ビューティフル・ダイアリー(3)
十一 妊娠中の女 から 十五 足がでかい女 まで
十一 妊娠中の女
父親が誰だっていい。半分は、徳子の血だ。徳子のDNAだ。つまり、徳子の子どもだ。徳子の分身だ。
徳子は、もう、三十七歳。自分の体力としては、出産には限界の年齢が近付いていると知っていた。
今、妊娠、三か月だ。あと七か月後には、徳子はお腹の子と分離している。
お腹を触る。気のせいか、いくぶん、ふっくらとしている。手のひらで撫でる。指紋がひっかかることなく、なめらかに小山を滑る。
徳子は、生きている。手も。お腹も、生きている。だけど、生きているはずなのに、生きている実感はなかった。
朝、目覚め、食事をして、仕事をして、夜になれば、ベッドに横たわる。当り前のような、毎日。これが、生きているということなのだが、逆に、生きていることからこそ、生を実感できないこともある。
そんな徳子に、子どもが授かった。今、三か月。徳子は、徳子として生きている。脳も、心臓も、胃も、腸も、髪の毛も、目も、鼻も、口も、耳も、首も、胸も、胴体も、両手両足も、全て、徳子として生きている。
その徳子の体の中に、今は、徳子とは別の命が生きている。不思議だ。でも、感動的だ。徳子は、その命を育てる。例え、その命が、徳子の体をのっとろうとしてもかまわない。既に、徳子の命が、その命の中に引き継がれているのだから。
徳子は、徳子とは違う命を生みだすことで、美しくなれる。新たな命を生みだした結果、例え、徳子がひからびて、ミイラになろうとも、新たな命が、みずみずしく美しければ、徳子もまた、美しいのだ。
そう、徳子は、びゅーていふるなのだ。
十二 シャンプーハットの女
女は帽子をかぶせさせられた。髪の毛が水に濡らされ、シャンプー液が掛けられる。女の髪の毛の中に誰かの指が突っ込む。一本。二本。三本。四本。計十本だ。その十本が自由自在に女の髪の毛を様々な形に彫刻する。
十本の指たちは、女のために髪を洗っているのだが、女にとっては苦痛以外のものでない。差しこまれる手。逆立つ髪の毛。
パイナップルの頭になった。鉄腕アトムにもなった。一角獣にもなった。サザエさんにもなった。笑える。自分の頭、自分の髪の毛なのに笑える。笑うことで、自分が浄化されるような気がした。そして、シャンプーで、髪の毛も浄化される。
水が突然頭に掛けられた。急いで、眼を閉じる。水を掛ける時ぐらい、水を掛けるよと事前に言って欲しい。小さい頃を思い出した。パパが、そう、女がまだ子どもの頃は、あのおっさんは、パパだった。そして、女が幼女から大人になるにつれて、パパはおっさんになった。
その頃のパパは、十本の指で、女の髪の毛をやさしくときほぐしてくれた。女は、その間中、眼を瞑って、口を閉ざし、両手で耳を押さえていた。世界とつながっているのは鼻からの呼吸だけだった。じっと、じっと、嵐が通り過ぎるのを我慢していた。でも、パパが、やさしくシャワーで髪を洗い流してくれたので気持ちよかった。
水粒が頭皮に当たり、はじかれる。トントントンもあれば、どんどんどんもある。誰かが、夢のドアをノックしてくれているのだ。だが、それも束の間。パパが、タオルで髪の毛を拭く。ごしごし。さらさら。頭が揺れる。震度三だ。逆立つ髪の毛。
「さあ、終わったぞ」
パパからの最後通告。頭を軽く撫でられる。女は立ちあがり、湯船に飛びこむ。ドボン。水しぶきが上がる。今の、女の髪の毛と同じ様に逆立つお湯。お湯の髪の毛も洗われたいのか。だが、お湯の髪の毛は女と同じように洗われるのが嫌なのか、すぐに大人しく垂れ下がり、波紋となって水平に消えた。
