ランドセル
血の気が引く瞬間というのは、何年たっても忘れることができない。今でも、薄いブルーのランドセルを見ると、あの時を思い出し、ゾッとしてしまう。
5年ほど前だ。街路樹の木の葉が色づき始めたころだった。ぼくは社会人3年目の25歳。コピー機を販売する会社の営業マンとして、K市を担当していた。主な仕事は、オフィスにコピー機を売り込み、そのメンテナンスをすることだ。大学時代、人づき合いは苦手なほうではなかった。でも、社会人になって、自分に営業は向いてないなぁ、とつくづく思う。致命的なのは、酒が一滴といっていいほど、飲めないこと。少し親しくなったお客さんに
「佐々木くん。どっか、いい店知らないか」
と聞かれ、
「実はあまり・・・」
と、飲めないことを話すと、
「そうか、それは残念やなぁ。まぁ、金もかからんし、飲まんほうがええで」
と、そこで会話は終了。向こうからすれば、なぐさめのつもりでいってくれているのかも知れないが、ぼくにとっては「社会人失格」とレッテルを貼られたようなものだ。そんな会話を幾度となく繰り返すうち、まったくの下戸だった両親からの遺伝子さえ、恨むようになった。
「酒」という社会人必須のアイテムを持たないぼくにとって、新規開拓のハードルは高かった。正直、やめたいと思ったこともある。そのたび、就職氷河期といわれた時期に、定職につけただけでもありがたいと、自分に言い聞かせるしかなかった。
その日は、メンテナンスが中心の会社回りだったので、それほど気をはっていなかった。特に、急ぐ理由もない。あの子に会うために、あの店に向かっていた。
社用の白いワゴン車。後ろの座席はなく、メンテナンス用の部品と、コピー用紙が山積みされている。少しブレーキの効きは遅いが、気になるほどではない。目の前が突き当たりのT字路にさしかかった。通り慣れた道なので、「左折可」の矢印が出ているのを確認し、左車線に入る。横断歩道の30メートルほど手前にさしかかった時、ぼくの視界の左すみの歩道に、大きく揺れる薄いブルーのランドセルが見えた。それを背負った男の子が、全速力で走っていた。減速しつつある車と、並んで走る形になった。
「何か、急いで帰る用事でもあるんかな」
と、疑問がわいた瞬間だった。その男の子が、進行方向を急に右方向に展開させ、横断歩道を渡ろうとしたのだ。ぼくはあわててブレーキをふんだ。が、「ドスン」というにぶい音とともに、左の前輪が少しだけ浮き上がる感触がわかった。
とっさに車を左わきに寄せ、車を降りた。そこには、うずくまった男の子の姿があった。両わきをかかえて、歩道に寄せる。出血は見当たらない。しかし、右足のズボンのすそは破れ、白いスニーカーにもタイヤのあととわかる、黒い汚れがついていた。
「大丈夫?」
うずくまる男の子の顔をのぞきこむが、顔をくしゃくしゃにしているだけで、返事はない。ふと、ランドセルに目がとまり、開けてみた。そこには、住所と連絡先が書いてあった。ひとまず、その連絡先に電話すると、母親につながった。
「すみません。あ、あの、お子さんと、車がぶつかってしまいまして」
冷静に話をしようとするが、声は上ずってしまう。
「え?うちの子が」
母親は状況がのみ込めないまま、すぐに事故現場にやって来た。それと同時に、目撃した人が連絡してくれたのか、救急車、パトカーも続々と集まり、ぼくはドラマのワンシーンの中に入り込んでしまったような、妙な気分になった。
ひとまず、男の子は母親とともに、救急車に乗り込み、近くの病院に向かった。そして、警察による実況見分が始まった。
もちろん人生初めての、実況見分だ。相手は、40代の制服警察官。手なれた様子で、男の子が倒れた場所、車の位置などがわかるように、道路にチョークで印をつける。そのあと、どのあたりで男の子を認知し、その時どのぐらいのスピードだったかなど、事細かに聴いていく。その警察官の目の色が変わったのが、ぼくが「信号は『左折可』だった」といったときだった。
「うーん。まぁ、普通考えるとやな。小学生が赤信号を全速力で走るもんかねぇ」
警察官は、明らかにぼくを疑っている。これまで数々の取調べをしてきた中で、自分に都合のいいように、信号の色について嘘をいうやつなんて、山ほど見てきた。お前もその1人か、といわんばかりに。警察官の目と口が、少し薄ら笑いを浮かべているようにも見えた。
「お兄さん、営業でしょ。何か、急ぐ用事でもあったんじゃないの?」
と聞かれ、
「それはありません」
と冷静に答えた。それは、事実だからだ。そのあとの質問に答えるのに、窮してしまった。
「じゃあ、どこに向かってたの?」
まずい。実は、営業で回るルートからは、かなりずれている。行き先はK市のはずれにある、カフェだった。しかも、あの子とランチをするために。
出会ったのは、2週間前だった。酒が飲めない自分でも、1つぐらいは人に紹介できる店を持ちたい、と1人で歓楽街をうろついていたときのことだ。あの子は、スレンダーな赤いドレスを着て、チラシを配っていた。
「お兄さん、顔に何かついているよ」
くったくのない笑顔で駆け寄り、ぼくの顔に手をのばしてきた。
「うそ。ひま、寄ってかない?」
なんだか、そのペースに乗せられ、店に入ってしまった。わりと新しくできたキャバクラだ。料金は1時間5250円。店内は、若者から中年のサラリーマンで結構なにぎわいを見せていた。
