少年を呼ぶ声
よくある家出話って体で聞いてくれ。
これは俺が体験した、ある夏の日の出来事だ。何年前かはとっくに忘れたが、その日のことだけはしっかり覚えている。
おかしな話だろ?いつのことかは分からないのに、そこだけ分かるんだ。よっぽど強烈だったんだな。
ありふれた不良少年だった俺が出会った、不思議な夏の日の話だ。
家出をしたのは、親から説教されたからだ。衝動的に家を飛び出してきたから、持っている金も少ない。
いつもつるんでる奴らのところにでも行こうかとも思った。けれど、家出した理由が余りにも格好悪いものだったし、それを笑われるのも嫌だったから、なんとなく電車に乗った。行く宛てもなかったが、手持ちの金でできるだけ遠くの駅までの切符を買った。
終電の近い夜の電車。残業帰りのサラリーマンたちが夢を見ている姿を、じっと見ていた。
俺も、ああなるんだろうか。それとも、このまま落ちぶれて、世間のゴミになるんだろうか。
初めて、自分の未来を危惧したのがこの時だった。
サラリーマンなんて格好悪いよな。
昨日、つるんでる奴らの誰かが言っていた。俺もそう思っていた。
しかし、今のままでは、その『格好悪いサラリーマン』にすらなれないのだ。
学歴もなく、誇れることもなく、毎日バカやって、時には親を泣かせて。そんな俺が、何になれるというのだろう。
電車で眠るサラリーマンたちが、今は輝いて見えた。
それから一時間ほど電車に揺られ、この路線の終点に着いた。時刻は日付が変わる七分前。駅にはまだ煌々と明かりが灯っている。
今頃、家はどうなっているだろうか。やはり、俺に呆れて、失望している家族が安らかではない眠りに就いているのだろうか。
帰る、という選択肢はない。俺がいようといまいと動く世界なのだ。ならば少しの間くらい、いなくても何の支障もない。
駅を出て、すぐ近くに海があった。海に来たのはいつ振りだろう。潮の香りがする。吸い寄せられるように、俺は歩き出した。
近づいてみると、砂浜にはゴミが溢れていた。遊泳できる場所ではないらしい。遊泳禁止の看板もある。
ゴミだらけの砂浜を歩き、波打ち際で止まる。ザザァ、という波の音だけが、この場所を支配していた。
海は広いな、大きいな。
どこからか、歌声が聞こえてきた。若い女の声だ。その声は、ここに酷く不釣り合いで、何か悪いものでも現れるのではないか、という不安に駆られた。
歌声は近づいてくる。
海は広いな、大きいな。
そこだけを繰り返し、近づいてくる。
ザザァ、ザザァ。波音と混ざり合って、不気味さが増す。
その時、頭の中で声がした。
「ちーちゃん、そっちに行っちゃだめよ」
ちーちゃん?
その呼び方が、俺の脳内を掻き乱した。
俺のことを「ちーちゃん」と呼ぶのは、呼んでいたのは、数年前の母親だけだ。その母親の声が、なんで今?
「ほら、波に連れて行かれちゃうわよ」
はっとして足元を見ると、脛の辺りまでが海水に浸かっていた。
慌てて砂浜に戻り、砂浜に戻ったところで、震えが止まらなくなった。
母親の声が聞こえていなかったら、俺はどうなっていた?きっと、そのまま海に向かって歩き続けて、数日後に溺死体として発見されただろう。
不気味な歌声は、もう聞こえない。
それから駅に戻って朝を待った。手持ちの金はない。多分、父親に迎えを頼むことになるだろう。
昨日の俺は、すべてを拒絶していた。けれど、今の俺は、すべてを受け入れられる。そんな気がしていた。
「ちーちゃん、お帰り」
夢の中で、母親が俺を抱きしめてくれた。
そんなことがあったんだよ、昔ね。
あの日がなかったら、俺はきっと落ちるとこまで落ちてたはずだ。今はこうやってサラリーマンやってるけどさ。
だからお袋には今でも頭が上がらない。あの時、お袋の声がしなかったらと考えると今でも寒気がするよ。
父親?まぁ、喧嘩もしつつだけど、仲は悪くないな。
お前もさ、このまま燻ってたら勿体ないよ。それに、昔の俺みたいなことになるかもしれない。亡霊に呼ばれるなんて嫌だろう?
まぁ、俺に言えた義理じゃあないがな。
親にはできるだけ感謝しとけ。後悔しないように。
俺からの話はこれだけだ。この後、お前がどうしようと詮索はしない。
溺死体にならないことだけ、願っておくさ。
END
少年を呼ぶ声