地に積もった雪みたいに白かった。瞳はまるで朝の香りを含んだ寄せ波に濡れるガラス瓶のように澄んでいた。奥行きがある。
そこで僕はその女性に既視感があることに気づく。忘れるはずがなかった。一目惚れだった。彼女は僕の憧憬する女性だった。彼女は僕の前で歩みを止める。
西畑さんだった。
「堀澤さんでしょうか?」と西畑さんは訊く。
僕は肯く。
「はじめまして。私が掘澤さんを基準世界へと帰還させるため参りました。「迷子の案内人」の、西畑です」
虚ろな独り言 3
「ここじゃないみたい」という昨日のひかりの発言について、高木はひとしきり思考を巡らせた。しかし、さっぱりその意図は読み取れなかった。午前の講義が終わった。昨日のひかりの言動を高木は理解できずにいる。あの発言が示唆する意図に肯定できない状態が保たれているのだ。彼女の世界と高木の世界には、けしてゆえつすることのできない隔てりがあるのかもしれない。彼女は堀澤がいない、という事実を耳にし非常に深刻そうな顔をしていた。深刻そうな表情。それは高木がその事を教える前から把握しているようだった。彼女は堀澤が失踪したことをすでに知っている。一体いつから? 高木は地に降りしきる雨のように閉塞のない思考を巡らそうと努める。しかしすぐに、その雨はやむ。灰色の雲が分裂していく。水たまりがその解散していく雲を映していた。やはりわからなかった。
午後の講義が終了し、高木は大学の食堂に向かった。本来ならば、高木の隣には(または前には)堀澤がいるはずだ。けれど、堀澤はここにはいない。いつか降った雪みたいに。堀澤がいた事実はまるで余韻を残さない。最初から堀澤という人物など存在しなかったみたいに。徹底して痕跡を抹消させている。どこにいっちまったんだよ、堀澤。高木の心境は朝焼けの光に襲われる夜の隙間のように疲れていた。のかもしれない。
「ねえ」声がした。高木は振り向く。その声は聞き覚えのある声だった。昨日聞いたばかりの声だったのだ。記憶の中で一番最新の声だろう。ひかりだった。染めたてらしきの栗色の長い髪を宙に遊ばせている。緑色の派手な模様をしたパーカーを着ていた。
「お、おう」と高木は曖昧な声を垂らす。昨日話したばかりなのに、妙に昨日とは違う緊張に襲われた。「ひかりか」
「ひ、久しぶりね」とひかりは言った。妙にぎこちなさが二人にはあった。「元気にしてた?」
昨日あったばかりじゃないか。高木は思う。だが言うほどのことでもない。「ああ、元気にしてる。ひかりもな。ど、どうしたんだよ。珍しいな。大学で話しかけるなんて」
ひかりは気まずそうな顔をする。「そ、そうね。というより、初めてじゃないかしら」
「そうだな。初めてだ」。どうして今になって声などかけてくるのだろう? そんな疑問を浮かんだ。高木も昨日のこともあり、若干気まずさを感じていた。昨日の彼女の顔が脳裏に浮かぶ。機械のような神妙な顔だった。今とはまるで違う。「どうしたんだよ」
「……いや」とひかりは口ごもる。視線を視界の端にむける。高木の姿が視界から欠けた。それから視線を戻す。「最近さ、高木一人でいるから」
おかしい。妙に変だった。違和感がした。それはひかりとの会話のぎこちなさとはまた異なるものだった。高木は昨日の光景を脳裏に投影する。昨日高木に意味深な発言をしたひかり。いま目の前で定まらない視線を向けるひかり。お互いのひかりは、高木の脳裏ではうまく繋がらなかった。一致しない。しかしそれはあり得ない。昨日目にしたひかりは、もしかして別人だったのかもしれない。それはあまり肯定できない推測だった。彼女はひかりに違いない。しかし、目の前にいるひかりとは違う。まるで夜の闇に隠れる鳥のように明瞭と存在する違和感が、高木の脳内に刻まれる。そんな違和感を抱くくらい、二人を同一人物だとは納得できなかった。
ひとまずその違和感を脳の片隅に寄せる。それから「あ、ああ」と思い出したように声を洩らす。「なんで俺が一人でいることを知ってんだ?」それからそう訊ねた。
ひかりは口をつぐむ。それから踵を返す。視線がふたたび高木の座るテーブルの隅に赴いた。顔をいささか紅潮させる。「私もよく食堂をつかうのよ。だから視界に映るのよ。あなたたちが」
嘘だろう。高木は予測する。それならば高木らもひかりの存在に気づくはずだ。大学に入学してから高木と堀澤は、ひかりの姿を目にしたことがなかった。「あの事件」が起きて以来からだ。ひかりと高木らの関係は遠く離隔してしまったのだ。それからの高木たちはひかりとの復縁を望まなかった。望めなかったのだ。それだけ「あの事件」が賦与した傷は深かった。お互い顔を合わせないように努めた。いや、高木と堀澤は努めなかったといっていいだろう。ひかりが一方的に避けていたのだ。それは徹底した無視だった。彼女は強く傷ついている。それを癒すことを二人はできない。復縁の可能性などまるで皆無だった。
もしかして――。高木の脳裏に奇妙な想像がたゆたう。彼女はもしかして――。いや、それは無いだろう。高木はその想像を脳から葬る。そんな希望をいだく価値は自分には無い。高木は「そ、そうか」とだけ言った。なぜ声なんてかけたんだ、ひかり。頼むから、俺に邪推させるような態度をしないでくれ。そう願った。
「ほ、堀澤は……」とひかりは言う。不規則な声調だった。口ごもりが解けることはなかった。「どうしたの? 風邪かしら。最近全然みないのだけれど」
やはり昨日のひかりとは違う。いま前にいる彼女は、堀澤の失踪をなにも把握していなさそうなのだ。じゃあ彼女は誰だ? それは当然わからない。そして堀澤の失踪の真相も高木は知らない。
「それが俺にもわからないんだ。あいつのことだから、連絡くらい寄こすのに。それすらも無いんだ」
それを聞いたひかりは一度眉を寄せた。沈黙をその場に構築させる。それから考え込むような表情をした。夕焼けの欠片を宿した宝石のような彼女の瞳。「あの事件」が起きる以前も、この瞳は変わらなかった。彼女のあの明確とした強い瞳はやはり美しかった。染めたての栗色の髪が、さらにその夕焼けの欠片をたたえた。
「連絡もよこさないまま、今日で四日目になる。ああいうことはしない奴なんだがな。嫌な予感がする」なるべく平然さを装わなければ。そう肝に銘じる。
「たしかに、嫌な予感がするわね」とひかりも言った。「どうしたのかしら……」
再び静寂が二人を世界に導く。沈黙に満ちた空気は重い。高木はやはり妙な希望を抱いてしまう。今自分はひかりと会話している。「あの事件」が原因で、間隔が空いてしまったのに。それでもこうして会話できている。彼女は堀澤が消えたことを心配しているのだろうか? 堀澤が消え、不安が脳裏を過ぎった。だから高木に声をかけたのかもしれない。やはり――。彼女にはまだ仄かに未練を残しているのではないか? そんな淡い想像を覚える。それと同時にそれは俺たちの方かもな、とも思った。未練があるのは、高木と堀澤の方なのだ。
「午後の授業があるから」とひかりは言いながら、高木のそばを離れた。その時のひかりの顔は、高木の脳に強く刻まれた。彼女の表情には翳りがいささか誇張されている。やはり、堀澤の行方不明が原因だろう。あの暗く淀んでしまったひかりの顔を、高木は脳裏から取り払えない。拭おうとしても無駄だった。高木はもう一度、堀澤のマンションに行くことにした。また、昨日の「ひかり」に邂逅できるかもしれない。ひかりとはまた別人の「ひかり」。高木の頼りは、その「ひかり」の存在だけしかなかった。縋るように。
電車を降りる。駅をでる。世界は匿名的な憂いを佩びている気がした。まるで井戸の奥底のように。どんよりとした冷えを抱きかかえている。高木はその世界の憂鬱そうな表情から目を叛ける。その不吉な雰囲気に溺れないように。高木は歩みを続ける。地面を踏む。地面を蹴る。空は雲の布団を被っていた。本来の冴えきった青い空は深く眠っている。じんわりと湿気を滲ませていた。雨が降りそうだった。
「高木くんかい?」
忌々しい空気を潜り抜ける男の声。高木の耳にそれは辛うじて届く。運ばれる。高木はその声の主を脳裏に描く。まさか、と思った。
まず視界に映りこんだのは紺色の傘だった。傘をまとめるバンドがめくれていた。傘は妙に広がって拡張している。いつ雨が降り出しても大丈夫のようにだろう。次に黒いスニーカー。アディダスのロゴが刻まれている。それに従ってダークグリーン色のカーゴパンツ。すこし残った丈はスニーカーに蓋をするように弛んでいた。そしてネイビーのナイロンパーカー。模様は無かった。それと黒々とした色で革生地のメッセンジャーバッグを肩からかけている。
その人物はひかりではなかった。性別の時点でそれは異なっていた。しかし、その男性を高木は存じていた。知らないはずがなかった。その男は、高木を「高木くん」なんて呼び方は絶対にしない人間だ。高木はもう一度その男に視線を向ける。なんだ? どういうことだ? 脳が混乱する。その混乱を妨げることはできない。その男は、今まさに高木が捜索している本人だったのだ。
「ほ……」高木は思わず声を洩らす。状況がまるで摑めない。いったい、どういうことなのだ? 高木は彼の姿を自身の世界に映す。どうして。「堀澤、なのか?」
高木は静かにそう訊いた。やがてぽつりぽつりと、雨がアスファルトを濡らしていった。本来の冴えきった青い空は、寝返りをうったのかもしれない。
パラレルワールドの静寂 4
僕は眠ってしまっていたらしい。日差しに照らされたベッドの匂いがする。今が朝だということに気づくのは簡単だった。カーテンは開いたままだった。ベッドに倒れたまま、僕は静かに昨日のことを思い出した。それは意識の片隅から淡々と広がっていった。やがて僕は身を起こす。ガラスのテーブルには、空の容器となったインスタントラーメンがあった。隣には呑みかけの状態が守ってあるコップがあった。どうやら飯を食べてすぐ僕は眠りに落ちたらしい。
僕は昨日のことを鮮明に思い出そうとした。それは容易い行為だった。意識が完全に覚める道を辿るのに従って、その記憶も明白に蘇ってきた。西畑さんとの会話。僕はその会話の内容すらもすべて、脳内に呼び起こすことできた。そして今の僕の現状について――現在僕が彷徨っているこの世界について――思考を巡らせた。僕は、本来来るはずのない場所に訪れてしまっている。帰還しなければならないのだ。脳のなかで様々な物事を整頓しながら、僕は水を一杯だけ呑む。それからまたその行為に耽った。
西畑さんの声を聞くのはこれがはじめてだろう。僕は彼女の声をはじめて耳にしたのだった。西畑さんは僕の前に立っていた。黒い傘を携帯している。それは影と同じ役割をはたしているようにも思えた。唐突な西畑さんの登場。僕は困惑するしかなかい。西畑さんは神妙な顔つきのままだった。どうやら僕の困惑が落ち着くのを待っているらしかった。しかし、その困惑は思うように剥がれなかった。そんな単純なものではなかった。
僕は彼女の顔を窺う。それから訊ねた。「西畑さん?」
「はい。そうです。いま名乗ったとおり、西畑です。堀澤さんを「あなたにとっての基準の世界」に連れ戻しに参りました。「案内人」を務めさせていただきます」と西畑さんは真剣な表情のまま言った。実に恭しい口調だった。感情を忘れたような無機質な声。
「は、はあ」と僕は辛うじて肯く。なにか返そうと思ったが、何も浮かばなかった。脳裏では様々な困惑が支配している。けれどそれを文章に替えて、彼女に問うことはできなかった。僕はただ口を虚ろに動かす。餌を頬張る金魚みたいに。
奇妙な寂寥さを漂わせている西畑さん。彼女は延々と僕に視線を走らせていた。その背後には僕の住むマンションが見えた。マンションの白い外壁。それは西畑さんの姿をたたえる役目としては、あまり相応しくなかった。わびしさを拭いきれない背景。西畑さんの色彩が溢れる煌びやかさにその背景は、毛の先ほども及んでいなかった。西畑さんの傘は奇妙な異観のようだった。その傘と西畑さんのシリアスな表情。それらが場の空気を不可思議な漂いに変哲させていた。ようやく僕は声をこぼせることができた。蛇口から垂れた一滴の水みたに。
「僕にとっての基準の世界?」
「ええ。今から私はいくぶん信じられないことを話します。ですがそれは事実なのです。よく耳を澄ませてください。単刀直入ではありますが――」彼女はそこで一度区切った。息を吸う。それから言葉を続けた。「あなたが今存在するこの世界は、あなたが元々いた世界ではありません」
その発言は、僕を理解に苦しませた。意味がまったくもってわからなかった。同じ日本語でここまで奇妙な文章を作り上げることができるのか。僕は摑めないまま、ただ「はあ」と声を洩らた。それしかできることはなかった。現実感の無さ過ぎる発言だったのだ。「まったくわからないのですが……」恐縮しながら僕は言う。
「そうでしょうね」と西畑さんは淡白な口調で言った。「理解に苦しむのは十分承知しております。今から詳しく説明しますので、脳内で強い混乱を覚え始めたらいつでも断ち切って質問してください」
この時点で訊ねたいことは幾らでもあった。けれど僕は肯くだけだ。
「あなたは今、元いた場所とは異なる世界にいます。簡潔すると、あなたは今「平行世界」に訪れているのです。さらにわかりやすくすると「異世界」。もっと言いますと「パラレル・ワールド」です」
はあ、と僕はまた肯く。脳裏には強い困惑が強いれていた。さっぱりだ。
「この三日間ほどの間に、強い眩暈などに襲われたりしませんでしたか?」と西畑さんは訊ねた。
確かにあった。記憶を辿らなくてもすぐに同定できる。あります、と僕は言った。ですよね、と西畑さんは言った。
「その瞬間から、「あなたがいた世界」は「あなたがいたはずだった世界」にへとなったのです。堀澤さんがこれまで地に足をつけていた世界――わかりやすく申しますと、「基準の世界」ですね――その世界から「別の世界」に来てしまったのです。なので堀澤さんは最初、強い違和感を覚えたと思います」
確かに強い違和感を覚えた。その違和感の正体を追及しようともした。しかしそれは不可能だった。だから諦めた。気づいた頃にはその違和感は消えていた。
はい、と僕はそこで西畑さんに訊ねた。手を上げる小学生みたいに。西畑さんもはい、と言った。生徒を当てる教師みたいに。
「なぜ僕はその「平行世界」に来てしまったんでしょう?」
西畑さんはすこし黙り込む。しかしその沈黙は短かった。「詳しくはわかりません。ですが、安易な可能性として、あなたは元いた世界にうんざりしていた。そこにはもう無くなってしまった「何か」を強く求めていた。そうじゃないでしょうか」
「……そうかもしれない」いや、そうだった。僕は自分が元いた世界にうんざりしていた。それは「あの事件」が発生した時からだった。僕は殆どのものを失った。損なってしまった。廃らせてしまったのだ。僕の身から、様々な部品が欠けていくような錯覚を覚えていた。そんな状態のまま。時間がつくる橋を僕は辛うじて歩いてきたのだ。暗闇に包まれて。
「平行世界に来てしまう人間は、大概がそんな理由なのです。いつでも人間は「無くしてしまった」ものを求めます。その欲がピークを超えたとき、人は知らない世界にへと無意識に赴いていくのです。その知らない世界が、このような場所なのです。迷い込んでしまった世界には、必ずその人間の「求める」ものがあります」
僕はひとしきりその事について思考を巡らせてみた。確かにこの世界には僕の求めている要素が揃っている気がした。離隔してしまった僕とひかりとの関係はリセットされている。それどころか、彼女は僕のガールフレンドとなっている。――そして何よりも、僕の憧れの人物とこうして会話できているのだ。以前はそんなことあり得なかった。西畑さんの印象が、いささか異なっているのも事実だけれど。僕は言う。「多分、それは正解だと思います」
西畑さんはゆっくりと、静かに肯いた。可憐な空の少女のような肯きだった。
「そして西畑さんは、僕を元の世界に帰す、という役割なのですね?」。僕は訊ねる。
もう一度西畑さんは肯いた。「はい。そのとおりです。堀澤さんのようにパラレルワールドに迷い込んでしまった人間を基準世界に帰す役割が私です。私と同じ役割の人間はほかにもいます。その人間らを「迷子の案内人」と自分らは呼びます」
「迷子の案内人」と僕はその言葉を繰り返した。西畑さんは肯く。それから「はい」と言った。迷子の案内人……。僕はその言葉を脳裏で繰り返し反芻する。妙に奇妙な響きだった。西畑さんは傘を持つ手を変更する。西畑さんの冴えきった新鮮な水のような瞳。綺麗にまとめられた黒髪。優しくその髪は揺れる。風とたわむれるみたいに。まるで氷の中に咲いた花のようだ。僕は見蕩れる。つい何日か前まで、僕はこの人を目で追っていたのだ(正確には違う人物だけれど)。そのことを僕は思い出す。そして今はこうしてその人と会話している。その事実を比較してみると、僕はつい高揚した。「ということは」
はい? と西畑さんは言う。
「ここ以外にも、パラレルワールドはあるのですか?」
「はい。あります。平行世界という概念は、無数に存在します。無限、といってもいいくらいあります。それは数え切れないです。人間の「望み」だけ、世界は実在することになります。そこには妙に基準の世界と変わった――というよりはズレた――世界があります」と西畑さんは言った。
「なるほど」僕はうなった。そして肯いた。なるほど。
しばらく沈黙が続いた。「それでは」と彼女は言った。「元の世界に帰還する準備をしましょう」
「待ってください」と僕は焦りながら言った。「もうすこし、待ってください」
西畑さんは思わず眉間を寄せた。表情の乏しいその顔面に、ようやく感情が浮かんだ気がした。眉をいささか寄せただけなのに。けれど、僕にはそれだけで十分だった。この顔がまた視界に映せなくなるのは、惜しい。僕はそう思った。僕の求めていた世界。そこに僕はいる。なぜ帰らなければならないのだろう? そんな疑問が僕の脳裏に過ぎってしまっていた。
しばらくして西畑さんは口を開く。「……そうですか」
はい、と僕は言った。その意思がたゆたうことは無かった。その意思はすでに完結していた。
「わかりました」と彼女は言った。僕は肯く。「ですが、あまり長い期間はいれません。その条件を守ってください」
「わかりました」と僕は言った。なぜ長い期間いてはならないのだろう、と思った。けれど、それを訊ねることはしなかった。
とりあえず脳内の整頓を終える。僕はもう一杯水を呑んだ。ここは僕のいた世界ではない。僕は脳裏でその言葉を反芻する。この世界には僕の求めるものがある。自分の望みが叶えられている世界。僕は妙に高揚していた。自分が知らない世界に来てしまったというのに。TVを点ける。朝のニュースが放送していた。神妙な表情を徹底している男性キャスターが原稿を読み上げていた。意識を向けてみる。誘拐された少女を発見したらしかった。よかった、と僕は思う。それからお湯を沸かし、インスタントコーヒーを入れた。
タンスに整頓されている服を選ぶ。服装を思索しながら、僕は大学にいるひかりのことを考えた。それから高木のことを考えた。大学に行けば、当然のようにひかりがいる。僕に魅力的な笑顔をむけてくれる。高木がいる。高木はひかりといる僕に目をやり、苦笑する。僕ら三人は食堂でも雑談する。くだらない話題。それはまるで僕の過去にあった光景がよみがえったようだった。それなのに帰らなければならないのか?