彼女は、サチといった。21歳。昼間はオフィスで事務の仕事をするが、月12万円の給料では1人暮らしをするのがやっと。将来、語学留学をするために、週3日働いて貯金しているのだという。話を聞いているうち、何か親近感がわくようになった。
「行きたいカフェがあるんだけど、今度ランチ、一緒にどう?」
そう誘われ、断る理由は見当たらなかった。土日は都合が合わず、外回りの合間に時間を作ることを思い立った。ただ、会社には絶対にばれてはいけない。勤務中だからというよりも、めぐみがいるからだ。
めぐみ。同期入社の23歳。同期は5人だけで、研修中によく飲みに行った。ぼくたち2人だけ同じ部署に配属され、めぐみは内勤担当、ぼくは外回りになった。仕事に関する話をするうち、自然と距離が縮まり、いつの間にか、愚痴をこぼしあう仲に。学生時代は、「社内恋愛は世界が狭くなるから、絶対にしない」と公言していたが、現実とはこんなものかな、と今は受け入れている。
付き合って3年目に入った先月、初めて彼女の両親にあいさつに行った。自分でも何をいっているのかわからないぐらい緊張したけど、彼女の母親から「うちの子、何もできないけど、よろしくね」と、笑顔でいわれた。ホッとしたのと同時に、今まで意識したこともなかった「結婚」という2文字が、いよいよ自分にも迫ってきたことを、感じざるをえなかった。
そんな相手がいながら、ほかの人と食事に行くなんて、「浮気だ」と思われるかも知れない。が、これは、取引先とのつき合いの場を広める「業務」だ。そう、自分を正当化していた。めぐみに事前に報告するつもりもなかったが、もしばれたら、そう答えるつもりだった。下心がまったくないといえば、ウソになるが。
頭の中をフル回転させ、進行方向の先にあって、1度だけ行ったことのある化粧品会社の名前を挙げた。間を空けずにいったつもりだったが、不自然な間を察知したのか、警察官はますますいぶかしい顔でぼくの顔をのぞきこんでくる。
「まぁ、とりあえず、信号の色だけは、子どもに確認してみるわ」
少し離れ、腰につけたホルダーから携帯電話を取り出し、連絡を取り始めた。おそらく、管轄の警察署だろう。とぎれとぎれに言葉が耳に届く。「被疑者」「佐々木亮」「業務上過失傷害」「令状請求」・・・。
耳を疑った。大学時代の一般教養で、「刑事訴訟法」の講義を受けたことがある。その専門用語には聞き覚えがあった。「令状請求」とは逮捕状を請求することだ。「被疑者」はぼく。背筋に悪寒が走り、目の前の景色が色あせ、モノクロになる。
戻ってきた警察官に聞いた。
「ぼく、逮捕されるんですか」
警察官は表情を変えないまま、淡々と答える。
「子どもの供述次第かもな。あらゆる可能性を排除せず捜査する。それだけのことや」
子どもの供述次第?あの子が「横断歩道の信号は青だった」と話したら、ぼくは逮捕されるのか。そうなれば、必ず会社には連絡がいく。めぐみも知ることになる。これからの取調べで、行き先についてウソをつき通すわけにはいかないだろう。勤務中にほかの女とランチ。それがばれたとき、ぼくはどうなるのか。会社はクビか。当然、めぐみは別れ話を切り出すだろう。一体ぼくは、どれだけのものを失うことになるのだろうか。
気が遠くなり、その場に座り込んでしまった。ふと、ポケットに入っていた携帯電話を見ると、着信を知らせるライトが点滅している。サチからだった。不在着信が3回。時計は待ち合わせの時間を30分も過ぎていた。でも、折り返し電話する気力は残っていなかった。
現場で書類を作っていた警察官が、再び携帯電話を握った。着信があったようだ。
「おう。うん。そうか。了解。おつかれ」
後輩からの電話か、無愛想に応対し、電話を切ると、またもや無表情のまま、ぼくのほうに近寄ってきた。ぼくは、両手をアスファルトにつき、なんとか立ち上がった。
「子どもと連絡が取れたそうだ。横断歩道の信号の色は・・・」
警察官は、少し間をあけて、言い放った。
「見てなかったそうだ」
ぼくは、逮捕されなかった。警察官は「何かあれば、連絡する」と言っていたが、連絡すらなかった。この事故については、上司に報告したが、「その程度なら」と、表ざたにはならなかった。男の子の家に菓子折りを持っていったが、両親そろって
「うちの子が見たいテレビがあって、急いでたみたいで。本当にごめんなさい」
と、逆に謝られた。けがも、軽いねんざですんだという。当の本人は両親の間にはさまれ、下を向いて申し訳なさそうにしているだけだった。玄関のすみには、薄いブルーのランドセルが、無造作に置かれていた。
ぼくが、久しぶりに、あのランドセルを見たのは、K市内にあるデパートだった。妻となっためぐみと、2歳になる息子の翔と、子ども用品売り場のフロアを歩いていたときだ。
「いろんな色のランドセルがあるのねぇ」
めぐみがそういいながら、
「この色なんて、かわいいんじゃない」
と、薄いブルーのランドセルを陳列棚から取り出し、翔の背中に当てた。
「まだ、おっきいかぁ。あと5年先だもんね」
めぐみは、ぼくのほうを向いた。あまりに反応が悪いぼくの顔をのぞきこむ。
「どうしたの?」
「ん?別に。普通でいいんじゃないの。ほら、友だちと色がちがうといじめにあったりとか・・・」
めぐみは、ぼくの言葉をさえぎるようにいった。
「パパの普通って何よ。こんなことでいじめられるんだったら、親がのりこんでいったらいいのよ。それとも何か、この色にいやな思い出でもあるの?」
ぼくは答えるのに、窮してしまった。その時のめぐみは口元がゆるみ、少し薄ら笑いを浮かべているようにも見えた。あの時の警察官のように。
ランドセル