向かいの窓

【ゴミ山・参考書・カーテン】

 いつから、ただ生きていることすら、窮屈に感じるようになったのだろう。たくさん勉強して、一流の名門大学に入って「将来は安泰ね」なんていう大人の言葉を丸ごと信じ込んで、自分より頭の悪い連中を心の中で見下して。
 でも、そんな毎日にいつからか、生きている心地なんて見いだせなくなっていた。それでも生きていた。空っぽの心のまま、脳に知識を詰め込んだ。
 わかりやすい転機なんてなかった。ただ、何となく、少しずつ、やっていたことを、やらなくなって、やらなければいけないことも、やりたくなくなって。
 気が付いたら、家から、自分の部屋から、出ることすら億劫になっていた。いつの間にか、ただ生きていることすら、窮屈で、億劫になっていた。
 初めのうちは心配したり、怒鳴ってみたり、気にかけていた両親も、ついには諦めたらしい。僕は、自分のものとは思えないほど重くなった骨と皮の体を持て余して、毎日昼と夜の境界線のない生活に身を沈めていた。
 夏になって、積み上がったカップラーメンのゴミ山にハエが集った。僕はイライラに堪えかねて、カーテンと窓を開け放った。てっきり夕方くらいだと思っていたが、しっかりと夜が更けっていた。団扇でハエを散らし、しばらく流れ込んでくる夏の夜風にあたった。外の方がずっと涼しいようだ。
 向かいの家の窓に、人影が揺れて背筋がヒヤリとする。そんな必要は一切ないのに、僕は反射的に窓枠より低い位置にしゃがみこんだ。窓を開ける音がして、続いて話し声が聞こえる。電話だろうか、声は一人分だ。
 今までも確かに一秒も休むことなく動き続けていたはずの心臓が大きく弾んで、僕は久しぶりに生き返ったような気持ちになった。
 手紙を書こうと思ったのは、それからしばらく経ってから。その日から毎晩窓を開けていたが、隣人の声が聞こえてくることはなかった。しかし、薄いカーテン越しに人の気配はあった。窓辺の人影は、決まってそこで郵便物を開封しているようだと推察できた。
 安物のレターセットを買ってきて、久しぶりに机に向かった。だが、手紙を書いたことなんてない僕のペンはいきなり止まった。毎日、この部屋では何も起きない。季節の感覚も、時間の感覚もない。テレビもオーディオもない僕の部屋にあるのは、うず高く積まれた参考書。僕は仕方なく、一番手近にあった参考書を開いた。高校の時使っていたものだ。不思議なことに、その参考書を読んでいるうちに、僕が教室の隅この参考書を開いているときのクラスメイトの声が聞こえたような気がして、その頃クラスで起きていた、僕の知らないはずのいろいろな出来事が鮮明に思い出された。
 僕はそれをまるで自分の記憶のように便箋に綴った。そして、封筒に入れて、母の部屋から拝借した香水を吹きかけた。この部屋も、そこにずっといる僕も、きっとゴミのにおいがするんじゃないかと思ったのだ。
 翌日の昼間に向かいの窓辺の人物の部屋のポストに直接入れておいた。毎日毎日、参考書を開いて蘇る記憶を便箋に綴った。初めはポストに入ったままになっていた封筒がなくなっているのを見た時には胸が弾んだし、なくなった封筒の代わりに「星空色の便箋の方へ」と書かれた封筒が入っているのを見つけた時には叫び声をあげそうになった。
 それでも、人影は窓辺で揺れるばかりで、その姿を見ることはできなかった。どうすればその姿を見られるのか。考えた僕は、手紙の文末に「今夜は星がキレイです。」と書き足した。そうすれば、カーテンを開けて夜空を見るのではないかと思ったのだ。
 その便箋をポストに入れて、冷たい空気で肺を満たした。僕が世界を閉ざしてから、季節は一回りしていた。
 いつから、僕はただ生きていることが、窮屈に感じるようになったのだろう。

向かいの窓

向かいの窓

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-10

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