鏡の中の忘れ物
「想い想われ振り振られ」
そうつぶやきながら顔の前で十字を切ったように手を振ると、房枝さんは笑みがこぼれてくるのを我慢できませんでした。
房枝さんのおでこには、小さなにきびができていました。
清太郎さんの顔を思い浮かべて鏡を見ながら、十六才の房枝さんは自分のあごをよーく見てみましたが、そこにはなんにもありませんでした。
夏のお祭りにはまた清太郎さんはこの村にやって来るはずです。
房枝さんは、「やあ」と言って自分に手をあげる清太郎さんの笑顔を思い出すと、顔が熱くなってしまうのでした。
でも、清太郎さんはもう来ませんでした。
房枝さんも川向こうにある工場で働く事になり、村にいた時よりずっと忙しくなってしまいました。
村も男の人が少なくなって、夏のお祭りはその年ありませんでした。
そのまた次の夏のある日、大人たちが怖い顔でラジオを聞いていました。
房枝さんも聞きましたが、何を言っているのかよくわかりませんでした。
でもその日から、もとの暮らしが少しずつ、戻ってきました。
房枝さんには縁談が持ち上がり、隣の村へお嫁に行く事になりました。
その支度に追われていたある日、房枝さんは両親が清太郎さんの話をしているのを聞きました。
それは、清太郎さんのお墓が立った、という話でした。
房枝さんはその晩、静かに泣きました。
旦那さんは無口な人でしたが、悪い人ではなく、房枝さんは少し安心しました。
子宝にも恵まれ、房枝さんは一生懸命子供たちを育てました。
孫ができた頃、旦那さんに重い病気が見つかりました。
房枝さんは家族と一緒に世話を続けましたが、旦那さんの調子ががよくなる事はありませんでした。
旦那さんは何度も房枝さんに「ありがとうな」と言って、なくなりました。
房枝さんは喜寿を迎えました。
足腰がめっきり弱くなって、リハビリがてら介護施設のデイサービスへ行く事になりました。
施設にはたくさん、房枝さんと同じような歳の人たちが来ていて、お話にも花が咲きます。
施設の職員さんたちも皆丁寧に接してくれて、房枝さんは週二回のデイサービスを楽しみにしていました。
そんなある日、房枝さんはひとりの若い男性の職員さんと顔見知りになりました。
孫よりも若いその職員さんは房枝さんに会うとにっこり笑ってくれて、房枝さんはその笑顔を見ると何とも幸せな気分になりました。
房枝さんは何度かその職員さんに名前を尋ね、その男の人もその都度やさしく答えてくれましたが、房枝さんはその人の名前をどうしても覚える事ができません。
そういうことは、年とともにだんだん増えてきているようでした。
デイサービスの日、迎えの車が来る前に房枝さんは鏡台の前に座ってじーっと自分のおでこを眺めていました。
同居している娘さんは、房枝さんがまた転んで頭でも打ったのかと思い、心配してその顔を覗き込みましたが、房枝さんのおでこには小さなしみがあるだけでした。
「どうしたの? しみが気になるの?」
と、娘さんは尋ねました。
「しみじゃないのよ。ふふ」
房枝さんは微笑みながら、もうずうっと昔の事を思い出していました。
鏡の中の忘れ物
改題後に転載したものです