眺めたい風景
眺めたい風景
「ぼくは、あるときから、どんなにどんなに綺麗な女のひとをみても、それほど気にならなくなったな。」
あのときのことがどうしても記憶から抜けずにいて、僕を責めたてるみたいだ。
うつむくぼくに、南の方から言葉をかけてきてくれたけれど、未だ僕のどこかに棘を残したままの記憶に気を取られていた。
僕が責められる謂れはない、わかってはいるのだが、三日前の彼女の泣き顔を思い出すと自分のしたことが悔やまれてならない。
あの時僕は、なぜ彼女にとりあってやらなかったのか。勇気を振り絞って僕に話かけたのだろうに。
そんなことが、棘のようにささっているのだ。
だた、彼女のことをどう説明したところで、南は信用しはしまい。
いや、他の人間がこの話を聞いたところで信用はしないだろう。
悪くすれば頭がおかしくなったとしか思われないし、よくて「疲れすぎているんじゃないのか?」と軽い皮肉まじりの同情を買うだけだ。
十日前、僕達はちょっとした喧嘩をした。そのとき、思ってもいなことを口走ってしまった。
「僕がみたかった風景はこんなのじゃない!こんな争っている風景じゃないんだ。」と。
仕事が忙しくて会う時間が少ないことが南を不安にし、そのことが形を変えて僕にぶつけてきていたのは分かっていた。
南が駆け出して行ってしまった後、一人とり残された僕は、思いもかけず南に言った『みたい風景』を考えながら雑踏を歩いていた。
視界が開け突然飛び込んできたのは、青い空と境目なく溶け合う海、そして彼女だった。
彼女はその風景を透き通すように立っていた。
僕が彼女の前まで来たときに、彼女はそこにしっかりと存在していた。
彼女はその魅力的な瞳を僕に向けて声をかけてきた。「お茶をご馳走してくれない?」僕は彼女と風景に飲み込まれたまま、「あ、はい」と応えていた。高台にある街並みの向こうに悠然とある海まで見下ろせるカフェに僕たちは腰を下ろした。
並んで座っていると、別の風景が脳裏に浮かんでくる。今見ているのとは違う風景だ。
現実の風景ではないと理解はしているが、とても幻影とも思えない実感があった。
幾つもの風景が浮かんでは消え、また別の風景が見える。
まるでしゃぼん玉の中に一つ一つの風景が閉じ込められていて、しゃぼんが一つ割れる度に、一瞬だけ閉じ込められた風景が見える。そんな空間にいるようだった。
多くのしゃぼんが僕の前で割れた後、彼女を見つけたときの風景を想いうかべたそのときに、彼女は僕の想いが分かるかのように語りかけてきた。
カフェでの初めての会話だった。
彼女は、
「あなたが私を見たときは、まだ存在が定りきっていなかったの。だから、あなたが私を通して見えた風景も本物。風景を透過していた私の姿も本物だったの。」
と説明しくれた。
気取った会話でもと、勝手に解釈した僕は、「それって、量子力学でいうところの存在確率を自分の意志で決定できるということ?」(『決まった。』と思った。おお間抜けだった僕。)
「そう、チェシャー猫と同じ存在なの。存在確率を自分の意志で決定して存在したい場所に存在できるの。」
「色々な風景を見たわ。あなたが見た風景は私が見た風景。普通なら多分一生見ることがない風景。」
「それぞれの風景に、そこに息づくもの達の意思があり、生命感に富んでいたわ。」
「わたしは、どの風景も好き。またその風景を眺めてみたいと思うわ。」
「ただ、一つだけ制約があってね、一週間以上は存在できないの。存在確率が固定しまうから。」
そのときの僕は理解できない講義を聴いているときよりも間の抜けた顔をしていたことだろう。
理解できない講義は寝ればいいのだし。
結局、何故今ここに存在しないのかはわかっているが、いや説明の内容を理解はしているが、彼女が何故そこに存在したのかは今でもわからない。
だが、彼女が『みたい風景』は一つだけではないことを教えてくれた。
青い空を見ながら地面に寝転がっている僕に、眠りが誘いかけきた。
その誘いに乗る前に、自分に言い聞かせるように僕はつぶやいた。
「南に電話しよう、そして思いっきりキザにデートに誘おう。」
眺めたい風景