熱と渦

熱と渦

僕はどうやら忘れ物をしてきてしまったらしい。
誰にも見られたくない一冊のノート。
教室の机の上にポンと置いてきたから、誰かに見られてしまうかもしれない。
僕は帰り道を躊躇うことなく引き返す。

そのノートには蝶の羽根模様がびっしりと描かれている。
ろくに授業も聞かず、休み時間には誰とも喋らず、
ずっと一人で蝶の羽根模様ばかり描いてきた。
誰かに見られたら、と思うだけで、顔が赤くなる。

教室には誰もいないだろうとたかをくくっていたけれど、行ってみると、
一人の女子が、教室の後ろの隅の席に座って、耳にイヤフォンをはめ、
頬杖をつきながら、ぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。

僕は束の間、彼女の名前を思い出そうとしたけれど、まったく出てこなかった。

僕は、彼女と視線を合わさないようにしながら、
一番前の隅の自分の席にノートを取りに行く。
「そのノート、見せてもらったよ」
彼女のいきなりの声に僕の心臓は少し縮む。それと同時に額に嫌な汗をかく。
たまらなく恥ずかしかった。
「絵を描くのは好きなの?」
彼女の声はぶっきらぼうで、やさぐれている。
僕は、「う、うん」と震える声で返事をし、すぐにその場を立ち去ろうとした。
「ちょっと待って」と彼女に呼び止められる。
「私、あなたに描いてもらいたいものがあるの。
 明日の放課後、体育館裏の第二体育倉庫にいるから、来て」

次の日の放課後、僕は彼女に言われたとおり、体育館裏の第二体育倉庫へと足を向ける。
倉庫は日陰のじめじめとした場所にあって、人通りはまったくない。
利用されている気配もまったくなかった。
倉庫の重い扉を開けると、中では、薄暗い電球の明かりの下、
四段に積み重なったマットの上で、彼女が体育座りをしていた。

「私には絶対に誰にも言えない秘密があるの」
彼女は顔を膝に埋めてそう言った。
「それを知ったらみんな恐くて逃げてしまう。だって、私自身が恐いんだもの」
彼女の声は微かに震えていた。
「でも」と彼女は視線を上げ僕を見つめる。
「あなたとは距離があるから、素直に打ち明けられる」
僕の胸が高鳴る。
「実は、私の背中には、大きな龍の刺青があるの」
なんと答えていいかわからず、言葉を失った。

「それで」とようやく僕の口が開く。
「君が昨日描いて欲しいって言ったのは、君の背中のこと?」
彼女は恥ずかしそうに頷いた。そして、制服を脱いで僕の前で半裸になった。
ゆっくりと僕の方に背を向ける。
「描いて」
僕は戸惑う。それでも、思わず「うん」と頷いてしまった。

彼女は、四段に積み重なったマットの上で、膝を横に折り畳んで座り、
僕の前に白くて華奢な背中を晒した。
僕はその背中を何度も見上げながら、スケッチブックに龍を描いてゆく。
始めの内は、龍の絵なんて描いたことがなかったから、戸惑った。
何度も鉛筆で描いては消して、消しては描いてを繰り返し、色を何度も重ねて塗った。
そうこうして、しばらくするうちに、龍の体のうねりを表現する曲線と鱗の配色が、
蝶の羽根模様に近いことに気がついた。
それでなんとか要領を掴み、一ヶ月ほどかけて、
ようやく完成させた。

完成した絵を彼女に見せると、彼女はほんのりと頬を赤らめて、
僕に向かって微笑んだ。
僕は衝動に駆られ、彼女の唇を奪う。
彼女は「やめて」と言って、両手で僕の体を突き放した。

「最後にひとつお願いがあるの」
彼女が大事そうに言う。
「背中の龍を焼いて」
耳元で囁かれたその言葉に、戦慄が走った。

体育倉庫の電球を消し、蝋燭の明かりだけにする。
僕らの吐息が蝋燭の火をゆらし、暗闇に浮かぶ二人の白い顔が、
水面のさざ波のようにゆらめいた。

僕は、偽りの関係に泥を塗るように、蝋燭を彼女の背にあてた。
「君の背中には本当は、」という言葉も、彼女の喘ぐ声にかき消されてしまう。

嘘に嘘を重ねて、彼女の背は赤紫に染まる。

熱と渦

熱と渦

彼女には絶対に誰にも言えない秘密がある。 それを知ったらみんな恐くて逃げてしまう。 だって、彼女自身がそれを恐れているから。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-07

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