おれの朔望

どんっ

洗い場の鏡を見ながら髭を剃るおれの足に、隣で騒いでいた餓鬼のケツが当たった。

「オイッ!」

こちらを見た餓鬼とその父親をおれは睨んで言った。

「髭剃ってんだよこっちは。あぶないだろう」
「すいません」

親子はおとなしくなったが、おれはまだむかむかしていた。
どいつもこいつも。おかげでまた余計な事を思い出した。

今日会社で営業部の奴と喧嘩したのだ。
あいつらおれたち技術部が汗水垂らして生み出した製品を売ってるくせに、やたら態度がでかい。
市場の要請だから、得意先の希望だからと、無理な注文ばかりつけやがる。
そのくせおれたちがそれをはねつけると、なんだできないのか、とくる。
こっちがさんざん頭をひねってるのも知らずに、へらへら客に媚び諂って言う事聞いてりゃ仕事になるんだからいい気なもんだ。何様だよ全く。

くそ。せっかく嫌な気分を忘れるためにこの広い銭湯へ来てるのに、このバカ親子のせいで台無しだ。
髭を流したら大きな湯船にゆっくり浸かりに行くとしよう。

それにしても公衆の場で周囲の迷惑を考えない奴ってのはなんなんだろう。
この銭湯にしたってその手の注意書きがやたらと多い。
湯船で泳ぐな、タオルを浸けるな、洗濯するな、騒ぐな暴れるな。
なぜそんな常識的な事をいちいち掲示しないと行けないのか。
観光地だってあるぞ。
いい雰囲気の温泉だと思って入ってみると、この銭湯と同じような注意書きがべたべた貼ってあったりする。世も末だよほんと。

銭湯を出たおれはまだ少しイライラしながら帰り道を歩いた。
夜空には満月が綺麗に浮かんでいるのに、周りには、痴漢に注意、犬の糞は持ち帰りましょう、住宅街につき徐行せよ。
まったく。どうなってんだ。
いつもは気にならない筈なのに、今日はやたらとそんなのが目についた。

自宅マンションに着くと、今度はゴミ置き場に目がいった。
ゴミはきちんと分別して収集日の朝8時までに出しましょう。
まただ。しかもなんだあれは。瓶や缶が入ったゴミ袋がコンテナにも入れず放り出されているじゃないか。
しかも燃えないゴミは明日だろう。

やれやれ、とおれは自分の住むマンションを見上げた。

この町ではまあ、高級マンションと言ってよかった。
独り者のおれには広すぎる気もするが、別に罰は当たらんだろう。
おれは学歴は低いけれど、技術畑一筋で早くから働き始めまじめにやってきたから会社で相応の評価も受け、給与面でも不満はなかった。
もともと地道に成果を伸ばすのが性に合ってたし、この仕事も気に入っていたから結構自分で人生うまく行ってるな、と思っていた。
ただ、女に縁がなかった。
そっちに注力する機会がなかったといえばそうだし、仕事と遊び、この二つを両立させるのが下手だったのかも知れない。
だが仕事に集中したおかげで今の暮らしがあるのだし、それはもう御の字だと言っても良かった。

このマンションの住人ならルールを守るくらいの常識はあってもいいだろうに。
おれはまた瓶と缶の入ったゴミ袋に目をやり、溜息をついた。
と、その時、おれは猛烈なくしゃみを催した。

ふあ、ふあ、ふあ、どぅえっくしゅう

でかいくしゃみは快感を伴う。しかし、もうひとつ奇妙な感覚がおれを襲った。
瞬間、誰かがおれの両肩を掴んでぐるりと180°回転させたような気がしたのだ。
なんだ?と思って周りを見たが、立ってた向きが変わったわけでもない。
しまった、風呂上がりにぼーっとしてたから風邪を引いたのかもしれんぞ。
そう思っておれは慌ててマンションのエントランスへ入っていった。

自分の部屋の扉を開け中に入ると、異様な事態がおれを待っていた。

「おかえりなさい、長かったのね。うふ」

見ただけで勃起するような美人がおれを迎えたのだ。
おれは周囲の視界が後ろへ吹っ飛ばされていく程の衝撃を感じたが、なぜかごく普通に

「ただいま」

と返事していた。

待て待て待て。
部屋を間違えたのか。彼女がか。いやおれか。
そう考えるのが妥当な流れだったろうが、なぜかおれは、

(これはおれの嫁だ)

と、自分で拍子抜けする程抵抗なく受け入れてしまっていた。
なぜなら彼女はその顔そのスタイルが100%どストライクでおれの好みにハマっており、その声その所作ですら文句のつけようがなかったからだ。
まさにおれが描く完全無欠の理想の嫁はんであった。

しかし問題なのはこの状況だ。なぜいきなりおれは理想の妻を手に入れた事になっているのか。
あきれて考えるのを放棄したくなる程サイエンス・フィクション的大問題であった。
で、結局おれは考えるのを放棄した。