気がつけば、僕がその世界に訪れてから二週間を迎えていた。
虚ろな独り言 4
妙に既視感を覚える。その視野に再生される光景に。青年の前に現れた男。その男は傘を持っている。紺色の傘。青年はその傘を持った男に奇妙な感覚を抱く。以前にも――過去にも――このように傘を持った人と出会った。いや、傘を持った人間など幾らでも会ったことはある。青年自身、傘を携帯して外に出かける機会は多い。しかし、その既視感はそういった光景との一致ではなかった。もっと青年自身の個人的な過去から連想されるデジャヴだった。青年はその記憶を脳裏から呼び起こそうと試みる。朝日を手招きする夜のように。朝の香りをじっと待つ夜の鳥みたいに。けれどその記憶はひどく霞んでいた。それは現実で見た景色だっただろうか。それすらも曖昧に淀んでいた。それを鮮明に思い出すことは不可能に近かった。砂場に埋められた地図を読み解くくらいに。やがて青年はその感覚を脳の隅にへと寄せる。どこかで現状と似たような体験をしたことがある。それは確かだった。それが事実だ、という断言はできないけれど。青年は既視感への追及を破棄する。もうすこし凝らせば思い出すかもしれない。そう考えると未練が残った。沈んだ夕日のわずかな欠片のように。
その登場は、高木の視界を占領するには十分すぎた。しかし、その占領する正体を高木は信じることができなかった。それは堀澤だったのだ。今まで探していた堀澤だった。姿を晦ませていた堀澤だった。堀澤は紺色の傘を持っている。高木はまばたきを忘れていた。陰鬱そうな顔を覗かせる空は小降りな雨を滲ませている。地面が暗く染められていった。雨が高木の髪を濡らす。顔を濡らす。肩を濡らす。雨粒が高木の前髪をつたる。堀澤も傘を開かずにいた。高木をみるだけだった。ただ見つめていた。そして――感受性のよさそうな青年の優しい微笑みをした。
堀澤なのか? と高木は訊ねる。雨が肌を這う感覚があった。そうだよ。その男は(堀澤は)そう言った。お前は。高木は口ごもる。雨が徐々に強度を増す。高木の肌を濡らすのではなく、打つ。やがて雨は肌を打つのではなく、叩く。「俺が今探している、堀澤なのか?」
違う、と堀澤は言った。「僕は君が探している堀澤ではないよ」
やっぱりか、と高木は案の定だった返答に肯く。それと同時に一瞬だけ覚えた安堵は、一瞬にして失せた。「それはなんとなくわかった」と高木は言った。
「僕は君の知ってる堀澤じゃない。けれど、君の力にはなれると思う。君は今迷っている。君の知る堀澤がどこに行ったのか。探しているんだろう?」
高木は肯く。ああ、と言った。探している、と言った。真剣な表情をつくるその顔を雨が叩いた。堀澤は思わず微笑む。寛容そうな柔らかい微笑み。それは堀澤に違いなかった。けれど高木の知っている堀澤ではない。
とりあえずどこか話せる場所へ行こう。堀澤が提案する。高木はすぐ近くにある喫茶店が脳裏に過ぎる。そうだな。高木と堀澤はそこへと足を運んだ。さすがに堀澤は傘を差した。紺色の暗く淀んだ色合いの傘だった。雨を弾く音が、止め処なく二人の耳に続いた。
席につく。コーヒー、と高木は言った。僕も、と堀澤は言った。そして椅子に腰をおろした。短い沈黙があった。堀澤はメッセンジャーバックからハンカチを取り出す。それでさっさっと濡れた肩や顔を拭う。高木もそれを受け取る。肌をおおう雨を簡単に拭く。「さてと」
「これから僕が話す内容は、いくぶん現実感のない話だ。しかしそれは事実だ。僕は本来、君に「ヒント」を与えるような役割じゃない。だけれど、君に言わなければならない。僕はそう思う。君には堀澤くんを――いなくなってしまった「僕」を――連れ戻してほしいと思っている。だからいささか信じられなくても、肯定するように努めてほしい」
わかった、と高木は言った。そして肯いた。
「君が今探している堀澤は、今ここではない世界に行っている。いいかい? もう一度言うよ。君の前から消えた堀澤くんは今、「ここではない世界」にいる」
高木は思わず首をかしげた。は? と声が洩れそうになった。「ここではない世界?」。そう、と堀澤は肯く。「ここではない世界」。高木はそのことについて考えてみる。何もわからなかった。話を続けてくれ。高木は堀澤に言う。
「簡単に言えばパラレル・ワールドだね。君はこういうSFな概念を信じる人間かい?」と堀澤は微笑みながら訊く。
信じないな、と高木は言った。というより、と言葉をつけ足す。「信じられない」
「そうだろうね」と堀澤は笑みをこぼす。「僕の知っている「高木」もそう言うと思うよ」
「そうかい」。高木は言った。
話を続けよう。堀澤の表情が神妙なものにへと踵を返す。高木は肯く。「それで――」と堀澤が言い始めたときに店員が席に訪れた。トレイにのせた二つのコーヒーをそれぞれの前に置く。白い皿にのった白いマグカップ。ごゆっくり、と店員は捨てセリフでも吐くように言って消えた。高木はそれにミルクを加える。砂糖を注入する。ブラックのままのコーヒーを高木は好まなかった。本当にパラレルワールドというのが実在するのなら、そのコーヒーへのこだわりはどこの世界の高木も共通だろうと思った。
「それで」と堀澤が言う。「堀澤くんはその別の世界に行ってしまった。堀澤くんが行ってしまった世界には、その堀澤くんが求めるものがある」
求めるもの? と高木は言う。そう、と堀澤は肯く。
「堀澤くんは「無くしてしまったもの」が幾つもある。それは主に「ひかり」のことだ。なんとなく察しがつくだろう?」
「ああ」高木は肯く。
「その悲しみに堀澤くんは相当ダメージを覚えていると思う。人間は「無くしてしまったもの」を求める生き物だ。堀澤くんは無くしてしまったものを求めている。けれど、この世界にそれはもう無い。なくしてしまったものはとっくに灰になっている。無いものをねだっているんだ」
そうかもしれない、と高木は言った。いや、そうなのだろう。
「でも堀澤くんは――自分のことを説明しているようで気持ち悪いね。なんか――その事実を拒んでいた。求めることを諦めなかった。でも、彼は求める「だけ」に過ぎなかった。意味がわかるかい? 彼はとても弱い。彼は無くなったもの――ひかりとの思い出を――を取り戻したい、と思うだけだった。思うだけ。それを実行することはできなかったんだ。彼は弱い。僕と同じなのだから、わかる」
なるほど、と高木は言った。納得できた。
「それでもその欲が滞ることは無かった。虚しく蓄積されていった。小説家が納得いかない出来の原稿用紙を丸めて屑箱に捨てるみたいに」
「それで、その「無くなってしまったものがある世界」に行ったっていうのか?」
そう、と堀澤は肯く。「そのとおり」
急に現実感が失せるな。高木は言った。堀澤は苦笑した。はは、と笑みを表情に含ませた。確かにそうだね。考えられない話だ。堀澤は言う。ああ、と高木は肯く。でもそれが事実なんだ。現実なんだ、と堀澤は言う。前向きに肯定しようとしているさ。そう努めている。あんたにそう言われたからな。そう言うと、堀澤は「よろしく」と言いながら静かに笑った。
「それで」と高木は訊ねた。「その世界のひかりは堀澤と仲がいいのか?」
そうだよ。堀澤が肯く。なるほどなあ、と高木は言った。コーヒーを一口吞む。さっぱりついていけなかった。まるで異なる話題を無理やり共通なものにして、無理やり会話しているようだ。高木はただ肯くことしかできない。中学の数学の時間もこんな感覚だったな。高木は思い出す。
「まあ、君が困惑するのもわかるよ。僕もそうだった」
「一つ質問していいか?」と高木は言った。堀澤はコーヒーを啜りながらどうぞ、と言った。高木とは違い、ミルクも砂糖も入っていない。
「じゃああんたは、何者なんだ?」
堀澤はマグカップを皿の上に戻す。食器の触れ合う音が必然的にした。よどみのない、気持ちいい音響だ。「僕は――」と堀澤は続ける。
「そのパラレルワールドに迷い込んでしまった人間を、元いた世界に帰す役割さ。職業名のようにしていうなら、「案内人」だね。正確には「迷子の案内人」。消防士、警察官、医者、「迷子の案内人」だね」と堀澤は言った。
わかんねえ。高木は少々粗い口調で嘆く。だろうね。堀澤は笑む。春の日差しのような微笑みだった。久しく見ていなかった笑顔だった。その笑顔に高木はなぜか安堵した。前にいる堀澤は自分の知っている堀澤ではないのだ。けれど、その微笑みを目にすると高木はいささか安堵を得ることができた。あいつは元気でいるだろう、と思えたのだ。こことはまた違う世界。そこで堀澤は楽しくいるのかもしれない。堀澤が幸せなのなら、それでいいのかもしれない。そう思った。しかし、自分は置いていかれた。その事実が高木に寂しさを送った。
「ちょっとまて」高木は用事を思い出したて彼方へと飛び去る鳥のように、突然声を吐いた。
「なんだい?」
「それならあんたは、俺じゃなくて堀澤の方へ行かなきゃならないんじゃないか?」
そうだね、と堀澤は言った。でもあっちは今頃僕ではない「迷子の案内人」が向っているはずだよ。気にすることはない。そう言った。じゃああんた。俺の方にこなくてもよかったんじゃないか? と高木は訊ねる。堀澤は静かに笑みを洩らす。それから「僕個人の意思だよ」と言った。そしてまた微笑んだ。そのあとに自分と彼は同級生だということを思い出した。
「じゃああのひかりは……」思わず声が洩れていたことに高木は気づく。
その日の夜。高木は堀澤に教えてもらった幾つかのことを脳裏で整頓していた。その途中で、この前出会った「ひかり」のことを思い出した。二つを重ねてみる。まるで同一人物の手の平のように、それは見事に合致した。すべて合点がいく。それから自分は何をすればいいのだろう? と思索した。自分ができること。それは何も無いように思えた。
堀澤の失踪がわかった。そのことを高木はひかりに言った。翌日。食堂で昼飯を食べているとひかりが来たのだ。ひかりは相変わらずぎこちなかった。なぜ来たんだ、と高木は思わずにいられなかった。ひかりは高木と向かいあうようにして腰をおろす。それで……堀澤の失踪は判明したの? とひかりが訊ねたのだ。
高木はひかりに昨日起きたことをすべて話した。なにも隠さずに説明した。別の世界から訪れた堀澤に出会ったこと。高木の探している堀澤は今こことは違う世界にいること。その世界に堀澤がいってしまった理由(これが一番説明するのにこたえた)。そして高木の前に現れた堀澤はそれを元いた世界に帰すという役割だということ。けれどなんとなく、この前出会った「ひかり」のことは噤んだままにした。
「そう」それらのことを一通り聞いたひかりが言った言葉はそれだけだった。とても無愛想に。ひかりの表情はとても落ち込んでいた。高木はふと思う。ひかりは自分のせいで堀澤が消えた、と思っているのではないか? と。それは無いか。かぶりを振ろうとした。しかし、それはできなかった。高校時代とひかりの思考が変わっていなければ、そういうことを考え込んでしまうだろうと思った。「そう」という一言。それはそういう意味を示唆しているのではないか?
午後の授業が終了する。高木の心内には不安が拭えないままでいた。忌々しい予感が高木の胸に這い蹲っていた。講義が終了した後、高木はすぐにひかりを探した。しかし、ひかりの姿はどこにもいなかった。嫌な予感がした。胸騒ぎがした。つい最近味わった感覚と似ている。ひかりの友人らしき人物に訊ねていく。ひかりの性格のことだから、友達は結構いるだろう。その推測は案の定正解だった。ひかりの友人はすぐに見つかった。ひかりを知らないか。訊ねる。今日はもう帰ったんじゃないかしら? 彼女は言った。まさか。いや、まさか。ほかにも友人はいた。その人にも訊ねた。ひかりがどこにいったか知ってるか? ひかりなら午後の講義サボって帰っちゃったわ。身体の具合が悪いんですって。ところであなた、ひかりのボーイフレンド? 彼女はそう言った。高木は違う、とかぶりを振ってから礼を言った。まさか。まさか。まさか。ひかり。お前。堀澤を迎えにいったんじゃないだろうな。
高木は心から祈った。胸騒ぎが高木の肌にへと沁みこんでいった。目の前に広がる景色が震えるような気がした。高木は強く祈った。迂闊に、口元から洩れているかもしれない。
頼むから、俺を一人にしないでくれ。
パラレルワールドの静寂 5
僕がこの世界に迷い込んでから、二週間が経過した。それはまるで自身の欲が詰め込まれた夢のような日々だった。毎日のように僕は高木や、ひかりと会話する。その会話の殆どが重要な意味を携わらない。それでも僕は以前のようにこうして雑談できることを幸福に思った。たとえそれが模倣にすぎなくても。ひかりは僕の話に耳を傾けてくれる。そして鮮やかな色彩を得た素敵な笑みを見せてくれる。その笑顔につられて僕も笑みを零す。それは高木もだった。この日々が永遠に続いてくれることを僕は願う。けれど帰らなければならない。タイムリミット。僕は限られた時間について思考を巡らせてみる。西畑さんはあまり長い期間この世界に滞在するな、と言った。まるで今後の僕の未来に悪い影響が訪れるのを阻止するかのように。強い戒めをするみたいに。西畑さんが僕に忠告する。それじゃあその悪い影響とはなんだろう? まるで見当もつかない。気がつけば僕はその思索を放棄していた。帰りたくない、という意志が僕の心内に強くたたずんでいた。それを意識から除去することはできない。いや、除去しようという思いすら皆無だった。
休日という期間がこれほど苦に感じるのははじめての経験だった。僕のこの生活を小説で表すのなら、この期間は空白だろうと思う。スペースの部分。部屋の窓から覗ける空。雲が無い。瑞々しく律儀な晴天が隔たり無く広がっている。まるで湖がそのまま上昇したように淡い色合いの空だった。僕は自分のベッドに倒れながら、その空を延々と眺めていた。窓を全開にする。鳥とたわむれる春の風。レースカーテン。風が僕の身をなでる。風が部屋の中にしのぶ。思う存分の光を部屋はたくわえる。この部屋は正確には僕の部屋ではない。そのことを僕は思い出す。僕は元々この世界にいた「僕」について想像を起動させる。この世界の「僕」は、一体何をしているのだろう。僕はこの世界にいる「僕」に敬意を表した。ここにいる堀澤という人間は、僕とは違う。ひかりの思いに答えることができた僕。「あの問題」を起こさなかった僕。この世界の僕は多分、西畑さんにもすぐ声をかけられるのだろうな。躊躇もなく。迷いも覚えず。微塵とした逡巡も覚えずに。僕はそんな自分に尊敬した。傍からみれば同一人物のはずなのだ。それなのにこの差はなんだ? 僕はなぜここまで弱い? この世界にいたはずの「僕」はどこにいったのだろう。僕はそんなことをふと思う。それからガールフレンドとなっていたひかりを思う。なぜ僕はあの時、彼女の告白を拒否したのだろう。なぜかぶりを振ってしまったのだろう。あの時僕が彼女の告白をOKしていたら――。後悔。それは必ず間隔を空けてから襲来してくる。後悔とはそういうことだ。僕はもう一度空を見る。淡白に澄んだ青色。待ち焦がれる闇をその空は深く沈めてしまう。冴えきった海面のように透明に近い青。疲れ果てて眠る無垢な少年のように、限りなく青い。雲を泳がせない。やがて僕はいささかな睡魔とたわむれることとなる。構わないさ。ゆっくり僕は意識の最後方へと歩みをはじめる。いつか生まれる雲の成長とおなじ歩幅を保って。僕は歩く。意識が遠のいていく。心地よく。構わないさ。
お久しぶりです、と西畑さんは言った。それからコーヒーを口に含んだ。マグカップから上昇する仄かな湯気。彼女の顔の半分を覆う。西畑さんの片目が曖昧に霞んだ。コーヒーを一口吞むだけの仕草に、僕は見蕩れる。なぜ帰らなければならないのだ? 僕は彼女に訊ねたくてたまらなかった。けれど口を噤んだ。「この世界の生活はどうですか?」と西畑さんが訊ねた。
快適です、と僕は言った。まるで夢を見ているようです。これが本当に夢なのなら、この夢は僕にとってとても大儀的なものになると思います。それだけ、この世界の生活は僕に癒しを与えてくれる。そう僕は言った。「大儀的な夢ですか」と西畑さんは関心するように言った。「ならば、あなたは今その「大儀的な夢」の中にいるのです。この世界は夢なのです。いつかは覚める。目が覚めるとそこにあるのは現実です。夢というのは疲れを癒すためにあるものなのかもしれませんね」
「そうかもしれない」。僕は言った。
「疲れが癒された先にあるのは何かわかりますか?」と彼女は訊ねた。しかし僕が答える時間を彼女は作らなかった。そこに余白は無かった。「「新しい疲労」です。人間はくりかえしの中を彷徨いつづけるのです。癒された傷は、また開く。踵を返すだけなのです」
「よくわからない」
「それでいいのです。簡潔に申しますと、夢のような日々はあまり続かないのです。遊園地と同じです。この世の「幸」の部分は、極めて少ない。そして儚い。そのようなものです、人生って」
なるほど、と思う。それと同時に、結構喋るタイプなんだな。そう思った。西畑さんはコーヒーを一口啜る。僕はレモンティーを吞む。どうしてもですか? と僕は訊ねた。どうしても、帰らなければならないのですか? 「はい」彼女は淡白とした口調で言った。そして肯いた。「帰らなければなりません」。もうすこし居ることはできないのですか? 僕は訊ねる。できません。できるとしても、あと一日や二日ほどでしょう。あまり長い期間いるような場所ではないのです。西畑さんは僕の顔を見据えている。目を逸らせば石になってしまうとでも言うように。
「どうしてですか?」。僕は訊ねる。訊ねることを躊躇う。その逡巡を捨てる。僕は訊ねた。どこまでも鋭さを忘れずに。しつこく。「なぜ期間が決められているのですか?」
「いいですか?」と西畑さんは僕の瞳を覗き込んで言った。僕はすこし頬を赤らめる。「あなたが今いるこの世界は、あなたが本当は存在しない世界なのです。この世界にいた堀澤さんは、あなたと同一人物であって同一人物ではないのです。これは仕方ないことなんです。本来ならば、こんな場所など来ること事態おかしいのです」
釈然としないまま僕は肯く。彼女もそれを追って肯く。そしてコーヒーを吞む。しばらく間があった。浅い沈黙。まるで放課後の校舎のような静けさだった。外部から聴こえる音は、他の客たちがもたらすものだった。僕はその沈黙をかどわかすために話題を変更する。あの、僕の元いた世界での話をしていいですか?
