猛り狂った雄牛の鳴き声のような音を吐き出しながら、いつもの通勤バスはやってきた。
 緑色の車体に白のストライプが入った、いつもの路線バス。
 前部のドアから俺が乗る。
 後部のドアから入れ替わりで何人かの乗客が降りる。いつもの見慣れた顔ぶれは、いつものように無表情だった。
 笑うことも無い。
 怒ることも無い。
 形容しがたいカラッポの無表情。
 車内に残っている乗客達も同じようなもの。 俺も、その中の一人に加わる。
 早朝の通勤バスは人もまばらで、俺はいつものように後部座席に座り、運転手の発車のアナウンスと共に流れてゆく窓の外の景色を眺め始めた。
 やはり、いつもと変わらぬ風景。
 マツキヨがあり、りそな銀行があり、ローソンがあり、懲りすぎた自家菜園のような小さな畑が見える。
 明けて間もない青空に、沈む事を忘れた小さな月が浮かんでいる事にふと気付いた時、バスは交差点の赤信号で停車した。見えるのは、仄暗い雑木林。何を考える事も無く眺めていると、ぽう、と何かが光った。
 いつもの事じゃない。
 あんなものは初めて見た。
 好奇心に惹かれるままに俺は、その光を食い入るように見詰める。蛍という生き物を俺は実際に見た事は無いが、以前にテレビで見たのと似ているような気がした。
 しかし、違った。
 青白く光るその発光物は、よく目を凝らしてみれば、それは人の顔だった。
 普通なら声を上げて驚くところなのだろうが、不思議と俺には驚きも恐怖も無かった。
 青白く光るその白い顔は無表情で、どこかで見たような気がしたが、どうしても思い出せなかった。
 信号が青になり、バスが走り出す。顔は、どこに視線をやる事も無く、ただ真っ直ぐに空虚を見詰めていた。

 翌日、またバスが交差点の赤信号で止まると、雑木林に浮かぶ顔は二つに増えていた。二つ目の顔も、やはり無表情で、見覚えがあるのだが思い出せない顔だった。
 それからというもの、バスが交差点に差し掛かると信号は不思議と赤に変わった。顔が現れるのは朝だけ。それは、日を追う毎に増えてゆくのだった。
 一つは二つになり、二つは四つ、四つは八つになっていった。
 俺は、どこまで増えるのかと、段々楽しみになった。もしかしたら、いずれは雑木林があの顔に埋め尽くされ、果ては世界中があの顔に埋め尽くされてしまうのかと想像してみたら、笑いが零れた。
だが、顔は八つ以上増える事はなかった。
 八つの顔は、散らばったトランプのように不規則に並び、決して動く事はなく、ただただ無表情だった。
 しかし、また変化が起こり始めた。
 八つの中の一つが、にこにこと笑い始めたのだった。その顔はとても楽しそうで、こっちまで笑い出しそうになる程だった。
 その翌日には、別の顔が泣き始めた。涙を流し、嗚咽まで聞こえてきそうで、俺は思わず慰めの言葉をかけそうになってしまった。
 その次の日には、苦笑いをしいる顔が、そのまた次の日には怒っている顔が――
 ――と、無表情だった顔たちには日毎に表情が浮かんでゆく。仄暗い雑木林の中で青白く光りながら表情を浮かべてゆくその様子は、花が咲くように美しくさえあった。
 八つの顔には、笑っている顔、苦笑いしている顔、怒っている顔、呆れている顔、泣いている顔、つまらなそうにしている顔、喜んでいる顔、せせら笑いをしている顔と、八種類の表情の花が開いた。
 だが、そこからはもう変化は起こらなかった。

 突然、俺は会社をクビになった。
「やる気が無いようだから辞めてくれ」
 上司は俺にそう言った。
 同僚達も、俺を避けているようだった。
 一緒に勤めていた恋人にすら避けられた。
 訳が分からなかった。
 絶望の二文字を背中に背負うように、うな垂れて帰りのバスの乗り込む。
 バスの窓ガラスには俺の顔が映っていた。
 その時になって、俺は初めて気がついた。
 あの白い顔は、自分の顔であったことに。
 俺の顔からは、一切の表情が失われていた・・・
                      了

本当に、もう最低の職場に嫌々通勤していた頃に書いた作品でした(笑)
今となっては、いい思い出・・・じゃねえな(T_T)

いつもの通勤バス。 いつもの無表情な乗客たち。 そんなバスの中で、主人公は意外なものを目にすることになる。

  • 小説
  • 掌編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-11-26

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