「ちょっと待っててね、今これあっためるから」
「うん」

だって勿体ないじゃないか。
せっかくのこの状況で根掘り葉掘り彼女に尋ねろというのか。
馬鹿言うな。夢だかなんだか知らないがこうなったらたっぷり味わってやる。
誰かが文句を言ってこようが知った事か。

食卓にはおれの好物が並び、どれも沁み渡るようにうまかった。

会話はあたりさわりのない内容に終止した。
そりゃそうだ。彼女とは初対面なんだから。
彼女は全然普通におれと接したが、ほんの少し

「ちょっと疲れてるの?」

と訝った。

「湯あたりしちゃったのかも」

おれはそれにのって適当にごまかしながら、ある推測を立てていた。

これはおれのいた世界じゃないんだろう。よく聞く異世界というやつにちがいない。
あのくしゃみがきっかけでこっちのおれと入れ替わったのか。
馬鹿みたいな話だが、それが一番腑に落ちる。
まず大きな違いは目の前の妻だが、それ以外にもまだある筈だ。
部屋のインテリアはおれの好みから外れたものではなかったから、おそらく共通点もたくさんあると思っていいだろう。
このマンション、この部屋番だっておれのいた世界とおんなじだ。

「ごちそうさま。いつもありがと」

おれはそう言ってまず書斎に入り、元の世界とそう趣味嗜好が変わらないのと、どうやら行ってる会社も同じだという事を確認した。
さて、どうしよう。
この手の話では、ちょっとした切っ掛けで事態が変わってしまう事が有り得る。
この夢のような状態をできるだけ楽しみたいおれは、少し考える事にした。

「ちょっと風邪引いたみたいだから先休むよ。うつしちゃだめだからおれ客間で寝るわ」
「大丈夫?」
「寝りゃなおるよw」

ひとりで考えたいのもあったが、妻と同じ寝室で寝るのはちょっとまずい気もした。
おれは童貞だ。
こっちのおれはこんな可愛い妻がいるのだから、もう致しまくっているに違いない。
もともと求道者タイプだから超絶技巧を身につけてる可能性もある。いやきっとそうだ。
それで今日このおれが妻と致す事になって、三こすり半でイッてしまっては話にならん。
そこからこの世界が破綻していく可能性だってある。
とりあえず、焦らないで適応していこう。
そう決めるとおれは、妻が台所で後片付けしている音を聞きながらすやすやと眠ってしまった。


翌朝おれは、鰹だしのいい匂いとトントントンという包丁の音で目が覚めた。
一瞬おれは実家に帰ってきたのかと錯覚したが、そうだ妻だと思い出した。

「おはよう」
「おはよう」

こんな爽やかな朝は生まれて初めてだった。
時計を見ながら後何分寝れるか、と自分の中で折衝していた元のおれとは大違いだ。
妻はそれなりに起きたてのアンニュイな雰囲気を醸し出していたが、その姿もまたおれの性欲を刺激した。
うう、早くやりたい。
朝っぱらからそんな事を考えながらこれまた最高にうまい朝食を終え、出勤仕度を整えた。

「ごめん、ゴミ出しお願い」
「ああいいよ」
「風邪大丈夫?」

玄関でそう尋ねる妻に笑顔を見せると、おれは憧れだった見送りのチュウをおそるおそる馬鹿面でねだってみた。
妻はおれに顔を寄せそれに応えたあと、「もう」と言って悶絶するほど愛くるしい笑顔を見せた。
おれのパンツには確実に第一波先遣隊が放たれた筈であった。

一階のゴミ出し場に来ると、昨日あった筈のゴミ袋がなくなっていた。
多分誰かがコンテナヘ入れたのだろう。しかし、もうひとつ変わった点におれは気がついた。
ゴミは分別して収集日に云々、という注意書きがなく、単に曜日が示されているだけだったのだ。
これも小さな違いだな、と思いながらおれはそういえば相違点には何か法則があるのだろうか、とうっすら考え始めていた。

電車に乗りながら、多分会社では元の世界との相違点が大なり小なり発覚するだろうと予測した。
しかし行き当たりばったりで乗り切るしか、手だてがない。
おそらく根本から違うような事はないだろう。なんとかなるさ、と楽天的に考えた。
するとおれはさっきの妻の顔が思い出され、

「うっふふふ」

と声が出てしまった。
向かいの座席の女子高生は、おれを見て鞄を引き寄せ座り直していた。

会社でおれはいきなり不具合に出くわした。
IDカードをリーダーが読み込まず、エラー音しか出ないのだ。
おかしいな、名前は同じ筈なのにとピーピーやっていると、

「おはよざーす」

と若い男に声をかけられた。
振り向くと、確かに見覚えのある顔だ。
男はおれのカードとリーダーを見て、

「なにやってんすかw。それ技術部のリーダーっすよ」

と笑った。
男はおれのカードを取り上げ、営業部のリーダーに通した。
ピッ、という音とともに、グリーンのインジケーターが点灯した。

「昨日飲み過ぎたんじゃないすかw。それとも奥さんとw」

そうだ、たしかこいつは営業部の若手だった。
元のおれとは時々社内で顔を合わせるくらいで、こんな親しい口調で話す間柄ではない。
どうやらおれは、この世界では営業部のようだった。