構いませんよ。西畑さんはそう言ってコーヒーを吞んだ。結構なペースだな、と思った。
僕は大学に入学するとき、正直これからはじまる生活に期待なんてしていませんでした。辺りがまた新しい出会いを見つけていくなかで、僕は滅法な闇に沈んでいきました。友人を作る、という行為はもちろん試みました。ですが無理でした。それは決して自分が人見知りだからとか、そういったことではありません(まあ、確かに人見知りなところはありますが)。それは高校のときに起きてしまった「ある事件」がきっかけでした。その事件は起きてはいけませんでした。なぜ僕はあんな事態を招いてしまったのか、今でも強く後悔しています。僕は多分、調子にのってしまったのだと思います。そんな僕の浅慮さがもたらした事件は僕の身から離れることはありません。
大学に入学しても「あの事件」での件は強いトラウマになって、僕に様々な苦悩をさせます。見知らぬ人たちに声をかけようとすると、そのトラウマが脳裏を過ぎるんです。そして躊躇するんです。いや、躊躇というよりは阻止してくるんです。僕のその勇気を。だから僕はいつも一人でいました。中学時代からの友人がいただけマシなんでしょうが。それでも僕は孤立しているような気がしました。誰にも声などかけれない。講義をひとしきり受けて、潔く帰る。そんな日常しかないのだろうと思いました。そんなときに出会ったのが――。
「あなただったんです。西畑さん」
僕はレモンティーで口内の渇きを潤す。自分の頬に熱が佩びていくのが理解できた。気恥ずかしさがこみあげてくる。「西畑さん」、僕は話を続けた。
つまり、一目惚れでした。この世界ではあなたは大学に通っていませんが、僕のいる世界ではあなたは僕の視界をすぐに奪いました。一瞬にして強奪されたのです。こうして本人の前で――本人であって本人ではない――話すのはそこはかとなく恥ずかしいのですが、一目惚れでした。西畑さんはこの世の花すべてを摘んで渡したくなるほど魅力的でした。限りなく綺麗でした。一目惚れした僕はすぐにあなたに話しかけようと努めました。今なら認めれる気がします。僕は多分、ストーカーと変わらなかったと思います。気味悪がられても仕方ありません。僕は西畑さんの跡をどこまでも追っていたんだと思います。それなのに、声をかけるという行為は移せませんでした。やはり、トラウマが僕を襲うのです。結局、一言も話せないまま時は流れていきました。当然、友人も一人もできませんでした。
西畑さんは俯く。コーヒーのマグカップを両手で包んで。静かに揺れるコーヒーの水面に自身の顔を投影していた。「……そうですか」。その声はどこか哀しみがあった。やはり、僕の告白に引いたのかもしれない。多分そうだろうな、と思う。しかし、続いて西畑さんの口から発せられたのは、予想外のことだった。
「そちらの世界では、私は平和に大学に通っているのですね。そして、異性から一目惚れされるような生活を送っているのですね」西畑さんは変わらず俯いていた。
僕はその発言の意味がわからなかった。理解がまるでできなかった。彼女の顔を窺うこともできない。彼女は笑っているのかもしれないし、哀しんでいるのかもしれない。もしかすると、どちらともかもしれない。多分、そうなのだろう。僕は推測する。想像をする。そして暫定的に僕は決めつける。彼女は哀しみを隠しきれない微笑みをしていた。
「だから」と僕は言った。「そんな憧れの西畑さんと僕は今、会話できている。それは現実ではありえないことなのです。それがどんな話題であれ、僕はとても至福を感じているのです。そんな日々を、捨てなきゃいけないんですか?」
西畑さんは冷めたコーヒーを吞んだ。それから柔らかな微笑みを僕に見せた。西畑さんの微笑みを僕ははじめてみただろうと思う。それはとても可憐な表情だった。柔らかな面影はそこに強くたたずんでいる。その表情を僕はいつまでも見ていたい。ひとしきり僕の世界に描写していたい。
ありがとうございます、と西畑さんは言った。なぜか声に震えを佩びていた。涙が窺えた。なぜ? なぜ彼女は泣いている? しばらく静寂があってから、「やはり、あなたは帰るべきですよ」と西畑さんが再び口を開いた。
「なぜですか」
「あなたは私に一目惚れをしてくれた。それはとても嬉しく思います。ストーキングされてる、と聞いて喜んでいる自分に気持ち悪さを感じます。ですが、その一目惚れされた西畑とは、私ではないのです。堀澤さんが元いる世界の、今は平凡に大学へと通う女子大生の西畑なのです。ここにいる私は、その西畑ではない。堀澤さん。もう一度言いますよ? あなたは帰らなければならない。そこにはその世界の私が待っている。あなたが望む私が」
でも、その世界にいるあなたは僕に興味など無い、と僕は言った。
それはわかりませんよ? と西畑さんは言った。若干、意地悪そうな笑みを浮かべている。え? どういうことですか。僕は訊ねる。西畑さんはふふ、と静かに微笑んだ。まるで静寂の世界で眠りつづける少女のように。まるで深く寡黙な森の奥で妖精とはなす幼女のように。
「あちらの世界の私が、あなたに興味が無いという断言はできません。確証は無いはずです。つまり――」
僕は肯く。
「あちらの私は、あなたを求めているかもしれない」少なくとも私にその権利があるのなら、そうなっていると思います。彼女はそう言った。やはり静かに。川面に出現する森林のように。
その晩僕はひとしきり思考を巡らす。細かな蔦を這うように。僕は喫茶店で西畑さんとした会話の内容を幾度と反芻する。一体どういうことだ? あちらの彼女も、僕を求めているかもしれない? もし私にその権利があるのなら、そうなっている? 意味がわからない。僕を元の世界に帰すための冗談かもしれない。涙まで流して? あの確信できる偽りのない優しい微笑みをしてまで? あの微笑みは嘘だった? そうじゃないことを僕は願う。それから自分が元いた世界のことを思う。
あなたは帰らなければならない。彼女はそう言った。その発言の具体的な意味を僕は探る。詰まれた雑草の中から花を探すみたいに。それからベッドに横になる。僕が追及しよういう気になるものは殆どが答えが見つからないまま終了するな、と思った。やはり僕には西畑さんの発言の意味がわからなかった。ベッドに身を沈めていると、僕は今朝と同じ眠気を覚えた。今寝てしまえば、明日がくる。明日を迎えても休日であることは変わらない。日曜日。日曜日を憂鬱に思う時が来るとは。僕は思わず苦笑した。高校のときは当たり前だった光景が、今になっては貴重な記憶となって僕に癒しを賦与してくれる。最近は心地よい眠りばかりだ。すべて円滑に、幸せに時が進む。ただし、「時が進んでしまう」。この生活を僕は中断しなければならない。「「幸」の部分は極めて少ない。そして儚い」。彼女が言うことはすべて正しい。納得はしていない。けれどなにかしら理由があるのは確かだ。いつかは帰らなければならない。また、「あの日々」に戻らなければならない。「踵を返すだけなのです」。彼女の言うことはすべて正しい。やはり。
室内は寂寥とした空気が滲んでいた。部屋の明かりは点いていない。窓から差し込む月の光だけを受け入れていた。部屋は蒼白く染まっている。月光は僕の肌に蒼い光を配る。ガラスのテーブルは不思議にその光とたわむれている。神秘的な泉のような煌びやかさを佩びている。カーペットも月に照らされる。僕と僕の部屋は、その純粋な月の存在だけを許していた。それだけを求める一途な恋のように。濁りも汚れも無い、疲れを知らない澄んだ愛のように。僕は蒼白く包まれて眠る。瞼を閉じるとその色に景色が染まる。蒼白い光が瞼の裏から滲む。夜空を渉る雲と同じ歩幅を保って。僕は――。
唐突なチャイム音に僕は思わず目を覚ます。怪奇な奇声のようなものを上げてしまう。それからベッドの上で身が強く弾む。危うくベッドから転がり落ちそうになる。なんだ? チャイム? 枕元にあるデジタル時計で時刻を確認する。午後九時四十四分。深い夜にへと進行していくこの時間帯に何のようだ? 誰が? それは確かに「僕」に用事があるのだろうな?
僕は玄関まで行く。ドアについた小さな穴を覗く。栗色の髪。灰色のパーカー。スリムなブルージーンズ。顔の部分が切れていて確認できない。栗色の髪――。いささかな警戒を密かに僕は抱く。それからドアを開けた。堀澤? という声がした。女性の声。聞き覚えの……ある声だった。
ひかりだった。何の用だろう。ちょっと待て。ひかり? まさか。
ひかり? と僕は訊ねる。ええ。彼女は肯く。なにか違う。僕の「ガールフレンド」のひかりと、抽象的だが確信とした違和感がある。僕は訊ねようとする。「ひかりって――」
「堀澤」。名前を呼ばれて僕は一瞬だけ凍結する。ひかりは僕の顔を見つめる。探したわ。彼女は言った。「一体どういう――」、僕の質問を彼女は途中で断ち切る。声を挿んできたのだ。強く毅然とした声で彼女は言う。
「帰ってきて」
虚ろな独り言 5
高木は夢をみる。それはとても奇妙な夢だった。その光景には、どこか致命的に現実感が欠けている気がした。夜がさすらい続ける世界。夜の暗黒が手招きするその混沌に、高木は歩みを進んでいく。いつまでも夜の呪縛はとけない。それから目を覚ます。その夢の余白にたたずむ感触を高木はしらばく覚えていた。
高木はまるで龍のように延びた階段を下っていた。石の階段だった。どこまでもその階段は続いていた。終着地は深く寡黙な闇に包み隠されていた。見えない。夜の匂いを含んだ空気。その空気はどこか白く濁っていた。まるで硝煙のように。俺はどこを歩いているのだろう? 高木にもわからない。ただ歩みを進めることしかできない。それしか選択肢はなかった。実に怪奇な景色だった。夜に溶け込んだ空気は毅然と冷えている。清濁が出鱈目な硝煙を漂わしている。高木の視界を惑わせる。無数に並んだ提灯。その灯りは夜の闇に抗う。どこまでも続く階段は足元が把握できない。視界が白く霞んでいる。硝煙が充ちている。高木は虚ろに辺りを見渡す。高木のほかにも人間はいた。しかしその人間たちはどれも歪んでみえた。輪郭が曖昧にぼやけている。明確に定められていない。人たちは歩みをやめない。その歩みはゆっくりと動作する。その静かな動きは淀んでいた。残像のようにも思えた。その残像を硝煙は覆い消す。川が流れる音がする。どこで流れている? 岩石と岩石の隙間を駆け抜ける音。水が跳ねる音。その音すらも輪郭を失っていた。高木の耳に余白を残す。高木を中心に、世界は全てのものが余韻を残しているような気がした。
提灯の灯りが軌跡を描く。一つの提灯から次の提灯までの間隔をその軌跡は埋める。光を佩びた蛇のように。柔らかく特異な動きだった。彷徨うように泳いでいる。自分はいま何処をさすらっているのだろう? ここはどこだ? 目的地を定めて駆ける水の音。存在する意義を忘れた世界の輪郭。それを慈悲する空気の硝煙。漂い続ける。細い灯りの道を描いて流れる提灯たち。それらの景色が高木の脳に強いられる。その不思議な夜に染まる。闇に覆われた足場。たどたどしい足取りで階段を下りていく。危うく転がりそうになる。疲れ果てた夜。それは闇を喰らう。深淵の奥底にへと自分は歩いているのかもしれないな。そんな気がした。死と生の境目を彷徨っているような感覚だった。
もうすこしよ。女性の声がした。その声だけが唯一明晰な意思を携えていた。聞き覚えのない声だった。女性の主だということはわかる。もうすこしよ。彼女の声が静謐な空白を作っていた高木の脳にへと沈む。とても深く。海底に沈んでいく小石のように。高木は振り向く。提灯の足跡。それと共に七色の色彩を高木は視野に得ることができた。その虹色の正体を探る。それは傘の柄だった。その色の集いは毅然としていた。硝煙の漂いの中で、己の存在を主張していた。夜の隙間に定まる朝のように。水溜りに浮かぶ月のように。この傘は誰のものだ? 見知らぬ女性。もうすこしよ、もうすこしで到着するわ。あなたは帰るのよ。目が覚めるとき、この世界での経験はあなたの意思の中で夢と化するわ――。
高木は水を一杯喉に流し込む。渇きを覚えていた管に潤いが宿る。飲み干したグラスを流し台に置く。ステンレスと物質が触れあう音が鳴る。トン、という音。その音は夢の世界でのような余韻は残さない。それから掛け時計に目をやる。秒針が一秒をきざむ音。軽く鈍い音。高木の肌は妙に音というものに敏感になっていた。夢から覚めたというのに。時刻を確認すると午前四時を過ぎてすぐだった。外はまだ完全な色彩を見つけていない。どこかで鳥が鳴く声がした。夜と朝を繋げるための暫定的な時間帯。空白の間。高木はベッドにへと踵を返す。眠りに戻ろうと思った。布団の中に足を及ばす。身体の八割を布団に侵食される。目を瞑る。再び世界は暗闇をあやかる。しかし、高木は眠ることができなかった。それは必然的なことのように思えた。脳からは眠ろうという意思が忘却されていたのだった。仕方ない。高木は身を起こす。枕元の前にある窓。薄い茶色のカーテンを開ける。レースカーテン越しに視界をまず独占したのは藍色の空だった。暗闇からようやく抜け出せたような色合いだった。まだ十分な明りを覚えていない。雲も確認はできるが、まだ暗く染まっていた。まだ誰も目を覚ましていない時間帯。高木の前で世界はまだ眠っている。その静寂に高木はいささか優越感を覚えた。空をひとしきり観察する。空に飽きると高木はひかりの行方について推測してみた。
昨日ひかりは大学を途中で抜け出した。ひかりなら午後の講義サボって帰っちゃったわ。身体の具合が悪いんですって、とひかりの友人は言った。体調の具合が悪いのは嘘だろう。それはすぐ理解した。じゃあなぜ途中で帰った? 俺が堀澤の事情をすべて話したからだろう。それを聞いて、彼女は堀澤のことを不安に思ったのだ。仲違いをしたあとも、彼女はやはり未練があったのだ。俺と堀澤が未練を覚えるように。やはり彼女も同様だったのだ。俺たちの関係はやはり「崩れてはならない」のだ。
ひかりは堀澤を迎えにいった。その可能性が高いだろう。高木はそうだと暫定的に決め付ける。それからさらに思考を巡らせた。ひかりは堀澤の失踪を知った。それから堀澤の望むものがすべて揃う世界――パラレルワールド――に行ってしまったということを知った。それを聞いたひかりは堀澤の元へと迎えに行くことを決意した。それからどうした? 決意は決まったかもしれない。しかし、どうやってその世界にいく? パラレルワールドに侵入する方法をひかりは知っているのか? そんなはずは無いだろう。じゃあひかりは――。
もうすこしよ。先ほど見た夢の光景が脳裏に過ぎる。虹色の傘。見知らぬ女性。あれはもしかして、ひかりだったのではないか? 堀澤が言っていた「迷子の案内人」という言葉を高木は思い出す。迷子の、案内人。それは堀澤のほかにもいる。その中にはひかりも――。
そこで高木は推測することを中断した。わからない。脳はもつれを増していた。すべては不明の状態が保たれている。高木個人で、それらを解決することはできない。ひかりはどこに行ったのだろうか。もしかすると今日になると何事も無かったかのように大学に来るかもしれない。実は本当に体調が悪くなっただけかもしれない。そうであることを高木は願う。祈った。
高木はそのことを願って大学へ向かう。しかし――いや、やはり、ひかりは大学には来ていなかった。
パラレルワールドの静寂 6
僕は戸惑いを隠せずにいる。当然だろう。なにかしなければならない。僕は焦りながら思案する。とりあえずコーヒーを淹れた。彼女の前にへとそれを寄こす。彼女はすぐにマグカップの持ち手の輪に指を回す。容器の縁に唇が触れる。そして湯気が立ち昇る熱いコーヒーを躊躇せずに吞んだ。僕もコーヒーを吞もうと思った。けれどできなかった。コーヒーに代行して唾を喉に流した。流し込んだ。それでも口元には唾液が溜まっていた。動揺をかどわかす何かを僕は求める。僕の部屋を見渡す。僕のSOSを察してくれるようなものは何も無かった。僕はもう一度唾を呑む。ひかりは黙り込んでいた。延々と。まるで真夜中の路地裏のような静けさだった。その沈黙は鋭く刃を光らせている。蒼白く。まるで月の光のように。僕とひかりの間に充ちる沈黙。その静けさは僕の皮膚を剥がしていくようで痛い。ぺりぺりと。きりきりと。残虐な快楽を求める拷問者のように。そのきりきりとした静寂を埋めるのは時計の針が刻む音響のみだった。その音はさらに僕と彼女との沈黙を誇張させた。
ねえ。という彼女の声。僕はようやく彼女の声を耳にする。帰ってきて、という先ほどの台詞が脳裏に揺らめく。な、なんだい? と僕は訊ねる。彼女は僕の声を久々に聞いただろうと思う。雲たちの姿を潜める夜。その夜に僕の狼狽をも隠してしまいたかった。相変わらず僕の部屋は月の光の存在だけを許可している。月光はひかりの頬を照らす。ひかりの肩を幻想的に染める。蒼白く。僕と彼女の間に月は寛容な趣きを漂わせて浮かんでいた。蒼い灯りを夜に配布しながら。ねえ……堀澤。ひかりが言う。な、なんだい? と僕は図らずも慌ててしまう。冷や汗が額に滲むのがわかった。「なぜ私がここに来たかわかる?」
わからない、と僕は言った。一体どうやってここに来たんだい? そして、なんでここに来たんだい? 僕は訊ねた。しかし曖昧だが予想はついていた。ひかりは俯く。僕はそれから目を逸らす。彼女の俯きには哀れみがあった。その哀れみは僕の首を絞めてくるようだった。だから、目を逸らす。
「どうやってここに来たのかは、言えないわ。でもここに来た理由は話せる」と彼女は言った。その声はきまずさの中で、眠りから醒めたように強く意思を主張している。「あなたも本当はわかっているんでしょ?」
まあ。今はこの様だけど、僕たちは結構長い時間を過ごしてきたからね。予想はつく。と僕は言った。彼女は肯いた。僕も肯いた。それを何かの合図のように。それから僕は言った。「僕を迎えにきたんだよね?」
そう。彼女は肯く。「帰りましょう、堀澤。私はやっぱり、あなたを忘れらないんだと思う。「あの事件」が起きてから、何ヶ月か経過した。それは今日に至るまで、ものすごく長い間隔を広げていたわ。間隔が広がっていくに伴って、私の奥底には幾つもの後悔が積もっていったわ」どうしても、私はあなたを忘れることはできなかったの。そう彼女は言った。それは僕もさ、と僕は言いたかった。けれど声に出すことを躊躇してしまう僕がいた。
僕は肯く。やりきれない思いがこみ上げた。腹の奥底で感情が震える。そんな気がした。
「大学はたまたま同じだったけれど、顔を合わすことは一度もなかったわよね。実は大学に入学したときから、既に私は葛藤していたの。毎日堀澤や高木との思い出が脳裏に浮かんでいた。復縁できるなら……という未練がそこにはあった。でも、それと同時に「あの事件」での出来事が何度も過ぎった。その二つの大儀的な感情が、四六時中脳内で絡まっていた。もつれてほどけない糸みたいに。だからあなた達の顔を見れなかった」
僕は黙り込むことしかできなかった。そんな自分に腹が立った。ひかりの言葉は一つ一つが粒子を放つ。その粒子らが僕の肌にへと忍んでいく。深い余韻が演繹的に拡散していった。平たい皿にすこしずつ水を垂らしていくみたいに。なにか僕も喋らなければいけない。
しばらく沈黙がある。月にあしらわれた空気が漂う。漂いながら、ひかりの声が残した余韻を侵食していく。その残虐な景色が僕には見える気がした。比喩に過ぎないことは僕も十分承知しているけれど。再び彼女が声を発した。そこには初めの時のような歯痒さは無い。「確かに。空いてしまった間隔は広い。その距離を測ることはできない。様々な色彩で彩られていた日々は、まるで境目でも見つけたみたいに空白を作っていった。何もない虚空よ」
その空白の中で僕は様々な苦悩を覚えていた、と僕は言った。ようやく洩れた声だった。絞りだした。その表現は違う。案外、円滑に口元からこぼすことができた。「その空虚な空白の期間は、僕の頭を冷やすには十分すぎた」後悔。それは間隔を空けて襲来してくる。改めてそう思った。後悔とはそういうことだ。
それから再び沈黙が構築された。しかしその沈黙は優しい。柔らかく僕らを包み込んでくれるかのような静音だった。僕の中でうずく葛藤。それらに静穏が帰ってきた気がした。砂漠に久々に雨が降るみたいに。その静穏はまだ欠片にすぎない。それでも僕は構わなかった。僕らは「何か」の余白の中でたたずんでいる。彷徨うことはない。もう迷わない。僕は――僕たちは――皆「迷子」だったのだ。みな深い森の中でコンパスや地図を失くしてしまっていたのだ。見覚えの無い道を歩み続けていたのだ。
ねえ、堀澤。なんだい? 私たち、またやり直せるかしら? 私と堀澤、それと高木ね。再び静かな間が訪れる。しかしその間は短く浅い。「できるさ」と僕は言った。強い意志で。迷いのない声で。曖昧な森から抜け出すように。そうね、とひかりは言って微笑んだ。その微笑みを僕は久しく見ていなかった。豊富な色彩を得た美しいほほえみを。その表情は枯渇しかけていた僕の心底に強くはずんだ。
「僕は帰るよ」と僕は言った。月を見上げる。「君のいる世界に。この世界は僕にはいささか贅沢すぎる」
「約束よ」とひかりは言った。月を見上げる。「私のいる世界も、贅沢なものにすればいいじゃない」
月はまるで氷のようだった。奥行きを感じた。その月の内部にある芯のようなものさえも、見える気がした。つまり満月だった。黒い雲を左右に寄せる。その翳りから露となった月は限りなく丸い。僕とひかりは蒼白い光に包まれる。月の光は僕たちの視界の先で鮮やかに踊っている。その光は一つの「音」に変貌する。その「音」が僕らを包んだ。その幻影的な月光の音楽に僕たちは煽られる。僕は彼女の肩を抱き寄せる。久しく忌憚していた二人の肩がようやく触れ合う。彼女の栗色の髪。その髪がふと僕の手の甲に触れる。彼女は頭を僕の肩に預ける。僕も彼女の頭に自分の頭を寄せる。寄せ合う。蒼く優しい火が揺らめく。それから二人でひとしきり満月を観察した。
もしもし。西畑さんですか? 僕は若干緊張交じりに電話を耳にあてる。西畑さんの声はすぐにした。僕の耳をくすぐる。はい。西畑です。どうなさいました?
