味覚から幸せ
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味覚から幸せ
武骨な扉のドアノブに手をかけて中に入ると、表のオシャレな装いからは想像できないほど散らかった廊下に出る。片付けないと、そう思って早何週間がたつだろうか。とりあえず足の踏み場を作る為に物をどかした。倉庫やら休憩室やらに通じた廊下をまっすぐ抜けると、カウンターの裏に出る。一通りの料理が出来る程度の小さなキッチンと、色々な形や大きさのグラスが並ぶ棚は、光が店を継いだときに新調したものだ。
欠伸を噛み殺し、電気もついてない店内を見て光は思い出したように声を上げた。
「そっか。今日定休日だ」
そうときまれば行動は早い。カランコロンと音を立てる扉を開けて外に出て、看板代わりの小さな黒板を手に取った。デザインの得意な母によって、店の名前が書かれている。光はそれを裏返すと、右手に持ったチョークで乱暴に文字を書きなぐった。よし、と呟いてそれを扉の前に置く。黒板には、疾走感あふれる「定休日」の文字が綴られていた。
光の生活はいたって単純だ。店を開く日は朝起きれば開店準備、閉店後は掃除と明日の仕込み。今日のような定休日は基本的に新メニューの開発や内装の模様替えも行う。祖母の代から受け継がれる喫茶店を光は溺愛しており、彼は一日のほとんどを店の事を考えて過ごしている。
愛用のエプロンを手にした光は、手慣れた様子でそれを身に付け、キッチンの前に立った。次の定休日に新メニューの試食をさせてやると約束した友人を思い出したのだ。壁に所狭しと張られたメモ帳の中の一枚に目を付け、ニヤリと口角を上げた。甘い物好きの彼の幸せそうな顔が目に浮かぶ。自分の料理で人が幸せになることほど嬉しいことは無い。絶対に言ってやらないが。押し殺したような笑い声を上げ、光はボウルに卵を割った。
新メニューとは、香ばしいくるみをふんだんに使ったブラウニーだ。デザートというよりはティータイムに合うような物を目指す。家族からの評価は良好だった。あとはあの甘味の虜さえ落とせれば完成だ。光はまた悪い笑みを浮かべた。悪だくみをしているわけでもないのに、自然と浮かべる笑みは全て悪魔のような笑顔になってしまう。本人や周囲の人間が気にしている様子は無いからいいとしよう。
しっとりとしたチョコレート感を出すために、チョコレートの量は少し多めにした。温度計に気を配りながらじっくり溶かしたチョコレートにバターや砂糖、卵などを加えて行く。最後にたっぷりとくるみを混ぜ込み、型に流してオーブンに入れた。
ふと時計に目を移し、彼が来るまでまだまだ時間があることに気付いた。昼時にくるらしいし、昼飯でも用意しといてやるかと、光は大きな冷蔵庫の前にしゃがみこんだ。
料理はいい。自分の手から美しく美味な物を作り出せるし、何よりそれを食べた人間の幸せそうな顔を見るのが心底愉快だ。自分の手で他人を幸せにできるだなんて素晴らしいことじゃないか。光は常日頃からそう豪語していた。光にとって、喫茶店経営は天職だろう。時たま好意的な目で自分を見て来る女性さえいなければ。
冷蔵庫から取り出した玉ねぎ・ニンジン・ピーマンを細かく刻んでいく。ニンニクも同じ様に刻み、バターで炒める。全て炒め終えたらひき肉を加え、色が変わったところでカレー粉を加えてさらに炒める。ケチャップや赤ワインなどを加えて混ぜ、蓋をして蒸せばドライカレーの完成だ。カレーの匂いにつられて、家族がキッチンに顔を出す。光は家族に得意げな笑みを浮かべ、味見用の小皿を差し出した。途端に満面の笑みを浮かべる家族に、光の笑顔はさらに濃くなった。
焼き上がったらしいブラウニーをオーブンから取り出した。カレーの匂いが映るかも。そう言って笑った母にブラウニーを差し出すと、呆れたように笑ってどこかへ持って行った。休憩室あたりが、ケーキの荒熱を取るには丁度良い。
サフランライスを皿に盛り、そこにカレーをかけ、光は満足そうに鼻を鳴らした。時刻は丁度お昼時だ。カランコロンと音を立てて開かれた扉の先には、相変わらず眠そうな目をした友人が立っていた。表情はいつもとそう変わらないが、醸し出す雰囲気が明らかにワクワクしている。
