ドライブ
微かな頭痛と共に目が覚めた。
(いつの間にか、寝てたのか…)
照りつける太陽のため、汗がふき出していた。
ビーチにはいつの間にか、誰も居ない。
ひとりも居ない。
白い砂浜と、青い海、輝く太陽が目を眩ませる。
(ああ、それにしても暑い…)
ビーチを背景に、いま、太陽と彼だけしか居ない。
太陽は容赦無く彼の肉体を突き刺す。
体がずきずきと熱気を帯び燃えるように暑い。
いつの間にか、彼の体は炎に包まれていた。
皮膚が爛れ、肉が熔け、骨が灰塵と化す。
そして、居なくなった。
「…ナオヤ、…直哉、もう起きなよ。」
「…ん、ああ、もう起きたよ。」
沢木直哉は、カーテンの隙間から空を見た。青く澄んだ空に、まばらに雲が浮かんでいる。いい天気だ。だが、眩しい。ゆっくり目を閉じる。
「直哉、また寝るつもり?いいかげん起きたら。」
そう彼女が、ベッドの隅に座りながら言う。ゆったりと体を起こし、彼女の肩に腕をまわし、キスしようとする。
すると彼女は、身をかわし、立ち上がった。
「あのさぁ、一回寝たぐらいで好きだとか勘違いしないでね。きのうは、お互いに酔っ払ってただけ、それだけのこと。」
ここは自分の家じゃあないことに気が付いた。彼女の家だろうか。
「きのうのことは覚えていないよ。」
なぜか嘘をついた。
「そう、とにかく、帰ったら?」
「ああ。」
直哉は、その辺に散らばっていた服を拾い集め、そそくさと着て、部屋を出た。
二日酔いだろうか、頭痛はひどくなる一方だ。汗がべたべたして気持ち悪い。自宅のアパートに帰り、シャワーを浴びた。しかし、一向に体がだるく、目が重い。いつも、こんなものさ、彼はそう思いながら、まずい水道水を二、三口飲んだ。食欲はわかず、たいして眠くもない。しかし、ベッドに横になった。すると、まもなく、彼は眠りに落ちた。何はともあれ、体は休息を求めていた。
彼は夢をみた。
古く、汚れ、灰色で所々赤味を帯びたホテルの一室に居た。
窓から外を眺めると、この部屋が、数百メートルもの高さにあることがわかった。はるか下には、緑の木立がコンクリートの庭の中に小さく並んでいる。ここから落ちたら、ひとたまりもない。
そんな思いが頭にもたげてくる。風は無い。
ドンドンドンドンドンドン…
すさまじい勢いでドアを叩く音がする。
のっそりとベッドから立ち上がり、のそのそとドアまで歩き、カギを開けた。
すると、凄まじい力でドアが押し開けられた。ドアに押され、よろめく。そして、その勢いのまま、何者かが部屋に入ってきた。青白い顔に、しみ一つ無い白衣。目を大きく見開き、薄ら笑いを浮かべている。そして、静かに彼を見下ろす。
やばい、と思った。なぜだかわからないが、やばい。そこにあったイスで、その男を殴りつける。しかし、何ともない様に立ち、ゆっくりと腕をこちらに伸ばしてくる。何度も何度もイスを振り下ろす。しかし、男は平気そうに、こちらに迫ってくる。両肩を、その男がつかんできた。凄い力だ。ぎりぎりと力を込めてくる。イスを落とし、手が伸び上がる。それでも、男は無言で、薄笑いを浮かべたまま、肩をはなさない。
ナイフがある。そう思い、ポケットをさぐった。すると、そこに少し錆びた小型のナイフがあった。それを握り、男の胸に突き刺した。何度も、何度も、突き刺した。男の手から次第に力が抜けていく。それを機に、振り払い、そこから逃げ出した。落ち着く間もなく、ドアから、大勢の人がドヤドヤと入り込んできた。
逃げ場所はない。窓のふちに足をかけ、飛び上がる。彼の身体は空中に投げ出された。部屋では男たちが、倒れた男のまわりを囲んでいる。その男はいまだに薄笑いを浮かべたままだ。
私は、いま、空中にいる。
急速に落下していく。自分は飛べるはずだ。そう思った。しかし、飛べない。地面はどんどん迫ってくる。
飛べない。あと、寸前で地面だ。
足に力を入れる。飛べる…。体に少し浮力がわいた。
なんとか、無事に、着地した。
直哉が目を覚ますと、すでに、もう夕方だった。
かすかに日が陰り、雲間から淡い光が、海へと降り注いでいる。
空腹を感じる。部屋を出て、車を走らせ、近所のコンビニにいく。