「あの、僕は帰らないといけないらしいです。どうやら元いた世界に」
西畑さんの声調がいささか昂ぶりを佩びた気がした。「そうですか。一体どうしたんですか?」
「この世界は僕には贅沢すぎる気がします。この世界には、この世界の僕がいる。それと同様で、あの世界にも僕がいなきゃダメなんです。この世界の僕を求める「ガールフレンド」がいるのと同じで、あの世界にも僕を求める人がいるんです。帰らなければならない。それに――」
それに? と西畑さんは繰り返す。
「もしかすると、他にも僕を求める女性がいるかもしれませんからね」と僕は言った。言い終えた後、いささか気恥ずかしさが残った。
ふふ、と西畑さんの微笑む声がした。静かな微笑み。静寂の世界の住人のように。「そうですね」
はい、と僕は言ってから通話を切った。そして笑みを洩らした。さて、帰るとするか。帰るとそこには高木がいる。ひかりがいる。やり直せるはずさ。西畑さんがいる。仲良くなれるはずさ。僕は昨日の夜のことを思い出す。私は先に帰るわ。そう言って彼女は立ち上がる。「絶対に帰ってきてね」ああ、と僕は肯く。「必ず帰るさ。だから、待っていてほしい」もちろんよ。彼女はそう言ってから部屋を出て行った――。僕は今いる「この世界」の空気を吸い込む。肺をその空気で満たす。よし。それから僕は歩みを始めた。
虚ろな独り言 6
電車の車窓。青紫色の空が覗けた。屈託を憶えたような色合いを滲ませている。雲は出鱈目な曲線を描いおり、複雑な表情を見せていた。怪奇な空にその雲らは連なっている。雲が横長に広がっていく。その雲の足跡をなぞるように電車は線路を駆けていた。高木はバックの中にあるメモ用紙を取り出した。そのメモ用紙に記されているのは、ひかりが一人で住むマンションの位置だった。ひかりが姿を晦ませる前に渡してきたものだ。しばらく顔も合わしていなかった俺に、なぜそのことを教えてくれたのかはわからない。けれど高木はそのことに素直にありがたく思った。ひかりは自分の自宅にいるかもしれない。ひかりは意図的にこの地図を渡してくれたのかもしれない。この大雑把な地図を。私、一人暮らしをはじめたのよ。そう言って彼女はおもむろにこの紙切れを渡してきたのだった。彼女は俺たちとの復縁を願っているのではないだろうか? 再度、高木はそう思う。だから自宅の地図なんてものを渡してきた。そうかもしれない。その推測に肯定する。そうしようと努める。電車が揺れる。その揺れに高木の心中が踊る。揺れの中心で舞踏する。希望が覗けた気がした。彷徨い続けていた洞窟の先から、外の光が差し込むように。車窓の外部で走る空。それと雲。その雲は未だに延び続けいる。空の隙間を縫合するかのように。空に隔たりを作っていく。出鱈目な曲線を描いて。
ひかりのマンションは堀澤のマンションと比べると、いささか小振りに思えた。一般的な学生マンションのようだ。エレベーターは設備されていない。階段を上る。メモ用紙に書かれた部屋の番号を探す。2○2号室だった。すぐに発見する。玄関と外を隔てる扉。無機質で感情を宿さないそれに高木はいささか畏怖を憶える。インターホンにへと人差し指を差し出す。その指は頼りない風格にへと退化していた。インターホンを押すことに恐縮しているように思えた。高木は逡巡に襲われる。それを薙ぎ払おうと苦悩する。辛うじてチャイムを押す行為に達せる。ドアの奥でチャイム音がした。刹那の隙間に潜る閃光のような鋭い音響。その音は余白を散らしながら消える。そこに残るのは強みを増した沈黙だけとなる。その沈静にへと身が沈んでいく。高木の隣に強調した静謐がたたずむ。ドアは無機質な虚空をそこに宿したままでいる。やれやれ、デジャヴだな、と高木は脳裏で呟く。誰もかもが俺を置き去りにしていくような気がした。ひかりだけでなく。堀澤までもが俺から離隔していく。高木の奥底に孤独心が芽生えはじめる。日陰で静かに咲く花のように。湖で仲間に放置された鴎のように。なあ、ひかり。高木は無愛想な趣きのドアを見つめながら呟いた。それは自然と口元からこぼれていた。ドアは高木に対して無慈悲な瞳を向けたままだ。ようやく覗けた気がした希望。それを潔く捨てることはできなかった。高木はドアを見つめたまま声を洩らす。「……どうしてお前は俺に話しかけたんだ? 思春期の男子が異性に優しくされただけで抱くような、淡い希望を俺にも持たせたかったのか? それなら永遠に抱かせてくれよ。鬼かよ、お前。ひかり、どこいったんだよ。堀澤を迎えに行ったのか? それなら帰ってきてくれよ。それが嫌なら俺も連れてってくれよ。俺はお前を高校のときに置き去りにしてしまった。堀澤とひかりの間に生まれた「あの事件」に、俺は口を出すことはできなかった。そして俺は堀澤のほうへと行ってしまったんだ。本当なら、「お前らを元に戻さなければならない」役目だったんだ。それが俺の立場だったはずなんだ。それなのに俺は逃げた。しばらく空白の期間が流れて、必然的に訪れる後悔に俺は当然苦悩した。その後悔は未だに引きずっているさ。俺はどうすればいい? お前は堀澤が好きだった。俺も何度か相談にのったことはあった。相談にのるだけで、解決はしなかったけどよ。俯瞰して考えてみると、お前らの間に俺は必要だったのかな、て思うな……」高木は口ごもる。いささか世界が歪みを佩びた気がした。ひとしきり沈黙が流れる。「…………なんか、わかんねえな」そう呟く。それから自然と続く言葉に身を委ねた。「人間いつでもそうだ。正解が見つからないまま終わるんだ。正解がある物なんて学校のテストと、堀澤が好きでよくよんでたミステリー小説だけだぜ。それでも俺としては、お前らといつまでもいたい。俺たちの関係は崩れるわけにはいかないんだ。ドラえもんのメンバーと一緒さ。ジャイアンやすね夫がいるように、俺がいて、しずかちゃんがいるようにひかりがいるんだ。そんな完成した友人メンバーは学校でも俺たちくらいだったよな? なあ、ひかり。ひかりに俺や堀澤は深い傷を負わせてしまった。罪悪感は常に俺の傍にある。影と一緒にな。わがままかもしれない。でも、俺やっぱりあの三人でまた集まりたいんだ。くだらない雑談とか、していたいんだ。元に戻るまで、修正の期間は長いかもしれない。でも、またああやって日々を過ごしたい。あの関係が続くのなら、俺はこの世界じゃなくても構わない。だから、置いていくなよ。ひかり……」
歪みがさらに極まっていく。車に踏まれた直後の蜃気楼のように。気がつくと高木は涙を溢れさせていた。涙を流したのは久しぶりに思えた。自分の滑稽に震える声。それと同時に、ドアの奥ですすり泣く声がした。高木とは違う。それがひかりだという事ははすぐに理解できた。高木はもう一度インターホンを鳴らそうと思った。手を伸ばす。頼りない風格の人差し指。涙が頬をなぞる。高木はインターホンを――。
「……高木」インターホンを鳴らす前にドアが開いた。そこにはひかりがいた。涙を流していた。大粒の涙だった。彼女が涙を流す理由。それは考えなくとも理解できた。彼女も自分と同じなのだ。俺たちとの復縁を求めていたのだ。高木は手の甲で涙を拭う。いるんなら、はやく出てこいよ。高木はようやく安堵を得る。その安堵は自身の顔に笑みをもたらす。その安堵の息は尽きずに溢れ続けた。穴の開いたタイヤに空気を注入するように。ひかりは瞼を腫らしていた。涙は彼女の瞳を大儀的なものへとたたえている。僅かに灯る白夜の光のように。ひかりは涙を拭う。「あなたの独り言の癖。まだ治っていないのね」と彼女は言った。
これは無意識の独り言じゃない。と高木は言う。意図的な独り言さ。それを聴いて彼女は微笑む。知ってるわ。あなたとの付き合いは長いもの。そう数ヶ月で忘れるようなものではないわ。そう言って鼻をすする。とりあえず、入れば? と彼女が高木を部屋へと招く。ああ。高木はひかりの部屋にへと足を踏み入れる。室内からは明りの存在が窺えなかった。一切の光すら、その部屋には与えられていなかった。カーテンは徹底して光を遮断している。その室内は一足早く夜を迎えていた。とりあえず明りつけなよ、と高木は言った。ええ、と彼女は言った。そして室内は人工的な灯りを受け入れた。ひかりの顔が鮮明に高木の視界に映る。それまで覆っていた影は、光によって浄化される。栗色の髪。夕暮れの破片を散りばめ、それらを再び凝縮したような瞳。柔らかく結んだ口。それらが明晰さを取り戻す。
高木は安易な場所に腰をおろす。ベッドは遠慮した。彼女はコーヒーを淹れている。淡白とした沈黙がその場を満たしている。高木は虚ろにひかりに目をやる。ひかりはマグカップにコーヒーを注いでいた。それから片方にミルクと砂糖を注入した。おそらく高木のだろう。やがてひかりは両手にマグカップを持って来る。太ももよりも短いパンツを履いていた。「勝手にミルクとか入れちゃったけれど、いいわよね?」ああ、と高木は言った。ありがとう。どういたしまして、とひかりは微笑む。その微笑みに高木はもう一度安堵を感受する。そしてひかりは坐る。しばし沈黙を間に挿む。隙間があると埋めたくなりますよね、と沈黙が言っているような気がした。高木はコーヒーを一口吞む。コーヒーを啜る音が沈黙に重なる。しばらくして彼女は神妙な顔つきで口を開く。高木はマグカップを置く。耳を澄ませた。もう本題に入るのか、と思った。ひかりは「ねえ、高木」と言った。なんだい? と高木は返す。いささか身構える。「高木から堀澤の居場所を聴いたとき、私、正直信じれなかったの」と彼女は言った。まるで手紙の最初に時候の挨拶を記すように。これから話す内容のプロローグのように。
それは俺もさ、と高木は言った。それからコーヒーを啜る。熱い。湯気が空気を白く染める。
ひかりは言う。「高木言ったわよね? 「堀澤が今いる世界は、堀澤が求めるものすべてがある」って」高木は肯く。ひかりは高木の瞳を見据える。「その「堀澤が求めるもの」って、大概は私にあるんじゃないかしら? そうでしょ?」
高木は何も言えなかった。否定ができなかった。高木は無言で話の続きを待った。それをひかりは察する。ひかりは一度小さく肯く。了解、と肯きで言った気がした。
「「あの事件」が起きて私は堀澤たちを避けるようになった。その期間は結構長いものよ。私は正直苦しかった。また仲を戻したいと思っていたわ。それは今もね。それでも行動で示せなかった。堀澤のほうから私に声をかけてくれる事を、ずっと待っていた。でも堀澤もそれは同じだったのよね。今考えれば堀澤がそんな人じゃないってわかってたのに。長い間一緒にいれば、堀澤の性格がどんなんかなんてすぐわかるはずなのよ。堀澤も私から声をかけてくるのを待っていたはずだわ。絶対」
「そんな堀澤とひかりを繋ぎ合わせる役目が俺だったんだ」と高木は口を挿んだ。「それなのに俺すらも逃げてしまった」
ううん。ひかりは静かにかぶりを振る。あなたは悪くないわ、と言った。しかしその表情にその意思は含まれていなかった。そうよ、あなたが私と堀澤を助けなければいけなかったのよ。そうひかりの顔は語っていた。そんな気がした。ひかりの顔から染み出ている悲しみは拭えていないままだった。放置された状態で淀んでいた。「そして時間が積まれていった。私が堀澤たちと離れた空白の時間が。その時間は本当に拷問のようだったわ。傷口はさらに開いていった。でもそれって堀澤もなのよね。堀澤も傷は強まっていくばかりだったのよね。そして「パラレルワールド」へと逃げこんだ。「求めるものがなんでもある世界」に……。「失くしてしまったものがある世界」に……」彼女はそこで黙り込む。そして俯く。再び涙が声を慄かせはじめた。ひかりの声を。
「そしてひかりは、堀澤を迎えにいこうとした」と高木は言った。
そう、とひかりは肯く。そして涙を拭う仕草をとる。落ち込むなよ、と高木は一言声をかけたかった。けれど言えなかった。高木も。堀澤も。ひかりも。全員落ち込まなければならないのだ。そうしないと始まらない。「なにもお前だけが悪いだけじゃない。俺にも原因はあるんだ」高木は言う。しかしひかりの顔は俯いたままだった。両手で包むように持ったコーヒーカップをただ見つめていた。ぼんやりと。
高木はコーヒーを口に含む。喉に流す。喉の内側から熱が染みていく。連想されて蘇っていく幾つかの記憶みたいに。じんわりと熱を佩びる。「それに――」、高木は口ごもる。ひかりの顔を見る。ひかりの顔から目を離さずに、高木は言った。「堀澤は帰ってくる。絶対」
ひかりが僅かに顔を覗かせる。鼻水を啜る。高木の顔を見た。そして嗚咽混じりの声で小さく訊ねる。「……絶対?」なんでそんな断言ができるの? とひかりの瞳が高木に訊ねているようだった。それと同時に、なんであなたはそんなことを簡単に言えるの? と呆れているようにも思えた。
「お前言っただろ? 堀澤との付き合いは長いし、堀澤がどんな奴かしっているはずって。ならわかるだろ? あいつは帰ってくる。絶対にだ。あいつは人を置いていかない」最後の一言は自分の猜疑心を誤魔化すためだかもしれない。と思った。
ひかりは堀澤を連れ戻そうと決意した。そして堀澤のいる世界にへと行こうとした。しかし、それはできなかった。当然だった。ひかりは「その世界」に行く方法を知らないのだ。それは高木もだった。俺たちは待つことしかできないのか? と高木は自身に問う。そんなわけねえだろ。高木の脳裏に堀澤の顔が浮かぶ。そして、「迷子の案内人」の堀澤の顔が過ぎった。彼しかいない。
パラレルワールドの静寂 7
どうしたの? とひかりは椅子に坐ると同時に僕に訊ねた。話したいことがあるらしいけれど。ちょっとね。僕は微笑む。店員がひかりに注文を伺う。コーヒー、とひかりは言った。淡白な声調で。僕はすでに注文してあった紅茶を呑む。ひかりは茶色い革生地のバックを隣の席に置く。上品で洒落たバックだった。そのバックを一瞥する。それからひかりに視線を戻した。ひかりはテーブルの上で手の平を重ね、僕を見つめていた。そして柔らかな微笑みを見せた。「なんか、休日に会うって珍しいわね」ひかりが言う。不満のない優しい微笑みは消えないでいる。そうだね、と僕は言う。それからひかりの重ねた手の平に目をやった。白く細い指。汚れを知らない純粋なその手は色褪せない。美しい輪郭をしていた。木製のテーブルで重ねたひかりの手。露骨に空気に晒しても許されるものなのか? この空間の空気に、あの手を晒すほどの価値があるだろうか? と悩んでしまうようなほどの美しい手。その手の主が僕のガールフレンドとなっている。しかしそのガールフレンドが求めている僕は、僕ではない。僕はあくまで、この世界から見れば知らない世界の住人にすぎないのだ。それで構わない。僕はこの世界にいるべきではないのだ。
「今日は話があって呼んだんだ。ごめんね」と僕は言った。「なにも用事は無かった?」
あったら来れないじゃない、とひかりは言った。そして笑みを洩らした。構わないわよ。私も暇だったもの。やがて店員がコーヒーを運んでくる。コーヒーカップの内元から立ち昇る湯気。冬の空気を飾る吐息のように白い。ことん、とそれを置く。慎重に。お待たせしました。ごゆっくりどうぞ。どうも、とひかりは軽く顎を引く。今日はミルクの気分なの。ひかりはそう呟きながら、容器にミルクを注ぐ。「それで?」と言った。「話ってなにかしら?」
「いや、たいしたことはないのだけれど……」僕にとってもひかりにとっても、たいしたことある話だと思う。僕は内心そう呟いた。聞こえるはずがないな。「あまり真剣にならないで聞いてほしい」まるで今朝みた夢の内容を聞かされるみたいに。そう僕はつけ足した。
了解、とひかりは肯く。真剣にならないで聞くわ。「まるで人の夢の内容を聞くみたいに」そう言って彼女は微笑んだ。「たまに堀澤って、とても不思議な表現をするわよね」僕は彼女の笑みを見る。自分まで頬が緩んでしまうような気がした。それだけの影響を与える力を彼女の笑みは携えていた。「ひかり」と僕は彼女の名を呼ぶ。なに? とひかりは不思議そうに首を傾ける。「君に出会えて本当によかった」そう僕は言った。どうしたの急に、と彼女は仄かにはにかんだ。頬に桃色の熱が宿る。とても素敵なものだった。まるで何かのお別れのシーンみたいね。と彼女は言って、静かに笑った。そのとおり、と僕は脳裏で呟く。君は本当に察しがいい女性だな、と。
僕は紅茶を一口分。口に含む。そして呑む。じんわりと甘い熱が喉に広がる。喉の渇きが廃れる。いいかい? と僕は彼女に確認をとった。だからなにがよ、とひかりは笑みをこぼした。「実はさ」ええ、と彼女が肯く。「本当は僕、この世界の人間じゃないんだ」
どういうこと? ひかりは笑う。そして訊ねた。
「君が知っている僕。まあ君の知っている「堀澤」という人物は、僕ではないんだ。ここ二週間ほど僕は君や高木と一緒に日々を楽しんだ。それは僕もとても嬉しかった。夢のような日々さ。それでもこれが「偽り」の事実という事の思いが拭えなかったんだ。君が僕のガールフレンドだとわかったときは正直驚いた。それと同時に「なるほどな」と思った。僕はこの世界にいる「僕」に関心したよ。さすがだな、て。けれど、本来ならこの世界みたいな現状に僕も選べれたはずなんだ。あの時、僕はその選択肢でNOのサインをしてしまったんだ。だから今の僕はこの様なのさ。あのときの僕はバカだった。今もバカだけれど。すこしは変わっただろうと思う。そう信じたい。僕思うのだけれど、あの選択肢はまだ選べ直せるはずだと思うんだ。わがままかもしれないけれどね。なんか、この世界にきて僕はいろいろ決断できた気がする。今までの屈託が全部失せたみたいだ。僕は元いた世界に帰らなきゃいけないんだよね。もちろん、この世界にもうすこしいたいな、と思ってしまうのも事実さ。……だけれど、帰るのさ。僕は――」そこで僕は区切る。紅茶を飲む。レモンティー。湯気はもう出ていなかった。疲れて呂律が回らなくなったみたいに。湯気は廃れ、紅茶は冷める。ごめん、なに話しているかさっぱりだよね。でも聞いてほしい。これが僕の最後のわがままさ。僕は自嘲気味に笑いながら言う。彼女はううん、と首を振る。構わないわよ。続けて。僕は礼をいう。ありがとう。それから僕は続けた。
「僕は帰らないといけないんだ。帰るとそこには高木やひかりがいる。この世界ではない高木やひかりがね。そこには僕の一目惚れした女性もいるんだ。その女性とはまだ話したこともないけれど、きっとうまくいくはずさ。そう信じている。だから帰る。贅沢すぎるな、この世界は。僕が自分で崩してしまった世界を、誰が治すんだよ。誰が修正するんだよ。僕しかいないんだ。僕は再生する。更正、は言いすぎかもしれないな。とりあえず、僕は元の世界にへと戻る。元いた世界に帰ると、多分ここの事に関する記憶は徐々に薄れていくと思う。まるで目が醒めた瞬間に、夢の内容を忘れるみたいに。それは同様で、君や高木もこの世界に二週間ほどいた――いわゆる今話している――僕がいたことを忘れていくだろう。それでも構わないさ。……構わないさ」
僕が話している内容を、彼女は微塵と理解していないようだった。当然だろうと思う。けれど彼女は微笑んでいた。微笑みを崩さずにいた。僕の話に静かに耳を澄ませていた。ひとしきり僕が喋り終えると、彼女はコーヒーを一口吞んだ。とりあえず呑んだ、ようだった。なんだかよくわからないけれど。彼女は踵を返してマグカップをテーブルに戻す。「あなたは、自分が思っている以上に強い人間よ。そういうところに私は惚れたのよ。私の知っている堀澤はそういう人間よ。あなたはその堀澤と違うらしいけれど。それでも「堀澤」という人物の存在は共通なのでしょ? なら私は言えるわ。あなたが私の知らない堀澤でも。言えるわ。「あなたならできる」。あなたが何を崩してしまい、修正しないといけないのかはわからない。けれど、あなたにはできるわ。そう信じてる」