「よう晴香。よく来たな」
「新メニューと聞いて。何、カレー? だったら俺じゃ無くて雄一呼んだほうが……」
「これは違う。ああ、けどランチにドライカレーはいいかもな。今度メニューに追加しとく。新メニューは別だけど、昼まだだろ? 光さんの特製ドライカレーだ。喰ってけよ」
「あ、そうなの。じゃあ、喜んで」
勝手知ったる様子でカウンター席に着いた晴香の前に、カレーを盛り付けた皿を置いた。客に出すように丁寧にスプーンも置いてやると、晴香が笑いを溢した。
「初めて見るわけじゃないけど、やっぱなんか新鮮だな」
「新鮮って、何年目だと思ってんだよ」
「普段があれだから。いただきます」
両手を合わせてから、晴香はカレーを口に運んだ。ゆっくり咀嚼して飲み込み、光の方を見て真顔のまま親指を立てた。古い、そう言って笑ってやれば、照れたようにはにかんだ。
「マジで上手い。やっぱ光の料理はすげえな。俺、料理出来ねえし」
「お前の料理を料理と呼ぶなんて、料理人として許せねえな」
順調に皿の中身を胃に収めて行く晴香を、光はカウンターに頬杖をついて眺めていた。美味しいと感じているのかいないのか分からない無表情だが、今更そんな事を光が気にする訳が無い。
ごちそうさまでしたと、空になった皿に向かって軽く頭を下げた晴香にどういたしましてと返す。冷えた水を出してやり、皿を下げた。
「ところで、新メニューって何? 俺を呼ぶって事はデザート系だろ」
晴香の言うとおり、光の料理を試食する人間には担当がある。まず晴香はデザート系の甘い物。雄一にはパスタやピラフなど。京助にはお酒のお供になるメニュー。全員味覚が良いという訳でもないが、何故か自分が担当したものについては的確な意見をくれる。これも絶対に言ってはやらないが、光は三人の事を結構頼りにしているのだ。
「デザートとしてはちょっと合わないかもしれないけど、ブラウニー作ったんだ」
「ブラウニー! チョコレートが濃厚なあのケーキだな! 紅茶に合うんだよな! デザートとしても良いと思うぞ。くるみが香ばしくて美味しいんだよな。ちなみに熱いままホイップクリームをトッピングして食べるのもお勧め」
「分かったから。ちょっと待ってろ」
そう言って光は先程母がブラウニーを運んだ休憩室に足を進めた。
晴香は甘味の事になると途端に饒舌になる。雄一は晴香がテンションを上げるのは喧嘩の時だと言っていたが、実は喧嘩をする時より甘い物について語る時の方がテンションが高いのではないかと光は思う。向ける方向性が違うかな、首をかしげながらブラウニーをカットしていく。小さい物を口に入れれば、満足のいく出来あがりになっている。持ってきた皿に乗せてカウンターまで持っていけば、晴香が待てを命じられた犬のような眼で待っていた。
「光のお菓子食べたら、市販のものじゃ満足できねえんだよな」
「当たり前だろ。俺が作ってんだ。そこらへんの物と一緒にすんな」
幸せそうに顔をほころばせて、晴香はブラウニーを一つ口に運ぶ。味わうように口を動かし、一つ頷いた。
「美味しい。ちょっとチョコレート多めだな。良いと思う。くるみはもうちょっと小さく切った方が良いかも。あー、今度は熱いまま生クリームと一緒に食べたい」
「そっちはメニューとしてはちょっと難しいかもな。ブラウニーはちょっとの余熱ですぐ風味飛んじまうし……考えては見る」
光が眉間にしわを寄せて言うと、晴香は残念そうにそう、と呟いた。その間も手は止まらず、ブラウニーは数分で綺麗に平らげられた。
「ま、そっちは気が向いたら食わせてよ。あと自分用のお土産に何個か頂戴」
「はいはい。持ってけ持ってけ」
ちゃっかりとテイクアウトを要求する晴香に苦笑いを浮かべ、光は残っていたブラウニーを適当な袋に入れて晴香に手渡した。
「ごちそうさま、ありがとう。また次楽しみにしてるよ、光」
「おー。次も予想裏切るくらい幸せにしてやるから覚悟してろよ」
ブラウニーが詰まった袋を大事そうに抱え、晴香は店を後にした。光は彼の後姿を見送った後、大きく伸びをした。カランコロンと音を立ててドアが閉まる。スピード感あふれる文字が書かれた黒板が、ドアの前に立っていた。こうして相沢光の休日は終わる。
味覚から幸せ