そこで適当に食べ物を買った。部屋に帰って食べてもいい。だけど、今日は外で食べようと思った。
どこにしようか、車を適当に走らせることにした。
海岸沿いの道を走る。空と海が真紅のグラデーションを描いていた。黄昏のカーテン、次第に紺碧の広がりに飲まれて行く。食べるのに都合がいい場所が見当たらない。思いつきもしない。しばらく走ってもだめだった。仕方がないので、赤信号の時に、おにぎりを取り出し、それを片手に、食べながら運転する。
山の方に車を走らせることにした。そっちの方に用事などあるわけがなく、ただ無意味にドライブのためだけに向かった。
道の両側が林に変わる。道幅も狭くなった。まわりを走る車も、建物もない。そんな山道を運転する。道が曲がりくねってスピードを出せない。木々に覆われた山道は、もうライトなしでは走れなくなった。たまに車と行き違うが、それ以外、何もない。
しばらく走ると、わき道があった。その方へは行ったことがない。行かなければならない場所は無いし、そっちに行ってはならない理由もない。
その道へと曲がることにした。より一層、道は狭まり、暗くなる。所々、草や枝が道にせり出している。もしかして行き止まりだろうか。そんな思いも頭にもたげてくる。しかし、とりあえずそこまで行ってみようと思った。
あたりはもうすっかり夜の闇に覆われている。カーブを曲がったら、道が少し開けた。
すると、すぐに前方に白いかたまりが見えた。その白いものは、旧型の軽自動車だった。狭い道なので、その車をよけるためにスピードを落とし、近づく。すると車のかたわらに一つの人影があることに気付いた。
それをよけ、隣を走り去ろうとする。そうしたら、その人影が手を振ってきた。その方に目を向けると、見たことのある顔だった。
大学の時、顔見知りだった女の人だ。たまたま出会えば、あいさつをするかしないかといった程度の関わりしかなかった。しかし、人付き合いが悪い彼にとって、数少ない知人の一人だった。
「ナッオくん!」
近寄ってきたので、車を止め、窓ガラスを下げる。
「やあ、どうしたの?」
数ヶ月ぶりの再会だが、彼女は全然変わっていない。
「それが車がおかしくてさ。動かないわけ。」
彼女はその状況にまったく似つかわしくない笑顔をしている。直哉もその笑みにつられて思わず笑顔になる。
「みてみようか。車のこと、全然わからないけどね。」
直哉はそう言い車を降りる。
「走ってたら突然止まったの。もう、わけがわからない。」
彼女の車に乗り、キーを回してみる。モーター音はするが、エンジンがかからない。
「…だめだね。念のためエンジンルームをみてみるよ。」
エンジンルームを開け、ざっと眺めてみるが、特に目立った異常はない。当然、異常があって車が動かないわけだが、直哉の知識ではそれが何かはわからない。
「んー、どうなんだろう…。」
もう一度、運転席に座ってキーを回す。エンジンはかからない。直哉は、なんとかなるんじゃないかと思った。しかし、なんともならなかった。少し落胆した表情をみせ車から降りる。
「やっぱり、わからないよ。」
「そう。」
直哉は車の知識が無いことを悔やんだ。だが、彼女はたいして気にしていない様子だ。
「俺じゃあだめだね。修理屋さんにたのむしかないね。」
直哉はキーを返しながら言う。
「そうね。でも、この時間じゃあ閉まってるかな。あした直せばいいか。」
彼女は、なぜか魅力的な笑顔をする。
「そうだね。」
こんなことをしている間にも車は一台も通らなかった。夜の山は冷え、少し寒く、もう相手の顔がライトなしでは見えないほど暗い。
「でも、ナオくん、どうしたの?こんなところに来て。」
「ん、うん、ドライブしてた。」
「そうなんだ。じゃあ、わたしの家近いから乗せてってよ。」
「ああ、いいよ。別に用事ないしさ。」
「アハハハ、オッケー、ありがと。じゃあお願いね。」
そう言って彼女は車に乗り込み、直哉は車を走らせた。
「家はどっち?まっすぐ?」
「そう、しばらく真っ直ぐ。左に道が見えたらそこを曲がって。そしたらすぐだから。」
「おし、わかった。曲がる道が近づいたらまた教えてね。」