ひとしきり彼女は言った。話し終えると、コーヒーを吞んだ。僕は瞼を閉じて微笑んだ。僕の心境がたゆたうことはもう無かった。この紅茶みたいに。熱を忘れた紅茶みたいに。揺らめくことはもう無かった。波紋を描かない扁平な川面みたいに。「ありがとう」と僕は再び彼女に礼を述べた。「改めて言っていいかい?」
「いいわよ」
「君に出会えて本当によかった。この世界の「ひかり」に会えて。僕は本当に感謝している」
彼女はぎこちなく肯く。そしてはにかむ。なんか恥ずかしいらやっぱやめて、と彼女は言った。僕は笑った。言ってしまったあとに言われても。そう返して、もう一度僕は笑った。
その日の晩。僕はタンスから適当に服を選んでそれを着た。この世界の堀澤と僕の身長が一緒か、確認のため一枚Tシャツを取り出す。灰色の無地のTシャツは僕のサイズと正確に一致した。その上から紺色のナイロンパーカーを羽織る。ダークグリーンのカーゴパンツを履く。ナイロンパーカーのチャックを半分ほど締める。それから息を吐いた。世界の凝った演出は夜を描いていた。屈託なく続けていた。整然とした闇はゆとりをまとって空に並ぶ。夜の隙間を縫うように暗い雲が連なる。つらなる雲は複雑な輪郭を作っている。無造作に切った紙を、画用紙に貼りつけるみたいに。空には無数の星が散りばめられていた。その星の光は夜を彩る。夜とたわむれる。月の光。煙を描くような星の大群。夜が染みこんだアスファルトに足をつけて歩く僕。それらはうまく距離を保っている。僕は夜に沈んだ世界を見渡す。いま僕が見ているこの景色は、僕が知る世界の風景ではない。僕が帰らなければいけない世界の夜を思い出す。夜の隙間を様々な光彩が充たしていた。それはビルや、自動車の羅列、信号機などの人工的な光の集いが正体だ。まるで夜を祝うように。夜を祝う街、と僕は思い出す。
それでは参りましょう、という西畑さんの呼び声と共に僕は歩みをはじめる。西畑さんの後を追う。西畑さんの背中を見る。西畑さんの足跡を辿る。僕は歩みをはじめる。歩みをはじめる。僕は、歩みをはじめる。歩みを、はじめた。僕は。
虚ろな独り言 7
ひかりと別れた後。高木は「迷子の案内人」の堀澤に電話をした。ひかりの部屋を出た後でも、高木の身は陰鬱な緊張を引き摺ったままだった。その好ましくない状況に高木は辟易とする。高木は近くのファミリーレストランを待ち合わせ場所に決めた。堀澤の登場を待つ間。高木はドリンクバーを頼んだ。それからメロンソーダをグラスに注いだ。ワインのコルクくらいの大きさをした氷を四つほど投入する。鮮明な緑色が内部で炭酸泡を上昇させた。その世界の中で氷たちは静かに踊った。お互いが触れ、乾いた音がグラスに響いた。カラン、とした氷の音。グラスに滲みだす水滴。まるで焦りから額に流れる冷や汗みたいに。おまたせ、という声が頭上からした。見上げる。眩しい日差しを手で遮りながら空を見るみたいに。「迷子の案内人」の堀澤がいた。堀澤は以前と変わらない服装をしていた。ネイビー色のナイロンパーカー。ダークグリーンのカーゴパンツ。革生地のメッセンジャーバック。久しぶりだね。そうだな。それで、何のようだい? まあ坐れよ。そして高木は自分と向き合う席を指差した。まるでこれから説教をはじめる教師のような仕草だった。堀澤はああ、と言ってその席に腰をおろした。
「何のようだい?」と堀澤は改めて訊いた。高木はメロンソーダーを一口吞んだ。炭酸が喉をくすぐった。高木は先ほどの光景を思い出す。堀澤は絶対帰ってくる。そうひかりに断言したことを思い出す。あれは自分の邪気を逸らそうとした無意識な抵抗だったのかもしれない。自分のために、そう言ったのかもしれない。自分の不安心を誤魔化そうと。俺もどこかで堀澤が帰ってこない、と思ってしまっているのかもしれない。それはひかりも同じだ。だからひかりは堀澤を迎えに行こうとした。迎えにいこうと試みた。けれどできなかった。高木は先ほどあったことをすべて堀澤に話した。堀澤は高木が話す内容に耳を澄まして、静かに相槌を打つのみだった。溝に小石を落とすかのような相槌だった。「迷子の案内人」の堀澤は高木が知っている堀澤に比べて「何か」が欠けていた。それは具体的にはわからない。しかし、「迷子の案内人」の堀澤には致命的な部分を失っているような気がした。顔の作りも瓜二つだし、身長も奇妙なくらいに一致している。それなのにどこか重要な部分を備えていなかった。そんな抽象的な印象を抱く。高木はその損なわれてしまったものの正体を追及してみる。探ってみる。わからなかった。彼に何が足りていないのか。高木が知るはずもないのだ。
「あの」と高木は言った。「堀澤は本当に戻ってくるのか?」それだけ。高木はそう訊ねた。それは自分の心底からの不安だった。その猜疑心だけが高木の心内を著しく占めていた。おびただしいほどの意思をそれは携えていた。ぽっかりと空いた空洞の中で。それは強く存在を主張していたのだ。
誰でもよかった。どんなものでも良かった。高木は前向きな言葉を求めているだけなのだ。高木の猜疑心を隠してくれる言葉を。前向きな意思を持った言葉を。高木はそれだけを求めていた。帰ってくるさ、とだけ堀澤が言えばそれで高木は十分だった。一人だけではやはり支えきれない。堀澤が帰ってくるとは限らない。帰ってこないかもしれない。そんな邪気が狡猾に差してしまうのだ。僅かに開いたドアの隙間から光が忍ぶみたいに。しかし堀澤はただ黙っていた。黙り込んでいた。二人の間に沈黙をたたずませていた。その沈黙は酸素を奪うかのように息苦しいものだった。息を呑む。それはわからない、と彼はやがてそう言った。そして後に続く言葉は無かった。
それはわからない? 高木はその発言を繰り返す。堀澤はうなずく。どういうことだよ、と高木は苛立ちを隠せずに言った。いささか乱暴な口調だった。なぜそんなことをいうんだよ、と高木は失望を憶える。「わからないものはわからないのさ」と堀澤は言った。そして自身の手の平を眺めた。思い出したかように。無意識な行為のように思えた。
やがて堀澤は眼差しを高木に戻す。「一つ教えよう」彼は言った。そして続けた。「平行世界というのはね、どこも知らないところで繋がっているんだ。わかるかい? たとえば、「世界その一」があるとしよう。その「世界その一」での出来事は「世界その二」でも起きている。その「世界その二」で起きた事は「世界その三」でも起きているんだ。僕の言いたいことがわかるかい? だから「この世界」での出来事は――堀澤がひかりと仲違いし、別の世界に逃げ込んだという事態は――ここじゃない世界でも起きているんだよ」
高木は肯く。それからメロンソーダを吞む。しかし喉の中を駆けるものは僅かな水だけだった。氷が溶けた水。グラスを確認する。メロンソーダはとっくに吞み干していた。ストローの先端は噛まれており潰れていた。高木の焦りをストローやグラスは知らせていた。さりげなく。だからなんだよ。高木ははむかうように言った。自身の声はすでに震えていた。いささか上擦っている。頼りないものだった。
堀澤は淡々とした口調で言う。つまり、この世界で起きている事態は、別の世界でも起きている。その世界では、この問題は解決しているかもしれない。堀澤は帰ってきたのかもしれないし、帰ってきていないかもしれない。だから僕は「帰ってくるさ」と断言できないんだ。わからないんだ。僕は迷子を案内する役目であって、未来を予知するものではないんだ。そう言って堀澤は再び黙り込んだ。その沈黙が高木のわだかまりをより深めた。わだかまりは強度を増す。やがて一つの「しこり」となっていく。そんな気がした。
「そうですか……」高木はそうとだけ返す。不安が急速に積もっていった。夜中に降りしきる雪みたいに。高木の心境は夜を迎えていた。夜がその雪たちをぶら下げて遊ばせる。雪は一粒ずつが綽々とした余裕を備えている。それらが地面を白く染め上げていった。傷口から垂れる血液が地面に広がっていくように。円を描いて拡大してくように。
僕はそろそろ帰るよ。そう言って堀澤は立ち上がった。会計の紙を当然のように手に取る。頼んだのは高木のドリンクバーだけだ。堀澤はなにも頼んでいない。いいよ気遣わなくて。そう言って高木は堀澤の手から会計の紙を取りかえした。話を聞いてもらって悪かったな。そう礼を言って、高木はレジに行こうとした。堀澤を抜いたあたりで、堀澤が口を開いた。僕からも一つ訊いていいかい? 高木の背中を見ながら堀澤が訊ねた。なんだよ。高木は堀澤の方へと振りかえる。堀澤はまさか、というような表情を滲ませいた。なんだってんだよ。
「君はもしかして……」
「は?」高木はいささか苛立ちを隠せずにいる。
「いや、なんでもないよ。やっぱりいい」そこで堀澤は話すのを中断した。余白がその場には残った。他の客たちの声が遠く忌憚されていくようだった。
翌日。高木は食堂でオムライスを頼んだ。堀澤が食べていたものだ。西畑さんが一週間に一度これを頼むんだ。だから僕もそうする。共通点は偶然「見つける」ものじゃない。自ら「作る」ものなんだ。そう堀澤は言っていた。シンプルなケチャップライスに薄い卵をかぶせただけのものだった。卵の表面にはケチャップが蛇行した道を描いていた。ステンレス製のスプーン。オムライスはアメフトのボールを縦に割ったような形態をしていた。左側の端の部分を刳り抜く。口に運んだ。味は堀澤の言うとおりだった。特別美味しいわけではない。オムライスを口に運びながら、高木は食堂でひかりの姿を探した。ひかりは食堂にはいなかった。今日も大学に来ていないのだろうか。
ガラスから見える空は律儀でいそいそしい晴天を広げていた。規則正しく奥行きを深めている。やや白みを含んだ透明に近い青色。渉っている雲は淡く柔らかい。風につらなり、鳥を手招きしているようだった。人間の心理を隠喩するもの。きっと自分の知らないところで誰かが喜びを感じているのだろうな。高木は空をひとしきり見つめた。しかしいつまでも心内のわだかまりは溶けなかった。強く空洞の底に沈んでいた。俺が堀澤を迎えにいく、という可能性について思考を巡らせてみる。はたして俺にできるだろうか? 正直なところ自信はない。ならば何をすればいいんだ? 堀澤が帰ってくるとは限らない。どうすればいい? 高木は自身に問う。空を背景にさすらう淡い雲。ようやくひかりと和解できた気がしたのに。復縁できた気がしたのに。やりきれないな。当然だけれど。
オムライスの輪郭はすでに半分ほど失っていた。いびつな形になっている。すこし滑稽さを滲ませていた。再びスプーンがライスを掬う。女性の声がしたのはその時だった。「あの……」
高木はオムライスを掬う動作をやめ、声がしたほうへと振り向いた。女性の胸部がある。徐々に上にへと首を傾けていく。知らない女性がいた。デニムジャケットを着ている。髪は黒く、長かった。顔立ちは瑞々しさを佩びていて美しい。すべてのパーツが整って完成されていて、そして完結していた。肌が白い。まるで――。まるで晴天の地に積もった雪みたいに。
まさか。まさか? と思った。呟いてしまっていたかもしれない。癖を洩らしてしまっていたかもしれない。「西畑、さん?」
はい、と彼女は肯いた。
パラレルワールドの静寂 8
僕は今どこを歩いているのだろう。僕がこの歩道を歩き始めて、何分ほど経過したのだろう? それすらも見当がつかない。歩き始めても一向に景色に変化は無い。だからまだあまり時間は経過していないのかもしれない。それでも長時間歩みを進めている気がする。一時間くらい。僕はまるで同じ風景を繰り返して繋ぎ合わせられたような景色の中を歩いていた。僕の前には西畑さんが着々と歩みを進めている。どこに向かっている? 先の先にある闇に向かってる。そして僕は本当にここが「歩道」と名づけてよいものか、と考えてみる。
自動車が一台通れるほどの幅をした道路がある。それを挟むように人間一人ほどが通れそうな幅の歩道があった。その道二つを隔てさせるのはガラス製の柵だった。僕はその歩道――あまりにも奇妙だが、僕はそう名状させてもらう――を歩いていた。その歩道のさらに隣にも僕の腰くらいの高さをしたガラス製の柵が挟んである。それよりも外は奈落が広がっている。その柵から身をのりだしてみる。奈落の底へと視線を落とす。光彩が散りばめられた夜景が限りなく広がっていた。空にはむかっているような姿勢の高層ビルの数々。無数の建物。それらはすべては夜に喰われている。支配された闇の中で弱々しくも存在を主張する光。まるで恐縮です。すみません。すみません、と謙虚に呟いているようだった。夜を謙譲している。それらの滑稽じみた光たちは無数に存在していた。どれもこれもが夜をへりくだっているような謙虚な光の粒だった。闇に吞まれ沈んだ街。敵わないと知りながら、それでも抗う体制をとる光の大群。まるでそれが一つの夜空のように。そう僕は想像した。本来の夜空の下には、偽りの夜空がある。下界のように。まるでこのパラレルワールドのように。僕はこの残虐な夜空に感想を述べる。それに平行して歩みを義務的に進めた。それでも景色は変貌を遂げないままでいる。
西畑さんはなぜかグレイのスーツを着ていた。その花を飾るものとして認定されたグレーのスーツは律儀なものだった。しわなどもちろん見当たらない。西畑さんの細い身体の曲線をそのグレーのスーツは明瞭になぞっている。西畑さんに代わって「合格」と僕が認定した。あのグレーのスーツのような人間に僕もなりたい。僕はそのグレーのスーツを尊敬した。律儀で清潔なスーツとは対称的に、足元を彩るのはプーマのテニスシューズだった。白い背景の中を紫色のトラックレーンがカーブを描いて刻まれていた。どこにでも目にするようなスニーカーだ。この状況から連想すれば、このテニスシューズの意味も納得できる。そして僕はそのテニスシューズを尊敬した。憧憬を抱いた。
「あの」と僕は恐縮しながら小さく声をあげた。西畑さんは歩みをやめる。はい。なんでしょう? とそして言った。いや、歩いたままでいいですよ、と僕はあわてて言った。西畑さんははあ、と肯いて歩みを再開した。僕も後を追う。「僕は今どこに向かっているのでしょう?」
「元の世界です」と西畑さんは歩きながら言った。「まだしばらく距離があります。休憩したかったら、いつでも声をかけてくださいね」
わかりました、と僕は言ってから再び夜景に視界を移した。夜景が見渡せるということは、ここは結構高い位置にあるんだな。そういえば先ほどから葉っぱ同士がさすりあう音がしているような気がする。冷えた風が夜をさすらう音も耳元を走っている。どうやらこの道は森の中に存在しているようだ。いわばこの奇妙な道路は、橋なのだ。しかし長いな。このガラス製の隔たりを跨いであの奈落に落ちていくとどれくらいの高さなのだろう? ふと僕は興味を抱いた。結構な距離だろうと思う。真下の夜景は飢えた猛獣のように僕の足元を覗いている。そんな気がした。僅かになびく風の音が、夜の笑い声にも思えた。ここはどこなんですか? と僕は西畑さんに訊ねた。元の世界へと繋がる道ですね、と西畑さんは言った。即答だった。これまでにも質問されてきたのだろう。僕みたいな人間が他にいるとしてだけれど。
しかしこの橋は奇妙なものだった。夜景の奈落と足場を隔てるガラスの柵は、手すりの部分が鮮明なピンク色の光を放っていた。趣味の悪い色だった。まっすぐ先だけを見据えていても、視界の左右からはその奇妙な光が入り込んでくる。わびしいイルミネーションのような光だった。右手の手すりから左手のてすりまでの間隔に闇を挟んで、二本のピンク色の光はまっすぐ伸びている。まだ確認できない終着点まで。その色を長々と視界に映していると頭がおかしくなってきそうだ。僕は足元に視線を落とす。足元は真暗な闇を広げていた。手すりが放つ光が届いていなかった。なので自分の足元を確認することはできなかった。自分のスニーカーは夜に隠れてしまっている。
それからも僕は歩みを続けた。やがて足が痒みを憶えはじめる。体力的な疲労が蓄積をしはじめたのだ。長い間歩いた気がする。景色は変わらない。一つの夜空となった夜景もデジャヴを繰り返している。西畑さんは疲れを感じさせない歩みを続けていた。体力があるのだな。あの、と僕は声をかけた。はい? 西畑さんは歩みを中断せずに返事をした。まだ着かないんですか? もうすぐです。すみません。長いですよね。疲れましたか? 西畑さんの声を聴くかぎり、彼女は疲れていない。いえ、別に。僕は嘘をつく。十分すぎるくらいにハードな道のりだ。息が上がりはじめている事実を僕は隠す。西畑さんの歩幅に合わせる。自分の口元から喘ぎが零れそうになる。
歩みを続けるたびに西畑さんのポニーテールは、静かな揺れを見せた。束ねられた髪が左右に揺れる。揺れるたびに白い首筋が覗く。その首筋は無防備さを装いながらも、まるで意図的な行為のように僕の心内を焦らしてきた。はあ、と僕はため息を洩らす。短い空白を作るように。彼女の髪が揺れる。僕は彼女の背中だけを限定していた視界に、夜空を加えた。散らばった粒子のような星が光を放つ。その輝きは彼女の身体を包んだ。その景色に僕は感嘆の息を上げた。あまりに彼女は美しすぎた。その姿はこの世界を背景にしてすでに完結を果たしていた。気がつけば僕は疲労を忘れ、ただただ歩き続けていた。彼女の足跡をたどっていた。彼女の輝きをあやかるように。無邪気に。無意識に。
夜の風の音。夜に喰われた街。夜に染まった景色。夜に歯向かう光。夜を引き摺って歩く彼女の背中。沈黙の中で揺れるポニーテール。僕は見蕩れる。必然的な行為のように。その圧倒的な夜の幻想風景に、僕は感嘆からもたらされるため息を、ゆっくりと虚空に洩らしたのだった。僕を残して完結してしまったその夜の世界は、彼女を美しく寂寥な闇の中にへと閉じ込めた。彼女は歩きを続ける。どこに向かっている? 彼女は僕を案内しているんじゃない。彼女は夜の静寂の中を迷っている。悲しみを抱えた夜の涙を拭うように。その世界の慈悲の欠片を抱擁するように。彼女の背中が離れていく。僕は焦りを憶えて声を出す。彼女の背中が闇に隠れるまえに。僕は訊ねる。「あなたは――」
「あなたは一体、誰なんですか?」
虚ろな独り言 8
高木はこの状況が理解できずにいた。振り向いたままの首はその体勢を維持して停止している。何度もまばたきをする。まばたきを繰り返す。一瞬の闇を迎えてすぐに再開する世界の中央には、やはり彼女の姿がいた。その事態が混乱をもたらす。西畑さんの登場に高木は困惑し、そして様々な思考が散らばった。小石を弾ませて跳ねた水みたいに。そして収集できずに焦りを額に滲ませる。ほとばしった思考を急いでたぐり寄せようとする。事態が把握しきれず、え、え? と洩れてしまう声を噤むことすらも不可能だった。あらゆる方向へと視線が泳ぐ。ガラス窓に隔てられ遠くに広がる空。食堂の白い壁。西畑さんの後ろの席で水を吞む茶髪の男。あの、という彼女の声を高木の耳は逃さない。その声のほうへと視線は走る。そして高木は彼女と視線が合った。
あの。西畑さんは不安そうな表情で高木に訊ねた。高木……さんですよね?
