喫茶店の夢
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お待たせしました、とグラスが僕の前に突き出された。
中に詰め込まれていたものは、お菓子の国でボーリングされて掘り出された、バニラアイスで出来た大地の一部だった。グラスの表面から見えるのは、地脈に流れ込んだキャラメルソースの茶色がまだらに描く模様、地層の所々に顔をちらつかせるバナナの断面。バナナ。この地球で言うならば赤道地域に相当する箇所だったのだろうか。だとしたらなぜ地面がアイスクリームで出来ているかという疑問も浮かんだが、おそらく向こうでも技術が進歩していて、暖かいスイーツばかりが横行する地域で、避暑地としての目的で作り出されたのがこの一品だったのだろう、と勝手な推測をした。
僕が注文したのは、キャラメル・ドゥボアと名付けられたメニューだった。細長いグラスの中のアイスクリーム、盛り上がったその天辺に、棒状のクラッカー菓子が剣のように突き刺さっている。パフェのようであるが、少し違う。そしてここは、たまたま立ち寄った名も知らぬ喫茶店。季節は春、夕方。雪を吹き飛ばした世界は、もう涙で目を赤くすることはなく、外はまだ真昼のように明るい。
世の中には二種類の人間がいる。甘いものを作り出す者と、それを貪る奴だ。
だがある日知ってしまった。作り出す側には、選ばれたものにしかなれないという事を。
この世界には調理師と呼ばれる人たちがいる。その中でも、パティシエという呼称がある。特に甘いお菓子を専門に扱う料理人。パティシエの称号が与えられた者には、通常とは異なるタイプの調理道具、厨房が専属で与えられ、それ以外のものを用いて調理を行うことは一切許されない。この制度について、一部では、国家的な陰謀であるかのように囁かれているのを聞いたことがある。しかし、僕はそのような暗い推測はしなかった。
この世界はお菓子の国と繋がっている。そしてパティシエ達は、お菓子の国と往き来する権利と能力を得た特別な人間なのだ。それが、お菓子とかデザートと分類される食べ物に対して抱いている僕の世界観だった。
人前では決して口には出来ないが、僕はそういう夢の世界のようなものを本気に信じ込む傾向がある。勿論、本当はそんな事などないと理解はしている。
だがそうでもしなければ、生きる事はあまりにつまらないではないか。
もし本当に、もう一つの世界があるとするならば。
僕はグラスの脇に置かれたスプーンを手に取り、世界を切り開きたい一心で一口目を口に運んだ。バニラアイス、キャラメルソース。バナナはまだ底のほうに行かないと無い。最初の一口はたちまち僕の舌を魅了した。バニラアイスとは思えないほど甘く広がる。まだ溶けてもいないのに柔らかい。ああ、やはり「甘さ」とは、夢の世界から来た味覚なのだ。一方で手のスプーンは、グラスの中の、少しシャーベットのようにザラザラとしていたが、固形を保っているバニラアイスをつついていた。硬さゆえに何度か沈めてしまいながらも、やっと切り出して口に運ぶ。アイスは先ほどより甘くなく、柔らかくもなかった。若干氷っぽい食感が口の中で強張る。
では先ほど僕が口にしていた甘い白いものは何だったか。
それは生クリームだった。間違いない。結論はちょっと考えてすぐに出た。この甘さ。この口どけの柔らかさ。そしてそれとまるっきり対照的な、粘り強く、一度絡みついたら舌からもスプーンからもなかなか離れてくれないキャラメルソース。器の中の世界で、固形のバニラアイスが媒介となって、対照的な二つの流動体を互いに実態あるものとしていた。
両手に花の男の姿。親鳥の後をついて宙を裂く二匹の雛鳥の軌跡。フォボスとダイモスを衛星に持つ火星。僕一人につき、両親二人。
二人が一人を包み込む。一人が二人に意味を与え、形を成す。
もっとイメージが欲しい。スプーンはゆっくりと、しかし貪欲に地層を掘り進めて行った。ふと、アイスとは違う柔らかい感触を探り当てた。バナナだった。乳や脂肪から作られたクリームやソースではなく、純粋に元の形を残したままの果物。
少し嫌な予感がした。なるべく多くクリームやキャラメルソースを絡め、バナナを口に入れる。最初は甘さを感じたものの、すぐに果物特有の酸味が味覚を支配した。白や茶色で支配された甘い甘い無彩色の世界だったのに、目障りな色彩が混ざり始める。
果物の甘さは甘さではない。夢のように浸る事が出来ない。ビタミンなどの栄養、すなわち食品としての本来の機能がそのまま形になった味である。それは夢に対する現実。滋養豊富で、甘くて美味しいのは知っている。なのになぜこんなに不愉快なのか。
僕は、この甘い甘い世界から逃げ出そうと、アイスの中で往生際悪くグラスに顔を押し付けるバナナの酸味を憎たらしいほど不自然に感じていた。それでも、酸いも甘いも噛み分けんとする発掘作業は続き、グラスの中身はほぼ全て食べつくされた。だが湾曲したグラスの底や側面に、最後までしぶとく残るキャラメルソース。スプーンはもはや舌となっていた。生き物の舌と連携する事によって、初めて味覚を得る鉄の舌。
完食。時刻は夕方、午後6時。これが冬ならば夜の6時と言っていた所だった。外はまだ明るい。流石は春である。しかし、店に差し込む光にはもう輝きはなかった。
食後の一杯が欲しくなり、僕は紅茶を注文した。かわいらしいカップと共に、ティーポットがテーブルにやってきた。紳士を気取ってカップに注ぐ。レモンはひと切れだけ入れた。カップを揺らし、中の液体を回した後に口をつけた。アールグレイの渋味が舌から入り込み、神経から脳へと達して、夢の余韻を消し去っていく。カップに口をつけるたびに、レモンの酸味が増していく。それはやがて顎の両端を刺激し、よろけた味覚に追い打ちをかける程になっていた。
否応なしに僕は夢から覚めた。甘い味が夢の世界だとするならば、酸味や苦みというものはその暴走を防ぐ為にあるものだろう。フィクションそれ自体は現実ではないが、現実にはフィクションが含まれている。バナナという伏兵に驚きはしたが、僕には、フィクションも現実も、互いに切り離せないということを悟った上で膨らませていきたい空想があるのだ。
会計を済ませ、僕は店から出た。
水色の空にもう月が浮かんでいる。肌寒い空気をますます強めるように風は吹く。風に乗ってかすかに焼き鳥の匂いがした。歩き出した視界から後ろに流れていく街の明かり。
明日は何を夢の世界に仕立て上げようか。
車に乗り込み、エンジンをかけた。生きることは、こんなにも楽しい。
喫茶店の夢