夜道は暗い。なぜか一瞬、助手席に座った彼女が、影を帯び、ちいさくみえた。
「ナオくん急に大学やめたからみんな心配してたよ。」
みんな、みんなって誰だろう。顔が思い浮かばない。
「…そうなんだ。」
「みんなと連絡してる?」
「…してないね。」
「だめだよ。連絡ぐらいしなくちゃ。そんなんじゃ友達無くすよ。」
「なるほど、俺に友達が居ない理由がわかったよ。」
「フフッ、何言ってんの。」
「やれやれだね。」
「まったく。で、今は何やってるの?」
「何もしてないよ。…無職だね。」
「でも、別の大学に行くとか言ってなかったっけ?」
そんなつもりだった。下らない大学の授業、少なくとも、もっと自分に合ったことを学ぼうと思った。そう思って辞めた。
「あれは、やめたよ。」
なぜ、転学することさえも、やめたんだろうか。自分でもわからない。
「じゃあ、今は職探ししてるってわけね。」
「それもないな。」
木々の茂みから心地よい風が車内に流れ込んでくる。それがちょっとした沈黙をやわらげ、直哉の口を開かす。
「今日はいい天気だね。」
「そうね。でも、暑い一日だった。」
ふと、木々が開けた場所に出た。空が広がり、澄んだ大気のなか、空一面の星々が宙に瞬いている。
「今日は星がきれいだね。」
「ええ、そうね。いい天気だもの。」
「カシオペア座だ。なんだか今日は星が近くに感じるね。いい天気だからかな。」
「そうね。天気がいいものね。」
直哉はふと、小学生のころ行った、科学館でのプラネタリウムを思い出した。視界一面に広がる星たちの光。ゆっくりと渦を描き変わりゆく空模様。そこで見た星空より劣るが、今日の夜空もなかなかきれいだ。
「あ、そこ。そこを左ね。」
「あ、オッケー。」
車一台が、やっと通れるほどの細い道だ。アスファルトには土砂が積もってたり、木の枝や葉っぱが散ってたりしている。
「それにしてもすごい所に住んでるんだね。」
「そうよ。このあたりはタヌキがよくでるってね。」
彼女は、何かたくらんでるかのような笑顔をにっこりとした。直哉の背中に一瞬寒気が走る。しかし、すぐ冗談だと気付いた。
「え、タヌキ。…タヌキ。あのお、…タヌキ、なの?」
「アハハハハ、しっぽ、しっぽ。しっぽかくさなきゃ。」
そう思えばなんとなく、タヌキっぽい。夜中、こんな森の中でタヌキに化かされたとしても、なんの不思議もないんじゃないか、と直哉は思った。
「一瞬、本気にしちゃったよ。怖いなあ。」
「本当は死んだおじいさんの別荘があってね。そこで今暮らしてるってわけ。広いし、結構気に入ってるわよ。」
「へえ、そうなんだ。いいね。」
「ほら、あそこ。見えてきた。」
直哉の目には、ホテルもしくは博物館とも思える建物が写った。
その建物は海岸沿いにあり、後方は森に囲まれている。夜の闇に白くぼんやりとたたずむその姿は、古さと無秩序のなかにあった。
また、それは、何かうち捨てられ、人々から忘れられた過去のおもいでの遺跡、そんな雰囲気を漂わせている。何か思い出せそうな、何かとても重要なことを思い出せそうで、思い出すことのできない、そんな感覚がにじみ出てくる。しかし、それは、思い出してみれば、何のことはない、陳腐な記憶だったりする。
周囲に雑草の茂る駐車場に車を止めた。
「ありがと。コーヒーでも飲んでく?」
海風によってだろうか、ぐんにゃりと曲がったシダ科の植物の下に、ネコが居ることに気付いた。黒っぽいネコで直哉と目が合うとすぐどこかに消えた。
「いいや、やめとくよ。」
「そう。じゃあ、またね。」
そう言って彼女は車から降りた。
直哉は車をUターンさせ、帰途につく。
微かな疲労を感じつつ車を走らせた。どこにもよらず、自分の部屋へと帰る。部屋は暗く、静寂を持って彼をむかえた。窓を開けると、海からの風が頬にふれる。よどんだ室内が、かすかに人の居場所になったような気がした。しかし、それはほんの一瞬で、何の確かさもそこに残してはいなかった。
彼は、しばらくテレビをみて、シャワーを浴び、それから何か、考え事でもするかのようにベッドに横たわり、ほどなくして眠りについた。
ドライブ