わずかに高木は冷静を取り戻す。攪拌した思想は元いた位置にへと踵を返していく。焦りが額から退いていき、なんとか西畑さんと視点を合わすことができた。なんと返答すればいいのだろうか。高木は言葉を即座に選ぶ。「そ、そうですけど」それだけだった。それしか浮かばなかった。水の中で息絶えたみたいに。水面から泡沫が浮かばなくなるみたいに。
西畑さんは高木の顔を覗き込んで訊ねる。前の席いいですか? 構いませんよ、と高木は言った。彼女は小さく礼を言って高木と向き合う椅子に腰をおろした。高木はオムライスを一口食べた。何度か噛んで吞みこむ。その作業が終了するのを彼女は黙って待っていた。すみません。高木は水を吞んでからスプーンの動きをやめた。彼女は構いませんよ、とかぶりを振った。そして高木の顔をみつめた。可憐な瞳の内部に高木の顔が描かれる。その瞳からでも自分が仄かに紅潮しているのがわかった。この状況のことを堀澤が知ったらどうなるだろう、と高木は思った。嫉妬って程度で終了するはずがないな。そう考えると思わず苦笑が洩れそうになった。そして俺はなぜ彼女に頬を赤らめているのだろうか、と疑問を抱いた。すでにわかっている。彼女がそれだけ美しかったのだ。堀澤が一目惚れするのも理解できる気がした。彼女は静寂な空から降る雪を迎える花のようだった。ところで。高木はこめかみを掻きながら小さく訊ねる。お、俺になんかようでしょうか? 自身の緊張がその口調から露骨に表れている。彼女は高木から視線を逸らす。いや、あの……。という声をこぼす。高木は首をかしげる。そこから続くとおもわれる言葉を待った。
「あの……。ほ、堀澤さんは大学に来ていないんですか?」
そのぎこちない口調に苦笑する前に、高木は思わず「は?」という声をこぼしてしまった。虚ろに。声が洩れる。悪い癖がでた。堀澤? その名を耳にして高木は驚く。なぜ西畑さんが堀澤の名前を出すのだ? その意味が高木にはわからなかった。立場が逆ではないか? 堀澤なら、最近大学に来てないんです。と高木は説明した。彼女は弱い声で「そうですか」とだけ述べた。でも、どうして? 高木はそう訊ねられずにはいられなかった。いえ……なんでもないです。彼女はそう返すだけで、質問の意図は曖昧なままの状態で隠した。言葉がつづくような気配はなかった。あきらめて高木はスプーンを手に取る。それからオムライスを食べた。
オムライスを食べながら高木は彼女をみた。彼女はなぜか席を立つことをしなかった。無機質で意思を携えていない視線は、食堂の白いテーブルの角に注がれていた。まだなにか訊きたいことがあるのだろうか。いや、訊きたいことがあるのは自分のほうだけれど。なぜ彼女は堀澤のことを訊ねてきたのだろう? そしてなぜ彼女は俺に声をかけたのだろう? なぜ黙っているのだろう? やがて疑問は渦を巻きはじめる。静かに回りはじめる。高木は混乱した。高木の思考と疑問は、まるで誰もいない夜の孤独なメリーゴーランドのようだった。。もうすこしで午後の講義が開始してしまう。急がなければ。高木はオムライスを口に運ぶ作業を急かした。それは辟易としてしまう自身の混乱を曖昧にしてしまおうという意思からでもあった。
それでは俺はそろそろ……、という高木の声で西畑さんははっとする。そして今まで自分はぼんやりとしていたことに気がつく。気がつけば高木はオムライスを平らげていた。白い皿の表面には主役を喪失した後の余白だけが残っている。そして高木は水を一気に喉に流し込んで、食べ終わった皿の上にそのコップを置いた。そしてそれを両手で持って立ちあがる。西畑さんはあ、はい。すみませんでした。と言って頭を下げた。いえいえ、と高木は言って微笑みを作った。作った、微笑みだった。作り笑い。
西畑さんは離れていく高木の背中をゆっくり見つめる。高木の背中からは屈託さを背負った憂鬱が孤独にたたずんでいるような気がした。深けた夜の足元を照らす一本の電灯みたいに。彼が一体どんな状況に囚われているのかは知らない。けれど彼女は高木に同情の感情を覚えていた。その哀れむ気持ちは視界に映るようだった。高木の背中はそのまま遠くの虚空へと消えていく。白い霧に包み隠されてそこに高木がいたという事実は消失する。そんな気がして。西畑さんは声を上げてしまっていたのだった。「あの!」
高木の歩みが滞る。振り向く。はい? と声がした。彼女の張り上げた声は彼の耳に届く。誇張した憂鬱の抽象的な空気の中で彼女の声は透き通る。
「……あの」高木が振り向いたことで二人は再び目が合う。西畑さんは声を口元まで持ち運ぶ。強く結んでいる唇のわずかな隙間を彼女の声は探していた。訊ねたいことはただ一つだった。やがて彼女は訊ねた。
「堀澤さんは、帰ってきますよね?」
その発言は、高木の心底で十分すぎるくらいに強く弾んだ。帰ってきますよね? 言葉が静かな密室で響いた音みたいに繰り返される。なぜ彼女がそんなことを訊ねるのかはわからない。西畑さんの黒い前髪が揺れる。静寂の中で花が揺れる。一体どういうことだ? 一瞬。高木は自分はいま夢をみているのではないか、と思った。けれどそんなはずはない。西畑さんの今の言葉の意図が摑めなかった。それは単なる質問なのかもしれないし、「パラレルワールド」に関する何かを示唆するものなのかもしれないのだ。仮にそうだったとして、なぜそんなことを彼女が訊ねるのだ? 西畑さんは堀澤と知り合いだったのか? いつ知りあった? 高木が知るかぎり、そんな風には思えなかった。じゃあなぜ? 高木は西畑さんを見る。西畑さんは高木の返答をじっと待っていた。その視線の先には高木の顔が映っている。高木は息苦しさを覚えずにはいられなかった。きりきりとした空気の中で高木は彼女を見つる。彼女は一体、何者なんだ?
その刹那。ふと、ある思想が脳裏を過ぎった。それは摩擦のような熱を残して消えていった。その一閃の想像に高木は自嘲気味な笑みがこぼれた。西畑さんはその笑みを見て不思議に思う。高木のそれはただの憶測にすぎない。その想像は真実ではない。あくまで高木の、「そうであってほしい」という希望だ。それにすぎない。
彼女は堀澤のストーキングに気づいている。そして彼女も密かに、堀澤のことを気にかけている。堀澤が彼女に一目惚れして、その瞬間から目で彼女を追うようになったみたいに。彼女も――。彼女も堀澤の姿を目で追っていたのではないか?
そう思うと高木は再び笑みが洩れそうになった。自分の勝手な解釈なだけなのに、そうとしか思えなくなったのだ。もしかするといま自分の前にいる彼女はパラレルワールドから訪れた西畑さんなのかもしれない。しかし、それを訊ねることはしなかった。どちらでも構わない。高木は苦笑を洩らす。やれやれ、と思った。堀澤は彼女を求めている。そして西畑さんも彼を求めている。自分の憶測だけれど。暫定的なものにすぎないけれど。高木はそれで納得してしまっていた。
「あいつは帰ってきますよ。絶対」
高木はそう言った。そして微笑んだ。今度は作っていない微笑みだった。素の感情がもたらしたものだ。その言葉を聞いて西畑さんも微笑む。そして肯いた。美しく揺れる束ねられた黒髪が、その空間の空気を美しく震わせた。彼女は静寂の中で肯く。空気中に豊富な色彩を配っていた。夜の空に寛大に浮かんだ月の光みたいに。
彼女は頭を下げる。ありがとうございます、と礼を言う。そして食堂をでていった。午後の講義に向かったのかもしれないし、パラレルワールドに帰ったのかもしれない。どちらでも構わない。彼女が堀澤を求めていることに変わりはないのだ。自分の憶測だけで断定するのはどうかと思うけれど。
なあ、堀澤。と高木は脳裏で呟く。お前が失くしてしまったものなんて、どこにもねえじゃねえか。なに自分自身もよく知らねえ場所いってんだよ。自分探しの旅みたいなことしてんだよ。お前は世界に置いていかれたわけじゃない。世界はお前に希望を残している。希望を散りばめている。夜空を飾る星みたいにな。だからよ、帰ってこいよ。違うな。俺が迎えに行ってやるよ。だからよ、そこで待ってろ。
「そこで待ってろ」
高木は笑みを洩らす。作ったものではない。本物だ。高木の意思をあらわす真実のものだ。それから今の呟きが口元から洩れてしまっていないか確認する。洩れちまっていてもいいか。構わない、と高木は思った。
パラレルワールドの静寂 9
いくぶん僕は歩いたと思う。同じ道を。変化すら窺わせない無機質な景色を繰り返して。彼女の歩幅を辿って僕は地面を這う闇を踏みつけ続けた。紫色の蛍光色が宿った手すりを撫でる。繰り返される景色。闇を飾る光は延々と流れている。僕は視界の先にいる彼女に見蕩れていた。僕は彼女に惚れ惚れとしたまま、彼女の揺れる髪をひたすら見据えていた。夜の風をあやかって揺れる彼女の髪を見つめていると、自然と僕の足は歩みを続けた。そこに疲労を覚える感覚は無い。すでに僕の身体から疲弊は消滅してしまっていた。
彼女の正体を僕はまだ知らない。「迷子の案内人」という概念すらも僕の脳には備えていなかった。根本的なことから僕は知らないのだ。そして僕は彼女に訊ねたのだった。彼女は僕の顔を一瞥する。ただの迷子ですよ。彼女はそう述べた。僕はその発言の意味がよくわからなかった。しかし問い返すことを僕はしなかった。言及してよいものか、それを判断する力を僕は携えていなかったのだ。
夜の寂寥さを身にまとった彼女は着々と歩みを進めていた。僕もそんな彼女の後を追うだけだった。疲れは感じない。まるで僕そのものが夜の風になったみたいに。僕の中から疲れという概念は失せている。朝に浮かんでいた雲みたいに。今となっては消えている。やがて彼女の歩みが中断する。まるで歩みを進めることに躊躇を覚えたみたいに。彼女が引き摺っていた夜の流れが滞る。淀んだ夜の冷気と共に僕も歩みを停止した。どうしたんですか? 僕は彼女の背中越しに訊ねる。「ようやく見えてきました」と彼女は言った。僕は顔を出して訊ねた。それってどういう――。
僕は彼女の見つめる先に目をやる。夜に見守られながら続く長い歩道の先に、怪奇な緑色の光が見えた。その光は刹那にきらめく閃光のように鮮明に輝きを放っている。深く明るい緑色の光。僕はその正体を探った。わからかった。なんですかあれ? と、僕は訊ねた。トンネルです。西畑さんはそう言った。あれが見えてきたということはもうすぐ到着しますよ。そうですか。と僕は言って息を吐いた。その吐息を合図に僕の中で忘れていた疲れが目を醒ました。麻酔が切れたみたいに、僕の体に疲れが落ちてきたのだ。忘れていた疲労が肩を遅い、足を襲った。壁を一層厚くしたみたいに疲労が自身の身に乗っかった。西畑さんはそんな僕の状態を察したのか、休憩を取りますか? と確認をしてきた。確かに疲れる道のりでしょう。僕はいえ、とかぶりを振った。大丈夫です。もう少しなんだし、頑張ります。強く撓まれた直後のように感覚のない僕の足を動かそうと試みる。まだ歩けるさ。僕は若いんだ。それに――ひかりが僕を待っている。本当ですか? と西畑さんは訊ねる。ええ、と僕は言った。いきましょう。はい。彼女は視線をくるりと踵を返してその緑色の奇妙なトンネルのほうにへと歩みを再開した。僕も急いで歩みを始めた。夜は闇を深める営みに耽っている。夜の深みはさらに進行していく。
「堀澤さん」歩みを続けながら西畑さんが僕の名を呼んだ。
はい? と僕は返した。疲れをなるべく悟らせないように注意する。息が上がり始めていた。
「先ほどあなたは私に「あなたは誰なんですか?」と訊ねましたよね」
ま、まあ。と言って僕は肯いた。今更なんだろう?
「私はただの迷子ですよ」彼女はそう言った。それは先ほど聞きましたよ。僕は言った。
やがてその奇妙なトンネルの中にへと足を踏み入れる。踏んでいた夜の絨毯は一瞬にして深緑にへと変貌を遂げる。トンネルはコンクリートで作られた象徴的なものだが、何よりも先に強い印象を刻ませるのは天井に並んだ無数のランプだった。そのランプが放っている光が、この奇妙な緑色の光の正体だった。それはまるでメロンソーダの中にでもいるみたいだった。僕の前で世界は鮮明な緑色に支配されていた。多分緑茶の中を泳いだとしても、これほどの緑ではないだろうと思う。それは完全な緑の色合いだった。それ以上の色彩はこの世界からは除外されていた。僕の視界がその不思議な光に包まれる。瞼を閉じると脳がその色に染まる。その色から連想してしまうのはやはりメロンソーダだった。僕は内部で氷を踊らせながら炭酸泡を上昇させているグラスに注がれたメロンソーダを想像した。それから僕は目を開けて、このトンネルの中に浮かぶ氷を探した。もちろんそんなものは無かった。それでも僕は今メロンソーダの中を歩いている気がした。トンネルの表面は冷たい水滴が覆われていることだろう。
それからしばらく歩みを続ける。奇妙な色に染まったトンネルの中は世界から孤立していた。そして孤立したその空間はその中で、また新たな世界を完成させていた。しばらく歩みを続けているとこのトンネルの中は世界の一部の屍のような気がした。僕は世界の一部の屍の中をさすらっているのだ。その屍の光の中で僕は黒く長い影を足元に引き摺りながら歩いている。
「迷子の案内人」というのは、迷子の方を元いた居場所に帰すという役目です。それはわかりますか? と彼女は僕に訊いた。確認をとるように。まあ、と僕は曖昧に肯いた。それはなんとなくですが、わかります。それを聞いて彼女は肯く。どんな表情をしているかはわからないけれど。それなら簡単な事です。と彼女は言った。
「私は――いえ、私「たち」は、案内する役目でありながら同時に「迷子」なのです。それはもう二度と正解を見つけることのできない「永遠の迷子」です。私たちはまだそこに「希望」の可能性がある迷子を手助けするだけなのです。私たち――「迷子の案内人」という概念は、希望が廃れてしまって「完結した」迷子なのです」
ひとしきり話し終えると西畑さんはスーツの袖で目元を隠した。まるで涙を拭うみたいに。上品なグレーのスーツで。彼女がどんな表情をしているのか、僕は確認できない。それでも言えることは、彼女の話したことを僕は毛頭と理解できていないということだった。
そんなの、わかりませんよ。と僕は彼女の後ろから言った。「永遠の迷子」というのが何か想像もできませんし、まるで見当もつきません。それは僕の理解力が乏しいだけかもしれないだけかもしれませんけれど。僕はやはりわかりません。すみません。
「それでいいんですよ」と彼女は言った。「理解できるほうがおかしいですよ」
僕は肯く。彼女はゆっくりと歩みをとめた。それに倣って僕も歩みをやめた。西畑さんが振り向く。深緑な光を覆っている彼女の肌。それでも目元を赤く腫らしていることがわかった。なぜ涙を流しているのか、僕にはわからない。彼女の話を僕は理解できていないからだ。否定もできなければ、肯定も僕はできなかった。
「もうすこし早く、あなたと出会っていればよかったです」と彼女はいささか震えを佩びた声調で言った。
その言葉に僕は思わず頬を赤らめる。そんな僕をみて彼女は優しく微笑んだ。世界の一部の屍にわずかな生気が蘇った気がした。意味がわかりませんよ、と僕は言った。彼女から目を逸らしてしまう。もっと僕は彼女を見つめていたいのに。
ふふ、と彼女は静かに笑う。「女性を後悔させることが上手ですね。堀澤さんは」そう言って、また笑った。
私がもしあの時「迷っていなければ」、今頃私は堀澤さんと同じ大学生の生活を送っていたとおもいます。つまりあなたの知る――あなたが一目惚れした――「西畑さん」と同じだったと思います。ですが私は道を踏み外してしまいました。この世界に辟易としてしまっていたのです。あなたのせいですよ? そう言って西畑さんは微笑む。僕のせいなんですか。すみません、と僕は謝る。するとふふ、と彼女は優しく静かに笑って「冗談ですよ」とまた微笑んだ。
「僕の方はいささか西畑さんの話している事とはズレているかもしれませんが……」と僕は言った。「僕も、あなたともう少し早くに会っていたかったです」
「まったくですよ」彼女は言った。「あなたともうすこし早く出会っていれば、今頃このようにはなっていません」と彼女は言った。「「迷子の案内人」なんて、なっていませんよ」
彼女も昔は、僕とおなじ通常の人生を過ごしていたのだ。そんな彼女がなにを経て「迷子の案内人」へとなったのか。僕にはわからない。なぜ、あなたは「迷子の案内人」になったんですか。僕は訊ねた。
「あなたと同じですよ」と西畑さんは言った。
僕と同じ?
