遠日の夢
『俺が子供の頃、男子はみんな宇宙飛行士を目指したもんだ』
その日を明日に控えた夜、僕はマンションの自室で子供の頃に聞いた父の言葉を思い出しながら、父の好きだったウイスキーをグラスに注いだ。立ち並ぶ高層マンションの光が窓から差し込み、ロックグラスに照り返される。光は、子供の頃に夢見た未来みたいで、今夜は特に不思議に映った。
そんな光を見詰めながら、僕はウトウトとし始める。だが、まどろみは不意に鳴った携帯電話の音にかき消された。
着信は母からだった。
受話器の向こうから聞こえてきたのは、嗚咽と、鼻をすする音と、涙の落ちる音、この三つだった。
「どうしたんだよ?」
「いよいよ明日じゃない。お父さんの事を思い出していたら泣けてきちゃって・・・」
だが、僕は少し呆れて返した。
「親父が死んで二年も経つのに、今更号泣するなよな」
「そうね。でも、懐かしさと嬉しさで・・・」
母は更に泣き始め、つい苦笑してしまった。
六歳の時、父と二人で行った回転寿司で語り合った夢は、今でも鮮明に思い出される。
「お父さんはな、今は航空整備士をやってるけど、これでも子供の頃は宇宙飛行士を目指してたんだ。だけどこれが難しくてな、それでも空に近い所にいたくてパイロットを目指したんだ。だけど、これもまた難しくて・・・」
「それじゃあ、僕がなるよ」
単なる子供の思い付きだったが、父は満面に笑顔を見せた。僕は、父の笑顔をもっと見たくて、テーブルに置かれていた店のアンケート用紙と鉛筆を取ると、用紙の裏側に『うちゅうひこうき』と名付けた絵を描いて見せた。
「大きくなったら、お父さんをこれに乗せてあげるよ。一緒に宇宙に行こう!」
あの父の笑顔を、僕は一生忘れない。
「アナタは本当によく頑張ったわ。大学まで出て、色々あったけど、ここまできて・・・」
「結果はついてきただけだよ。じゃ、切るよ」
僕は、笑顔のまま母との電話を切った。
明くる朝、僕は編集者と一緒に会場へと向かった。漫画賞授賞式会場へと。
土壇場で僕が選んだ道は漫画家だった。なろうと思えば宇宙飛行士でもパイロットでもなれた。しかし、大好きな絵を描く夢を捨て切る事が出来なかった。父とは散々喧嘩をした挙句、僕は家を飛び出し、六年ぶりに再会した父はガンで危篤状態、口を利く事も出来なかった。
そんな父は、何か言いたそうな目で僕を見た後、静かに目を瞑り、息をひきとった。
この漫画が売れ始めて、直ぐの事だった。
「今回受賞された作品では壮大なスペースオペラが描かれていますが、やはり一番魅力的なのは、何と言っても主人公だと思います。モデルにした人物とかはいるのですか?」
受賞会場での記者のそんな質問に、僕はニコリと微笑み、迷わずこう答えたのだった。
「父です」
無事授賞式を終え、帰宅した僕は仕上がったばかりの原稿を再チェックする為に自室ではなく仕事部屋へと向かった。
ドアを開け電気を点けると、仕事机の上には、原稿の横に一通の封筒が置かれていた。
封筒には母の文字で、
『お父さんの物を整理していたら出てきました。生前に渡しそびれた物のようです』
そう書かれてあった。
今更父に怒られるような気がしながらも、僕は恐る恐る封筒を開く。だが、その中身は、あの回転寿司のアンケート用紙の裏に描いた、今はすっかり茶ばんでしまった『うちゅうひこうき』の絵と、Gペンと、父の短い手紙が入っていた。
『今度は、これに俺を乗せてくれ』
「母さんから聞いてたのか・・・漫画、読んでくれてたんだ・・・」
まいったな。
仕上がったばかりの原稿が濡れちゃった。
描き直しだ・・・
了
遠日の夢
「泣ける作品を・・・」
というテーマで、とある出版社に依頼されて書いた作品でした。
まあ、ボツでしたけど・・・(苦笑)