女は湯船に飛び込んだものの、一刻でも早く、お風呂から出たかった。そんな女を諭すように、パパは、じゃあ、百の数字を数えられるか、と質問してくる。そんなの、簡単だよ。学校でならったもん。
女は、いち、にい、さん、と数を口に出す。パパだって、女が百まで数を数えられることぐらい知っている。女だって、パパが、女の体が温まるように、湯船に浸かるために、質問しているのを知っている。お互い、本当の事を知っていながら、知らないフリをする。これが、正しい親子の会話なのだ。正しい親子の関係なのだ。
「パパ。愛しています」
パパを愛していると言うことで、女は美しくなれる。他人を愛する者が、どうして、醜くなれるでしょうか。その意味において、女は、びゅーていふるなのです。
でも、愛するパパは、今は、ただのおっさんになっていた。
十三 削っていく女
長い髪なんて嫌いだ。あたしは、髪を掴むと握り拳からはみ出た黒髪をハサミで切り落とした。次は、眉毛だ。水で顔を洗う。あたしの顔から眉毛が消え、額の面積が広がった。元々、眉毛は剃り落とし、描いていただけだ。あたしの本当のない眉毛があらわれたわけだ。ない眉毛があらわれるとはどういうことだろう。
次は、胸だ。ほどよく膨れ上がった胸。砂丘の小山のようだ。子どもの授乳のための胸。だけど、今のあたしには、これからのあたしにとっても、こんなものは必要ない。ハサミじゃ無理だ。台所から包丁を取り出す。まずは、右胸。上から下へ垂直に滑らす。いっちょあがり。胸から白い乳の代わりに、赤い血が噴き出す。痛みはない。どうせ、妄想の世界だ。
次は、左胸。右胸に比べてやや小ぶりだ。右胸と同じように栄養を与え、同じように太陽の光を当て(関係ないか)、同じようにマッサージをして、双子同然に育てたはずなのに、育ったはずなのに、形や大きさが違うなんて、変だ。理不尽だ。理解不能だ。世の中にはよくあることだ。
左右対称こそが美しい。それこそが、黄金比だ。非対称なら切り落としてしまえ。左胸の上から下に、鈍く光る刃が滑る。
ドテッ。左胸が落ちた。これで、胸は余分な突起物が削除され、水平線が生まれた。これで、輝く朝陽がいつでも昇ってくるはずだ。
後はどこ?見つけたぞ。お尻だ。何のために、こんなに膨れあがったのだ。あたしがこれまで受けた負が重力に屈し、ここまで落ちてきたのだ。負の墓場。負の埋立地。負の廃棄物処理地。それこそが、ぷくぷくした象徴なのだ。
あたしは、胸を切りおとした包丁を掴むと、双子のお尻に刃を突き付けた。お尻も胸と同様、平等に育てたはずなのに、微妙に大きさが違う。何故だ。
わかった。効き足だ。いつも、歩く時に右足に力を入れ踏みだしために、右のお尻の筋肉が左に比べて発達したのだ。だが、歩くときは、右、左、右、左と交互に足を前に出していたはずだ。右足だけ回数が多いはずはない。それとも知らず知らずの間に、ゴールに到着する最後の一歩が、右足だったのかも知れない。
知られざる事実。知られざる真実。知られざる差別。知られざる不平等。だが、そんな心配も今日でおしまいだ。お尻よ、仲良く、どこへでも飛んで行け。さあ、自由はお前たちの前にある。あたしはお尻に包丁を下ろした。
あたしは、あたしの満足のいくように、あたしの輪郭を削る。鏡に映ったあたしは、あたしによって彫刻され、美を追求した結果の、本当のあたしになる。
例え、自己否定しようが、あたしは、あたしの美を追求する。それが、あたしの生き方なのだ。
包丁の先がポキっと折れた。
十四 電車の線路の側に住む女
「わあ、すごい」