そう、と彼女は肯く。「あなたと同じ」
「私も、あなたのようにパラレルワールドに迷い込んでしまったんですよ。そしてあなたと同じように「迷子の案内人」さんに案内されたんですが、帰れなかったんです」
帰れなかった? 僕はその部分を繰り返した。その言葉を反芻した。帰れなかった? やがてメロンソーダのような世界の屍から、僕らは抜け出す。再び深い夜が僕らの前に訪れた。
虹色の傘とレインコート(虚ろな独り言9)
瞼を閉じると必然的な闇が少年を迎えた。その闇はまだ十三歳という年齢の時代を過ごす少年を眠りの森にへと誘っていった。少年はたどたどしい歩みで階段を上がる。そしてやがて訪れる「何か」をじっと待った。少年はじっと待つのだった。
少年はコンクリートでできた階段の最上階まで上る。そしてその場に立っていた。その場に立って、やがて訪れる「何か」を待った。少年のさらに前には足場は無い。細いワイヤーを上空で走らせて、それを挟むように薄暗い森が広がっていた。少年は階段の最上階から、今自分が歩いてきた道のりを見下ろしてみた。極端に傾いた道。階段を歩いてきたのだからそれは当然だが、その坂は延々と続いていて奇妙な感覚を覚えた。ワイヤーはどうやら遠くの暗闇から伸びているようだった。その暗闇の正体は洞窟だった。少年がじっと登場を待っている「何か」とは、どうやらあの洞窟から上ってくるようだった。斜めに昇っているワイヤー。斜めに傾いている道。暗闇を抱えた森。少年を境に途切れた階段。少年の前髪から水がしたたる。それが雨だと気づくのは簡単なことだった。少年はいつからかレインコートを羽織っていたのだ。ビニール素材の赤いレインコート。こんなものいつから着ていたんだろう、と少年は疑問を覚えた。疑問を覚えると同時に、今自分はリュックサックを担いでることにも気がつく。背中に妙な重さを感じたのだ。赤いレインコートを一度脱いで、少年は担いでいたリュックを肩から外した。茶色い布生地の使い勝手のよさそうなリュックサックだった。見覚えはない。中身を確認してみる。リュックの大きさと比較して、あまり物は入っていなかった。少年はとりあえずその中の荷物を全部取り出す。
雨がガラス窓を叩く音がする。どうやら雨が降っている。少年の前髪が濡れる。少年の手が濡れる。少年の七分丈のパンツも雨を含んで、一部が暗く滲んでいる。赤いレインコートも雨をしたたらせていた。リュックの中身は、以下のとおりだった。黒い懐中電灯。マッチ棒が詰め込まれた箱。レインコートを片付けるために使用されると思われる袋。折りたたみナイフ。そして小さいラジオ。以上。それだけだった。あとはなにも無い。少年は懐中電灯を手にとって、一度スイッチを入れてみた。ライトは薄暗い森の中を一直線に駆けた。しかしあまりに森の中の夜は更けていて、この光だけでは役に立たなかった。少年は懐中電灯を片付ける。マッチを一本取り出す。箱にこすって火を点けてみる。火がマッチの頭に灯り、徐々にそのマッチ棒の姿を削っていった。少年は火を消す。マッチ箱を片付ける。折りたたみナイフを片付ける。袋を片付ける。少年は洞窟を抜けてやってくる「何か」の登場まで、ラジオを聴いていることにした。ラジオのアンテナを立てる。電源をつけた。荒い雑音が静寂の暗闇のなかで響いた。少年は驚いてボリュームを下げる。周波数を合わせようとするが、どこからも電波を拾うことはなかった。やがて少年は諦めてラジオを片付ける。リュックを改めて担ぐ。そして赤いレインコートを羽織った。
階段の段差に腰をおろして遠くの洞窟を見据えていると、やがて孤独な光が見えた。少年は立ち上がる。洞窟から光がこぼれている。その光が拡大していくに従って、ワイヤーが冷えた空気を裂く音をさせて動く。洞窟の暗闇からケーブルカーらしき乗り物の姿が現れた。しゅっしゅっとという鋭く空気を裂く音響はその場にたなびく。ケーブルカーはワイヤーに引き摺られながら少年のほうへと昇ってくる。やがてケーブルカーは少年の前で停止する。扉が開く。少年は中に足を踏み入れた。
車内はやはり静黙をたたずませていた。乗客など誰もいない。少年は肩をずり落ちそうになるいささか大きいリュックを安定させてから、適当な席に坐った。雨が垂れているガラス窓から先ほど自分が立っていた位置をみてみる。主役を失くしてしまったその階段は夜のなかに沁み込んでいった。誰か立っているんじゃないか、という心霊的な恐怖を少年は連想してしまう。すぐにケーブルカーの天井に視界を移した。孤独な灯りをぶらさげていた。ランプだった。ケーブルカーは動き出す。ランプが暫定的な物事のように激しく揺れる。少年の視界が頼りにしている唯一の光は不安定になる。少年の肩も大きく揺れた。
ワイヤーに引っ張られながら上昇していくケーブルカーは実にたどたどしい動作だった。今にワイヤーが切れてしまうんじゃないか、と不安になってしまうほどだ。ガラスの板を雨が走る。それを追うように新たな雨粒の屍がながれる。見える景色は暗闇を包んだ奇妙な森だけだった。少年はそれを虚ろに見る。来たこともなければ、見たこともない景色だ。知らない場所だ。それなのに自然と恐怖はなかった。心霊的な恐怖を別にすればだけれど。それでも知らない場所にいる恐怖、というのは感じなかった。車内の静穏に身を浸して少年は瞼を閉じる。どこに向かっているのかもわからないのに、少年の心内には綽々とした余裕があった。なんとなく今自分は、夢を見ている。そんな気がしたからだった。
やがて窓から見えていた森の景色が、完全な暗闇にへと変わる。蛍光灯のようなものがその暗闇には貼りついていた。虫が好みそうな蒼白い光を放っている。どうやら少年を連れたケーブルカーは洞窟の中に忍んだようだった。洞窟の壁は湿っている。結露に覆われていた。苔もところどころで発見した。そして差し込む光もなく、それを知らせる予兆もなく、ケーブルカーは洞窟を抜ける。また景色は夜の森。その森がやがてコンクリートの階段にへと変わる。そしてケーブルカーは停止した。扉が開いて、少年はそこを降りるのだった。
階段は先ほど少年がいた場所と同じだ構成だった。けれどそこは先ほどとは違う場所だった。妙に階段の距離が短かったのだ。少年は階段を下りる。立派な鉄の扉があった。奇妙な空気はその扉を前にきりきりとしている。そして分厚く重い扉を少年は押した。扉が開く。そこに繋がっているのは――森の外だった。はたして本当にここが森の外なのかはわからない。だけれど一定の間隔をあけて並んだ提灯が遠くから見えた。神社などの場所を連想してしまう石の階段。そこに少年は立っていた。並ぶ提灯の奥には森の木たちが並んでいる。さらにその木の置くから覗ける景色は光が散らばっている外の夜景だった。
なんだよここ。少年は思わず声を洩らした。思わず呟いてしまったのだ。その独り言は夜の中ではかなく消えていく。少年は今たっている段差から下を見下ろす。階段は延々と続いていた。どこまでも続いているような気がする。その中で人気がかすかにある。しかしその人間たちはどれも歪んで不自然な輪郭をしていた。少年の視界が歪んでいるのか、この夜が歪んでいるのかはわからない。やがて少年は、歪んでいるものが人間だけではないことに気がついた。並んでいる提灯の灯り。階段の足場。どこからかする川の流れる音。森の葉が夜をさすらう音。葉同士が摩りあう音。どれもこれもが少年の中で歪さを佩びていた。すべてが致命的に輪郭を失ってしまっているのだ。少年は注意深く段差を一段降りる。ここはどこか、少年は曖昧なままでいる。不思議な世界に迷い込んでしまった。これは夢なのか。夢の中の出来事だと信じたい。ようやく少年の中で恐怖心が芽生えるのだった。少年は不思議な世界がもたらす混沌に襲われてもだえた。人たちが歪んでいる。提灯の茜色の光が一つの道を描くように流れている。蛇のようにぐんにゃりと歪んでいる。少年は歩みを続けようとした。もう一段足をおろす。川の流れる音がそこはかとなくする。どこかで川が流れている。
レインコートを濡らしていた雨がすでに乾いていることに少年は気づく。それだけでない。前髪も、手も、足も、靴も、ズボンも、どこにも水を含んでいないことに気がつく。すでに乾いている。濡れた髪が額に張りつく感触もない。少年の身体がすこし軽くなっていることに気がつく。少年はいつからか、リュックを担いでいなかった。見覚えのない赤色のレインコートを羽織っているだけだった。
大丈夫よ。迷子君。
女性の声がした。曖昧な夜の中で、その声は透き通っていた。その声はまるで世界のすべてを把握した覇者のような寛大なものだった。少年はその声がしたほうへと振りむいた。その瞬間に夜が世界のほこりを掃うように風を吹かせた。レインコートのフードが夜の風になびく。冷めたまま乾いた夜は、少年の前で手を振った。宙で豪快に踊りをみせる前髪が視界を所々さえぎった。髪が伸びたことに少年は気がつく。そして自分の視界の先で、鮮やかな虹の色彩が覗いた気がした。あらゆる色彩の集いが少年のまえで明瞭につらなっている。少年は自身の前髪を指でわけて、その虹の正体を探った。赤いレインコートがさすれて乾いた音がした。
その様々な色を備えたそれは、傘の柄のようだった。その傘はこの世界で唯一の明晰さを携えていた。まるでその傘を主役に世界は地味な背景にへと化したようだ。少年は目を見張る。その傘を持つ女性の姿を自身の視界に描く。灰色のパーカーには模様もなにもない。黒いスリムパンツは身軽そうで。白いスニーカーは使い古されて所々に汚れを作っていた。その衣類は夜の背景に馴染み、彼女のもつ傘だけがそぐわなかった。あなたは――。少年は彼女に訊ねようとする。その途端。少年の唇は彼女の細く白い人差し指で封じられた。少年は驚いて唇を結ぶ。彼女は小さく微笑んだ。そして二度ほど首を横に振った。
私が一体誰なのか。それをあなたが知ることはないわ。あなたが私の正体を知って、それでどうなるというの? なにもならないわ。知らなきゃいけないことなんてないの。あなたは私に「案内」されるだけでいいの。唯一言うと、私のことは、「世界」と呼びなさい。いい? 世界さんよ。それは比喩であって、比喩ではない。まあ詳しくは言わないけれど。わかった? それじゃ確認。私の名前は?
世界さん。と少年は唾を飲み込んでからその名を言った。そして肯いた。それでいいの。彼女は微笑んだ。さて、帰りましょう。ついてきて。少年は肯いた。そして彼女の背中を追った。
階段を下りながら突然世界さんは口を開いた。あなたとよく似た年の女の子がいるのよ。もちろん、あなたとは関係ないわよ? 愚痴っぽくなるけれど、あの子はもうだめね。私と「おんなじ」になるわ。断定できる。百パーセント。
それが誰だかも、そして世界さんがなにを話しているのかも少年にはわからなかった。ただただ少年はこの混沌と夜に覆われた景色を歩き続けていた。もう一度夜は手を振る。風が少年の頬をなぞる。少年はいま自分がどこに向かっているのか、わからないまま彼女の後を追っている。
大丈夫よ。彼女はそんな少年の心情を察したのか、そう言った。必ずあなたは元いた居場所に帰れる。そして彼女は少年のほうへと振り向いて言った。
「あなたが目を覚ましたとき。この世界での経験は夢という概念に変貌している。あなたはすべて忘れる。残るのはその「夢」がもたらす不思議な余韻だけ」
目を覚ます。高木は、目を覚ます。
パラレルワールドの静寂 10
それは私が十三歳のころだったことを、今でも覚えています。と、西畑さんは話し出した。僕は興味深いその話に耳を澄した。「当時私は巨大な喪失感と虚無感を抱えて生きていました。あなた――堀澤さんと同じように。まるで私は自分の身体の一部にぽっかりと空洞ができてしまったようでした。その空洞はなにで塞ごうとしても無意味で、空白ばかりが私の中で広がっていきました。その空洞がもたらす劣等感は日に日に強くなっていって、そして私はあなたと同じようにパラレルワールドに迷い込んでしまったのです。そこは本当に私が失くしてしまったもの全てだ修正されてありました。私の前から消失していったもの全てが、その世界には当然のように実在していて、さらに全てが私の望む形でありました。たとえそれが偽者であったとしても、私の身体に空いてしまった空洞を埋めていく事は余裕で可能でした。やがて私は身体に空いた空洞がすべて埋まったあとでも、喪失感や虚無感が薄らいでいったあとでも、その世界から離れようとはしませんでした。そこもあなたと同じですよね、堀澤さん。ねえ堀澤さん。私とあなたって似ていると思うんですよ。人生の歩み方も、「好きな異性のタイプも」」そう言って彼女は笑みを洩らした。僕は引き攣った笑みを作って、熱を佩びていく頬を隠した。無意味な行為だということは承知しているけれど。わかりやすいですね。と西畑さんは意地悪そうに微笑んだ。静かな微笑みは衰えをみせることなく、その美しさを恒常させている。その微笑みは僕の心情に落ち着きとゆとりを賦与した。暖かいな。そう感じた。
僕は彼女の話の続きを待った。西畑さんは僕の顔をみて肯いた。話を再開しますね。そして彼女は話を続けた。
そんな私をまずく感じたのか、「迷子の案内人」さんは私に毎日のように説得をしてきました。あなたは世界に捨てられたわけじゃない、だとかまだあなたには希望がある、とか。そんなことを毎日夜になると聞かされました。昔から歯向かったり、抵抗などをするようなタイプじゃない私は黙ってその話に肯くだけでした。それでもその世界を離れようという意識はありませんでした。芽生えることもありませんでした。「迷子の案内人」さんが諦めるのを待ちました。それでも彼女は私に説得をやめませんでした。彼女が一体誰だったのか、今でも私はよくわかりません。ですが覚えていることは幾つもあります。まず、虹色のカラフルな傘を持っていました。そして自らを「世界」と名乗っていました。今思うと彼女は真剣に私を救おうとしていたのだと思います。ですが私は「そうですね」と肯くだけで元の世界に帰ることはしませんでした。
そんな日々の中で、私は徐々に新たな欲を覚え始めていました。自分の望んだものがある世界がある、ということを知ってしまった私はすぐに「新たな世界に行きたいの」と彼女に乞うことをしていました。そんなことは絶対ダメ、と彼女は頑なにかぶりを振っていました。なぜ? と私が訊いても理由は教えてくれませんでした。それがさらに腹立って、私はしつこく頼みました。人間の欲ほど恐ろしいものはありませんよ。それらを繰り返して、気づくと私はそのパラレルワールドに一年ほど滞在していました。それなのに私は帰るつもりはありませんでした。さらに自分の望む世界に行きたい、という欲だけが誇張されていきました。なのにあの人が拒否するばかりだったから、つい私は苛立ちを感じていました。そして気づくと、そのパラレルワールドの世界でも、自分が徐々に大事なものを失くしてしまっていました。もはやその世界は私にとっていらないものでした。今思うと、私はとてもあくどい思考を携えていたと思います。そんな私に虹色の傘を持った彼女はようやく、その謎を教えてくれました。人間が二度目のパラレルワールドにいくと、その者は自身の身から「大儀的な何か」を失くしてしまい、「迷子の案内人」にへとなる。そう教えてくれました。それを聞いて私は元の世界に戻ることを決意しました。その「迷子の案内人」というのが何かは詳しくわかりませんでしたが、元の世界に帰るしか選択肢はないようでした。そして今私があなたと歩いているこの道を通って、私は元いた世界にへと帰ろうとしました。
ですが。彼女はそこでその言葉を挿んだ。ですが、というその言葉は若干強調されているような気がした。
私の中から醜い欲望が消えることはありませんでした。その欲が私の思考を邪魔して、私は元いた世界に戻ることができずに、また違うパラレルワールドに行ってしまいました。気がつくと私は自身の中から今まで自分という存在を完成させていた重要な役割の部分を失くしてしまっていました。もう一度、私の身体に空洞ができた、と表現してもいいでしょう。知らぬ間に私は片手で傘を握っていました。その世界は雨が降っていました。
ひとしきり聞き終えたあとで、僕は一度肯いた。彼女が話した以下のことに、僕は思想を巡らせた。「迷子の案内人」という意味。西畑さんの過去。西畑さんが失くした「大事なもの」は僕にはわからない。僕はそれを知ろうとはしない。私とあなたって似ていると思うんですよ。彼女は僕にそう言った。それにはどういう意味が示唆されていて、どういう意図がほのめかされているのか。僕はそれもわからない。様々な思想が浮かんだ。演繹的に生まれていくそれらの思考は僕を案の定混乱させた。彼女に目をやると、彼女が一体誰なのかわからなくなってしまうような気がするほどに。奇妙な緑色のトンネルを抜けたあとに待っていた足場は、ぬかるみが滲んだ獣道だった。そのぬかるんだ道から景色を見渡してみる。白銀な霧があたりを包んでいた。その鋭くたなびいた霧に姿を晦ましている木々。それは素朴な杉林だった。一歩足を進めるたびに耳障りな音が僕の頭上を弾んだ。次から次へと新たな音が生まれる。ぬちゃ、という汚れた音。それに伴う感触。僕は苦い表情をしていただろうと思う。そのぬかるみを踏むことでもたらされる音に不快感を覚えていたのだ。「大丈夫ですか?」と彼女は訊ねた。「歩きづらいですよね」まったくだ、と僕は自嘲気味な苦笑を浮かべながら返した。そこにはうんざりとしてしまった僕の嘆きの意義も隠されていた。彼女の白いテニスシューズの底が泥に覆われている。それは僕のスニーカーも同じだった。しばらく歩き続けていると、鮮明で健康的な色の葉に覆われた門のようなものが見えた。それは新鮮な緑みをたたえて、葉の表面はすこし水滴が張っていた。それを西畑さんは躊躇なくくぐる。僕も後を追った。その暫定的な区切りのような門らしきものを抜けたあとも、獣道は変貌することなくつらなっていた。足底を襲うぬかるみもそのままだ。西畑さんは自分の靴底の泥など気にもせず、ぺちゃぺちゃと音を鳴らしながら先へと進んでいった。慣れているな、と思った。素直に僕は彼女の背中をみて関心した。僕は犬の糞でも踏んだみたいな様でいるのに。彼女の落ち着きがたゆたうことはない。神妙な歩みで夜のぬかるみを抜けていく。靴底にこびりつく泥が重みとなって僕の足取りを不安定にする。
あとどれくらいかかりますかね? 僕は訊ねる。もう間もなくですよ。西畑さんは言った。柔らかい泥を踏む音。疲弊から洩れている僕の喘ぎ。空気に息を吐く音。足取りを苛むその道を挟むように杉の木たちが不規則に並んでいる。そのか細い木の輪郭を曖昧にする白い霧。まるでたばこの吸殻から立ち昇る僅かな煙のようだ。冷えた夜の吐息のようにも思える。気温はいささか肌寒いくらいだった。僕はナイロンパーカーのチャックをすこし上げた。彼女を着飾るグレーのスーツを僕は見る。それをただ見つめる。彼女の足取りに反応して笑うようにスーツは様々なしわを作っては消える。新しい歪みを作って、また消える。一秒のうちにあらゆる表情をそのグレーのスーツは僕に披露していた。僕はそれを見つめている。ただ、それを見つめてた。
杉林の内部は冷ややかに湿っていて、うっすらと結露を覆っている。夜の暗闇はたしかに頭上にほどこされているのに、ぬかるみの陸に近づくにつれて景色は銀色の曖昧な霧にへと変化していった。それらに演出された不気味な杉林は僕や西畑さんを歓迎しているようには思えなかった。にべない杉林の霧をくぐるように僕は歩みを進めた。
やがて視界を遮る杉の木たちの遠く先から、青い光が差した気がした。白く霞んだ煙をすり抜けて夜を射ている。孤独に。なんだあれは。その青い光に近づいていくにつれて詳細が明白になっていく。どうやらあの青い明りは建物から放たれているもので、その建物の外壁を青く照らしていた。先ほどのトンネルみたいに。人工的な灯りだ。それを西畑さんも見る。そして吐息を洩らした。ようやくです。そう言った。先ほどからその言葉は何度も耳にしているから、あまり信用できない。辺りをさすらう夜の冷えた吸殻の煙はゆっくりと晴れていく。視界が少しずつ、確実な光を手にしていく。雨雲が分離して隙間から青空がのぞくみたいに。ようやく僕と西畑さんは杉林を抜け出すことができた。