元の技術部でそこそこのポストに就いていたおれは、こっちの営業部でもほぼ同様の地位に就いていた。
しかし参った。仕事内容が全く未経験なのだ。
ポストがポストだけにおれ自身が抱えているのも重要な顧客ばかりで、なおかつ部下の担当も把握していなければならない。
技術部の仕事は長年積み上げた知識と経験がありおれも誇りを持っていたが、営業に関しては全くそれがなかった。
顧客管理、新規開拓、人脈、接待術、それらのどれについても、おれは新入社員と同等で素人同然であった。
これはマズい。
おれはその地位を利用して、ひとまず体調不良を理由に早退する事にした。

広い湯船に浸かり、おれはだらしなく口を開け頭を縁にもたれかけながら、考えていた。
仕事ができないんじゃあこの世界で生きていくのは難しい。
可愛い妻も、あのマンションも幻のようなものだ。
おそらく、こっちのおれは営業畑で一生懸命頑張ったのだろう。
当然コミュニケーション力もついてくるから、あんないい女をモノにする事ができたに違いない。
技術畑で評価されていたおれのベクトルを変えるだけだから、それは容易に想像できた。
多分今頃、あっちの世界にいってしまったこっちのおれも、今のおれと同じように打ちのめされているんだろう。
ただあっちには、宝物のような妻がいないけれど。

ふやけるのも気にせず湯船に浸かったまま、おれはまた元の世界との相違点に気がついた。
なんだかんだと書かれていた注意書きがこっちの風呂には見つからないのだ。
そういえば騒ぐ餓鬼や変な大人もいない。なんとなく落ち着いてるような感じをうける。
やっぱこっちの世界の方がずーっといいじゃないか…。

ぼーっとどうしよう、技術畑のノウハウを活かせる仕事に転職すっかなあ、と考えていて、おれは起死回生の策を思いついた。

おれは上司に異動を願い出た。
もちろん、技術部にだ。
上司はとても驚いていたが、おれのあまりに真剣な申し出に、検討すると約束した。

いろんな事情でこういった形の異動はなくもないが、おれのように一定の評価を受けてる人間が全く畑違いの部署に異動するのはうちの社では珍しかった。
しかし、おれはこの社において多方面に精通した総合職を目指していると熱弁した。
名ばかりの総合職ではなく、高度な実績を伴ったマルチディレクションエキスパートのパイオニアとして社を牽引したいのです、とそれっぽい事を言ったのだが、もちろんこの世界における保身のための奇手なのは言うまでもなかった。
そしてそれは、うまくいった。

辞令は思ったより早く出た。
よしよし、技術部に行けば何も心配はない。
今までは有休を取ったり部下を使ったりのらりくらりと営業職を躱していたのだが、明日からはもうおれの独擅場だ。わははははは。

おれは最近また気づいていた。
ゴミ捨て場や銭湯に限らず、こちらの世界はその手の注意書きがほとんどなかった。
生活する上で常識のない輩から受けるストレスも皆無と言ってよく、仕事の問題も片付いた今、おれは心底こっちの世界を気に入っていた。
その晩、おれは妻を初めて抱いた。

童貞であるのを悟られないため(妻からすればそんな筈はないのだが)、おれはかなり気を遣った。
実際は三こすり半どころか三百こすりしても果てない遅漏だったのだが、妻が優しく包んでくれたおかげでなんとか喪失する事ができた。

「よくない時もあるわよ。無理しないで」

そう心配してくれた妻にまたおれは愛情と欲情をごちゃ混ぜに噴出させ、要領を得てきたおれは結局朝まで五回果てた。

ほとんど寝ていなかったが、おれは気力充実で技術部に初出勤した。

しかしおれは、今までにない程の挫折を味わった。

こちらの世界の技術部は、恐ろしくレベルが高かったのだ。
元の世界では業界でも一目置かれていたおれが、こちらでは素人同然であった。
勿論技術部の連中にとっては異動してきたおれがそんな状態なのは当たり前の事だったのだが、おれにとってこの挫折感は培ってきた自負を粉々に叩き潰す程の威力を持っていた。

おれはやっと悟った。
この世界の人間は、総じて能力が高かったのだ。
仕事における創造力、技術力、理解力、洞察力、忍耐力など。これは社会においても同様であった。
規律を守り、他者を思いやり、人を信頼し、自らを向上させる事を自然に行っていた。
暮らしやすかったのも、道理であった。

おそらく妻も、薄々気づいているのであろう。おれが本来の夫ではない事に。
こっちの世界のおれがこっちで選んだ女だ。変な言い方だがおれをいたわらないわけがない。
感じ始めた居心地の悪さは、おれが異世界の住人である事をいやがうえにも突きつけていた。

銭湯の帰り、暗い夜空につけられた切り傷のような新月を見ながら、おれは初めて

(あっちもそう悪くなかったな)

と思った。

おれの朔望

某掲示板の小説投稿スレッドで書いたものです。お題をもらって書いたため、タイトルを変更しました。

おれの朔望

おっさん異世界短編。

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-04-06

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