リンダは、開け離した窓から電車を見送った。電車は二両編成だった。四両編成を誇示する時もあるが、わずか一両で気が付かれないうちに消えていく時もある。だからこそ、電車の走ってくる音が聞こえてくると、急いで部屋の西側の窓を開け、見逃さないように、電車を待つ。
電車の前面でようこそと出迎え、側面で乗客に手を振り、後ろ姿に気をつけてと言葉を掛けるのだ。電車は、十五分に一本の割合だ。普段、会社にいる際には、気にならないが、自宅でいると、無性に、電車が通り過ぎるのを見たくなる。
「わあ、すごい」。
また、声を上げた。声を上げると同時に、部屋が揺れる。
リンダは、ここに住む前は、別のマンションに住んでいた。国道沿いで、交通量が多く、一晩中、車が通行するため、その音が原因で、眠れない日々もあった。騒音から逃れるため、現在の線路沿いのアパートに移ってきたのだ。当初は、車も電車も、同じ騒音だから、嫌だと思ったが、家賃や立地場所等を考慮するとともに、一刻も、今、住んでいるマンションから逃げ出したかった。
移ってきたのは正解だった。これまで、生きてきた中で、正解はあまりなかったものの、今回の引っ越しは正解だった。小、中、高、大学で、様々な試験を受けてきたが、どちらかと言うと、正解よりも、不正解が多かった。だが、今回の、引っ越しは、大正解だった。これまでの、不正解を全て取り戻せるくらいの正解だった。何が正解かと言うと、電車を見られるからだ。電車が通るのを楽しみにすると、電車の音はよけいに待ち遠しくなる。リンダは、電車を見ることが生きがいとなった。
再び、わあ、すごいの声。わあ、楽しいの声。
この感動が、この喜びが、リンダをきれいにさせる。目は流れ星の輝きを放ち、口元は三日月の喜びで満たされ、ほっぺたには永遠の少女を讃えるえくぼが二つなど、過去に喪失した一切の物がタイムマシンで甦ったかのように、浮かび上がる。
「わあ、すごい。あたし、きれい?」
十五 足がでかい女
「駄目だ。この靴も入らない」
女は、無理に入れようとした靴を脱ぎ棄てだ。折角、デザインが気にいっているのに。女の足が大きすぎるため、靴に入らないのだ。靴を大きくするか、自分の足を小さくするのか、選択肢は二者択一だ。
だが、実際上、選択肢は、一つしかない。そう、自分の足を今から、纏足にすることはできない。残された選択肢は、ひとつ。自分の足の大きさに合う靴を探すしかない。それが、例え、ガラスの靴であろうと、夜中になれば消えてしまう靴であろう、構わない。自分は、一生かかって、自分の靴を探すのだ。
じゃあ、それまでは、裸足なのか。そう、裸足でいい。かつて、裸足のマラソンランナーもいた。今、裸足で、砂の上を歩く健康法もある。裸足で砂の上で歩くことで、歩く際の、重心の掛け方がわかり、効率的に、かつ、スピードアップの走り方が学べるらしい。
どうして、こんなこと、つまり、自分の足が、標準的な足に、市販の靴のサイズに比べて大きくなったかだ。女は、普通に生きてきたはずだ。特に、大きな足音が出るように、足を地面に叩きつけてきたわけでもない。いや、反対に、できるだけ、足が地面に触れないよう、つまり、足に重力がかからないよう、歩いてきたつもりだ。
そう、やはり、つもりだったのだ。その結果が、このざまだ。ざまは見たくはないけれど、ざまは事実だ。ざまに直視しないと、ざまの真の姿を見ることができない。
いや、そんなことは、どうでもいい。女は、自分の足に合う、自分の足の皮膚を覆う、靴を探すことに決心した。それが見つかるまで、素足でもいい。血みどろになってもいい。この二本の足があれば、自分は、自分の足に合う靴を探せる。自分に合う場所を探せる。
女は、自分の足のために、びゅーていふるとなった。
ビューティフル・ダイアリー(3)