杉林から脱してから初めに足をつけた地は、コンクリートだった。その硬く冷たい地面に僕は靴底の泥をなすりつける。西畑さんも何度かなすりつけていた。さすがに足取りにも重みを覚えたんだろう。そのコンクリートの地面は円状を形成しており、まるで何かの広場のようだった。その広場を一周見渡す。どこにも出口はない。暗闇を懐に及ばせた狡猾な杉林に囲まれていた。杉林の中央にこの空間はあるのだ。広場の中心にはシンボルのように噴水があった。噴水からは夜の水が流れている。その噴水から湧いている水を僕は手で掬う。指の隙間からこぼれていく夜の水は冷静な動作で踵を返していった。僕は濡れた手の平をそのままにした。夜の虚空に濡れた僕の手の平はぶら下がっていた。
あそこが終着点です。そう言って西畑さんは僕から西側の方向を指差した。西畑さんの人差し指は夜の余白を射ていた。その孤立した指が指す方向に沿って僕も視線をやる。先ほど視野に差し込んだ青い光がある。そしてその色に染まった建物がたたずんでいた。それはまるで西畑さんの人差し指のように孤立していた。
その不気味な建物の背景を飾るのは暗闇を抱えた杉林だ。あそこにいくんですか? と僕は思わず彼女に訊ねた。そうですよ。西畑さんは神妙な顔で返答する。あまり近寄りたくないなと思った。僕は濡れたままの手の平でがしがしと頭を掻いた。そして掻いた髪をそのままにした。寝癖のようになっている。構わないさ。僕は鈍さを増していく足をせり上げて、歩みをはじめた。
建物の中に入ると同時に視界が捉えるものは螺旋階段だった。そして次に捉えるものは無かった。その螺旋階段だけがこの空間をは埋めていたのだ。僕は空間の中央にたって、天井を見上げた。階段の螺旋に囲まれて天井まで連なる空洞はまるで空気の通り穴のようだ。上りますよ、という西畑さんの声がした。僕は返事をして西畑さんの後に続いた。円を描きながら上がる階段。西畑さんは軽快な歩みを保ったまま階段を上がっていた。この空間の壁に沿って。
階段を上りながら僕はあちらの世界で僕を待つひかりのことを思った。ひかりと眺めたあの蒼い月を僕は脳裏に鮮明に呼び起こす。その景色を僕は明晰に描写することができた。蒼い月はひかりの頬に幻の火を灯し、僕の心情を蒼く彩る。彼女の栗色の髪は僕の肌をくすぐり、僕の蒼く光を佩びた右手はひかりの細い左手と重なった。ひかりを傍で感じながら僕らは約束をするのだった。僕は帰らなければいけない。僕を置き去りにした世界は希望を散りばめながら去った。その散りばめられた欠片を僕は広い集めて世界のあとを追わなければいけない。高木は僕を探していることだろうと思う。突如として失踪した僕を。僕はまず彼らに謝罪をしなければならないな。そして以前の三人のように僕らはやりなおすのだ。ひかりも高木も、そう望んでいると思う。僕は「あの事件」以来、強い喪失感がもたらす空白の中をさすらっていた。高木はそんな僕を心配して一緒にいてくれたが、彼も僕と同じだったと思う。高木も逃げたかったはずだ。僕みたいに。この虚ろな空白の間で僕らはいろいろなことに気づく。僕らはそれぞれに傷を負った。僕らは孤独となった。そして所々僕らは欠けていった。泡になっていく石鹸みたいに。その欠けた箇所を僕らは隠すように指で塞いだ。それでも隠しきれない空白が僕らを取り囲んだ。それに気づいた頃には僕は知らない世界にいたのだ。
僕はとっくに乾いている手で階段の手すりを撫でた。優しく撫でた。僕と西畑さんが階段を上る足音だけが響いていた。それ以上の音を世界は失っていた。静黙な空気の煙だけが充ちている。おびただしいほどに無慈悲な煙だった。
西畑さん――彼女のことを僕は考える。僕が求める西畑さんは大学生で、ここにはいない。僕の知る西畑さんは「迷子の案内人」で、僕の視界の前にいる。それはとても不思議なことだった。彼女は元の世界に帰ることができなかった。そして西畑さんという存在を確信させていた重要な「何か」を損なった。これからも彼女は孤独なままで迷子たちを案内し続けるのだろう。僕にしたみたいに。僕が世界に帰って再び日常を歩んだとしても、彼女はその時も迷子たちを案内するのだろう。自分自身が迷子のままで。中途半端で定まらないまま、静かな混沌と共に彷徨い続けるのだろう。
到着しました。西畑さんは歩みを止めると同時にそう言った。僕も歩みを停止する。僕の前には新たな段差がなかった。僕は西畑さんの隣にへと肩を並べて立つ。視界の前には巨大な扉があった。「この扉を開けば別の世界に繋がっています」
この扉が……ですか。僕は扉を見つめながら息を吞んだ。西畑さんは肯く。はい、と簡潔に言った。
僕が扉を開けると、「この世界」に僕がいたという事実は無くなる。この世界のひかりや高木は僕の存在を忘れ、そして本来この世界にいるはずの「僕」と今までどおりの日常を送る。そう考えるとすこし寂しくも思ってしまう。すべてがリセットされる。僕は「迷子の案内人」の西畑さんの存在も忘れる。夢から醒めたみたいに。彼女が僕にみせた静かな微笑みも、静寂の中でこぼした涙も。すべてそれらの記憶は僕の中から廃れる。記憶を僅かに思い出すことはあっても、それは不鮮明で漠然とした状態でしかない。僕は彼女を忘れる。女性を後悔させるのが上手ですね、と彼女は僕に言った。僕は彼女を、こんなにも簡単に忘れていいのだろうか? 彼女はこれからも迷子を元の世界に帰しては、その度に「置いていかれる」のだ。彼女を取り残す。彼女はさすらい続けることしかできないのだ。永遠の迷子。その言葉が僕の脳裏を過ぎって、やりきれない思いに僕は襲われるのだった。
「いらないことは考えないでください」と西畑さんは僕の心情を悟ったように言った。「あなたは元の世界に戻らなければいけないんです」さあ、扉を開けてください。
僕は元の世界に帰らなければいけない。そこには一度は失ってしまったものがあって、希望がある。僕を待つ人たちがいる。――けれど。僕はこう言った。「あなたの記憶を忘れてしまうのは、嫌だ」彼女は静かに小さく笑った。ほんと、女性を後悔させるのが上手ですね。そう呟いて、瞼を閉じた。それからゆっくり彼女は肯いた。そして「大丈夫ですよ。あなたが忘れても、私は覚えていますから」、そう言った。そして微笑んだ。静寂の中で揺れる花のように。
あなたが帰らなければならない世界だけを頭に浮かべてください。そこには余分な思想はいりません。私に慈悲の心を抱くのはやめてください。私は大丈夫ですから。いいですか? これからあなたを包むのは優しい混沌です。次元の中をあなたは泳ぐのです。脳裏にはあなたの求める世界だけを描いていてください。もう一度忠告しておきますよ? いらないことは考えないでください。神妙な表情で彼女はそう僕に忠告した。僕はゆっくり肯いた。
やがて僕は扉を開く。僕を襲う蒼い光。まるで月光のようだ。あの日ひかりと見た月のようだ。混沌の光が僕の先でたなびく。優しく僕を包んで、誘っていった。やがて意識が薄れていく。僕の世界の色素が優しく抜き取られていった。僕が強く脳裏で思うのはひかりらが待つ世界と、西畑さんの静かな微笑みだった――。
しばらくの混沌。 夜が手を振る。
隙間。 夜の。
僕の。
――――私の中から醜い欲は消えることはありませんでした。
――――今思うと彼女は真剣に私を救おうとしていたのだと思います……。 帰ってきて――――。↓
あなたと同じですよね。 揺れて、 ――――ひかり。
堀澤さん。 揺れて、
ねえ堀澤さん。 震えた。 蒼い灯りを配る月。
脳裏に過ぎる彼女の話。 それは→ 僕の未来を示すもの だった。
――――私とあなたって似ていると思うんですよ。人生の歩み方も、好きな異性のタイプも。――――。 混沌。
夜を祝うように光彩が舞踏を繰り広げていて、その輝きで僕は意識の糸をたぐり寄せるのだった。やがて踊る光たちの姿を同定することができて、僕は目を醒ました。まだ朦朧とする思考がもつれて、曖昧に渉ってくる喧騒を僕はゆっくり咀嚼した。目を凝らすと、世界は色褪せていて。上から塗りたくったみたいに深い夜を迎えていた。夜が手招きして吹く風が僕の前髪を踊らせた。右手の中指に雨粒がしたたったような気がして、確かめると僕の肌は濡れていた。夜の底を冷ややかに降りしきる雨が僕のわだかまりを浄化することはなかった。淡く鉄のようなものが鼻にまとわり、それがアスファルトの濡れた匂いだということに気づいた。雨が上がった後の夜は空気を湿らしたままで佇んでいた。雨粒のほこりを掃うように風が吹き、僕の肌から体温を奪って去った。残るものは冷え切った僕の肌と、小説のスペースのような虚無感をともなう悲しさだった。
僕はどこにいるのだろう。悲しみの夜の涙はアスファルトにへと吞まれていく。知らない場所に僕はいた。見覚えもない。僕はいま自身が身に着けている服に目を通す。ネイビーのナイロンパーカー。ダークグリーンのカーゴパンツ。そして紺色の傘。この傘はどこで拾ったのだろうか? 思い出すことはできなかった。引っかかる見当すらも、泡沫のように浮かぶことはなかった。
僕は夜のなかで誰かの姿を探した。それが誰かなのかは思い出せないけれど。しかしその世界に僕が求めている人物の姿はいなかった。ぽつり、ぽつり、と。再び雨粒が空気を飾るのが見えて、また雨は僕の肌を濡らしていった。再度降りだした雨は冷たく夜を喰らう。僕は手に持っていた傘を開いた。けれどそれを頭上に持ち上げることはせず、その傘をそのままにした。そして持つ手をそっと離した。雨は徐々に強みを増していく。傘はまるで部屋の隅に脱ぎ捨てられたシャツのようだ。そんな傘に目をやるけれど、なにもしなかった。そのままにした。
僕はその場に座り込んで、更けていく夜の中で雨が僕の記憶をよみがえらす時をじっと待った。 END
虚ろな独り言 10
鉄網の柵をよじ登る。それを跨いで中に侵入する。辺りは深い夜の毛布を被っている。単純な闇の色を空に貼りつけていた。高木が「迷子の案内人」の堀澤に連れてこられた場所は、この夜の工場だった。ここがなにの工場で、なぜ高木はここに連れてこられたのか。見当もつかない。それでも高木は堀澤のあとをついていた。今日の昼のことだ。食堂で西畑さんが高木に声をかけてきた。そのあと高木は堀澤を迎えにいくという選択を決意した。午後の講義を無断で欠席した高木は「迷子の案内人」の堀澤に覚悟を決めたことなどを話すために電話をかけた。本当にそれでいいのかい? と堀澤はその意思に賛成することもしなければ否定することもしなかった。ただ、本当にそれでいいのかい? と高木に確認をとるだけだった。これでいい。と高木は言った。決意を固めた意思がもたらす自身のその言葉はとても力強くかんじた。堀澤はそうかい。ならそうしよう、と釈然としないようにも思わせる口調でそう言った。高木はそんな堀澤の様子など気にもせずに肯いた。なら今日の深夜にしよう。今から僕が言うところに集合してほしい。そのような経路で高木は今この工場にいる。
工場の中はあたりまえの静寂を居坐らせていた。空間はその静けさをは蓄えているかのようにも想像できた。夜の沈黙は工場の地を覆って、高木と堀澤の侵入した足跡を鋭く警戒していた。工場のなかには二人以外に人の気配はない。高木はふと携帯をひらいて時刻を確認する。午前の一時。世界は夜の絶頂を迎える寸前の状態にあった。空を見上げるとまるで一つの黒い扁平な板のようにも思えてくる雲も星も飾らない淡白な暗闇を広げていた。まさにそれは闇一色で単純なものだった。朝がその漆黒を喰らいはじめるまでに時間はまだたっぷりとある。新米力士の食べる飯の量ほど。ひっそりとした夜の隙間を満たすものはスニーカーが地を踏む音としんとした沈黙の海だった。
堀澤さんは相変わらずナイロンパーカーとカーゴパンツといった格好だった。いつも変わらない。そして右手には僕も身体の一部ですよ、とでも主張しているかのような紺色の傘を手に持っていた。杖のようにしてその傘を持っており、堀澤さんの足音と平行してトントン、と傘の先端が地面を突くかわいた音をさせていた。
その傘はシンボルかなにかか? と高木は堀澤に訊ねた。堀澤は一度彼に目をやってそんなものさ、と返答した。そして小さく笑った。「気がつけば持っていたんだよ」
気がつけば持っていた? 高木はその言葉を繰り返した。そう、と堀澤は肯く。
「「迷子の案内人」はみんなこのような傘を持っているらしい。僕の知る「迷子の案内人」も黒い傘を持っていたよ。今考えると、彼女の「あの話」は僕がこうなることを予告するものだったんだろうな。薄々感づいてはいたんだけれどね。彼女のはなす話はいつも正しかった」
高木は堀澤のはなす内容の大概を理解できずにいた。いささか個人的なことを話しすぎたね。ごめん。と堀澤は言った。構わないと高木は言った。
夜の翳りに表情の所々を隠された堀澤の顔はなかなか窺うことはできなかったけれど、どうやら堀澤は過去の記憶を思い出す行為に耽っているようだった。歩みを進めながら。高木にはそれが後悔しているようにも思えた。彼は過去に自身が犯した過ちに後悔をおぼえている。確信はないけれど。すくなくとも思い出している過去は彼にとって嬉しいものではないだろう。それは理解できた。彼女の話はいつも正しい。堀澤の言葉が脳に流れる。「彼女」というのが誰かもわからない高木はその堀澤の独り言に曖昧にうなずくのみだった。「僕はあの日の夜に降りしきった雨を今でも思い出すよ。あの雨は僕を容赦なく濡らしていって、僕の悲しみの奥底を深めていった。あの寂しさを今でも僕は忘れないよ。完全な孤独が僕を襲ったんだ」
高木ははあ、と漠然とした声を洩らすだけだった。さっぱりわからない。高木は頭を掻いて、足取りをいささか速めたのだった。夜はさらに黒々とした煙を拡張していく。空のすべての間隔が夜に埋もれる瞬間を待ちわびるようにカラスが数羽はばたいた。夜の鳥はとても意識を尖らせていて敏捷な神経を常に働かしている。高木の足音に気づいて、一斉に上空に逃げ込んだ。そして夜の最後方へと消えていった。
僕が招いたこの連鎖を、とめてくれ。と堀澤は高木に言った。いきなりの発言に高木はつい眉をしかめてしまう。堀澤と高木はあれから無断で工場の中に侵入し、いまは鉄でできた階段を上っていた。歩くたびに鉄が高い音を上げる。それを冷たい壁は吞み込んでいく。音はその空間のなかで誇張して響いた。
僕の心は最後まで定まらなかったんだ。きっとどこかで揺れていた。堀澤はそう言った。堀澤のその声は何重にも分離してその空間に波紋を描いた。高木の耳元から遠ざかっていった。相変わらず高木は堀澤がなにを話しているのか理解できなかった。堀澤は着々と歩みを進めていった。
俺にもよくわかるように話してほしい、と高木は堀澤に頼んだ。わからなくていいんだよ。堀澤はそう返した。まあ、要約すると、高木君。前に話したと思うけれど、「世界その一」で起きた出来事は「世界その二」でも連鎖する。覚えているかい? 覚えている。と高木は言った。意味はまだいまいち理解していないけどな。階段の手すりに触れてみると所々の鉄が錆びて剥がれていた。剥がれた部分をなぶるとさらに鉄はぱりぱりと爛れていった。
「つまりそういうことだよ」と堀澤は言った。「僕が起こしてしまった悲劇はどこの世界でも広がっていく。森の中で広がる炎みたいに。出来事はどこの世界でも繰り返されていくんだ」
「それを俺に止めてくれ、と?」
ああ、と堀澤は肯いた。そう肯くわりに、彼の顔はいささか遺憾を覚えているような様子に思えた。本当にこれでいいのだろうか。そんな屈託を覚えている。高木にはそんな気がした。「そろそろ着くよ」堀澤がそう言う。二人は段差を踏む。
ふたたび沈黙が二人と夜の隙間に挿まれる。本にしおりを挿むみたいに。二人を取り囲むあたりは夜の静けさと階段を上る足音。それのみとなる。尽きることのない夜の中で、堀澤が犯した連鎖のことについて高木は思考を巡らしてみる。もちろんわかるはずもない。仕方なく高木は夜の空に目をやった。夜の空はどんよりとしていて、雲の姿も星も確認できない。すべてを黒く塗りつぶす闇の海が広がっていた。パラレルワールドにいる堀澤のことを思う。あいつは今どんなことを考えているんだろう。まさか俺が迎えに行こうとしていることなんて知らないだろう。仮に俺があいつに迎えにいったとして、あいつは元の世界に戻ってくるだろうか? 便宜的に高木は考えようと努める。西畑さんが脳裏に過ぎる。正直な気持を告白してくれたひかりを思い出す。それらを思うと、高木は肯くことができた。堀澤は帰ってくるさ。やがて階段の先から扉が見えてくる。
「本当にそれでいいんだね?」堀澤は高木と顔を合わせながら確認をした。高木は肯く。「ここから先は僕は責任はもてない」
構わないと高木は言った。そして礼を言った。堀澤は未だに浮かない表情をしており、不安を扇いでくるようで高木は目を逸らした。高木は目の前にある扉をただただ見据える。息を吐く。扉の表面は所々傷をつくっており、黒く滲んでいる箇所や凹んだ箇所などが目に入った。まるで使い古された布のようだった。夜はさらに深みを増していく。星や雲までもを食べた夜は高木の頭上でじっと淀んだままでいる。
待ってろよ、堀澤。高木はドアノブに触れる。鉄でできたドアノブは仄かに冷たい。冷ややかな雨を含んだアスファルトみたいに。「高木君」背後から声がして、高木は「なんだ」と返す。「ぜひ、堀澤を連れて帰ってきてほしい。僕がこういうのもおかしいけれど、これは君しかできない役目だと思うんだ」それだけだよ。すまない。堀澤はそう言った。高木はなんだよ、と苦笑を洩らす。
夜がすこしだけ動作をみせる。手すりを回す。息を吐く。吐息は流れた夜がさらう。ゆっくりと、ドアを引く。僅かな隙間は暗闇がのぞいている。徐々に広がっていく隙間の間隔もまだ闇しか窺えない。唾を吞みこむ。足を踏みだす。額は汗を孕む。やがて深い闇が高木を覆い、そのあとで光が襲う。そして染まる。ふと堀澤の声がした気がした。けれどなんと言ったか聞き取れなかった。すでに高木は混沌の中にいる。なぜか先ほどの「すまない」という言葉が脳裏に過ぎった。そしてさっき堀澤はこういったんじゃないだろうか、と思い当たるものがあった。本当にすまなかった――。暫定的に彼が放った言葉がそうだったとして、高木にはそれの意味がわからなかった。
高木の姿がドアの奥に消えた後。僕はそれをただ見つめていた。なぜ僕は彼をあちらの世界に行かせることを許してしまったのだろう。ドアはすでに踵を返して世界と世界を隔てる壁となっている。僕はそれをただ見つめている。どれだけの水を呑もうが残るであろう渇きが僕の奥底でたたずんでいた。それはつまり罪悪感だった。この夜のように深い罪悪感だったのだ。焦りに伴って訪れるやりきれない思いは僕の肌をさすった。耐えれなくなって、僕は手に持っていた傘を地面に落とす。重力に従って傘は地に吸い込まれるように倒れる。その傘を見る。僕はこの傘のようだ。そんな風に思えてくる。
夜がすこしばかり僕を射る。罪悪感が汗を招いた。じんわりと滲むその汗は冷たい。左手を握りしめると汗ばんでいるのがわかる。それなのに僕の唇は乾ききっていた。ごめんなさい、と。僕はただそれだけを呟いていた。夜は流れ、姿を晦ます雲は泳ぐ。風のなびきに似た飛行機の音が上空からした。日陰に積もった雪のように虚ろな傘を拾い上げる。そして僕は階段を下った。その足取りは罪悪感が賦与した重みによって不安定なものだった。
「あの」という毅然とした声。「高木を今、どこに連れて行ったんですか?」階段を下りると、僕を待っていたかのように前から女性の声がした。その声は僕の記憶の核に明確にひっかかった。僕は足元から視線を離せないでいた。まさか、と思った。僕はあの日肩を寄せて眺めた蒼い月を思い出す。まさか君は――。
「高木になにをしたんですか! 教えてください! 高木はどこに行ったんですか!」彼女は闇雲に僕に叫んでいた。その声を耳にして僕は唇を噛みしめる事しかできなかった。思わず頬に涙が一筋流れた。それに倣うように次々と涙は僕の目元から溢れていった。それは彼女も同じだろう。彼女を見る。案の定、涙を流しているひかりの姿があった。僕たちの後をつけてきたのかどうかは、わからない。 END
虚ろな独り言とパラレルワールドの静寂
ようやく完結です。20話も続く話は「レゾンデートル」以来ですね。 「人はみな、なくしてしまったものを求める」というものがこの作品のテーマでした。ラストはいささか難しいかもしれませんが、僕の全力を注いだという実感はあります。読んでくださり、ありがとうございました。次回作もよろしくお願いいたします。